まずは,「カラーでよみがえる!」というタイトルに惹かれました。いま,はやりの古い白黒の写真をカラー化して復元する,あれだな,と。モノクロの写真をカラー化するということ,そのテクニックはともかくとして,古い写真に色を復元させるということ自体がなにを意味することになるのか,わたしの関心はそこにありました。
と同時に「東京100年の映像物語」という見出しも魅力的でした。そうか,東京の100年を映像でふり返るというのも面白そうだなぁ,と。セピア色した古い東京の光景が,すでに,懐かしさとともにわたしの記憶のなかにはあります。というよりも,むかしの東京の光景はすべて,わたしの頭のなかではセピア色です。それをカラー化した本がではじめたとき,わたしはひどい違和感を覚え,そんな馬鹿な・・・と思ったことをはっきりと記憶しています。もちろん,当初はテクニックも酷かったことはたしかですが,それにしても,カラー化することの意味が理解できませんでした。
そんなこともあって,この番組をみていました。予想どおり,とても面白くて,なるほどなぁ,と感動しきりでした。ひとつには,カラー化の技術がここまできたのかという驚きがありました。と同時に,時代の「色」を再現させるということの意味も,なるほどなぁ,といくらか納得しました。
しかし,ひっかかったのは,「色」を決定し,再現させるのはこんにちの技術者集団の人びと,つまり,人間である,ということでした。徹底的に調査研究を重ね,ようやく到達した技術だ,と番組のなかでは見得を切っていましたが,とはいえ所詮は人間のやることです。ほんとうに,そういう「色」であったのかどうかという厳密なチェックもまた人間のやることです。
なにが言いたいのか。技術に対する懐疑です。
もう一点は,現段階でのカラー化の技術と,これでよしとする技術者の「思い込み」が,それをみる人に対してはそのまま「刷り込み」になってしまう,という関係。こうして,新しいイメージが技術によって再生産され,それをそのまま真に受ける新人類が誕生し,また,新たな「思い込み」が世間に浸透していくことになります。そのことが意味するものはなにか,と考えてしまいます。
つまりは,歴史認識の問題です。
でも,面白い映像がつぎからつぎへと映し出されてきましたので,それはそれでとても面白く,いつのまにかからだを乗り出して魅入っていました。わたしの興味を引いたトピックスは,たとえば,関東大震災,日本橋の変遷,銀座を闊歩するモガ,東京大空襲,1940年の東京五輪,神宮外苑,学徒出陣(懐かしい江橋慎四郎さんの姿も),天皇の玉音放送,などなど。
そんな風にしてみているうちに,おやっ? なにか変だぞ,と思い始めました。それは,1964年の東京五輪の映像が流れたときです。この時代には,すでに映像のカラー化は普及しているのに,と。なぜ,このときの映像をそのまま(カラーのまま)流すのか,と。モノクロとの比較をするわけでもありません。と,思っていましたら,この番組の後半からは,映像のカラー化の問題からどんどん脱線していきます。
そして,いつのまにやら,東京100年の間にこれほど「進歩・発展」したのだ,というプロパガンダになってしまっていました。関東大震災からもみごとに復興を遂げ,東京大空襲からもみごとに復興し,東京五輪1964をきっかけにして東京は飛躍的に「進歩・発展」したのだ,首都高速道路の建造にもほとんど反対はなかったと断定し,日本橋の上を横切るあのみっともない映像を流しています。この映像と「カラー化」とはなんの関係もありません。おまけに,東京タワーは当時の世界一の高さを誇ったと紹介し,つづけてスカイツリーの映像を流しました。
こうなってきますと,この番組はいったい,なにを目的に制作されたのか,その企画・意図はなにか,とつぎつぎに疑問が湧いてきました。いったん疑問が湧いてきますと,あとは際限なくつづきます。そして,「ああ,こんな番組にまで,情報コントロールの手が伸びているのか」という,なんともはや味気ないところに到達してしまいました。これもまた,わたしの「思い込み」にすぎませんが・・・。
たかが「思い込み」,されど「思い込み」。
つまり,人間は,どんなに科学が発展しようが,アカデミックな歴史研究がなされようが,そして,どんな思想・哲学が展開されようが,どんな教育がなされようが,さらには,どんな情報をメディアが流そうが,はたまた,どのような宗教が広まろうが,最終的には,きわめて個人的な「思い込み」に還元され,その「思い込み」に依拠して生きていくしかありません。だからこそ,「カラー化」のもたらす問題系についても,慎重にならざるを得ない,というのがわたしの正直な問題意識です。
NHKスペシャルは,時折,素晴らしい番組を流してくれますので,わたしは長い間,注目してきました。しかし,最近になって(つまりは,アベ政権になってから顕著なのですが),みていて腹立たしくなり,思わず「吼えたり」してしまうことが多くなってきました。
その意味で,この番組はじつに手の込んだ,みごとなまでの手法(演出)を用いた情報操作がなされていた,とこのブログを書きながら考え,ここまで書いてみましたら,もはや,びくともしない確信になってしまいました。これがブログを書くことのいいところ。
それにしても,メディア・リテラシーとはなにか。あるいは,噂とはなにか。そして,歴史を動かす原動力はなにか。人間の「思い込み」。
と同時に「東京100年の映像物語」という見出しも魅力的でした。そうか,東京の100年を映像でふり返るというのも面白そうだなぁ,と。セピア色した古い東京の光景が,すでに,懐かしさとともにわたしの記憶のなかにはあります。というよりも,むかしの東京の光景はすべて,わたしの頭のなかではセピア色です。それをカラー化した本がではじめたとき,わたしはひどい違和感を覚え,そんな馬鹿な・・・と思ったことをはっきりと記憶しています。もちろん,当初はテクニックも酷かったことはたしかですが,それにしても,カラー化することの意味が理解できませんでした。
そんなこともあって,この番組をみていました。予想どおり,とても面白くて,なるほどなぁ,と感動しきりでした。ひとつには,カラー化の技術がここまできたのかという驚きがありました。と同時に,時代の「色」を再現させるということの意味も,なるほどなぁ,といくらか納得しました。
しかし,ひっかかったのは,「色」を決定し,再現させるのはこんにちの技術者集団の人びと,つまり,人間である,ということでした。徹底的に調査研究を重ね,ようやく到達した技術だ,と番組のなかでは見得を切っていましたが,とはいえ所詮は人間のやることです。ほんとうに,そういう「色」であったのかどうかという厳密なチェックもまた人間のやることです。
なにが言いたいのか。技術に対する懐疑です。
もう一点は,現段階でのカラー化の技術と,これでよしとする技術者の「思い込み」が,それをみる人に対してはそのまま「刷り込み」になってしまう,という関係。こうして,新しいイメージが技術によって再生産され,それをそのまま真に受ける新人類が誕生し,また,新たな「思い込み」が世間に浸透していくことになります。そのことが意味するものはなにか,と考えてしまいます。
つまりは,歴史認識の問題です。
でも,面白い映像がつぎからつぎへと映し出されてきましたので,それはそれでとても面白く,いつのまにかからだを乗り出して魅入っていました。わたしの興味を引いたトピックスは,たとえば,関東大震災,日本橋の変遷,銀座を闊歩するモガ,東京大空襲,1940年の東京五輪,神宮外苑,学徒出陣(懐かしい江橋慎四郎さんの姿も),天皇の玉音放送,などなど。
そんな風にしてみているうちに,おやっ? なにか変だぞ,と思い始めました。それは,1964年の東京五輪の映像が流れたときです。この時代には,すでに映像のカラー化は普及しているのに,と。なぜ,このときの映像をそのまま(カラーのまま)流すのか,と。モノクロとの比較をするわけでもありません。と,思っていましたら,この番組の後半からは,映像のカラー化の問題からどんどん脱線していきます。
そして,いつのまにやら,東京100年の間にこれほど「進歩・発展」したのだ,というプロパガンダになってしまっていました。関東大震災からもみごとに復興を遂げ,東京大空襲からもみごとに復興し,東京五輪1964をきっかけにして東京は飛躍的に「進歩・発展」したのだ,首都高速道路の建造にもほとんど反対はなかったと断定し,日本橋の上を横切るあのみっともない映像を流しています。この映像と「カラー化」とはなんの関係もありません。おまけに,東京タワーは当時の世界一の高さを誇ったと紹介し,つづけてスカイツリーの映像を流しました。
こうなってきますと,この番組はいったい,なにを目的に制作されたのか,その企画・意図はなにか,とつぎつぎに疑問が湧いてきました。いったん疑問が湧いてきますと,あとは際限なくつづきます。そして,「ああ,こんな番組にまで,情報コントロールの手が伸びているのか」という,なんともはや味気ないところに到達してしまいました。これもまた,わたしの「思い込み」にすぎませんが・・・。
たかが「思い込み」,されど「思い込み」。
つまり,人間は,どんなに科学が発展しようが,アカデミックな歴史研究がなされようが,そして,どんな思想・哲学が展開されようが,どんな教育がなされようが,さらには,どんな情報をメディアが流そうが,はたまた,どのような宗教が広まろうが,最終的には,きわめて個人的な「思い込み」に還元され,その「思い込み」に依拠して生きていくしかありません。だからこそ,「カラー化」のもたらす問題系についても,慎重にならざるを得ない,というのがわたしの正直な問題意識です。
NHKスペシャルは,時折,素晴らしい番組を流してくれますので,わたしは長い間,注目してきました。しかし,最近になって(つまりは,アベ政権になってから顕著なのですが),みていて腹立たしくなり,思わず「吼えたり」してしまうことが多くなってきました。
その意味で,この番組はじつに手の込んだ,みごとなまでの手法(演出)を用いた情報操作がなされていた,とこのブログを書きながら考え,ここまで書いてみましたら,もはや,びくともしない確信になってしまいました。これがブログを書くことのいいところ。
それにしても,メディア・リテラシーとはなにか。あるいは,噂とはなにか。そして,歴史を動かす原動力はなにか。人間の「思い込み」。
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