23日の「ISC・21」7月大阪例会の余韻にまだ浸っている。そう,橋本一経さんの『指紋論』(青土社)の合評の余韻である。コメンテーターの人たちの話や,それに応答する橋本さんのお話や,帰りの新幹線のなかで窓の外の景色を眺めながら考えたことなど,ごちゃまぜになりながらも「指紋」というものはふしぎなものだとしみじみ思う。
理由はともかくとして,指紋をとられる,ということに抵抗感がないという人はきわめて少ないだろう。いまでも,思いがけないときに指紋をとられることはある。
Tさんの話。むかし,泥棒に入られて警察に連絡したら,出頭を求められ,いろいろと調書をとられた。ここまでは当たり前のこととして納得していた。が,最後に,両手のすべての指の指紋をとります,といわれて「おやっ?」と思った。でも,指紋を拒否するわけにもいかないので,しぶしぶ指紋をとることにした。そうしたら,横にいた担当官がTさんの指を上から抑えて,しっかりと押せという。「えっ?」「おれは疑われているのか?」と思った,と。
この話については,さまざまな意見がでて,面白かった。それぞれの情況判断は微妙だが,目的はまずその家の住人の指紋をしっかり確認しておいて,その上で,それとは違う指紋を探すためのものではなかったか,ということに落ち着いた。が,Tさんご本人はとても複雑な気分だったという。やはり,被害者なのに指紋をとられる,ということにはかなりの抵抗があった,ということなのだろう。でも,なぜ,そうなるのかという点が重要だ。なぜ,ごくふつうの日常生活を営んでいる人なのに,指紋をとられることには抵抗があるのか。
指紋はもともと犯罪者や被疑者がとられるものというわれわれの方の先入観がある。だから,なんの罪も犯していないのに,あるいは,被害者にもかかわらず指紋をとられることには,妙な抵抗感が生まれるのだろう。でも,問題はそれだけなのだろうか,と橋本さんは考える。詳しい論理の展開については,著書の『指紋論』にゆずるが,Tさんの話に関連する範囲で考えてみるだけでもなかなか面白いところまで到達する。
被害者なのに指紋をとられることに抵抗がある,とTさん。わたしも,たぶん,同じ立場に立ったら「いやな気分」になるだろうと思う。どうしてか,と考える。指紋が一人歩きすることがいやなのだろうか。あるいは,わたしという人格がまるごと指紋というたんなる記号に絡め捕られてしまうことに。言ってしまえば,「おれは指紋ではない」と。指紋は指紋であって,その指紋の持ち主の人格とはなんの関係もない。たんに,人間を識別するための道具にすぎない。その道具に「わたし」という存在がまるごと乗っ取られてしまうような,妙な気分になる。
指紋が,もし,取り扱いを間違えられたら・・・という不安もある。そのとき,指紋はなんの異議申し立てもできない。が,わたしがなにかの疑義をかけられたとしたら,直接,異議申し立てをすることができる。人間である以上はどこで,どのような間違いを犯さないとも限らない。そのための歯止めはどうなっているのかが,不安の根っこにある。それらを超えて,指紋は存在する。そして,指紋としての役割をはたすことになる。わたしという存在とは関係のないところで。
しかし,それだけでもなさそうだ。
指紋は身体の一部である。このときの身体とはなにか。身体はあるようであってないに等しい。わたしの身体ははたして存在するのか。どのように存在するのか。あるいは,わたしの身体はわたしの身体であるといえるのか。つまり,わたしの身体はわたしが「所有」できるものなのか。わたしの身体はわたしの意志で獲得したものなのか。そうではないだろう。わたしたちは「生まれてきた」のであって,自分の意志で,この世に生を得たわけではない。つまり,わたしの身体は「所与」のものなのだ。その身体は,はたして<わたし>とイコールなのか。
ここのところに,じつは,わたしと指紋との複雑にして微妙な関係がある。
わたしの手の指先にある指紋は,わたしの意志とはなんの関係もなく存在する。つまり,所与のものとして存在する。言ってしまえば,指紋はわたしにとっては他者なのである。指紋をとられるという事態にいたって,はじめて指紋の他者性に気づく。指紋はわたしの「もの」でありつつ,わたしの「もの」ではない。このギャップに気づく。そのギャップが埋め合わせられないために,わたしたちは,なんとも居心地の悪い思いをすることになる。
わが内なる他者に,指紋押印という事態に向き合うことによって,はじめて真っ正面から対峙することになる。指紋という自己の内なる他者の存在を,わたしたちはふだんは忘れている。意識したこともない。指紋の存在すら考えたこともない。指先の単なる文様ぐらいにしか考えたことはない。あとは,犯罪者が身元の識別のための証拠として押印を強制されるものであって,ふつうの生活をしている「わたし」とはなんの関係のないものとして忘却のかなたに置き忘れてしまっている。だから,指紋はわたしにとっては存在しない。その存在しないものが,ある日突如として立ち現れる。自己ではない指紋が,突如として自己を主張しはじめる。しかも,その指紋に自己のすべてをゆだねなくてはならない事態が現前したとき,わたしたちは思わずたじろいでしまうことになる。それが指紋押印に対する抵抗感の源泉だ。
この問題は,さらに,主観と客観の問題にも波及していく。それがひとりの人間のなかで展開する。そういう矛盾を内包している存在,それが人間なのだ,ということを指紋が教えてくれる。
ちょっとしり切れとんぼになってしまうが,橋本さんの『指紋論』は,これまでの身体論の盲点のようなところに一矢むくいるかのような鋭さで,わたしたち読者に迫ってくる。わたしとはなにか。身体とはなにか。自己を規定するアイデンティティとはなにか。わたしたちはなにひとつとして「確かなもの」を持ち合わせることもなく生きている。それが真相であり,実態だ。それでは困るので,ヨーロッパ近代の「合理主義」的なものの見方・考え方を立ち上げ,なにかと人間としての存在のあり方に「手かせ」「足かせ」をして,それを制度化し,法律で規定し・・・と努力してきた。しかし,それでも「こぼれ落ちてしまうもの」の存在をどうすればいいのか,ということに気づきはじめた。それが21世紀を生きるわたしたちの課題として大きくのしかかってきている,とわたしは考えている。
橋本さんの身体論が,こんご,どのような展開をみるのか,わたしにとっては眼を離すことのできない大きな存在となってきた。そして,とても楽しみでもある。すでに,つぎなる身体論の構想をもっていらっしゃって,その一部は雑誌連載で吐露されている。楽しみに追いかけみたいとおもう。
理由はともかくとして,指紋をとられる,ということに抵抗感がないという人はきわめて少ないだろう。いまでも,思いがけないときに指紋をとられることはある。
Tさんの話。むかし,泥棒に入られて警察に連絡したら,出頭を求められ,いろいろと調書をとられた。ここまでは当たり前のこととして納得していた。が,最後に,両手のすべての指の指紋をとります,といわれて「おやっ?」と思った。でも,指紋を拒否するわけにもいかないので,しぶしぶ指紋をとることにした。そうしたら,横にいた担当官がTさんの指を上から抑えて,しっかりと押せという。「えっ?」「おれは疑われているのか?」と思った,と。
この話については,さまざまな意見がでて,面白かった。それぞれの情況判断は微妙だが,目的はまずその家の住人の指紋をしっかり確認しておいて,その上で,それとは違う指紋を探すためのものではなかったか,ということに落ち着いた。が,Tさんご本人はとても複雑な気分だったという。やはり,被害者なのに指紋をとられる,ということにはかなりの抵抗があった,ということなのだろう。でも,なぜ,そうなるのかという点が重要だ。なぜ,ごくふつうの日常生活を営んでいる人なのに,指紋をとられることには抵抗があるのか。
指紋はもともと犯罪者や被疑者がとられるものというわれわれの方の先入観がある。だから,なんの罪も犯していないのに,あるいは,被害者にもかかわらず指紋をとられることには,妙な抵抗感が生まれるのだろう。でも,問題はそれだけなのだろうか,と橋本さんは考える。詳しい論理の展開については,著書の『指紋論』にゆずるが,Tさんの話に関連する範囲で考えてみるだけでもなかなか面白いところまで到達する。
被害者なのに指紋をとられることに抵抗がある,とTさん。わたしも,たぶん,同じ立場に立ったら「いやな気分」になるだろうと思う。どうしてか,と考える。指紋が一人歩きすることがいやなのだろうか。あるいは,わたしという人格がまるごと指紋というたんなる記号に絡め捕られてしまうことに。言ってしまえば,「おれは指紋ではない」と。指紋は指紋であって,その指紋の持ち主の人格とはなんの関係もない。たんに,人間を識別するための道具にすぎない。その道具に「わたし」という存在がまるごと乗っ取られてしまうような,妙な気分になる。
指紋が,もし,取り扱いを間違えられたら・・・という不安もある。そのとき,指紋はなんの異議申し立てもできない。が,わたしがなにかの疑義をかけられたとしたら,直接,異議申し立てをすることができる。人間である以上はどこで,どのような間違いを犯さないとも限らない。そのための歯止めはどうなっているのかが,不安の根っこにある。それらを超えて,指紋は存在する。そして,指紋としての役割をはたすことになる。わたしという存在とは関係のないところで。
しかし,それだけでもなさそうだ。
指紋は身体の一部である。このときの身体とはなにか。身体はあるようであってないに等しい。わたしの身体ははたして存在するのか。どのように存在するのか。あるいは,わたしの身体はわたしの身体であるといえるのか。つまり,わたしの身体はわたしが「所有」できるものなのか。わたしの身体はわたしの意志で獲得したものなのか。そうではないだろう。わたしたちは「生まれてきた」のであって,自分の意志で,この世に生を得たわけではない。つまり,わたしの身体は「所与」のものなのだ。その身体は,はたして<わたし>とイコールなのか。
ここのところに,じつは,わたしと指紋との複雑にして微妙な関係がある。
わたしの手の指先にある指紋は,わたしの意志とはなんの関係もなく存在する。つまり,所与のものとして存在する。言ってしまえば,指紋はわたしにとっては他者なのである。指紋をとられるという事態にいたって,はじめて指紋の他者性に気づく。指紋はわたしの「もの」でありつつ,わたしの「もの」ではない。このギャップに気づく。そのギャップが埋め合わせられないために,わたしたちは,なんとも居心地の悪い思いをすることになる。
わが内なる他者に,指紋押印という事態に向き合うことによって,はじめて真っ正面から対峙することになる。指紋という自己の内なる他者の存在を,わたしたちはふだんは忘れている。意識したこともない。指紋の存在すら考えたこともない。指先の単なる文様ぐらいにしか考えたことはない。あとは,犯罪者が身元の識別のための証拠として押印を強制されるものであって,ふつうの生活をしている「わたし」とはなんの関係のないものとして忘却のかなたに置き忘れてしまっている。だから,指紋はわたしにとっては存在しない。その存在しないものが,ある日突如として立ち現れる。自己ではない指紋が,突如として自己を主張しはじめる。しかも,その指紋に自己のすべてをゆだねなくてはならない事態が現前したとき,わたしたちは思わずたじろいでしまうことになる。それが指紋押印に対する抵抗感の源泉だ。
この問題は,さらに,主観と客観の問題にも波及していく。それがひとりの人間のなかで展開する。そういう矛盾を内包している存在,それが人間なのだ,ということを指紋が教えてくれる。
ちょっとしり切れとんぼになってしまうが,橋本さんの『指紋論』は,これまでの身体論の盲点のようなところに一矢むくいるかのような鋭さで,わたしたち読者に迫ってくる。わたしとはなにか。身体とはなにか。自己を規定するアイデンティティとはなにか。わたしたちはなにひとつとして「確かなもの」を持ち合わせることもなく生きている。それが真相であり,実態だ。それでは困るので,ヨーロッパ近代の「合理主義」的なものの見方・考え方を立ち上げ,なにかと人間としての存在のあり方に「手かせ」「足かせ」をして,それを制度化し,法律で規定し・・・と努力してきた。しかし,それでも「こぼれ落ちてしまうもの」の存在をどうすればいいのか,ということに気づきはじめた。それが21世紀を生きるわたしたちの課題として大きくのしかかってきている,とわたしは考えている。
橋本さんの身体論が,こんご,どのような展開をみるのか,わたしにとっては眼を離すことのできない大きな存在となってきた。そして,とても楽しみでもある。すでに,つぎなる身体論の構想をもっていらっしゃって,その一部は雑誌連載で吐露されている。楽しみに追いかけみたいとおもう。
kappacoolazyだにね。
返信削除『指紋論』をkappaも読んだだによ。
とてもおもしろかっただによ。ワクワクしながら読んだだに。
指紋採取に対する忌避の感覚・・・なにか居心地の悪いザワザワする感じ・・・あれはいったいなんなんだにね。人相書きや写真、そして手形に指紋・・・やっぱり「魂」が抜かれるんだによぉぉぉ。
そこにしか「私」はいないんだによ、きっと。
じゃ、〈わたし〉は幽霊だにか?
へっ・・・「私」が幽霊だにか?
どっちにしても妖怪とあんまり変わんないだにね。。。
河童の人相?もかなり一人歩きしてしまってるだに。。。
「河童」という言葉も一人歩きしてしまってるし、、、もう、レインコートと間違われるのは懲り懲りだにね。。。