「デュピュイについて,もういちど──『カタストロフからの哲学』をめぐって」というワークショップを開催するのでご参加を,という案内を主催者の森元庸介(東大准教授)さんからいただいていましたので,傍聴させていただきました。さぞかし大勢の人が集まるものとおもっていましたら,意外に質素で,しかし,緊張感の高い集りでした。なるほど,こういう質の高い研究会は,このくらいの規模がいいのだなぁ,とおもいました。
日時:2015年12月18日(金)午後6時~8時45分。
場所:東京大学(駒場),18号館4階コラボレーション・ルーム1。
ワークショップ・テーマ:「デュピュイについて,もういちど──『カタストロフからの哲学』をめぐって。
プログラム:
ゲスト・スピーカー:三浦〇〇さん,桑田学さん。
レギュラー:中村大介,渡名喜庸哲,森元庸介,西谷修。
司会進行は主催者の森元庸介さん。
冒頭に,森元さんからゲスト・スピーカーの紹介があり,つづいてテクストの執筆者の紹介に入って,「ただひとり異色の論考を寄せられた西谷修さん・・・」と紹介されたところで,西谷さんが挙手をされ,「なぜ,このような内容のものを書いたのか」という理由について,いきなり気合の入った話になりました。しかも,その内容が,また,このワークショップにいたる導入としては抜群でした。その要旨は以下のとおりです。
デュピュイという人の仕事は,きわめて多岐にわたっています。しかも,これまでのアカデミックな研究の枠組みを度外視して,重要だとおもわれる領域に勇んで飛び込み,問題の所在を的確に押さえるという仕事をしてきました。ひとことで言ってしまえば,きわめて多面的で,かつ重層的な内容の本をたくさん書いてきました。ですから,場合によってはデュピュイのよって立つ基盤というか,思想の核心部分を見失ってしまう可能性が高い。たとえば,デュピュイの思想の中核をなす<破局>ということばの概念ひとつとってみても,場合によっては,その受け止め方の力点はバラバラになってしまう恐れがあります。そこで,デュピュイの言いたかったことの「肝」にあたる部分を,ざっくりと取り出し,ごくふつうのことばで語るとどうなるのか,ということを意識して書いたものです。
という具合にして,最初に書いた文章は,『スポートロジイ』(21世紀スポーツ文化研究所紀要)第3号に寄せたもので,そのもとになっているのは,この研究所が主催する研究会で,デュピュイの『聖なるものの刻印』をどう読むか,という講演であります,といったわたしへのサービスまでしてくださいました。ありがたいことです。
こうして,冒頭から高いテンションの話に入りましたので,ゲスト・スピーカーのお二人もかなり緊張されたようです。しかし,西谷さんのお話が,おそらくゲスト・スピーカーの魂の奥底をかきたてたかのようにして,三浦さん(映像文化論?),桑田さん(気象工学)のお話が展開しました。わたしにとっては,日ごろ,あまり触れることのない分野での最先端のお話が聞けて,とても刺激的でした。とりわけ,デュピュイのいう<カタストロフ>の射程はどこまでも広がっていて,現代の文明病の態をなしている,ということを強烈に刻印してくれたことが印象に残りました。
このお二人の原稿が,おそらく間違いなく出版されるであろう『カタストロフからの哲学』の続編に,どのようにまとめられて提出されることになるのか,いまから楽しみです。わたし自身は,お二人のお話をうかがいながら,1月に予定されているわたしたちの研究会に思いを馳せていました。そこでのテーマは「<破局>に向き合う「いま」,スポーツ文化の限界と可能性を考える」です。ですから,ここでの議論をそのまま引き受けて,わたしたちの土俵に持ち込むと,どういうことになるのか,とあれこれ考えることになりました。
その意味で,重要なヒントもいくつかいただきました。とりわけ,桑田さんの「気候工学とカタストロフ」は「研究」というものの,もはや切り離しがたい政治とのかかわりの深さを思い知らされるものでした。つまり,研究者自身は純粋に研究者としての良識の上に立ち,「気候工学」そのものの研究を深めていこうと純粋に努力を重ねていますが,その研究プロジェクトには巨額な研究費が科学研究費の名目で付いてきます。すると,その研究成果がどのように活用されることになるのか,そこのところの境目は曖昧なまま,実験,開発,実施へと,おそらく一直線で進むことになるのでは・・・と桑田さんは危惧されていました。
このことの示唆しているところは,スポーツ科学の研究現場も同じです。むしろ,スポーツ科学の場合には,わたしの知るかぎりでは,もっと積極的に「現場」と密着して,研究が進められているようにおもいます。つまり,勝つためにスポーツ科学の研究者たちは,そのすべてを提供しようと必死です。当然のことながら,そこには経済原則がつよく働くことになります。
わたしの目からすれば,スポーツ科学の研究者たちは,まことに無邪気に「現場」と癒着したまま,というより一心同体となって,研究に邁進しています。自分の立ち位置など,ほとんどなにも考えないまま・・・・。このことは,人文・社会系の研究者たちにも,そのまま当てはまります。つまり,自分の携わっている研究が,どういうことを意味しているのかという思想・哲学的な確たる思考を経ていない,ということです。
すなわち,思想・哲学の欠落した研究は,いまや,無意味であるどころか,きわめて危険ですらある,ということです。
長くなってしまいましたので,このブログはひとまずここまでとします。
何カ月かののちに,続編が世に問われることを,いまから楽しみにしたいとおもいます。
日時:2015年12月18日(金)午後6時~8時45分。
場所:東京大学(駒場),18号館4階コラボレーション・ルーム1。
ワークショップ・テーマ:「デュピュイについて,もういちど──『カタストロフからの哲学』をめぐって。
プログラム:
ゲスト・スピーカー:三浦〇〇さん,桑田学さん。
レギュラー:中村大介,渡名喜庸哲,森元庸介,西谷修。
司会進行は主催者の森元庸介さん。
冒頭に,森元さんからゲスト・スピーカーの紹介があり,つづいてテクストの執筆者の紹介に入って,「ただひとり異色の論考を寄せられた西谷修さん・・・」と紹介されたところで,西谷さんが挙手をされ,「なぜ,このような内容のものを書いたのか」という理由について,いきなり気合の入った話になりました。しかも,その内容が,また,このワークショップにいたる導入としては抜群でした。その要旨は以下のとおりです。
デュピュイという人の仕事は,きわめて多岐にわたっています。しかも,これまでのアカデミックな研究の枠組みを度外視して,重要だとおもわれる領域に勇んで飛び込み,問題の所在を的確に押さえるという仕事をしてきました。ひとことで言ってしまえば,きわめて多面的で,かつ重層的な内容の本をたくさん書いてきました。ですから,場合によってはデュピュイのよって立つ基盤というか,思想の核心部分を見失ってしまう可能性が高い。たとえば,デュピュイの思想の中核をなす<破局>ということばの概念ひとつとってみても,場合によっては,その受け止め方の力点はバラバラになってしまう恐れがあります。そこで,デュピュイの言いたかったことの「肝」にあたる部分を,ざっくりと取り出し,ごくふつうのことばで語るとどうなるのか,ということを意識して書いたものです。
という具合にして,最初に書いた文章は,『スポートロジイ』(21世紀スポーツ文化研究所紀要)第3号に寄せたもので,そのもとになっているのは,この研究所が主催する研究会で,デュピュイの『聖なるものの刻印』をどう読むか,という講演であります,といったわたしへのサービスまでしてくださいました。ありがたいことです。
こうして,冒頭から高いテンションの話に入りましたので,ゲスト・スピーカーのお二人もかなり緊張されたようです。しかし,西谷さんのお話が,おそらくゲスト・スピーカーの魂の奥底をかきたてたかのようにして,三浦さん(映像文化論?),桑田さん(気象工学)のお話が展開しました。わたしにとっては,日ごろ,あまり触れることのない分野での最先端のお話が聞けて,とても刺激的でした。とりわけ,デュピュイのいう<カタストロフ>の射程はどこまでも広がっていて,現代の文明病の態をなしている,ということを強烈に刻印してくれたことが印象に残りました。
このお二人の原稿が,おそらく間違いなく出版されるであろう『カタストロフからの哲学』の続編に,どのようにまとめられて提出されることになるのか,いまから楽しみです。わたし自身は,お二人のお話をうかがいながら,1月に予定されているわたしたちの研究会に思いを馳せていました。そこでのテーマは「<破局>に向き合う「いま」,スポーツ文化の限界と可能性を考える」です。ですから,ここでの議論をそのまま引き受けて,わたしたちの土俵に持ち込むと,どういうことになるのか,とあれこれ考えることになりました。
その意味で,重要なヒントもいくつかいただきました。とりわけ,桑田さんの「気候工学とカタストロフ」は「研究」というものの,もはや切り離しがたい政治とのかかわりの深さを思い知らされるものでした。つまり,研究者自身は純粋に研究者としての良識の上に立ち,「気候工学」そのものの研究を深めていこうと純粋に努力を重ねていますが,その研究プロジェクトには巨額な研究費が科学研究費の名目で付いてきます。すると,その研究成果がどのように活用されることになるのか,そこのところの境目は曖昧なまま,実験,開発,実施へと,おそらく一直線で進むことになるのでは・・・と桑田さんは危惧されていました。
このことの示唆しているところは,スポーツ科学の研究現場も同じです。むしろ,スポーツ科学の場合には,わたしの知るかぎりでは,もっと積極的に「現場」と密着して,研究が進められているようにおもいます。つまり,勝つためにスポーツ科学の研究者たちは,そのすべてを提供しようと必死です。当然のことながら,そこには経済原則がつよく働くことになります。
わたしの目からすれば,スポーツ科学の研究者たちは,まことに無邪気に「現場」と癒着したまま,というより一心同体となって,研究に邁進しています。自分の立ち位置など,ほとんどなにも考えないまま・・・・。このことは,人文・社会系の研究者たちにも,そのまま当てはまります。つまり,自分の携わっている研究が,どういうことを意味しているのかという思想・哲学的な確たる思考を経ていない,ということです。
すなわち,思想・哲学の欠落した研究は,いまや,無意味であるどころか,きわめて危険ですらある,ということです。
長くなってしまいましたので,このブログはひとまずここまでとします。
何カ月かののちに,続編が世に問われることを,いまから楽しみにしたいとおもいます。
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