<?xml version='1.0' encoding='UTF-8'?><?xml-stylesheet href="http://www.blogger.com/styles/atom.css" type="text/css"?><feed xmlns='http://www.w3.org/2005/Atom' xmlns:openSearch='http://a9.com/-/spec/opensearchrss/1.0/' xmlns:georss='http://www.georss.org/georss' xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034</id><updated>2012-03-10T23:59:38.773+09:00</updated><category term='評論'/><category term='スポーツ・メディア関連'/><category term='研究ノート'/><category term='相撲の話'/><category term='研究会報告'/><category term='地震関連の話'/><category term='講演・シンポジウム'/><category term='アートの話'/><category term='大相撲'/><category term='スポーツ史（哲学・思想）'/><category term='「３・１１」以後に向けて。'/><category term='お祭りの話'/><category term='沖縄のこと。'/><category term='人と思想'/><category term='ひとりの人間として'/><category term='音楽の話。'/><category term='サクセスフル・エイジング。'/><category term='教育問題を考える'/><category term='読者のみなさんに。'/><category term='博物館の話。'/><category term='メディア批評'/><category term='季節の話題'/><category term='グローバリゼーションの問題系。'/><category term='人間にとってスポーツとはなにか。'/><category term='講義'/><category term='太極拳の話。'/><category term='スポーツ批評'/><category term='居酒屋『延命庵』'/><category term='ブック・レヴュー'/><category term='フクシマの話。'/><category term='中国関連の話。'/><category term='映画の話。'/><category term='考現学，'/><category term='歴史の謎解き'/><category term='２１世紀スポーツ文化研究所'/><category term='スポーツ哲学'/><category term='時事ネタ'/><category term='からだ'/><title type='text'>スポーツ・遊び・からだ・人間</title><subtitle type='html'>人間の「生」にとって「スポーツとはなにか」を問う。それは「儀礼」なのか，それとも「贈与」なのか。はたまた「宗教」なのか。この問いはどこまでも広く，かつ深い。</subtitle><link rel='http://schemas.google.com/g/2005#feed' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/posts/default'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default?max-results=100'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/'/><link rel='hub' href='http://pubsubhubbub.appspot.com/'/><link rel='next' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default?start-index=101&amp;max-results=100'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><generator version='7.00' uri='http://www.blogger.com'>Blogger</generator><openSearch:totalResults>576</openSearch:totalResults><openSearch:startIndex>1</openSearch:startIndex><openSearch:itemsPerPage>100</openSearch:itemsPerPage><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-2187190534440999171</id><published>2012-03-10T23:59:00.001+09:00</published><updated>2012-03-10T23:59:38.801+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='時事ネタ'/><title type='text'>「もっと高いところへ」南三陸町の高台移転が進まない・ＮＨＫスペシャル。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;南三陸町の高台移転が，早い時期に住民の合意が得られたにもかかわらず，なかなか進まないのはなぜか，と問うＮＨＫスペシャルの番組を，たったいま，見終わったところです。腹が立って，腹が立って，テレビに向かって吼えつづけていた１時間１５分でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結論的な感想をさきに言っておきましょう。ひとことで言ってしまえば，政府・官庁が南三陸町の高台移転をまったくの他人事としてしか受け止めていないのではないか，ということです。もうちょっとだけ言っておけば，南三陸町の当面している危機意識がまったく欠落している，と。わたしは，このブログに以前にも書きましたように，「３・１１」後は，ただちに「非常事態宣言」を出して，国を挙げて，全国民を挙げて，被災地・被災者の「復興」に全力で取り組むべきだ，と認識しています。そのための「特例」を認めるべきだ，と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし，明日で丸一年が経過しようというのに，「３・１１」以前の法律のまま，「みせかけの平和」を維持しつつ，思考停止したままの政府および中央省庁の姿勢が，被災者救済を無為のまま一日延ばしにしている，というのが今夜のＮＨＫスペシャルを視聴したわたしの第一印象でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なぜ，もっと，町の実情に見合った形での復興に国は手をさしのべることができないのか，そのことだけがわたしを苛立たせました。高台に移転することに関しては，もっとも早く町民の合意をとりつけ，移転先の土地も確保して，いちはやく国に補助金の申請を出しているにもかかわらず，いまもなお，その展望は開けてはいない・・・・・その「壁」のあまりに非人間的な制度・組織・・・・ただ，ただ，唖然とするばかりです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まずは，高台移転の補助金を申請するために，国の省庁に提出しなければならない書類が膨大な量になること（東電への被害届けも同じ）。町役場の職員もまた多くの犠牲者を出していて，いまは，たった３９人しかいない。そこに，応援部隊がやってきて助けてくれてはいるものの，一定期間がすぎるとみんな帰っていく。それでも必死になって生き残った職員が命懸けで町民の合意形成・経過説明から書類作成，陳情にいたるまで不眠・不休で取り組んでいます。それでも，犠牲になった職員（しかも，いまも多くの職員の遺体がみつかっていない）の気持を考えると，生き残ったわれわれが町の復興を頑張らなくては許してもらえない，と涙ながらに胸中を訴えています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんな努力の中で，昨年１１月には国庫補助による全額負担が決まり，大喜びをしたのもつかのま，こんどは，高台移転先に遺跡があるというので新たな調査が必要だという。その調査には３年かかるという。なにを馬鹿なことを言っているのか，と腹が立つ。どこかの企業が金儲けのために宅地造成をやって売り出そうというのではない。一刻を争う緊急事態のなかで，いかにして町を復興させるかという生きた人間の努力を，平和時につくられた既成の法律が立ちはだかっているのです。それこそ，町の住民の合意のもとで「特例法」を適用することだって，やろうと思えばできるはずです。それを「３・１１」以前の「文化財保護法」が邪魔をしている，というわけです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;生きた人間を無視した「法律」の壁が，南三陸町の復興の前に大きく立ちふさがっているという次第です。それこそ，その遺跡に住んでいた人びとの子孫（だと思いたい）かもしれない人びとの生き方を，祖先ははたして望むだろうか。平和な，のどかな時代ならいざ知らず，こんな緊急事態にもかかわらず，「文化財保護法」に遮られてしまって，それでよしとする中央官庁の対応が，わたしには信じられません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これを絵に描いたような場面がありました。復興庁の役人が南三陸町に聞き取り調査にやってきて，ひととおりの説明を聞いたあと，「みなさんの取り組みはじつに立派だと思います。しかし，われわれも，まだ，できたばかりの復興庁ですので，なにを，どのように進めたらいいのかよくわからないことがたくさんあります。これから戻ってよく検討した上で，返事をします」と言って立ち去るシーンがありました。これでは，なんのための復興庁なのか，わけがわかりません。もっと，迅速に現実に対応するための復興庁の設置ではなかったのか，と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうして，なにも現状が改善されないまま時間が経過するにしたがい，南三陸町に住みつづけたいと考えていた住民も，ほかの町への移住を考える人が増えてきている，といいます。最近の町の世論調査によれば，２割弱の人が移住を考えている，と。こういう人が増えてくれば，もはや，町の存続そのものが危ぶまれてきます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;具体的な展望がなにも得られないまま，いたずらに時間ばかりが過ぎていくと，移住する人が増えるばかりです。しかも，若い働き盛りの世代の移住希望者が増えている，というのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;繰り返しになりますが，昨年１１月に，高台移転のための費用を国庫補助金が全額負担するということを決定していながら，なにも前にすすまない「壁」の大きさに唖然とするばかりです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もっと地域の実情に見合った補助金の使い方を認めるべきだ，そうしないと，折角の補助金が無駄になってしまう，とそんな印象を強くもった番組でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ほんとうはもっと書きたいことがあるのですが，とりあえずの感想まで。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-2187190534440999171?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/2187190534440999171/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=2187190534440999171' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/2187190534440999171'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/2187190534440999171'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/03/blog-post_10.html' title='「もっと高いところへ」南三陸町の高台移転が進まない・ＮＨＫスペシャル。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-425541065195595075</id><published>2012-03-08T22:51:00.001+09:00</published><updated>2012-03-08T22:51:41.573+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='時事ネタ'/><title type='text'>マラソンの川内選手は「給水」をさせてもらえなかったとか？　まさか？</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;マラソンの川内選手が「給水」がうまくできなくて「動揺した」という談話が流れ，そうか，可哀相に，と思っていた。給水に失敗したくらいで，そんなに動揺するものなのか，といささか不思議に思っていたら，あまりよくない噂がいまネット上をまことしやかに流れている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いろいろの憶測やら，ほんとうらしき証言まで含めて，さまざまあるが，どれも「ありうる」と思えるだけに「いやな」感じがしている。火のないところに煙は立たない，という。なにがしかの「火」がどこかに隠し置かれていたようだ。でも，そんなのは信じたくない。信じたくないけれども，そんなこともあるかも，と思えてしまうところが怖い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ひとつは，単純に選手たちがわれさきにと急ぐあまりに，川内選手は自分の「スペシャル・ドリンク」を取り損なった，というもの。これは大いにありうる。これまでにも，有名選手が取り損なっている映像をみたことがある。手に引っかけたのに，取り落としてしまって，そのまま走りつづけた，という映像を。もし，そうだとしたら，それはある意味では仕方がないなぁ，とも思う。運が悪かった，と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;でも，一度だけなら，あきらめもつく。しかし，二度も給水に失敗した，と報道されている。しかし，これはほんとうに「失敗」だったのか，という憶測がそこから生まれてくる。そして，「動揺した」ということばの真意につながっていく。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのうちのひとつ。この川内選手を，他の実業団選手たちが取り囲んで，妨害したらしい，という噂になるととたんに気持が一変してしまう。そんなことって「ありっ？」と。同じ選手同士は，場合によっては，給水に失敗した選手に自分のドリンクを渡したりする光景も，テレビをとおしてお馴染みになっている。なのに，なぜ，そんなことが・・・？と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たしかに，川内選手は給水に失敗したのに，近くのどの選手からもドリンクをゆずってもらってはいない。このあたりはとても微妙だ。一匹狼的存在の川内選手には，親しいマラソン仲間も，そんなに多くはないだろう。だから，レースもまた孤立してしまう，と言われている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おまけに，実業団の名だたる選手たちが不振で，オリンピック代表候補になれないまま，川内選手がその筆頭に名前が挙がっていた。そして，東京マラソンで，そこそこの成績を残せば，そのまま代表決定にもっとも近い存在となる。それを快く思わない実業団選手・コーチ・監督がいた，としたら・・・・。新聞記者の情報通の人が，それに近い発言を陸連幹部から直接聞いている，ともいう。となると，ことは単純ではなくなる。でも，ことの真相は「藪の中」。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さらに，偶然を装った「やらせ」（間違い）では・・・，というのがもうひとつの説。つまり，予定された場所に置いてなかった，というのだ。全然，別のところに置いてあった，と。選手たちは，あらかじめ，自分の「スペシャル・ドリンク」がどの場所に置かれているかは知らされている。しかし，その所定の場所に置いてなかったとしたら・・・・・。しかも，それがまことしやかに流れている。ひょっとしたら・・・と思わせられてしまうところが怖い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もっと恐ろしいのは，川内選手の「スペシャル・ドリンク」はどこにも置いてなかったらしい，という話である。「スペシャル・ドリンク」の管理はすべて陸連に任されているという。だから，「うっかりミス」を仕掛けたら，だれにもわからない，という。川内選手が「動揺した」と発言したことの真意は，必死に探したけれども「どこにも見当たらなかった」というところにあったらしい，というのである。もし，そうだとしたら・・・，川内選手ならずとも「動揺した」だろう。まことに恐ろしいことではないか。でも，そんなことはありえない，と信じたい。オリンピック代表候補選手を狙い撃ちするような，そんなことはありえない，と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;でも，近頃の原発事故関連情報の隠蔽工作が，徐々に明るみにでてくるにつれ，わたしたちの多くが，みんな不信感に襲われている。世の中，なにが行われているのかさっぱり信用できない，と。だから，ひょっとしたら・・・・と思いたくなる。思いたくないけれども，そちらに引っ張られて行ってしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最後にある噂は，川内選手は真相を知っている，しかし，かれはほんとうのことは口が裂けても言わないだろう，と。だから，最小限の「動揺した」とだけ発言したのだ，と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大会翌日の丸坊主頭の記者会見をみると，これまた「ありうる」に傾いてしまう。こうなったら，もう，川内選手を代表に選出する以外には，これらの「噂」を打ち消す方法はないかも・・・・。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こんなことも含めて，さて，最終発表やいかに。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;※ここで終わりにしておこうと思ったけれども，最後にひとこと。&lt;br /&gt;近代スポーツ競技は，こんなことまでまことしやかに噂されるほどに「堕落」してしまった，ということだ。それほどまでに「手垢」によごれた人びとによって大きな大会が管理・運営されている，ということだ。つまり，利害の得失によって，いかようにも振り回される実態の一部がついに露呈しはじめた，ということだ。競技団体の裏側の真相は，部外者には話せないことでいっぱいらしい。こちらは，わたしが，直接，その当事者から聞いている。どの競技団体も叩けば埃がでる，という。その氷山の一角のような話はすでにいくつも露呈して，そのつど，大きな話題を呼んできた。ご記憶の人も多いと思う。近代スポーツ競技は，こんご，どのようにあるべきか，とことん議論をつくす必要があろう。わたし自身は「近代スポーツのミッションは，とうのむかしに終った」と考えているのだが・・・・。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-425541065195595075?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/425541065195595075/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=425541065195595075' title='2 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/425541065195595075'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/425541065195595075'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/03/blog-post_08.html' title='マラソンの川内選手は「給水」をさせてもらえなかったとか？　まさか？'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>2</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-1192522767616491695</id><published>2012-03-07T20:27:00.000+09:00</published><updated>2012-03-07T20:27:55.705+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='太極拳の話。'/><title type='text'>「稽古場は広いほどよい」（李自力老師語録）その８。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;ことしの１月から稽古場を大岡山から溝の口に移しました。その理由は，広い稽古場を確保できるというメリットがあったからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;稽古場が狭いと，それに見合うこじんまりした太極拳になってしまいます，と李老師。だから，できるだけ広い稽古場がいい，と。おおらかなのびのびとした太極拳が身につきます，と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;一つひとつの動作をきちんと覚えれば，稽古場の広さなどはたいして影響はないはず・・・と素人のわたしは甘く考えていました。ですから，鷺沼の事務所の６畳一間のテーブルを端っこに寄せて，空いたスペースでも稽古は十分できる，と考えていました。そして，自分としてはかなり上達したつもりでいました。が，それは大いなる間違いである，ということが今日の稽古ではっきりしました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;溝の口の稽古場は，大岡山のそれと比べると，３倍ほどの広さになります。ですから，稽古の最初に行う基本の動作も，単純に計算すると３倍ほど多くなります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たとえば，こういうことです。&lt;br /&gt;腰のうしろに両腕まわして，前進しながら足の運び方，腰の回転のさせ方，股関節の緩め方，ゴンブの仕方，などの一連の稽古があります。そして，こんどは腹の前に両手を置いて，後退しながら足の蹴り方，運び方，腰の回転のさせ方，などを身に染み込ませる稽古があります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このとき，大岡山では，左右２歩ずつ，計４歩前進・後退すれば，それで終わりでした。が，こんどの溝の口では，その３倍の運動量が可能になります。しかし，李老師は，一度に３倍に増やすことはしませんでした。これまでの運動量よりもやや多めにして，慣れてきたら，少しずつ増やせばいい，と教えてくださいました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし，今日の稽古は，李老師不在の，わたしたちだけの自主稽古でしたので，試しにスペースをいっぱいに使って，つまり，これまでの３倍の運動量で稽古をしてみました。ところがどうでしょう。最初のうちはなんとか頑張ることができたのですが，後半に入ると，もう，軸足が耐えられなくなって，ふらふらの稽古になってしまいました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もう少し詳しく述べておきましょう。&lt;br /&gt;たとえば，足の運びだけの稽古から，腕の動作をつけて前進するロウシーアオブーの距離が３倍，後退するときのダオジュエンゴンも３倍，つづけて，イエマーフェンゾンで３倍前進し，そして，再度，ダオジュエンゴンでもどってきます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;途中で「これはまずい」と気づきましたが，試しにやってみようと思い立ち，最後まで押し通してみました。その結果，どういうことが起きたのかといいますと，仕上げの２４式の稽古が「ガタガタ」になってしまったのです。つまり，軸足にねばりがなくなり，重心をうまく保つことができなくなり，ふらふら揺れてしまうのです。李老師がいつもくり返し仰る「安定」がまったく保てません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういうことであったのか，とこころの底から得心。この話は李老師にはできません。しばらくは内緒にしておくつもり。もし，お話すれば，「やりすぎ」という答えが返ってくることは間違いありません。つまり，身のほどを知れ，ということです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もっと言ってしまえば，わたしたちはまだまだ「小さな」太極拳しかできない，ということでしょう。太極拳をするからだが，まだ，その程度のものでしかない，ということでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうか，のびのびとしたおおらかな太極拳ができるようになるには，そのようなからだを作り上げることが先決なのだ，と納得。そのためには，少しずつからだを慣らしながら，運動量を増やしていくことが肝腎，と。ああ，この考え方は禅道場でいうところの「修証一等」（しゅしょういっとう）と同じなのだ，と気づきました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いつの日にか，この３倍の基本の動作の稽古が，余裕でできるようなからだにできあがったとき，初めて２４式が，微動だにせぬ，磐石の，悠揚として迫らざるものに近づいていくことになるのでしょう。李自力老師の表演のように，行雲流水そのものの太極拳に近づくことが・・・・。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今日はとても大きな収穫のある稽古ができた，と大満足。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-1192522767616491695?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/1192522767616491695/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=1192522767616491695' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/1192522767616491695'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/1192522767616491695'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/03/blog-post_07.html' title='「稽古場は広いほどよい」（李自力老師語録）その８。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-5266115101194372511</id><published>2012-03-06T15:01:00.000+09:00</published><updated>2012-03-06T15:01:44.865+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='考現学，'/><title type='text'>春うらら。フクシマに春はくるか。言論界にも春はくるのか。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;氷雨を降らせた低気圧が通過したら，うららかな春風が吹きはじめました。これで桜のつぼみも一気にふくらむことと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;鷺沼の高台から東京方面を見渡すと，もう立派な春霞につつまれていました。寒い冬空にはくっきりと見えていたスカイツリーは見えません。その手前の新宿・渋谷の高層ビルや六本木ヒルズがぼんやり確認できる程度です。そうか，昨日までの低気圧は，中国から「おみやげ」の黄砂まで運んでくれたのか，と納得。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;うららかな春風につられて，いつもとは違う道をたどって事務所に向かいました。初めてとおる道の角を曲がったとき，目の前に紅梅と白梅が並んで咲いているのが眼に飛び込んできました。思わず立ち止まって眺めていたら，家のなかからおばあちゃんが出てきて「きれいでしょう」と声をかけてくれました。とても品のある物腰の方で，おもわず嬉しくなって，ひとことふたことお話をしてお別れしました。たった，それだけのことでしたが，スキップしたくなるような気分になりました。世の中，まだまだ，捨てたものではない・・・・としみじみ思いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;困ってしまうのは国の中枢にいる人びと。つまり，日常の庶民の生活感情から遠いところで生きている人たち。もう，ずいぶんむかしに，「高級官僚は国民を人間とは思っていませんよ」と信頼できる筋の人から聞いて，まさか，と思っていました。が，その実情はもっともっと酷いものであるということが，「３・１１」後に，無残にも露呈してしまいました。そして，その無残さはいまもつづいています。政治家も同じでした。財界の人も同じでした。もっとも驚いたのは学界の偉い先生方でした。その最たる人のひとりが「デタラメ」委員長でした。しかも，その委員長さんはいまも健在なのですから。おやおやと思っていたら，それにメディアまで便乗しているのですから。もう，眼もあてられません。毎日，毎日，憂鬱で仕方ありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;去年の４月だったと記憶していますが，わたしの好きな作家の玄侑宗久さんは，みずからのブログのなかで「春風よ，吹いてくれるな」と書きました。その理由は，玄侑さんの住む三春町の春風は東から吹いてくる，ことしばかりは東から風が吹いてきてほしくない，なぜなら，放射性物質を運んでくるから，という次第です。福島県の三春町は，フクシマ原発のちょうど西側に位置します。まだ，原発事故のゆくえがまったく見えて来ない，その最中のブログでした。ことしもまた同じ心境なのだろうか，と玄侑宗久さんのことを思い浮かべています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３月に入って，テレビも「３・１１」関連の番組を組むようになりました。しかし，なかには他意があるのではないか，と勘繰られても仕方のない番組も混在しています。要注意です。その他意とは，ひたすら「津波」に視点が向けられていて，「原発」から眼を逸らそうとしているかのように見受けられる番組が多い，ということです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういえば，孫正義さんはどうしてしまったのでしょうか。あれほど，復興のために具体的な提案をし，それを実行に移そうと力を注ぎ，メディアも大きく取り上げ，多くの人びとの注目を浴びていた人の存在が，いまは陰も形もありません。いいとか，悪いとかは別問題として，この人の存在がメディアから消えてしまったのばどうしてなのでしょう。ここにも，恐るべき「他意」を感じないではいられません。いささか考えすぎでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なぜ，このようなことを書くかといえば，「３・１１」以後，まともな言説を吐いていた人びとも，つぎつぎに姿を消されてしまっている，と痛感しているからです。「３・１１」以前までは，まだまだ言論統制もゆるく，総合雑誌などでも，深い思想に支えられたまともな発言をする人の言説が掲載されていました。が，この一年の間に，じつに多くの，まともな言説を吐く人が消されてしまったように思います。まるで「踏み絵」でも踏まされたかのように。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;言論界で，いま，生き生きとしている人たちの顔ぶれをとくとご覧あれ。そして，その文章をとくとご吟味のほどを。ひところ流行った表現に「原発推進でもない，脱原発でもない」があります。つまり，玉虫色の立場をとった人たちです。つねに，風向きを見ながら，みずからの言説をコントロールしている人たちのことです。強い風が吹くとそちらになびき，また，別の方から強い風が吹いてくるとそれにもなびき・・・・という具合です。そしていまもなお「いろいろ熟慮を重ねる必要がある」「ものごとはそんなに単純ではない」と主張してやまない人たち。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その人たちにひとこと言いたい。住み慣れた家・土地を追われて流浪を余儀なくされている人たちのことを，ほんの一瞬でも，あなたがたは考えたことがあるのか，と。わが身の保身しか考えないで言論界を生きのびようとする人びと。そして，その人たちを利用するメディア。もちつもたれつのつるみあい。みんなで「仲良しクラブ」を結成して，みんなで保身。そんな姿がますます露骨になってきて不快です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;せめて，言論界くらいは「まとも」であって欲しい。いま，「まとも」に仕事をしている雑誌は管見ながら数えるほどしかありません。困ったものです。いや，情けない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;言論界にこそ「春風よ，吹け」と声を大にして言いたい。なにゆえに「原発推進」なのか，そして，なにゆえに「脱原発」なのか，もっともっと議論を尽くすべきではないのか。そして，国民的合意をえるところに向けて努力するのが言論界ではないのか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ああ，いけません。いつのまにか絶叫調になってしまいました。&lt;br /&gt;少し頭を冷やすべく，春風に吹かれながら散策にでかけてきます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-5266115101194372511?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/5266115101194372511/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=5266115101194372511' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5266115101194372511'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5266115101194372511'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/03/blog-post_06.html' title='春うらら。フクシマに春はくるか。言論界にも春はくるのか。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-7815052603422320165</id><published>2012-03-04T23:37:00.001+09:00</published><updated>2012-03-04T23:39:49.741+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='メディア批評'/><title type='text'>テレビ番組「明日をあきらめないがれきの中の新聞社・河北新報」（テレビ東京）に感動。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;最近のテレビには失望ばかりしていましたが，今夜は「泣きました」「嗚咽しました」。これほど涙を流したことは記憶にないほどです。いい番組でした。こういう番組をつくろうと思えばつくれるではないか，と思いつつ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たったいま，見終わったところです。そして，しばらく呆然としながら，あれこれ記憶をたどっています。夜の７時５４分から９時４８分までの，かなり長い番組でしたが，あっという間のことでした。それほどに濃密な内容だったということです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;精確に番組の名前を書いておきましょう。&lt;br /&gt;東日本大震災から１年，ドラマ特別企画”明日をあきらめないがれきの中の新聞社”「原作・河北新報のいちばん長い日～被災地に届けた命の新聞・販売店家族の感動実話」。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ちょうど夕食時間だったので，なにか面白い番組はないかと探していたら，この番組が眼に飛び込んできました。躊躇なく「７」にスイッチ・オン。場合によってはメモも必要と考え，そばに置く。最初の入りがよかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「白河以北　一山百文」から，河北新報という社名の「河北」をとったという。白河の関を越えたさきの土地は，瓦礫の山ばかりで，一山の値段は百文程度のものだ，と考えられていた時代があり，長くそう思われていたというのです。東京中心主義はいまも歴然として生きており，東北地方は少なからず「上から目線」で眺められることは，いまでも少なくありません。そんな「河北新報」が，みごとに東京中心の大手新聞社には真似のできない大仕事をやってのけた，いや，新聞社本来の役割を果たしてみせた，そういう実話にもとづくテレビ番組でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「われわれも被災者なのだ。だから，被災者の視線で，いま起きている現実と向き合おう。そして，一刻も早くいま起きている真実を伝えよう。それが明日への生きる力につながるはずだ。これこそが新聞の使命ではないか。」&lt;br /&gt;と新聞社全体が一致団結して，大震災の翌日の３月１２日の朝には，いつもどおり新聞を配達し，以後も，欠かさず新聞をつくりつづけた，その現場の一断面をテレビドラマに仕立てあげた作品です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;『河北新報のいちばん長い日』は，いま話題の本ですので，すでに多くの人が読んでいることと思います。わたしは残念ながらまだ読んではいません。が，昨年の６月に現地を３日間にわたって尋ね歩いたときに，地元の新聞を読んで驚きました。記事に籠められた記者たちの思い入れの強さ，その情熱が直に伝わってきたからです。それに引き換え，東京に本社をおく大手の新聞社の記事の，なんと白々しいことか。まるで他人事としか思えない，薄情な記事ばかりが眼につきました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;帰りに仙台の大きな書店に入って，震災以後の河北新報の「縮刷版」を買いました。こちらに戻ってきてからも，そして，いまも，ときおりめくっては涙しています。こういう新聞がありうるのだ，これまでわたしが読んできた新聞はいったいなんだったのだろうか，とわが眼を疑いました。十分な取材もしないで，ぶら下がり記者会見をそのまま垂れ流すようなジャーナリズムの頽廃ぶりに慣らされてしまって，それが当たり前だと思い込まされてきたのですから。その状態はいまもつづいています。残念ながら。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この経験が引き金となって，５０年間，愛読してきた朝日新聞に別れを告げ，東京新聞に乗り換えました。これも比較級の問題にすぎませんが，少なくとも「脱原発」を宣言して紙面づくりに励んでいるという点で，他紙にはない新鮮さが伝わってきます。しかし，東京新聞にも限界があって，やはり，河北新報のような地元の生え抜きの記者たちが，みずからの問題として大震災を取材し，書き上げる記事には，とても叶いません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それと同じことが琉球新報や沖縄タイムスという新聞にみることができます。沖縄に関する情報は，東京の大手新聞社の記事を読んでいると，まるで他人事でしかありません。しかし，琉球新報や沖縄タイムスを読むと，河北新報を読むときと同じような，わがこととしての「熱」が伝わってきます。つまり，現地で起きていることがらを，現地に生きている人びとと同じ目線で取材をし，記事を書いている，そのハートが伝わってくるのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;取材して記事を書く人，それを印刷する人，できあがった新聞を配達する人，この三位一体となったチーム・ワークなしには大震災直後の新聞は不可能でした。実際にも，３月１２日の朝刊は，河北新報の印刷機が壊れていて印刷できなかったために，新潟の新聞社に協力してもらって刷り上げたという秘話までありました。この新聞のお蔭で，電気も止まってしまってテレビもラジオも聞けない，電話も通じない，世の中，どうなっているのかわけがわからなくなっているときに届けられた新聞が，どれほど大きな意味をもっていたかは，わたしたちの推測をはるかに越えるものだったに違いありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まだまだ，こういう新聞社が健在であるということを知り，わたしは勇気を与えられました。その意味では，わたしたちはあまり知らないでいますが，琉球新報や沖縄タイムスは，もう，長い間，からだを張った記事を書きつづけてきています。その紙面の発する迫力に，東京の大手新聞に慣れきってしまっているわたしたちは圧倒されてしまうほどです。わたしたちは「ゆでカエル」に成りきってしまっている，と。ちなみに，インターネットでいいですから，沖縄の両紙の記事を拾い読みしてみてください。基地問題への取り組みの姿勢が，ヤマトンチューの書く記事とは雲泥の差があるほど，違います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしたちは，できるだけ多くの新聞を，とりわけ地方紙の名だたる新聞を手にして，読み比べる必要があると思います。読売新聞のように社説で，堂々と「原発稼働」を主張する新聞もあれば，真っ向からそれを否定する東京新聞のような新聞もあります。そのはざまで揺れ動きながら「玉虫色」の記事を書いている，まことにもって無責任な新聞もあります。それらを読み比べて，どの新聞に「信」を置くかは，読者であるわたしたちが決めることです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;長くなってきましたので，このあたりでこのブログは終わりにします。&lt;br /&gt;それにしても，河北新報に拍手。そして，これをドラマ化した東京テレビに拍手（普段の番組は低俗なれど）。こんごも，このような番組づくりに情熱をそそいでほしいものです。いい番組をつくれば，視聴者はかならず増えます。テレビの果たすべき使命を肝に銘じて，こんごの番組づくりに励んでもらいたいと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今夜のこのドラマは素晴らしかった。&lt;br /&gt;そして，涙が，これほどまでも流れ出てくるものか，と驚きました。&lt;br /&gt;とても，清々しい気持でいます。感謝。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-7815052603422320165?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/7815052603422320165/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=7815052603422320165' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/7815052603422320165'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/7815052603422320165'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/03/blog-post_8121.html' title='テレビ番組「明日をあきらめないがれきの中の新聞社・河北新報」（テレビ東京）に感動。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-1752136893958007642</id><published>2012-03-04T22:06:00.000+09:00</published><updated>2012-03-04T22:06:05.551+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='お祭りの話'/><title type='text'>愛知県・牛久保の奇祭「うなごうじ祭」のＨＰに注目を。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;わたしの故郷の隣町の牛久保町にむかしから伝わる奇祭「うなごうじ祭」のＨＰを紹介します。&lt;br /&gt;この祭りは，道路の上をどろんこになって，ころがって，練り歩く（練り転がる？），というので有名です。わたしの子どものころにも，しばしば話題になっていましたが，とうとうそれを見る機会を逸したまま，東京にでてきてしまいました。残念の極み。父は酔うと，よく，このときに囃し立てる歌を歌っていましたが，こどものわたしには理解不能でした。かなり卑猥な歌だったように記憶します。母が子どもの前で歌うな，と言っていましたから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「うなごうじ祭」，正式には「若葉祭」といいますが，地元の人たちはみんな「うなごうじ」と呼び習わしていました。その祭りを紹介するＨＰができあがりました，と柴田晴廣さんからメールがありました。ちょうど，そのとき，浜松の「冨さん」というニックネームの人から，わたしのブログ「『穂国幻史考』なる奇書がとどく」にコメントが入っていました。この『穂国幻史考』の著者が柴田晴廣さんですので，早速，お礼とともに，このことをお知らせしました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;柴田さんは，伯父さん（母上のお兄さん）が浜松に住んでいるので，ひょっとしたら・・・と思ったけれども，違う人でした，と折り返しメールをくれました。柴田さんの母上とわたしとは小学校の同級生。ですから，そのお兄さんもおぼろげながら記憶があります。こどもながら，どこか古武士の風格を備えた，なんとなく「怖い」という雰囲気が漂っていた人だ，と記憶しています。その妹である母上もまた，しっかり者で，存在感のある人でした（小学校のころの記憶です）。いまは，とてもチャーミングな女性になっています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;で，浜松の「冨さん」は，わたしのブログを読んで，とても興味をもち，早速，この『穂国幻史考』を購入したそうです。そして，その記述のなかに，「冨永の冨の字の頭に点がないのは，そのむかし祖先が不本意ながら首を刎ねられるという事件があり，その記憶を子々孫々にまで伝えるためだった」という文面があります。ほんとうは，もっと長くて「えっ，そうなの」というびっくり仰天の話なのですが，ここでは割愛。これと同じ話を「冨さん」は，祖母と父から聞いている，というのです。ですから，もっと詳しい情報があったら教えてほしい，というのがコメントでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこで，わたしは，なによりも『穂国幻史考』の著者柴田さんこそ，その冨永の直系の末裔であることを知らせ，同時に，柴田さんにも連絡しました。「冨さん」は，わたしの祖先は静岡県の佐久間町に住んでいた，と聞いていますという。佐久間といえば，穂国の豊川を遡っていけは必然的にそこにたどりつきます。いまは，佐久間ダムのあるところとして知られていますが・・・。わたしの予感としては，間違いなく，同じ「冨永」の一族だと思います。あちこちに逃げて，散らばって生き延びてきたその子孫だと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;といささか脱線してしまいましたが，その柴田さんは，この「うなごうじ祭」にも深くかかわってきた人で，いまもその世話人を務めていらっしゃる，と聞いています。ですので，こんどできたＨＰにも，早速，一文を頼まれ，面白い話を書いていらっしゃいます。いわゆる「うなごうじ」の語源について，公文書などに記載されている説は誤りだ，と鋭い指摘をしていらっしゃいます。郷土史家としての，長年の調査や文献研究の結果にもとづく結論ですので，説得力があります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これからも，このＨＰをとおして，柴田さんはもっともっと詳細な情報を提供してくれるのではないか，とわたしは楽しみにしています。ちなみに，このＨＰのアドレスは以下のとおりです。&lt;br /&gt;http://unagoji.dosugoi.net/&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぜひ，追跡してみてください。このＨＰに登録しておくと，随時，こちらに送信してくれるそうです。わたしは，すぐに，登録手続きを済ませました。こういう故郷の古い祭りが，また，元気を取り戻しつつあることを知るのは，とても嬉しいことです。それぞれの土地に根をもつ祭祀が，近代に入って，とかくないがしろにされてきた，とりわけ敗戦後の農村の民主化（生活合理化）運動のなかで，抑圧され，排除されてきました。その経緯の真っ只中で育ってきたわたしとしては，感無量，なんとも嬉しいかぎりです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんな思いもあって，これからも「うなごうじ祭」がどのような推移をたどるか注目していきたいと思います。柴田さん，頑張れ，と応援しながら・・・・。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-1752136893958007642?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/1752136893958007642/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=1752136893958007642' title='1 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/1752136893958007642'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/1752136893958007642'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/03/blog-post_6203.html' title='愛知県・牛久保の奇祭「うなごうじ祭」のＨＰに注目を。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>1</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-7292890661489575006</id><published>2012-03-04T11:51:00.001+09:00</published><updated>2012-03-04T11:51:42.543+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='研究ノート'/><title type='text'>「スポートロジー」（Ｓｐｏｒｔｏｌｏｇｙ）＝「スポーツ学」事始め・その１。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;わたしが主宰している「ＩＳＣ・２１」（２１世紀スポーツ文化研究所）の研究紀要が，いろいろの事情で，一年，間が空いてしまいました。二年つづけて休刊にしてしまうと，もう駄目だと考え，なんとか刊行しようと，いま，必死に最後の詰めをしているところです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このブログでも書いてきましたように，「３・１１」を通過したわたしたちは，もう，あとには戻れない，戻ってはならない，むしろ，新たな時代の可能性を探求することこそが喫緊の課題である，と考えてきました。そこで，「ISC・21」でも，これまで『ＩＰＨＩＧＥＮＥＩＡ』という名前の研究紀要を刊行してきましたが，これを終巻にして，ひとつのけじめをつけ，新たに『スポートロジー』（Ｓｐｏｒｔｏｌｏｇｙ）（＝スポーツ学）という造語をかかげ，「３・１１」後のスポーツ文化の新たな可能性にむけてスタートを切ろう，と決意しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;『ＩＰＨＩＧＥＮＥＩＡ』は，２０００年を契機にして，２０世紀的なスポーツ文化のあり方に決別して，２１世紀を生きるわたしたちにとって必要とされる，あらたな「スポーツ文化」の考え方を探求しようという強い意思のもとでスタートを切りました。そのときの思想的なきっかけを与えてくれたのはジャック・デリダでした。キー・ワード的にいえば「脱構築」でした。つまり，近代という時代が徹底して抑圧・排除・隠蔽してきた「非合理」の問題系の力によって，最終的に近代論理が破綻をきたすことになった，という認識に立つことでした。そして，その近代論理を「「脱構築」することによって，新たに開かれる「スポーツ文化」の知の地平をさぐっていこう，ということが大きなテーマとなりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;換言すれば，近代スポーツ競技という近代の文化統合がもたらした抑圧・排除・隠蔽の構造を解きあかすことにありました。前近代まで温存されてきた豊穣な「スポーツ文化」が，近代スポーツ競技の登場によって，わたしたちは「スポーツ文化」のうちの，なにを新たに獲得し，なにを失うことになったのか，を明らかにすることでした。これが，わたしたちの目指した「脱構築」の中味でした。そして，それは一定の成果を挙げえたと考えています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし，「３・１１」は，それをも凌駕する，とてつもなく大きな時代の変化を余儀なくされることになりました。もはや，「３・１１」以前の論理に縛られているかぎり，未来に希望を見出すことはできません。簡単に言ってしまえば，ヨーロッパ産の近代合理主義的な考え方の枠組みの＜外＞にでること，そこから再出発することでしか，２１世紀の未来は開かれてこない，と考えるに至りました。スポーツ文化の領域でも同じです。繰り返しておけば，近代スポーツ競技の考え方の枠組みの＜外＞にでること，このことこそが喫緊の課題である，という次第です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうして，到達した結論のひとつが「スポートロジー」の提唱です。この概念については，じつは，もうずいぶん前からわたしの思考のなかで構想されてきたものです。そして，その一部は，活字にもなっています（この点については，いつか詳しく書くことにします）。「３・１１」後のスポーツ文化を考えるための無垢の，手垢にまみれていない，新たな「学」の可能性を，新鮮な響きをもつこの新しい造語「スポートロジー」に賭けてみようと決心しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんな思いを籠めて「ＩＳＣ・２１」の研究紀要の書名を『スポートロジー』とすることにしました。そして，その創刊号の特集テーマは「スポートロジー」（Ｓｐｏｒｔｏｌｏｇｙ）＝「スポーツ学」事始め，ということにしようと，現段階では考えています。そして，その手始めに，「スポーツ学」構築のための思想・哲学的根拠のひとつとして，ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』（湯浅博雄訳，ちくま学芸文庫）の読解を試みようという次第です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ごく簡単に触れておけば，人間が動物性の世界から「離脱」し，人間性の世界に「移行」し，人間として生きる道を歩みはじめたとき（理性的人間の誕生），そのとき，いったい，なにが起きたのか，を考えることです。なぜなら，このことと広義の「スポーツ文化」の誕生とは表裏一体のものであった，とわたしは考えているからです。つまり，スポーツの始原の問題をさぐること，です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「スポートロジー」は，まずは，ここから始めてみよう，という次第です。&lt;br /&gt;題して「スポートロジー」事始め。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-7292890661489575006?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/7292890661489575006/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=7292890661489575006' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/7292890661489575006'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/7292890661489575006'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/03/blog-post_04.html' title='「スポートロジー」（Ｓｐｏｒｔｏｌｏｇｙ）＝「スポーツ学」事始め・その１。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-4336159471407790797</id><published>2012-03-03T15:04:00.000+09:00</published><updated>2012-03-03T15:04:02.495+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='季節の話題'/><title type='text'>３月３日，雛祭り。風ぬるむ。気持ちもゆるむ。黄色の花をつけた柊。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;積雪も消え，昨夜の氷雨も嘘のように今日は朝から快晴。午後になって少し雲がでてきましたが，まずは穏やかな一日になりそう。こころなしか風もぬるんできたように感じます。いくつになっても春は嬉しいものです。あと一カ月もしないで桜の花がみられるかと思うと，こころが浮き立ってきます。毎年のことながら，この時期はさまざまな思いにこころが動かされてきました。一つには，卒業・入学・入社という人生にとって大きな転換を，わが身に引き写して，振り返るからでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;リタイア後のわたしの生活のリズムは，水曜日を日曜日と決め，あとの日はいつもと同じ勤務日と考えていますので，今日も鷺沼の事務所に「出勤」しています。出勤簿も作成して，ハンコも押しています。自主管理です。朝から風雨の強い日はお休みです。雨が嫌いですので，これだけはわがままを許しています。ですから，出勤簿にはハンコの代わりに「雨」と書き込むことにしています。あとは，出張（名古屋，大阪，神戸方面へ，月に１回は出張しています）でもないかぎりは，まじめに出勤しています（このときは，「出張」というハンコを押しています。ので，「雨」というハンコをいま探しています。ついでに「サボり」というハンコも）。出勤簿をみるかぎり，とても，まじめに働いて（？）いることがわかり，われながら感心しています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この話を友人たちにしますと，よほど仕事が好きなんだ，と言われます。そう言われるとちょっと困ってしまいます。なぜなら，鷺沼の事務所は大好きなんですが，仕事が好きだとは思っていないからです。わたしの場合には，いまや「仕事」の概念が大きく変化してしまっていて，世間でいう仕事はしていません。ありとあらゆることを自分で決めているわけですので，これはもはや，仕事（労働）ではなくて，娯楽・遊びの類だと思っています。しかも，鷺沼の事務所にきてしまえば，もう，完全に自分の思いのままに好き勝手なことをしていても，だれにも気兼ねは無用です。居眠りをしようが，風呂に入ろうが，お汁粉をつくって食べようが，やりたい放題。というわけですので，仕事などはしていない，と言った方が正しいようです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;勤務時間についても規定がありませんので，真の意味でのフレキシブル・タイムです。一応，午後７時までは事務所にいます。それから片づけをして帰路につきます。ですから，夕食はいつも午後８時前後になります。夕食後は，あまり意味もないことをごそごそとやりながら時間を過ごし，少しでも眠気がきたら，さっさと眠るようにしています。朝は眼が覚めたときが起床時間。それでも眠たければ，また，眠る。怠惰のかぎりをつくしています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これから気温が上がってきましたら，鷺沼の事務所周辺の散策を楽しんでみようと思っています。ときおり書いてきましたように，鷺沼は植木屋さんが多く，その回遊コースが駅で紹介されているほどです。それをまだ実行していないというのは，これもまた怠惰のかぎりをつくしているからでしょう。でも，植木は嫌いではありませんので，ことしの春こそ見てまわろうと思っています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今日は，いつも通る植木屋さんの屋敷に，黄色の柊の花が咲いていました。わたしが子ども時代を過ごした寺の境内にあった柊は白い花をつけていました。ことし，初めて「黄色の柊の花」の存在が，わたしのオブジェとして意識されることになりました。これまでは「見れども見えず」という存在でしかなかったという次第です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;写真を載せておきましょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"&gt;&lt;a href="http://3.bp.blogspot.com/-6cNo3qQo17M/T1G0ONxYS_I/AAAAAAAAAEE/-ux0aE7doho/s1600/104_0478.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"&gt;&lt;img border="0" height="320" src="http://3.bp.blogspot.com/-6cNo3qQo17M/T1G0ONxYS_I/AAAAAAAAAEE/-ux0aE7doho/s320/104_0478.JPG" width="240" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-4336159471407790797?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/4336159471407790797/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=4336159471407790797' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/4336159471407790797'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/4336159471407790797'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/03/blog-post_03.html' title='３月３日，雛祭り。風ぬるむ。気持ちもゆるむ。黄色の花をつけた柊。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/-6cNo3qQo17M/T1G0ONxYS_I/AAAAAAAAAEE/-ux0aE7doho/s72-c/104_0478.JPG' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-7207284771089562381</id><published>2012-03-02T15:28:00.000+09:00</published><updated>2012-03-02T15:53:17.941+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='フクシマの話。'/><title type='text'>気がつけば，もう３月。「３・１１」を目前にしてますます滅入ってしまう毎日。突破口はないか。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;久しぶりの銀世界もあっという間に雪が溶けてしまった。この前の雪のときは，冷え込みが厳しく昼に溶けた雪が夜には氷となって，日陰には相当長く残っていた。そして，寒かった。しかし，今回の雪はあっという間に姿を消してしまった。暖かくなったのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そう，気がつけば，もう３月に入っている。もう，春はすぐそこにきている。しかし，北国の春は近づいているのだろうか。仮に，桜が咲き始め，その桜前線が北上しても，北国の春はまだまだ遠いに違いない。そんなことを，昨日は一日中，考えていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;何回もブログを書こうと思ってパソコンを立ち上げるのだが，一行も書けないまま，じっと考え込んでしまう。昨年の６月に訪れた福島，宮城，岩手の３県の被災地の記憶が，つぎからつぎへと甦ってくる。片時も消えない記憶は，南相馬市からさらに南にくだって，行けるところまで行こうと頑張ったが，「２０キロ検問所」の前で車を止められてしまった。仕方がないので，そこから引き返す。だから，そこからさきの世界は，わたしにはたんなる「空白」でしかない。「空白」なるがゆえにこそ，なんとも落ち着かない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その「空白」を埋めるための情報はすべてメディアをとおしてのものである。その情報もまことにいい加減なものばかりで，どれひとつ信用できない。そして，あらぬ噂が，いわゆる「風評」となって世に広がっていく。この風評を一刀両断のもとに断ち切って，しっかりした根拠にもどづく情報を提供すべきメディアがほとんど機能しない。それもそのはずで，政府ですら精確な情報をどれだけ把握しているのか，それすらおぼつかない。当事者である東電ですら，現場指揮に立つ所長と本社の間の意思疎通がうまく機能していない。結局，だれもほんとうのところはわかっていない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いったい，「３・１１」以後，この日本の社会の中ではなにが起きたのか。重要なポストにいる人たちが，だれひとりとして「責任」をとろうとはしない「責任回避体質」＝「無責任体質」と，わが身の保全のための「思考停止体質」だけが，もののみごとに浮かび上がってきた。都合の悪い情報はひたすら秘匿する（あるいは，隠蔽・排除する）（なんと「秘匿」することを正当化する法律までつくろうとしている）。そして，あとは知らぬ勘兵衛さん。ひたすらダンマリ戦術。死んだふり。そして，都合のいい風が吹いてくると，にわかに元気を出して，あちこちに圧力をかけて，情報コントロールをはじめる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;政・官・財・学・報の五位一体となって，国民の「命」などはそっちのけだ。そして，利権がらみの魑魅魍魎ばかりが跋扈する。そういう情けない実態がもののみごとに露呈してしまった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いまだに信用できる情報はほとんどなにもないに等しい，とわたしは深刻に受け止めている。それらをはるかに凌駕する「風評」という名の怪情報が乱れ飛んでいる。わたしたちは，それらの情報に振り回され，昨日の友を今日の敵にしてしまわなければならない，まことにみじめな情況に追い込まれてしまっている。「絆」どころか「分断」が大手を振って歩いている。下手に口をきくことすら憚られるほどだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とりわけ，放射性物質による汚染の問題。危険線量の規定すら，確たる根拠はないという（これすらも，たんなる風評かもしれない）。しかも，もし，身体に異常が発生したとしても，そのことと放射性物質との因果関係を証明することはきわめてむつかしい，ともいう。だから，だれも責任を問われることはない，とも。その結果なのだろうか，いつも，「場当たり的」な対応でなんとか切り抜けようと政府は必死だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうして，フクシマの放射性物質の問題だけが，いつのまにか注目されることになってしまった。ついには，フクシマばかりが国際的に有名になってしまったが，なんのことはない，トウキョウも同じなのだ。トウキョウもフクシマもたいして変わりはないのだ，ということを認識していないのは日本人だけかもしれない。だから，フクシマの温泉に行くことをトウキョウの人間が忌避するという。可笑しくて笑ってしまう。同じ穴の狢（むじな）だというのに。東北も関東も，みんな危ないといえば危ない。トウキョウが安全だというなら，東北も関東一円もみんな安全だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのことを，しっかり認識しているのは欧米人たちだ。「３・１１」以後，ヨーロッパ系の旅行客が激減したことを考えれば歴然としている。いまや，銀座は東洋系の観光客で占拠されている。顔かたちが同じなので目立たないだけだ。スレ違いざまに聴こえてくることばの違いで，はじめて気づく。黙っていれば，だれも気づかない。それにしても，東洋系の人たちはおおらかだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;眼に見えない放射性物質による汚染は，たしかに怖い。しかし，原発の事故処理にあたっている原発労働者のことを考えれば，怖いなどと言ってはいられない。かれらは，まさに，命懸けで仕事をしているのだ。線量計とにらめっこしながら。こういう人たちがいてくれるお蔭で，かろうじて，現状が維持されていることをよもや忘れてはなるまい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのことを考えれば，フクシマとトウキョウの違いなどは微々たるものでしかない。いまや，どこに住んでいようと同じだ，とわたしは自分自身に言い聞かせることにしている。そうとでも思わないことには，もはや，日本では生きてはいけない。美味しい会津のお酒は呑まずにはいられない。フクシマは温泉の宝庫だ。これまでどおりに，自由に行き来したい，と考えている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「３・１１」を目前にして，恒常的な支援の方法を考えていかなくては・・・と老骨に鞭打ちながら考えている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;三春町で頑張っている玄侑宗久さんの生きる姿勢をお手本にして。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-7207284771089562381?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/7207284771089562381/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=7207284771089562381' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/7207284771089562381'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/7207284771089562381'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/03/blog-post.html' title='気がつけば，もう３月。「３・１１」を目前にしてますます滅入ってしまう毎日。突破口はないか。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-5813089998921291472</id><published>2012-02-29T19:01:00.000+09:00</published><updated>2012-03-05T11:34:03.209+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='太極拳の話。'/><title type='text'>「猫の足のように，静かにそっと運ぶ」（李自力老師語録）・その７．</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;「猫の足のように」音を立てることもなく，そうーっと前に出し，静かに着地させること。今日（２９日）の稽古で李老師が発したことばです。なぜか，とても得心がいったので，ぜひとも，忘れないうちに記述しておきたいと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;李老師の動きに無駄はひとつもありません。脚は脚，腕は腕，腰と上体，それぞれの動きはお互いに独立しています。しかし，それらはお互いに連動しながら一つに溶け合ってみえます。みごとな連鎖をなしています。しかも，それらの一つひとつの動きが止まっていることは一度もありません。つねに，全体が連鎖反応しながら動きつづけています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このことを，もう，ずいぶん長い間，観察しながら考えつづけていました。しかし，名人の動きを分節して見透かすだけの力は素人にはありません。ですから，ただ，ひたすら真似をするだけです。見よう見まねで，名人の動きを模写するしかありません。ですから，李老師はひたすら模範を示してくださいます。ことばによる説明は最低必要限にとどめます。そこから，ことばは悪いですが，「盗め」というわけです。つまり，眼力を養うべし，と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうした謎の一つが脚の運び方です。軸足に体重を乗り移らせた瞬間から，体重から解放された脚はゆっくりと軸足の方に引き寄せられたのちに，こんどは前に向けて送り出されます。この脚の運び方が，以前から不思議で仕方がありませんでした。一瞬たりとも止まることなく，しかも，ゆったりと引き寄せられ，送り出されていくのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この動作をどれほど盗み取ろうとしたことだろうか。それでも，ずっと謎でした。が，今日の李老師のひとこと。すなわち，「猫の足のように」。そうか。李老師の脚の運びは「猫」の方法だったのか，という次第です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;猫が獲物をみつけて，獲物に気づかれないように音もなく接近するときの足の運びは，まさに，李老師の脚の運びとぴったり一致します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして，この脚の運び方を可能にしている最大のポイントは，じつは，腰の回転でした。この腰の回転と脚の送り出しが連動して，はじめて「猫の足のように」なる，という次第でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いまごろになって，と笑われそうですが，気づいたときが吉日です。今日は赤飯を炊いてお祝いをしなくてはなりません。そんな気分にさせてくれるほど嬉しい李老師のひとことでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イメージはできあがりました。あとは，稽古を積んで，それを可能とするからだをわがものとするだけです。これで，また一つ，太極拳をする身体に接近できる，その道が見えたことがなによりでした。&lt;br /&gt;李老師に感謝。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-5813089998921291472?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/5813089998921291472/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=5813089998921291472' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5813089998921291472'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5813089998921291472'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_3864.html' title='「猫の足のように，静かにそっと運ぶ」（李自力老師語録）・その７．'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-5270959431849565940</id><published>2012-02-29T17:00:00.000+09:00</published><updated>2012-02-29T17:00:04.420+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='研究ノート'/><title type='text'>「超哲学」ではなくて，「チョー哲学」でした。いよいよもって不可解。されど魅力的。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;今日の太極拳のあとの「カキフライ・オムライス」の時間は，急遽，「やきそば・ミミンガ」の時間に変更になりました。こんなことがあっていいのだろうか，というようなまことに贅沢な話ですが，でも，それがほんとうにあったことですので正直に書いておきます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いつもはなかなかきていただけない李老師から，昨夜，遅くに「明日，時間に余裕ができましたので，稽古に参加します。稽古が終ったあと，家に寄っていきませんか。簡単な＜やきそば＞をつくります」というメールが入りました。欣喜雀躍，さっそく，ＮさんとＫさんにメールで連絡。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;朝になってみれば，なんと雪が降っているではありませんか。久しぶりの銀世界。電車が動いていてくれればいいが，と心配しながら稽古場に出かけました。ひとりで着替えをして，準備運動をしていましたら，三々五々，多少の遅れがあったようですが，みなさんが集まりました。が，Ｋさんからはメールが入り，体調が思わしくないので休みます，とのこと。残念。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いつものとおりに稽古をはじめていたところに，李老師がふらりと現れ，わたしのからだの緊張度が一気に高まりました。こころの方は李老師がきてくださって嬉しくて仕方がないのに，からだの方は緊張してしまうのです。不思議なものです。久しぶりに，わたしのからだはフル回転。いつもはかかない汗が背中を流れていきます。Ｎさんから，顔まで赤くして，どうしたんですか，と冷やかされてしまいました。そうか，顔まで赤くなっているのか，それは気がつきませんでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;李老師に見られている，というただそれだけでわたしのからだに緊張が走ります。これはとてもいいことなのですが，あまりに緊張してしまうと，いつもできていることができなくなってしまうこともあって，これは困ったものだ，とも思っています。そんな緊張の中で，今日も，李老師語録が一つ増えました。「猫の足のように」です。このことについては，別のブログで書くことにします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いささか前置きが長くなってしまいましたが，こんな稽古のあと，李老師のお招きでご自宅に伺いました。早速，ご自慢の雲南省産のお茶をいただきながら，雑談に入ります。李老師は，その間，せっせと「やきそば」の準備に入ります。そのわずかな時間を見つけて，Ｎさんが忘れないうちに，と言ってわたしが昨日書いたブログの話を切り出してくれました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あれは，稲垣さんが書いたような「超哲学」ではなくて，「チョー哲学」です。「超」はカタカナ表記の，そのまま「チョー」です。意味は，若い女の子たちが多用している例の「チョー」です。「チョーかわいい」「チョーおいしい」「チョーおもしろい」というときの「チョー」です。これを，たとえば，「チョー音楽」とか，「チョー数学」というように置き換えてみればいいわけです。ですから，そのまま「チョー哲学」ということです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この授業は学部の演習ですので，どんなテクストでもとりあげて一緒に読もう，というそういう授業です。くわしくは，シラバスをご覧ください。たとえば，イグナチオ・ロヨラの『霊操』（門脇佳吉訳，岩波文庫）なども取り上げましたし，プラトンなども読みました。ときには，デカルトを読んだり，スピノザを読んだり，もしました。テクストもまったく限定はありません。ですから，ことしの４月からはなにを読もうかと考えているところです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;じゃあ，わたしがブログで書いたことは，そんなには外れてはいないですね。むしろ，それをも軽々と超えでていく，そういう「哲学」ですね。言ってしまえば，これまでの「哲学」の概念という枠組みなど無視して，いかなるテクストも「哲学」になりうる，そういう実験的な意味も籠められている，と受け止めていいですね。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まあ，そんなもんです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;というような次第でした。じつは，このあとも，とても刺激的なお話があったのですが，わたしの提起した「超哲学」とは直接の関係がない話ですので，割愛します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このお話を受けて，わたしはわたしで「超哲学」という概念を明確にして，自分の研究に役立てていけばいいのだ，と得心がいきました。少なくとも，Ｎさんの掲げていらっしゃる「チョー哲学」とバッティングすることはない，と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ならば，「スポーツ学」（Ｓｐｏｒｔｏｌｏｇｙ）構築のための「超哲学」的アプローチ，という研究ノートの表題は大丈夫だ，と。よし，これで行こう，と腹をくくることにしました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その間に，李老師は，じつに手際よく５人分の特製の「やきそば」を調理してくださいました。なんという贅沢。にもかかわらず，Ｎさんはなんと言ったと思いますか。「ぼくは気が弱くて言いづらいんですが，稲垣さんの眼が，これにミミンガがあるといいなぁ，と言ってるんですよね」。一瞬，唖然としてしまいましたが，ここは外してはならずとばかりに「えっ，いつからぼくのこころの内まで透視することができるようになったんですか」と応答。みんな爆笑。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;李老師も心得たもので，「ミミンガ？　ああ，すぐできますよ」と言って，あっという間に仕上げてくれました。しかも，ネギを長く細切りにしてミミンガの上に乗せてあり，これがまた絶妙の味なのです。じつは，李老師は四川省出身のお母さんゆずりの四川料理の名手なのです。詳しいことは，いつか，あらためてご紹介することにしましょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;というわけで，今日の太極拳の稽古のあとは，「カキフライ・オムライス」ではなくて「焼きそば・ミミンガ」でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いやいや，このブログとしては，「超哲学」ではなくて「チョー哲学」でした，というのが本来の「落ち」でした。そして，わたしは，しばらくの間は，近代を超克するための後近代の新しい論理を「超哲学」という方法で探索してみたいと，それもジョルジュ・バタイユを手がかりにしてと，本日，ただいま，決断しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;李老師に二重，三重の感謝です。ありがとうございました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-5270959431849565940?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/5270959431849565940/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=5270959431849565940' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5270959431849565940'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5270959431849565940'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_29.html' title='「超哲学」ではなくて，「チョー哲学」でした。いよいよもって不可解。されど魅力的。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-4800349677547770657</id><published>2012-02-28T15:47:00.001+09:00</published><updated>2012-02-28T17:59:02.403+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='研究ノート'/><title type='text'>西谷修さんのいう「超哲学」とはいかなる学問なのだろう？いま，とても知りたい。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;西谷修さんが，東京外国語大学で「超哲学」という授業を展開されているという話は，しばらく前から聞いてはいました。この「超哲学」ということばの響きが，最近になってとてもいい具合に，わたしの耳に入ってくるようになりました。できることなら，もぐり込んで聴講させていただきたい，と強く思うようになってきました。こんどの４月から，本気で通ってみようか，と考えはじめています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし，残念なことに，この「超哲学」という授業をとおして，どのような話をなさっているのかはお尋ねしたことがありません。わたしが勝手に想像しているだけのことなのですが，それでも，とても魅力的な授業がイメージできてしまうから不思議です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのむかし木田元さんが「反哲学」という概念を提示され，『反哲学史』なる本まで書いていらっしゃいます。その当時は，なんということを言う人なのだろうか，と半信半疑で読んだものです。しかし，その後，木田さんのハイデガーに関する著作を何冊か夢中になって読むことになり，ようやく「反哲学」の意味がおぼろげながら納得できるようになりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしの理解によれば，ニーチェによってヨーロッパの伝統的な哲学，すなわち形而上学が痛烈に批判され，その＜外＞にでて，新たな哲学の方法を立ち上げることが叫ばれるようになりました。このニーチェの主張を真っ正面から受け止め，ニーチェの思想を継承すると宣言して，ハイデガーの哲学が誕生します。この事態をとりあげて，木田さんは「反哲学」という概念を用いて，さらに深いところに思考を掘り下げていった，とわたしは理解しています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし，どういうわけか，木田さんは，ハイデガーを批判的に超克することを目指したジョルジュ・バタイユのことはほとんど無視されました。バタイユは，ハイデガーの思想・哲学が，なにゆえにナチズムに利用されることになってしまったのか，という点に注目し，そこを超克することに力を注ぎました。バタイユは，ハイデガーがニーチェを継承すると宣言したことに対して，「わたしはニーチェを生きる」と宣言し，実践していきます。そうして，オーソドックスな哲学者たちがいまでも忌避するような，バタイユの独特の思想・哲学を展開していきました。それは，バタイユの膨大な著作を一望すれば明らかです。とりわけ，「エロチシズム」に深く踏み込んでいったかれの思考は，形而上学に慣れ親しんだ哲学者にとっては鬼門ですらあるのでしょう。しかし，「エロチシズム」を排除した哲学とは，いったい，どういうことなのか，とわたしなどは逆に考え込んでしまいます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;存在論が，ものの存在から，人間の，血の流れている生身の人間の存在，つまり，存在者へと踏み込んだあたりから，形而上学はもはやなにも語れなくなってしまった，とわたしは理解しています。だとすれば，スポーツする身体や，スポーツする人間についての哲学は，形而上学の＜外＞に踏み出すしかありません。そのきっかけを与えてくれたのがニーチェだとすれば，ニーチェの思想・哲学に注目しなければなりません。その点，ニーチェが提示したとてもわかりやすい概念があります。それは，『悲劇の誕生』のなかで提示された「アポロン的なるもの」と「ディオニュソス的なるもの」の二つの概念です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このうちの「ディオニュソス的なるもの」を継承し，さらに，大きな構想で思想・哲学を練り上げたものがバタイユの「エロチシズム」に関する論考だった，とわたしは考えています。ですから，わたしが「スポーツ学」（Ｓｐｏｒｔｏｌｏｇｙ）を構築するための哲学的なバック・グラウンドを固めるには，バタイユの思想・哲学がもっとも有効ではないかと，現段階では考えています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ニーチェを継承したハイデガーが「反哲学」（木田）であるとすれば，ニーチェを生きると宣言したバタイユは「超哲学」の実践者ではないか，とわたしは考えています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし，西谷さんがお考えの「超哲学」がどのようなものであるのかは，わたしはまだ知りません。おそらくは，バタイユから始まって，ブランショやレヴィナスやジャン＝リュック・ナンシーを経て，ドグマ人類学の提唱者であるピエール・ルジャンドルにまで射程がのびているのだろうなぁ，と想像はしていますが・・・・。明日，太極拳の稽古でお会いしますので，稽古のあとの「カキフライ・オムライス」の時間にお尋ねしてみたいと思っています。わたしの考える「超哲学」が当たらずといえども遠からずであってくれたら嬉しいなぁ，と胸をときめかせています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;じつは，いま，＜ＩＳＣ・２１＞の研究紀要『スポートロジー』（創刊号）の編集作業に入っていて，終盤にさしかかっています。その中に，わたしの「研究ノート」を一本加えようと考えています。そのタイトルはつぎのようにしてみたいと考えているのですが，いま，決断できないで迷っているところです。つまり，「超哲学」ということばの使用法について，です。そのタイトルは，つぎのようです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「スポーツ学」（Ｓｐｏｒｔｏｌｏｇｙ）構築のための「超哲学」的アプローチ&lt;br /&gt;──ジョルジュ・バタイユ著『宗教の理論』読解・私論&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この研究ノートのネタは，このブログの熱心な読者であれば，あっ，あれだな，と推測できると思います。そうです。神戸市外国語大学の集中講義のために準備した講義ノートです。受講する学生さんたちに予習してもらうために，このブログをとおして公開したものです。それを，もう一度，加筆・訂正して，なんとか「研究ノート」に仕上げてみたい，という次第です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて，西谷さんがなんと仰るか，明日の太極拳がいまから楽しみです。いささか怖くもありますが・・・・。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-4800349677547770657?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/4800349677547770657/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=4800349677547770657' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/4800349677547770657'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/4800349677547770657'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_28.html' title='西谷修さんのいう「超哲学」とはいかなる学問なのだろう？いま，とても知りたい。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-6641082897598755471</id><published>2012-02-27T17:53:00.002+09:00</published><updated>2012-02-27T17:55:13.078+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='２１世紀スポーツ文化研究所'/><title type='text'>『スポートロジー』（Ｓｐｏｒｔｏｌｏｇｙ）を紀要名にして，「３・１１」後の新たなスタートを切ろう。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;2月１６日のブログで，「３・１１」は後近代のはじまり。新しい学としての「スポートロジー」（Ｓｐｏｒｔｏｌｏｇｙ）を立ち上げよう，と書きました。しかし，あまりいい反応がありません。いつものことではありますが，いささか寂しい思いをしています。でも，そこでめげてしまっては男が廃る，とばかりに気合を入れ直して，さらに，もう一歩前に出ようと覚悟を決めました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ＩＳＣ・２１」（２１世紀スポーツ文化研究所）の研究紀要『ＩＰＨＩＧＥＮＥＩＡ』の２０１１年版を出そうと編集作業の最終段階のところで，「３・１１」に遭遇してしまいました。いっぺんに，それどころの話ではなくなってしまいました。さきゆきがまったく見えなくなってしまい，なにも手につかなくなってしまいました。あれから，もう，一年が経過しようとしています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この一年間，ほんとうにいろいろのことを考えつづけてきました。まずは，ひとりの生身を生きる人間として，そして，つぎにはスポーツ史・スポーツ文化論の研究者として，いったい，なにが間違っていたのだろうか，と。具体的な仕事としては，「ＩＳＣ・２１」のこんごのあり方もふくめて，これまでの研究活動に誤りがなかったかどうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;毎月の月例研究会のあり方も，そして，これまで刊行してきた研究紀要の内容についても，一度，原点に立ち返って考えてみなければならない・・・と。しかし，なかなか，明確なイメージが浮かばないまま，おろおろと無為の日々を送っていました。ときが問題を解決するともいいます。そろそろその傷も癒えつつあるのでしょうか，もぞもぞと，新たな情熱が頭をもちあげるようになってきました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ちょうどタイミングがよかったといえば変ですが，昨年（２０１１年）は，神戸市外国語大学の前期・後期の集中講義で，ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』をテクストにして，必死でその読解に取り組みました。そのかなりの部分は，このブログにも公開しましたので，ご記憶の方も多いかと思います。とても，難解な文章ですが，読書百回といいますとおり，くり返しくり返し読み直しているうちに，ある一筋の道がみえてきました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;細かな点については，このブログを検索してみてください。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とにかく，バタイユの『宗教の理論』を手がかりにして，０（ゼロ）からの再スタートを切ることにしました。つまり，破綻してしまった近代の論理を超克して，新たな論理（後近代の論理）を構築するには，現段階でのわたしの知るかぎりでは，バタイユの『宗教の理論』がもっとも「信」をおくことができる，と納得したからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;で，気づいてみれば，もう２月も終わろうとしています。じつは，年が明けたころから，ことしこそは研究所の紀要を刊行しようと，その心構えだけはできていました。が，からだが動きません。こんな不思議な経験もはじめてでした。そのからだにようやくエンジンがかかりはじめたのは，つい最近になってのことでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして，今日（２７日）になって，頭のなかの靄がスカッと晴れました。よし，これでいこう，という基本方針が決まりました。そして，その覚悟も決めました。それが標題に書いたとおりのことです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;長年，紀要名として用いてきた『ＩＰＨＩＧＥＮＥＩＡ』に別れを告げ，それに代わる『スポートロジー』という名前で再スタートを切ろう，と。そして，いま，手元にある原稿をかき集めて，できるだけ早く冊子にしよう，と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうと決まれば，あとは走るのみ。不思議なもので，気力も体力もみるみる漲ってきました。ここ数日は，かつての絶好調の時代にもどってきたように思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ＩＳＣ・２１」の新しい紀要名は『スポートロジー』。&lt;br /&gt;特集のタイトルは，「スポーツ学」（Ｓｐｏｒｔｏｌｏｇｙ）の思想・哲学的アプローチ──ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』（湯浅博雄訳，ちくま学芸文庫）を手がかりにして。&lt;br /&gt;この内容は，このブログにわたしが書きつづけてきたものをベースにして，加筆修正したものになる予定。つまり，神戸市外国語大学の集中講義でのたたき台として，わたしが提示したものです。&lt;br /&gt;これを，まずは，「スポートロジー」の思想・哲学的な出発点として，世に問うてみよう，という次第です。その意味では，いま，とても新鮮な気持ちでいる，と同時に，いささか緊張しています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このほかの，いま，予定されている原稿は，合評『理性の探求』（西谷修著，岩波書店）と鼎談「現代の能面・Ｐａｒｔ　２．」（今福龍太，西谷修，稲垣正浩），それに原著論文（松浪稔）です。まだ，整理できていない原稿がほかにもありますが，それらは次号に回そうと考えています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;諸般の事情で，この号に原稿を掲載したいという方は，ご一報ください。相談に乗ります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ということで，いま，現在の研究所紀要のご報告まで。&lt;br /&gt;４月には刊行したいと考えています。&lt;br /&gt;乞う，ご期待！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-6641082897598755471?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/6641082897598755471/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=6641082897598755471' title='1 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/6641082897598755471'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/6641082897598755471'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_27.html' title='『スポートロジー』（Ｓｐｏｒｔｏｌｏｇｙ）を紀要名にして，「３・１１」後の新たなスタートを切ろう。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>1</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-2776664903911126460</id><published>2012-02-25T11:55:00.000+09:00</published><updated>2012-02-25T11:55:20.302+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='時事ネタ'/><title type='text'>恐るべし，原子力ムラの「東大話法」。「思考停止」のからくり。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;今日（２５日）の『東京新聞』「こちら特報部」に仰天するような記事が載っていたので紹介しておきます。安冨歩さん（東大教授）が先月出版した「原発危機と『東大話法』」（明石書房）を取り上げ，紹介する記事です。ほんとうはわたしもこの本を読んでから紹介すべきところですが，あまりの酷さに，とりあえず中間報告をしておきたいと思います。&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;いつものように２面にわたって，安富教授の顔写真と大きな見出しが躍っています。大きな活字の順番に列挙しておきましょう。まず，右側の紙面から。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;思考奪う偽りの言葉&lt;/div&gt;&lt;div&gt;原子力ムラでまん延「東大話法」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「安全神話支え，事故招く」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;危険なものを危険といわず&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;つぎに，左側の紙面から。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;高慢　無責任な傍観者&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「見つけたら笑ってやって」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;周囲もあぜん「記憶飛んだ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;プルトニウム拡散の”遠因”&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;おまけに「東大話法規則一覧（抜粋）」なるものが，「規則２０」まで紹介されています。たとえば，&lt;/div&gt;&lt;div&gt;規則１　自分の信念ではなく，自分の立場に合わせた思考を採用する。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;規則２　自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;規則３　都合の悪いことは無視し，都合のよいことだけ返事する。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;規則５　どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;規則９　「誤解を恐れずに言えば」と言って嘘（うそ）をつく。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;規則２０　「もし〇〇〇であるとしたらお詫びします」と言って，謝罪したフリで切り抜ける。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;という調子です。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;この記事は，中山洋子記者による記名記事で，冒頭の書き出しは以下のようです。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;原子炉の老朽化ではなく「高経年化」と言い換える。原発を監視する役所を「原子力安全庁」と呼びたがった──。とかく高飛車で欺瞞的な”原子力ムラ”の言葉や言い回しを，東京大東洋文化研究所の安冨歩教授は「東大話法」と名付けて警戒する。東大ＯＢの官僚や御用学者に多い空疎な言葉こそが，一人一人からまともな思考を奪う元凶だという。同教授に「東大話法」の見破り方を聞いた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;これだけ書いておけば，あとは，記事の内容を事細かに解説する必要はないでしょう。あとは，安冨さんの書かれた『原発危機と「東大話法」』（明石書房）で，とくとご鑑賞のほどを。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;この記事について，すぐにもブログで書いておこうと思いたったのは，理由があります。今朝のテレビ（ＮＨＫ）で，電力問題を取り上げていて，そこに専門家と称する二人の人物が登場。一人は，元経済産業省の役人で，いまは，〇〇〇研究所所長，もう一人は，富士通の〇〇〇研究所の研究員。で，前者が，みごとにこの「東大話法」の使い手であったこと，そして，後者は，その正反対で，きちんと自分の言葉で語っていたこと，があったからです。後者の人のお話は，なぜか，小出裕章さん（京大原子炉実験所助教）の物言いのあの確かさを連想していました。にもかかわらず，前者の元役人さんは，後者の人の発言を混ぜっ返す内容ばかりでした。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;ですから，ああ，これぞ「東大話法」ともののみごとに納得してしまいました。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;このときもそうでしたが，最近のわたしは，テレビに出演される「専門家」と称する人たちの発言に向かって「ごまかすなっ！」「すり替えるなっ！」「ほんとうのことを言えっ！」と大声を発することが多くなりました。ときには，バカバカしくて見てはいられない，とばかりにテレビを切ってしまいます。そして，ＮＨＫはカネを返せ，と怒鳴ってしまいます。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「３・１１」以後，いわゆる専門家と呼ばれる人びとの言説が，一種の「踏み絵」のようにして，読者にきびしく選別される時代に突入しました。しかし，そのことに鈍感というか，保身に走るというか，「東大話法」に逃げ込む人，つまり，原子力ムラの一員になる人が圧倒的に多くなったことも，一方の現実です。とくに，学者・研究者の言説の多くがまことにお粗末。その一方で，圧倒的少数ながら，ピカリと光る言説，つまり，知への愛（フィロ・ソフィア）に満ちた言説も厳然と存在しています。わたしは，こういう人たちの言説に「信」を置きたい。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;ソクラテスが毒杯をあおることになっても，みずからの「知への愛」に殉じたように。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-2776664903911126460?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/2776664903911126460/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=2776664903911126460' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/2776664903911126460'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/2776664903911126460'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_25.html' title='恐るべし，原子力ムラの「東大話法」。「思考停止」のからくり。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-2956797870209989114</id><published>2012-02-24T21:51:00.005+09:00</published><updated>2012-02-26T23:15:06.256+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='２１世紀スポーツ文化研究所'/><title type='text'>第５８回「ＩＳＣ・２１」３月東京例会開催のご案内・第１報。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;※「ＩＳＣ・２１」のＨＰの掲示板が炎上して閉鎖していますので，その掲示板の代わりに，このブログでのご案内です。よろしくお願いいたします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第５８回「ＩＳＣ・２１」３月東京例会開催のご案内。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ＩＳＣ・２１」（２１世紀スポーツ文化研究所）が主催する第５８回３月東京例会を下記の要領で開催しますので，万障お繰り合わせの上ご参加くださいますようご案内いたします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;記&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．日時：２０１２年３月１９日（月）１３：００～１８：００&lt;br /&gt;１．場所：青山学院大学・ガウチャー礼拝堂のある建物の５階第１３会議室&lt;br /&gt;※ガウチャー礼拝堂のある建物は，正門をまっすぐ進んで突き当たりの右側にある大きな建物です内側にガウチャー礼拝堂があります。そこを左側から迂回するようにして上階に上がるエスカレーターがあります。そちらをご利用ください。&lt;br /&gt;１．プログラム&lt;br /&gt;〇第一部：１３：００～１４：３０　情報交換（研究活動，ブックレヴュー，その他近況など）&lt;br /&gt;〇第二部：１４：４５～１８：００　西谷修先生を囲む会。&lt;br /&gt;テクスト：ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン』──惨事便乗型資本主義の正体を暴く，幾島幸子・村上由見子訳，岩波書店，２０１１年刊）。&lt;br /&gt;このテクストのもつ意味について，西谷先生のお考えをじっくりとお聞きしたいと考え，この企画を立ててみました。西谷先生も喜んでお引き受けくださり，わたしたちの問いに応答してくださるとのことです。とても，ありがたいことです。&lt;br /&gt;まずは，「世界」とはなにか，わたしたちが，いま，直面している「世界」とはどういう情況にあるのか。そして，名にし負うあのフリードマンが仕掛けた新自由主義にもとづく経済戦略とはなにであったのか（小泉改革もふくめて），そして，グローバリゼーションとはどういうことなのか，グローバル・スタンダードなる暴力装置がどのようにして仕掛けられ，実践されたのか，いまや狂気と化した理性の行方は・・・・，などについて西谷修先生から「ホンネ」のお話を引き出すことができれば・・・と密かに考えています。&lt;br /&gt;同時に，ことしの８月６日（月）～９日（木）に予定されています「第２回日本・バスク国際セミナー」（神戸市外国語大学）のメイン・テーマは「グローバリゼーションと伝統スポーツ」です。この研究会はそれに向けての助走のひとつでもあります。&lt;br /&gt;２１世紀を生きるわたしたちは，期せずして「９・１１」を経験し，さらには「３・１１」を通過してしまいました。いまから過去にもどることはできません。そういうわたしたちにとって，これからの時代を「生きる」とはどういうことなのか。大きな問いが待ち受けています。そして，同時に，「グローバリゼーションとはなにか」「伝統スポーツとはなにか」という，スポーツ史・スポーツ文化論という土俵で仕事をしているわたしたちにとっては大きな問いが覆いかぶさってきています。&lt;br /&gt;ヨーロッパに起源をもつ近代論理の破綻現象がますます大きくなりつつある現代世界にあって，わたしたちは，いよいよ「後近代」の論理を構築し，新たな理論武装をすることが避けては通れないところに立たされています。&lt;br /&gt;そういうことも広く視野に入れて，西谷先生を可能なかぎり挑発しつつ，エッジに立つぎりぎりのお話を引き出すことができれば・・・と企んでいます。&lt;br /&gt;そういうことが可能な「場」をわたしたちはできるだけ多くの人たちと共有したいと思います。&lt;br /&gt;この会は，オープンで，どなたにも開かれた会ですので，どうぞ，興味・関心をお持ちの方はご遠慮なく参加してみてください。&lt;br /&gt;ただし，この会の趣旨はよくご理解の上で，少なくとも，ナオミ・クラインのテクストだけはしっかりと読み込んだ上で参加してくださることを期待しています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もし，可能であれば，西谷修さんの著作を一冊でも多く読み込んできてくださると，とてもエキサイティングな会になると思います。&lt;br /&gt;たとえば，『理性の探求』（岩波書店），『＜経済＞を審問する』（〇〇社），などは必見です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なお，終了後には，ささやかな懇親会を予定していますので，こちらにも参加してください。第２報で，最終的な，参加申込みの手続を表示しますので，その折にお知らせください。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とりあえず，第一報まで。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;※掲示板の代わりですので，この「第一報」を確認された方は，この下にある「共感した」をクリックしてください。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-2956797870209989114?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/2956797870209989114/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=2956797870209989114' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/2956797870209989114'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/2956797870209989114'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_4905.html' title='第５８回「ＩＳＣ・２１」３月東京例会開催のご案内・第１報。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-7148293061011756606</id><published>2012-02-24T14:38:00.000+09:00</published><updated>2012-02-25T17:35:02.323+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='読者のみなさんに。'/><title type='text'>訂正「哲学のはじまり」，お詫びと訂正。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;２月２３日（木）に書いたブログ「哲学のはじまり」のうち，もっとも肝腎なところが，わたしの理解不足のため，きちんと書けていませんでした。早速，このブログを読まれたＮさんからメールでご指摘をいただきました。それに基づいて，全部，書き直そうかとも思いましたが，それよりもどのようなご指摘があったのかを，そのままお伝えする方が間違いがないと考え，ブログの末尾に「追記」として書き加える形をとりました。この方がわかりやすいと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その結果，とてもすっきりしたブログになりました。&lt;br /&gt;すでに，読まれた方のために，ひとことお詫びかたがたお知らせします。&lt;br /&gt;なお，コメントなどいただければ幸いです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以上。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-7148293061011756606?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/7148293061011756606/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=7148293061011756606' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/7148293061011756606'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/7148293061011756606'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_24.html' title='訂正「哲学のはじまり」，お詫びと訂正。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-8540160255801206323</id><published>2012-02-23T12:56:00.000+09:00</published><updated>2012-03-03T08:53:58.850+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='人と思想'/><title type='text'>「哲学のはじまり」について。ソクラテスの毒杯と西田幾多郎の『善の研究』。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;太極拳の稽古場が大岡山から溝の口に移ってからは，稽古のあとのハヤシライスもまた変化して，こんどは稽古のあとのカキフライ・オムライスになりつつあります。メンバーも，そのときの都合で変化しますが，どうやらＮさん，Ｋさんにわたしが加わって３人で定着しつつあります。&lt;br /&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;そんな情況のなかでの昨日の稽古のあと。いつものファミレスへ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;そして，久しぶりに話に熱が入りました。例によって，ＫさんがＮさんに質問を投げかけます。それらの質問の一つひとつに懇切丁寧にＮさんが応答してくださいます。それがとてもわかりやすい。だから，ついつい，これは，あれは・・・という具合に話が広がっていきます。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;どういう話の流れでそうなったのかは，あまり定かではないのですが，気がついたら「哲学のはじまり」（起源）の話になっていました。わたしの朧げな記憶では，ポピュリズムなる悪しき風潮が世論を構築して力をもちはじめ，さまざまな制度を改悪する動きが目立つ（小沢裁判や少年の死刑判決，裁判員制度の導入，など），というような話がきっかけだったと思います。そして，そのポピュリズムの犠牲者のひとりが古代ギリシアの哲学者ソクラテスだ，とＮさんが切り出したように思います。以下の話は，わたしはこのように聞いたという要約です。事実に反する内容が含まれていたとしたら，それはわたしの誤解であり，わたしの責任です。お許しのほどを。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;ソクラテスの説く辻説法が，世の中の人びとの思考を混乱させ，悪い影響を及ぼす，という風評がアテネ市民の間に広まり，アテネ市民による直接民主主義の制度に則り，ソクラテスに「死刑」が宣告されてしまいます。ソクラテスの弟子たちは，アテネの外に逃げましょう，と説得にかかります。しかし，ソクラテスは動きません。しかも，死刑を執行する刑吏はいません。ソクラテスが，目の前に置かれた毒杯をみずから飲み干すことによって，この死刑が実現するというわけです。ですから，この毒杯を飲まない，拒否する，という選択肢もあったはずです。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;しかし，ソクラテスは，アテネ市外に逃げることもせず，黙って静かにこの毒杯をあおります。そして，死を迎えるそのさなかに，弟子たちに向かって，民主主義には大きな落とし穴がある，民主主義のすべてが正しいとはかぎらない，そのことを後世の人びとの記憶にしっかりと銘記するために，わたしは命をかけてアテネ市民の決定に従うのだ，みずからの思考（哲学）の正しさに殉ずるのだ，と語ったといいます。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;ここが「哲学」のはじまりだ，とＮさんは力説します。つまり，それまでの人間の生死の問題は神の領域にあった，つまり，宗教の問題であった，というのです。しかし，ソクラテスは，みずからの「哲学」に殉じたのだ，これが哲学の起源だ，と。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;民主主義が衆愚政治に悪用されてしまうと，つまり，ポピュリズムに便乗してしまうと，少数意見はいともかんたんに抹殺されてしまいます。それは，まさに，殺人行為そのものになってしまいます。そういうことを肝に銘すべし，とみずからのからだを張ったところに，ソクラテスの存在理由がある，というわけです。つまり，これがソクラテスの「生き方」の問題であり，かれの「哲学」（フィロ・ソフィア」そのものだった，ということになります。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;この話にいたく感動したわたしは，直観的に，「じゃあ，西田幾多郎が『善の研究』を書いたのも，同じ理由ですね」と問うていました。Ｎさんは，にっこり笑って，そのとおりです，と。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;西田のいう「善」の意味は「生きる」ことです。人間は生きることが「善」なのだ，と説いたのです。ですから，西田幾多郎の『善の研究』は存在論なんです。ものの「不在」「欠落」「死」は「悪」なのです。ですから，人間は生きることに意味があるんです。では，どのように「生きる」かが問われることになります。それが西田のいう「善」なのです。西田の場合には，そこに，「禅」の思想をまぶしながら，人間が生きるとはどういうことなのか，という存在の根源に迫ったというわけです。ですから，日本の哲学のはじまりは，西田幾多郎にあります。西田幾多郎が日本の最初の哲学者です。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;この話を聞いて，西田幾多郎が提起した「純粋経験」や「行為的直観」の周辺にあったモヤが一気に晴れてしまいました。そして，「場の理論」も，なるほどと得心してしまいました。こうなると，もう一度，西田幾多郎を読んでみたいという衝動が突き上げてきます。たぶん，これまでとはまったく違う読解の世界が開けてくる，そういう予感でいっぱいです。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;稽古のあとのカキフライ・オムライスの時間が，とても楽しみになってきました。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;取り急ぎ，ご報告まで。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;※訂正について。&lt;br /&gt;このブログを読まれたＮさんから，つぎのように訂正を，というメールをいただきました。やはり，わたしの力量の及ばないところがありました。そして，それを忌憚なくご指摘くださるＮさんに感謝です。メールの部分をそのまま転載するのは失礼かもしれませんが，わたしがいじるよりは精確に伝えられると判断しました。そのポイントとなる部分だけを抜き取りますと，以下のとおりです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;弟子たちは，論敵が民会を煽っただけで，ソクラテスの方が正しいのだから，と逃亡を進めるのですが，逃亡する必要もないし，する理由もない，死ぬのもまたよいではないか，と言って毒杯をおあります。このことを解釈すると，・・・・・となる，という話です。&lt;br /&gt;自分だけが賢くて正しいのだから判決を受け入れない，というのでは，ソクラテスの知は独断になります。独断ではなく，知への愛による正しい知がある，ということは，他者の承認によるしかないでしょう。&lt;br /&gt;ソクラテスは死ぬ。その死の空白のなかに，知への愛（フィロ・ソフィア）がすっくと立つ。&lt;br /&gt;トラは死して皮を残し，ソクラテス死して哲学を残す。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以上です。Ｎさん，ありがとうございました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-8540160255801206323?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/8540160255801206323/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=8540160255801206323' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/8540160255801206323'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/8540160255801206323'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_23.html' title='「哲学のはじまり」について。ソクラテスの毒杯と西田幾多郎の『善の研究』。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-5197546125893380697</id><published>2012-02-21T17:59:00.001+09:00</published><updated>2012-02-21T21:40:35.013+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='太極拳の話。'/><title type='text'>「股関節をゆるめる」「自由自在に」（李自力老師語録）その6。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;太極拳の稽古をはじめたばかりのころ，「股関節をゆるめる」と言われ，なんのことかわからなくて困ったことがあります。その後，少しずつわかってきたのですが，じつは，いまでもあまりよくはわかっていません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なぜなら，李老師の股関節の緩み方と，わたしたちのそれとはまったく異質なものにみえるからです。その点を，李老師に尋ねてみると，「それは当然です。素人とプロの違いです。」といとも簡単に言われてしまいました。なるほどなぁ，プロとしての研鑚の蓄積と，アマの駆け出しの「股関節を緩める」とを一緒にされては困ります，というニュアンスが感じられて，それはそれで感動してしまいました。その上で，李老師は仰います。「股関節はできることなら，つねに緩めておくのです。そして，必要最小限，その瞬間だけ締めればいいのです」と仰る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そう言った直後に，わたしたちの目の前て，やってみせてくださる。しかし，なにがどうなっているのか，さっぱりわかりません。つまり，つねに緩んでいるとしか，わたしの眼にはみえません。いつ，どこで締めているのか，わたしには見えません。言ってしまえば，自由自在にいつでも股関節が緩んでいる，というように見えます。緩みっぱなしだ，と言った方が正しいようにみえます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「股関節を緩めるのは，力を出すためです。緩めなければ締めることはできません。いつも緩めておけば，いつでも締めることができます。」なるほど，ことばの上ではまことにごもっとも，と理解できます。しかし，わたしの下半身，すなわち股関節を中心とした動きは，まことにぎくしゃくとしているのです。どうみても，まったく違う動きしかできません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;仕方がないので，家に帰ってからＤＶＤで何回もくり返して凝視することに。その結果，わたしの眼にみえてきたことは，「緩めつつ締めている。そして，締めつつ緩めている」ということでした。この経験はスキーに熱中していたときに，わたしのからだに記憶されています。スキーもまた同じです。下半身を緩めつつ締める，締めつつ緩める，この微妙なバランスのとり方が，たとえば，ウェーデルンで滑るときの極意でもあります。しかし，それがそのままできるかどうかは別問題。あとは，稽古を積んで，その微妙な感覚をからだに記憶させる以外にはありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たぶん，稽古のときの意識としては，このことをしっかり念頭においておくことが大事なのだと思います。しかし，それをつづけている間に，いつのまにか忘れてしまうことも大事なのでしょう。なぜなら，「緩めつつ締める，締めつつ緩める」ができるようになれば，つぎの段階の「からだの快感」がやってくるはずです。李老師がつねづね仰る「気持ちいい」という感覚です。それまでは，黙々と稽古をし，太極拳をするからだができあがるのを待つのみ，なのでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;道は遠く険しい。でも，歩まねばならない。このことばは，わたしの高校時代の校長先生がアルバムの第一ページに墨書したことばです。なぜか，なにかの折にこのことばがわたしの脳裏に浮かんできます。わたしにとっては大事な校長先生でしたから（このことの意味はいつか，別のかたちで書いてみたいと思います）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;はやく「気持ちいい」の段階に到達したいものです。そのためには，自由自在に股関節を緩めることができるようになること，なのでしょう。あの流れる水のような李老師の表演は，自由自在に緩めることのできる股関節から生まれているということが，最近になって，少しずつわかってきたという次第です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-5197546125893380697?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/5197546125893380697/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=5197546125893380697' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5197546125893380697'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5197546125893380697'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/6.html' title='「股関節をゆるめる」「自由自在に」（李自力老師語録）その6。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-5659783422759390817</id><published>2012-02-21T16:01:00.000+09:00</published><updated>2012-02-21T16:05:07.496+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='時事ネタ'/><title type='text'>沖縄返還４０周年を迎えようというのに，米軍基地は固定化しかないのか。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;昨夜（２０日）のＮＨＫクローズアップ現代では，玄葉光一郎外務大臣を招いて，沖縄返還４０周年と米軍基地移設の問題について，国谷キャスターが鋭く切り込んだ。しかし，外務大臣は，子供だましのような理屈をならべて，ひたすら全力で取り組んでいる，このことだけをくり返し強調しただけで，中味はなにもない応答となった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;国谷キャスターは，沖縄県民は復帰４０周年を機に，米軍基地の県外移設（できれば，国外移設）を強く望んでいることは，今回の宜野湾市長選挙をとおしても，はっきりとしている，と指摘した上で，政府のこんごの取組みを多角的に問いかけていた。その中心にあった問いかけは，このままでは，結果論として，嘉手納基地固定化しかないのでは・・・という点にあった。わたし自身も，このままの膠着状態がつづけば，最終的にはそこに行きつくしかない，と考えていた。だから，外務大臣がどのように応答するか，注意して耳を傾けた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし，外務大臣は，嘉手納基地固定化はあってはならないし，絶対にそれを許してはならない，と強調するのみで，あとは，日米合意にもとづき，県内移設を認めてもらえるようこころからお願いし，ご理解をえられるよう最善の努力をするつもりだ，ということをくり返すだけの話。失望以外のなにものもない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この外務大臣の応答を聞いていて，ああ，もはや民主党政権は嘉手納基地固定化で腹をくくっている，と思った。なぜなら，外務大臣の応答に，なんの苦渋も感じられない，むしろさばさばしたものを感じたからである。この人たちは，人間のこころを持ち合わせてはいない，とも感じた。ひたすら，日米合意と閣議合意の路線に沿って，それらを実現させることだけが努力目標であって，それ以外のことは見向きもしない。そして，これだけ努力したにもかかわらず沖縄県民は理解してくれなかった，と開き直るのみ（アメリカに対しても，日本国民に対しても）。それで仕方がない，と腹をくくっている。そういうものが，応答をとおして「透けてみえて」きてしまった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アメリカが岩国基地も移設の候補に・・・・という案は，あっさりと「そのつもりはない」と野田総理も国会の予算委員会で答弁しているとおりだ。その前に，外務大臣が岩国の陳情団に応対し，そこでも「そのつもりはない」と明言している。この案について，政権与党のなかでも，真剣に協議をしたり，検討した痕跡はどこにも見受けられない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;県外移設についても，政府がやったことは，各都道府県知事にアンケート調査をしただけだ。たった，それだけで県外移設は不可能だと，さっさと結論を出した。あとは，なにもしないで，だから，沖縄県内移設しかないのだ，と押し切ろうとしている。こんな子供だましのようなゲームを平気でくり返している。（「３・１１」以後の原発に対する対応も同じ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;沖縄県を除くすべての都道府県民が，みんな，知らぬ顔の勘兵衛さんを決め込んでいるだけだ。それを，政治家が代弁しているだけだ。これが「すべて」だ，とわたしは考えている。もっと，日本国民みんなが真剣に考えなくてはならない問題として，仕立て上げようという政治家はひとりもいない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;嘘でもいいから，東京湾を埋め立てて，嘉手納基地を移設するとしたら，どういう問題があるのか，と東京都知事，千葉県知事，神奈川県知事が問題提起してみてはどうか。全地域住民に考えてみてもらったらどうか。わが身に火の粉が降りかからないと，だれも，本気では考えない。大阪府知事だったときの橋下君は，さきのアンケート調査のときに，「検討する準備はある」と応答している。このように応答したのは大阪府だけだった。にもかかわらず，「検討してみてください」というお願いを政府がしたとは聞いていない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最初から，沖縄に押しつけておけばいい，という暗黙の了解があるかのごとくだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし，ことしの５月１５日，復帰４０周年を迎える沖縄は，そんなに単純には済みそうにない。このあとに残された時間は，３カ月弱。この間にどのようなことが起こるのか，それ次第だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしもそれなりの覚悟が必要だと，いまから，気を引き締めている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-5659783422759390817?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/5659783422759390817/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=5659783422759390817' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5659783422759390817'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5659783422759390817'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_21.html' title='沖縄返還４０周年を迎えようというのに，米軍基地は固定化しかないのか。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-958614169591964878</id><published>2012-02-20T21:47:00.000+09:00</published><updated>2012-02-21T13:30:08.855+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='季節の話題'/><title type='text'>もうすぐ春ですねぇ。ちょっと〇〇しませんか。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;今日（２０日）で三日間，東京地方は快晴です。ということは，日本海側は大雪ではないかと心配です。でも，こちらは日毎に暖かくなっているように感じます。数日前までの寒さが嘘のように，今日はおだやかな小春日和でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今日はいつもよりも少しだけ早めに家をでて，鷺沼の事務所に向かいました。溝の口から電車でたった４分（各駅停車で７分），西へ向かって移動するだけなのですが，鷺沼の駅を降りて仰ぐ空は，溝の口のそれよりも「蒼い」のです。気温も少しだけ低い。でも，その分，空気はきれいで，美味しい。鷺沼の駅を降りて歩きはじめると，なんとなく深呼吸をしてしまいます。なぜなら，景色がいいから。東京都心が一望のもとに見えますし，おまけに「スカイツリー」がどの建物よりも高く聳えているのか見えます。それがなんとも気分をよくしてくれます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうして，いつもの植木屋さんのところに差しかかって，そこに植えてある樹木を一つずつ観察してみて，この数日の間に，またまた，木の芽が大きくなっていることを発見。早速，カメラを出して撮影。その一部を，ここに掲載しておきましょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;一枚は，こぶし。近くに寄って，しっかり観察してみました。もう，こんなに大きくなっているとは・・・，驚くばかりです。思わず，三好達治の詩を思い浮かべていました。&lt;br /&gt;遠山なみに　日は落ちて&lt;br /&gt;こぶしの花も　咲き出でぬ&lt;br /&gt;雲は流れて　帰れども　&lt;br /&gt;帰る方（へ）もなき　わが憂い&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まもなく７４歳になろうというこのわたしは，まだまだやり残したことばかり多く，これらをなんとか裁いて，それらをやり終えたとしたら，いったい，このわたしはどこに帰っていけばいいのだろうか。と，そんなことを思い浮かべながら。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それでも「こぶしの花」は間違いなく咲くべく，いまから，着実に準備をしています。すごいなぁ，と感動してしまいます。その点，人間は駄目だなぁ，と。妙な欲望ばかりが大きくふくらんでしまって，みずからの行くべき道もわからないまま，憂えている，そんなわが身を深くふかく反省しています。もっともっと，なるがままに，「無為自然」（むいじねん）にわが身をゆだねるべきだ，とわが理性は言うものの，自然の法則に近いはずの「からだ」がなかなか言うことを聞いてはくれません。困ったものです。情けないというべきか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この「こぶし」の花芽を存分に眺めて堪能して，帰ろうと思ってふり返ったら，目の前にさくらの花の芽がこんなにもふくらんでいて，これまた，びっくりです。全体を撮ろうか，部分を撮ろうか，と迷った挙句この一枚にしました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これらの写真を撮って歩きはじめたら，いつのまにか「もうすぐは～る（春）ですねぇ」というピンク・レディの歌が頭の中に流れてきました。そして，いつのまにか口ずさんでいました。が，何回も何回も繰り返し口ずさんでいるうちに，「ちょいと，〇〇してみませんか」のところで替え歌風にアレンジすることを楽しんでいました。いくとおりにもそのアレンジができるということを知り，すっかり，嬉しくなって，つぎつぎに自分の願望をそこに当てはめながら歩いていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;どんなことばを当てはめたかって？　それは言えません。とても恥ずかしくて言えません。そういう「禁句」をつぎからつぎへと当てはめながら，たったひとりの世界を楽しみながら歩いていました。これなら，だれにも迷惑をかけるわけでもなし，それでいて，とんでもなく卑猥なことばを頭の中で探索する遊び堪能できるのですから・・・・。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;というわけで，写真を２枚，掲載しておきます。&lt;br /&gt;「もうすくは～るですねぇ」&lt;br /&gt;「ちょっと，〇〇してみませんか」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"&gt;&lt;a href="http://1.bp.blogspot.com/-WMiM-ndJD9g/T0JAMVKFtgI/AAAAAAAAADw/aDHsWWzWTxY/s1600/IMG_0471%5B1%5D" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"&gt;&lt;img border="0" height="320" src="http://1.bp.blogspot.com/-WMiM-ndJD9g/T0JAMVKFtgI/AAAAAAAAADw/aDHsWWzWTxY/s320/IMG_0471%5B1%5D" width="240" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"&gt;&lt;a href="http://1.bp.blogspot.com/-6TeL79x6mbI/T0JAdhNUuSI/AAAAAAAAAD4/UaN-awAC420/s1600/IMG_0473%5B1%5D" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"&gt;&lt;img border="0" height="240" src="http://1.bp.blogspot.com/-6TeL79x6mbI/T0JAdhNUuSI/AAAAAAAAAD4/UaN-awAC420/s320/IMG_0473%5B1%5D" width="320" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;おやおや顔が赤くなってきました。ので，ここまでで終わり。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;※お詫びと訂正・・・・上の文中に「ピンクレディ」と書きましたが，これは「キャンデーズ」の間違いだという指摘を，わたしが親しくしている比較的若い友人（複数）からいただきました。もはや，わたしの頭の中では，「ピンクレディ」と「キャンディーズ」の区別はつきません。同じような可愛いらしい女の子たちだった，という記憶だけです。残念ながら。ご指摘，ありがとうございました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-958614169591964878?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/958614169591964878/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=958614169591964878' title='1 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/958614169591964878'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/958614169591964878'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_7020.html' title='もうすぐ春ですねぇ。ちょっと〇〇しませんか。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/-WMiM-ndJD9g/T0JAMVKFtgI/AAAAAAAAADw/aDHsWWzWTxY/s72-c/IMG_0471%5B1%5D' height='72' width='72'/><thr:total>1</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-5870472875555511181</id><published>2012-02-20T16:27:00.001+09:00</published><updated>2012-02-20T16:27:55.317+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='ブック・レヴュー'/><title type='text'>芥川賞作品『道化師の蝶』（円城塔）を読む。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;昨日につづいて，もう一つの芥川賞作品，円城塔の『道化師の蝶』を読みました。選考委員の「選評」を読んで，もっとも気になっていたのがこの作品でした。選考委員の間で大きく議論が分かれ，激論が闘わされたようです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最初にわたしの感想を書いておけば，とても面白かった。そして，もう一度読んでみたいと思いました。いやいや，一度ではなく，これから何回も読んでみようかな，と思っています。なぜなら，読むたびごとに新たな発見がありそうな，そういう予感がするからです。それだけではありません。この作品の奥行きの深さは，いまのわたしの理解のかぎりでも「無限」です。しかも，さまざまな隠喩が隠されていて，読み方によっては恐ろしい作品にもなっています。そのうちの一つを紹介しておけば，いまの日本人が立たされている情況（「３・１１」以後を生きるわたしたち）にも，そのまま当てはまってしまう展開にもなっています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とりわけ，後半に入ってくるとにわかに隠喩が伝わるようになり，鉛筆を片手に，線を引き，書き込みをしながら読みました。こんな小説は久しぶりです。ですから，また，しばらく時間をおいて読むことになるだろう，とこれはもはや間違いないでしょう。それほどまでに魅力的な作品だとわたしは受け止めました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;受賞者インタヴューでは，「小説製造機械になるのが夢です」と作者は語っています。その意味は，おそらくは，伝統的な近代小説の枠組みを取り払って，わたしのことばで言えば，後近代の小説を徹底的に展開してみたい，ということのようです。その意味でも，わたしとはフィーリング的には合うところが多くあります。しかし，この人の小説は「難解」です。わかろうとすることを拒否しているようにも受け取れます。逆にいえば，わかりやすく書くこと，そのこと自体が「近代」の虚構であった，と作者は主張したがっているようにもみえます。つまり，近代の論理的整合性の枠組みこそが，わたしたちの生き方そのものを歪曲してしまい，挙げ句の果ては，核による汚染社会に到達してしまいました。しかも，その道筋は正しいと信じて。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まずは，あまり先入観なしに，円城塔さんの『道化師の蝶』を，真っ白なこころで読んでみてください。そして，自由自在に，さまざまなことを連想してみてください。そこで浮かび上がってくる世界が，その人の読みなのですから。そこには「正しい」読み方も「間違った」読み方もありません。作品そのものが発している「なにか」のどこに反応するかは読み手の自由です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのことを前提にした上で，イシハラ委員の感想の一部を紹介しておきます。&lt;br /&gt;「どんなつもりでか，再度の投票でも過半数に至らなかった『道化師の蝶』なる作品は，最後は半ば強引に当選作とされた観が否めないが，こうした言葉の綾とりみたいなできの悪いゲームに突き合わされる読者は気の毒というよりない。こんな一人よがりの作品がどれほどの読者に小説なる読みものとしてまかり通るかははなばだ疑わしい。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それに引き換え，川上弘美委員の「選評」はみごとです。この評を読むだけでも，ひとつの作品を読むような，なんともさわやかな気分にさせてくれます。そして，いかにも川上弘美だなぁ，と感心もしてしまいます。部分だけでも紹介してみたいと思って探してみましたが，やはり，無理でした。全体でひとつの作品の体裁をなしているのですから。ぜひ，書店で立ち読みでもしてみてください。ここだけで結構です。イシハラ君が，いかに「消え去るのみ」の存在であるかは，ここでも明らかです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;選考委員の「選評」を読んでみると，どうやら川上弘美，山田詠美，小川洋子の三人が『道化師の蝶』を推したようですが，なかなか同意がえられず，最後の最後になって，黒井千次，島田雅彦，宮本輝，の三人が同意したようです。もちろん，実際はどうであったかはわかりません。以上は，「選評」を読んでのわたしの印象です。イシハラ君だけは，最後まで反対だったのでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いずれにしても，円城塔さんの作品は，未来に向けて限りなき可能性を秘めた素晴らしい作品だ，というのがわたしの感想。この作品を読みながら，わたしの脳裏には，ソシュール，デリダ，ラカン，バタイユ，という人たちの思想が，何回も駆けめぐっていました。そういう思考回路のない人には，たんなる「難解」な小説でしかないのだろうなぁ，と思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まずは，ご一読の上，感想などお聞かせくだされば幸いです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-5870472875555511181?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/5870472875555511181/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=5870472875555511181' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5870472875555511181'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5870472875555511181'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_20.html' title='芥川賞作品『道化師の蝶』（円城塔）を読む。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-5312108209064845268</id><published>2012-02-19T23:19:00.002+09:00</published><updated>2012-02-19T23:19:36.259+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='ブック・レヴュー'/><title type='text'>芥川賞作品『共喰い』（田中慎弥）を読む。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;芥川賞作品に，だれが，どのような作品で選ばれるのか，じつは毎回密かに楽しみにしている。だから，『文藝春秋』の芥川賞発表号は欠かさず購入している。それ以外には買ったことはない。ただし，書店で，毎月，手にとってめくってはいる。そして，どんな特集を組み，どんな話題を取り上げているかは，やはり知っておきたいことなので（わたしのとっては），かなりまじめにページをめくって眺めてはいる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;『文藝春秋』３月特別号が，芥川賞発表号になっているので，この号だけは購入した。しかし，そのときは期限のきていた原稿があったので，しばらく，机の横に積んである本の中にまぎれていた。今日は，ちょっとだけわがままを言わせてもらって（ほんとうは，さきに片づけなくてはならない要件があったのだが），芥川賞作品を読むことにした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今回は，田中真弥さんが，受賞のスピーチで，かなり意図的に審査員の一人であるイシハラシンタロウさんを，ジョークとしてコケにした。これが大受けに受けて，話題を独り占めにしてしまった。こんなことが受賞のスピーチで言えるというのはただものではない，とわたしは直観して，その作品がどんなものなのか楽しみにしていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結論からいえば，感動と失望とが相半ばした，というのがわたしのもっとも正直な感想である。その理由は，情況描写（登場人物以外の時空間の描写）は，こんなに美しいことばを羅列して，こんなに懐の深い描写ができる作家として感動したのが一つ，その反面，登場人物の人間そのものの読みの深さという点では，いささか甘い，単純にすぎる，もっと言ってしまえば，人間というものがわかっていない，という不満がわたしには残った。そのために，感動と失望とが交錯する，不思議な作品，というのがわたしの正直な感想である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「共喰い」という作品のテーマからして，まことに怪しげなものではあるが，内容を読んでみると，まさに「共喰い」以外のなにものでもない。作品の軸になっいるのは，父親と息子が，似た者同士で，セックスをするときに暴力をふるうことによって快感をえる，そういう遺伝子を持ち合わせていることに関する親子の葛藤である。もっと言ってしまえば，息子は父親の相手と交接し，父親は息子の彼女を犯す，だから「共喰い」だというのだ。しかし，そのことによって最後にはとんでもない破局を迎えてしまう。この後半の盛り上がりの描写は，なるほど，芥川賞をもらう作家ならでは・・・という印象をもつ。迫力満点である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしの不満は，この父親と息子をめぐる女性たち，つまり，息子の実の母，そして，義母，息子の彼女，そして，ひたすら男の来訪を待つ女性，この人たちをとおして描かれるべき「人間とはなにか」という根源的な問いと，その描写がほとんど欠落していることに対する失望にある。人間認識についての人生経験がいちじるしく欠落しているのではないか，とこれはわたしの読後の感想である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それから，慌てて，受賞者インタヴューを読む。そして，芥川賞選評を読む。うーん，と唸ってしまった。ああ，この人は生身の人間との触れ合い，葛藤，ぶつかり合い，悩み苦しみ，というものがほとんどない。すべては，ほんのわずかな実体験と，小説世界を読み込んでえた想像の世界，それだけだ，と。こういう人が，これからどのような作品を書くのか，わたしはあまり期待しない。小さな世界の極限状態を想像力に頼って書くしかない，と思うからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;などと，いささか偉そうなことを書いてしまって，ちょっとまずいなぁ，と反省。一瞬，取り消そうかと思ったが，自分が正直に思ったことを書いているのだから，これでいいのだと自分に言い聞かせる。もともと，単なる素人の読解なのだから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今回の芥川賞の発表を機に，二人の選考委員が辞めるという。いずれもニュースとなって流れているとおり。一人は，石原慎太郎，もう一人は黒井千次。黒井千次は，今回で２５年間，５０回を機に辞するという。これは一つの見識だろう。しかし，石原慎太郎は，もう，数年前から，芥川賞候補作品にみるべきものはなにもない，とみずからの感性の衰えを棚に上げて，文句ばかり言い続けてきた。だから，辞めて当然，というのがわたしの感想。もはや，若い人たちの書く作品を評価するだけの力はないのだから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いつものことながら，選考委員による「選評」は，じつに面白い。みんな勝手なことを言って，最終的には自己主張のみ。なぜか自己弁護が多すぎる。そんな中で，ただひとり，山田詠美だけが，候補作品を一つずつ取り上げて，自己の感想をきちんと書いている。しかも，強烈に。というか，ほんとうに感じたことをそのままに。これが「選評」というものなのだろう，とわたしは思う。あとの人は誤魔化した。あるいは，逃げた。お茶を濁した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その典型は，今回から新しく選考委員に加わった島田雅彦。委員を引き受けるときには，「おれは芥川賞を受賞していないから・・・」とかなんとかいいながら，いそいそと引き受けた。そして，今回の，初の「選評」。その見出しが「人を虚仮にしたっていいじゃないか，小説だもの」。ちょっと面白いと思って読みはじめたら，いつのまにか上から目線の，ご高説を披瀝されている。ああ，やっぱり逃げたな，と思った。この人は格好をつけすぎ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その点，山田詠美は偉い。５人の候補作品を一つずつ取り上げて，その核心に触れ，いいところはいい，でも，駄目なところは駄目，とはっきり言っている。これが言えるというところに，じつは，山田詠美の作家としての凄さがある。わたしなどは，山田詠美の選評を読んで，候補作品５点，全部読んでみたいと思ったほどだ。いまの選考委員の中では，ただひとり，抜け出ているとわたしは思う。さらには，「島田君，そんなことを言ってちゃ駄目じゃん」という山田詠美の声までも聞こえてくる。この二人は特別の仲良しだから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;『太陽の季節』で鮮烈な作家デヴューを果たした石原慎太郎が，「老兵は消えていくのみ。さらば芥川賞」と書いて，この舞台から消えていく。時代は変わったというべきか，はたまた，生理的な老化現象はいかんともしがたいというべきか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もうひとりの芥川賞作家となった円城　塔の作品「道化師の蝶』は，とてつもなく複雑な作品らしい。いつか，機会をみつけて読んでみたい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-5312108209064845268?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/5312108209064845268/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=5312108209064845268' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5312108209064845268'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5312108209064845268'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_19.html' title='芥川賞作品『共喰い』（田中慎弥）を読む。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-3496037724995583126</id><published>2012-02-18T21:22:00.002+09:00</published><updated>2012-02-19T10:42:57.171+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='ブック・レヴュー'/><title type='text'>「スポーツが問われている」（『ｍｙｂ』みやびブックレット，Ｎｏ．３９）がとどく。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;以前から何回も，この『ｍｙｂ』（みやびブックレット）のことは紹介しているのて，できるだけ重複は避けたい。でも，それを承知で，少しだけ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この『ｍｙｂ』が「スポーツが問われている」という特集を組んだ。その冊子を，いま，直に編集長さんがわたしの事務所に届けてくださった。ありがたいことである。早速，匂いなど嗅ぎながら，ぺらぺらとめくって拝見させてもらった。そのついでに，一献傾けることになって，いまのいままで話が盛り上がっていた。いい人だ。一緒に酒が飲めるということだけで，無条件に「いい人だ」になる。その上，波長が合えばなおのこと。楽しい話がたくさんできた。だから，もっとモットいい人だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この編集長の名前は伊藤雅昭さん。かつて，三省堂の『ぶっくれっと』を命懸けで編集していた人だ。三省堂に入社する前の早稲田大学の時代から，すでに，なにやら不思議な冊子の編集長を務めていたらしい。精確なことは，みんな忘れてしまった。でも，最初から編集者になるという夢を追いつづけ，それを達成して，退職後も，なお，その夢の延長線を「楽しんで」いらっしゃる。やはり，文句なくいい人だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その『ｍｙｂ』が「スポーツが問われている」を特集してくださった。わたしは『スポーツの後近代』のときのご縁があって（この本の編集を担当してくださったのが伊藤さん），今回の特集にも拙文を書かせていただいた。しかし，この特集の筆者の顔ぶれをみて驚いてしまう。なんと，西谷修，今福龍太，森田浩之，松浪健四郎，そこにわたしが入っているのだ。なんともありえない顔ぶれのなかにわたしが入っている。じつは，この原稿依頼があったときから，この執筆者の名前は知っていた。しかし，この人たちが全部，そろって原稿を書いてくださるとは信じてはいなかった。誰かがお断りするだろうし，なんらかの理由で書けないという事態が起こるだろうと想定していたからだ。しかし，この人たちが全員そろって素晴らしい原稿を寄せていらっしゃる。びっくり仰天。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これも編集長伊藤雅昭さんの人徳のいたすところ。伊藤さんがどのような口説き方をされたかは，わたしの知るよしもない。しかし，みなさんがそろって原稿を書かれたということで，すべては明白だ。説明の余地もない。みなさんが「よし，書こう」と思われた，ただ，それだけ。それですべてだ。これがなによりも大事なこと。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以下に，それぞれの筆者がどういうタイトルで書かれたか紹介しておこう。&lt;br /&gt;西谷　修：スペクタクルという欲望のアリーナ&lt;br /&gt;今福龍太：「イカレタ接触」への礼賛&lt;br /&gt;森田浩之：本当に怖いスポーツニュース&lt;br /&gt;松浪健四郎：新法と国際協力──スポーツは人類共通の文化&lt;br /&gt;稲垣正浩：「３・１１」以後のスポーツを考える&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いま，この時期に，この書き手を並べて「スポーツが問われている」という特集ができる辣腕の編集者はそんなにはいない。いな，まったくいないだろう，とわたしは思う。このメンバーは素晴らしい。でも，気がついてみれば，この人たちは，じつは，みんなわたしの親しい人たちばかり。これから，一人ずつ，声をかけてお会いしたいと思っているほど。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いまさら，断るまでもなく，間違いなく，どの人の論考も必読のものばかり。ぜひ，講読して読んでみてほしい。その他の常連の執筆者の人たちもまた素晴らしい人たちばかり。この人たちの名前をみるだけで伊藤雅昭という編集者がいかなる人物であるかは明白。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この冊子が，なんと３２０円＋税。詳しい情報は以下のところに。&lt;br /&gt;面倒な人は，わたしにご連絡ください。とりもちをします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;E-mail:miyabi@themis.ocn.ne.jp&lt;br /&gt;URL:http://www4.ocn.ne.jp/-miyabisp/&lt;br /&gt;電話：０４４－８５５－５７２３&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;どうぞ，よろしくお願いいたします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-3496037724995583126?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/3496037724995583126/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=3496037724995583126' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/3496037724995583126'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/3496037724995583126'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_2415.html' title='「スポーツが問われている」（『ｍｙｂ』みやびブックレット，Ｎｏ．３９）がとどく。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-3779235295639022602</id><published>2012-02-18T16:41:00.000+09:00</published><updated>2012-02-18T16:41:20.660+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='考現学，'/><title type='text'>フード・コートが満員。コンビニ食が美味くて安い。食文化に異変か？</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;最近，気になっていることがある。「食べる」という文化に異変が起きているのではないか，と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つまり，「食べる」基本は家庭であって，外食はとくべつの事情があるとき，というのがわたしの世代での常識のはず。勤め人もみんな弁当を持参した。高校生も弁当だった。大学に入って，寮生活をはじめたときから，昼食は大学の学生食堂を利用するようになった。しかも，外食券を持って行くと，少しだけ安く食べられた。（外食券ということばがすでに死語かも）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それから５５年。この間の変化のことは省略。&lt;br /&gt;そして，一足飛びに，いま，現在に。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;土日のフード・コートは超満員。ほとんど時間に関係なし。多くは家族連れ。ひとり，というのもあり。老いも若きも関係なし。駅前のデパートの１階に，フード・コートがあって，わたしは出勤（？）の往復のときにここを通り抜ける。いろいろの面白い発見があるから。すなわち，わたしの「考現学」。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;出勤時間はいつもバラバラ。午前１０時３０分から午後１時くらいの間。帰宅時間の方は安定していて，午後７時３０分前後にここを通る。土日（わたしは土日も出勤日）はとくに多い。ウィークデーにも，少しずつ多くなっているように思う。この点は，もう少し追跡調査が必要だろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;不思議に思って，最近は，このデパートの８階にレストラン街があるので，そちらにも足を向けてみる。午前１２時前後には，ほとんどの店の入り口に行列ができている。みんなおとなしく並んで待っている。こんなことは，少なくとも２，３年前まではなかった。フード・コートが満員でも，上のレストラン街に行けば，よほどのことがないかぎり並ぶということはなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうか，そういう時代になったのか，とむりやり自分を納得させていた。&lt;br /&gt;ところが，である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あるコンビニ（Ｓチェーン）の弁当系の食べ物が，安くて，美味いと評判なので，最近，意識的に試している。なるほど，味がいい。よほど味覚のしっかりしたシェフが中心になって，新しいメニューを開発しているらしい。つぎつぎにヒット商品が登場する。昼食なら，５００円も出せば，贅沢な部類だ。安くあげようと思えば２５０円からある。しかも，美味いのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;鷺沼のＳ店は，夜の６時すぎになると勤め人でいっぱいになる。電車が到着するたびに，店は満員になる。そして，買っているのは，夕食用の食べ物。比較的若い世代が多い。男女の比率は同じくらい。ときには，かなりの高齢者も混じる。焼き魚や野菜炒めなども，小分けにして売っている。それらが飛ぶように売れていく。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たぶん，いま，コンビニは過剰な競争の時代に入っているのだろう。ちょっと評判がいいと客の流れはいっぺんに変わる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;同じ鷺沼の駅前にあったＴストアが，名前を変えて，内装を整え，店も入れ換えて，並ぶ商品が一変した。とくに，食品売り場は，大きく変化した。その特色の第一は，料理済みのパック商品の売り場が広がったことだ。そのパック商品も，一人用から２，３人用まで，じつに懇切丁寧に準備されている。しかも，安いのだ。ここも「考現学」を兼ねて，最近は，時間帯を変えてフィールドワークをしている。結構，売れている。もちろん，わたしも買う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ランチ・タイムの定食屋さんは相変わらずの態勢。一食１０００円前後。夕食になると，もう少し高くつく。それを考えると，コンビニやスーパーで，出来合いのパック食品を買ってきて，チンすればすぐに食べられる。しかも，格安だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここまで書いてきたら，終わりそうもない。ここで，一旦，終わりにして，つづきを書くことにする。すでに，お気づきのように，もっと，大きな変化が起きているからだ。どんな現象に注目しているのか，お楽しみ。ではまた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-3779235295639022602?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/3779235295639022602/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=3779235295639022602' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/3779235295639022602'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/3779235295639022602'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_9552.html' title='フード・コートが満員。コンビニ食が美味くて安い。食文化に異変か？'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-4797313859436039103</id><published>2012-02-18T14:06:00.000+09:00</published><updated>2012-02-18T15:14:23.501+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='ブック・レヴュー'/><title type='text'>『核のある世界』未来を切り開くために（西谷修・中山智香子編）がとどく。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;昨日（１７日）の夜，寒さにふるえながらいつものように事務所から家にもどったら，西谷修さんから科学研究費による報告書がとどいていた。題して，ドキュメント２００８／２０１１『核のある世界』未来を切り開くために（西谷修／中山智香子編）。協力：広河隆一，萱野稔人，土佐弘之，七沢潔。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この報告書は，全体が三部構成になっている。&lt;br /&gt;第一部は，シンポジウム「核と未来」（２０１１年７月１６日，於・東京外国語大学研究講義棟２２６教室）の載録。ゲスト：広河隆一，萱野稔人，討論者：土佐弘之，西谷修，中山智香子。&lt;br /&gt;第二部は，座談会「アフター・フクシマ」（２０１１年８月１１日，於・『ＤＡＹＳ　ＪＡＰＡＮ』事務所）。座談者：広河隆一，西谷修，中山智香子。&lt;br /&gt;第三部は，シンポジウム「核と現代」（抄録）（２００８年７月１２日，於・東京外国語大学事務棟中会議室）。抄録執筆者：七沢潔，土佐弘之。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第一部と第二部は，東京外国語大学クローバル・スタディーズ・ラボラトリー（ＧＳＬ）が，科学研究費補助研究（Ｂ）「生命統治時代の＜オイコス＞再考とポスト・グローバル世界像の研究」（代表：西谷修）による研究の一環として，２０１１年３月１１日の東日本大震災とそれに始まる東京電力福島第一原子力発電所の事故を受け，７月１６日（土）に開催したシンポジウム「核と未来」と，８月１１日に開催した座談会「アフター・フクシマ」を載録したものである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第三部は，前の科学研究費にもとづくシンポジウム「核と現代」のうち，第一部・第二部に連動する内容で，しかもきわめて重要と思われる七沢潔さんの報告「被ばく・その隠蔽と忘却～あるいはメディアの不能について」と土佐弘之さんの報告「リスク／ハザードの配分とポストコロニアリズム」を収録したものである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この報告書の趣旨は，西谷修さんの「はしがき」によれば，以下のとおりである。&lt;br /&gt;本研究は，グローバル化した世界で，国家横断的な政治的統治が個々の人間の生命レヴェルにまで及ぶ今日，人間を生かし社会を機能させるとみなされる普遍的活動としての「経済（オイコーノミア）」を，上からの管理と調整の観点ではなく下からの具体的生存の場面からもう一度問い直すこと，また，その問い直しを通じて既成のグローバル世界秩序を組み替える，ありうべき世界像を模索するということを課題にしている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さらに，つぎのようにつづく。&lt;br /&gt;この研究は，とりわけ２００８年の世界金融危機といわゆる「テロとの戦争」の破綻とをきっかけとして組まれたものであり，その意味では東日本大震災や福島第一原発事故の以前から，現代世界にとっての喫緊の課題になっていた。そこに，二つの（いや一つの）出来事はその緊急性をさらに高めるものとして出来したのである。３月１１日以来多くの人びとは，日本は（あるいは，世界は）もはやこれまでと同じではありえないと感じてきた。その具体的な内容については別稿に譲るが（西谷修「近代産業文明の最前線」『世界』２０１１年５月号，「”自由”のもたらす破壊と荒廃，ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』に寄せて」『世界』２０１１年１０月号などを参照されたい），「千年に一度」と言われたこの大災害があらわにしたのは，近代二百年の技術・産業・経済システムの行き詰まりと破綻であり，その延命を支えてきた核エネルギー利用の危うさだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このあとにも西谷さんによる「はしがき」には重要なことが書かれているが，長くなるので，このあたりで割愛。あとは，この報告書を手にとって確認してみてください。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしのような人間でも，もはや，「３・１１」以前の社会にもどることはできない，と痛切に考えています。また，もどってはいけない，とも考えています。「３・１１」以前の，どこが，どのように間違っていたのか，そこをきちんと検証した上で，「３・１１」以後の社会のあり方を模索していくことが，いま，わたしたちに課された喫緊の課題である，と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もちろん，わたしの場合には，それをスポーツ史研究やスポーツ文化論という領域で考え，あらたな提案をしていこうというわけです。その一つが，最近，書いたばかりの「スポーツ学」（Ｓｐｏｒｔｏｌｏｇｙ）の提唱です。その内容については，これから追々，書き加えていきたいと考えています。そのためにも，この西谷さんが送ってくださった『核のある世界』未来を切り開くために，は必読の書というわけです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;また，いつか，この本を読んで，「ＩＳＣ・２１」の月例研究会などでみなさんと一緒に議論をしたいと思っています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今日のニュースでは，またぞろ経団連のお偉方たちが民主党政権に圧力をかけて，原発再稼働に向けて舵を切ろうとしています。その一方では，福島原発の第4発電所の直下で大地震が発生する確率がきわめて高いことを実証する論文が国際学会誌に掲載され，強い警告を発している，といいます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;時々刻々と，信じられないことばかりが起きています。ここは，なにがなんでも，一度，原発を止めて，原発だけではなく，わたしたち自身の頭も冷やして，つぎなる方法を模索していくしかない，とわたしは考えています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なお，この報告書は，市販はされていません。もし，興味・関心のある方は，直接，東京外国語大学に問い合わせるなり，わたしのところに連絡してください。とりもちます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-4797313859436039103?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/4797313859436039103/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=4797313859436039103' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/4797313859436039103'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/4797313859436039103'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_18.html' title='『核のある世界』未来を切り開くために（西谷修・中山智香子編）がとどく。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-4497935736987334800</id><published>2012-02-16T14:36:00.000+09:00</published><updated>2012-02-16T17:01:13.241+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='「３・１１」以後に向けて。'/><title type='text'>「３・１１」は後近代のはじまり。いまこそ，新しい学としての「スポーツ学（Ｓｐｏｒｔｏｌｏｇｙ）」を立ち上げよう。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;「３・１１」を通過したいま，わたしたちは，それ以前とはまったく異なる社会を生きることを余儀なくされている。しかも，その社会は人類がはじめて経験する未知のものだ。いま，わたしたちが生きているこの社会は，眼にみえない放射性物質なるものに日々怯えながら，いかにして「折り合い」をつけ，生き延びていけばいいのか，その方途すら見出せないままの暗中模索の社会なのだ。&lt;br /&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;それが日本という国で起きたのだ。ヒロシマ・ナガサキを経験した被爆国である日本が，一転して，こんどは世界を放射性物質で汚染する国となったのだ。しかも，原子力に関する科学技術という点では世界のトップレベルにあるとされた日本が・・・。その幻想はもろくも崩れさり，放射性物質による反撃を受け，それに対応する決め手もないまま，浮遊するという体たらくである。これから，５万年とも，１０万年ともいわれる気の遠くなるような長期間にわたって（これは天文学的な時間だ），放射性物質との「折り合い」のつけ方が求められることになってしまった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;世界はいま，日本を，放射性物質汚染実験国家として，息をひそめて注視している。にもかかわらず，わたしたちはいま，なにも手出しもできないまま，「３・１１」以前の日常性にもどろうとしている。それが，さも，復興への道であるかのように。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;それは違うだろう。もはや，どう逆立ちしたところで「３・１１」以前の社会にもどることはできないのだ。いまも拡散しつつある放射性物質を完全にコントロールできるのであれば，ともかくも，まったく手も足も出せない現状にあっては（一説によれば，放射性物質を制御することは永久に不可能だ，とも聞く），ただ，ひたすら耐えるだけだ。となれば，もう，これ以上の放射性物質を拡散させない方途を見出すことに全力を挙げるしかないではないか。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;こういう社会は，ヨーロッパ近代が求めたような，つまり，人間の理性に絶大なる信をおき，自由競争による予定調和をめざした社会とは，もはや，まったく異質なものだ。つまり，近代論理の破綻だ。だとしたら，この近代論理を超克するための新しい論理を構築する方向へと舵を切る必要がある。その中核にある概念のひとつは「自由競争原理」だ。わけても「過剰に」機能しはじめた「競争原理」だ。もっと端的に言ってしまえば，世界経済を支配している「競争原理」だ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;経済の国際競争に乗り遅れてはならない，というお題目に怯えながら，わたしたちは，いつのまにか「カネ」の亡者になってしまった。原発推進もまた，その延長線上にあった。こちらには，「科学」とうものに対する絶大な信があった。「科学信仰」と呼んでもいいほどに，わたしたちは「科学的に正しい」ということばに酔った。しかし，その「科学」も大自然の災害には及ぶべくもなく，フクシマの原発事故を引き起こしてしまった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;その恐るべき現実を目の当たりにして，茫然自失，それがこんにちのわたしたちのありのままの姿だ。なんとも情けないことではあるが。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;このように現状を認識するかぎりにおいて，わたしは，以前から提案してきた理論仮説としての「後近代」という概念が，いよいよ実態をもつにいたった，と考えている。つまり，「３・１１」以後は，明らかに「近代」という時代を通過して，「後近代」という時代に突入したのだ，と。つまり，近代の論理が破綻をきたし，それに代わるべき新たな論理を構築し，そちらに向って舵を切る以外に「復興」への道はない，と考えている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;かつて，わたしは『スポーツの後近代』（三省堂出版）という著書をとおして，スポーツ史という視座に立つ「スポーツの後近代」というものを考え，問題を提起したことがある。しかし，それはあくまでも理論仮説としての「後近代」であった。しかし，「３・１１」を通過したいま，実態としての「後近代」がはじまった，と考えている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;スポーツの近代は，あらためて指摘するまでもなく，「競争原理」にもどづくスポーツ文化の統廃合をくり返した時代であった。その結果，「優勝劣敗主義」を生み，「勝利至上主義」を導き出し，ついには「スポーツ科学」信仰にまで到達した。その結果，近代スポーツ競技は「ドーピング」問題という病理現象をもたらすこととなった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうした歩みは資本主義経済と表裏をなしていた，とわたしは考えている。詳しいことは割愛するが，たとえば，フリードマンの新自由主義にもとづく経済革命（市場原理，など）は，まさにその頂点に立つものと考えてよいだろう（『ショック・ドクトリン』参照）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;近代スポーツ競技の世界でおきているさまざまな，摩訶不思議な現実を目の当たりにして，わたしは『スポーツ科学からスポーツ学へ』（藤井英嘉氏と共著，叢文社，２００６年）という著作を世に問うた。その主眼は，「スポーツ科学」という隘路から抜け出し，それに取って代わるべき新たな学としての「スポーツ学」を提唱することにあった。しかし，時代がまだ早すぎたというべきか，いまもなお，ないがしろにされたままである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いま，「３・１１」を通過して，「後近代」という時代の幕が切って落とされた，というわたしの時代認識に立てば，いま，まさに，「スポーツ科学」万能の時代を脱して，生身の人間にとって，あるいは，「いま」という時代を生きる人間にとって「スポーツとはなにか」と問う学，すなわち，「スポーツ学」（Ｓｐｏｒｔｏｌｏｇｙ）を立ち上げるべきときだ，とわたしは考える。そして，声を大にして，「スポーツ学」を提唱したい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;では，「スポーツ学」（Ｓｐｏｒｔｏｌｏｇｙ）とはなにか。この問いについての応答は，稿をあらためて，書いてみたいと思う。とりあえず，今回はここまで。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-4497935736987334800?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/4497935736987334800/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=4497935736987334800' title='1 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/4497935736987334800'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/4497935736987334800'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_16.html' title='「３・１１」は後近代のはじまり。いまこそ，新しい学としての「スポーツ学（Ｓｐｏｒｔｏｌｏｇｙ）」を立ち上げよう。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>1</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-4433244792237039976</id><published>2012-02-14T16:55:00.000+09:00</published><updated>2012-02-14T16:55:24.342+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='「３・１１」以後に向けて。'/><title type='text'>福島第一原発２号機の温度計が上限の４００度を超えて振り切れたという。大丈夫なのか。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;なにかとてつもないことが起きているのではないか，と不安が広がる。その不安を打ち消すだけの説得力のある説明がどこからも聞かれない。東電はもとより，原子力安全保安院からも，そして政府からも，なにもない。そして，ひたすら「冷温状態に変わりはない」というわけのわからない説明だけだ。おまけに，聴こえてくるのは「温度計が故障しているらしい」という頓珍漢な情報だけだ。ならば，というので，政府は法律にもとづき「代替の計器を補充しろ」と東電に対して指令した，という。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なんともはや頼りない話である。もっと迅速に対応できないのか，といらいらしてくる。どこかの火力発電所の温度計が故障したとかのレベルとはまるで別次元の話であることくらいは，子どもでもわかる。原発の，しかも，福島第一の２号機なのだ。すでに，壊れてしまっている原発だ。そこの原発をなんとか力づく（物理的にも，政治的にも）で「冷温状態」に持ち込んだばかりのところだ。もし，この温度計が故障ではなかったとしたら・・・・。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;昨夜のニュースに登場した政府の関係閣僚の答弁は，すべて，抽象的な表現からでるものはひとつもなかった。すなわち，「あらゆる可能性を探りつつ，最大限の努力をしているところです」，と。そんなことは当たり前のことだ。そうではなくて，いま，現在の時点で明らかになっていることはどういうことなのかをわたしたちは知りたいのだ。闇から闇へ。重大な情報ほど秘匿されてきた。国民を混乱状態に陥らせないために・・・とのちに弁明するだけ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;不安が募ると，インターネットを流れている情報を探索することになる。&lt;br /&gt;そんな中で，Ｊ－ＣＡＳＴニュースが，つぎのように報じている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;原子炉内の温度が上昇していた福島第一原発２号機について，東京電力は２０１２年２月１３日，原子炉圧力容器の底にある温度計が記録上限の４００度を超えて振り切れたことを明らかにした。&lt;br /&gt;ネット上では，これまでの経緯から不安視する声が相次いでいる。これに対し，東電では，温度計の電気回路の電気抵抗が通常より大きく，温度が高く出やすくなっているなどとして，温度計が故障していると説明している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;故障しているなら，なぜ，修理するなり，取り替えるなりしないのか。答えは簡単，できないからだ。できないからという理由で放置されているのだ。この無責任さ加減。そこで業を煮やした政府は法律で計器の補充指令を出した。それで，どうなったのか。その後の情報はいまの段階ではない。できないことを指令してもやはりできない，ということで済まされてしまうのか。残された方法は，決死の覚悟で突入する以外にはないのだ。からだを張る人間はでてこないのか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;かつて，よど号乗っ取り事件のときには「からだを張った」代議士がいた。「男でござる」と名乗りを挙げて。相手が原発ではからだも張れないのだ。手を拱いて，ただ，見守るだけだ。いざ，壊れたとなると，手も足も出せなくなる，そういう制御不可能に陥る原発を，承知の上でつくってしまったのだ。いまは一刻もはやく原因を究明して，安全策を講ずるしか方法はないのだ。なのに，だれも手出しができない。情けないかぎりだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そう思いつつ，さきほどのＪ－ＣＡＳＴニュースの東電の説明を読み返してみると，ここにも大きな誤魔化しがあることがわかる。&lt;br /&gt;「東電では，温度計の電気回路の電気抵抗が通常より大きく，温度が高く出やすくなっているなどとして，温度計が故障していると説明している」という，この文章が奇怪しい。いかにも温度計が悪いかのように責任のすり替えがなされている。温度計は正常に機能したがゆえに，記録上限の４００度まで測定し，ついに振り切れてしまったのだ。温度計を壊してしまうほどの「電気回路の電気抵抗を大きく」している原因についてはなにも触れていない。問題の核心は，温度計にあるのではなくて，温度計を壊してしまうほどの電気抵抗がなぜ「大きく」なってしまったのか，ここがポイントだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こんな子ども騙しのような説明で逃げ切ろうとするところに，なにか，重大な事態を隠蔽しているのではないかと勘繰りたくなってくる。なんの理由もなく「電気抵抗」が大きくなるわけがない。その電気回路はどこにつながっているのか。「原子炉圧力容器の底」につながっているのだ。そのための温度計ではないか。ということは「原子炉圧力容器の底」になんらかの「異変」が起きているとしか考えようがない。しかし，わたしのような素人にはここまでしか考えは及ばない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;温度計が記録上限を振り切れてしまったいまとなっては，もはや，それこそ手も足も出せません。原子炉圧力容器の底の温度すら不明になったのだ。いつ，いかなる理由で，大事故に進展していくかもわからない闇の世界への突入なのだ。４００度という記録上限を超えていくことは「ありえない」と想定したからこそ，いまの温度計が設置されたはずだ。しかし，その想定をいとも簡単に超えてしまったのだ。またしても「想定外」というのだろうか。こんどの場合は，そんな説明では済まされまい。何カ月ものちになって「じつは，あのときの温度計の故障は・・・」という話になるのだろう。いや，そういう話になれば，御の字だ。このあと，なにごともなく推移するということが前提になるのだから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしたちは理由がわからないと不安になる。それでも，じっと耐えて，なにごとも起きませんようにと祈るしかないのだ。このあと，なにかが起こったら大変なことになってしまうから，できるだけそうは思いたくない。しかし，原発はすでに「万が一」のことが起きてしまったのだ。だから，つぎなる「万が一」が起きないとはだれも断定はできない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「３・１１」以後を生きるとは，そういうことなのだ。昨日のブログのくり返しなるが，西谷修は『世界』（２０１１年５月）の中で「近代産業文明の最前線に立つ」という論文を書き，日本の社会は「３・１１」を境にして，それ以前とはまったく異なる社会に突入したのだ，と喝破している。さらに，２０１１年７月の「核と未来」という講演会では，「未来の可能性が放射能汚染によって制約されているという点で，３・１１後の日本はそれ以前とは全く異なる社会である」と追い打ちをかけている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;原子炉圧力容器の底にとりつけてあった温度計が記録上限を超えて振り切れてしまったことに，わたしたちはこれほどまでに怯えなくてはならないのだ。これからさきも，原発の，どんな些細な「異変」にも，敏感に反応し，怯えつづけなくてはならないのだ。それが「３・１１」以後を生きるということなのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まことに哀しいことではあるが，これが，わたしたちのありのままの「生きる」ということの現実なのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-4433244792237039976?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/4433244792237039976/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=4433244792237039976' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/4433244792237039976'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/4433244792237039976'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_14.html' title='福島第一原発２号機の温度計が上限の４００度を超えて振り切れたという。大丈夫なのか。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-4666607406144152794</id><published>2012-02-13T19:17:00.001+09:00</published><updated>2012-02-13T19:17:23.807+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='ブック・レヴュー'/><title type='text'>文芸・評論誌『Ｋｏｔｏｔｏｉ』第一号を読む。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;１１日（土）の名古屋の研究会の席で，Ｍさんからこの文芸・評論誌『Ｋｏｔｏｔｏｉ』の紹介がありました。どこかでこの誌名を眼にしたな，とピンときたのですが，そのさきが思い出せません。手にとって見せてもらい，拾い読みしてみたら，とても面白い。あとで購入しようと思っていたら，Ｍさんが帰り際にこっそりとプレゼントしてくれました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今日（１３日），ほかの仕事を脇において，この本を読みはじめました。最初から最後まで，読みはじめたら止まらない。一気呵成に読んでしまいました。その途中で，あっ，この本のことは『東京新聞』のコラムかなにかに書いてあった，と思い出しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Ｍさんの話では，この本との出会いはとても偶然とは思えません，とのこと。玄侑宗久さんが書いているというので買ってみましたが，この本全体のコンセプトがいまのわたしにとっては絶妙なタイミングでの出会いでした，これは必然以外のなにものでもありません，と。そう聞いていましたので，わたしも楽しみにしていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;読んでみて，なるほど，Ｍさんの仰るとおりの本でした。その感想はわたしにもそのまま当てはまるものでした。いよいよ，こういう本がでるようになったか，と感慨無量です。しかも，菊谷文庫と銘打つように菊谷さんご夫妻が，手作り（和綴じ）で，丹念に作り上げたものだ，ということがインターネットで調べてみましたら，わかりました。こういう上質の文庫は，それ相応の思い入れのある編集者が，小さなグループで，採算を度外視して取り組まなくてはできないものです。大手の出版社はいくら逆立ちしてもできないものです。これからの出版のあり方に大きな波紋を呼ぶことになりそうです。また，ぜひ，そうあって欲しいと思いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この菊谷文庫の『Ｋｏｔｏｔｏｉ』は，ひとことで言ってしまえば，「３・１１」以後を生きるわたしたちにとって「生きる」とはどういうことかと問いかけ，「３・１１」以前とはまったく異なる「生」のあり方を模索しよう，そのためには「詩」の復権が必要だ，と声を大にして叫んでいる，そういう本です（わたしの印象では）。そうして，当然のことではありますが，もちろん「脱原発」を標榜する新しい感性の持ち主を，あらゆるジャンルで仕事をしている人たちの中から見出そう，そういう情熱が強く伝わってくる本です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;書き手は，玄侑宗久さんのような作家・僧侶をはじめ，吉本隆明（詩人・評論家）さんのような著名な方たちを含む詩人や音楽家や画家や，そして，新進気鋭の学者さんが並んでいます。わたしには詩を論評する力がありませんので，そこの部分だけがまことに残念ですが，あとは，いずれの論考もとても魅力的でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしが考えているような「３・１１以後のスポーツを考える」という論考なども，しっかり書けば掲載してくれそうだな，と思いました。編集長の菊谷さんが意図している編集方針とどこも齟齬がありません。それどころか，スポーツの分野からの投稿はかえって歓迎してくれるのではないか，とさえ思いました。たとえば，「近代スポーツ競技の促進と原発推進のロジックは瓜二つ」というようなタイトルで（すでに，このブログの中で書いていますが）書けば，いけるのではないかとそんな気にさせてくれる本です。いつか時間がとれたところで，気合を入れて，もう少し論理的に（あるいは詩的に）書いてみようかな，と思っています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たくさんの論考のなかでも，わたしの考えていることと，とことん共鳴した論考がありましたので，紹介しておきたいと思います。&lt;br /&gt;それは，中野佳裕さんの「リスク社会から脱成長社会へ」です。まだ若い新進気鋭の学者さんです。なにが嬉しかったかといえば，論考の冒頭から，西谷修さんの『世界』（２０１１年５月）に書いた「近代産業文明の最前線に立つ」が援用され，そのあとにも，西谷さんの論考に共鳴・共振している記述があちこちで顔をみせることです。たとえば，「核と未来」と題した東京外国語大学の講演会（２０１１年７月２３日）での発言を引用し，「未来の可能性が放射能汚染によって制約されているという点で，３・１１後の日本はそれ以前とは全く異なる社会である」と西谷修は述べている・・・・という具合です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ついでに我田引水を承知で書いておきますと，中野さんの「脱成長社会」の主張は，わたしがもう何年も前に「下降志向のスポーツ」の模索をと提言したときのものと，基本的にはまったく同じベクトルのものだ，ということです。こうなりますと，もはや，偶然の出会いではなく，間違いなく必然ではないか，と思いたくなってきます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もうひとつだけ。高坂勝さんの「うつらうつらテツガクする──第一回　昼寝革命」などは傑作と呼びたいほどのエッセイになっています。第一回，とあることは連載ということのようですので，これからどのような論考が展開するのか，とても楽しみです。このエッセイの柱もまた「ダウンシフター」という概念を提示し，その生き方の実践例が紹介されています。つまり，あくせく働かないで，必要最小限の労働をして，あとは，できるだけなにもしないで昼寝をしていましょう，というまことに説得力のあるテツガクを展開してくれています。まさに，「３・１１」以後の日本人としての生き方のひとつのサンプルのようなお話です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;というような調子で書いていくと際限がなくなりそうですので，このあたりで，このブログはおしまい。詳しい情報は「Ｋｏｔｏｔｏｉ」で検索してみてください。ホーム・ページにすべて必要な情報はアップされています。お薦めの一冊です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-4666607406144152794?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/4666607406144152794/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=4666607406144152794' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/4666607406144152794'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/4666607406144152794'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_4403.html' title='文芸・評論誌『Ｋｏｔｏｔｏｉ』第一号を読む。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-1872154220687357228</id><published>2012-02-13T11:45:00.001+09:00</published><updated>2012-02-13T11:45:39.056+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='沖縄のこと。'/><title type='text'>沖縄・宜野湾市長選挙，両候補とも「県外移設」「普天間固定化回避」を主張。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;昨日（１２日），行われた沖縄・宜野湾市長の選挙の結果，保守系前県議の佐喜真淳（４７）氏が，わずかに９００票差で，元市長の伊波洋一（６０）氏をかわして当選。両候補とも普天間基地に関しては「県外・国外移設」を求め，「固定化回避」を主張し，大きな主張の違いはみられなかったという。明暗を分けたのは，伊波候補が，市長現職中に知事選に立候補して破れ，市長への返り咲きをねらったことへの批判票だったのでは・・・・と毎日新聞は分析している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;選挙途中に，沖縄防衛局長の「講話」問題が発覚し，保守系の佐喜真氏に不利ではないかと，その行方が注目されたが，なんとかクリアした形となった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;民主党は自主候補を立てることができず，情けないかぎり。普天間基地を抱えている中核都市である宜野湾市長選挙に，民主党の主張を展開することすらできない政権が，日米合意にもとづく名護市辺野古への移設を進めようというのである。沖縄県民や宜野湾市民の意思とはまったく関係のないところで，基地問題を押し切ろうとするこの暴挙は，どう考えてみても奇怪しい。こんなことが，いまも，平気で行われているのである。民主主義を語るのも恥ずかしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この選挙結果によってはっきりしたことは，仲井真知事と佐喜真市長とが手を結んで，どこまでも普天間基地の「県外・国外移設」を主張していく態勢ができあがったということだ。民主政権はますます窮地に追い込まれ，このさき，どのような対応をしていくことになるのか，まったく不透明なままだ。地元住民の同意も得られないまま，強権を発動させるつもりなのだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ことし一年は，日本という国家の骨格が決まる，きわめて重要な年になりそうだ。長年にわたる沖縄基地問題の決着，東日本大震災の復興，そして，フクシマの事後処理，さらには，ＴＰＰ問題があり，国政選挙が待っている。これから問われるのはわたしたち国民の側だ。どの問題にも国民一人ひとりがきちんとした意見をもち，行動がとれるかどうか，その一点にかかっている。ここで進むべき道を間違えたら，もう，半永久的に，わたしたちはどうにもならない迷路を彷徨うことになるだろう。恐ろしいのは，このような混乱にまぎれて，選挙をとおして「独裁」体制をととのえたヒトラーのような人物が登場する可能性が高い，ということだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まだまだ，なにやら，とてつもない「異変」が，この日本の未来に待ち構えているように思えて仕方がない。日本版「ショック・ドクトリン」の実験が，いまも，そして，これからもつづくのだろうか。もう，これ以上の「異変」は起きてほしくない。しかし，火山列島日本の天変地異だけは，地球の歴史とともに歩んできた自然現象だ。そういう圧倒的な力をもつ自然との折り合いのつけ方を，わたしたちは「科学」の名のもとに忘れてきてしまったのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;原点回帰を「いまこそ」，とわたしは主張したい。沖縄基地問題も同じだ。詳しくは，いずれまた。時間切れ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-1872154220687357228?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/1872154220687357228/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=1872154220687357228' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/1872154220687357228'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/1872154220687357228'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_13.html' title='沖縄・宜野湾市長選挙，両候補とも「県外移設」「普天間固定化回避」を主張。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-6612243651347351050</id><published>2012-02-12T16:29:00.000+09:00</published><updated>2012-02-12T16:30:56.660+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='研究会報告'/><title type='text'>「スポーツに思想はあるか」，『ショック・ドクトリン』合評会での議論。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;昨日（１１日）の午後，椙山女学園大学（日進キャンパス）で，予定どおり『ショック・ドクトリン』の合評会が行われました。三井悦子さんの司会ではじまり，橋本一径さん，船井廣則さん，井上邦子さんの３人のコメンテーターの読解を手がかりにして，参加者，みんなで議論しました。まずは，驚くほどいろいろの読解があることを知り，とても勉強になりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それらの議論のうちのひとつを紹介しておきたいと思います。&lt;br /&gt;それは，第９章「歴史は終った」のか？──ポーランドの危機，中国の虐殺，を取り上げて緻密な読解とコメントを展開してくださった船井廣則さんのパートでの議論です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;船井さんは，まず，冒頭で井上陽水の「限りないもの・・・それが欲望」という『限りない欲望』（１９７２）の歌の一節を引いて，人間の「欲望」とはいったいなにか，と問いかけた上で，第９章を以下の６つの視点から読解と問題提起をしてくださいました。&lt;br /&gt;１．歴史の終わり&lt;br /&gt;２．天安門事件との関連&lt;br /&gt;３．ポーランドのショック療法&lt;br /&gt;４．ドイツにおける「第三の道」とネオ・リベラリスムス&lt;br /&gt;５．「ネオリベ」はおわったか？　『”経済”を審問する』が答える&lt;br /&gt;６．ドライビング・フォースとしてのメガロサミア&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これらのうち，５．「ネオリベ」はおわったか？『”経済”を審問する』が答える，のところで，船井さんはきわめて重要な指摘をしてくださった。当日，配布されたレジュメのなかから引用しておくと，以下のとおりです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;西谷修は同書の中で「市場の法則は「客観的」なのではなく，カール・ポラニーの言うように制度的に作りだしたフィクション。とすれば経済学は科学などではなく，世界を造形するある種の思想を含んでいる。つまり経済学は思想だ。」と，読者の目から鱗を落とさせるフレーズを叫んでいる。また，西谷は別の所でもオバマの「アメリカの原罪」に触れて，「結局アメリカの「自由」というのは，基本的に人を抹消しないと成り立たないもので，アメリカがその原罪を忘れ帳消しにするためには自分の「自由」を世界に広めればよい・・・という衝動からアメリカは免れることができない」と鋭い論理を展開している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここには二つの重要なポイントが指摘されています。言うまでもなく，一つは「経済学は思想だ」という指摘であり，もう一つはアメリカの「原罪」と「自由」についての指摘です。後者のアメリカの「原罪」とは，アメリカ立国の前提条件となった先住民を抹殺しなければならなかった歴史過程を意味します。そして，その先住民を排除・抹殺することによってわがものとした移住民のための「自由」，これが，アメリカの求める「自由」にほかなりません。ですから，「テロとの戦い」はその延長線上にある，という次第です。つまり，アメリカの「自由」とは，「テロとの戦い」をとおして，アメリカに反抗する勢力を完全に排除することなしには成立しない，というわけです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;が，ここでの議論で盛り上がったのは，「経済学は思想だ」とする西谷修さんのロジックでした。それに追い打ちをかけるようにして，船井さんはつぎのようにレジュメに書き込んでいます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;６．ドライビング・フォースとしてのメガロサミア&lt;br /&gt;フリードマン主義＝自由市場主義の「自由」とは欲望を制限無く開放する自由ではないか。井上陽水の言うように制限のない＝限りないものが「欲望」であるなら，制約の取り払われたむき出しの欲望と市場主義とが結び着いたのが新自由主義か。人間が持っている優越願望（megalothymia)の顕現化が根底にありはしないか。&lt;br /&gt;人間をスポーツ現象・行動に向かわせるのも「俺はおまえよりも速い・高い・強い」を達成したい，という優越願望がドライビング・フォースとなっているのでは。とすれば，人間の傾向の一側面をデフォルメしたものとして近代スポーツもネオ・リベラリズムと同根なのか・・・・。たとえば，スポーツの記録の限りない更新。１００ｍ走の推定限界値は９秒４８。ウサイン・ボルトの北京での記録９秒６９。残り余地０秒２１。しかし，計測方法や装置の精密化が余地を拡大，記録更新の可能性を引き延ばす。限りないものそれはメガロサミア＝欲望＝自由？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以上が，船井さんの問題提起です。こういう挑発的な問題提起をされると，議論は一斉に活気づいてきます。そこで取り上げられた話題は多岐にわたりました。たとえば，４月からの中学校での柔道必修化の問題は，目前に迫る大テーマでしたので，さまざまな意見が飛び交いました。そうして，最終的に行き着いたわたしなりの結論は「スポーツに思想を」というものでした。つまり，思想なきスポーツはもはやありえない，と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;スポーツは，もはや，単なる遊びや娯楽ではなくなっています。現代という時代を生きるわたしたちにとっては必要不可欠の文化となっています。しかも，人間の生き方までをも規定する力をもちはじめています。場合によっては，政治や経済よりも大きな影響力をもつにいたっています。にもかかわらず，スポーツには「思想」が欠落しています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;思想なき経済が迷走するのと同様に，思想なきスポーツもまた迷走してしまいます。いま，わたしたちに求められている最大の課題は「思想」ではないか，というところに徐々に話題が集結していきました。司会者のそろそろ終わりに・・・・という発言を振り切って，もう一つだけ，もう一つでけという具合に議論に熱中しているあまり，気がついてみれば，予定時間を３０分もオーバーしていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「スポーツに思想を」。これが当分のわたしたちの共通の大きな課題として浮上することになりました。いささか遅きに失した感もなきにしもあらず，というところですが，気がついたときが吉日，まずは「隗よりはじめよ」という次第です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし，少しだけ補足をさせていただければ，わたしたちのこの研究会は，じつは，当初から「スポーツに思想を」という大きなテーマをもっていました。しかし，それを全面に押し出すようなプレゼンテーターが少なかった，ということです。その意味では，この『ショック・ドクトリン』合評会は絶妙なタイミングだったと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;次回，３月１９日（月）には，西谷修さんをゲスト・スピーカーにお迎えして『ショック・ドクトリン』読解に取り組みます。できることなら，フリードマンの新自由主義を標榜した経済学（一般経済学）にたいして，バタイユの目指した「普遍経済学」の位置づけなどのお話がうかがえたらありがたいと思っています。とりわけ，マルセル・モースの『贈与論』と関連させて。そのほかにも，お聞きしたい話は満載です。いまから，とても楽しみにしています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-6612243651347351050?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/6612243651347351050/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=6612243651347351050' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/6612243651347351050'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/6612243651347351050'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_12.html' title='「スポーツに思想はあるか」，『ショック・ドクトリン』合評会での議論。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-5801108805914873062</id><published>2012-02-10T14:48:00.000+09:00</published><updated>2012-02-10T16:36:58.045+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='考現学，'/><title type='text'>「北海道いももち」にはまっています。これはウィーンの「クヌードル」の日本版。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;数日前，鷺沼のスーパーの食品売り場で「北海道いももち」なる商品が眼に飛び込んできて，「おやっ？」とひらめきました。「北海道いももち」・・・だって？みると「みたらし団子」のように，甘そうなタレがたっぷりかかっていて，美味しそう。あっ，これはウィーンで食べたクヌードル（Knoedel，精確にはＯにウムラウト)の団子版ではないか，とピンときました。あとは，躊躇することなく手が伸びてワンパック購入。小型の団子状のものが８個。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大急ぎで事務所に駆け込んで，チンして，すぐに食べました。予想どおり。いや，それよりももっともっと「もち」になっていました。団子よりも，もちっとしていて，食感がいいのです。これはもう堪りません。以後，毎日，ワンパックを購入。ひとりでニヤリとしながら悦に入っています。至福のひととき。童心に帰って。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ウィーンで食べたクヌードルは，いろいろの種類があるので，ひとくちにはなんとも言えませんが，食材はじゃがいもです。いわゆる，ドイツ語圏の人たちがむかしから食べてきた郷土料理です。もっとも一般的なのは，じゃがいもをふかしてつぶし，しっかり捏ねて練り上げ，それをテニスボールくらいの大きさの球体にし，それをさらに「ふかす」か「ゆでる」かして出来上がり。これに，好みのタレをかけて，ナイフとフォークで切り分けて，暖かいうちに食べます。店によって，みんな味が異なります。また，家庭によっても味が違います。それぞれに腕によりをかけて，美味しく仕上がる方法を探索しているようです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしの出身地である三河の郷土料理に御幣餅があります。これと同じで，作り方は，さまざまに工夫が加えられていて，いわゆるスタンダードはありません。家庭によって，みんな味が違います。タレの工夫も大事です。秘伝と称して，だれもその極秘の方法を教えてはくれません。しかし，一般的な作り方はだれにも知られていますし，簡単ですので，だれでも作れます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;じつは，クヌードルにはウィーンでの忘れられない思い出があります。在外研究員としてウィーン大学スポーツ科学研究所でお世話になったシュトローマイヤー教授の大好物が，このクヌードルでした。わたしたちは家族ぐるみでお付き合いをさせていただいていましたので，郊外の土地の人たちが親しんでいるレストランに連れていってもらうことが，しばしばありました。その折に，シュトローマイヤー教授は，かならず，自分用にこのクヌードルを注文していました。そのうちに，わたしも味を覚えて，一緒に頼むと心配そうに「無理をしなくていいんだよ」と念を押してくれました。しかし，一度，この味を覚えてしまうと，この店のクヌードルはどんな味がするのだろうか，という探究心がでてきます。そのことをシュトローマイヤー教授に話したら，「おまえはもはや立派なウィーン人だ」と太鼓判を押してくれました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし，困ったのは発音です。きちんと発音しないと，どうも別のものになってしまうようで，店員さんが何回も聞き直すのです。さきほども書きましたように，Ｋｎｏｅｄｅｌ　のｎｏｅのところはｎｏにウムラウトがついたものが正式のドイツ語表記です。このｏウムラウトの発音がとても難しいのです。ｏの発音の口をして，エという音を出せというのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;仕方がないので，シュトローマイヤー教授に，何回も何回も発音の仕方を教えてもらいました。最後には，奥さんのイレーネさんが笑いながら心配してくれて，間違っていても大丈夫，大きな声で言って，手で団子の形をつくれば，ＯＫです，と教えてくださった。以後は，その伝に従い，大きな声と手振りで立派に押し通しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;クヌードルとは，あとで辞書を引いてみましたら，なんと「団子」そのもののことでした。わたしは，ジャガイモでつくった大きな団子の食べ物の名前（固有名詞）だと思っていましたが，そうではありませんでした。つまり，団子には，肉の団子もあれば，じゃがいもの団子もある，というわけです。ですから，手振りで大きな団子をつくると，店員さんは「じゃがいも」の団子だと理解してくれたという次第です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さあ，これから，わたしの昼食の時間です。午後３時です。今日，買ってきた「北海道いももち」を「チン」して，熱々を「フーフー」しながら食べます。この「快楽」，いつまでつづくのでしょう。童心に帰る至福のとき。ワンパック（８個入り），２７８円。安い昼食代です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-5801108805914873062?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/5801108805914873062/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=5801108805914873062' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5801108805914873062'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5801108805914873062'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_9522.html' title='「北海道いももち」にはまっています。これはウィーンの「クヌードル」の日本版。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-6544577292968243094</id><published>2012-02-10T00:34:00.002+09:00</published><updated>2012-02-10T00:34:25.143+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='季節の話題'/><title type='text'>早咲きのさくらの蕾が赤みを帯びてきました。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;日本海側は大雪警報。太平洋側は快晴。冬型の典型的な気象。&lt;br /&gt;雪国の各地から雪による被害（死者も多数）情報が，ニュースの多くの時間を割いている。&lt;br /&gt;同時に，インフルエンザの大流行で，この１０年間の記録を残しはじめてから，過去最悪の状態という。&lt;br /&gt;小中学校の学級閉鎖はもとより，学校全体をお休みにするところもでている，という。&lt;br /&gt;関西では急性腸炎をともなう風邪も大流行，とか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;気候やインフルエンザだけではない。&lt;br /&gt;しばらく鳴りをひそめていた原子力ムラの人びとが反撃に転じはじめた。それを受けてメディアも妙な情報を流しはじめている。申し合わせたように大飯原発のストレス・テストの一次評価は妥当だったとか，原発を止めて火力発電にしたから二酸化炭素の汚染が広がったとか，地球温暖化が進んだとか（こんなに寒いのに），沖縄の防衛局長の更迭騒ぎがいつのまにか取り消されたり，厚かましくも東電の電気料金の値上げが発表されたり，政府・官僚の情報隠匿を合法化するための法案を成立させようとしていたり，いったい，この国はいつからこんなに「デタラメ」なことを平気で行い，また，それを許す国になってしまったのか，と世俗の世界もまた情けないことばかり。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それでも，自然界は凄い。たんたんとわが道を進む。寒い日には，泰山木の葉は裏返るようにして立ち上がり，寒さから身を守っている。そのすぐ下では寒椿が赤い花を咲かせていたり，馬酔木の花が芽吹きはじめていたり，柊の花芽が伸びはじめていたり，といつも歩いて通る鷺沼の事務所の近くの植木屋さんの屋敷の植物は，着々とわが道を進んでいる。そのなかで，いつも，早めに咲くさくらの木の花芽もいつしかふくらみ，赤みを帯びている。この寒さがつづく日々のなか，あと，一カ月半後には花を咲かせるための準備に入っている。感動である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;木の芽は，間違いなく春に向かって，その準備に入っている。まるで枯れ木のようにみえる名も知らぬ木の芽も，近くに寄って，よくよく観察してみると，枝の最先端の芽はふくらんでいる。細葉の新芽の黄緑色も目立つようになってきた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;事務所の近くの公園には，わたしの知らない小鳥たちの鳴き声が，ここかしこに聞こえる。餌付けでもしているのだろうか，立派な屋敷の植え込みのある一本の木に，雀が姦しく鳴いている。そうっと近づいてみると，相当の数がいる。どこかでパターンと大きな音がしたら，その雀たちが一斉に飛び立った。予想をはるかに越える数で，驚いた。どの雀もまるまると太って，まさに食べごろ。「寒雀は太っていて美味い」とこどものころに大人たちがそう言っていたことを思い出す。いま，寒雀の味を知っている人はいないだろう。食料事情が悪かったころ，つまり，わたしのこどものころには，競って雀をつかまえて食べた。雀の卵も集めてきて焼いて食べた。食べ物がろくになくて飢えていたころを思い出す。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのころの人間，つまり，敗戦後の復興に，全国民が力を合わせて奮闘していたころの人間の方がはるかに「健全」だったように思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今日は快晴だったこともあって，犬や猫たちも飼い主に連れられて散策。まだ，育ち盛りの犬たちはとても元気よく動きまわりながら飼い主を引っ張っていく。が，大半は，どうやら老人らしくて，飼い主と一緒にのろのろと歩いていく。しかも，肥満体。猫も同じ。首にひもをつけられて，威風堂々たる猫が歩いていく。なんとも不思議な光景である。犬の散策をしているご婦人たちの何人かは，見ず知らずのわたしが興味深そうに犬を眺めているからか，「こんにちは！」と言って声をかけてくれる。じつは，わたしは「可哀相に，こんなに太ってしまって」と犬に同情しながら眺めているのだが・・・・。それでも，声をかけられると嬉しいもので，わたしも大きな声で「こんにちは！」と応じる。犬が，まだ若いな，と思われるときには「かわいいですね」とひとこと添える。すると，まず，間違いなく，嬉しそうに「ありがとうございます」「ほらっ，〇〇ちゃん，褒められたよ」と笑顔が返ってくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こんなささやかなことでも，都会生活では，なんともほのぼのとするのである。それほどに他者との会話もなく，無味乾燥な日々。ましてや，メディアから流れてくる情報は，もっと酷い。人間の品性もなにもあったものではない。みんな飽食・運動不足剥き出しの肥満体。それに甘んじて平然としている。ものの豊かさに慣れきってしまった人間の理性は完全に狂ってしまったとしかいいようがない。しかも，その自覚もない。そういう人たちが日本の中枢を占めている。なんともはや，うら寂しいかぎりである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その一方では，災難に遭遇した人たちは必死になって助け合い，励まし合って，その日その日を生き延びることに精一杯の努力を積み重ねている。こどもたちも同じだ。寒いこの冬をどうやってやり過ごしているのだろうかと被災者の人たちの避難生活を，みずからの体験に引きつけ，想像力を駆使して思い描いている。わたしは，小学校１年生のとき，戦争末期の空襲に合い，九死に一生を得た。その結果，焼け出され（なにもかも全部，燃えてしまった）者となり，農家の鶏小屋を借りて，コンクリートの土間に藁を敷き，寒い冬を越したことがある。飢えと寒さに，毎日，震えていたことを思い出す。よく生き延びたものだと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;テレビでは，相変わらず，面白おかしくさえあればいいという「馬鹿番組」と，なぜ，ここまで，とあきれ返ってしまうほどの「おいしんぼ」料理の連続。いったい，なにを考えているのか，といいたくなる。しかも，贅沢きわまりない料理を，これでもか，と見せつける。いらない。そんなものはいらない。まずは，生き延びていくに必要最小限の食べ物があればいい。それを地球上に生きている人びとすべてが分け合うことが第一ではないのか。あちこちで食べ物もなく餓死する人があとを絶たない現実を，頭のなかでは承知しつつ，自分だけはおいしものを食べたがる。この国に住む人たちの「理性」とはなにか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アスファルトの隙間から芽を出し，花を咲かせるタンポポもある。与えられた命を，与えられた場所で，精一杯に生ききること。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ヘミングウェイは『日はまた昇る』という小説を書いた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さくらの蕾が赤みを帯びてきたのをみて，なんだか，ほっとした。これでいいのだ，と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;※もう少し書きたいところ。でも，時間切れ。ここまでとする。残念。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-6544577292968243094?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/6544577292968243094/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=6544577292968243094' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/6544577292968243094'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/6544577292968243094'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_10.html' title='早咲きのさくらの蕾が赤みを帯びてきました。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-7510265937275250550</id><published>2012-02-09T09:01:00.000+09:00</published><updated>2012-02-09T11:47:41.685+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='研究会報告'/><title type='text'>『ショック・ドクトリン』（ナオミ・クライン著）読解のための研究会開催。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;ことしの８月に第２回日本・バスク国際セミナー（場所：神戸市外国語大学）を予定している。そのテーマは「グローバリゼーションと伝統スポーツ」だ。しかし，ひとくちに「グロバリゼーション」と言ってもいろいろの顔をもっていて，一筋縄ではいかない。しかし，そこに「スポーツ」という補助線を一本引くと，急に視界が明るくなってくる。さらに，「伝統スポーツ」と「近代スポーツ」という具合に補助線を増やしていくと，さらに焦点がはっきりしてくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それでも「グロバリゼーション」という怪物は，驚くべき顔をちらりとみせることがある。昨年の９月に翻訳された『ショック・ドクトリン』（岩波書店）もそのひとつだ。こんな仕組みが作動しているのか，と呆気にとられた。しかも，上下２巻におよぶ大著だ。まだ若い女性ジャーナリストが追った現代世界をゆさぶる仕組みの解析。文字通りの力作である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この本の読解は，８月に予定されている国際セミナーのウォーミング・アップとして不可欠であると判断し，まずは，２月に名古屋で，そして，３月は東京で研究会をもつことにした。&lt;br /&gt;名古屋は２月１１日（土）に椙山女学園大学で，東京は３月１９日（月）に青山学院大学で開催。いずれも主催は「ＩＳＣ・２１」（２１世紀スポーツ文化研究所）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;本来ならば「ＩＳＣ・２１」のＨＰ「掲示板」に掲示されているのだが，いま，悪質な書き込みに襲われ炎上。修復までに時間がかかるので，とりあえず，このブログで代替することに。&lt;br /&gt;以下に詳細を記しておきましょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ＩＳＣ・２１」２月名古屋例会&lt;br /&gt;日時：２月１１日（土）１３：３０～１８：００&lt;br /&gt;場所：椙山女学園大学（日進キャンパス）&lt;br /&gt;プログラム&lt;br /&gt;　第一部：情報交換&lt;br /&gt;　第二部：『ショック・ドクトリン』（ナオミ・クライン著）合評会&lt;br /&gt;　　司会：三井悦子&lt;br /&gt;　　コメンテーター：橋本一径，松本芳明，井上邦子&lt;br /&gt;　※終了後，懇親会あり。懇親会まで参加される方は三井さんに連絡のこと。&lt;br /&gt;　※なお，１２時１０分には，わたしの他に何人かの人が名古屋駅新幹線改札口で待ち合わせて，軽い昼食をとり，１２時４０分発のバス（愛知学院大学行き）に乗る予定。行き先に不案内な方はここにお出でください。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ＩＳＣ・２１」３月東京例会&lt;br /&gt;日時：３月１９日（月）１３：００～１８：００&lt;br /&gt;場所：青山学院大学（ガウチャー礼拝堂のある建物の５階第１３会議室）&lt;br /&gt;プログラム&lt;br /&gt;　第一部：情報交換&lt;br /&gt;　第二部：『ショック・ドクトリン』読解──グローバリゼーションとはなにか。&lt;br /&gt;　　司会：稲垣正浩&lt;br /&gt;　　ゲスト・スピーカー：西谷修&lt;br /&gt;　　※会の進行のさせ方については，かなり自由に，と考えています。つまり，全員参加型のトークになれば・・・という次第です。&lt;br /&gt;　　※終了後，懇親会あり。懇親会まで参加される方は稲垣まで連絡のこと（一週間前までに）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これらの研究会は公開ですので，どなたでも参加できます。ただし，初めての方は稲垣までご連絡ください。このブログにコメントを入れてくださっても結構です。「参加希望」と「名前」を書き込んでくだされば，非公開でメールで応答します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以上が開催情報です。&lt;br /&gt;多くの方々のご参加を楽しみにしています。&lt;br /&gt;お断りするまでもないことですが，テクストは事前にきちんと読んでから参加されますよう，お願いいたします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;取り急ぎ，掲示板代わりの情報提供です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-7510265937275250550?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/7510265937275250550/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=7510265937275250550' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/7510265937275250550'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/7510265937275250550'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_09.html' title='『ショック・ドクトリン』（ナオミ・クライン著）読解のための研究会開催。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-8028355987340588176</id><published>2012-02-08T21:40:00.001+09:00</published><updated>2012-02-09T08:14:01.390+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='太極拳の話。'/><title type='text'>「太極拳のゴンブー（弓歩）の姿勢は相撲の基本の姿勢と同じ」（李自力老師語録）その５．</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;相撲のぶつかり稽古のときに上位の力士が胸を出して，下位の力士がぶちかましてくるのを受け止めるときの姿勢。両脚を前後に大きく開いて腰を落として構える。前脚は深く曲げ，上体をその上にしっかりと固定し，後脚を大きくうしろに伸ばしてかかとで踏ん張り，胸を出して「さあ，来い」と構える姿勢。下位の力士は上位の力士の胸に向ってぶちかまし，胸に頭をつけ，もろはずで力一杯に押す。胸を出した力士は，そのままの姿勢を保ちながら，土俵の上をすべるようにしてズルズルと後退する。土俵の俵に後脚がかかったところで，こんどは頭つけている力士を押し返す。腰の構えはそのままで，相手の力士の両腕をはさみつけるようにして，ぐいぐいと押していく。そして，相手の力士の後脚が俵にかかったところで，もう一度，相手力士に押させる。これをくり返す。下位の力士は，あっという間に息が上り，ふらふらになる。こうして意識が朦朧となるまで力を出して，相撲の基本の姿勢を身につける。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このときの胸を出す力士の両脚・腰・上体の構えの姿勢が太極拳のゴンブー（弓歩）の姿勢と同じです，と李自力老師は仰る。相撲の好きなわたしには，とてもわかりやすい説明である。すぐに頭で納得できたので，早速，やってみる。なるほど，この姿勢がゴンブー（弓歩）の決めの姿勢だったのか，とわたしのからだが納得。基本の稽古のときの腕を腰のうしろで組んで，脚だけのゴンブーの稽古はなんとかできるようになる。しかし，ゴンブーの姿勢は，２４式のなかにもいろいろのところに組み込まれている。手足を同調させながらのゴンブーは，これまた，別物である。一つひとつ，稽古を重ねていって身につける以外に方法はない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし，わたしたち素人のする太極拳の稽古は，大相撲の稽古場のような激しいものではない。ゴンブーの構えを完全に身につけるまで追い込むほどの時間もかけない。あとは，自分ひとりで稽古をしなさい，ということになる。しかし，ひとり稽古はついつい甘えがでてしまう。適当なところで終わり。だから，なかなか上達しない。みんなで稽古するときに，その場の力を借りて，ゴンブーの構えの姿勢を何回も何回もくり返して覚えるしか方法はない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つまり，太極拳もまた，自己との闘いなのだ。みずからを律する力のレベルに応じて，ゴンブーの構えの姿勢もできあがってくる。それは，一緒に稽古をしている人たちのゴンブーの構えの姿勢をみれば一目瞭然だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから，李老師はその人に合わせて指導助言をしてくださる。李老師の動きを盗み取るようにして凝視し，動きを分節化し，自分のなかにイメージをつくる。それでも足りないので，ＤＶＤをくり返しくり返し眺めて，少しずつ李老師の動きに近いイメージを脳裏に焼き付けていく。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いやはや，こんなに簡単な動きなのに，そして，ゆっくりとしたスロー・モーションなのに，こんなに難しいとは・・・・。太極拳は奥が深い，としみじみ思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-8028355987340588176?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/8028355987340588176/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=8028355987340588176' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/8028355987340588176'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/8028355987340588176'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_08.html' title='「太極拳のゴンブー（弓歩）の姿勢は相撲の基本の姿勢と同じ」（李自力老師語録）その５．'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-5424069302656175884</id><published>2012-02-07T13:16:00.002+09:00</published><updated>2012-02-07T13:22:57.113+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='時事ネタ'/><title type='text'>４月から中学校の柔道必修化。問題あり，とＮＨＫ「クローズアップ現代」がとりあげる。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;昨夜（６日），午後７時３０分から，ＮＨＫ「クローズアップ現代」が，この４月からはじまる中学校の柔道必修化問題をとりあげていた。ちょうど，食事どきだったので，しっかりと視聴した上で，問題の所在を少しだけ考えてみた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結論から述べておこう。&lt;br /&gt;中学校の柔道必修化も，原発推進に踏み切った（東海村に１９６６年に設置）ときと，まったく同じ思考パターンである，ということ。すなわち，アフター・ケアがまったくなされないままの「見切り発車」である，ということ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;原発が使用済み核燃料を処理する方法（技術，施設，など）を整備する前に，原発建造，稼働へと見切り発車したことは，もはや繰り返すまでもないだろう。詳しくは，今日（７日）の『東京新聞』の「こちら特報部」を参照のこと（青森県の六ヶ所村の処理施設が，稼働停止のまま，再開の目処も立っていないことを詳細に報道）。にも，かかわらず，いまなお，原発推進派は着々とつぎなる手を打ち，原発稼働に向けて突進しようとしている。わたしたちの「命」を犠牲にしてでも，原発による「利権」を守りとおしたい輩が日本の中枢に巣くっている。この理性の「狂気化」現象が，平然と見過ごされてしまう，日本の現状に唖然としてしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし，この理性の「狂気化」現象は，いまにはじまったことではない。&lt;br /&gt;その一端が，４月からの中学校の柔道必修化問題だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;断っておくが，柔道を中学生に教えることには賛成である。しかし，そのためには，しっかりとした指導者を養成しておかなければならない。それが先決だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;問題は，きちんと柔道を教えることのできる教師が，きわめて少ないというところにある。そんなことは柔道必修化の議論をする段階でわかっていたはずだ。そして，そのような議論も行われたようだが，医科学委員の中にも脳外科のお医者さんが入っておらず，さっさと多数決で決められてしまった，というのが実情のようだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つまり，はじめに柔道の必修化ありきの議論なのだ。そのために，審議会がある。つまり，このメンバーは，厳密な思想チェックがなされた上で選考される。わたしも経験したことがあるが，会議の進行はすべてお役人さんが作成したシナリオ（議長が話すセリフまで書いてある）どおり。最後に多数決で決定。わたしのような少数意見は「貴重なご意見ありがとうございました」のひとことで片づけられてしまう。なんとも歯痒いかぎりだった。もちろん，以後，声もかからなくなったが・・・・。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中学校の体育の教員免許をもつ教師には，２種類がある。ひとつは，教員養成系の大学で教員免許を取得した人，もうひとつは，体育大学もしくは体育学部で教員免許を取得した人である。いずれも，体育を得意とする人たちではあるが，こと柔道に関しては，その経験に大きな個人差がある。その多くは，大学に入って，授業ではじめて柔道を経験した人たちである。いかに運動神経抜群とはいえ，柔道を教えるということになると話は別だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ボールゲームなどでは，よほどのアクシデントでないかぎり「死亡」事故は，まずは起こらない。しかし，柔道は，ひとつ手順を間違えたり，情況判断をミスしたりすれば，事故は大なり小なり起こる。つまり，怪我と背中合わせの格闘技なのだ。だから，よほどの経験豊かな指導者でないかぎり，中学校での必修の柔道はまかせられない。つまり，必修だから，からだのひ弱な子どもたちも，そして，極端に運動神経の未発達な子どもたちも，なかには柔道が嫌いな子どもたちも混じっている。しかも，多人数だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;部活の柔道であれば，まずは，希望者であり，しかも少人数なので，生徒の習熟度に合わせて稽古をすることもできる。しかし，必修となれば，そうはいかない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;柔道を必修化しようという志は反対ではない。が，そのためのお膳立てをきちんとすることが先決だ。いまからでも遅くはない。きちんとした指導のできる先生を確保できた学校から始めればいい。それまでは，指導者養成のために万全をつくすことだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「クローズアップ現代」では，フランスの授業が紹介されていた。それによれば，柔道の指導者になるためには特別の「国家試験」を課しているという。しかも，きわめて難関な資格試験だという。そうして，じっくりと基本を教える。投げ技などは，体力も技量も整ったところで教える。ましてや，「乱取り」などは，柔道する身体ができあがってからだという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いまの子どもたちは「ひ弱」だから柔道でもやらせて鍛えなくてはいけないという発想は，クリーンなエネルギーは原発しかない，だから原発推進だ，という発想と瓜ふたつだ。どちらも，一番大事な「手順」を飛ばしてしまっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;柔道は「乱取り」が最終ゴールではない。「自他共栄」「精力善用」と嘉納治五郎が主張したように，人間としての「道」を教えることにある。柔道の精神を表す「道」は，その淵源を尋ねると道教（タオイズム）にいたる。そのことを熟知していた嘉納治五郎は「柔よく剛を制す」とも言っている。これはまさに「タオ」（＝「道」）の精神そのものだ。「無為自然」の「タオ」と「無常」の仏教が混淆して「禅」の思想が生まれる。嘉納治五郎の求めた柔道のゴールは「禅」の精神を体得すること，そして，その実践にあった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうした柔道の深い理念を体得した人こそ，中学校の柔道を教える資格所有者であり，親や子どもたちも安心して「必修化」のもとでの授業を受けることができる。そのための，特別の国家試験を課しているフランスは立派だ。いいことは，すぐにも取り入れるべきだ。逆輸入だと笑われても仕方がない。それほどまでに，わたしたちの理性は狂気と化してしまっているのだから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もう一度，初心に帰ろう。狂ってしまった理性を捨てて，生きる命にとって理性とはなにかを問い直すこと。とりわけ，「３・１１」を通過したいま，わたしたちは，もう一度，スタート地点に立って，そこからやり直すしか方法はないのだから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういう議論がこれからでもいい，起こってくることを，こころから祈っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-5424069302656175884?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/5424069302656175884/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=5424069302656175884' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5424069302656175884'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5424069302656175884'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_07.html' title='４月から中学校の柔道必修化。問題あり，とＮＨＫ「クローズアップ現代」がとりあげる。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-7589327379475055498</id><published>2012-02-06T11:27:00.001+09:00</published><updated>2012-02-06T11:27:49.509+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='「３・１１」以後に向けて。'/><title type='text'>太陽光発電は駄目だ，という風評が流れている。ほんとうにそうなのか。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;ことしになって，複数の人から「太陽光発電は駄目だ」という，あまり根拠のはっきりしない話を聞かされた。いずれも，わたしが「脱原発」への方途をさぐるために，原発に代わる再生エネルギーへとシフトすべきだという，きわめて個人的な雑談の折のことである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ひとりめの人から「太陽光発電は駄目だ」と聞いたときには，「へえーっ，そんなものなの？」と受け流したが，ふたりめのときには「おやっ？」と思った。しかし，さんにんめのときには「まてよ？」，これはちょっとおかしな話ではないか，と気がかりになった。よにんめのときには，完全に，なにかの意図がはたらいていると考え，すこしばかり調べてみた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「太陽光発電は駄目だ」という根拠は，わたしが聞いたかぎりでは，きわめてあいまいだ。「太陽電池はおよそ１０年が寿命で駄目になる。その使用済み電池の処理の方法が確立されていない。つまり，捨て場所がない」というのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしのもっとも苦手な分野なので，早速，むかしの友人（専門家）に聞いてみた。すると，とても親切に教えてくれた。それによると以下のとおりである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;太陽電池には，いろいろのタイプがある。&lt;br /&gt;たとえば，&lt;br /&gt;　１．単結晶シリコン型太陽電池&lt;br /&gt;　２．多結晶シリコン型太陽電池&lt;br /&gt;　３．薄膜シリコン型（アモルファスシリコン型）太陽電池&lt;br /&gt;　４．化合物系太陽電池&lt;br /&gt;　５．色素増減型太陽電池&lt;br /&gt;　６．有機薄膜型太陽電池&lt;br /&gt;　７．量子ドット型太陽電池&lt;br /&gt;などがある。&lt;br /&gt;それぞれ一長一短があり，大手メーカーの研究所をはじめ，大学の研究者たちも全力で，より安全で，性能のいい太陽電池の開発に取り組んでいる。将来的な展望が得られない方法（技術）は，おのずから淘汰されていく。すでに，いくつもの方法が駄目だということで脱落している。いま，残っている方法もいずれ淘汰されていくだろう。最後にどの型の太陽電池が残るかは，現段階ではわからない。しかし，どのメーカーも命懸けで，将来的な展望を見据えて，研究に取り組んでいる。さきに，挙げた７つの型の太陽電池は，ほとんどの大手メーカーが開発に手を染めていて，どれが生き残るか，戦々恐々とした状態だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たしかに，一部に危ない化学物質が用いられていることもたしかだ。しかし，それを言うなら，いま使われている乾電池も同じだ。可能なかぎり回収して，安全に処理する方法がとられている。少なくとも，原発事故により放出される放射性物質や，使用済み核燃料の最終処理などのことを考えれば，それらは比較の対象にもならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;したがって，どういう理由・根拠にもとづいて「太陽光発電は駄目だ」というのか，しっかりと確認する必要がある。もし，そのような論文などがみつかったら教える。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とのこと。わたしに「太陽光発電は駄目だ」と言った人間は，いずれもそれぞれの道は違うものの，立派な職業についている人たちである。もう少し調べてから，わたしは，もう一度，それぞれの人に会って話を聞いてみようと思っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それにしても，意外なところから，意外な方法で，「太陽光発電は駄目だ」という，わたしとしては意表をつく「風評」が流れはじめているようだ。どう考えてみても偶然ではなさそうだ。このような風評こそ，人びとの無意識に働きかける「悪意」以外のなにものでもない。恐ろしいことだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし，よくよく考えてみれば，世の中「風評」ばかり。その「風評」を，一人ひとりがよく考え，見きわめながら生きていくしか方法はない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それにしても悪魔の手が，手を変え品を変えして，伸びてきている。しかも，その手に踊らされてしまっている「ジェントルマン」がいかに多いことか。作家の山田詠美は，学校の先生の中にも，この手の「ジェントルマン」が，品行方正で，信念と情熱をもつ「いい先生」のお手本のようにして棲息しているが，少し感性の豊かな子どもたちには，その本性がみごとに見破られている実態を，同じ名前の作品『ジェントルマン』で描いている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「原発安全神話」構築のために，その最先端で貢献したのは文部科学省の傘下にある学校の先生たちであったことを忘れてはならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;原発事故に関する事実関係を秘匿しつづける現政権のもとで，風評もまた悪質化しつつあり，それに乗せられてしまう危険性が，わたしたちの身のまわりにはいっぱいだ。きちんとした根拠を見きわめて，適切に判断していくことが，こんご，ますます重要になってきた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「太陽光発電は駄目だ」という風評についても，もう少し，追跡していきたいと思う。恐ろしい世の中になったものだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-7589327379475055498?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/7589327379475055498/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=7589327379475055498' title='1 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/7589327379475055498'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/7589327379475055498'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_06.html' title='太陽光発電は駄目だ，という風評が流れている。ほんとうにそうなのか。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>1</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-3042220333081908535</id><published>2012-02-05T10:49:00.001+09:00</published><updated>2012-02-09T07:57:41.277+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='太極拳の話。'/><title type='text'>「百会を高くして立つ」（李自力老師語録）その４。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;太極拳の稽古の最初の姿勢。両足を合わせて立つ。いわゆる直立姿勢。ただし，両足先は開かないで閉じたまま立つ。やや骨盤が締めつけられる感じがある。膝を伸ばし，ほんの気持だけ「出っ尻」「鳩胸」。顎をやや引いて，頭のてっぺんを高くして立つ。この直立姿勢が太極拳をはじめるときの基本姿勢。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;李自力老師のこの立ち姿がまことに美しい。さりげなく大胸筋が盛り上がっていて，腕，肩の力も抜けていて，しかも，一寸の隙もない。この姿勢をとると，顔の表情まで，一瞬にして変わる。日常の李老師とは別人になる。太極拳をする身体になりきる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;頭のてっぺん，頭頂の一番高いところにあるツボを「百会」（ひゃくえ）という。もう少し精確にいうと，左右の耳介（耳たぶ），または，左右の耳孔を垂直に結ぶ線と顔の真ん中を走る正中線とが交叉するところ。解剖学的にいうと，頭蓋骨の縫合結合が最後に完成するところ。生まれたばかりの赤ん坊の頭蓋骨の縫合は完成していないので，ペコペコと動いているのがわかる。その部分が「百会」。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;指先の感覚の鋭い人であれば，正中線をたどって頭頂にいたると，ほんのわずかに窪んで柔らかいところを見つけることができる。ここが「百会」というツボ。もちろん，赤ん坊の百会に触れてはならない。からだの中の気がとおる道。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この百会に対応しているツボが「湧泉」（ゆうせん）。足の裏にある土踏まずの部分にある。この湧泉から大地の気を吸い上げ，からだを通過させて百会から，外に放出する。気がとおる，という。熟達してくると，涼しげな風を感ずる。とても気持よく，快感そのもの，と李老師はいう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「百会を高くして立つ」と，李老師はいともかんたんに仰る。ところが，これがまた，とても難しい。ただ，立つだけのこと。太極拳は，この立つ姿勢にはじまって，最後もまたふたたび，ここに帰ってくる。礼にはじまって礼に終る，と武術の世界ではいう。太極拳ではこの立ち姿にすべてが集約されている。この立ち姿をみれば，どれだけの熟達者であるかは，即座にわかるという。気の流れるからだをわがものとすること・・・・これが太極拳の究極のゴールでもある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;百会が開くと，大地の気と天の気が自由自在にからだを流れるようになる。すなわち，自然界とからだとの一体化。このときが至福のときだ，と李老師はいう。「気持ちがいい」「快感」「恍惚」と表現はさまざまに変化する。しかし，そこは明らかに自己の身体の＜外＞と交信する場でもある。「わたしの身体がわたしの身体であって，わたしの身体ではなくなる」＜場＞。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-3042220333081908535?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/3042220333081908535/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=3042220333081908535' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/3042220333081908535'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/3042220333081908535'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_05.html' title='「百会を高くして立つ」（李自力老師語録）その４。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-5532277913856191549</id><published>2012-02-04T21:52:00.000+09:00</published><updated>2012-02-05T00:00:04.943+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='講演・シンポジウム'/><title type='text'>神戸市外国語大学の講演，無事に終了。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;昨日（２月３日），神戸市外国語大学の講演にでかけ，夜の部の懇親会も堪能し，今日（４日）の午前中に竹谷さんとことし夏に予定されている国際セミナーの打ち合わせなどをして，さきほど帰宅しました。密度の濃い時間を過ごすことができました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;でも，昨日の行きの新幹線はたいへんでした。関が原のあたりの積雪が多く，徐行運転。そのため，新神戸到着が４５分遅れ。すでに午後２時。迎えにでてくれていた月嶋君に頼んで，竹谷さんに連絡。少し遅れてしまうので，つなぎの話をしていてください，と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;昼食を食べ損なっていましたので，新神戸駅のコンビニでドーナッツやマフィンなど買いこみ，地下鉄の中で食べて，講演会場に飛び込み。しかし，講演開始時間の午後２時３０分を１５分ほどまわっていました。竹谷さんが，バスクの伝統スポーツのスライドなどをパワーポイントを使って説明していてくださったので，そのあとを引き継ぐかたちとなりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;講演のテーマは「『３・１１』以後のスポーツ文化を考える」。これまでも，何回も同じようなテーマで話をしてきていましたので，それとはちがうヴァージョンを組み立てながらお話をしました。が，気持ばかりが焦ってしまい，話の流れがつかめないまま，時間切れという，とても悪いパターンになってしまいました。集まってくださった方たちには申し訳ないかぎり。でも，終ったあとの感想などを聞いてみましたら，いくつか印象に残る話があって，楽しかったとのこと。わたしを傷つけまいとする心遣いを感じながらも，すこしだけ，安心しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;メインの話題は，１９６４年の東京オリンピックを機会に，日本の社会は激変していったことをとりあげてみました。とりわけ，家電製品が一般家庭のなかに浸透していき，大量の「電気」を消費するようになったことと，原発建設へと政府（当時の中曽根内閣）が舵を切ったのは同時だったことに焦点をあててみました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９６４年以前の日本の一般家庭には，テレビも冷蔵庫も洗濯機もありませんでした。しかし，東京オリンピックを契機にして，テレビが一気に普及していきました。それ以後，あれよあれよという間に，家電製品が家庭のなかに入り込むようになりました。それとともに，電気の消費量が飛躍的に多くなっていきました。水力発電や火力発電だけでは足りなくなると判断した当時の政府は，原発の建造に踏み切りました。しかも，原発はクリーンで安全であるというキャンペーンに多くの国民は踊らされてしまいました。その結果が，こんにちの悲劇です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;東京オリンピックを契機にして，新幹線が走り，首都高速道路が開通し，電化製品が普及し，日本人の欲望が一気に拡大し，充足される時代に突入していきました。この欲望の増大が，わたしたちの理性を狂わせていく大きな誘因になったことは間違いありません。「欲望という名の電車」（映画のタイトル）が，現実の日本社会のなかで暴走をはじめます。それに歯止めをかけることなく，ますます加速していった・・・・というのが，現時点での大きな反省点でもあります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;加えて，体力づくり運動も東京オリンピックを契機にしてはじまりました。道楽の遊びでしかなかったスポーツが，健全な青少年育成のための重要な教育の一環として，立派な正義の味方として厚遇されるようになっていきます。以後，勝利至上主義や優勝劣敗主義が大手を振って歩くようになりました。これは，資本の論理とまったく同じからくりでした。そして，ついには，巨大なスポーツ・イベントと資本が結びつき，スポーツの「金融化」があっという間に進みました。いまでは，トップ・アスリートは立派な「商品」として「売買」されるのは，当たり前となってしまいました。しかも，巨額な商取引の対象として。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうしたスポーツの商品化の流れと原発推進の流れは，偶然の一致ではなく，まさに，車の両輪として相互に影響し合ってきたという事実に注目して，可能なかぎりの説明を試みてみました。が，まだ，わたしの頭のなかでの練り込みが足らず，苦戦することになりました。このあたりのロジックについては，もう少し，磨きをかけていきたいと思っています。そして，だれが聞いても「なるほど」と思ってもらえるようにブラッシュ・アップしていきたいと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;不思議なもので，一度，講演をするたびに，いつも，新たな課題がみつかります。それがあるからこそ，あまり得意ではない講演を引き受けたりするわけです。今回もまた，反省点の多い講演となりましたが，それなりに収穫もあった，と冷静に受け止めています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このあたりのことは，また，ブログをとおして新しい見解を公表していきたいと考えています。&lt;br /&gt;取り急ぎ，神戸市外国語大学での講演のご報告まで。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-5532277913856191549?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/5532277913856191549/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=5532277913856191549' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5532277913856191549'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5532277913856191549'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_04.html' title='神戸市外国語大学の講演，無事に終了。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-5796781907831166411</id><published>2012-02-02T08:53:00.002+09:00</published><updated>2012-02-09T07:56:23.569+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='太極拳の話。'/><title type='text'>「足の指全体で大地をつかむようにして立つ」（太極拳・李自力老師語録）・その３．</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;太極拳の稽古中に，李自力老師は，しばしば名言を吐かれる。それらは長年の経験と伝統によって練り上げられてきた珠玉のようなことばである。李老師は，細心の注意を払いながら，そのときどきにふさわしいことばで説明をしてくださる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;すでに，いくつもの名言を聞き，そのときは「なるほど」と感動とともに納得するものの，愚かな弟子はすぐに忘れてしまう。これではあまりに勿体ないので，これから折にふれ，李老師の名言を書き留めておこうと思う。題して「李自力老師語録」。今日は「その１．」。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．「足の指全体で大地をつかむようにして立つ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;重心の置き所を示す名言。太極拳は基本的に「武術」である。したがって，いつ，いかなるときにも，仮想の敵が存在する。そのために忘れてはならないことは，その仮想の敵に対して，いつでも，瞬時にして動くことのできる姿勢が求められる。その要領のひとつが「足の指全体で大地をつかむようにして立つ」である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;太極拳の重心の置き所は足裏全体の真ん中ではない。ましてや「かかと」ではない。足裏全体のやや前，土踏まずの前の部分，足指の付け根あたりに重心を置く。そして，足の指全体で大地を「つかむ」ようにして立つ。つまり，一本，一本の指がそれぞれ独立して大地をつかむ要領で。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;起勢のときの両足で立つときから，まずは，はじまる。これが立つ姿勢の基本となる。そして，両腕を静かに肩の高さまで押し上げるときには，さらに，微妙な体重移動をともなう。上げた両腕を押し下げるときも同様である。仮想の敵を念頭におけば，その理は明らかである。膝の曲げ伸ばしをともなうときも同じである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;両足から片足に重心を移していき，片足で立つときも同じである。太極拳の動作の基本は「歩行」運動にあるので，常時，片足ずつ体重移動を繰り返す。このときも，きちんと「足の指全体で大地をつかむようにして立つ」ことが肝要である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以上が，李老師がわたしたちに説明してくださったことを，わたしの理解の範囲で，わたしのことばに置き直したものである。もし，間違いがあったら，忌憚なくご指摘いただきたい。李老師に確認して，修正を加えていきたい。そして，よりよい「語録」にまとめ上げていきたい。みなさんのご協力をいただければ幸いである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-5796781907831166411?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/5796781907831166411/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=5796781907831166411' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5796781907831166411'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5796781907831166411'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post_02.html' title='「足の指全体で大地をつかむようにして立つ」（太極拳・李自力老師語録）・その３．'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-5871576627313933240</id><published>2012-02-01T15:38:00.000+09:00</published><updated>2012-02-01T15:38:57.357+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='大相撲'/><title type='text'>日本相撲協会は，北の湖理事長でいいのか。覚悟はあるのか。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;１月３０日に大相撲の理事の改選が行われ，新理事の互選により，北の湖親方が新理事長に選出された。北の湖親方といえば，弟子の不祥事を理由に理事長を途中で辞任に追い込まれた人だ。その人が，またまた，再登場である。こんなことでいいのだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;外部理事で任期切れのある人の発言によれば（テレビ発言），「人材不足。だから，仕方がない」という。はたして，そうなのだろうか。ベテランに人材がいなければ，若手に眼を向ければいい。むしろ，若手を育てるべき絶好のチャンスではないのか。しかし，そうはならない。なぜか。理由は簡単。利権争いが水面下で激しさを増しているからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;利権をめぐる私利私欲の固まりのような人たちが親方集団を形成している。そういう親方のなかから理事が選ばれる。当然のことながら，自分の立場に有利な人を選ぶことになる。しかも，一門の持ち株は決まっている。だから，簡単に票数を割り出すごとができる。造反がないかぎり，新しく選出される理事は，最初から決まっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今回もまた，かなりの造反親方が現れ，予想を覆す新理事が誕生している。１０人の理事枠のところに１２人の立候補があり，選挙に突入した。前回につづいて２回目の投票である。しかも，投票の前に立候補者たちの立ち会い演説会も行われている。さらには，〇印をつける選挙方法から記名式の方法に変えている。この直前の選挙方法の変更にも，いろいろととりざたされる材料がある。その背後にいろいろと画策があったようだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういう詮索をひろい集めていくと，最終的に，新理事は北の湖親方を理事長に選出しなければならない「からくり」があったようだ。だとしたら，これは完全なる八百長ではないか。現に，表集めのために高砂一門の親方が動いたことが，情報として流れている。そのほかにも，さまざまな表集めのための運動があったことは明らかだ。そのとき，カネが動いたかどうかは，まったく「藪の中」だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;一般的な常識からすれば，北の湖親方が復活する道はありえない。これから公益法人としての手続きに入るという重要なこの時期に，一度，×のついた旧理事長が復活するというのはありえない。しかも，北の湖親方といえば，守旧派のトップに立つ人だ。これでは改革ビジョンは望むべくもない。そういう人を理事長に迎えなくてはならなかった新理事とはいったいどういう人たちなのか，とくと顔ぶれを眺めていただきたい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日本相撲協会のこんごの命運をかけた理事選挙が，こんなことでいいのか。その結果として生ずるであろう事態，すなわち公益法人としては「不可」という結論に対する覚悟はできているのだろうか。そんなことも眼中にない親方衆の選挙結果が，これだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もう一点，不思議なことがある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なぜか，今回の選挙に関しては，意外に情報が少ない。新理事が口を固くとざしているからなのか，あるいは，メディアが「自発的隷従」に徹しているからなのか，とにかくわたしの知りうる情報が少なすぎる。なにか不穏な動きがあったとしかいいようがない。公けにすることが憚られるような，きわめて不可解なことがあったのではないか。メディアはそれを知っていて，いつもの「知らぬ勘兵衛」を決め込んでいるのではないか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これからひと波瀾も，ふた波瀾も起きそうな，そんな予感がしてならない。そんな日本相撲協会の今回の理事選挙であり，理事長選挙だったのではないか，とわたしは勝手な勘繰りをしている。もし，そうならなかったとしたら，事態はもっともっと深刻だ，ということだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日本の社会のひとつの縮図をみているようで恐ろしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-5871576627313933240?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/5871576627313933240/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=5871576627313933240' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5871576627313933240'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5871576627313933240'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/02/blog-post.html' title='日本相撲協会は，北の湖理事長でいいのか。覚悟はあるのか。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-7336967924534216469</id><published>2012-01-31T09:02:00.002+09:00</published><updated>2012-01-31T09:02:46.345+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='研究ノート'/><title type='text'>「スポーツは消尽である」という理論仮説立論の試み・Ｍさんへの応答・その１．</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;１月２８日（土）の「ＩＳＣ・２１」奈良例会での，わたしのプレゼンテーションのなかで，「スポーツは消尽である」という仮説を提示しました。それに対して，Ｍさんから「この仮説に賛成」だが，それを証明するにはどうしたらいいのか，という趣旨の問いがありました。その場でわたしは，「証明」することは不可能に近いし，また，証明にこだわる必要はない，むしろ，こだわらない方がいい，という趣旨の応答をしました。このことは，さきのブログにも書いたとおりです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;が，その後，時間が経過するにつれ，証明をしようという気にはならないけれども，「スポーツは消尽である」という理論仮説を立ち上げた根拠，つまり，立論の根拠は明らかにしなければならないだろう，と思うようになりました。そこで，まずは，「スポーツは消尽である」という理論仮説立論の試み・Ｍさんへの応答「その１」として，以下のような考えを公開しておきたいと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この理論仮説は，まだ，わたしの頭のなかで誕生したばかりです。したがって，ずいぶん荒っぽい仮説にすぎません。欠点だらけのものにすぎません。ですので，みなさんとともに揉んでいただいて，より説得力のあるものに仕立て上げていきたいと考えています。ぜひとも，ご意見（反論，支持，異論，など）をお聞かせいただければ幸いです。最初に，まずは，このことをお断りしておきたいと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて，以下が「その１」の文章です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;太陽の惑星のひとつである地球に生きるわたしたちにとって，太陽は特別な存在である。わたしたち人間のみならず，あらゆる地球上の生命体にとって太陽はなくてはならない存在である。すなわち，太陽なしには，いかなる生命体もこの地球上には存在しない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その太陽は，その内部で，４個の水素核から１個のヘリウム核に変わる原子核融合反応が起こして膨大なエネルギーを，ただひたすら放出している。太陽は，すでに５０億年前から核融合反応を始めており，こんごも約５０億年は輝きつづけると考えられている。しかし，太陽は，やがてこの核融合反応を終えると，その輝きを失うという。いわば，太陽の「死」である。すなわち，太陽はひたすら「死」に向かって輝いている，ということだ。ただ，それだけの存在。それ以上のものでもないし，それ以下のものでもない。すなわち，太陽の活動は「消尽」そのものであって，それ以外のなにものでもない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;太陽の死は，同時に，地球上のあらゆる生命体の「死」をも意味する。したがって，すべての生命体は，太陽とともに，「死」に向かって生きている。太陽の寿命がほぼ中程にあるとすれば（１００億年の半分の５０億年が経過しているとすれば），地球上の生命体は，太陽のこれからの消尽の仕方の変化に合わせて，あらたな「適応」が必要となる。つまり，自然淘汰が起こる。いずれにしても，あらゆる生命体は「死」に向かって生きている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしたち人類もまた，「死」に向かって生きている。いまを生きているわたしたちもまた，「死」に向かって生きている。やがては，みんな間違いなく「死」ぬのである。つまり，「死」から逃れることはできない。すなわち，「生きる」という営みそのものが，すなわち，生命エネルギーの「消尽」そのものにすぎない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もう少し踏み込んで考えてみよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;個々の生命体は，誕生以来，ただひたすら「死」に向かって生きている。わたしたち人間もその例外ではない。すなわち，わたしは，オギャーと産声をあげたときから（あるいは，母の卵子が父の精子を受精したときから），ひたすら「死」に向かって生きている。いかなる人間といえども，成長し，老化し，死に至る。仏教でいうところの「生老病死」（しょうろうびょうし）。日々，これ「消尽」あるのみ。（ハイデガー風にアレンジしてみると，人間の存在は「時間性」のなかに拡散していく。時々刻々と変化をし続けるのみの存在，ということになろうか。）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間が「生きる」ということは，所与の生命エネルギーを，ひたすら「消尽」すること。ただし，このレベルで完結してしまうと，その生は「動物性」のそれと違わない。したがって，人間が「人間性」を「生きる」ということは，所与の生命エネルギーを，ひたすら「消尽」しつつ，自己を超え出る経験を積み重ねること，と言わねばならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして，この自己を超え出る経験のうちのひとつである，「動物性への回帰願望」の実現という経験が重要な意味をもつ。それらは，しばしば祝祭という時空間のなかで繰り広げられてきた歴史的経緯がある。ときには，供犠として。ときには，儀礼として。ときには，贈与として。しかも，酒池肉林を伴いながら。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とりあえずは，ここまでで，Ｍさんへの応答「その１」としておこう。&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-7336967924534216469?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/7336967924534216469/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=7336967924534216469' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/7336967924534216469'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/7336967924534216469'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/01/blog-post_31.html' title='「スポーツは消尽である」という理論仮説立論の試み・Ｍさんへの応答・その１．'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-2665718472263752967</id><published>2012-01-30T17:20:00.000+09:00</published><updated>2012-01-30T17:20:39.000+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='季節の話題'/><title type='text'>奈良・若草山の山焼き。ことしは寒かった。豪勢な花火が色を添える。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;１月２８日（土）の午後６時から，奈良・若草山の山焼きが，いつもにも増して豪勢な打ち上げ花火の前座のあと，点火された。よく知られているように，毎年，第４土曜日に開催されている年中行事である。しかも，長い歴史をもっている。ことしは，奈良の１３００年祭とも重なってか，打ち上げ花火がたくさん上がった。押しかけた多くの観光客は大喜びだったと思う。天候にもめぐまれ，申し分のない山焼きだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ただひとつの難点，ことしは「寒かった」。驚くほどに寒かった。わたしはこの１５年間，欠かさず定点鑑賞（奈良教育大学の屋上）をつづけているが，こんなに「寒かった」ことは初めてだ。じっと立っているだけで，足の指先から氷になっていくのがわかる。これはいけない，と途中で危険を感じて引き上げた。こんなことは初めてだ。もっとも，毎年，「山焼き」の日は寒い，ということでは有名なのだが・・・・。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ことしは，風がほとんど吹いていなかったので，まだ，屋上に立っていてもよかったと思う。あの寒さに風が吹いたらひとたまりもない。ものの１０分ももたないだろう。風が吹かなかったのはよかったのだが，豪勢な花火の連打には不向きだった。なぜなら，花火の煙が上に上がっていかないのだ。風も吹かないからそのまま停滞して宙に浮いている。それでいて，下がりもしない。ちょうど，花火が弾けたあたりにそのまま停滞しているのだ。だから，花火の美しさの邪魔をしているような結果となる。もったいないかぎりだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いつもに比べたら３倍も長く打ち上げ花火があげられて，いよいよ，若草山に点火である。奈良県のほとんどの消防団員が掻き集められ，燃やすべき枯れ草の周囲を固める。その人たちが手にもっている懐中電灯がいっせいに光る。それが点火の合図だ。周囲から少しずつ燃え上がる。いつものことだが，左下あたりから勢いよく燃えはじめたのだが，その他のところはなかなか燃え上がらない。枯れ草が湿っているのだろうか。雨が降ったとは聞いていない。では，乾燥しすぎて水でもまいたのか。それは，よく聴くことだ。ただ，ひたすら，勢いよく燃え上がることを期待して待つ。待てど暮らせど，火勢は上がらない。ちょろ，ちょろ，とあちこちが順番に燃え上がるだけ。迫力なし。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その間に底冷えが全身にまわり，これ以上，屋上に立っていたら，完全に風邪を引いてしまう，と判断。そこまで，ということで逃げるようにして退散する。いつのまにか，大勢いた見物人も，あっという間に姿を消していた。残っていたのは，われわれのグループだけだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;翌２９日（日）は，思ったよりは早く起床したので（午前７時２０分），京都に向かう前に，わたしの好きな奈良の隠れ道を散歩することにした。東海大のＭ．Ｍ君も一緒に行くというので，連れ立って歩く。奈良教育大学のすぐ北隣の細い路地を入る。その通りには，春日大社の宮司さんの住いもある。その途中から，さらに細い露地に入って志賀直哉旧居に向かう。むかし高畑クラブを組織した志賀直哉が，多くの文人・画人を集めてにぎわったという建物である。建物の設計も志賀直哉が書いたといわれる建物で。いまは，名所のひとつとなっていて観光客にも解放している。もちろん，有料。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこを通過すると，旧柳生街道にでる。そこを横切って春日大社の境内に入る森のなかの小道（別名：ささやきの小道）をのんびりと歩く。このあたりから鹿があちこちで顔をみせる。こんな朝早くから，森のなかに大きな画架を立てて絵を描いている絵描きさんにばったり。やはり，プロは違うなぁと感心してしまう。ゆるやかな傾斜を登りつめると，いよいよ春日大社への参道にでる。両脇に石でできた灯籠をみやりながら，そのむかし何回もお参りをしたことのある万灯籠を思い出す。もう，遠い記憶になってしまっているから，なおのこと，懐かしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;春日大社の本殿でいろいろの祈願をするために賽銭をさがす。自分としては気前よく，奮発。ことしに懸ける気合を籠めて。なんとしても，新たな展開がはじまりますように。その大きな転機となりますように，と。おみやげをひとつ買って，本殿の横の灯籠づたいに歩いて，日本最古の酒造所をとおり，宝物殿を通過し，駐車場にでる手前の道を山沿いに折れる。一言主を祀った神社や，その他の神様を祀った小さな祠が並ぶ。春日山から流れてくる川をわたって，石段を一気に昇ると，そこは若草山の麓。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;石段には，昨日の山焼きの燃えた黒い灰（草の茎）が散らばっていた。真下から見上げる若草山の最初の笠（三笠山の最初の山）の部分は，みごとに焼けている。最後まで見届けることができなかったので，どうなったかな，と思っていた。が，燃え上がりは上等だったことがこれでわかる。右に若草山，左にお土産物屋さんの軒並みをみながら，手向山神社に向かう。途中の「菊一文殊四郎包永」という有名な刃物屋さんが開いていたら，ペティ・ナイフを買おうと思っていたが，残念ながら，まだ，早くて開店前。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここからさきは省略。&lt;br /&gt;最終の目的地である二月堂の欄干から奈良盆地を眺めて，ＪＲ奈良駅を目指す。小一時間のつもりが，意外に長かったことに気づく。途中で，気温がどんどん下がっていくのがわかる，この日もまたとてつもなく寒い日だった。歩いても，歩いても，しかも，大きなバッグを肩にかけて歩いているのに，少しも暖かくならない。それどころか手の指先から冷えてくる。奈良盆地の底冷えを久しぶりに体感した。そういえば，こういう寒さだったなぁ，とむかしを思い出す。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしの大好きな奈良散策コース（そのむかし，よく歩いたコース）をたどることができ幸せいっぱい。Ｍ君に，いろいろの思い出話を聞いてもらいながらの散策だったので，さらに一味違う。満足，満足。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ＪＲ奈良駅から，Ｍ君も一緒に京都に向かう。まもなく，京都駅に到着というときに，昨日書いたブログの『ボクシングの文化史』の書評の情報がとどく。吉報なり，とふたりで喜ぶ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;来年も，もっと大勢で山焼きをみることができるよう，動員をかけておこう。いまから，楽しみ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-2665718472263752967?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/2665718472263752967/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=2665718472263752967' title='1 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/2665718472263752967'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/2665718472263752967'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/01/blog-post_6513.html' title='奈良・若草山の山焼き。ことしは寒かった。豪勢な花火が色を添える。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>1</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-2304881054888663086</id><published>2012-01-30T15:11:00.001+09:00</published><updated>2012-01-30T15:11:43.892+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='研究会報告'/><title type='text'>「３・１１」以降のスポーツ文化を考えるための理論仮説について──ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』を手がかりにして。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;「ＩＳＣ・２１」１月奈良例会でのわたしのプレゼンテーションの報告をしておきましょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日時：１月２８日（土）午後１時３０分～午後６時&lt;br /&gt;場所：奈良教育大学１０３教室&lt;br /&gt;プログラム：&lt;br /&gt;第一部：情報交換&lt;br /&gt;第二部：研究報告&lt;br /&gt;稲垣正浩（「ＩＳＣ・２１」主幹研究員／神戸市外国語大学客員教授）：&lt;br /&gt;テーマ：「３・１１」以降のスポーツ文化を考えるための理論仮説について──ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』を手がかりにして。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;プレゼンテーションの要旨を箇条書きにして整理しておくと以下のようになります。&lt;br /&gt;１．「３・１１」は後近代のはじまりである。&lt;br /&gt;２．「３・１１」は天災と人災のふたつの顔をもっている。&lt;br /&gt;３．フクシマは「原発安全神話」が嘘であったことを証明した。&lt;br /&gt;４．理性の狂気化している（『理性の探求』，西谷修著，岩波書店）。&lt;br /&gt;５．「理性」のはじまり・・・・道具とことばの問題系。&lt;br /&gt;６．動物性からの離脱と人間性への移行・・・・このとき，なにが起きたのか。&lt;br /&gt;　　「人間になる」とはどういうことなのか。「人間を生きる」とは。&lt;br /&gt;７．超越（性）への畏敬・・・・宗教的なるものの誕生。&lt;br /&gt;８．供犠，贈与（ポトラッチ）・・・・儀礼・・・・祝祭・・・・・「消尽」・・・・太陽。&lt;br /&gt;９．普遍経済学としての『呪われた部分　有用性の限界』と『エロチシズムの歴史』・・・・「所与」。&lt;br /&gt;１０．一般経済学・・・・資本主義経済，カネ，金融化。「所有」の問題。&lt;br /&gt;１１．「スポーツは消尽である」という命題。・・・・「命」，「生身のからだ」・・・・「所与」。&lt;br /&gt;１２．脱自，脱存（ハイデガーのＥｋｓｔａｓｅ　とバタイユのｅｘｔａｓｅ　）・・・・この類似と差異。&lt;br /&gt;　　「無意識」（ふロイド），「存在から存在者へ」（レヴィナス），「純粋経験」「行為的直観」（西田幾多　　　郎），「じかに触れる」（竹内敏晴），「力の一撃」（デリダ），など。&lt;br /&gt;１３．自己を超え出ていく経験&lt;br /&gt;１４．抑えがたくわきあがる情動・・・・エロスの力・・・・「生きる」力・・・・「消尽」（太陽と同じ）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以上が，わたしの話の骨子です。おおよそ，この見出しに沿って，ごくコンパクトに説明をしました。しかし，まだまだ進化の途中にあるわたしの思考ですので，これからどのようにこの思考が進展していくのかは，わたし自身にも明らかではありません。ですから，とても粗削りな理論仮説にすぎません。これから，みなさんに大いに揉んでもらって，より説得力のある説明ができるようにしたいと考えています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;したがって，詳しくは，このブログをとおして各論を展開していきたいと考えています。しかも，それは容易なことではありません。相当な時間が必要だとも覚悟をしています。しかし，なんとか理路を整然とさせたいと考えていますので，よろしくお願いいたします。それまで，しばらくの間，猶予をください。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これらの要点を問題提起として提示し，そのあとで，みなさんからご意見をいただくことにしました。わたしが時間を多く使ってしまったために，残り時間わずかでしたが，そのわずかな間に貴重なご意見をうかがうことができました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのひとつは，以下のとおりです。&lt;br /&gt;「スポーツは消尽である」という表現や考え方に賛成なのだが，それを立証する，証明する方途を明示してほしい，というＭさんからのご意見が，ぐさりときました。で，わたしはとっさに「それはできませんし，また，すべきでもない」と考えています，と応答してしまいました。さあ，大変です。そんなぁ，という顔があちこちに現れ，困るという無言の圧力を受けてしまいました。しばらくは，押し問答となってしまいました。が，この問題は，そんなに単純なものではないからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのとき，わたしはふたつの意味を考えていました。&lt;br /&gt;ひとつは，この問題は禅問答のようなものなので，言説化すればするほど違うものになっていってしまう可能性が強い，ということです。ですから，その内実については，あまり語ることはしたくない，と考えたからです。もちろん，個別的な事例のようなものは提示できるかもしれない（それとても，十分とはいえない）。それにしてもむなしいだけだ，と。つまり，言説化の＜外＞にあるもの，というのがわたしのイメージでした。でも，この問題は避けてとおることはできない，とも考えていました。これは，とても重い宿題をいただいたなぁ，覚悟を決めました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もう一点は，やはり，わたしたちはどこまで行っても「近代」の論理から解き放たれることはないのか，という絶望にも似た感情でした。つまり，なにごとであれ，すべて論理的整合性をもつロジックで説明しなくてはならない，という業のようなものに取りつかれてしまっている，ということです。しかし，真理には，言説化できないものもある，いな，むしろ，そちらにこそ比重がある，とわたしは考えています。それどころか，言説化できる真理などというものは，ほんのわずかな，とるに足りないほどのものでしかないのではないか，とすらわたしは考えています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たとえば，音楽や絵画や彫刻やダンスといった表現芸術は，その言説化不能の世界に迫っていく，分け入っていく，つまり，言語によるロジックを超えでていく分野である，と考えています。スポーツもまた，その分野のひとつである，というわけです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ですから，「スポーツは消尽である」というだけで精一杯。これで「わかった」というか，「わからない」というか，それだけの世界だというわけです。そこには「善悪」の尺度を超えた，あるいは，「正しい」か，「間違い」か，という価値評価を超えでたところの地平が広がっている，というわけです。どちらかに「断定」した瞬間に，それは，オブジェと化し，ショーズになってしまいます。すなわち，バタイユがいうところの「有用性」のなかに閉じ込められてしまう，というわけです。そうした思考のプロセスこそ，まさに「近代」のロジックそのもの，というげです。この軛から抜け出すこと，これこそが「後近代」のロジックだ，という次第です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「３・１１」が「後近代」のはじまりであるとすれば，まずは，この問題を超えでることが不可欠となります。ですので，Ｍさんの問いに対して，わたしとしては，あの，わけのわからない禅問答のような応答をするしかありませんでした。しかし，けっして軽んじていたわけではない，ということはこの説明で，ご理解いただければ・・・と思っています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;というような次第で，このプレゼンテーションをきっかけにして，わたしはまた一皮剥けることができました。つぎなる展望が，いま，わたしの目の前に広がっています。ですから，楽しくて楽しくて仕方ありません。このつぎなる思考を，なんとしても深めていって，なんらかの形で提示できるようにしたいなぁ，とほのかな願望をいだいています。それが，どのように表出してくるか，は「乞う，ご期待！」というところ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とりあえず，２月奈良例会での，わたしのプレゼンテーションのご報告まで。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-2304881054888663086?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/2304881054888663086/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=2304881054888663086' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/2304881054888663086'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/2304881054888663086'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/01/blog-post_2807.html' title='「３・１１」以降のスポーツ文化を考えるための理論仮説について──ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』を手がかりにして。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-8064135231071574688</id><published>2012-01-30T11:24:00.000+09:00</published><updated>2012-01-30T11:24:02.807+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='講義'/><title type='text'>大阪体育大学大学院の特別講義（２７日），無事に終了。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;この１月２７日（金）に大阪体育大学大学院の特別講義があり，なんとか無事に終ることができました。ことしで３回目だと記憶しています。最初は舞踊論のお話をさせていただいたように記憶しています。が，２回目からはスポーツ史・スポーツ文化論に関するテーマをとりあげて，お話させていただいています。今回（３回目）のテーマは以下のとおりです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「３・１１」以降を生きるわたしたちにとってスポーツとはなにか──スポーツ史的展望からの考察&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ずいぶんと長いタイトルをつけてしまったなぁ，といまごろになって反省。でも，この特別講義の依頼を受けたのは半年以上も前のことなのです。ですから，時代がどんなふうに変化しても対応できるテーマを選ぶしかありません。それで苦慮した結果が，上記のタイトルという次第です。まあ，結果論としては，大正解でした。いま，わたしが考えていることのうち，一番，伝えたい内容をセレクトすることができたからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大学院生の特別講義といっても，聞き手の院生さんたちの専攻がどのようなものであるのか，まったくわかりません。体育系の大学院ですので，実験系や健康科学やスポーツ医科学系の人たちもいます。わたしがやっているような，スポーツ史やスポーツ文化論を専攻している院生さんは少数派のはずです。ですから，講義内容をどのように構築するかは，相当に考えなくてはなりません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;授業がはじまる前に，大阪体育大学に勤務されている先生方（３人）と，講師控室で雑談をしていました。が，いつのまにか，わたしもふくめて４人で熱の入った議論になっていました。この話をこのまま院生さんたちに聞いてもらいましょうよ，とわたしから提案。みなさん，賛成してくださって，じゃあ，そうしよう，ということになりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;でも，まあ，いきなりそこに入っていくには，なにがしかの前提が必要だろうということで，まじ，最初にわたしから議論の土俵となりそうな話をして，それを引き継ぐかたちで４人の議論に入りましょう，ということにしました。しかし，授業というものは「生きもの」ですので，そんなにかんたんではありません。その教室の「場」の力がはたらきますので，予定されていたシナリオは，いともかんたんに変更を余儀なくされてしまいます。今回もそうでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最初に，わたしが切り出した話は『ｍｙｂ』みやびブックレット（みやび出版）のＮｏ．３９号（２０１２　Ｓｐｒｉｎｇ）に寄稿した初校ゲラでした。２月下旬に刊行される，その前の校正段階の原稿を，たたき台にして，話の糸口をつかもうというものでした。その原稿のタイトルが，「３・１１」以後のスポーツを考える，というものでした。ですから，ちょうどいいのでは・・・と考えた次第です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここでなにを書いたのかは，『ｍｙｂ』Ｎｏ．３９号で確認してみてください。なお，この３９号は「特集・スポーツが問われている」というもので，わたしの原稿もそこに寄稿したものです。ちなみに，わたし以外の執筆者は，西谷修，今福龍太，松浪健四郎，森田浩之，といった錚々たる顔ぶれです。この人たちが，いま現在のスポーツ情況をどのように見きわめ，なにをとりあげて論じているかは，とても楽しみでもあります。それぞれ，専門の異なる論客が，なにに着目しているのか，そして，どのような展望をもっているのか，わたしには待ち遠しくて仕方がありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;興味をお持ちの方は，どうぞ，『ｍｙｂ』をインターネットで検索してみてください。ホーム・ページがありますので，詳しい情報を得ることができます。できれば，購入していただけるとありがたいと思っています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;話をもとに戻しまして，この初校ゲラをもとにして，若干，わたしが話をふくらませてみました。これが意外に面白く展開したので，あとは，うまく議論ができる，と楽しみにしていました。が，その「場」の力というものは恐ろしいものです。院生さんたちの眼の輝きが，いつもと違う。これはどういうことなのだろう，と司会をしてくださった岡崎先生は思ったに違いありません。ですから，まずは，簡単に，いまの話の印象・感想を院生さんたちに聞いてみよう，ということになりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここから意外な展開のはじまりでした。院生さんたちの専攻は，種々雑多。でも，その多くは実験系の院生さんでした。その院生さんたちが，わたしの想定をはるかに越える反応をしめしてくれました。のみならず，自分の感じたことをとても素直に言説化してくれ，わたしにはとても勉強になりました。みなさん，とても表現力があって，ああ，この人たちはすごいなぁ，と思いました。いつもですと，どちらかといえば受け身の院生さんが多く，自分の意見というものを持とうとする人の方が圧倒的に少数派です。ところが，今回は違っていました。ですから，教室の「場」の雰囲気がとてもいいのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ということで，とうとう，この院生さんの話を聞いているうちに，時間はとっくのむかしにすぎてしまいました。全員の意見を聞き終わったら２０分も時間オーバーをしていました。悪いことをしてしまったなぁ，と思いながらも，わたしとしては大満足の授業がなんとか無事に終了しました。こういう授業ができると，よかったなぁ，教師冥利につきる・・・と思います。しかし，いつも，そうなるとは限りません。その正反対のときのショックたるや，申すまでもありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いやいや，大阪体育大学大学院の院生さんたちは素晴らしい。感謝あるのみです。&lt;br /&gt;お世話をしてくださった大学院事務局の窪田さんをはじめ，先生方にこころから感謝の意を表したいと思います。ありがとうございました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;〔追記〕この翌日の２８日（土）の奈良教育大学で開催された「ＩＳＣ・２１」奈良例会での，わたしのプレゼンテーションにも，２人の大阪体育大学の院生さんが参加してくれました。ありがたいことだと感謝しています。&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-8064135231071574688?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/8064135231071574688/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=8064135231071574688' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/8064135231071574688'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/8064135231071574688'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/01/blog-post_30.html' title='大阪体育大学大学院の特別講義（２７日），無事に終了。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-8765803510117088505</id><published>2012-01-29T18:27:00.000+09:00</published><updated>2012-01-29T22:17:26.794+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='ブック・レヴュー'/><title type='text'>『ボクシングの文化史』（東洋書林）の書評が載る・日経新聞。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;昨年末に刊行されたばかりの『ボクシングの文化史』（東洋書林，稲垣監訳，松浪・月嶋訳）の書評が「日経新聞」にでた。書評してくださったのは，川成洋さん。まだ，刊行されたから一カ月に満たない，このタイミングのよさはありがたい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おまけに，訳者の松浪さんと一緒に奈良から京都に向かう列車のなかで，まもなく京都駅に到着する寸前のところで，この情報を知ったからだ。それも，松浪さんの携帯にメールが入り，友人から書評がでたよ，という知らせだった。そのあと，すぐに別れて，別々の新幹線に乗ることになっていた。これはとてもいいお知らせだった，と二人で喜び，さよならをした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;早速，新幹線に乗る前に駅の売店で「日経新聞」を買った。列車の到着を待っている間に，なにはともあれ，書評を読んだ。新聞で書評されるのは，これで何回目だろうか。もう，精確な記憶はないが，いつも思うことは，不思議な違和感である。取り上げてくれたこと事態はとても嬉しいのだが，その内容を読むと，どこか，なにかが違うなぁ，と思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もともと書評というものはそういうものなのかも知れない。著者としての，こちらの立場は「俎の上の鯉」のようなものだ。どのように裁かれようと，板前さんのなすがままだ。この鯉は小さいなぁと板前さんが思えば，小さいと書く。立派だなぁと板前さんが思えば，立派だと書く。評者の感じたことがそのまま文章になる。それを，著者（訳者）は受け取るだけでしかない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから，ああ，そうなのかぁ，川成さんはそのように読んだのだ，と思うだけのことだ。ということは，その逆もまた，まったく同じだ，ということだから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;自分の著書にしろ，訳書にしろ，こういう主張を籠めて書いた，こういう本だと思って訳した，としてもそれはあくまでもわたしの主観でしかない。そのわたしの主観をそのまま読者が受け止めてくれるとは限らない。場合によっては，まったく違う解釈や理解のされ方をしてしまうこともある。それはそれでまた仕方のないことなのである。どうしようもないのだから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;考えてみれば，新聞や雑誌の書評に与えられる字数はきわめて少ない。その少ない字数のなかで，なんらかの書評をしなくてはならないから，書評をする人もまた大変な制約を受けていることも間違いない。その限られた字数のなかでなにを言うか，ここがまた至難の業なのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;じつは，わたしもまた，最近になって（もう３年になるのかな）評論の仕事にたずさわっているので，他人事ではない。『嗜み』（文藝春秋）という雑誌の巻末に「クロスカルチャーレヴュー」というコーナーがある。そこでは，「Ｂｏｏｋ」「Ａｒｔ」「Ｍｏｖｉｅ」「Ｍｕｓｉｃ」「ＤＶＤ／Ｂｌｕｅ－ｒａｙ」などが取り上げられている。そして，これらの評論をする仕事がわたしのような者にも与えられるようになった。ここでの字数は８００字弱である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わずか８００字で，単行本や映画や音楽を評論するというのは，まさに至難の業だとしみじみ思う。もちろん，わたしのような初心者になにが言えるのか，というまずは前門の虎を克服しなくてはならない。加えて，ことの本質を把握しえているのか，という後門の狼も待ち受けている。だから，いまもなお，『嗜み』の評論をやるときには七転八倒である。もう，必死になって，ピンポイントで問題の核心に触れることを目指す。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;単行本にしろ，ＤＶＤにしろ，何回も繰り返し確認できるものはまだしも，映画のように試写会一回で，問題の核心をとらえることは，素人には大変である。なにものにもとらわれることのない，可能なかぎりの「平常心」をこころがけるのみだ。そして，素直に感じられたことを，そのまま，評論のことばに置き換えていくしかない。それが，わたしにとっての「真実」なのだから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;となると，映画監督の思惑と，わたしの受け止め方は，必ずしも一致しない，などということは当たり前のことだ。それどころか，トンチンカンなことが起こらないとも言えない。こういう評論という仕事の「からくり」がわかるだけに，こんどは，自分の著作物が評論されるときに，心穏やかではなくなってしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こんどの『ボクシングの文化史』を書評してくださった川成さんが，はたして，どんな心境でこの文章を書かれたか，それがわたしなりに，なんとなくわかる。たとえば，冒頭から，相当に気合が入っていて，本の内容を超えたところから話を始めている。だから，「あっ」と思う。そして「パンクレーション」ということばをみて，またまた，「あっ」と思う。わたしの頭のなかには「パンクラチオーン」はあっても，「パンクレーション」はまったく存在しないからだ。いつのまにか，ドイツ語読みのまま，日本語化し，そのままカタカナ表記になってしまっている。しかも，わたしたちのスポーツ史学会では，「パンクラチオーン」は認知されていても，「パンクレーション」となると初耳だ，ということになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こんな英語の発音表記をとるか，ドイツ語読みの表記をとるか，こんな細かなこともふくめて，書評された文章を読むときは「ドキドキ」ものである。そして，最後には，「うーん，そうなのかぁ」というような，微妙な違和感が残る。それでいいのである。なぜなら，わたしの思考の幅がほんの少しだけ広くなるのだから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それにしても，川成さん，書評をありがとうございました。いろいろ勉強になりました。&lt;br /&gt;これからも，どうぞ，よろしくお願いいたします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-8765803510117088505?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/8765803510117088505/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=8765803510117088505' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/8765803510117088505'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/8765803510117088505'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/01/blog-post_29.html' title='『ボクシングの文化史』（東洋書林）の書評が載る・日経新聞。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-5972483306584156294</id><published>2012-01-26T00:44:00.001+09:00</published><updated>2012-01-26T18:26:04.575+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='講演・シンポジウム'/><title type='text'>「３・１１」以後のスポーツを考える・講演シリーズについて。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;「３・１１」以後，わたしはうろたえるようにして「生きる」とはどういうことなのか，と真剣に考えはじめた。それまでの，わたしの頭のなかにあった「生きる」がいかにいい加減なものであったかを恥じながら。要するに惰性の「生きる」でしかなかったからだ。このことが契機となって，それまでつづけてきたジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』読解の取組み方が，根本から変わった。その結果，まったく新たな別の知の地平がみえてきたのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この営みの一部は，断続的ではあるが，このブログでも書いてきたとおりである。このことと，おそらく，どこかで連動しているのであろう。「３・１１」以後のスポーツを考える，というテーマでの講演や特別講義などの依頼が増えてきた。非公式な場でのそれもふくめると相当の回数になる。そして，そうした場を重ねるごとに，わたしの思考もまた進化していった。とてもありがたいことである。鍛えられたのは，このわたしだったのだから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その総仕上げとなりそうな講義や講演がこのあともつづく。公的な場でのそれらを，これまでとこれからを合わせて一覧表にしてみると以下のようになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;〇２０１１年１０月９日（日）午後１時～２時３０分，日本余暇学会主催・講演，タイトル：「『３・１１』以後の日本人のライフ・スタイルとスポーツ文化のゆくえ──「公」と「私」の交わる場所で，場所：実践女子短大（日野市）。日本余暇学会会員対象。こちらでの講演要旨は，まもなく学会機関誌に掲載される予定。&lt;br /&gt;〇２０１１年１１月３０日（水）午後４時４０分～午後６時１０分，椙山女学園大学主催・特別講義，タイトル：「『３・１１』以後の身体について考える」，場所：名古屋市・日進キャンパス。学部学生対象。一般市民にも公開。&lt;br /&gt;〇２０１２年１月２７日（金）午後４時１０分～午後５時４０分，大阪体育大学主催・特別講義，タイトル：「『３・１１』以降を生きるわたしたちにとってスポーツとはなにか──スポーツ史的展望からの考察」，場所：大阪体育大学。大学院生対象。学部学生，その他にも公開。&lt;br /&gt;〇２０１２年１月２８日（土）午後３時～午後６時，「ＩＳＣ・２１」１月奈良例会主催・講演，タイトル：「『３・１１』以降のスポーツ文化を考えるための理論仮説──ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』を手がかりにして」，場所：奈良教育大学教職員会館，「ＩＳＣ・２１」研究員対象。奈良教育大学卒業生，学生，その他にも公開。&lt;br /&gt;〇２０１２年２月３日（金）午後２時３０分～午後４時１０分，神戸市外国語大学主催・講演，タイトル：「『３・１１』以後のスポーツ文化を考える」，場所：神戸市外国語大学三木記念会館，一般市民対象。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以上。ここまで書いていたら，初校校正ゲラがとどいた。その内容もまた「『３・１１』以後のスポーツを考える」というタイトルになっている。しかし，このタイトルについては，これから修正の予定。こちらのエッセイは，『ｍｙｂ』みやびブックレット（みやび出版）に掲載され，２月下旬に刊行される予定。４ページほどの短いエッセイである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;気がついてみれば，「３・１１」漬けになっていた。そして，このできごとが，つまり「世界史」に残るであろうできごとが，わたしのこれまでの生き方を大きく揺さぶりつづけてきたことも，こうして書き出してみるとよくわかる。それだけではない。このブログをとおしても「３・１１」以後の思考や雑感を何回も繰り返して書いている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「３・１１」まで，もうあとわずかで１年が経過する。よくも悪くも，これまでヴェールにつつまれてきた日本の中枢部の腐敗ぶりが，もののみごとに露呈してしまった。そして，「３・１１」以前までのわたしたちの「生き方」そのものまでもが，いかにいい加減なものであったかということも，知らしめられることになった。こんな「できごと」が，わたしの生きている間に起ころうとは夢にも思わなかった。が，それが起きてしまったのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;路頭に迷う，という。「３・１１」の直後，わたしは一瞬ではあったが，路頭に迷った。どうしたらいいのか，と。そこからの立ち直りを，どのように諮ればいいのか，と。その悪戦苦闘ぶりが，はからずも，このブログにも現れている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうして，いま，ようやくたどり着きつつあるのは，「３・１１」は「日本後近代」のはじまりである，という考え方である。つまり，「３・１１」を通過することによって「日本近代」が営々と築いてきた，さまざまな制度や組織や法律などが，そして，慣習行動までもが，もはや限界に達し，さまざまな局面で破綻をきたしている，という現実に直面し，もはや，その継承・発展はありえないということが明らかになったからである。となれば，「日本近代」に代わる新たな「日本後近代」のロジックが必要になってくる。つまり，日本はいま，否が応でも，変化を余儀なくされている。それが，わたしの考える「後近代」のはじまりである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この仮説を，わたしは長い時間をかけて温存してきた（『スポーツの後近代』のずっと前から）。そして，とうとう「３・１１」がその決定的なターニング・ポイントとなる，という確信にいたりつつあるのだ。なんとも不思議な局面との遭遇である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このことと連動して，わたしの専門である「スポーツ史」研究もまた，大きく変化せざるを得ない情況に直面することとなる。それは，どのように変化することになるのか。後近代のスポーツ文化が，いよいよ具体的な姿を現すことになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これらの，いま，まさに進行しつつある思考の変化・変容の，最先端の問題が，さきに記したように，２７日（金）の大阪体育大学での特別講義と，２８日（土）の「ＩＳＣ・２１」１月奈良例会での講演で験されることになる。そして，最後の仕上げが，２月３日（金）の神戸市外国語大学が主催する，一般市民向けの講演である。わたしにとって，きわめて重要な意味をもつことになるであろう講演・講義が，このあと集中的につづく。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いまは，不思議な期待と不安のないまぜになった気分でいる。いまさら慌ててみたところではじまらない。こうなったら，その場の力を借りて，わたし自身の思考そのものがどのように弾けるか，それを待つのみだ。なにも起こらなければそれだけの話。なにか起これば，それは大収穫。なにか，嵐の前の静けさのような気分。嵐がやってこなければ，なにも始まらない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしの好きな若山牧水の短歌に&lt;br /&gt;「いざ行かん，行きて，まだ見ん山を見ん，この寂しさにきみは耐うるや」というのがある。この短歌に古関裕而が曲をつけ，藤山一郎が歌った。その歌でも歌いながら（もちろん，心の中で），２７日は出発することにしよう。身を投げ出すようにして・・・・。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-5972483306584156294?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/5972483306584156294/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=5972483306584156294' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5972483306584156294'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/5972483306584156294'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/01/blog-post_26.html' title='「３・１１」以後のスポーツを考える・講演シリーズについて。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-3220818600870234377</id><published>2012-01-25T15:01:00.001+09:00</published><updated>2012-01-25T15:39:12.871+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='２１世紀スポーツ文化研究所'/><title type='text'>「ＩＳＣ・２１」３月東京例会の会場の変更について。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;〔掲示板〕閉鎖の間の，ブログでのお知らせです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３月１９日（月）午後１時から開催予定の「ＩＳＣ・２１」３月東京例会の会場が変更になりましたので，お知らせします。&lt;br /&gt;青山学院大学総研ビル３階第１１会議室を取り止め⇒青山学院大学ガウチャー礼拝堂のある建物の５階・第１３会議室に変更です。&lt;br /&gt;ガウチャー礼拝堂のある建物は，正門を入ってまっすぐに進み，突き当たったところの右手に見える建物です。&lt;br /&gt;以上，お知らせまで。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;〔追伸〕&lt;br /&gt;これもまた，読まれた方は，下の「共感した」にクリックを入れてください。&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-3220818600870234377?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/3220818600870234377/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=3220818600870234377' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/3220818600870234377'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/3220818600870234377'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/01/blog-post_25.html' title='「ＩＳＣ・２１」３月東京例会の会場の変更について。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-9085089339977481371</id><published>2012-01-24T22:26:00.000+09:00</published><updated>2012-01-25T14:52:04.793+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='読者のみなさんに。'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='２１世紀スポーツ文化研究所'/><title type='text'>緊急のお知らせ・「ＩＳＣ・２１」のＨＰを一時閉鎖します。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;「ＩＳＣ・２１」（２１世紀スポーツ文化研究所）のＨＰの「掲示板」を，一時，閉鎖します。&lt;br /&gt;このことをお知らせする場所がありませんので，わたしのブログをとおして，関係者一同にお知らせします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;理由は，悪質な書き込みが，集中的に行われ，掲示板の容量をオーバーしてしまったため，機能不全となったためです。まことに残念なことではありますが・・・・。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これまで，掲示板の管理人が，悪質な書き込みを見張っていて，そのつど，消去してきました。が，今回は，いっときに大量の書き込みが行われたために，掲示板の容量をオーバーしてしまいました。なぜ，このようなことをするのか，わたしには理解できません。だれも得をする人がいないというのに。ほんとうに困った世の中です。そこで，一時的に，この掲示板を閉鎖して，つぎなる対策を立てることになりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これまでは，だれでも，いつでも，書き込みができる，開かれた掲示板をめざしてきました。が，今回のようなことが起きますと，このままではいけないと考える必要がでてきました。どのような方法にするかは，これから，管理人と相談をして，決定したいと思います。技術的な問題が解決するまで，いま，しばらくお待ちください。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それまでの間，「ＩＳＣ・２１」関連の緊急の連絡は，このブログをとおして行いますので，よろしくお願いいたします。どうしても必要な連絡がありましたら，わたしの方に直接，メールをお願いします。すぐに，対応したいと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;取り急ぎ，緊急のお知らせまで。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;〔追伸〕&lt;br /&gt;こんご，掲示板に関連するブログにかぎり，読まれた方は，ブログの下にある「共感した」をクリックしてください。どのくらいの人が確認していてくださるかの目安にしたいと思います。よろしくお願いいたします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-9085089339977481371?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/9085089339977481371/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=9085089339977481371' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/9085089339977481371'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/9085089339977481371'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/01/blog-post_4314.html' title='緊急のお知らせ・「ＩＳＣ・２１」のＨＰを一時閉鎖します。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-7740034618093619090</id><published>2012-01-24T18:42:00.001+09:00</published><updated>2012-01-25T15:38:30.069+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='ブック・レヴュー'/><title type='text'>山田詠美の最新作『ジェントルマン』を読む。大傑作です。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;先週の金曜日（２０日）に発行された『週刊読書人』の一面トップに，山田詠美さんの顔をアップにした大きなカラー写真が載り，彼女の最新作『ジェントルマン』（新潮社）についてのインタビュー記事が，二面にわたって紹介されていました。久しぶりの詠美ちゃん（むかしから，わたしは勝手にそう呼んできました。そうです。熱烈なファンです）の登場だったので，一気にこの記事を読みました。素晴らしい内容でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ひさしぶりでしたので，えっ，そんな小説を書いたの？という驚きがまずはありました。そして，すぐに，その足で近くの本屋に走あました。が，そこにはありませんでした。そこで，仕方がないので，二子玉川の大型書店まで足を伸ばしました。さすがに，そこにはありました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人気作家の話題作となると，川崎あたりのふつうの本屋にはなかなかまわってきません。田舎に住む悲劇。川ひとつ（多摩川）超えて，世田谷区に入ると大手の本屋がありますので，そこまでいくと置いてあります。本の世界も大手の本屋が，売れる本は最優先で買い占めてしまう，ということを聞いています。つまり，取り次ぎ業者が独占的に大手書店と手を結んでいるからです。ほんとうに，いやらしい世の中になってしまったものです。こんなところにまで資本の手がのびてきていて，好き勝手なことをやっているわけです。その陰で，良心的な小さな，個性的な本屋がつぎつぎに潰れていきました。これじゃぁ，電機屋さんの世界と同じではないか。と，ついつい，愚痴がでてしまいます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて，苦労して手には入れたものの，その前に片づけておかなければならない原稿の仕事がありました。だから，読みたい本を目の前に置いたまま，禁欲生活がつづきました。昨夜遅く，ようやく，その原稿が終わりましたので，今日は解禁日というわけです。午後から，待望の『ジェントルマン』を読みはじめ，いま，終わったところです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;詠美ちゃんの最新作は，いつもそうですが，今回もまたわたしの知らない新しい世界を切り開いてくれました。読む前と読んだ後とでは，世界がすっかり変わってしまうほどです。つまり，わたしという人間を，わたしの＜外＞に引っ張りだしてくれて，また，ひとまわり大きくしてくれる，というわけです。これまでも，ずっと詠美ちゃんの作品を追っかけてきましたが，この感想はいまも同じです。だから，詠美ちゃんの作品は，彼女が新しい作品を書くたびに大きな話題となります。そして，多くの賞を頂戴することになります。詠美ちゃん自身が，日々新たにして，つねに，自己変革をくり返しているからです。同じところに立ち止まるということをしない，そういう人なのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今回は，驚いたことに，なんと，ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』を解体して，小説にしたのではないかと思われる，そういう描写が随所に登場します。ここもそうだ，あっ，ここもまたそうだ，とそんなことをくり返しながら，最後まで興奮したまま一気に，この本を読みました。ちょうど，いまの，わたしが読むにはもっともタイミングがよかったということなのでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういえば，かなり，むかしから「猫の眼でまわりをみてごらん。おかしなことがいっぱい見えてきます」と詠美ちゃんは書いていました。人間がいかに不遜で，奇怪しくなってしまっているか，という警告を発していたというわけです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今回は，詠美ちゃんが，また，一段と進化していて，加えて，わたしのレシーバーも感度がよくなっていて，という次第で相乗効果もあって，いいことだらけでした。ですから，とても深い感動があって，そこから伝わってくるメッセージはずっしりと重いものがありました。人間とはなにか，と問いつづけてきた詠美ちゃんの哲学があちこちに散りばめられていて，この人の人間洞察の奥行きの深さに目眩を起こしそうでした。しかも，これまでどおり，研ぎ澄まされた文章は，無駄なところがどこにもない，密度の濃い，凝縮された詩のようなことばの連鎖です。ですから，ひとことも見逃すことのできない，深い味わいがあります。思わず，何カ所も抜き書きしたくなるような，そういう衝動にかられるばかりでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて，「ジェントルマン」とは，お断りするまでもなく，イギリス近代が生み出した男性の理想像のひとつです。この小説の主人公は高校時代から，スポーツも勉強もでき，だれかれなく優しく声をかける気配りのできる，文字どおりのジェントルマンです。のちに，大学を卒業して銀行マンとなっても，じつにバランスのとれたジェントルマンの姿勢を貫いて生きていきます。一点の非のうちどころもない，完全無欠の人生を送っている，かに見えます。しかし，それは表の顔であって，その裏には，人に知られることなく禁を破ることに快感をいだく，恐ろしい犯罪者の顔をもっています。言ってみれば，ヒューマニズムに満ちた人間の顔と，衝動的で，暴力的な動物の顔の二つを生きている人物，ということになります。この主人公を中心に，不思議なキャラクターをもつ人間たちが渦巻く人間模様が，この小説の大きな枠組みです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もう少しだけ踏み込んでおきますと，この主人公に恋い焦がれている同級生の同性愛者がからみます。そして，同性愛者からの繊細なまなざしと異性愛者たちのマンネリ化した営みが複雑にもつれ合いながら，人間の業のようなものをきめ細かく描写していきます。もっと言っておけば，バイセクシャルの微妙な世界にも踏み込んでいきます。そうして，男と女という近代の単純な二項対立の世界が引き起こす暴力装置にも，詠美ちゃんのまなざしは分け入っていきます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうして，「ジェントルマン」という一見したところ立派な「男」の生き方にみえる理想が，じつは，「生きる」とういことの内実を伴わない，まことに形骸化した，たんなる仮面の世界でしかない，ということを明らかにしていきます。そして，むしろ，「ジェントルマン」という仮面に頼ることなく，ありのままの姿（たとえば，性同一性障害）をみずから認め，そのままの生をまっとうすることこそが，人間が「生きる」という実態に迫ることになるのだ，という詠美ちゃんからの熱いメッセージが伝わってくる。そして，そこに，わたしは深く同意する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このあたりのところは『トラッシュ』以来の，詠美ちゃんのむかしから抱えているテーマに連なるものですが，今回は，さらに一歩踏み込んだ，わたしの知らない世界を描き出し，人間の奥行きの深さを知らしめてくれました。ですから，これまでとはまた違った，まったく新たな感動をよぶことになりました。人間とはなにか，とわたしもまた深く考えることになりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間は，ヒューマンとアニマルの二つの「生」を内側に抱え込んでいることを，もっと素直に認めるべきだ，という詠美ちゃんのむかしからの主張があります。そして，その両者がバランスよく現実の世界に実現できるようにするにはどうしたらいいのか，と繰り返し問いかけてきます。つまり，昼は淑女のごとく，夜は娼婦のごとく・・・というわけです。この小説のテーマでいえば，昼はジェントルマンのごとく，夜はアニマルのごとく。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間は，ジェントルマンとしてだけでは生きていかれません。また，アニマルだけでは社会が受け入れてはくれません。この宙づり状態が，現代社会を生きるわたしたちのありのままの姿なのです。この矛盾した「生」をわたしたちが引き受けなくてはならないのは，人間が動物性の世界から抜け出してきて，人間の世界を築きはじめたときからの，宿命（あるいは，業）のようなものです。ですから，終わりのない，永遠のテーマとなるわけです。わたしたちは永遠に，この引き裂かれた「生」を引き受けなくてはならないのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この世界は，まさに，わたしがこだわってきたジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』にそのまま通底するものです。ですから，わたしには，みごとなまでのバタイユとの符合が，今回は驚きの発見でした。詠美ちゃんは，さきの『週刊読書人』のインタビュー記事では，バタイユのことはひとことも触れてはいませんが，当然のごとく，彼女の視野のなかにある，とわたしは確信しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんな永遠のテーマを詠美ちゃんは，手を代え，品を代えして，小説世界で説きつづけていきます。今回のこの作品は，恐るべき完成度の高いものとなっている（とわたしは思う）。まぎれもなく，彼女の畢生の傑作です（これまでも，新しい作品がでるたびに，わたしはそう思ってきましたが）。それほどの，素晴らしいできばえだと確信しています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぜひとも，ご一読を。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;またまた，大きな話題を呼ぶことになるでしょう。それは間違いありません。&lt;br /&gt;詠美ちゃんファンとしては，鼻高々です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;芥川賞選考委員を辞退したイシハラ君に，この本を読ませてみたい。理解不能というのだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-7740034618093619090?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/7740034618093619090/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=7740034618093619090' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/7740034618093619090'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/7740034618093619090'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/01/blog-post_24.html' title='山田詠美の最新作『ジェントルマン』を読む。大傑作です。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-4716542656741576044</id><published>2012-01-22T19:11:00.002+09:00</published><updated>2012-01-22T19:12:12.706+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='大相撲'/><title type='text'>把瑠都の初優勝，おめでとう！先輩大関の意地。日本人大関誕生の皮肉な効果。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;琴奨菊につづいて稀勢の里が大関となり，日本人大関の活躍を期待した人は多いだろう。しかし，意外や意外，二人の日本人大関の誕生によって，眠っていた外国出身大関が発奮した。そして，大活躍。その結果，陰が薄くなってしまったのが横綱白鵬だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大関が活躍する場所は面白い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;横綱白鵬を倒す力士の登場は，当分の間，ないだろうと思われていた。それほどに，白鵬の強さが際立っていた。他の力士がつけ入るスキはない，とまで思われていた。しかし，そうではなかった。じつは，白鵬がダントツに強かったのではなかったのだ。他の力士が不甲斐なかっただけの話。つまり，白鵬を除く他の力士が弱すぎただけの話。そのことが，この場所で証明された。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それにしても，相撲というものは面白い。心技体というが，そのトップにあるのが「心」だ。この「心」の持ち方ひとつで相撲内容は大きく変化する。そのことを今場所はじつによくみせてくれた。心技体のうち，技と体にめぐまれた若手力士がつぎつぎに育っているのに，肝心要の「心」が足りないために足踏みする有望力士が多い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今場所，際立って奮起したのは，外国出身の大関陣。琴奨菊や稀勢の里に追い越されてなるものかとばかりに，闘志に火がついた。とりわけ，一度も優勝経験のなかった把瑠都の意識が大きく変化した。その結果，相撲内容まで大きく変化した。前半のバタバタ相撲が，少しずつ落ち着いてきて，後半には力強い相撲が何番もあった。とりわけ，琴欧州を圧倒した力相撲は，把瑠都の将来を照らしだす素晴らしい相撲内容だった。あの型ができあがると，把瑠都は間違いなく横綱になれる。その意味では，いま，最短距離にいる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;相撲というものは面白いものだ。把瑠都ほどの馬力があっても，気持に迷いがあったり，闘志が足りなかったりすると，いとも簡単に攻め込まれてしまう。先場所までの把瑠都はそうだった。今場所は，迷わず前にでることに専念した。そして，粗削りながら，がむしゃらさもでてきた。これでいいのだ。相手につけ入るスキを与えない，そういう攻撃力が，相手得意の型に持ち込ませない破壊力となる。その印象が力士たちの間に広まっていくからこその，あの稀勢の里をはたき込む変化ワザが生きるのだ。だれでもできるワザではない，ということを銘記すべし。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今場所の初優勝で，把瑠都は大きな自信をもつことができただろう。立ち合いの破壊力をもっともっと磨いて，相手がいやがるような型を身につけ，その上でがっぷり胸を合わせるところに持ち込めば，あとは把瑠都の思いのままだ。諸手突きで突き放し，相手の上体をおこした上で，相手が突っ込んでくるところを軽くいなして，横から上手をつかみ，一気に振り回すような型をもつこと。そう，あの琴欧州戦のときのような。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;休場つづきだった琴欧州も，今場所で，なにかをつかんだはず。日馬富士も，スランプから眼を覚ましたかのような活躍をした。白鵬を倒す最短距離にいるのは日馬富士だと，わたしはずっと以前からみている。真っ向勝負で突き立てておいて，一瞬の間合いで，白鵬を横向きにさせるスピードとセンスは天性のものだ。今場所も，過去の真っ向から突き立てる立ち合いが白鵬の頭にあったからこその，変化ワザがみごとにはまったのだ。白鵬を上回る敏捷性を武器に，日馬富士も相撲の型を身につけること。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうして，外国出身大関たちが大きく立ちはだかってくると，日本人大関も黙ってはいられまい。もっともっと稽古をして，先輩大関を超えでていける力をつけること。そうして，壮烈な大関同士の闘いがはじまると，大相撲はまことに面白くなる。そこに，つぎの大関候補が割って入ってくる。そういう期待のできる力士はごろごろしている。いつ，目覚めるか。つまり，しっかりと自覚した「心」をわがものとするか。そのとき，相撲が「化ける」。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その意味で，今場所の把瑠都の初優勝のもたらす効果は大きい。把瑠都を先頭にして，打倒白鵬の意気込みを大関陣がもつこと。そして，それにつづく有望力士がつぎつぎに名乗りをあげること。そうなると，大相撲全体が白熱してくる。そうなったときに，白鵬のほんとうの強さが証明されることになろう。これまでの白鵬の強さは，他の力士が弱すぎただけのことだ（と，わたしは考えている）。大関が元気になれば，白鵬ももっともっと気合が入ってこよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このとき，上質の相撲がみられるようになる。それこそが，わたしの期待する芸能としての大相撲なのだ。その世界は，たぶん，歌舞伎のような「美」意識を挑発するような，アーティスティックな濃密な時空間を醸しだすことになろう。そこまでくると，もはや，だれが勝っても負けても，みんな大満足するような一大スペクタクルの完成である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大相撲のめざす世界はそれではないか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;把瑠都の初優勝を見届けたところでの，わたしの感想である。&lt;br /&gt;まずは，初優勝，おめでとう。そして，来場所はもっと強くなった姿をみせて欲しい。&lt;br /&gt;ヒーロー・インタヴューでの，あの涙は美しかった。わたしも，もらい泣きしてしまった。こういう涙はいいものだ。把瑠都よ，来場所の嬉し涙をこころから期待しているから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-4716542656741576044?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/4716542656741576044/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=4716542656741576044' title='1 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/4716542656741576044'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/4716542656741576044'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/01/blog-post_22.html' title='把瑠都の初優勝，おめでとう！先輩大関の意地。日本人大関誕生の皮肉な効果。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>1</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-1703631097755574317</id><published>2012-01-21T13:59:00.001+09:00</published><updated>2012-01-21T13:59:45.102+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='スポーツ批評'/><title type='text'>「ダルビッシュ・有」という商品のゆくえ。人間の事物化への道。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;いま，ダルビッシュ・有の記者会見が行われている。途中までテレビでみていたが，いやになって書斎に籠もる。しかし，ある一点のことが気になって，仕事が手につかない。ならば，仕方ない。それを書いて，吐き出してしまおう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ある一点とは，「ダルビッシュ・有」という人間が「商品」として売買されていくことの，なんとも言えない居心地の悪さとでもいえばいいだろうか。プロの選手だから，なんぼのものとして値段がつけられ，商取引の対象とされることは，いまでは当たり前のことだ。サッカー選手はもっと短期間の商品として，あちこちに移籍されている実態を見せつけられているから，もう慣れっこになっている。そして，こうしたスポーツ選手の商品化はますます拡大し，底辺を拡げつつある。まだ，無名の選手に対するスカウティングは，あらゆる競技種目に広がりつつあり，その背景には金銭が蠢いている。たぶん，こうした選手の商品化は，現状では，とどめようもなく浸透していくのだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういう実態の頂点の一つとして，「ダルビッシュ・有」の商取引が，多くの人びとの耳目の対象となっている。だから，アメリカで行われている記者会見が，リアル・タイムで日本のテレビが放映している。緊張しきったダルビッシュの顔がアップで映し出され，マウンドの上にいるとき以上に，ピリピリした神経質そうな表情の一部始終が伝わってくる。このあたりは，いかにも人間・ダルビッシュが透けてみえていて，微笑ましくもある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし，わたしが居心地の悪さを感じるのは，ふたつある。&lt;br /&gt;ひとつは，ポスティング制度というアメリカ産の商取引のルールに，おそらくなんの疑問もいだくことなく身をゆだねていく日本のプロ野球選手たちの行動と，それを当たり前のこととして報道するジャーナリズムの姿勢である。&lt;br /&gt;もうひとつは，人間の「事物化」（バタイユ）という現象が，こうして無意識のうちに，日常化し，当たり前のこととなっていくという事実に対してである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;前者のポスティング制度は，言ってみれば，ＴＰＰと同じで，アメリカの定めた商取引の基準に，あらゆる国の移籍希望の野球選手を巻き込んでいこうというものだ。文句のある奴は，ローカルな野球を楽しんでいればいい。メジャーの選手にはなれないだけの話だ，として切って捨てるシステムだ。つまり，野球のグローバリゼーション，それも，アメリカのメジャー中心のグローバリゼーション，その一翼をになう制度なのだ。こうして，なし崩し的に，アメリカのスタンダードが世界を支配していくことになる。気がついたら，もう，身動きできない状態が世界に浸透していく。「法」という名の暴力装置の発動である（「法制定的暴力」＝ベンヤミン）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それもまた，多くの人びとの無意識に働きかけるという手法によって。なぜなら，ジャーナリズムが，ポスティング制度の普及がもたらす問題点については，なんの批判もしようとしないからだ。あるいは，そんな矛盾に気づこうともしないし，気づいても無視するのが落ちだ。こうして，さらに，「法」が正当なものとして維持されていく暴力が発動する（「法維持的暴力」＝ベンヤミン）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして，その「法」がもたらす甘い蜜を求めて，ヤクザな人間たちが虎視眈々と新たな「商品」をスカウティングし，資本家に売り込む，という図式ができあがる。ダルビッシュ・有君は，こうして，みごとな「値段」がつけられたということだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;後者の，人間の「事物化」の問題はもっともっと深いところでの，もっとも深刻な哲学上のテーマだ。つまり，人間が「生きる」ということはどういうことなのか，という問いに突き当たる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この議論を，いま，ここで展開するだけの余裕はないので，ごく短絡的になるけれども，結論的なことだけを述べておこう（詳しくは，ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』を読む，という一連のブログで確認していただきたい）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;バタイユに言わせれば，人間の事物化の第一歩は，人間が動物性の世界から離脱し，人間性の世界に踏み込んだときにはじまる，という。だから，人間の事物化とは，きわめて，「人間的」な営みでもあるのだ。別の言い方をすれば，人間の内なる動物性を抑圧すればするほど，人間の「事物化」は進展する。文明化の過程は，まさに，人間化の過程であり，動物性から遠ざかることでもあるのだ。それを推進した原動力こそ，人間の「理性」である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その頼みの「理性」が，どこかで，ボタンをひとつかけ違えたために，「狂気」と化すというとんでもないことが起きてしまった。それが，まさに，現代社会のあちこちで起きている，狂った現象の根幹をなすものだ。そのことに，わたしたちの多くが気づいていない，それが，まさに大問題なのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし，原発事故をめぐるその後の展開をとおして，多くの人びとが，なにかが狂っているということに気づきはじめている。「原発安全神話」もまた，わたしたちの無意識に，意図的・計画的に働きかけられた暗示によって，でっち上げられたものだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ダルビッシュ・有」という商品が，これからしばらく大きな話題となって，メディアを賑わすことだろう。しかも，それが人間の事物化に向かう動力と，深いところでつながっているのだ。多くの人びとがなにも気づかないところで。長い人類史にとっても，画期的なことのひとつとして。しかも，スポーツが人類史に大きな影響力をもつ，そういう局面に，いまわたしたちは立たされているのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかも，狂気と化した理性の延長線上に。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-1703631097755574317?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/1703631097755574317/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=1703631097755574317' title='1 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/1703631097755574317'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/1703631097755574317'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/01/blog-post_21.html' title='「ダルビッシュ・有」という商品のゆくえ。人間の事物化への道。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>1</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-1205628094117964512</id><published>2012-01-20T12:50:00.001+09:00</published><updated>2012-01-20T12:50:18.870+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='大相撲'/><title type='text'>大相撲「優勝争いに冷や水」と書く新聞の愚かさ。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;新聞に大相撲の記事を書く人たちというのは，どういう人たちなのだろうか，といつも思う。ずぶの素人なのか。それとも，大相撲についてそれなりの勉強をしている人たちなのか。なかには，ベテランの大相撲担当記者もいるはず。なのに，見出しをみると，まるでポピュリズムの大通り。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今朝の新聞（『東京新聞』）には，昨日（１９日）の取り組みについて，「立ち合い変化　ため息」「優勝争いに冷や水」という大見出しが踊る。そして，その記事の書き出しは以下のようである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「興ざめ」としか言いようがない。立ち合いの変化で把瑠都が全勝を守り，日馬富士は真っ向勝負を避けて白鵬に土をつけた。注目の取組で，なりふり構わず勝ちにいった２人の大関。把瑠都と白鵬の間には２差がつき，優勝争いへの興味も急速にしぼんだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかも，この記事は記名である。ずぶの素人記者とは思えない。全体の記事を読むかぎりでは，かなり大相撲に精通していることがわかる。しかし，大相撲のなんたるかという肝腎なところが，いまひとつ欠落している。大相撲の力士は，別名，男芸者とも呼ばれている。わたしは，この男芸者ということばを悪い意味では受け止めてはいない。相撲という「芸」を売って（その他の「芸」もある），メシを食っている人，というごく当たり前のことばとして受け止めている。かつて，宮本武蔵は「武芸者にござる」と自分の職業について応えている。わたしは，この表現が好きだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;すべては番付で裁かれる世界だ。この序列が，いま，現在の地位のすべてだ。どんなに若造でも，どんなに生意気な奴でも，番付が上なら，一歩，譲らなくてはならない，そういう世界だ。宴席に坐るときも，メシを食う順番も，すべては番付による。だから，どんなことをしたってルールの範囲内であれば，「勝ち」は勝ち。これが大相撲の世界であるということを，もっと，大相撲ファンに知らせる必要がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;にもかかわらず，いまも機能しているのは，かつてのアマチュアリズムのフェア・プレイの精神。このフェア・プレイの精神そのものが，かつてのイギリスの特権階級の生み出した，じつに「差別」的な精神であることを，日本のスポーツ担当記者たちは知っているのだろうか。自分が働かなくても（労働をしなくても）収入がある人たちだけがアマチュアであって（ボートのヘンレー・レガッタの初め），労働をして収入を得ている人はすべてプロフェッショナルであるとして，スポーツの世界から排除した上での，フェア・プレイであることを。いまでは，とっくのむかしに意味をなさなくなってしまったアマチュアの倫理を，こんにちの大相撲に当てはめて，なんの矛盾も感じていないスポーツ記者が多すぎる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういう記者が記事を書く。なにも知らない読者は「そうか」と思い込む。こうして「風評」なるものは，無意識のうちに公器をとおして，世間に広まっていく。その一翼を，新聞記者であるあなたが担っているという自覚がありやなしや。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この点，力士たちの方がはるかに上を行っている。同じ新聞の別のコーナーにはつぎのような記事がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;立ち合いの変化にはまった稀勢の里と白鵬。ともに変化は頭に「なかった」と言う。真っ向勝負をしたかったか問われた新大関は「勝負ですから。何があるか分らない」と言葉を選び，相次いで観衆が落胆したことについて聞かれた横綱は「負ける方も悪いからね」と答えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このみごとなまでの応答ぶり。さすがに，大相撲を背負う大関と横綱のことばである。これでいいのである。なにも，真っ向勝負だけが相撲ではない。こういう変化わざという手が残されているからこそ，相撲の奥行きがぐんと深くなり，味わい深いものとなる。それが，すべて，真っ向勝負だけであったら，こんにちの大相撲人気はないだろう。大きくて，力の強い人間だけが勝つ，そんな大相撲になんの魅力もない。かつての舞の海のような力士が現れるからこそ，大相撲は面白いのだ。「小よく大を制す」そういう場面が担保されているからこそ，わたしは場所に通う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;くだんの記名記事を書いた文章の一部を，もう一度，引用しておこう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;先に土俵に上がった把瑠都は，優勝の可能性を残す稀勢の里との一番だった。いきなり左に変化し，相手の首を両手で押さえてはたき込んだ。「組みにいこうと思ったけれど，体が勝手に動いた。見に来てくれているファンの皆さんに申し訳ない」。そう話しはしたが，満面の笑みで小走りに花道を引き揚げ，風呂に入るなり「よっしゃあ」と声を上げる姿に，説得力はなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;多くの読者は，このまま，受け取るのだろうと思う。しかし，わたしには笑止千万。力士たちがジャーナリストから声を掛けられたら，どのように応対するかは，熟知している。タテマエとホンネを使い分けていることは「勝利者インタヴュー」を聞いていれば，だれだってわかることだ。それを，わざわざ言挙げして，ここまで書く新聞記者はなにを考えているのか，それこそホンネを聞いてみたい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;把瑠都にすれば，初優勝が目の前に迫っているのだ。なにがなんでも勝ちにいく。当たり前のことだ。そのためには，優勝争いに加わっている相手力士はひとりでも多く「つぶして」いく。そのための「はたき込み」だ。しかも「体が勝手に動いた」と言っている。わたしなら，この発言に注目したい。なぜなら，立ち合い，じらしにでたのは稀勢の里の方だ。わざと，仕切り直しのテンポを落し，相手を待たせたのは稀勢の里の方だ。この駆け引きに，把瑠都のからだが反応して「勝手に動いて」の変化ワザだったとすれば，把瑠都の成長をそこにみる。今場所の好調の理由は，まぎれもなく力士としての把瑠都の成長にある。つまり，「相撲を覚えた」のだ。これまでの，不器用な把瑠都とは一味違う，新境地を開いた，もう一つ上のレベルに到達した把瑠都を，わたしはそこにみる。こうなると，把瑠都の横綱はすぐそこだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日馬富士と白鵬の相撲は，もう，なにも言うことはない。白鵬の完敗なのだ。そして，わたしは日馬富士にこころからの拍手を送りたい。おみごと，と。この両者の駆け引きを見届けること。わたしは大満足だ。そこを見ずして，ただ，変化ワザが許せないという新聞記者のレベルの低さにあきれはてるのみ。白鵬は冷静に「負ける方も悪い」と言っている。横綱の方がはるかに大相撲の極意に近いところで自分の相撲を振り返っている。やはり，白鵬は偉い。賢い。立派。新聞記者は，白鵬の真意を酌み取って，そのふところの深さを解説すべきではないのか。そして，真の相撲の面白さを引き出すくらいの記事を書いてほしい。それが，わたしの願いだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なぜか？　これを書きはじめるとエンドレスになる。&lt;br /&gt;残念だが，今日のところはここまで。みなさんで考えてみてください。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-1205628094117964512?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/1205628094117964512/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=1205628094117964512' title='1 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/1205628094117964512'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/1205628094117964512'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/01/blog-post_20.html' title='大相撲「優勝争いに冷や水」と書く新聞の愚かさ。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>1</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-515319698327259394</id><published>2012-01-19T17:30:00.001+09:00</published><updated>2012-02-09T07:55:42.198+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='太極拳の話。'/><title type='text'>「太極拳に正しい，間違いはありません」李自力老師語録・その２．。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;李老師が事務所に到着。すると，いきなりカメラをもちだして（ソニーのスマートフォンとかで，カメラの性能がとてもいいらしい。わたしにはよくわからない話），わたしの顔を撮影する，と仰る。なぜ？とわたし。弟さんが設立した商事会社（貿易）のＨＰに，わたしの顔写真と短い文章を載せたいのだ，と。おやおや，である。それはまあ，無事に終わって，よもやま話になる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしは，早速，「肩関節をゆるめる」は「はずす」だったという話を李老師にしようと思ったけれども，これはこんどみてもらってから話をしよう，と急遽，引っ込めることに。それでも，おのずから太極拳の話になり，いつのまにか，とてつもない奥義に触れるような話になった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしが切り出したのは，太極拳の正しい動作の仕方はとても奥が深くて，むつかしい，という話。この話を受けて，しばらく考えた李老師はつぎのような話をなさる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;太極拳に正しいとか，間違いとかはありません。いま，やっていることがそのまま正しいのです。それ以上でも，それ以下でもありません。それしかないのです。あっ，これだ，と気づいて，それらしくできるようになる，ただ，それだけです。ただし，その気づきは無限と言ってもいいでしょう。とても，奥が深いものです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なぜなら，太極拳の所作は，その人の理解，イメージの範囲内でしかできません。自分でこうだなと思ってやること，それでしかないのです。それがその人にとっての真実なのです。ですから，初心者に高度な演技を要求しても無理です。それぞれのレベルに応じた演技しかできないのですから。それを無理して高度な演技をやろうとすることは，なんの意味もありません。どうせ，できないのですから。あるいは，見よう見まねでそれらしくできたとしても，それは形だけであって，内実はなにもないのですから。まったく無意味です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それよりも，大事なことは，いつもくり返しやっている２４式をとことん追究していくと，あるとき，突然，からだの方になにかが起こります。からだが勝手に動きはじめるのです。それまでに体験したことのないからだが忽然と現れてきます。そのからだにすべてを委ねるのです。そこは，もはや，桃源郷のような心地よさで充たされ，なにものにも代えがたい，至福の時空間の中に溶け込んでいきます。こういうことが何段階にも分かれていて，あるとき，突然，むこうの方からやってきます。それをひたすら待つのみです。待つことすら忘れて，無心になって，ある集中の状態に入ったとき，それが起こります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;初心者には初心者なりの快感が立ち現れます。それがすべてなのです。あまり上手になろうと欲張らないことです。いま，ある力で，楽しめばいいのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;という具合に，延々と，こういう話がつづきました。&lt;br /&gt;わたしはこの話を聞きながら，あっ，これは道元禅師が『正法眼蔵』のなかで言っている「修証一等」ということと同じではないか，と思いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;道元禅師のいう「修証一等」とは，つぎのようなことです。&lt;br /&gt;早く悟りの境地に到達したくて，無理をして修行してもなんの役にも立ちませんよ，と。修行というものは，その人の悟りのレベルに合わせて行うしかできないのですよ，と。その人の，そのときの実力に合わせて，修行のプログラムを組むことが大事です。それ以上のことをやろうとしてもてきるものではありません。つまり，修行（＝修）と悟り（＝証）は，一つのことであって，等しいものなのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このことはタオイズムの元になった老子の『老子道徳経』の中にも，同じような趣旨のことが書かれています。もともと，仏教と老子の思想との接触によって，禅仏教が生まれ，それを道元は中国から持ち帰ったわけですので，こういう符合が起きたとしてもなんの不思議もありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;李老師は，太極拳の根本にある思想がタオイズム（道教，道家思想）にあることを，もちろん熟知した上で，みずからの体験をまじえて，さきほどのような話をわたしにしてくれたのだと思います。そして，よくよく考えてみれば，わたしが，いまもなお，からだを自分の意志で動かすことに必死になっていることを見極めた上で，そろそろ，そのレベルを卒業しなさい，と婉曲に知らしめてくださっているようにも思います。わたしの，いまの段階の意識としては，２４式を，書道でいえば，まずは，楷書でできるようにすること，にあります。それがきちんとできるようになれば，やがて草書も行書も書けるようになるだろう，と。しかし，そんなことにあまりこだわる必要はない，と言ってくださっているようにも思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「肩関節をゆるめて」やれば，自然につぎの運動が起きてくる。余分なからだの力みをそぎ落としてやれば，からだは自ずからなる法則にしたがって，まったく別次元の動きをはじめる。そのことを気づかせるために「肩関節をゆるめる」という課題を，わたしに与えてくださったのではないか，といまごろになって気づくわけです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;でも，気づいたときが吉日。そこから，あらたなスタートを切ればいいのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;李老師は，「正しいとか，間違いとか」というようなヨーロッパ近代の二項対立的な考え方を超越したところに太極拳はあるのだ，とわたしに説いてくださったように思います。わたしの，これからの太極拳の稽古の仕方，あるいは，取り組み方が変化するとすれば，ここからでしょう。さて，これからどんな展開が待っているのやら・・・・楽しみがいっぱい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最後に，溝の口の会場を借り上げるときの団体名に「自然功力会・溝の口支部」を使わせてもらっていいですか，と許可ももらいました。「自然功力会」は李老師が組織している太極拳愛好家たちの団体名です。これからは，立派な「自然功力会」の一員として認めてもらった，という次第です。ただし，月謝を受け取ってもらえない，この関係はなんとかしなくては・・・・とこれだけが悩みのタネですが（こんなことを書くと李老師ファンの方たちから叱られそうですが，お許しください）。まあ，隠れ「自然功力会」のメンバーくらいのところでお許しを。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-515319698327259394?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/515319698327259394/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=515319698327259394' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/515319698327259394'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/515319698327259394'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/01/blog-post_3261.html' title='「太極拳に正しい，間違いはありません」李自力老師語録・その２．。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-3717932284739912196</id><published>2012-01-19T15:12:00.000+09:00</published><updated>2012-02-09T07:53:40.668+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='太極拳の話。'/><title type='text'>「肩関節をゆるめなさい」・李自力老師語録・その１．</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;ことしの正月から，大岡山でやっていた稽古を溝の口に移して，昨日（１８日）で３回目。中国からもどったばかりの李老師が，ふらりと顔をみせてくださった。すっかりもたれ掛かろうと思ったら，いつものように稽古をはじめなさい，と仰る。仕方がないので，わたしが音頭をとることに。李老師はわたしの指示どおりに準備体操から柔軟運動，基本の動作練習と，わたしの見えない位置に立ち，黙々と稽古をはじめる。わたしはもとより，みんな緊張しているのがわかる。お互いにとても親しい間柄なのに，なんともいえない緊張感がつたわってくる。これが実にいい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;基本の動作練習の途中くらいから，李老師が，みんなの見える位置に移動してきて，率先垂範してくださる。いつものことだが，李老師は，口で説明する前に必ずみずからやってみせてくださる。その上で，最小必要限度のことをピン・ポイントで指摘してくださる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いつものとおりに，２４式が終わったところで，李老師から二つのご指摘をいただいた。&lt;br /&gt;一つは，肩関節をゆるめること。もう一つは，上体を腰の回転の上に乗せること。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いずれも基本中の基本だ。もう，何年，稽古をつづけていることだろう。にもかかわらず，この基本がまだできていないのだ。自分ではできているつもりなのに。情けない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ただ，「股関節をゆるめなさい」ということばは耳にタコができるほど言われてきたので，ことばとしては理解していたし，その努力をしてきたつもりである。しかし，「肩関節をゆるめなさい」は初耳だった。だから「えっ？」とわが耳を疑った。肩関節をゆるめる，とはどういうことなのか，イメージができない。イメージがつかめない運動はできない。李老師が何回もやってくださる。が，わたしの眼には見えない。みんな真剣だ。わたしの見ているかぎりでは，Ｎさんの動きが李老師のそれによく似ている。しかし，わたしのそれはまったくダメだ。どこかギクシャクしている。が，Ｎさんの動きはとてもなめらかなのだ。うーん，とこころの中で唸ってしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;半信半疑のまま，何回も見よう見まねのままくり返していると，「そう，そう」と李老師は励ましのことばをかけてくださる。しかし，やっている本人はなにもわかってはいない。かえって困ってしまう。褒められても納得できないのだから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;稽古が終わって，昼食をともにして，解散。鷺沼の事務所にきてから，ドアのガラス部分に映るわが姿を見ながら，「肩関節をゆるめる」のおさらいをする。何回もやってみるが，やはり，わからない。ダメだ，わからないことを何回もやっても仕方がない，と諦めたとき，ストンと肩関節がはずれたようにゆるんだ。えっ，いまのはなに？そうか，はずすんだ，と納得。わたしの身体感覚では，ゆるめるではなくて，はずす，だった。なるほど，肩関節をはずしてやると肘が自然に下がってくる。すると，手首からさきの掌が自然に顔の方に近づいてくる。ゆるめる（はずす）ことによって起こる自然の動きを引き出すこと，ここがポイントなのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;どうも，自分で動かそうとする意識が強すぎたらしい。李老師にそっくり真似てやろうとすればするほど，違うものになっていく。そうではなくて，「ゆるめる」ことによって起こる，ごく自然の動きが大事なのだ。そういう動きが立ち現れるように「ゆるめる」（はずす）こと。あとは腕に聞いてくれ，とばかりに力学の法則に委ねてしまうこと。そのさきに，李老師の，柔らかく，粘り強く，そして，力強さまで感じられる動きが待っている（らしい）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;すっかり気をよくして，事務所の片づけ仕事をしていたら，そこに李老師から電話が入る。ちょっと用事があって鷺沼に行くので，事務所に立ち寄っていいか，と仰る。ちょうど，コーヒー・タイムにしようと思っていたところなので，大歓迎。ここで，またまた，太極拳の話になり，とても貴重なお話を伺うことになった。その話は，独り占めにしていたのでは申し訳ないので，このつぎのブログに書くことにしよう。まことに奥の深い，味わい深い話で，わたしとしては大満足。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結論をちょっとだけ言っておけば，タオイズムと道元の思想の接点のようなお話である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;では，次回を楽しみに。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-3717932284739912196?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/3717932284739912196/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=3717932284739912196' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/3717932284739912196'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/3717932284739912196'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/01/blog-post_4857.html' title='「肩関節をゆるめなさい」・李自力老師語録・その１．'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-2293198912120683309</id><published>2012-01-19T12:11:00.000+09:00</published><updated>2012-01-21T00:48:06.339+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='「３・１１」以後に向けて。'/><title type='text'>文部省（現文部科学省）の審議会委員をしたときの経験と「自発的隷従」ということについて。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;毎日，毎日，憂鬱で仕方がない。朝の新聞からはじまって，テレビ，ラジオ，それにインターネットを流れてくる「ニュース」に触れるたびに，日本の国に未来はない，と絶望的になってしまう。ほんのひとかたまりのある特定のムラの住人たちの利害だけで，この国の意思決定がなされてしまう，その実態が透けてみえてくる。それも，じつに巧妙な仕組みを用いて。そのひとつは「第三者機関」と称する学識経験者による審議機関（ふつうは〇〇〇委員会という）。この機関のほとんどは官僚が設定をし，官僚のシナリオどおりに「承認」されることが前提となっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしの憂鬱の一因は，かつて，わたしも文部科学省になる前の文部省時代の審議会の委員を勤めたことがあり，多数決による「お手打ち式」に加担した経験が，いまごろになって慙愧の思いとともに鮮やかに脳裏に浮かんでくるからだ。もちろん，わたしは官僚作成の原案に反対意見を述べたのだが，圧倒的少数意見（だれも支持してくれなかった）で否決された。なんともやるせない気分だった。この一件以後，文部省からは，なんの声もかからなくなったことは当然だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このとき，堂々と原案に対して賛成意見を述べたわたしの後輩は，いまもその世界で大活躍である。それでいて，わたしに逢うと弁解ばかりする。まことに困った御仁である。本人に言わせれば，だれとも仲良くするための方途だ，という。しかし，それは違うだろう。類は類を呼ぶという。そのとおりで，かれをとりまく人種はみんな似た者同士ばかりである。こういう人種が，日本という国家の意思決定の背後で蠢いているのだから。困ったものだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしの，たった一回だけの経験がすべてだとは断定しない。しかし，最近の省庁の抱えている〇〇委員会とか〇〇審議会などの様子を，メディアをとおして眺めていると，基本的にはまったく変わってはいない，ということが手にとるようにわかる。そのひとつが「ストレス・テスト」だ。どのような基準で，なにが「テスト」されたのか，そして，どういう理由で「合格」となったのかは，なにも明らかにはされていない。極秘裏に決定されている。つまり，最初に「結論ありき」の「お手打ち式」でしかないのだ。（今朝の新聞でも同じことが報じられている）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このことが疑われると，さらに，ＩＡＥＡによるチェックをしてもらう，という。このＩＡＥＡこそ，原発推進のために設置された国際機関であり，その片側で「安全」をチェックする，という「お手盛り」機関なのだ。要するに，みんなグルになって「お手打ち式」をやっているにすぎない。ただし，このグルに対して反抗する国家は，徹底的に叩かれてしまう。たとえば，イラクのように。「正義」という名のアメリカの武力によって，国家はボロボロにされてしまう。しかも，一方的な誤認だったことが明らかになったにもかかわらず，だれひとりとして責任をとろうともしない。みんな「仲良しクラブ」のグルだから。日本の〇〇安全委員会も同じようなことをして，平気でいられるのはこういうお手本があるからだ。そのためには，日頃から「自発的隷従」の姿勢を貫かなくてはならない。ムラの一員となるために。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これを阻止できるのは，地元住民の「反対」という意思表示しかない。それでも，沖縄県のように，住民の頭越しに，アメリカとの盟約を盾にして押し切ろうとする政府与党の魂胆も明々白々だ。それを，また，見殺しにするヤマトンチューが圧倒的多数を構成しているのだから，始末が悪い。しかし，いつまでもこんなことを繰り返していてはならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その意味で，ことし一年は，まさに「正念場」だ。アメリカや国際社会に「自発的隷従」の姿勢を貫くことだけに熱心で，国民ひとりひとりの「命」など犠牲にしてもいいと平気で考えているムラの住人に対して，こんどこそ声を挙げなくてはならない。これをしも放棄してしまうとしたら，これこそ，日本の国に未来はない。どんなに小さなことでもいい。身のまわりの，できることから行動を起こし，声を発して，自分たちの「命」を守ることを実行に移すことだ。それしか方法はないのだから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まずは原発を阻止しよう。沖縄の米軍基地を県外へ，そして，国外へ。ＴＰＰの阻止を・・・・。課題は多い。が，その原点は「自発的隷従」からの脱却だ。つまり，「事物」と化してしまった日本人から，もう一度，生身の血のかよう人間としての日本人を取り戻すことだ。いつのまにか，わたしたちは「事物」と化してしまったのだ，という自覚をしっかりともつこと。ここから，すべてがはじまる。「自発的隷従」という生き方が，いかに賤しい根性のもとに成り立っていることか，と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;遅きに失した感もなきにしもあらずだが，気づいたときが吉日。そこからスタートを切るしかないのだから。わたしたちの眼に見えないところで，メディアが報道しないところで，すでに，ささやかな自覚に支えられた行動を起こしている人たちが，あちこちにいる，ように思う。いや，そうに違いない，と信じたい。いまは，それしか明日への希望を支えてくれるものはないのだから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから，わたしも，「自発的隷従」の軛から離脱して，もっと自由な言動のとれる時空間のもとへと移動していくことにしよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-2293198912120683309?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/2293198912120683309/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=2293198912120683309' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/2293198912120683309'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/2293198912120683309'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/01/blog-post_19.html' title='文部省（現文部科学省）の審議会委員をしたときの経験と「自発的隷従」ということについて。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-693879882868950472</id><published>2012-01-16T22:21:00.000+09:00</published><updated>2012-01-16T22:21:43.104+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='考現学，'/><title type='text'>とうとう体当たりをくらってしまいました。「ながら歩き」の女子高生から。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;今日（１６日），午後７時３０分ころ，鷺沼駅の裏口の歩道で，「ながら歩き」をしている女子高生に体当たりをされ，跳ね飛ばされてしまいました。駅から出てくるサラリーマンや高校生も見ていましたが，見て見ぬふりをして通りすぎて行きました。体当たりした女子高生は，ふり返りもせず，まだ夢中のまま「ながら歩き」をして行きました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今冬，もっとも寒かった夜の，もっとも寒いできごとでした。わたしは呆然としたまま，しばらく，歩道にある防護柵につかまったまま，立ちすくんでいました。これが，日本社会の，いま現代の，ひとつのまぎれもない現実のひとつであるのか，と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;新聞やテレビで「ながら歩き」が問題になっていて，あちこちでいろいろ事件になっていることは知っていました。わたし個人としても，何回か，スレ違いざまに「出足払い」を掛けてやろうかという衝動に襲われ，それを「まてまて」と制御するのに精一杯でした。と思っていたら，わたしが跳ね飛ばされていました。なんということか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ことの経緯を精確に記しておきたいと思います。&lt;br /&gt;鷺沼の事務所をでて，いつものコースを通って，鷺沼駅の裏口の坂道の歩道を登っているときのことです。坂道の中程のところまで登って行ったとき，ちょうど電車から降りた人たちが坂道を下ってきました。相手が大勢なので，自然に，わたしは真ん中を避けて，歩道柵にぴったりと寄り添うようにして登っていました。スレ違う人はお互いに身を交わしながらすり抜けていきます。その中に，「ながら歩き」のまま坂道を下ってくる女子高生がいました。しかも，柵に沿って歩いてきます。わたしは，逃げ場を失って，その場に立ち止まりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;新聞の報道によりますと，中年の「ながら歩き」は駄目だが，若い人たちの視野は広く，スレ違う人を視野の中に入れていて，瞬間的に交わしていく，とのこと。そのことが，ちらっ，と脳裏をよぎりました。だから，逃げ場のなくなったわたしは立ち止まることにしました。そして，最悪の場合でも，わたしの真ん前にきて，相手も立ち止まるだろう，と判断しました。これが甘かった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼女がどういう種類の人かはわかりませんが，一歩も歩みを緩めることなく「ドーン」とそのままわたしに体当たりをして，平然とまっすぐに通りすぎていきました。しかも，なにごともなかったかのように，そのまま「なから歩き」をしていました。これをみて，わたしは「エッ？」「なに？」「これって？」と「？」マークが頭中に広がりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしはどうなったか。まさか，体当たりをしてくるとは思ってもいませんでしたから，油断もあったかもしれません。それと，坂の登りと下りの差もありましょう。上から降りてくる方が質量が大きかったのでしょう。６０キロのわたしを跳ね飛ばしたのですから，相手の女子高生も相当のものです。わたしは，みごとに跳ね飛ばされて，縦軸に一回転して，歩道の防護柵につかまって，かろうじて転ぶ難を避けることに精一杯でした。そのつかまった姿勢のまま，振り返って女子高生を見送っていた，という次第です。まわりの人は，だれも，見て見ぬふりをして，通りすぎていきました。なにか，近年に体験したことのない，正体不明の背筋の寒くなる思いがしました。しばらく，身動きすることもできないほどに。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まさか，わたしがこんな眼に逢うことになろうとは・・・・。身を交わすスペースのあるところでは，これまでも，何回も「ながら歩き」の若者たちとぶつかりそうになったことはあります。そのつど，わたしの方から，身を交わして難を逃れるようにしてきました。しかし，今日は，そのスペースがありませんでした。しかも，立ち止まっていれば，体当たりする寸前に相手は気づいてくれる，と信じていました。それが甘かった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もうひとつショックだったことは，体当たりした女子高生が，振り向きもせず，失礼の挨拶もなく，平然と立ち去って行ったことです。もはや，何をか況や，です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とうとうここまできたか，世も末である，と吼えてみたところでどうということもありません。これから，こういう情況になったら，大きな声でみずからの存在をアピールするしかない，と覚悟を決めました。じゃあ，どんな声を出すのか，ともうひとりのわたしがせせら笑っています。よしっ，もう，いまから決めておこう。「ヘェークション」という加藤茶のギャグを借りて。それも思いっきり大きいアクションで。いやいや，思いっきり大きなハクションで。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-693879882868950472?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/693879882868950472/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=693879882868950472' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/693879882868950472'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/693879882868950472'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/01/blog-post_2042.html' title='とうとう体当たりをくらってしまいました。「ながら歩き」の女子高生から。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-6462942055272632870</id><published>2012-01-16T15:11:00.000+09:00</published><updated>2012-01-16T15:11:54.654+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='居酒屋『延命庵』'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='季節の話題'/><title type='text'>冷えきったからだを芯から温めるには泡盛・与那国（６０度）にかぎる。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;このところ，寒い日がつつきます。通常は，夜７時になると鷺沼の事務所の後片付けをして，帰宅します。が，最近になって，ようやく吐く息が白くみえるようになってきました。これまでが暖かすぎたということでしょう。その分，寒いなぁ，と感じます。からだがうまく適応できていない証拠です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;家に着くのは午後８時少し前です。それから夕食です。が，すっかり冷えきってしまったからだはなかなか温まりません。そこで，奥の手を使います（もっとも，これは口実という声もあり）。冷えきったからだを芯から温めるにはこれにかぎります。泡盛の与那国，６０度。これをストレートで，キュッと，ほんの少しだけ流し込みます。与那国が舌を滑り，喉を超えて食道を駆け下り，胃の腑でジワーと広がっていくのが手にとるようにわかります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もちろん，このときに使う盃は，与那国用の極小のもの。信楽焼と備前焼の中間のような，土の地肌がそのままみえる，どろくさい盃です。極小，というサイズは理解できるでしょうか。わたしも，沖縄で初めてお目にかかったもので，ほんとうに小さな盃です。最初は，那覇の国際通りにある泡盛専門店の地下で，出会いました。つまり，泡盛の試飲用のものでした。ちびっとずつ，あれこれ，たくさんの泡盛を試飲するのにちょうどいい，というわけです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし，その後，あちこちで，この小さな盃を眼にするようになり，これはなんのためのものなのか，と聞いてみました。そうしたら，もともとは，サトウキビの刈り入れのときに，暑さで気力がなえそうになったら，６０度の泡盛を，この小さな盃で「キュッ」といっぱい飲み干す，そのためのものだ，とのこと。なるほど，と納得。いまでは，それが飲み屋さんにも置いてあるし，一般の家庭にも置いてある，というわけです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それが，いまでは，わが家にもある，という次第。で，これは使い方によっては，とても便利なものであることが，最近，ようやくわかってきました。これまでは，まさひろ（泡盛）の４３度を，ぐい飲みで飲んでいました。一杯で終われば問題はないのですが，二杯目が問題です。二杯目をなみなみと注いでしまったら，あとで仕事になりません。そこで，半分くらいにするのですが，なんとなく物足りないときがあります。そうすると，また，ほんの少しのつもりが半分くらいになってしまいます。このときは，あとの祭りです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが，この極小盃のよさは，一杯ずつ飲んでいって，ああ，このあたりだな，と思ったらそこで打ち止めにすればいいわけです。からだの芯が温まり，気分もいいなぁ，と思ったところで打ち止め。この微妙な量の調節が，自在にできる，ここがポイントです。こういう小回りが効くと同時に，何回も注ぎたしをしていきますので，気分としては，かなりたくさん飲んだという充足感もあります。ここが第二のポイント。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし，この極小盃は，６０度以上の泡盛を飲むための小道具だということも確かです。試しに，まさひろの４３度を，この極小盃で飲んでみると，まことに物足りないのです。ひとくちで，コポッと飲んでしまいます。しかし，さすがに６０度となると，そうはいきません。この度数の高い泡盛を，何回にも分節化しながら飲む，というところがミソです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いつか，どなん（泡盛）の７０度が手に入ったら，この極小盃で試してみようと思っています。たぶん，うまくいくのではないか，とそういう予感がします。この予感が大事。もちろん，つぎ足す回数は少なくなるとは思いますが・・・・。当然ですね。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;厳寒の夜，冷えきったからだを芯から温めるには，この極小盃で，いまは，与那国の６０度が一番。こころの中では，この寒波よ，いつまでもつづけ，と叫びつつ・・・・・。冬の夜の楽しみ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうだ。延命庵にも備えおくようにしよう。話題の一つに。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-6462942055272632870?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/6462942055272632870/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=6462942055272632870' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/6462942055272632870'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/6462942055272632870'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/01/blog-post_16.html' title='冷えきったからだを芯から温めるには泡盛・与那国（６０度）にかぎる。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-2915881939944498567</id><published>2012-01-14T18:45:00.002+09:00</published><updated>2012-01-14T23:09:41.361+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='時事ネタ'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='「３・１１」以後に向けて。'/><title type='text'>フランスの原発，３分の２は改修工事が必要。その経費は約１兆円とか。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;鷺沼の事務所で昼食をとるときには，ラジオのＪ－ｗａｖｅを聞くことにしている。理由ははっきりしている。とてもすぐれたＤＪが何人かいるからだ。そのすぐれたＤＪの名前を覚えるほどの入れ込みはしていないが，とにかく，何人かは抜群に優秀。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今日は，そのうちのひとりだった（男性，もちろん，バイリンガル）。まず，かかっている音楽がとても心安らぐもので，この人の選曲のセンスのよさがにじみでている。話題はあちこちに飛んでいくのだが，一貫しているのは「脱原発」をはっきりかかげていること，そして，自分の主張をきちんと述べ，その根拠まで提示する。なかなかの人である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんな話題のひとつに，フランスの原発の現状に関する情報提供があった。しばらく前に，新聞で，フランスの原発を一斉に「ストレス・テスト」をすることになった，と読んで知ってはいた。しかし，その結果がどうなっているのかまでは知らなかった（ひょっとしたら，今日のホット・ニュースだったのかもしれない）。その内容がじつに衝撃的だった（わたしにとっては）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その骨子を代弁すると以下のようになる。&lt;br /&gt;フランスの原発の３分の２は，ストレス・テストの結果，改修工事が必要，という判定がくだされ，その改修費用はおよそ１兆円を要することが判明した。フランスは折しも，大統領選挙の前。国民の間で，原発の是非をめぐる議論が沸騰している。立候補予定者もみずからの立場を明確にしなければならなくなってきている。フランスは，これまで，原発もやむなし，という立場をとってきたが，このストレス・テストの結果をうけて，脱原発への選択肢が大きく浮上することになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その最大の理由は，二つある。一つは，原発はコストが安いと考えられてきたが，逆に，コストは高くつくということが判明したこと。改修費だけでこれだけの費用がかかり，さらに，廃炉にするにしても３０年を要する費用が必要となる。しかも，使用済み核燃料の処理にも膨大な年月と費用がかかることも明確となった。二つには，コストが高い上に，危険を背負うリスクが高すぎる，ということがフクシマによってより現実的になったこと。核エネルギーは，いまだ，完全には，人間のコントロールできる範囲内にはないということ。一度，大きな事故が起きたら，もはや，人間による制御は不可能であること。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この問題を，フランス国民がどのように考えるか，世界が注目することになる。その結果いかんによっては，こんごの世界の趨勢に大きな影響を及ぼすことになりそうだ。日本は，カン君が脱原発への舵を切ったのに，どじょうな野田君がどうも煮え切らない。そして，いまでは，ムラのチカラに流されつつある。こんな状態がつづくかぎりは，フランスの選挙結果に期待する方が早そうだ。ドイツにつづいて，フランスも脱原発の道を歩むことになれば，この影響は絶大である。日本もしぶしぶということになるのであろうか。それでもなお，日本のムラビトたちは，アメリカ親分の顔色をうかがいながら，へなへなと誤魔化しつづけるのだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いずれにしても，これからさきのフランスで展開されるであろう「原発問題」は目が離せそうもない。小学校から哲学の授業があり，就職試験にも「哲学」を必須とするところが多いと聞く。日本と違って，国民全体が哲学的教養をもとに，さまざまな議論をし，判断をくだしてきた国である。どういう議論の経過をたどるのか，そこに注目したい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Ｊ－ｗａｖｅは，ほかにも女性のＤＪで素晴らしい人がいる。この人の放送を耳にしてしまうと，途中で止められなくなる，そういう魅力をもっている。ラジオのＤＪには素晴らしい人たちが活躍している。テレビのお人形さんたち（男も女もふくめて）とは比較にならない。とにかく，自己主張がはっきりしていて，聞いていて心地よい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;取り急ぎ，今日のラジオからの情報の受け売りまで。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-2915881939944498567?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/2915881939944498567/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=2915881939944498567' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/2915881939944498567'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/2915881939944498567'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/01/blog-post_14.html' title='フランスの原発，３分の２は改修工事が必要。その経費は約１兆円とか。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-8737579132994405831</id><published>2012-01-13T14:50:00.000+09:00</published><updated>2012-01-13T14:50:12.987+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='「３・１１」以後に向けて。'/><title type='text'>どんどん「３・１１」以前にもどっていく。それは「復興」ではない。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;ムラのチカラがこれほど強いとは思ってもいなかった。最近になって，ムラの存在が日ごとに大きくなってくるのがわかる。そして，どんどん「３・１１」以前の態勢にもどっていくのもありありとわかる。東日本大震災もフクシマの原発事故もどこ吹く風。東電の好き勝手がまかり通っている。責任のひとかけらもないかのように。そして，わたしたちの税金が湯水のように東電の「復興」のために注ぎ込まれている。その上，さらに「増税」ときた。なんというこった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;政界，財界はもとより，学界も腰抜け。メディア界も大手はみんな腰抜け。ムラに完全にコントロールされてしまっている。そのチカラたるや恐ろしいほどだ。だから，東電にとって都合の悪い報道はなにも流さない。ＮＨＫを筆頭に。それを受け取る国民の大半は，なんの疑念もなく垂れ流し情報をそのまま信じていく。国民の意識のなかから「３・１１」の教訓がどんどん消えていく。まだ，一年も経過していないというのに。もう「忘却」のかなたに消え去ろうとしている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これでは，文字通り，大山鳴動して鼠一匹だ。しかも，着々と事態は改善され，いい方向に進展している，と政府は嘯く。しかも，それが「復興」だと言わぬばかりに。嘘の壁で塗り固めた「復興」。これでは，まったくの「後ろ向き」の「復興」でしかない。「復興」とは「前進」することだ。以前の欠陥をいかに克服して，新しい道筋を打ち立てていくのか，これが「復興」だ。にもかかわらず，以前の欠陥をそのままにして，いや，それどころか後生大事に温存したまま「復興」させようとしている。これは間違いだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「３・１１」以前のどこが間違っていたのか。なぜ，間違えたのか。そこを明らかにすべきではないのか。そして，それに代わるべき理念・方法・方針を明確にした上で，「復興」の道筋を立てるべきではないのか。いまやっている「復興」はその場しのぎの，付け焼き刃的応急処置にすぎない。それもある程度まではやむを得ないとする寛容の精神が大事だと考えてきた。しかし，ここにきて，ムラが息を吹き返し，さっさと「増税」を打ち出し，そして，内閣改造ときた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ムラにとって都合のいい政権は，なにがなんでも支えていくだろう。自民党ですらできなかったムラの喜ぶことを，まさか，政権交代した民主党が率先してやるとは思いもしなかった。国民の期待も一気に熱が下がり，とうとう政権支持率が２０％を割るか，というところまできているのに。もはや，断末魔の体を晒しはじめているというのに。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「復興」の名のもとにまっさきに取り組まなければならないことは，人間の生きる基盤を確保することだ。経済の国際競争にいままでどおりに参入することではない。それよりさきに，まずは，日々を生きる基盤を奪われてしまった人びとの生活を，どのようにして回復させるか，ということだ。カネよりもイノチを第一に。被災者はいまも夢も希望ももてない状態のまま，じっと耐えているのだ。そこに，ほんのわずかな希望でいい。希望の燈火を点けることだ。それが「復興」の内実だ。そのことのためにこそ「税金」を投入すべきだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なのに，なぜ，その前に東電に「税金」を回さなければならないというのか。その前に，東電の責任を明確にし，その上で東電を解体し，発送電を分離させ，そのシステムを確立することではないのか。そのために税金が必要だというのなら，まだわかる。いまのままの東電に税金をつぎ込もうとしている意図は，明らかに原発推進，再稼働に向けての体制づくりの一貫ではないのか。なし崩し的に事実を積み上げていく，「３・１１」以前までのやり方をそのまま踏襲しているだけのことではないのか。これは，東電が構築してきた得意の「手」ではないのか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それを大手のメディアは見て見ぬふりをしている。恐ろしいムラのコントロールのもとで。国民は，それを鵜呑みにしていく。あるいは，マヒしていく。それが日常化していく。このシステムは，沖縄の基地移転問題と同じ構造だ。メディアの無視，そして，国民の無関心。いま，被災者は沖縄の人びとと同じ苦しみを味わわされている。大手の新聞各社も，みごとに，それに足並みをそろえている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;『東京新聞』はひとり「脱原発」路線を強烈に打ち出して，日々，これまでの悪弊を暴き立てている。ときに，おやっ？と思う記事もなきにしもあらずではあるが，徹底して原発批判の手をゆるめようとはしない。と，思っていたら，とうとう，今日の新聞によれば，新聞各社で構成している論説委員会から『東京新聞』は締め出されようとしている，という。なにごとぞ。こんなことが，いま，日本の社会のなかで起きようとしているのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;東日本大震災とフクシマ原発事故という天災と人災が一度に押し寄せてきた，この一大事のときに，言論統制まで裏では行われようとしているらしい（すでに，「自発的隷従」という名の言論統制は行われいるのだが）。これも，ムラのチカラであることは明々白々である。これでは，まるで，「ショック・ドクトリン」（ナオミ・クライン）を地でいくような話ではないか。ひょっとしたら，わたしたちの知らないところで，極秘裏に「ショック・ドクトリン」の手法は粛々と浸透しているのかもしれない。気がついたときにはすでに手遅れだ（「原発安全神話」の嘘と同じで）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;どうも，いま，「絆」という名のもとでなされている「復興」は，見せかけだけで，ほんとうの仕掛けはもっともっと別のところで進展しているような気がしてならない。でなければ，民主党政権が，かくも平然と国民の意志を裏切っていられるはずがない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしたちは，二度と，「原発安全神話」のような嘘に騙されてはならない。いま，打ち上げられている「復興」音頭の陰で行われていることに，どう考えても奇怪しいと思われることが多すぎる。その最たるものが，「３・１１」以前の体制にもどそうとする「復興」音頭だ。すなわち，ムラの再生だ。これは，どう考えても「復興」ではない。もし，そうだとしたら「絆」のスローガンは，ムラの「絆」の再生であり，「復興」でしかない。それを「復興」とは呼ばない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;一度，足を止めて，「復興」の内実について，しっかりと考えることがいま求められている。のちのちになって，後悔しないで済むように。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-8737579132994405831?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/8737579132994405831/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=8737579132994405831' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/8737579132994405831'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/8737579132994405831'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/01/blog-post_13.html' title='どんどん「３・１１」以前にもどっていく。それは「復興」ではない。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-983428523274368926</id><published>2012-01-12T14:30:00.000+09:00</published><updated>2012-01-12T14:30:50.081+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='季節の話題'/><title type='text'>今冬，はじめての結露をみる。本格的な寒さはこれからか。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;ことしの冬は暖かい。冬の衣裳で少し歩くと汗ばんでくる。寒がりのわたしでも，手袋を必要とすることは滅多にない。ところが，ようやく昨日の夕刻，前線が通過してから，急に冷え込んできた。夜道を歩くほっぺが冷たくなっている。そのむかし，スキーに行っていたころの雪山を思い出す。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今朝，起きてカーテンを引いたら，窓にほんのわずかながら結露ができていた。ああ，ようやく本格的な冬の到来だ，と妙にうれしくなった。やはり，冬は冷えてくれないといけない。暖かいのはありがたいが，いつまでも暖かいと，これでいいのだろうかと心配になってくる。人間の世界がいい加減堕落してしまっているので，せめて自然だけでもきちんと時を刻んでほしい，と思う。冬は寒くなくてはいけない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いつもの年なら，暮れも正月も，朝起きたらまず最初の仕事は窓の結露を拭き取ることからはじまる。なのに，ことしは，なにもしなくて済む。ありがたいような，これではいけないような，中途半端な気分だ。冬は冬らしくなってくれないと・・・・。寒がりのわたしでさえ，そう思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;本格的な寒波がやってくると，例年なら，昼間，書斎に籠もっていても，窓の結露は休むことなくつづく。乾いた雑巾できれいに拭き取っても，すぐに窓はくもり，やがて結露し，そのうちに結露した水滴が上から下へと運動会をはじめる。アルミサッシの窓枠からも滴が垂れ落ちてくる。こうなってくると，仕方がないので，また，全部，拭き取る。そして，窓を開けて雑巾をしぼる。しぼり落とされた水がベランダに一本の川をつくる。多いときには，一気に雨樋用の切り込みまで流れていく。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こんなことを，日に何回もくり返す。これが，いつもの冬だ。しかし，今冬はまだない。今朝の結露も３０センチ四方くらいの範囲に，ほんのりと，窓にくもりを描いた程度だ。拭き取る必要もなく，しばらくしたら消えてしまった。それでも，今冬，最初のささやかな結露ではある。これから，もっともっと本格的な寒波がやってきて，毎日，結露との闘いがはじまるようになるのだろう。その予兆というべきか。こういう冬は遅くまでつづき，ひょっとしたら，３月になっても雪が舞ったりするかもしれない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;奈良のお水取りのころに（最後の大たいまつは３月１０日ころだったか）は，間違いなく冷え込むと，地元の人たちは言っていたことを思い出す。実際にも，奈良に住んでいたころには，よくお水取りの行事を見物に出かけたものである。そして，大たいまつの日は超満員になるので，その前のウィークデーにでかける。すると，ほとんど人もいなくて，これまた不思議な光景だった。お水取りの儀礼は，たしか２週間つづくと記憶している。その間，まいにち「たいまつ」はあの二月堂の階段を駆け上り，欄干のところでひと踊りして，右手に消えていく。これを，ほとんどまばらにしか人がいない，がらんとした広場から見上げているのも，なんともいいものだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;明日の朝には，もう少し大きめの結露ができるだろうか。どんな結露でもいい。冬なんだから，それらしく，日々，結露が窓いっぱいに広がり，さらに，その結露が垂れ落ちる運動会が盛んに繰り広げられることを，密かに期待する。時節にふさわしく，せめて自然現象だけでも，元気であってほしい。だから，理屈を超えてこれからは，がんがんと冷え込んでほしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今朝の新聞を開いて，またまた，憂鬱になってしまった。原子力ムラは衰えるどころか，ますます元気になってきて，再稼働に向けて着々とつぎなる手を打っている，という。わたしのこころはますます寒くなる。このままでは，こころの中に結露ができてしまいそう。そうならないように，なんとか耐える手筈をととのえないと・・・・と，いささか焦ってしまう。困ったものだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-983428523274368926?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/983428523274368926/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=983428523274368926' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/983428523274368926'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/983428523274368926'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/01/blog-post_12.html' title='今冬，はじめての結露をみる。本格的な寒さはこれからか。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-2510791217087966490</id><published>2012-01-10T15:01:00.000+09:00</published><updated>2012-01-10T17:59:43.273+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='「３・１１」以後に向けて。'/><title type='text'>いつまでつづく泥濘ぞ。非常時の自覚が足りぬ政治家たち。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;平和なときの党利・党略の争いは，下手な猿芝居をみるより面白い。しかし，いまは非常時なのだ。そんなときに党利・党略のせめぎ合いをしている場合ではないだろう。なのに，自民党も情けない。かつて，政権をとる前の民主党と同じことをやっている。しかも，「３・１１」を通過したあとの，この非常時だというのに。いったい目ん玉ァどこについてんだっ，と怒鳴りたくなる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;土壌・野田首相は，被災地のことで頭がいっぱいだ，という。ならば，もっと泥鰌らしく泥んこになって働けばいい。被災地の人びとの側に立って。なぜ，財界の側に身を寄せてしまったのか。それでは，泥鰌にはなれません。泥鰌を生かすも殺すも自由自在の，泥鰌の飼い主である土壌（財界）の側に身を寄せているかぎりは。それでいて，被災地のことで頭がいっぱい・・・・とは。聞いて呆れる。蛙の面に水，の蛙の顔にみえてくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;メディアの報ずるアンケート調査によれば，国民の約７割が原発推進に反対しているというのに，なぜ，それを無視して財界の望む原発推進に与するのか。政権交代した民主党の使命こそ，自民党の推進してきた原発を阻止することだろう。にもかかわらず，原発の売り込みに身を入れるのか。それでいて「被災地のことで頭がいっぱい」だという。いい加減にしろ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「３・１１」以後，日本という国家を動かしている中枢にいる人びとが，みんな「嘘つき」だということが丸見えになってしまった。だれもほんとうのことは言わない。責任をとろうともしない。これが日本という国家の中枢の真の姿だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;政府・民主党が原発推進というのなら，なぜ，自民党は脱原発を言わないのか。早く，民主党政権を倒して，政権を奪還したいのなら，いまこそ，脱原発に舵を切るべきだ。そうすれば，選挙で圧倒的多数を占めることができる。なのに，そうはしない。なぜか。その理由も，すでに，みんな自明のことだ。しかし，だれ一人として，その理由についてのほんとうのことは言わない。ここでもお互いに嘘をつきあっている。民主党も自民党も，原発推進のほんとうの理由は明かそうとはしない。暗黙の了解事項だとでもいうように。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地震・津波による被災からの復興もまだまだ手も足も出せない。原発事故についての収束はもっともっとさきのさきのことだ。気の遠くなるほどさきの話だ。にもかかわらず，政府は収束宣言をし，平時にもどったかのように嘯く。それもこれも，みんな計算と打算にもとづく演出であり，演技だ。そのようなフリをして，いかにも事態が進展しているかのように錯覚させるためだ。もっとも痒いところに救済の手を差し伸べなくてはならない原発による被災者たちを，一番，怒らせてしまっている。なんのための政府なのか。なんのための政治なのか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いまからでも遅くはない。わたしたちは，いま，非常時を生きている，ということを周知徹底させることだ。その前提で政治に取り組むべきだ。自民党の協議拒否など，もってのほかだ。敵がいま，目の前で武器をもって攻めてきているというのに，協議にも参加しない，とは。戦闘放棄だ。つまり，政治家放棄に相当する。前線にいる兵を見殺しにしていていいのか。日々の生活も，将来も，なにもみえない状況で，喘ぎ苦しんでいる被災者を見殺しにしていていいのか。政治家は，いま，なにをしなければならないのか，それすらわかってはいない。平時のぬるま湯に浸かりすぎた「ゆで蛙」そのままだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ことここにいたってもなお，党利・党略にしがみつく政治家とはなにか。いまこそ，超党派で国家存亡の危機を救うために立ち上がるべきときではないのか。そのリーダーシップをとる政治家よ，いでよ。なんの腐れ縁もない，若きリーダーよ，いでよ。そして，いまこそ「国民の命」を守ることを第一にかかげる，若きリーダーよ，いでよ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;明日で，「３・１１」から１０カ月が経過する。なのに，まったく先行きの展望がみえてこない。原発を止めるのか，再稼働させるのか。それすら明確にできないままだ。無責任，思考停止，なりゆきまかせ，足の引っ張り合い，党利・党略，私利私欲，傍観者，臭いものには蓋・・・，ああ，もういい。いったい，いつまでつづく泥濘ぞ。非常時としての自覚が足りぬ政治家たちよ（もちろん，それを操る原子力ムラの住民たちよ），それでもあなた方は人間か。血の流れている肉体をもっているのか。妻子はいるのか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;テレビを購入して，わずかに１０日余り。すでに，テレビを買ったことを後悔している。毎日，毎日，テレビに向って咆哮するばかり。こうなったら覚悟を決めて，毎日，１時間はテレビと格闘することにしよう。「それは違うだろうっ！」と吼えつづけつつ。いまや，テレビは，わたしの反面教師となりつつある。そう思えばありがたくもなる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なんだか，全共闘時代の血が甦ってくる。はらはら，どきどきの毎日だった，あの時代を生きていた感覚が。もう４０年も前の，あの若き日々の記憶が・・・・。そうなのだ。いまこそ，闘うときなのだ。老いの身に一鞭あてて。いざ，鎌倉。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-2510791217087966490?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/2510791217087966490/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=2510791217087966490' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/2510791217087966490'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/2510791217087966490'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/01/blog-post_10.html' title='いつまでつづく泥濘ぞ。非常時の自覚が足りぬ政治家たち。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-4462425465007974946</id><published>2012-01-09T00:23:00.000+09:00</published><updated>2012-01-09T13:41:10.846+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='グローバリゼーションの問題系。'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='大相撲'/><title type='text'>国技館から日本人力士の優勝額が消えた。グローバル化の必然か。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;日本の伝統スポーツのひとつ，大相撲がグローバル化するとどうなるのか。この問題については，ながい間，考えつづけてきたつもり。そして，その結果が徐々に現実になって現れつつあることは，みなさんもご承知のとおり。そのうちのもっとも顕著な例は，優勝杯が，２００６年初場所を制した元大関栃東（現玉ノ井親方）を最後に，外国出身の力士たちに独占されてしまっている，という事実だろう。情けない話ではあるが，これがありのままの大相撲のこんにちの姿のひとつだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;８日（日）に初日を迎えた大相撲初場所。その会場である両国国技館には３２枚の優勝額が飾られている。そこから日本人力士の優勝額が，とうとう０（ゼロ）になってしまった。そう，２００６年に優勝を飾った栃東の優勝額がはずされ，新しい優勝額がそれに代わったからだ。３２場所の間，日本人力士はひとりも優勝していないのである。こんな時代がくるとは，いったい，だれが予測しただろうか。でも，これが日本の伝統スポーツをグローバル化した結果の，ひとつの現実なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この初場所から国技館に飾られている優勝額は，モンゴル出身の横綱白鵬が２０枚，元横綱朝青龍が９枚，大関日馬富士が２枚，ブルガリア出身の大関琴欧州が１枚。ご承知のとおり，モンゴル出身の力士だけで３１枚，残りの１枚はブルガリア出身の琴欧州のもの。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;かつて，ハワイ出身の力士たちが大活躍した時代がある。かれらは，その巨体を生かして，馬力で勝負していた。だから，日本人力士もそこそこに対応することができた。若乃花や舞の海のような小兵でも，そのスピードとワザで対応することができた。しかし，モンゴル出身の力士たちは，そうはいかない。みごとに鍛えられた体躯は，スピードもワザも申し分なく，じつによくバランスがとれていて，いうことなしである。そこに，気力が加わる。朝青龍や白鵬の燃え上がるような闘魂は，いまの日本人力士に欠落しているものだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こののち，たとえば，白鵬と互角に闘える力士が，いつ，登場するかが注目の的となっている。その筆頭が，琴奨菊であり，稀勢の里であろう。大関に昇進して，いま，もっとも勢いに乗っている力士たちだ。かれらが，どこまで力をつけていくことができるのか，これもまた今場所の楽しみのひとつではある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて，大相撲という伝統スポーツのグローバル化については，なにも優勝回数を数えるだけでは，問題の本質は明らかにはならないだろう。しかも，大相撲の場合には，現段階では，特殊な条件（制約）もいくつもある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たとえば，柔道のグローバル化と比較してみるとわかりやすい。柔道は，オリンピックの正式な競技種目に加えてもらうために，さまざまな努力をして，世界に普及・拡大して行った。そして，多くの支持もえて，その目的は達成された。しかし，そのことによって，柔道はＪＵＤＯに変化・変容してしまった（このあたりの説明は省略）。もはや，ＪＵＤＯは柔道ではない，とさえ言われるようになった。つまり，別の競技種目が誕生したというのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それに引き換え，大相撲は，まったく事情が違う。まずは，大相撲を世界に輸出しようとは考えていない。あくまでも「国技」という枠組みを死守しようとしている（ように見える）。したがって，厳密な意味でのグローバル化とは異なる。ただ，力士になるための入門希望者の門戸を世界に開いている，というだけだ。そして，伝統の様式やマナーもこれまでどおり守っていこうというのである。にもかかわらず，眼にみえる優勝額に限らず，眼にみえないところでの変化・変容も，少なからず起きている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;新しい血が混ざれば，必ず，なにがしかの変化は起こる。たとえ，古い革袋のままとはいえ，新しい血はそれなりの働きをする。その実態は，きちんとした調査が必要だが，ある程度までは想像することは可能だ。もちろん，それらは「研究仮説」にとどまるのだが。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんな眼で，ことしの初場所を楽しむのも一興かと思う。なにも，勝った，負けた，だけが大相撲の楽しみ方ではないのだから。土俵の上での一挙手・一投足のひとつひとつにも，いろいろの意味を読み取ることはできる。そうしたトータルな力士の所作の向こうに透けてみえてくるものはなにか。それを，わたしは大相撲のグローバル化という観点から楽しんでみようと思っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;自己を超えでるような新しい期待の力士の誕生を，わたしは心待ちにしている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-4462425465007974946?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/4462425465007974946/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=4462425465007974946' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/4462425465007974946'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/4462425465007974946'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/01/blog-post_09.html' title='国技館から日本人力士の優勝額が消えた。グローバル化の必然か。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-1538326302990058398</id><published>2012-01-08T18:54:00.000+09:00</published><updated>2012-01-09T13:41:40.323+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='時事ネタ'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='「３・１１」以後に向けて。'/><title type='text'>キャベツやトマトが捨てられている。おかしな社会に一矢。京大の学生さん。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;今日の「東京新聞」は，読ませる記事が多かった。ときおり，「ハズレ」の記事もあるが，このところなかなかの打率である。記者たちにも気合が入っているのだろう。読んでいて心地よいものが多い。それいけ，わっしょい，と祭りのような掛け声をかけたくなる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その中のひとつ。一面左上に「雨ニモマケズ」３・１１から，という連載コラムがある。今日の見出しは，「廃棄食材生かす学生」「形悪いだけで捨てる」「おかしな社会変えたい」というもの。京都大学農学部４年生・森雄翼（ゆうすけ）さんの活動が，わたしの眼を引いた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;森さんは，名古屋の中央卸売市場からでる廃棄食材に注目し，これを譲り受けて被災地に運び，仲間の協力を仰いで調理し，被災者に振る舞っている。野菜は運搬の途中で痛んだり，変色したり，つぶれたりすることがある。それらは廃棄食材として，文字どおり捨てられているという。その量は，市場で取り扱われる全量の１割に及ぶという。これを見過ごす手はない，と森さんは動く。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もう，かなり前から，曲がったキュウリはスーパーなどでも見かけなくなった。トマトの大きさもみんな同じ。キャベツの大きさもほとんど同じ。大根の大きさも，ネギの太さも，みんな揃っている。そういうものしか商品として扱われない，ということは小耳にはさんで知っていた。農産物もいつのまにか規格化された工業製品と同じ扱いになっている。おかしな世の中になったものだ，と思っていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうした現実の社会の仕組みのおかしさに対して，行動を起こす若者がいた。それが森さんだ。野菜は輸送の途中で，いろいろのことが起きて当たり前ではないか。そういうきずもの野菜を全部捨ててしまう社会はおかしい。痛んだところは取り除けばいい。味に変わりはないかぎり，なんとか生かす仕組みを考えるべきではないか。それをしない，おかしな社会を変えたい。これが森さんの根源にある問題意識だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかも，こういう生活の基盤から，ものごとを考え直すことこそが「３・１１」以後を生きるわたしたちの，もっとも重要な課題ではないか，と森さんは考える。自分の身のまわりを見回せば，これは変だ，と気づくことは山ほどある。ただ，「裕福な生活」に慣れてしまった人間には，なかなか気づけないかもしれない。しかし，ちょっと意識をそちらに向けるだけで，気づくことは多い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「３・１１」以後を生きるということはこういうことだ。そのことを見極めたところで，森さんは行動を起こしている。立派なものだ。やはり，若者たちの柔軟な発想と行動力に期待するしかないのだろうか。その点，頭の固くなってしまった中年以上の（わたしも含めて）人間は，若者たちに見倣わなくてはならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地産地消の時代には，農産物のこんな無駄なことは行われてはいなかったはずだ。わたしですら，高校時代に，自分のつくったサツマイモを田舎の小さな市場に卸に行ったことがある。筵の上に，闇かご一杯分のサツマイモを転がして，競りに掛けてもらった。そのサツマイモは畑でとれたそのままのもので，大きさも，形も雑多なままだ。それでも，ちゃんと買い取ってくれた。いまでは考えられないことだ。ただ，あまりの安さに愕然としたことだけは，はっきりと覚えている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いったい，いつから，大手の資本に支えられた流通に支配されるようになってしまったのだろうか。いまでは，農家の畑で，すでに色や形の悪いものは捨てられ，値崩れを恐れて畑で腐らせている野菜をみることは珍しいことではない。ごく当たり前の光景になっている。そして，わたしたちは，豊作であろうがなかろうが，つねに，高い野菜を買わされているのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;どこか，いまの電気代を連想させる。ドイツなどの地産地消の電気代の倍もの電気代を，わたしたちは全国一律に払わされているのだ。それでも原発はコストがかからない，と嘯かれてきたのだ。とんでもない話である。こういう情報をメディアはもっとまじめに流すべきではないか。しかし，そうはいかないのだ。メディアもまた立派な原子力ムラの一員なのだから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;電気の流通も，どこかで風穴を開けて，地産地消のシステムを構築することを考えなくては・・・と森さんの活動をとおして，強く思わされた次第である。まずは，できることから始めよう。農産物についても，独自の地産地消のシステムを築いて・・・・と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それにつけても，あまりに贅沢な生活の仕方に慣れきってしまったわたしたち自身が，まずは，できるところから，このライフ・スタイルに決別すること。そのための小さな勇気がいま求められている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-1538326302990058398?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/1538326302990058398/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=1538326302990058398' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/1538326302990058398'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/1538326302990058398'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/01/blog-post_4379.html' title='キャベツやトマトが捨てられている。おかしな社会に一矢。京大の学生さん。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-6683724272600216457</id><published>2012-01-07T17:20:00.000+09:00</published><updated>2012-01-09T13:37:23.597+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='メディア批評'/><title type='text'>暮れに，テレビを購入しました。びっくり仰天の世界が広がっていました。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;暮れの押し迫った３０日にテレビを購入しました。もともとテレビ大好き人間なので，これがあると「やみつき」になってしまう恐れがあるため，１０年ほど経過したテレビが突然「ボン！」と大きな音がして，息絶えたのを機にテレビをもたないことにしました。とてもすっきりした自分の世界をとりもどして，いい気分でいました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし，いろいろの事情があって，急遽，テレビを購入しました。&lt;br /&gt;暮れ・正月は特別なのでしょうが（番組が），それにしても，そこには恐ろしい世界が広がっていました。びっくり仰天です。テレビから遠ざかって，３年ちょっと。この間に，テレビはますます狂った方向に向っている，ということがよくわかりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とりわけ，「３・１１」をどのように受け止め，通過したか，という反省がまったくない。むしろ，「３・１１」をひた隠しにしている姿勢ばかりが目立ちます。たまに，特番があったとしても，ツナミの被災からいかにして立ち上がろうとしているか，という人びとに焦点を充てたものが多い。これはこれでいい。とても大事なことだと思う。しかし，原発の事故のために家・土地を追われてしまった人びとの報道はきわめて少ない。わたしは，意識的に，原発事故についてテレビがどのような報道をしているのか，追いかけている。ところが，これがきわめて少ないのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もう少しテレビ・ウォッチングをつづけてから結論を出すべきかとは思いますが，とりあえず，現段階でのわたしの感想を述べておきたいと思います。どう考えてみてもテレビは原発事故の報道を忌避している，としかわたしには思えない。そして，それに代わる地震・津波からの「復興」に視聴者の目を誘導している，と。あとは，おチャラ気の「バカ番組」がゴールデン・タイムを独占していて，視聴者になにも考えさせないで笑わせることに全力を挙げている，と。つまり，視聴者の「思考停止」がその目的。国民総白痴化。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;要するに，東電の責任隠しにテレビもまた全力を挙げて取り組んでいる，と。そして，原発事故は天災の延長線上にあるものであって，人災ではない，という姿勢を貫いていること。しかも，原発事故は収束した，と政府は発表。テレビはその路線をひた走る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし，原発が天災によって事故を引き起こすことは「想定内」であったこと，原発がひとたび事故を起こしたら制御不能になること（チェルノブイリで明らかになっていた），その愚を今回もくり返していること，つまり，原発はひとたび「火」をつけたら，その事後処理に膨大な時間と経費を要することは専門家たちはみんな知っていたということ，にもかかわらず前倒しして「火」をつけてしまった結果の「人災」であること，このことをわたしたちは肝に銘じておくこと。これらのことを，決して，忘却の彼方に置き忘れてしまってはいけない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし，テレビは圧倒的多数の愚民を育成するために全力を傾けている。そして，あるタイミングを見計らって，「原発推進は必要なことである」と多数決による政治決定に持ち込みたいのだろう。そんな意図がみえみえ。しかし，多くの人びとはそのことに気づいていない。慢性的テレビ漬けになっている人びとにとっては，これが「ふつう」。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わずか３年余の，テレビ・ブランクが，わたしの感性を「振り出し」にもどしてくれた。だから，とても純粋に，そして，ストレートに，テレビの異形な姿が露になっているのが，はっきりと見える。だから，いまの日本が恐ろしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;毎日，毎日，ありえないことが，政界でも，財界でも，学界でも，官僚界でも，メディア界でも，そして，世俗界でも，起きている。しかも，それが日常化している。だから，みんなどんどん「マヒ」していく。これが当たり前だ，と。テレビ界はその最先端の「まやかし」づくりに大貢献している。もっともまっとうなニュースを提供しているかのような，大まじめな顔をして。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ビギナーズ・ラックという。久しぶりの，テレビ初心者のみる目は，無欲なだけに，正鵠を射ているのではないかという気がして，いささか恐ろしい。どうか，ここに書いたことが杞憂にすぎなかった，ということになりますように。いまは，静かに祈るのみ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もう少し長い目で，テレビ・ウォッチングをつづけたい，と思います。&lt;br /&gt;二度と騙されないために。そして，なによりも，わたしたちの「命」を守るために。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-6683724272600216457?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/6683724272600216457/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=6683724272600216457' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/6683724272600216457'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/6683724272600216457'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/01/blog-post_08.html' title='暮れに，テレビを購入しました。びっくり仰天の世界が広がっていました。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-2878671817413534783</id><published>2012-01-07T00:50:00.000+09:00</published><updated>2012-01-07T00:50:48.423+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='沖縄のこと。'/><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='フクシマの話。'/><title type='text'>「アセスメント」持ち込みは沖縄の普天間基地固定化のための通過儀礼にすぎない，と元外務官僚の佐藤優氏。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;「東京新聞」に「本音のコラム」という枠があって，山口二郎氏や佐藤優氏が登場したときは，必ず読むようにしている。なぜなら，わたしなどの時代や社会の読みとりとは次元の違う見解を示してくれることが多いからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１月６日のコラムには佐藤優氏が登場。「みじめな鼠輸送」という見出しで，わたしにとっては衝撃的な見解を述べている。その内容は，正直に言って，ショックだった。なぜなら，防衛庁が，去る１２月２８日未明に，普天間基地の辺野古移設に関する環境影響評価（アセスメント）を沖縄県庁の守衛室に運び込んだのは，太平洋戦争時代に夜陰にまぎれて輸送を行った「鼠輸送」と同じ方法だったといい，さらに，つぎのように断言しているからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「元外務官僚であった筆者には，普天間問題を担当する外務官僚や防衛官僚が何を考えているかが皮膚感覚でわかる。沖縄の反発を考えれば，辺野古移設の可能性がもはや皆無であると外務官僚，防衛官僚は認識している。そして，それど遠くない時期に日本政府が米国政府に『沖縄の状況に鑑み，普天間飛行場の辺野古移設は不可能になりました』と伝えるようになることも織り込み済みだ。その上で，普天間基地の固定化を考えている。そのための通過儀礼として，今回，防衛官僚は，みじめな『鼠輸送』を行ったのだ。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これを読んで，なんとも思わない人は，もはや人間ではない。もちろん，エリート官僚は，人間を人間とも思ってはいないから，こんなシナリオを平然と描き，そのまま実践に移していく。そして，最終的には，またぞろ沖縄に基地問題のすべてを押しつけて，頬被りをしようとしている。大山鳴動して鼠一匹である。元の木阿弥とばかりに。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こんなことを「なさしめている」のは，じつは，沖縄問題に無関心を装う（実際に，ほとんどなにも知らない人が多い。知ろうともしない人はもっと多い），本土に生活しているわたしたちだ。そこまで官僚は読み取って，こんなシナリオを描き，政治家を動かしていく。官僚はほんとうに悪だが，それを「なさしめている」わたしたちはもっと悪い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;沖縄に基地問題を押しつけて，「県外移設」を拒否し，知らん顔をしている全国の都道府県知事も，同じく人間ではない。自分たちの府県でも，等分の負担をすべきだし，その用意はある，と答えたのは，あの橋本君，ただひとりだった。やれ独裁者だ，やれハシズムだ，と世間は姦しいが，この人間だけが全国都道府県知事のなかでは，たったひとり「人間」の顔をみせた。あとは，計算・打算の世界で生きている「人非人」たちばかりだ。穏健派を装う，冷徹無比の，自己中心主義者だ。いやいや，こういう人は，わたしの身の回りにもうようよいる。日本人の圧倒的多数はこういう人たちなのだ。そして，そういう人たちが政治を動かしているのだ。これが現実だ。まったくもって情けない。いやいや，またまた過激になってしまった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こんなことを書くのは，同じ日の「東京新聞」の名物記事となっている「こちら特報部」で，フクシマの汚染土壌などを保管する中間貯蔵施設を福島県双葉郡に建設する政府方針をとりあげているからだ。これを読むと，またぞろ，弱い者に汚染土壌の保管を押しつけて頬被りしようとしている，この構造がオキナワとそっくり同じだからだ。双葉町長は「被害者に責任取らすのか」「町民の使い捨て，許さぬ」と声をあげている。ただでさえ，住む土地を追われ，避難生活を余儀なくされている上に，汚染土壌などの「中間貯蔵施設」を町民がいなくなった土地に建設しようと，政府は考えているのである。なんということか。こんなことを平気でできる政府与党とは，いったい，なんなのか。これを「人非人」と言わずして，ほかになんと呼べるのか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;では，汚染土壌を引き取ってくれる都道府県はあるのか。これまたオキナワと同じで，みんな顔を横に向けて知らぬ顔だ。少なくとも，この汚染土壌は，各都道府県で応分の負担をすべきだ，とわたしは考えるのだが・・・・。いやいや，それより前に，まずは，東京電力の保有する保養施設に持ち込むべきではないのか。そのくらいの責任をとったって，なんの不思議もないのに・・・・。政府はそれすら打診することもできない。東京電力に政府が乗っ取られている。原子力ムラなる恐るべきネットワークの実態が次第に明らかになりつつあるのだが・・・・。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;正月の松の内だけは，こういうブログは書くまい，とこころに決めていたが，とうとう我慢できなくなって書いてしまった。いや，書かずにはいられなかった。このまま放置しておくと，日本列島全体がこのまま沈没していくこと間違いなしだから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ことしこそ，もっとも多難な年になりそうだ。それにしては，危機意識が足りない。その上に政府与党は大あぐらをかいている。完全に舐められている。情けないが，これが現実。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/964226670875598034-2878671817413534783?l=inamasa.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://inamasa.blogspot.com/feeds/2878671817413534783/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=964226670875598034&amp;postID=2878671817413534783' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/2878671817413534783'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/964226670875598034/posts/default/2878671817413534783'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://inamasa.blogspot.com/2012/01/blog-post_07.html' title='「アセスメント」持ち込みは沖縄の普天間基地固定化のための通過儀礼にすぎない，と元外務官僚の佐藤優氏。'/><author><name>inamasa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08982814298247914254</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-964226670875598034.post-2909734732948338169</id><published>2012-01-06T14:59:00.000+09:00</published><updated>2012-01-06T14:59:17.464+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='講演・シンポジウム'/><title type='text'>奈良・山焼き講演「３・１１」以後のスポーツ文化を考えるための理論仮説について」──バタイユの『宗教の理論』をてがかりにして。</title><content type='html'>&lt;div dir="ltr" style="text-align: left;" trbidi="on"&gt;毎年，奈良の山焼きの日には，かつての奈良教育大学時代の教え子たちとの約束で，お里帰りをすることにしている。ことしは，１月２８日（土）がその日にあたっている（毎年，１月の第４土曜日が山焼きの日）。そこでは，恒例の講演をすることになっている。場所は，奈良教育大学教職員会館。そして，そのあと，山焼きをキャンパス内の最高のポイントから見物し，もどってきてから，懇親会に入る。こんなことを，かれこれ１５年ほどつづけている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ことしのテーマは，「３・１１」以後のスポーツ文化を考えるための理論仮説について──ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』をてがかりにして，というものである。しかも，お世話をしてくださる井上邦子さん（「ＩＳＣ・２１」１月奈良例会の世話人）の希望で，たっぷり３時間をかけて，存分に語って欲しい，と言われている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;じつは，この長時間講演は，半分はわたしの希望でもあった。というのは，ジョルジュ・バタイユの思想・哲学をてがかりにして，スポーツ文化を語ることは容易なことではない。
