エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの『自発的隷従論』は,しばらくは手放せないほどにのめり込んでいます。どのページを開いても,すぐに惹きつけられていく,不思議な本です。ですから,これからしばらくは繰り返しこのテクストの内容をとりあげることになりそうです。
たとえば,P.52以下で,「圧政者の詐術」という見出しを立てて(1)から(5)まで論じています。つまり,圧政者は意図的に詐術を用いて民衆を誑かしているといい,以下の5項目をあげています。すなわち,(1)遊戯,(2)饗応,(3)称号,(4)自己演出,(5)宗教心の利用,の五つです。
そこで,今回は,その(1)に相当する「圧政者の詐術(1)──遊戯」を取り上げてみたいと思います。ラ・ボエシによれば,圧政者が民衆を誑かす詐術の筆頭が「遊戯」だというのです。ここでいう「遊戯」は,日本語でわたしたちがふつうに理解しているものとはいささか意味が違います。ホイジンガの名著『ホモ・ルーデンス』でもちいられた「ルーデンス」の意味だ,とひとまず言っておけばいいでしょうか。
「ルーデンス」とは広い意味での「遊び」のこと。ですから,「ホモ・ルーデンス」とは「遊ぶ人間」というほどの意味になります。つまり,人間の存在規定を「遊び」に求めたホイジンガの思想を象徴することばでもあります。
ラ・ボエシはこのホイジンガが用いた「ルーデンス」(ludens)というラテン語の ludeの語源になったとされる歴史上の話題を紹介しながら,ludus を用いています。このラテン語に訳者の山上浩嗣さんが「遊戯」という訳語を当てたという次第です。ですから,ひとまず,ありとあらゆる人間の「遊び」「娯楽」「享楽」「遊楽」「スポーツ」などを総称して「遊戯」としたと考えることにしましょう。そして,その「遊戯」が,民衆を誑かすための圧政者の都合のいい道具として用いられた,とラ・ボエシは指摘している,と考えればほぼ間違いはないでしょう。しかも,圧政者の詐術の「筆頭」に「遊戯」が挙げられている,というわけです。(なお,この点については,訳者による詳しい訳注がついていますので,そちらもご確認ください。)
となりますと,スポーツ史やスポーツ文化論について考えてきたわたしとしては聞き捨てにするわけにはいきません。ラ・ボエシはつぎのように述べています。
「芝居,賭博,笑劇,見世物,剣闘士,珍獣,賞牌(しょうはい),絵画,その他のこうしたがらくたは,古代の民衆にとって,隷従の囮(おとり),自由の代償,圧政のための道具であった。古代の圧政者は,こうした手段,こうした慣行,こうした誘惑を,臣民の軛の下で眠らせるためにもっていた。こうして民衆は阿呆になり,そうした暇つぶしをよきものと認め,目の前を通り過ぎる下らない悦びに興じたのであり,そんなふうにして隷従することに慣れていったのだった。そのありさまは,彩色本の目にも鮮やかな挿絵を見たいばかりに読みかたを習う小さな子たちとくらべて,愚かさの点では同じくらいであったが,罪の点からすればより深刻であった。」
この『自発的隷従論』が書かれた1546年(16歳とする説と,18歳・1548年とするのふたつの説がある)当時のフランスという時代や社会のことを,まずは念頭に置いてこの文章を読む必要があります。それともう一点は,ラ・ボエシが16歳(あるいは18歳)のときに書いたという事実です。つまり,「若書きの荒っぽさ」も散見されるということ,ただし,それでもなお問題の核心ははずしてはいないという点も合わせて考える必要がある,ということです。
おそらく,このような文章を書いた当時のラ・ボエシの念頭には,古代ローマの「パンとサーカスを!」と叫んだ民衆と皇帝の関係があったに違いないでしょう。だからこそ「こうしたがらくた」である「遊戯」は,まぎれもなき「隷従の囮,自由の代償,圧政のための道具」でしかない,とラ・ボエシは考えたのでしょう。つまり,圧政者(皇帝)による愚民化政策の一貫として「遊戯」は大いに役立ったという点に注目し,そういうくだらない「遊戯」が日常化することによって民衆は「思考を停止」し,いつのまにか民衆は「隷従することに慣れていったのだった」とラ・ボエシは指摘します。
この隷従のからくりを古代の話としてラ・ボエシは語っていますが,これを読むわたしには,これはこのまま現代日本の情況とほとんど同じではないか,と読めてしまいます。その典型的な事例は,こんにちのテレビの番組をみればわかります。いわゆる夕食時のゴールデン・アワーの番組は,まさに,ラ・ボエシがいうところの「がらくた」番組ばかりです。こういう「がらくた」番組がもっとも視聴率をとるというのですから,現代日本人も,「パンとサーカス」を求めた古代ローマ人となんの違いもありません。
こういう「馬鹿番組」(このなかにはスポーツ番組も含まれます)をひたすら垂れ流すことによって,国民の眼から「脱原発」論を遠ざけ,「沖縄基地問題」を忘れさせ,いま,もっとも議論されなくてはならないはずの「特定秘密保護法」や「TPP」にも蓋をしてしまう・・・・・この恐るべき「暴力装置」に,わたしたちはもっともっと批評の眼を向けるべきでしょう。そうしないかぎり,わたしたちは,無意識のうちに,つまり,まったく自覚のないまま,「隷従することに慣れて」しまい,それが日常化し,気づいたときには立派な「自発的隷従」の軛にはまっている,というわけです。
わたしたちは,いま,まさに,そういう情況のなかで生かされている,ということです。
2020年東京五輪の話題もまた,こうした「自発的隷従」を推進していくための立派な「道具」であり,国民をマヒさせるための圧政者にとってはまことに都合のいい劇薬である,ということを私たちは忘れてはなりません。もう,すでに,その劇薬が効き過ぎていて,完全なるマヒ状態を生かされているといっても過言ではありません。少なくとも,そういう「自覚」をもつことから始めなくてはなりません。
そういうことを,このテクストは,わたしの胸に突きつけてきます。もっともっと深く思考を練り上げていきたいと考えています。今日はここまで。
たとえば,P.52以下で,「圧政者の詐術」という見出しを立てて(1)から(5)まで論じています。つまり,圧政者は意図的に詐術を用いて民衆を誑かしているといい,以下の5項目をあげています。すなわち,(1)遊戯,(2)饗応,(3)称号,(4)自己演出,(5)宗教心の利用,の五つです。
そこで,今回は,その(1)に相当する「圧政者の詐術(1)──遊戯」を取り上げてみたいと思います。ラ・ボエシによれば,圧政者が民衆を誑かす詐術の筆頭が「遊戯」だというのです。ここでいう「遊戯」は,日本語でわたしたちがふつうに理解しているものとはいささか意味が違います。ホイジンガの名著『ホモ・ルーデンス』でもちいられた「ルーデンス」の意味だ,とひとまず言っておけばいいでしょうか。
「ルーデンス」とは広い意味での「遊び」のこと。ですから,「ホモ・ルーデンス」とは「遊ぶ人間」というほどの意味になります。つまり,人間の存在規定を「遊び」に求めたホイジンガの思想を象徴することばでもあります。
ラ・ボエシはこのホイジンガが用いた「ルーデンス」(ludens)というラテン語の ludeの語源になったとされる歴史上の話題を紹介しながら,ludus を用いています。このラテン語に訳者の山上浩嗣さんが「遊戯」という訳語を当てたという次第です。ですから,ひとまず,ありとあらゆる人間の「遊び」「娯楽」「享楽」「遊楽」「スポーツ」などを総称して「遊戯」としたと考えることにしましょう。そして,その「遊戯」が,民衆を誑かすための圧政者の都合のいい道具として用いられた,とラ・ボエシは指摘している,と考えればほぼ間違いはないでしょう。しかも,圧政者の詐術の「筆頭」に「遊戯」が挙げられている,というわけです。(なお,この点については,訳者による詳しい訳注がついていますので,そちらもご確認ください。)
となりますと,スポーツ史やスポーツ文化論について考えてきたわたしとしては聞き捨てにするわけにはいきません。ラ・ボエシはつぎのように述べています。
「芝居,賭博,笑劇,見世物,剣闘士,珍獣,賞牌(しょうはい),絵画,その他のこうしたがらくたは,古代の民衆にとって,隷従の囮(おとり),自由の代償,圧政のための道具であった。古代の圧政者は,こうした手段,こうした慣行,こうした誘惑を,臣民の軛の下で眠らせるためにもっていた。こうして民衆は阿呆になり,そうした暇つぶしをよきものと認め,目の前を通り過ぎる下らない悦びに興じたのであり,そんなふうにして隷従することに慣れていったのだった。そのありさまは,彩色本の目にも鮮やかな挿絵を見たいばかりに読みかたを習う小さな子たちとくらべて,愚かさの点では同じくらいであったが,罪の点からすればより深刻であった。」
この『自発的隷従論』が書かれた1546年(16歳とする説と,18歳・1548年とするのふたつの説がある)当時のフランスという時代や社会のことを,まずは念頭に置いてこの文章を読む必要があります。それともう一点は,ラ・ボエシが16歳(あるいは18歳)のときに書いたという事実です。つまり,「若書きの荒っぽさ」も散見されるということ,ただし,それでもなお問題の核心ははずしてはいないという点も合わせて考える必要がある,ということです。
おそらく,このような文章を書いた当時のラ・ボエシの念頭には,古代ローマの「パンとサーカスを!」と叫んだ民衆と皇帝の関係があったに違いないでしょう。だからこそ「こうしたがらくた」である「遊戯」は,まぎれもなき「隷従の囮,自由の代償,圧政のための道具」でしかない,とラ・ボエシは考えたのでしょう。つまり,圧政者(皇帝)による愚民化政策の一貫として「遊戯」は大いに役立ったという点に注目し,そういうくだらない「遊戯」が日常化することによって民衆は「思考を停止」し,いつのまにか民衆は「隷従することに慣れていったのだった」とラ・ボエシは指摘します。
この隷従のからくりを古代の話としてラ・ボエシは語っていますが,これを読むわたしには,これはこのまま現代日本の情況とほとんど同じではないか,と読めてしまいます。その典型的な事例は,こんにちのテレビの番組をみればわかります。いわゆる夕食時のゴールデン・アワーの番組は,まさに,ラ・ボエシがいうところの「がらくた」番組ばかりです。こういう「がらくた」番組がもっとも視聴率をとるというのですから,現代日本人も,「パンとサーカス」を求めた古代ローマ人となんの違いもありません。
こういう「馬鹿番組」(このなかにはスポーツ番組も含まれます)をひたすら垂れ流すことによって,国民の眼から「脱原発」論を遠ざけ,「沖縄基地問題」を忘れさせ,いま,もっとも議論されなくてはならないはずの「特定秘密保護法」や「TPP」にも蓋をしてしまう・・・・・この恐るべき「暴力装置」に,わたしたちはもっともっと批評の眼を向けるべきでしょう。そうしないかぎり,わたしたちは,無意識のうちに,つまり,まったく自覚のないまま,「隷従することに慣れて」しまい,それが日常化し,気づいたときには立派な「自発的隷従」の軛にはまっている,というわけです。
わたしたちは,いま,まさに,そういう情況のなかで生かされている,ということです。
2020年東京五輪の話題もまた,こうした「自発的隷従」を推進していくための立派な「道具」であり,国民をマヒさせるための圧政者にとってはまことに都合のいい劇薬である,ということを私たちは忘れてはなりません。もう,すでに,その劇薬が効き過ぎていて,完全なるマヒ状態を生かされているといっても過言ではありません。少なくとも,そういう「自覚」をもつことから始めなくてはなりません。
そういうことを,このテクストは,わたしの胸に突きつけてきます。もっともっと深く思考を練り上げていきたいと考えています。今日はここまで。
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