「一道清浄妙蓮不染」(いちどうしょうじょうみょうれんふぜん)ということばに出会って,突然,わたしの頭のなかはフル回転をはじめた。いささか私事にわたることなので気恥ずかしいが,長年にわたってわたしのなかでもやもやしていたものが一挙に瓦解した,その喜びの感情を抑えることはできないので,そのまま書き表すことにする。
「一道清浄妙蓮不染」。このことばと出会ったのは昨夜のことである。それは,金岡秀友校注の『般若心経』(講談社学術文庫)のP.121.にある。その瞬間,わたしの眼は「点」になってしまって,そこから動こうともしない。そして,二度も三度も,いやいやもっともっと何回も,口のなかてくり返し「いちどうしょうじょうみょうれんふぜん」と唱えていた。
じつは,わたしの大伯父の名前が「一道」(いつどう)。禅寺(曹洞宗)の和尚。わたしが小さな子どものころから畏敬の念をもって仰ぎみていた人である。その一道和尚にわたしは可愛がられていた。なぜか,そういうものを子どもごころにも感じていた。わたしの成長とともに,大伯父の気持はもっとストレートに伝わるようになった。もちろん,口に出して,そういうことを語る人ではなかった。しかし,そのまなざしには,明らかに温かいものが感じられた。
ふいに尋ねていくと,「おー,来たか」。それだけである。あとは,にこにこと笑いながら「ぼそり,ぼそり」と問いを発する。それに必死になって答えると「おー,そうか」で終わり。でも,とても居心地がいいのである。なにか,とても大事なものを「面授」されているような気分だった。晩年は,わたしが尋ねると,すぐにお酒を出してくれた。昼間から。コップに一杯の冷や酒を,一道和尚は美味しそうに,舐めるように飲んでいる。そして,すぐに赤くなる。
この一道和尚の背後の床の間にかかっていた掛け軸が「平常心是道」(びょうじょうしんこれみち)。いわゆる書家の字ではないが,飄々とした,とても味わいのある字だった。わたしは尋ねるたびに,じっと,この掛け軸に眼を凝らしたものだ。「平常心」というものが,どういうものであるかは,わたしの加齢とともに理解が深まっていった。そのたびに,感動した。こちらの理解の深まりによって,その掛け軸が訴えてくる力が強くなってくるのである。
いつか,「一道」と「平常心是道」が二重写しになってみえるようになった。そうか,大伯父は「平常心」をただひたすら歩みつづけた人なのだ,と合点した。いつでも泰然自若として,少々のことでは驚かない,胆力のある人だった。すごい人だ,とこころの内で,そう思っていた。
この人の最後がまたすごい。いつもと同じように,朝御飯を食べて,奥さんが裏の畑にでて帰ってきたら,ひとりで布団の中に入って「大往生」していた,というのである。
そういえば,最晩年にお会いすると,「まんだぁ お迎えが こんでなぁ こうやって 生きとるだぁやれ」と笑った。まるで,童心にかえったかのような,その笑顔が忘れられない。
しかし,一道和尚の名前の由来は,「一道清浄妙蓮不染」にあるのではないか,とわたしは直観したのである。一道和尚の幼名は「八郎」。たしか,「一道」の名前は,先代の仙鳳和尚がつけたと聞いている。わたしの祖父にあたるこの仙鳳和尚が,また,つかみどころのない人で,空気のような存在の人だった。いるのか,いないのか,その存在があいまいな人だった。しかし,時折,じろりとこちらをみやる眼は,ただものではなかった。恐ろしかった。そのたびに,わたしは逃げ出したことを記憶している。
が,この仙鳳和尚も,若いころは相当にできのいい学僧として,その地方では名をなしていたそうな。その先代が「一道」と名づけたというのだ。とすれば,この「一道清浄妙蓮不染」ということばを知っていて,ここからとったに違いない,とわたしは直観したのだ。
このことばは,金岡秀友の校注によれば,弘法大師の記述のなかにあるという。その意味は「仏の大道が清浄なることは,あたかも白蓮が泥の中より咲き出て,いささかも泥に染まらぬようなものである。凡夫の智もその実において仏の智と連なることもこれと同じである」と解説している。すなわち,「主・客の対立を脱した妙境」のことだ,と。
となると,「一道」とは,仏の歩む「大道」そのものであって,自他の区別もなく,「主・客の対立」もない,まことに「清浄」なる境地そのものを意味することになる。
と,ここまで考えてくると,この大伯父に連なる人びとの名前が気になってくる。たづ(田鶴),戒心,たえ(妙),つた(蔦)・・・・これらの名前は,みんな,先代の仙鳳和尚がつけたものだ。だから,そこにはかならずなにかのメッセージが織り込まれているはずだ。この問題はまたいつか,考えてみることにしよう。
そして,いま,また,ふと脳裏に浮かんできたのは,寺の本堂の御本尊さまの裏側の,一番奥まったところに歴代住職の霊を祀った部屋がある。その入り口にかかっている扁額の書は,一道和尚が書いたもので,そこには「無二亦無三」とある。元気のいいころに書いたもので,勢いのある気迫の籠もったすばらしい達筆そのものである。ご本人は「勢いがありすぎる」と述懐された,と聞いているが・・・・。
このことばは,金岡秀友の校注によれば,つぎのようである。『法華経』で「十方仏土中・唯有一乗法・無二亦無三」(諸方の仏国土の中で,実在するのは,ただ一乗の法華の真実であり,声聞・縁覚の二乗も,それに菩薩を加えた三乗の区別もない)と説いていることと,「一道清浄妙蓮不染」は同じ趣旨のことを言っている,と。
これで,すべてが完結。「一道」「一道清浄妙蓮不染」「無二亦無三」は,まさに,一本道なのである。ああ,長年にわたる喉のつかえがとれて,すっきり。わたしの大好きだった大伯父,一道和尚の棲む「清浄妙蓮不染」の世界に一歩でも,近づくことができただろうか。合掌。
「一道清浄妙蓮不染」。このことばと出会ったのは昨夜のことである。それは,金岡秀友校注の『般若心経』(講談社学術文庫)のP.121.にある。その瞬間,わたしの眼は「点」になってしまって,そこから動こうともしない。そして,二度も三度も,いやいやもっともっと何回も,口のなかてくり返し「いちどうしょうじょうみょうれんふぜん」と唱えていた。
じつは,わたしの大伯父の名前が「一道」(いつどう)。禅寺(曹洞宗)の和尚。わたしが小さな子どものころから畏敬の念をもって仰ぎみていた人である。その一道和尚にわたしは可愛がられていた。なぜか,そういうものを子どもごころにも感じていた。わたしの成長とともに,大伯父の気持はもっとストレートに伝わるようになった。もちろん,口に出して,そういうことを語る人ではなかった。しかし,そのまなざしには,明らかに温かいものが感じられた。
ふいに尋ねていくと,「おー,来たか」。それだけである。あとは,にこにこと笑いながら「ぼそり,ぼそり」と問いを発する。それに必死になって答えると「おー,そうか」で終わり。でも,とても居心地がいいのである。なにか,とても大事なものを「面授」されているような気分だった。晩年は,わたしが尋ねると,すぐにお酒を出してくれた。昼間から。コップに一杯の冷や酒を,一道和尚は美味しそうに,舐めるように飲んでいる。そして,すぐに赤くなる。
この一道和尚の背後の床の間にかかっていた掛け軸が「平常心是道」(びょうじょうしんこれみち)。いわゆる書家の字ではないが,飄々とした,とても味わいのある字だった。わたしは尋ねるたびに,じっと,この掛け軸に眼を凝らしたものだ。「平常心」というものが,どういうものであるかは,わたしの加齢とともに理解が深まっていった。そのたびに,感動した。こちらの理解の深まりによって,その掛け軸が訴えてくる力が強くなってくるのである。
いつか,「一道」と「平常心是道」が二重写しになってみえるようになった。そうか,大伯父は「平常心」をただひたすら歩みつづけた人なのだ,と合点した。いつでも泰然自若として,少々のことでは驚かない,胆力のある人だった。すごい人だ,とこころの内で,そう思っていた。
この人の最後がまたすごい。いつもと同じように,朝御飯を食べて,奥さんが裏の畑にでて帰ってきたら,ひとりで布団の中に入って「大往生」していた,というのである。
そういえば,最晩年にお会いすると,「まんだぁ お迎えが こんでなぁ こうやって 生きとるだぁやれ」と笑った。まるで,童心にかえったかのような,その笑顔が忘れられない。
しかし,一道和尚の名前の由来は,「一道清浄妙蓮不染」にあるのではないか,とわたしは直観したのである。一道和尚の幼名は「八郎」。たしか,「一道」の名前は,先代の仙鳳和尚がつけたと聞いている。わたしの祖父にあたるこの仙鳳和尚が,また,つかみどころのない人で,空気のような存在の人だった。いるのか,いないのか,その存在があいまいな人だった。しかし,時折,じろりとこちらをみやる眼は,ただものではなかった。恐ろしかった。そのたびに,わたしは逃げ出したことを記憶している。
が,この仙鳳和尚も,若いころは相当にできのいい学僧として,その地方では名をなしていたそうな。その先代が「一道」と名づけたというのだ。とすれば,この「一道清浄妙蓮不染」ということばを知っていて,ここからとったに違いない,とわたしは直観したのだ。
このことばは,金岡秀友の校注によれば,弘法大師の記述のなかにあるという。その意味は「仏の大道が清浄なることは,あたかも白蓮が泥の中より咲き出て,いささかも泥に染まらぬようなものである。凡夫の智もその実において仏の智と連なることもこれと同じである」と解説している。すなわち,「主・客の対立を脱した妙境」のことだ,と。
となると,「一道」とは,仏の歩む「大道」そのものであって,自他の区別もなく,「主・客の対立」もない,まことに「清浄」なる境地そのものを意味することになる。
と,ここまで考えてくると,この大伯父に連なる人びとの名前が気になってくる。たづ(田鶴),戒心,たえ(妙),つた(蔦)・・・・これらの名前は,みんな,先代の仙鳳和尚がつけたものだ。だから,そこにはかならずなにかのメッセージが織り込まれているはずだ。この問題はまたいつか,考えてみることにしよう。
そして,いま,また,ふと脳裏に浮かんできたのは,寺の本堂の御本尊さまの裏側の,一番奥まったところに歴代住職の霊を祀った部屋がある。その入り口にかかっている扁額の書は,一道和尚が書いたもので,そこには「無二亦無三」とある。元気のいいころに書いたもので,勢いのある気迫の籠もったすばらしい達筆そのものである。ご本人は「勢いがありすぎる」と述懐された,と聞いているが・・・・。
このことばは,金岡秀友の校注によれば,つぎのようである。『法華経』で「十方仏土中・唯有一乗法・無二亦無三」(諸方の仏国土の中で,実在するのは,ただ一乗の法華の真実であり,声聞・縁覚の二乗も,それに菩薩を加えた三乗の区別もない)と説いていることと,「一道清浄妙蓮不染」は同じ趣旨のことを言っている,と。
これで,すべてが完結。「一道」「一道清浄妙蓮不染」「無二亦無三」は,まさに,一本道なのである。ああ,長年にわたる喉のつかえがとれて,すっきり。わたしの大好きだった大伯父,一道和尚の棲む「清浄妙蓮不染」の世界に一歩でも,近づくことができただろうか。合掌。
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