競馬では「油断騎乗」といいます,という情報を太極拳の兄弟弟子のNさんがメールで知らせてくださった。関連のURLも付記して。とてもありがたいことです。感謝あるのみ。
で,そのURLを開いてみたら,つぎのような記事が載っていた。
黛騎手を30日間,騎乗禁止
日本中央競馬会(JRA)は26日,第2回小倉競馬第1日の第12レースを黛弘人騎手に,「注意義務を著しく怠った油断騎乗があった」とし,27日から3月28日まで騎乗禁止の処分を科した。騎乗停止30日は,レースの裁決委員が科すことのできる最長の処分。
黛騎手はメジロガストンに騎乗したが,決勝線手前で2完歩ほどを追う動作を緩めた結果,1着とハナ差の2着に終わった。(時事通信)
競馬は公営ギャンブルという性格もあってか,騎手の騎乗の仕方についてきびしい眼を光らせているなぁ,としみじみ思う。それにつけても,大相撲は甘いなぁ・・・とこれまたしみじみと思う。
大相撲にも,じつは,「無気力相撲」を禁止するための監察委員会なるものが存在していて,毎場所,「無気力相撲」を監視していることになっている。しかし,どうやら機能していなかったようだ。元力士,それも,かなりの上位にまで上り詰めた人たちの眼から見れば,「無気力相撲」などは,すぐにわかるはずだ。にもかかわらず,この数年の間,「無気力相撲」ということばがあることすら,忘れていた。だから,わたしは「無気力相撲」は消えてなくなったのだ,と信じていた。しかし,八百長問題が,いまも色濃く残存していることを知り,組織のたがの緩みを感じてしまう。
監察委員会の委員長は,貴乃花親方である。かれのように清廉潔白を貫いてきた大横綱であれば,びしびしと「無気力相撲」を摘発し,処分をしていくだろうと期待していた。しかし,どうやらなにもやってなかったようである。これでは,貴乃花が理事となり,監察委員会委員長となった意味がどこかにふっとんでいってしまう。
大相撲の八百長を,土俵の上での取り組みをとおして見破るのはきわめてむつかしい,と言われてきた。たしかに,そのとおりなのかもしれない。しかし,貴乃花のような,八百長をいっさい拒否してきたといわれている大横綱の眼をもってすれば,わたしは見破ることは可能だと信じている。もちろん,他の元力士だって同じだ。にもかかわらず,その眼が機能していないとなれば,それこそが大問題である。たぶん,機能させると困る問題が,その背景にはあるのだろうと推測している。それほどに相撲界を生き延びていくということは,われわれ通俗の世界とはちがって,ちょっと考えられないほどの複雑怪奇さなのであろう。
この複雑怪奇さのなかに,じつは,大相撲の良さも悪さも全部詰まっているのだ。ここを,どの程度まで暴けばいいのか,その手加減はきわめて微妙なところである。かといって放置しておくわけにもいかず・・・・。日本相撲協会の苦悩たるや尋常一様ではない(はずだ)。
でも,ここはひとつ蛮勇をふるって改革すべきは改革し,温存すべきは温存するという覚悟が求められている。組織のピンチは改革のチャンスでもあるのだから。この機会を逃してはなるまい。公益法人とかなんとかは,もっとあとの問題。いまは,大相撲を存続させるのかさせないのかの「関が原」の戦いの真っ最中なのだから。
その意味でも,大相撲とはなにか,という根源的な問いをみんなで発しつつ,みんなでその答えを模索していくときなのだ,とわたしは考えている。
競馬の話がそのまま大相撲の話になってしまった。
そんな含みもあって,Nさんはわたしに情報を提供してくださったに違いない。だから,わたしとしても,それなりの応答をしてみたつもり。
このブログが〔未完〕のままの段階で,すでに,コメントが入っていました。わたしのこころに響くものがありましたので,珍しくわたしも応答しています。コメントの方も併せて確認していただければ幸いです。
で,そのURLを開いてみたら,つぎのような記事が載っていた。
黛騎手を30日間,騎乗禁止
日本中央競馬会(JRA)は26日,第2回小倉競馬第1日の第12レースを黛弘人騎手に,「注意義務を著しく怠った油断騎乗があった」とし,27日から3月28日まで騎乗禁止の処分を科した。騎乗停止30日は,レースの裁決委員が科すことのできる最長の処分。
黛騎手はメジロガストンに騎乗したが,決勝線手前で2完歩ほどを追う動作を緩めた結果,1着とハナ差の2着に終わった。(時事通信)
競馬は公営ギャンブルという性格もあってか,騎手の騎乗の仕方についてきびしい眼を光らせているなぁ,としみじみ思う。それにつけても,大相撲は甘いなぁ・・・とこれまたしみじみと思う。
大相撲にも,じつは,「無気力相撲」を禁止するための監察委員会なるものが存在していて,毎場所,「無気力相撲」を監視していることになっている。しかし,どうやら機能していなかったようだ。元力士,それも,かなりの上位にまで上り詰めた人たちの眼から見れば,「無気力相撲」などは,すぐにわかるはずだ。にもかかわらず,この数年の間,「無気力相撲」ということばがあることすら,忘れていた。だから,わたしは「無気力相撲」は消えてなくなったのだ,と信じていた。しかし,八百長問題が,いまも色濃く残存していることを知り,組織のたがの緩みを感じてしまう。
監察委員会の委員長は,貴乃花親方である。かれのように清廉潔白を貫いてきた大横綱であれば,びしびしと「無気力相撲」を摘発し,処分をしていくだろうと期待していた。しかし,どうやらなにもやってなかったようである。これでは,貴乃花が理事となり,監察委員会委員長となった意味がどこかにふっとんでいってしまう。
大相撲の八百長を,土俵の上での取り組みをとおして見破るのはきわめてむつかしい,と言われてきた。たしかに,そのとおりなのかもしれない。しかし,貴乃花のような,八百長をいっさい拒否してきたといわれている大横綱の眼をもってすれば,わたしは見破ることは可能だと信じている。もちろん,他の元力士だって同じだ。にもかかわらず,その眼が機能していないとなれば,それこそが大問題である。たぶん,機能させると困る問題が,その背景にはあるのだろうと推測している。それほどに相撲界を生き延びていくということは,われわれ通俗の世界とはちがって,ちょっと考えられないほどの複雑怪奇さなのであろう。
この複雑怪奇さのなかに,じつは,大相撲の良さも悪さも全部詰まっているのだ。ここを,どの程度まで暴けばいいのか,その手加減はきわめて微妙なところである。かといって放置しておくわけにもいかず・・・・。日本相撲協会の苦悩たるや尋常一様ではない(はずだ)。
でも,ここはひとつ蛮勇をふるって改革すべきは改革し,温存すべきは温存するという覚悟が求められている。組織のピンチは改革のチャンスでもあるのだから。この機会を逃してはなるまい。公益法人とかなんとかは,もっとあとの問題。いまは,大相撲を存続させるのかさせないのかの「関が原」の戦いの真っ最中なのだから。
その意味でも,大相撲とはなにか,という根源的な問いをみんなで発しつつ,みんなでその答えを模索していくときなのだ,とわたしは考えている。
競馬の話がそのまま大相撲の話になってしまった。
そんな含みもあって,Nさんはわたしに情報を提供してくださったに違いない。だから,わたしとしても,それなりの応答をしてみたつもり。
このブログが〔未完〕のままの段階で,すでに,コメントが入っていました。わたしのこころに響くものがありましたので,珍しくわたしも応答しています。コメントの方も併せて確認していただければ幸いです。