2013年6月15日土曜日

「96条の会」発足記念シンポジウムに1200人余が集まる。第一会場から第九会場までびっしり。

 「熟議なき憲法改定に抗して」と題する「96条の会」発足記念シンポジウムが,今日(6月14日・金),上智大学を会場にして開催されました。5月23日の発足と同時に賛同者名簿に登録をして,微力ながら支援していこうと考えていましたので,行って参りました。

 わたしは少し早めに行って席を確保しておきましたが,これは賢明でした。申込み不要,参加自由,とありましたのでこれは相当の人数が集まるのではと予想していました。行ってみたら会場があまりに小さいので「おやっ?」とおもいました。大学の教室としてはやや大きめの,ざっと数えてみて250人が坐れるかどうかという広さでした。今日のシンポジストの顔ぶれからして,これでは無理だろう,とわたしは直観しました。案の定,あれよあれよという間に人でいっぱい。

 主催者はあわてて,教室をもう一つ確保して「第二会場」を設定し,ビデオで撮影した映像をとどける,という応急の手当てをすることになりました。が,どうやらつぎつぎに人が集まってきて,主催者はその対応に追われているらしく,開始時間がきてもなかなかはじまる様子はありません。主催者側のお手伝いには岩波書店のNさんも駆り出されていて,おおわらわ。尋ねてみると,いま,第三会場がいっぱいになってしまったので,第四会場の設定に入っている,とのこと。

 わたしがいる第一会場は立ち席までいっぱいで,人が通り抜けることもできないほどの盛況で,立錐の余地もありませんでした。会の終わりのアナウンスでは第九会場まで設定して,推定で1,200人以上の人が集まったようです,とのこと。会場からいっせいに拍手がわき起こりました。

 主催者は250席で間に合うと踏んだのでしょうが,その5倍以上もの人が集まり,嬉しい誤算だったようです。それだけ「96条」改定についての関心が高いということなのでしょう。大手のメディアは「96条」の会ができたことも,ほとんど無視。しかし,発起人の人たちが頑張って,それこそ「草の根」運動的にそのネットワークを広げ,それに呼応してこれだけの人が集まったのですから,これはもう立派な「事件」だ,とおもいました。

 それでも,マスメディアのテレビ・クルーは一社もきてはいません。腕章をつけた新聞社もひとつも見かけませんでした。おそらく,どこのメディアも無視でしょう。となれば,一般市民の人びとはほとんどだれも知ることはありません。しかし,1200人を超える人が集まったという話が,あちこちにじわじわと伝わっていけば,政府自民党も心おだやかではなくなるでしょう。すでに,安倍首相の憲法改定の主張も,ここにきて急にトーンダウンしているように見受けます。

 これから東京都議会議員の選挙がはじまりますし(今日,告示),7月には参議院議員選挙が待っています。「96条」,そして「9条」の改定を阻止しなくてはならないと考えるわたしたちにとっては命懸けの選挙となります。どうあっても,改定阻止をはかるためには,トータルで三分の一以上の議席を確保する必要があります。

 今日のシンポジストのひとり,小森陽一さんは,「メディアが無視するかぎり,われわれは草の根運動を展開する以外に方法はありません。ですから,わたしは毎週末,どこかにでかけて行っては「9条」を語り,「96条」を語っています。「9条」の会も,いつのまにやら6000以上もの各地方の市民団体が組織して,活発な活動をつづけています。こんな小さな運動でも,じわじわと政府自民党のボティーブローとなって,いつかは大きなダメージを与えることになる,と信じて今日もここにきました。そうしたらこんなに大勢の人が集まってくださり,大いに勇気づけられました」と結んで大きな拍手をもらっていました。

 山口二郎さんも,短い時間のなかで,とても興味深い話をしてくださいました。首相は民意を問うというが,いま,民意を問わなくてはいけない問題は「原発」問題だ。こちらは民意を無視しておいて,憲法改定にだけに民意を問おうとしている。まことに自分勝手なご都合主義の理屈だ,とバッサリ。さらに,二分の一と三分の二の議決の意味がわかっていない,とも。二分の一は日常的な政治課題を解決するための法律をつくるときのような,短期の意思決定の方法だ。三分の二は,憲法のような子どもや孫の世代までも視野に入れた長期にわたる国民の安寧を視野に入れた意思決定の方法だ。こんなことも政治家たちはわかっていない,と。

「96条の会」について詳しく知りたい方は,以下のHPでご確認ください。
http://www.96jo.com/
「呼びかけ文・2013年5月23日」
「96条の会がめざすこと」
「2013年5月23日『96条の会』発起人」一覧
「賛同者一覧」
などをみることができます。
なお,カンパも行っていますので,ぜひ,ご協力のほどを。

2013年6月14日金曜日

近藤誠著『がん放置療法のすすめ──患者150人の証言』(文春新書,2012年刊)を読む。「本物がん」と「がんもどき」を見分けよ,とのこと。

 がんは「早期発見,早期治療」が大原則だ,とわたしは固く信じて疑うことはありませんでした。しかし,この本を読んで,この信念がぐらつきはじめました。なんということか。この著者の近藤誠医師は「がんは放置しておけ」というのです。もちろん,すべてのがんがそうだということではなくて,早期に治療が必要ながんもある,と近藤医師はいいます。しかし,がんの大半は,放置しておくのが一番だ,という結論を導きだしています。

 これには驚きました。がんの大半は「がんもどき」。つまり,がんのようであってじつはがんではない,だから「がんもどき」だ,と。こちらのがんは放置せよ,と。近藤医師の言うには,がんには「本物がん」と「がんもどき」の2種類がある,と。「本物がん」は見つかったときにはすでにがんの転移がはっきりしているものであって,しかも,その転移は本物がんが発症するとほとんど同時に起きているので,間違いなく何年も前に転移しているのだ,といいます。しかし,「がんもどき」は転移していません。ある局部ががんのような症状を呈したとしても,そのほとんどは「がんもどき」である,と近藤医師は断言します。その場合には,まずは,しばらく観察して様子をみることを薦めています。つまり,時間稼ぎをせよ,と。そして,その間にがんと向き合う心構えを整えよ,と。

 治療法には,摘出手術,放射線療法,ホルモン療法,抗ガン剤療法,などがあるので,そのうちのどれを選ぶかは患者が決めることが大事だ,とも言います。そのための心構えのための時間稼ぎが重要なのだ,というわけです。つまり,がんの治療法についてひととおり学習をして,その上で,自分で決めなさい,と。あとは,担当医と相談の上で,お互いが納得のいく治療法を選べばいい,と。つまり,近藤医師のスタンスは,医師のいいなりになるのではなくて,患者が自分なりに納得のいく治療を受けるべきだ,というのです。

 近藤医師は,すでに多くの著書を書いていて,そのつど書店には平積みにされ注目されていました。たとえば,文春新書だけでも『抗ガン剤は効かない』『がん治療総決算』『成人病の真実』『患者よ,がんと闘うな』などがあります。わたしも気になっていましたので,ときおり手にとって拾い読みはしていました。しかし,「ほんまかいな」という疑念の方が大きかったので,購入して熟読するということまではしませんでした。しかし,今回は『がん放置療法のすすめ』とあり,これまでの著作の集大成のように感じられましたので,じっくり読んでみることにしました。

 その結果は,大いに納得,というものでした。わたしの読後の結論は,がんとわかったらおとなしくお付き合いをすること,ああ,そうですか,では,仲良くしましょうね,くらいの気構えでいるのが得策だということです。「本物がん」であれば,すでに転移しているわけですので,その進行に素直にお付き合いすること,そして,生活に支障をきたさないかぎり,無駄な抵抗はしないこと,もし,苦痛などの症状がひどくなってきたらそのための対象療法にとどめること,あとはがんにお任せ,というくらいの覚悟を決めておこう,といまはおもっています。そして,近藤医師のいう転移のない「がんもどき」であれば,あわてることなく悠然と,これまでどおりの生活をつづけること,と考えることにしたいとおもいます。でも,そのときになったらどうなるかはわかりませんが・・・。でも,とりあえずは,こんなことを考えています。

 わたしの身内にも,友人にも,いま,まさにがんの治療を受けている人もあって,どのように対応したらいいか困っていたのは事実です。顔を合わせたときに,どのようなことばをかけるのがいいのか,ほんとうに困ってしまいます。ですから,あまり踏み込んだ話にはならないところで切り上げるのが本音でもあります。とても神経を使うことは間違いありません。かといって,では,どうすればいいのか,と困っていました。が,この本をよくよく読んでみますと,あまり深刻に考えない方がいいということもわかってきました。

 といいますのは,がんだけが特別の病気ではなくて,風邪や結核などのような呼吸をとおして起こる感染症や,赤痢やコレラのような特定の病原菌によって感染する病気と同じだ,と考えればずいぶん気持ちも楽になるというわけです。実際にも,がんが直接の死因になることはごくまれであって,その他の臓器の機能低下によるものがほとんどだということです。ですから,ゆったりと構えることが一番,といまは思えるようになってきました。

 わたしの若いころには「がんノイローゼ」という病気が大きな話題になったことがあります。いわゆる「がんノロ」です。それほどに,がんにかかったら治らない,あとは黙って死を待つだけだ,というあきらめの気持ちが強くはたらいた時代がありました。その影響から,おそらく「早期発見 早期治療」というキャッチ・フレーズがまたたくまに浸透したのだとおもいます。そして,それだけが強烈にインプットされてしまったというわけでしょう。

 しかし,よくよく観察してみますと,がんから生還した人もわたしのまわりにも少なくありません。そのなかには,どうせ死ぬのであれば治療はいらない,と言って自分から治療を放棄した人もいます。これなどは,この本の著者・近藤医師によれば「がんもどき」であった可能性がきわめて高いと思われます。

 まあ,自分のことは書くまいとおもっていましたが,白状しておきましょう。じつは,50歳のとき,確率二分の一でがんだと診断されたことがあります。膵臓がんの疑いです。その後,いろいろの経緯がありましたが,結果的にはなんとか生還できた,という次第です。いま考えてみると「がんもどき」であったようです。なぜなら,わたしの信頼しているお医者さんに相談したところ(遠距離だったので電話で相談),わたしの性格などもよくわかっている人でしたので,そのことばを信じることにしました。その結論は「忘れなさい」。そして,「自分の好きなことに熱中しなさい」,というものでした。そのお蔭でこんにちがあるというわけです。この人は「名医」です。

 その後も定期健康診断で,がんを疑われたことが二度ほどあります。そして,精密検査を受けるよう指示されました。しかし,結核のような感染症ではありませんので,他人に迷惑をかけることもあるまいと判断し,無視して,忘れることにしました。さきの名医のことばを信じて。それは結果的には正解だったようです。

 この本を読んでいますと,著者は「がんを宣告して,積極的に治療をすすめる医者のなかには,金儲けを念頭におく人が少なくない」とかなりはっきりと,しかも,繰り返し書いていることに気づきます。どうやら医療従事者の金儲けのために「医療」の本質がゆがめられている背景も,現実にはあるのだということが透けてみえてきます。がんは,その意味では,医療の目玉商品のひとつとして利用されているようにもみえてきます。

 放置療法は儲かりません,と近藤医師は断言しています。ですから,医者の方にも相当の決意が必要だとも述べています。こんなことばを医師から聞かされますと,医療にも「経済原則」が立派に侵入しているんだなぁ,ということを垣間見る思いがしました。「医は仁なり」ということばが,はるか遠くにかすんでしまう時代になってしまったんだ,という思いも新たにした次第です。

以上,読後の感想まで。

2013年6月13日木曜日

全柔連上村会長続投表明と聞いて,開いた口が塞がらない。柔道,破局への道。

 嘉納治五郎が体系化した柔道が,国際化とともにJUDOとなり,ついには「これは柔道ではない」とまで言わなければならないみじめな情況がすでに世界を支配してしまっている。もう,いまから世界のJUDOを日本の柔道にもどすことは不可能だろう。日本の柔道は間違いなく破局への道をまっしぐら,と言わざるを得ない。まずは,このことについて全柔連はどのように認識しているのか,わたしはそこを知りたい。

 なぜなら,柔道発祥の国・日本から世界柔道連盟に理事一人を送り出す力さえ,いまは持ち合わせてはいないからだ。このあまりにみじめな現実をどのように考えているのか。この点についての認識も,あまりにもお粗末なのではないか,と大いなる疑念をいだいている。世界柔道連盟に日本の理事不在のまま,柔道のルール改正がひっきりなしに行われている。その実態は,嘉納治五郎の描いた理想の柔道からはどんどん隔たっていくばかりだ。その動向に歯止めをかける理事がひとりもいないのだから。

 JUDOの試合の不思議な競技の光景はこうして生まれたものだ。その光景はオリンピックや世界選手権での柔道の試合をみれば一目瞭然である。判定のレベルもきわめて低い。というより,なにをJUDOの技と考えればいいのか,その基準すらも明らかではないからだ。みているわたしにも,なにを技と考えているのか,なにが優勢なのか,なにがなんだかわからない。

 こういう世界的な趨勢に対して,全柔連は,すでに長い間,なんの対応もできないまま放置してきたのだ。そして,本来の柔道の息の根を止められてしまい,いまや,JUDOを後追いしながら,それを選手たちがマスターするために汲々としている。全柔連の執行部をあげて,国際試合に勝つために全力投球である。いいではないか。負けたって。堂々と,これが柔道だという試合を展開して負けるのであれば。いな,勝負を度外視して,柔道のなんたるものかを世界中の人が見守るなかで,堂々と試合でみせつけるくらいの矜恃をもちたい。それだけが,いま,日本の柔道を,世界に向けて理解してもらうための唯一の方法ではないか。

 それをただメダル欲しさに勝ちにいく。そのために,選手たちだけが犠牲になっている。いじめやしごきを受けたり,不要な暴力まで受けたり,挙げ句の果てにはセクハラまで受けなくてはならない,まことにみじめな醜態をさらけだしている。いったい全柔連はなにをやっているのか,と全国民の失笑をかっている。のみならず,世界中のJUDO愛好家から顰蹙をかっている。これでは文部科学省が柔道の必須化を導入しても,逆効果を招きかねない。

 のみならず,助成金不正受給まで発覚し,その組織が腐り切っていることまで明るみになったいま,それに的確に対応する能力すら持ち合わせてはいない。内閣府の公益認定委員会から報告書の提出を求められた際にも,執行部の一部の人間が作成した報告書は,A4用紙2枚に箇条書きされていた,という。もはや,開いた口が塞がらないどころの話ではない。

 しかも,その報告書に盛り込まれた内容たるや,もっとお粗末だったという。助成金問題を調べる第三者委員会の中間報告に対して「内容に違和感がある」と主張したり,実際に暴力を受けた選手は「告発した15人のうち0~2人」としていた,という。これをみた第三者委員会は「組織としてのガバナンスのあり方に疑念を抱く」と痛烈に批判したことも,わたしたちの知るところだ。こんごの対応の仕方によっては「公益認定の取り消しもあり得る」とまで警告されている。

 この警告を受けた直後は,さすがの上村会長も「近く進退を明らかにする」と述べ,辞任を示唆していたことも,わたしたちの記憶に新しい。にもかかわらず,ここにきて一転して「きちんと改革することが私に課せられた使命」などと述べたという。まさか,マリアス・ビゼール国際柔道連盟会長の「上村会長の続投を100%支持する」という社交辞令を真に受けたわけでもあるまいに・・・・。世界中の笑い物になっていることを百も承知でビゼール会長は,こんなジョークとも受け取れる談話を残して日本を去っていった。これで当分の間は,全柔連を無視しておいてもいい,とビゼール会長は臍を噛んでいることだろう。

 今日の『東京新聞』はこのことを大きく取り上げ,みごとな紙面を構成している。とりわけ,井上仁記者による記名記事が秀逸。見出しタイトルは「理解に苦しむ続投」。それと,「理事会解散一日も早く」という見出しの了徳寺学園理事長(全柔連評議員・了徳寺健二氏)の談話もみごと。たとえば,上村会長の続投表明に対して「それでは済まされないことを分かっていない悲しさ。国民,真の柔道家は決して同調することはありません」と,わたしの涙を誘う。25日に予定されている評議員会ではみずからの考えを述べるという。ようやくひと波瀾起きそうな雰囲気が漂いはじめた。

 いまこそ,全柔連の憲法ともいうべき「寄付行為」に謳われている「評議員会」が機能すべきときだ。ここが決起すれば,理事会は身動きできないように規定されている。さて,どこまで一致団結ができるか。「真の柔道家」の立ち上がるべきときだ。評議員の多くは各都道府県連盟の会長が兼務している。いまこそ,柔道家の良識が問われるときだ。

 柔道が,破局への道をまっしぐら・・・・ということにならないためにも。

2013年6月12日水曜日

『東京新聞』掲載の三浦雄一郎さんの「手記」を読む。死と向き合う体験に注目。

 昨日のブログで書いたように,三浦雄一郎さんの「手記」が,さっそくに今日(6月11日)の『東京新聞』に掲載されました。テレビというメディアの報道内容のいい加減さにくらべたら,本人直筆の「手記」はそれなりに内容があって,伝わってくるものが重い。

 三浦さんの「手記」は,そんなに長いものではないので,情報を共有する意味でここに転記しておきたいとおもいます。

 史上最高齢でエベレスト登頂に成功した冒険家三浦雄一郎さん(80)が今回の挑戦を振り返った手記が届いた。という枕があって,「80歳エベレスト登頂」「三浦さん挑戦振り返り手記」「生還 新たな夢の始まり」という見出しが付いています。手記の本文は以下のとおり。

 2013年5月23日午前9時(ネパール現地時間),私は80歳にして三度目の世界最高峰エベレストの山頂へ立つことができた。5月16日に標高5,300メートルのベースキャンプを出発。若手あったら4~5日で到達する山頂へキャンプ数を二つ分増やして8日目の頂だった。
 5年前,75歳での登頂後,常に見据えてきた夢の頂。この5年間というのはどのような肉体的な意味を持つのであろうか。
 日本人男性平均寿命を超え,不整脈や76歳での骨盤骨折,特に心臓はヒマラヤ出発の直前に手術をしたばかりだった。加齢による衰えをさまざまな工夫や意志の力によってどれぐらい乗り越えることができたのか。
 今までの経験を踏まえた新たな発想や装備,斬新なトレーニング方法を活用した。
 高みに上がるにつれて身体の調子は良くなり,標高約8,000メートルのサウスコル(通常アタック前にテントを張る場所)のキャンプ4(C4)に到達したときは,37歳で初めてそこまで登った時より体調は良い。70代も体調は良かったが,あのエベレスト大滑降を行った時よりも良かった。
 無駄に体力を使わず,補助酸素を使って体力の温存と高所への順化がバランス良くできていた。ここからは死の世界「デスゾーン」と呼ばれる8,000メートル以上での登山。山頂までの標高差はまだ千メートル近くもある。
 最終キャンプのC5への登攀(とうはん)は猛吹雪に見舞われた。積もった雪がまるであり地獄ように足元で崩れ,30センチ登ると20センチずり落ちる。苦しいなんてものじゃない。娘からの電話「無理しないで」。しかし無理をしなければ世界最高峰の山頂へは登れない。
 数時間の休憩後,午前2時に出発。風はなく絶好のコンディション。薄い大気にあえぎ,急な勾配や研ぎ澄まされた稜線(りょうせん)を登る。
 頑張って,頑張って,頑張って・・・そして登頂。眼下に広がる美しい地球を眺め,はるかなる宇宙を見上げた時にこれ以上なく幸せでうれしく,これ以上なく疲れていた。
 下山は死闘となった。C5直前で身体が全く動かなくなった。長時間にわたる超高所での行動と充分な栄養補給ができなかったことによる極度の疲労と脱水症状。C5で休息と食糧と水分をとることができた。
 「生きて還(かえ)りたい」という唯一の強い思いで再び立ち上がり,C4へたどり着く。翌日,長い時間をかけて慎重に標高6,500メートルのC2へと下った。デスゾーンでの滞在は足かけ4日,登攀行動は計36時間以上となった。
 山頂へ向かう一歩ずつが「希望の軌跡」となった。しかし希望への足跡を刻むこと以上に素晴らしいことは生きて還ってくること,それが新たな夢の始まりへと続くということを感じた80歳のエベレストだった。
 素晴らしい仲間に恵まれ,素晴らしい天気を授かり,そして多くの方々に応援していただいた。この場をお借りして心から感謝申し上げます。(三浦雄一郎)

 抑制のきいた,簡潔にして要をえた,いかにも三浦さんらしい文章だとおもいます。冒険家には,こうした字数制限のあるなかで,説得力のある文章を書く能力もまた求められています。こういう能力が,綿密な登山計画を組み立て,チーム三浦を支えるサポーターたちを組織し,全員に計画を周知徹底させていく上で不可欠なのです。当然のことながら,チーム三浦のなかには現地のシェルパたちもふくまれます。細部にわたって一分の隙もない,正確な情報を発信し,徹底させていくことが命綱となります。その歯車がひとつ狂っただけで,大きな遭難事故につながっていきます。ですから,ただ,若々しい体力や情熱だけでエベレストに登れる,と思わせるような昨日のNHKクローズアップ現代の報道姿勢に,わたしは我慢がならないのです。

 わけても,足首に重い錘をつけて足首を曲げないで歩くトレーニングを日常的に行い,大腿四頭筋を鍛えていた,などというナレーションつきの映像を見せつけられると,なにを言ってるんだ,とテレビに向かって怒鳴ってしまいます。三浦さんの足首は立派に曲がっているではないか,と。つまり,この番組制作にかかわった人のなかに,ひとりとして,登山がいかなるものかということがわかる人がいなかった,ということがここにみごとに露呈してしまっています。足首の固い人は基本的に登山に向いていません。足首が固かったら急坂を登ることはできません。もう,その時点で,初心者としても失格です。そのむかし山を歩いていた人間として,みずからの足首の固さにどれほど悩まされたことか。もともとスキーの選手として活躍していたことのある三浦さんの足首はふつうの人よりはるかに柔らかいことは間違いありません。

 昨日の話はやめにしましょう。はじめるときりがありません。この手記にもどりたいとおもいます。

 この手記で,わたしの眼が釘付けになったのは,「下山は死闘となった」からはじまる文章です。「デスゾーンでの滞在は足かけ4日,登攀行動は計36時間」にいたってクライマックスに達します。そして,「身体が全く動かなくなった」時点で,三浦雄一郎さんはいったいなにを考え,なにを思ったか。その答えが「生きて還りたい」の一念でした。このあたりに三浦さんの本音を聞き取ることができます。「死と向き合う体験」が,登山では,ある意味でつきものです。そこをいかにクリアするか,それが登山家としての資産となっていきます。

 もう,これ以上,繰り返しませんが,メディアの人びとにお願いしたいのは,登山というものがどういうものであるのか,そのことをしっかりと踏まえた上で,三浦雄一郎さんの「偉業」を分析して報道してほしいということです。登山のなんたるかということを抜きにして,脳のCTスキャンの写真や「握力40kg」などという数字をあげつらうのはまったくナンセンスです。

 もはや,「スポーツ・メディア共同体」を抜きにしてこれからのスポーツを語ることはできません。それだけに,メディアの人たちには「スポーツとはなにか」ということをつねに問い直しながら報道にたずさわってほしい,ということです。と同時に,メディアが流すスポーツ情報を,わたしたちは厳しい「批評」の眼で見届けていくことが不可欠だ,ということでもあります。

 双方がしっかりしていないと,スポーツに未来はありません。もう,すでに「破局」を迎えてしまっている,という見方もありますが・・・・。

 今日のところは,ここまで。

2013年6月11日火曜日

NHKクローズアップ現代・三浦雄一郎さん「快挙」報道に大いなる疑問。

 三浦雄一郎さんの「快挙」が,さまざまなメディアをとおして氾濫しています。しかも,一貫しているのは「80歳にして・・・」という世界的な英雄扱いです。たしかに,これまでだれも達成できなかっか記録をつくったというその一点だけに焦点を当てれば,そのとおりでしょう。プロの冒険家としての三浦雄一郎さんからすれば,我が意を得たりというところでしょう。が,それを繰り返しテレビなどをとおして見せつけられると,いささか食傷ぎみになってきます。もう,いい加減にしていただきたい,というのが正直なところです。

 せっかくの「快挙」にクレームをつける気はありませんが,メディアのこのワン・パターン化した報道の仕方には,もうこれ以上は我慢がなりません。あまりに子ども染みた,しかも偏った「科学」神話に依拠した,無責任な報道の仕方はもう止めていただきたいとおもいます。とりわけ,NHKさんに関しては。

 わたしの夕食時とNHKのクローズアップ現代の時間がちょうど重なりますので,この番組はほとんどみています。「3・11」以前までは,なんの疑問もいだくことなく,なるほど,そんなものですか,という感覚で無批判に受け止めていました。しかし,「3・11」以後,メディアの報道の仕方の異常さに気づき,複眼的に情報を受け止める努力をしているうちに,いつしかとてつもなく批判的に受け止め,考えるようになりました。その結果,たとえば,テレビ・メディアの報道の仕方があまりに無責任であるということに,どんどん気づくようになりました。いまでは,テレビのニュース番組もふくめて,画面に向かって「それは違うだろうッ!」と吼えつづけています。

 今夜(6月10日)の午後7時30分からのNHKクローズアップ現代,驚異の80歳三浦雄一郎初公開若さの秘密,をみていてとうとう我慢の限界に達してしまいました。今日のこの番組をみていて,NHKの番組制作者たちは,いったい,なにを考えているのだろう,とあきれ返ってしまいました。そこに現れた三浦雄一郎さんは,単なるデブの老人でしかありませんでした。しかも,その映像はすべて「快挙」の前に撮影された事前の映像でした。あんなからだでは,まともな方法ではエベレスト登山は不可能です。それは,少しでも登山ということに真剣に取り組んだことのある人ならすぐにわかることです。しかも,直前には持病の不整脈で入院までしています。いかに不自然なエベレスト登山がなされたかは,今日の映像をみて,わたしは直観しました。

 それを,わざわざCTスキャンで撮影した三浦雄一郎さんの脳の映像をみせて,若い人の脳よりも若若しいと説明を加え,しかも,ある目的をもって日々精進して励んでいる老人の脳は若々しく衰えない,とどこかの偉い先生のコメントまで付しています。こうやって「科学」神話を,またまた再生産しているわけです。

 大きな目標を立てて一生懸命努力している人は,元気で,若々しいのは,むかしからよく知られている事実です。そんなことは当たり前の話です。ですから,こんな脳だからエベレスト登山をなし遂げたのだ,と言わなければならなかったことの裏側に隠された事実が,わたしには気がかりになりました。なぜなら,鹿屋体育大学の先生まで動員して,あれこれ体力がチェックされたにもかかわらず,示されたのは握力40kgだけでした。この数字はそれほど褒められたものではありません。ですから,そのほかの筋力測定の結果は,公にできないほどの数値でしかなかった,ということが逆に浮き彫りになってしまっています。

 80歳にしてエベレスト登山を可能にしたのは,なにも,三浦雄一郎さんの若々しい「脳」や「握力」ではありません。この程度の老人はどこにでもいます。しかし,それ以上のものがしっかりと確保されていたからこそエベレスト登頂が可能だった,とわたしは考えています。

 三浦雄一郎さんの偉大さは,巨額のカネを集める能力にある,と。そして,チーム三浦雄一郎を組織する能力にある,と。しかも,そのチームを一つに束ねて力を発揮させる能力にある,と。そうした総合力が,今回の「80歳エベレスト登頂」を成功させたのだ,とわたしは考えています。これは,たしかに三浦雄一郎さんにしかできない「芸」です。その点では偉大なる人だ,とこころから敬意を表します。しかし,こころの底から喜べるか,と問われると口ごもってしまいます。

 三浦雄一郎さんの培ってきた政界・財界のネットワークをフルに活用して集金し,メディアには「映像」や「手記」を条件に前倒しして出資してもらい,ありとあらゆる手段を用いて,わたしたちでは想像もつかない巨額のカネを集めたはずです。それは,過去の2回のエベレスト登頂成功の折の記録からも推定できます。

 恐るべき数のシェルパを雇い,テレビ・クルーの荷物から,チーム三浦雄一郎の総勢の荷物を運び上げなければなりません。それも並の距離,高さではありません。しかも,医療サポートも確保し,いざとなればヘリコプターも動員できる体制を整えています。そうした総合力の結集が,今回の偉業を可能にしたのです。

 そのことにはフタをして,若々しい「脳」,「握力」,「家族愛」,などにだけ焦点を当てて,それもとってつけたような映像しか提示していません。この番組にはほとほとあきれはててしまいました。わたしが知りたかったのは,最低でも三浦雄一郎さんの「心肺機能」のレベルです。不整脈という持病をかかえた状態での「心肺機能」がどの程度のものであったのか,それが超人的であったというのなら,まだいくらかは納得できます。が,その種のデータはなにも示されないまま番組は終ってしまいました。

 わたしの懸念は,登頂成功後の下山に要した驚くほどの時間の長さとわずかしか移動できていないという事実,その後,クレバスの状態がよくないという理由でヘリコプターを動員したこと,このときなにか不測の事態が起きていたのではないか,という点です。いずれ,三浦雄一郎さんが手記を書かれるでしょうから,このあたりのことをどのように記述されるのか,楽しみにしたいとおもいます。

 「メディア・スポーツ共同体」(今福龍太)ということばがあります。今回の三浦雄一郎さんの「偉業」を支えたのは,ひとことで言ってしまえば,この「メディア・スポーツ共同体」のなさる技だった,と言っても過言ではありません。この問題については,また,いつか,このブログでも触れてみたいとおもっています。

 取り急ぎ,今日のところはここまで。

2013年6月10日月曜日

山口昌男追悼シンポジウム「人類学的思考の沃野」傍聴記・その2.真島一郎さんのプレゼンに感動。

 主催者のご挨拶,後援団体である日本文化人類学会会長のご挨拶があって,青木保先生の基調講演,そしてシンポジストの発言とつづき,プログラムの前半の最後に真島一郎さんが登壇。たぶん,今日,予定されている6名のシンポジストのなかではもっとも若い研究者(アフリカニスト)のはず。わたしはきわめて個人的な関心から,真島さんがどのようなお話をなさるのか,じつはこころから楽しみにしていました。

 真島さんが登壇され,お話をはじめると,それまでどことなくざわついていた会場が静まり返りました。そして,ピーンと張りつめた空気が流れはじめました。それほどに気持ちの籠もった,まさに「追悼」の名に値するプレゼンテーションが展開しました。わたしは感動しながら耳を傾けていました。わずか15分という短い時間でしたが(プログラム上,仕方がない),じつによく練り上げられ,整理され,凝縮したきわめて濃密な内容のお話をされました。途中からノートをとるのも忘れて,聞きほれていました。それほどの完成度の高いプレゼンでした。

 まじめな性格の真島さんらしく,きちんとレジュメを用意・配布された上で,お話がはじまりました。この日のシンポジストのなかでは,お二人の方がレジュメを用意されました。そのお一人というわけです。ですが,レジュメは会場ではほとんど眼をとおすこともできないまま,ただ聞き入るばかりでした。でも,帰宅してから,そして,いまも,そのレジュメを開いてあちこち熟読玩味させてもらいながら,このブログに挑戦しています。

 そのなかから,ひとつふたつ話題をご紹介させていただきます。とはいっても,わたしの独断と偏見にもとづく自己流解釈になることを,あらかじめお断りしておきます。

 真島さんのレジュメに書かれている大きな見出しは全部で7本です。順番に,説話,伝統王権,史資料,天皇制/フィールドの外延,近代に対峙するメタヒストリー:発生≠生成,起源≠始原,社会の/「フィールド」の夜へ,読む/生きる,と並んでいます。そして,それらの見出しに対応する山口昌男さんの文章が引用されていて,しかも,それらの典拠文献が25本,きちんと提示されています。これはとても助かります。これらを手がかりにして,さらに山口昌男さんの原著に入っていくことができるからです。

 さて,ここでは,わたしの専門分野であるスポーツ史研究との関連が深いと思われるトピックスをとりあげてみたいとおもいます。まず最初は,「近代に対峙するメタヒストリー:発生≠生成,起源≠始原」です。真島さんは,山口昌男が早くからモダニティ批判を展開した事跡に注目し,これを高く評価しています。それは単なるとおりいっぺんのモダニティ批判ではなく,ポスト・コロニアルな視点からのモダニティ批判であった点が当時にあっては際立っていた,といいます。つまり,アカデミックな近代史学が取り上げるような「ヒストリー」としての問題提起ではなくて,文化記号論や「メタヒストリー」の視座からの問題提起だというわけです。そのもっとも際立つ差異は,「発生≠生成,起源≠始原」に集約されている,といいます。ヒストリーとしてはものごとの「発生」が関心事になるけれども,人類学では「生成」が重要であり,同じように「起源」ではなく「始原」が重要だ,と山口昌男は強調している,といいます。

 たとえば,「神話」研究にとって重要なことは,その「発生」や「起源」をつきとめることではなくて,神話が「生成」され,新たな生を導き出したり,神話が発する力がどのようなものなのか,そして,それが人びとの暮しにどのような影響を及ぼしているのかが重要なのである,というわけです。神話の「始原」についても同様です。

 このことに関して,山口昌男の言説として,つぎのようなフレーズを切り取ってきてレジュメのなかに取り上げていますので,それらを紹介しておきましょう。

 「発生」という歴史主義的次元での問いに私は昔から馴染むことが出来ず,それがもとで,私は初めに学んだ古代史学から民族学へ逃げだしてしまった後ろめたい過去をもつ〔・・・・〕私はむしろ,「発生」とか「起源」といった言葉は「物事の起こり」よりも,常に回帰的に,何事かの存立を可能にする基本条件として捉えたいという潜かな願望を持っている。(1969年,「幻想・構造・始原──吉本隆明『共同幻想論』をめぐって」,『人類学的思考』せりか書房)。

 これがあの有名な吉本・山口論争の核心部分に相当するというわけです。この問題は追い込んでいくと,スポーツ史的にもとても面白い知の地平が広がっているのですが,ここでは禁欲しておくことにしましょう。

 もうひとつ,引用文を紹介しておきましょう。

 始原的なものが自然的時間を遡った果てにあるものでなく,内的時間の存在様式を「垂直に」たどることによって,開示される,すなわち各々の瞬間のなかに生成として姿を現すものであるということ〔・・・〕。(1969年,「失われた世界の復権」,山口昌男編『現代人の思想15 未開と文明』平凡社所収。)

 どこかジョルジュ・バタイユを想起させるような文章です。となると,この「失われた世界の復権」をしっかり読んでみようということになります。こうして,わたしの問題意識もつぎからつぎへと拡大していきます。山口昌男という人は,まさに,好奇心の赴くままに,貪欲にそのテーマを追い込んで行った人のようです。そして,一見したところ破天荒な研究者にみえるけれども,じつは,綿密な事前調査と文献研究を経たのちに,自由奔放に思考の限界まで飛翔させる,そういう人だったと真島さんは受け止めているとのことでした。

 最後に,「読む/生きる」の見出しのもとに引用された文章を引いてこのブログを閉じたいとおもいます。これぞ山口昌男のモダニティ批判の真骨頂ともいうべき,毒の入った,核心に触れる文章だといっていいでしょう。

 精神が平俗な日常生活を相対化するために踏みだす第一歩は<旅>に出かけることである〔・・・〕旅,何処へ? 自分が属する日常生活的現実のルールが通用しない世界へ,自ら一つ一つ道標を打ち樹たて地図を作成しつつ進まなければ迷いのうちに果ててしまう知の未踏の地へ,書の世界へ,自らを隠すことに知の技術の大半を投じている秘境の世界へ,己れが継承した知的技術を破産させるような知識で満ちているような知の領域へである。(1971年,『本の神話学』,中央公論社)。


2013年6月9日日曜日

玄侑宗求著『光の山』(新潮社,2013年4月刊)を読む。「3・11」を風化させないために。

 玄侑宗求さんが「3・11」以後を生きる福島(と思われる)の人びとの苦悩を描いた短編小説集。これまでにいろいろな雑誌に発表してきた6本の短編を一冊の本にまとめたもの。わたしにとってはいささか衝撃的な作品ばかりでした。

 気がつけば,「3・11」という記号(文字)がいつのまにかすっかり後退してしまっています。つまり,別の新しい話題の陰に隠れてしまい,あまり見かけなくなっています。ということは,当然のことながら,わたしたちの意識のなかからも,いつのまにか風化しはじめています。そして,遠い過去のことのような錯覚に陥りつつあります。

 なにを隠そう,このわたし自身がそうなってしまっている,ということにこの短編小説を読んで気づいた次第です。人間はいやなことを忘れたがる,そういう性質をもっています。そして,上手に忘れることができるからこそ生きていかれる,ともいいます。しかし,さっさと忘れてしまった方がいい記憶と,それとは逆に忘れてはならない記憶とは,当然ながら区別しなくてはなりません。「3・11」の記憶は,貴重な教訓としていつまでも忘れてはならない記憶だとわたしは考えています。ですから,その記憶の風化防止のためにも,この玄侑さんの書かれた短編小説集は,とても重要だとおもいます。

 わたしは,この小説集を読み終えてすぐに,「3・11」以後の被災者たちが,いま,どんな情況のもとで,どんな気持ちで生きているのか,その現実をどの程度まで理解しているのか,とみずからに問うてみました。情けないことに,新聞やテレビでちらりと見かける程度のことしか知りません。そして,あとは想像力をはたらかせて,たぶん,こんな情況で,こんな気持ちで生きているんだろうなぁ,とほんの少しだけ思い描く程度で済ませてきました。ですから,被災者の人たちの「痛み」を感じ取り,分かち合うという,経験を情動レベルの感覚で共有するということもほとんどしないまま,日々の雑用に明け暮れている,というのが情けないことにありのままの姿です。

 いわずとしれた玄侑宗求さんは,福島県三春町の福聚寺(臨済宗妙心寺派)の住職として,町の人びととともに「3・11」以後を生きる苦悩と向き合い,ともに考え,ともに試行錯誤しながら助け合って生きているお坊さんです。僧侶として,また,作家として,いま,なにをすべきかを厳しくみずからに問いかけながら,必死で生きている人です。つまり,土地に根をおろして,そこからすべての思考も行動も立ち上げるのだ,と覚悟して。当然のことながら,セシュウムに汚染されることも覚悟の上で。

 そんな中で,刻々と情況が変化しつづける人びとの暮らしぶりを,玄侑さんは私情を極力抑え,短編小説という形式に託してわたしたちにある重要なメッセージを送りつづけています。しかし,所詮は小説ではないかという人がいます。それは違うとおもいます。小説だからこそ伝わるものがあります。あるいは,小説でなければ伝えられないものもあります。とりわけ,一人ひとりが内面に抱え込んでいる苦悩を,マス・メディアのジャーナリスティックな文章でとらえるには限界があります。つまり,作家とはそこを超えていく才能をもった人びとなのだ,とわたしは考えています。わけても玄侑さんの描く被災者の人たちの苦悩は,同時に,玄侑さんみずからの苦悩でもあります。ですから,つねに体験を共有し,分かち合う人としての心情がつたわってきます。

 たとえば,「アメンボ」という短編があります。その作品のなかでは,セシュウムに対する認識の仕方や感性,そしてそれにともなう対応の仕方の違いが夫婦の間に亀裂を生み,やがて別居し,離婚していくという,そのプロセスを丹念に追っています。夫はインターネットを使って丹念にセシュウムの量とその影響についての情報を収集し,分析しながら,現状と真っ正面から向き合いながら,ぎりぎりまで汚染地域で生きる道を選択しています。しかし,妻は頭からセシュウムを有害と決めつけ,拒絶反応を示します。とりわけ,小さな子どものためによくないと考え,子どもをつれて北海道に移住します。時折,帰ってくるけれども長居はしない。そうして,何回もの話し合いが積み上げられていきますが,どうしても共有できるものが見つけられないまま,つまり,折り合いがつかないまま,最後には離婚という選択肢に追い込まれていきます。そんな夫婦を,もう一組の夫婦が見守ります。妻同士が子どものときから仲良しなので,この二組の夫婦も最初から親しいお付き合いをしてきました。が,そのお付き合いも「3・11」以後,ぎくしゃくしはじめます。もう一方の夫婦は,夫ががんこで無神経で,一見したところ独断的でいい加減なようにみえるけれども,それが逆に救いとなっていて,セシュウムに対しても楽観的に向き合っていきます。妻もまた,夫のいうとおりに,ほどほどに距離を保ちながらも,上手に妥協しながら波長を合わせていく。それだけの許容量の広さに助けられて,こちらの夫婦は安泰。

 二年目の夏のある日に北海道から一時帰宅(といっても仮説住宅)したときに,この二組の夫婦は家が無事だった夫婦の家で夕食を囲んだり,子どもたちを連れて水遊びに連れていったりする。表向きはどこもぶつかる問題はなく,さも楽しそうな会話がはずむ。なのに,つねにどこかでお互いに話を踏み込まないように配慮したり,そのために話にスレ違いが起きたり,淀んだ空気が流れ,いつしか重くなる。たまたま,話題が水たまりに棲むアメンボのことばの由来の話になります。いろいろの説が飛び交いますが,舐めると甘いからだ,というところに落ち着きます。それを聞いたセシュウムに対しておおらかな夫婦の方の子どもが,翌日,手水鉢のなかを泳いでいるアメンボをつかまえて口にふくみます。それをみていた北海道に移住している妻の友人が,飛び掛かるようにしてその子どもを押さえ込み,口に指をつっこんでアメンボを吐き出させようとします。それをみた夫が妻をうしろからはがい締めにして,その家の子どもを解放します。この場面が,この短編小説のひとつのクライマックスになっています。つまり,友人の子どもであっても/友人の子どもだからこそ,セシュウムに汚染されたアメンボを口にふくむ行為は許せない,そういう濃密な人間関係の背後にある,ぬきさしならない価値観の違いが引き起こす衝突/葛藤が日常化していることを,玄侑さんはわたしたちに問題提起します。その背景には,「絆」などという甘っちょろいキー・ワードなどでは,なんの問題解決にもならないという,ふつふつとわき上がる,こころの奥深くに潜む憤りのようなものさえ,わたしには伝わってきました。

 その事件の起きた翌日,離婚届に夫はしぶしぶ印鑑を押します。そのまま,妻は友人との別れの挨拶もせず,黙って北海道に帰っていきます。なんともやりきれない気分だけが,わたしのこころに残りました。

 こうした,セシュウムをめぐる,ほんのちょっとした感性の違いが,人と人との関係に亀裂を生じさせ,分断させることが日常的に展開している,という事実の前でわたしは無力のまま呆然としてしまいます。事態はそれだけではありません。こうした亀裂や分断は,さらに日常的に細分化され,分節化され,その密度がますます高まっていく社会を生きなければならない,この現実をどう考えればいいのか,と玄侑さんは問題をわたしたちに投げ返してきます。そこは答えのない長いトンネルのなかのようなものです。好むと好まざるとに関係なく,じわじわとそういう情況のなかにみんな飲み込まれていく,そんな重い空気が淀んでいることを,玄侑さんは淡々と,小説という形式を借りてわたしたちの前に提示してきます。

 人が生きるとはどういうことなのか,というもっとも根源的な問いを玄侑さんはわたしたちに突きつけてきます。そんな風に,わたしはこの短編小説集を読みました。

 短編集のタイトルともなっている最後の作品「光の山」は,汚染された土や瓦礫を掻き集めてできあがった山が,40年後に,忽然と光り輝きはじめる,というSFもどきの物語になっています。なんだか空恐ろしくなる,みごとな短編です。

 わたしたちは「3・11」の記憶を風化させないためにも,こうした玄侑さんのような作家が描く作品と,たえず接点をもち,考えつづけることが重要なのだ,といまさらながら考えさせられました。短編集なので,どこから読んでもいいし,いつでも,思い出したら,その日の気分でそのうちのひとつを選んで読むこともできます。ぜひ,座右の書のひとつに加えておきたい,とわたしは思いました。

2013年6月8日土曜日

山口昌男追悼シンポジウム「人類学的思考の沃野」・傍聴記・その1.1990年の記憶。

日時:2013年6月7日(金)午後3時~6時。
場所:東京外国語大学 アゴラ・グローバル
基調講演:青木保
発言者:渡辺公三/真島一郎/落合一泰/栗本英世/船曳建夫/今福龍太
主催:東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所
後援:日本文化人類学会

正式なテーマは以下のとおり。
〔山口昌男追悼AA研シンポジウム〕人類学的思考の沃野

シンポジウムの趣旨は以下のとおり。

山口昌男という巨大な知の運動にとり
原点にあたる空間としての「フィールド」。
野生の思考と詩学を生涯にわたり
旺盛に探究しつづけたフィールドワーカー
山口昌男の足跡をたどりなおし
のこされた私たちが新たな「人類学的思考の沃野」へと
今また踏みだすために。

 ことしの3月10日(奇しくも「3・11」の前日),81歳の生涯を閉じた山口昌男さん。略年譜をみると,40歳になる前から膨大な著作を世に問いはじめていて,その影響力があまりに大きかったせいか,若くして大家をなしていた。53歳にして日本民族学会会長に就任。だから,81歳で亡くなられたと聞き,思ったよりも若い,と感じた。なぜなら,わたしよりもずっとずっと大先輩だと,無意識のうちにそう思い込んでいたからだ。

 それにはいささかわけがある。じつは,わたしは1990年4月から94年3月までの4年間,東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所共同研究員として,山口昌男さんの組織していた科学研究費による共同研究「象徴と世界観の比較研究」に参加していた。年に2~3回開催された全体会議(毎回,二泊三日が原則だった)に招集され,研究発表をするよう促されていた。しかし,その会には青木保,中沢新一,などという名だたる文化人類学者たちが集まっていたし,メンバーの総数も相当な人数だったので,ついにわたしの出番はなかった。というより,会のもつ気魄のようなものに圧倒されてしまって,ただただ,ご意見を拝聴するだけで精一杯だった,というのが正直なところ。その会の中心に山口昌男さんがいて,常時,ことばを発しつづけておられた。このときに,わたしは勝手に山口昌男さんはわたしよりずっと年齢が上の人だ,と思い込んでいた。ところが,1990年の山口さんは59歳,わたしは53歳。たった6歳しか違わない。山口さんは,わたしの長兄と同じ年齢だったとは,大きな驚きであった。

 そんな年齢を度外視させるほど,山口昌男さんの存在は大きかった。いろいろのジャンルにまたがる共同研究員の研究発表のいかなるテーマにも,躊躇することなく議論に分け入り,じつに細部にいたるまで熱心にコメントを繰り広げるのが常だった。研究会が終ると,恒例の懇親会が持たれたが,そこでも話題の中心は山口さんだった。というより,ここでは,もはや独壇場だった。その話題の豊さに,ただただ呆れるばかりだった。博覧強記とはこういう人のことをいうのだ,とこのときはじめて知った。頭のなかに詰め込まれた知の集積から臨機応変に,つぎつぎに話題が飛び出してくる。まるで,こういうジャンルの話芸があるのではないか,とおもったほどだ。『本の神話学』などという著作をものするのも納得である。

 このとき以来,本気で山口昌男さんの著作を読むようになった。それまでは,いつも話題になるので,一応は眼をとおしておくという程度の読み方だった。しかし,山口さんの生の声を聞き,その説得力の磁場に触れるにつけ,本の読み方も大きく変化した。最初に読んだ『文化の両義性』(岩波書店,1975年,山口さん44歳。この年齢にも驚く)を,もう一度,読みなおしてみたら,まったく違った印象をもったことをいまも鮮明に思い出す。以後,このテクストはわたしの座右の書となり,その理論を借用して,「スポーツ文化の両義性」について考え,そこを軸にした論考を少しずつ発表するようになる。なにか視界が一気に開かれ,まるで新しい別世界に飛び出してきたような印象をもったものだ。いわゆる「モダニティ批判」の手始めである。

 そして,いまも,その延長線上を,さらにいろいろの人の思想・哲学を援用しながら,わたしの「フィールド」を探索している。そのフィールド・ワークは楽しくて仕方がない。常住坐臥,あくことなきフィールド・ワーカーだった山口さんの心境が,最近になってほんの少しだけわかるようになった。ありがたいことである。

 以後,山口昌男さんの著作は,わたしの研究の道標のひとつとして不可欠のものとなった。そのご縁で,中沢新一さんのものもかなりまじめに読んだ。が,あるときから,わたしの関心事から離れてしまった。その代わりに,もっと強烈にわたしを叱咤してくれる著者が現れた。今福龍太,その人である。そして,つい最近になって,真島一郎さんと出会えた。このお二人については,これから何回もこのブログに登場していただくことになるので,今回は深入りしないことにする。

 が,ほんの少しだけ。このお二人が今回の追悼シンポジウムの発言者として登壇された。やはり期待に違わず,会場の空気を一変させてしまうほどの,気持ちの入った,しかも山口昌男の本質をつく素晴らしいお話をされた。正直に言って,わたしは感動した。プレゼンテーションというのはこうなくてはならない,と反省もさせられた。その内容については,また,稿をあらためてご紹介を兼ねて,考えてみたい。

 今回は,山口昌男さんの追悼シンポジウムを傍聴させていただきながら,わたし自身もまた1990年のころの山口さんを思い浮かべていた。そして,こんにちまでの,山口さんとの接点を断片的に思い浮かべながら。

 なお、会場の入り口では,6月10日に配本されるという,できたてのほやほやの『山口昌男コレクション』(今福龍太編,ちくま学芸文庫)が特別価格で販売されていた。今福さんが,どんな視点からこのコレクションを編んだのか,これからじっくりと拝見してみたい。また,その感想も書いてみたいとおもう。いまから,楽しみ。

2013年6月6日木曜日

富士弾丸登山「危ない」から自粛せよ,だと?やはり「世界文化遺産登録」は辞退しよう。

 いまさら富士山を世界文化遺産に登録しなくても,すでに世界中に知れ渡った立派な人類遺産だとわたしは信じている。だから,富士山の世界文化遺産への登録には反対である。登録してもしなくても,富士山は富士山であり,世界に誇る名山であり,その実態はなにも変わらない。

 富士山は,海に近い独立峰なので,どこから眺めても際立った美しさを見せている。駿河湾や伊豆半島からの眺めもとびきり美しいし,山側にまわれば「富士にはススキがよく似合う」(御坂・三ツ峠・太宰治)といわれる絶景があり,八ヶ岳,南アルプス,などのどの山頂からも天気さえよければ,その雄姿を眺めることができる。そして,なにより富士山を眺めていると世俗の汚れたこころが洗い清められる思いがする。むかしからの信仰の山としての威力はいまも少しも衰えてはいない。だから,富士山は日本人のこころの奥深くに根づいた山なのだ。

 だから山開きを待ちわびるようにして一般の登山客も押し寄せてくる。シーズンたけなわともなれば,登山客で長蛇の列ができる。こうなると,健脚者にはまどろっかしくなって,敬遠の対象となる。なかでも健脚を誇る登山者は,昼のピーク時を避けて深夜に登り,ご来光を仰いで下山する,いわゆる「お月見登山」「日の出登山」に向かう。これはいまに始まったことではない。

 志賀直哉の名作『暗夜行路』には,鳥取県の大山(だいせん・またの名は伯耆富士)登山の様子が描かれている。主人公の時任謙作が「六根清浄 お山は青天」と唱えながら,夜を徹して登っていく。そして,頂上でご来光を仰ぐ,感動的なシーンは映画にもなって,強烈な印象となってわたしの脳裏に焼きついている。夜を徹して登山に挑む,体力の限界に接近することによって「六根清浄」が達成され,清いこころで大自然の太陽と真っ正面から向き合う,そのとき人は生まれ変わる,ここに「日の出登山」の大きな意味がある。これは日本人の信仰登山の原点の一つにもなっている。そして,その伝統はいまも引き継がれている。

 いまも,むかしも,体力に自信のある人は,一度は富士登山に挑戦し,しかも,できることなら「日の出登山」を目指す。そのことの,どこがいけないのか。

 今日(6月6日)の「東京新聞」に,びっくりするような囲み記事が掲載されている。
 短いので,全文引用しておこう。

 見出しは,富士弾丸登山「危ない」。山小屋泊まらず,夜通し歩く。山梨,静岡両県,自粛を要望。本文は以下のとおり。

 静岡県の大須賀淑郎副知事と山梨県の横内正明知事は5日,観光庁を訪れ,山小屋に宿泊せずに夜通しで富士山を登る「弾丸登山」の自粛を求める要望書を井出憲文長官に提出した。
 富士山の世界文化遺産登録が確実となり,登山者の増加が見込まれるため,両県が要請した。要望書は「弾丸登山の自粛を呼び掛けてきたが,登山者の30%以上に上るとの推計もあり,放置できない」と指摘。弾丸登山は体調を崩しやすく,事故が起きる危険が高いとして,自粛を関係団体に周知徹底させることを求めた。

 以上である。これについて,ひとことのコメントも付されてはいない。ただ,垂れ流し。ジャーナリストの矜持もなにも感じられない。たんなる情報の提供。この要望書に対して観光庁長官はどのようなコメントをしたのか,なにもない。たぶん,長官はこのまま関係団体に「周知徹底」させる手続をとるのだろうと思われる。これまた,なんの見識もなしに。

 富士山の登山は,いろいろのコースがあるが,一般的には初心者は「五合目」駐車場から入る。ここからの登山は,健脚者にとってはいとも簡単。神奈川県の丹沢山地の南端に大山(おおやま・1252m)というむかしからの信仰の山がある。落語の「大山詣で」で知られるように,江戸庶民にとってもおなじみの,もっともポビュラーな山である。つまり,信仰という名のもとでの物見遊山(筆降ろしというおまけ付き)にでかける山である。五合目からの富士登山はこれよりもはるかに簡単である。健脚者であれば,五合目から頂上まで2時間もあれば充分だろう。

 これを,こともあろうに「弾丸登山」と名づけ,危険だ,と断ずる。ならば,登山はすべからくすべて「危険」である。だから,すべての登山を自粛せよ,と通達をだすべし。

 わたしは,そのむかし縦走登山に没頭したことがあるので知っているが,「弾丸登山」ということばのはじまりは,五万分の一の地図(国土地理院発行)を,東西,あるいは南北に,一日で一枚分を歩き抜けることからきている。そんなことは,加藤文太郎(単独行の名人,というより,あまりのスピードにだれも一緒には歩けなかったというエピソードがある)のような超人にしかできない芸当だ。そんなことばを無批判に富士登山に持ち込んできて,「警告」を発する。この悪意に満ちた権力構造剥き出しの「脅し」はいったいなんのためか。その背後には,あまりあからさまにはしたくない利害関係がうごめいていることも,わたしには透けてみえてくる。

 しかし,そんなことは「棚上げ」にして,ここで企まれていることは,大義名分ともいうべき「世界文化遺産登録」を前面に押し立てての,悪しきポピュリズムの煽動でしかない。弾丸登山「危ない」と書かれれば,登山の知識のない人は「ああ,そうか」となる。「山小屋泊まらず,夜通し歩く」などは非常識きわまりない,と映るだろう。しかし,五合目から「夜通し歩く」となれば,頂上はあっという間に通過し,明け方には御殿場を通過して,もっとさきまで歩いていってしまうだろう。この記事を書いた記者も,それをパスさせたデスクも,そして,最終チェックをした検閲も,富士登山のなんたるかをなにも知らない人ばかりだった,ということのようだ。

 こんな情報が垂れ流されている。新聞というメディアのもつ暴力性に,当事者たちはもっとこまかな注意を払ってほしい。こんな暴力を放置したまま,いまごろになって(いの一番に富士山ならまだわかる)富士山を世界文化遺産にしようという意図はどこからくるのか。

 しかも,すでに情報が流れているように,富士山への「入山料」をとるという話もちらほら。しかも,「5,000円」前後,という。こんなことがまことしやかに囁かれている。そして,ネット上を流れている。狂気の沙汰としかいいようがない。しかも,「5,000円」くらいは相場ではないか,という意図的・計画的な「援軍」まで動員して。

 こうしてメディアは民意を操作していく。その操作性が,このところ露骨になってきている。とりわけ,原発,経済,TPP,憲法,沖縄,体罰,スポーツ,・・・・もろもろ。世も末という体たらく。国民総背番号制のゆくすえは,みるも無惨としかいいようがない。ジョージ・オウエルの描いた『1984年』という小説世界が,いよいよ,この日本で現実となりつつある。

 となれば,朝の起床の様子から,テレビに合わせての体操,食事,トイレ,・・・・すべて当局によって管理されることになる。そういう時代の到来をオウエルは「1984年」と設定していた。

 いささか脱線してしまった。富士山に登るかどうか,どのように登るか,すべからく登山というものは基本的に「自己責任」の上に成り立つ文化だ。そこに,いちいち余分な口出しを,それも「無知」のまま,権力が干渉しようとしている。すでに,改憲議論をさきどりするかたちで,地方自治体が動きはじめている,とわたしにはみえる。

 同じ『東京新聞』の一面に,検証・自民党改憲草案──その先に見えるもの・2,の特集記事が読ませる。大きく「個人の権利より国家」,という見出しが躍ってぽる。内容をみれば,そちらに向かって大きく舵を切ろうとしている意図が丸見えになってくる。護憲派弁護士の伊藤真氏の懸念「脱原発デモつぶし」も可能になってくる「恐れ」がある,が説得力をもつ。

 富士弾丸登山「危ない」から自粛せよ,なとという記事は大したことではない,と人は言うかもしれない。しかし,真実は細部に宿る。蟻の一穴が防波堤を突き崩す。歯止めがきくうちに対策を練るべし。それが国民の使命でもある,とわたしは考える。

2013年6月5日水曜日

戦争とはなにか。人間の全存在を賭けた<全体的体験>である。聴講生レポート・その8.

 5月21日(火)もダブル・ヘッダーの授業が行われました。N教授の日常的な多忙さの一端は,わたしにもわかるほどなので,相当に睡眠時間をけずっての日々のはずです。にもかかわらず,元気に,この日もみごとな授業を展開されました。ありがたいことです。

 さて,この日の前半の授業のテーマは「戦争とはなにか」でした。すでに授業を聞いてから,相当に長い空白の時間が流れていましたので,ノートを見ながら,もう一度,ボイスレコーダーで講義を聞き直しました。聞きながらノートに「朱」を入れていきましたら,できあがったノートが真っ赤になっていました。ノートは二度とらなくては,まともなものにはならない,ということがよくわかりました。それほどに,N教授の講義内容の密度が濃いということです。

 このレポートも,ですから,講義の全体を要約するなどということはとても不可能なことを承知で書こうとしています。そこで困りはてていましたら,いいアイディアが生まれました。それはもう思い切ってN教授の講義内容を換骨奪胎して,わたしの考えたことにすり替えてしまう,という方法です。ここだけを聞くと,なんという身勝手な奴だ,とお叱りをうけるかもしれません。しかし,そうではありません。N教授の教えをそのまま実行すると,こういうレポートをこそ期待されているのではないか,とこれまたわたしの勝手な解釈です。

 この授業の冒頭で,N教授は,つぎのように切り出されました。
 社会のあらゆることがコンビニ化していて,いま,まさに,How to reduce the head (the brain).という時代に入ってしまっている。つまり,思考を放棄させる方向に,世の中全体が動いている。しかし,大学というところは,コンビニ化する社会に抗するために存在するのだ。だから,学生さんたちは講義ノートをとりなさい。そうして,考えるきっかけをつくりなさい。そこから自分なりの思考を練り上げていきなさい。わたしはそのための「肥やし」を提供する。そのつもりで,この授業に取り組んでいます。どんな話の断片からでもいい。そこを契機にして,自分の思考を鍛えることが大事です,と。

 ※(このことが,「思考停止」から脱出し,「自発的隷従」の姿勢を超克するための,つまりは,「自立」/「自律」するための唯一の方法です・・・これは,わたしの補注です。授業ではこのようなことばはありませんでしたが,これまでのN教授の著作やブログを読んできたわたしには,このような声も聞こえてきた,という次第です。)

 というわけですので,「戦争とはなにか」というこの日の,いつもにも増して熱の入ったN教授の講義を聞いて,わたしがもっとも深く思考したことの一部をここに書き記しておくことは,これこそがN教授のお考えに応答することだ,と考える次第です。

 それを,ひとことで言ってしまいますと「戦争とは,人間の全存在を懸けた<全体的体験>である」ということになります。この理解も,じつは,N教授がまだ若かりしころに,わたしに語ってくれたことの記憶にもとづく,わたしなりのまとめです。

 なにかの研究会(たぶん,わたしが主宰した研究会)の折に,N教授が,戦争の話をしてくださいました。それをひとことでいえば,戦争とは人間の<全体的体験>である,という結論を導き出されたように記憶しています。その結論に応答するようにして,わたしは,スポーツもまた人間の<全体的体験>だと考えていますが,その認識でいいでしょうか,と問いかけました。そのときのN教授の答えは,それはよく似ている部分がたくさんあるでしょうが,原理的に,そして,本質的に,戦争のもたらす<全体的体験>とはまったく別のものです,というものでした。わたしは納得ができなくて,さらに食い下がって,スポーツの場面で起こる<全体的体験>の事例をいくつも列挙して,とりわけ,人間が人間ではなくなる「エクスタシス」の話をもちだしました。それでも,N教授はにっこり笑って「とても近い,あるいは,疑似体験はいくつもあるでしょうが,そういうものを<全体的体験>とはいいません」というお話でした。

 それでもわたしは納得できなくて,その後もずっと考えつづけていました。N教授のいう<全体的体験>とはどういうことなのか,と。そして,戦争とはなにか,と。そうして,N教授の書かれた『夜の鼓動に触れる──戦争論』(東大出版会)や『戦争論』(岩波書店)や『<テロル>との戦争』(以文社)などの著作を読み漁りました。そうして,かなりのところまでは理解できるようになっていましたが,いまひとつ,もやっとしたものが残っていました。が,この日の講義を聞いて,それらがすべて木っ端みじんにすっ飛んでいき,こころの底から納得しました。まるで,青天の霹靂のような経験でした。そうか,戦争が導き出す,そして,有無を言わせず,否が応でも,人間が向き合わざるを得なくなる<全体的体験>の内実とは,こういうものだったのか,と。しかも,この日の講義の最後には,もっと驚くべき指摘がありました。もはや,その<全体的体験>すら意味をなさない,まったく異質の,あるいは次元の異なる≪戦争≫がすでにはじまっている,とN教授は指摘されたのです。その瞬間に,『<テロル>との戦争』のことが脳裏をよぎりました。

 これでわたしとしては,このレポートは終わりです。

 しかし,ここまで書いた以上,わたしが納得したことがらの,ほんのさわりの部分だけでも,講義内容の断片を列挙しておくべきかとおもいます。ことば足らずになることを覚悟の上で,ごく簡潔に書いておきますと以下のとおりです。

 如是我聞。

 〇戦争は定義できない。この講義の前提としては,近代の国家間の争いごと,と設定して論を立てている。もう少し大きくとらえるとすれば,人間の集団(政治的共同体)間の組織的な武力衝突,ということになる。
 〇戦争は,異常な状態,つまり,非常時であり,敵のモノを破壊し,ヒトを殺すことが最優先される。つまり,平常の「社会」や「文化」のあらゆる規範がすべて反故にされ,敵を殲滅するためのあらゆる手段が最優先される。
 〇戦争は万物の生みの親である(ギリシア)。人類の歴史は戦いの歴史であった。その結果がこんにちの文明社会を築いた(ヘーゲル)。
 〇戦争は,個に対する集団の圧倒的優位,そして圧倒的勝利をもたらす。これが戦争の特徴である。
 〇戦争は,集団を分断し,敵味方に分ける。そして,あらゆる個人は犠牲になる。つまり,敵を殺すことが最大の目的となる。そうして,個人の存在を無化する。
 〇戦争は,人間であることを排除しなくてはならない。すなわち,「人でなし」になることが必然化される。そこを通過することによって,人間は魔物にもなり,神にもなり,英雄にもなる。
 〇こうして神や英雄となった英霊は,あらたなる共同体の栄養剤となり,共同体を活性化させ,補強する役割をになうことになる。
 〇近代戦争は,20世紀で終わりを告げ,この20年ほどは戦争の名に値しないことが起きている。その内実は,単なる害虫駆除にも等しい。圧倒的な格差のもとでの,一方的殺戮が展開されている。
 〇戦争は,人間の力ではコントロールできない。しかも,その戦争は,ほんのちょっとしたきっかけ(事故のようなできごと,など)によってはじまる。はじまったらだれも止められない,それが戦争というものである。
 〇戦争は「起こるもの」であって,気づいたときにはみんな巻き込まれている。

 以上が,わたしのこころを大きく揺さぶり,戦争が人間の全存在を賭けた<全体的体験>である,ということを納得させた,おおよその概要です。実際には,N教授のこころの籠もった語り部のような,わかりやすい事例が,つぎからつぎへと展開し,上に書いたことがらに「肉付け」がされていきます。ですから,だれのこころにも深くN教授の思い入れが伝わってきます。

 ですから,この他にも,ここに書き記しておきたいことが山ほどありますが,とりあえずはこの程度にして,あとは禁欲しておくことにします。あとは,これからも書きつづけることになるであろうこのブログのための「肥やし」として,楽しみに残しておきたいとおもいます。

 取り急ぎ,今日のところは,ここまで。

2013年6月4日火曜日

小説『菅原道真』(三田誠広著,河出書房新社,2013年2月刊)を読む。(出雲幻視考・その4.)

 ひょいと立ち寄った書店でこの本と出会いました。衝動買い。ずっと菅原道真のイメージがつかめないまま,野見宿禰の末裔という位置づけだけで考えていましたので,とびつきました。菅原道真といえば,せいぜい天神様,学問の神様,儒学者,秀才,藤原一族による冤罪で太宰府へ,憤死,太宰府天満宮,熱病,雷,祟り,北野天満宮,上宮天満宮,そして河童伝承,などが頭に浮ぶ程度でした。知りたかったのは,藤原一族との確執がどのようなものだったのか,その具体的なストーリーでした。その意味ではこの本は助かりました。

 この本を読んでの最初の驚きは,皇族と藤原氏(北家)との複雑魁偉ともいうべき婚姻関係です。この時代はすでに藤原北家だけが繁栄していて,他の藤原三家(南家,式家,京家)は没落していました。この藤原北家が全国に荘園を独占的に拡張させ,その財力と兵力で他の貴族を圧倒するばかりか,経済的基盤が破綻していた皇族をも支配するという勢いでした。その上,一族の女性をつぎつぎに天皇のもとに入内させて,あるいは,天皇家の女皇子と結婚し,どこもかしこも親戚だらけの関係を意図的・計画的に構築していきます。それはもう狂気の世界にも等しいのではないか,とわたしは読みながら考えていました。

 極論を言ってしまえば,帝が幼い場合には,外戚となる藤原北家の祖父が摂政・関白をつとめ,自分たちの思うままの政治を展開していきます。こんなことが少なくとも藤原不比等以後,営々と継続して行われてきたのか,と考えると空恐ろしくなってきます。まさに藤原にあらざれば貴族にあらず,という栄耀栄華をほしいままにします。その仕上げをしたのが藤原道長というわけです。そうして武家にとって代わられる時代が到来します。

 こんな藤原北家の一族で固められた世界に,忽然として菅原道真が登場するというわけです。菅原家(菅家・かんけ)は道真で三代にわたる儒家の名門の家柄ですが,貴族でもなんでもありません。ただ,儒家としての最高の職務である文章(もんじょう)博士として,帝や台閣の諮問にたいして意見を述べることができるにすぎません。道真の父も祖父も,この文章博士として名をなした人でした。道真もその後継者となるべく,必死で勉強し,難関と言われる試験にもつぎつぎに合格し,秀才の誉れも高く,若くして文章博士となります。

 ここまでは,道真の人生は設計どおりで,理想的な進みゆきでしたが,意外なところから予想外の人生がはじまります。最大のきっかけとなったのは,宇多天皇の誕生といっていいでしょう。宇多天皇は光孝天皇の皇子として生まれますが,母親の身分が低いという理由で,早くから臣籍降下し,幼少時代から皇族の外に置かれていました。ですが,頭脳明晰を見込まれ,菅家廊下(菅原家が主宰する儒学の私塾)に弟子入りします。そのときの塾頭が菅原道真でした。道真はこの皇子の賢さに惚れ込み,熱心に儒学の指導に打ち込みます。こうして,この皇子は道真と深い学恩で結ばれることになります。この皇子が,のちに,ひょんなきっかけから宇多天皇となります。

 藤原北家の主流からすれば,亜流の天皇の誕生です。ですから,宇多天皇は孤独でしたので,最初から道真を頼りにします。道真も熱心にサポートします。そうして,文章博士の職務を維持したまま参議として台閣(天皇の諮問機関)入りをはたします。そうして,ついには右大臣となり,さらには内覧(天皇のところに提出される文書のすべてをチェックし,天皇に意見を提示する役職)という仕事まで兼務することになります。こうなりますと,藤原北家一族の絶大な権力をも抑え込んで,天皇の名のもとに,自分の思うままに政治を動かすことができるようになります。ここまで権力をほしいままにすると人間は変わります。いかに生真面目な儒学者とはいえ,やはり人の子であることに変わりはありません。

 作家の三田誠広は,道真を擁護する立場を貫いて,道真にはいっさい責任のない藤原一族による身勝手な冤罪として,道真の太宰府への追い落としを描いています。なるほど,そんなものかなぁ,と思いながらこの小説を読みましたが,少し距離をおいて思いかえしてみますと,道真にも,最後の段階では相当の野心が新たに湧いてきていたのではないか,とわたしは推測しています。

 なぜなら,宇多天皇が譲位して上皇となってからも,上皇は道真の進言どおりに政務を裁いていたからです。しかも,宇多天皇のもう一人の皇子(醍醐天皇の腹違いの弟),すなわち斉世親王のところに道真の娘・寧子が嫁いでいるという事実を,見逃してはならないとおもいます。ということは,醍醐天皇に万一のことがあれば,斉世親王が天皇になる可能性があります。そうなると,道真は天皇の義父ということになります。

 この状態を藤原北家の一族が黙視するわけがありません。が,宇多上皇が生きている間は手も足も出せません。道真に絶対的な信をおいている宇多天皇に横やりを入れることはできません。こうして藤原北家一族の間に相当の不満・鬱憤がたまっていったのも当然のことだったでしょう。そんな不満のエネルギーが頂点に達した,ちょうどそのとき,宇多上皇が薨去します。道真の運命はここまででした。

 あとは丸見えの冤罪をかぶせて,太宰府に・・・というよく知られた話につながっていきます。それから起きたさまざまな天変地異のことも,よく知られているとおりです。

 この小説は,わたしとしては,菅原道真という人がどんな人脈のなかでもまれながら人生を切り開き,政治の実権を握ることになったのかを知ることができたという点で大満足でした。が,ここからはないものねだりの話になりますが,その点についても少しだけ述べておきたいとおもいます。

 この小説のなかには,菅原道真の出自については,ただ三代にわたる儒家の名門である,身分は高くない,とあるだけでそれ以上のことは書いてありません。しかし,この時代の藤原北家の一族が,菅原道真の出自が土師氏であり,もとは埴輪を焼き,古墳を築造し,葬祭儀礼を司っていた身分の出であるということを知らなかったとは考えられません。そして,その祖は野見宿禰であることも,十分,承知していたとおもいます。

 しかし,作者の三田誠広は,このことについてはひとことも触れてはいません。ましてや,菅原道真の祖・野見宿禰が出雲族である,という小説の題材としてはまことに魅力的なテーマが流れているにもかかわらず,作家はなにも語ろうとはしません。つまり,藤原一族と出雲族との秘められた確執のようなものが,どこかにあったのではないか,とこれはわたしの勝手な「幻視」にすぎません。もっと言わせてもらえば,菅原道真の怨霊を恐れて,あわてて北野天満宮を建造した話も,どこかオオクニヌシの怨霊を恐れて出雲大社を建てて封じ込めた(これもわたしの想像)という話と二重写しになってわたしには透けて見えてくるという次第です。

 ついでですので,もうひとこと言わせてもらえば,菅原道真には出雲族の復活という野望もどこかにあったのではないか,とりわけ晩年には・・・・,ということです。それを藤原一族が感じとっていたとしたら,相当に怯えていたのではないか,とおもいます。ですから,宇多上皇の薨去が,その野望を断ち切る絶好のチャンスだった・・・・。

 とまあ,こんなことを幻視したり,透視したりしながら小説を読むのも一興かとおもいます。歴史小説にロマンを求めるとしたら,こんな読み方もあってもいいのでは・・・・などと自己弁護しておきましょう。これでまたひとつ,出雲幻視の夢が広がりました。楽しきかな,人生は。

2013年6月3日月曜日

反原発デモに6万人(東京)。「痛みへの想像力を」(落合恵子)。

 昨日(6月2日)の日曜日,どうしてもはずせない用事があって,昼中の芝公園にも,夕刻の国会前にも行くことができませんでした。どんな風だったのかなぁ,と気がかりになっていましたが,わたしが確認できた範囲のテレビはなにも伝えてはくれませんでした。ああ,無視される程度の人しか集まらなかったのか・・・・といささか失望していました。もう,このまま原発事故は過去のものにされてしまい,人びとの記憶からも遠ざかってしまうのだろうか,とそのことだけが気がかりでした。なぜなら,最近のテレビのニュースをみているかぎりでは,反原発運動などは眼中になく,どうでもいいスキャンダラスな情報ばかりが垂れ流されているからです。

 が,今朝の『東京新聞』をみて安心しました。一面の中程にかなり大きく写真入りの囲み記事になっていました。
 迫る参院選 「痛みへの想像力を」
 原発反対6万人 国会を囲む
 という見出しの文字が大きく躍っていました。

 毎週金曜日の夕刻,首相官邸前で抗議集会をつづけている首都圏反原発連合が主催した「反原発国会大包囲」という抗議デモです。それにしても全国から6万人(主催者発表)の市民が集まってきたというのですから,これは久しぶりの快挙です。これを弾みにして,夏の参院選に向け,もっともっと大きな輪になっていけば・・・・,そして,首都圏だけではなく,全国の主要都市はもとより,地方の市町村単位でも,「反原発」の意思表示をする集会がひろがっていけば・・・といまは祈るような気持ちです。

 その記事のなかには,日中に,芝公園と明治公園の二カ所で抗議集会が開かれ,こちらにも合わせて2万5千人超が集まった,とありました。芝公園では,大江健三郎さんや落合恵子さんらが演壇に立ち,反原発を訴えたとありました。

 こういう抗議集会はこれまでにも何回も開かれています。が,わたしが不思議におもうのは,テレビなどで「哲学者」や「社会学者」を名乗り,さもものわかりのよさそうな話をしている若手の研究者・評論家たちの姿を,こういう抗議集会でみたことがない,ということです。もちろん,わたしがでかける抗議集会やデモはごくかぎられたものでしかありませんが,それでも,一度もみかけない,演壇に登壇しない,というのはわたしにしてみれば不思議です。

 あれだけ立派なことをおっしゃるのであれば,自分たちで運動を組織して,自分たちの主張を世に訴えてしかるべきではないか,とわたしなどは単純に考えます。が,その裏はわかっています。そういう街頭に立って演説の一回でもぶてば,もう,二度とテレビには出演できないということを十分すぎるほど承知しているはずだからです。ということは,テレビに出演する哲学者・評論家の多くは,単なる売名行為であって,確たる思想・信条の吐露をしているわけではない,ということになります。もっと言ってしまえば,基本的には原発推進派だ,ということです。それをさも中立主義者のような玉虫色にみせかけて,「推進派でも,反対派でもない」と平然と言ってのける,まことに破廉恥きわまりない連中です。反対派ではない,ということは結果論としては推進派以外のなにものでもありません。

 しかし,そういう若手がもてはやされるのはほんの一瞬でしかありません。すぐに馬脚を露にしてしまうために,マス・メディアは使い捨てにしてしまいます。突然,テレビに現れたかとおもうとあっという間に消えていった,あの人たちはなんだったのか,そして,そういう人たちを使い回すテレビというメディアはいったいなんなのか,と考えてしまいます。

 そこにいくと大江健三郎さんは偉い。若いときから終始一貫して,みずからの思想・信条を訴えつづけています。ノーベル賞作家というおまけまで付いてしまいましたが・・・・。でも,この大江さんですら,最近は,ときおり妙なことをおっしゃいます。それほどに,いま,日本の社会で起きていること,そして,世界で起きていることの見極めをつけることは困難なのだ,ということなのでしょう。しかし,落合恵子さんが訴えるような「痛みへの想像力」を軸にしてものごとを考えていけば,おのずから道は開かれてくるのではないかとおもいます。いま,求められているのは,こうした女性の眼,女性の感性,感受性なのでしょう。その意味では,いまは,男がダメになってしまった最悪の時代といってよいでしょう。

 ここにも「近代」(男)の終焉,「前近代」(女)の蘇生が見え隠れしています。「後近代」(両義性,両性具有)を切り開くための論理がそこから透けてみえてくるようにおもいます。これからは文化人類学者たちが持ち合わせている「複眼的」な思考回路が,ますます重要な意味をもつようになってくるのでは・・・とわたしは考えています。

 反原発は,経済や政治の駆け引きのレベルで考えるのではなく,生身の生きる人間としての「痛み」の次元から,その思想を立ち上げていくべきでしょう。

 そんなことを,昨日の抗議集会にも,国会大包囲デモにも参加できなかった懺悔の気持ちを籠めて,いま,このブログを書いています。他者の「痛み」に鈍感になってしまった男たちのひとりとして,深く反省しつつ・・・・・。

2013年6月1日土曜日

『スポートロジイ』第2号の初校ゲラが上がってきました。7月15日発行予定。

 気がつけばもう6月1日。そして,土曜日。このところ1週間が矢のように飛び去っていく。どうして1週間がこんなに速く過ぎていくのだろうかと呆れてしまう。忙しいわけでもなんでもないのに・・・・。ただ,ぼうっとしているだけなのに・・・・。

 学生時代のように,朝から「黒板に向かって坐し」(西田),その間ずっと「昼飯はなにを食べようかと妄想し」(わたし),午後の授業では「どの映画を見にいこうか」と苦慮を重ねた時代が懐かしい。あの時代は時間がゆったりと流れていたように思う。いまは,「黒板を背にして立つ」(西田)ことからも解放され,時間はまったくわたしの自由になるというのに・・・・。

 やはり人間はなんらかの拘束があるとそこから自由になろうと努力するが,なんの拘束もなくなってしまうと自由のありがたさも理解できなくなってしまうようだ。もう一度,青春(老春か?)をとりもどすには,毎日の時間割を組んで,みずからを拘束し,そこから逃れるための算段に苦慮する時間を設けるべきなのかもしれない・・・などと真剣に考えている。サクセスフル・エイジングは,なかなかことばどおりには進まない。

 閑話休題。

 遅れていた『スポートロジイ』第2号の初校ゲラが上がってきたという連絡がみやび出版の伊藤さんからあった。21世紀スポーツ文化研究所(「ISC・21」)の研究紀要として発行してきた『IPHIGENEIA』を改題し,装いも新たに『スポートロジイ』として昨年創刊号を発行。つづけて第2号は,3月末,遅くも4月末には刊行したいと考えていたのだが,わたしの手順が悪く,とうとうこんな時期になってしまった。しかし,公費による紀要発行とは違って,自分のポケット・マネーで発行するものなので,時期に縛られるよりは内容にこだわることにした。

 編集業務を担当してくださっているみやび出版の伊藤さんのメールによれば,創刊号よりも内容が充実していて面白い,とのこと。第2号の構成は,大きくは四つの柱になる予定。ひとつは,ドーピング問題,ふたつには,グローバル化と伝統スポーツ(第2回日本・バスク国際セミナーからの抜粋,ここには今福龍太,西谷修の両氏による特別記念講演も収載されている),みっつには,ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』をどう読み取るかという合評会をやったときの西谷修さんのお話を載録したもの。というか,西谷さんはきちんとした内容にしておきたかったということで,わざわざ想を練り直し,まったくの書き下ろし原稿を寄せてくださった。よっつには,わたしの研究ノート。題して「スポーツの始原について考える──ジョルジュ・バタイユの思想をてがかりにして」。創刊号のときに,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』のスポーツ史的読解をこってりとやったので,第2号では,それと連動するかたちで,それ以前に書き散らしていた原稿を掻き集めてきて,「スポーツの始原について考える──ジョルジュ・バタイユの思想をてがかりにして」というタイトルのもとに整理してみた。

 こんなところが概要である。

 あとは,「第2号のことば」と「編集後記」を書き加えれば,わたしの手から離れることになる。これらは初校ゲラに眼をとおしてから,と考えている。あと一息である。

 かたちの見えなかったものが徐々にその姿を見せはじめ,やがてかたちとなり,校正・検閲をすませて一冊の本となり,世に送り出せることの喜びは一入である。こんなことをわたしの道楽でやろうというのだから,贅沢の極みである。しかも,わたしなりの「野望」もある。「スポーツ学」という新しい学問を構想し,初めて提唱したのはわたしだが,その後の使われ方はみごとなまでにお粗末そのもの。「スポーツ学」のなんたるかも考えないで,浅はかなアイディアだけでことを処理して平気である。「スポーツ学」はそんな甘いものではないし,そんなに安易に用いてほしくない,という一種の憤りのようなものがわたしのなかに燃えたぎっている。かといって喧嘩を売ってもはじまらない。ならば,みずから,「スポーツ学」とはなにかという根源的な問いを発し,その答えをみずから模索し,提示していくことが先決ではないかと考える。その手始めが,この『スポートロジイ』の創刊であり,いま,その第2号が世にでようとしている。

 この研究紀要が,どういう人に,どのように読まれているのか,いまのところまったく不明である。が,せめて第5号くらいまでは発行をつづけながら様子をみたいとおもっている。いずれにしても,内容がかなり先鋭的(前衛的,哲学的,思想的・・・)なので,いますぐに理解が得られるとはおもっていない。おそらく10年,20年の時間を経たころに,この『スポートロジイ』の評価が定まるのだろうと想像している。わたし自身でそれを見届けることがてきるかどうかも定かではない。が,それでも,まことにスリリングで,道楽としては最高のものだと自負している。

 というようなことで,『スポートロジイ』第2号の現状報告としたい。
 内容は熟読玩味に値する,きわめて先鋭的なものである,と予告しておきたい。
 乞う,ご期待!

2013年5月31日金曜日

アルフレッド・シスレーの「河辺」(ハンプトンコートのテムズ河)の絵からなにを連想しますか。


 この絵は,フランス印象派の画家アルフレッド・シスレー(Alfred Sisley 1839-1899)が,1870年代に描いた「河辺」(ハンプトンコートのテムズ河)というタイトルの絵です。シスレーが,父親の倒産と死を機に,両親の故郷イギリスに移住したばかりのころに描いた絵です。かれは早くから画家をめざしますが,本格的に多作になるのは,イギリスに移住してからだと言われています。

 印象派といえば,ふたつのことがわたしの脳裏に浮かんできます。

 ひとつは,色の問題であり,もうひとつは,自然と人間との関係です。前者については,絵画の対象そのものに色があるのではなくて,光を受けてはじめて対象の色が現れる,という考え方です。たとえば,陰となる対象は,対象そのものが黒い色をもっているのではなくて,たまたま光が当たらないために黒くみえるだけであって,光が当たれば,その光の強さ,角度によって色が刻々と変化していくのだ,という考え方です。ですから,印象派の画家たちは陰影をも色で表現しようと努めます。

 わたしが最初に驚いたのは,空の色と水の色でした。こんなにも色鮮やかな空も水もみたことはありません。わたしの小学校時代の絵の描き方は,もっぱら写真のように描く,いわゆる写実でした。しかも,空は空色,水は水色と決まっていました。それ以外の色を塗ることは考えられませんでした。これが「写実」といえるかどうかは問題ですが・・・。ですから,空も水もひとつの色を塗れば,それで終わりでした。しかし,印象派の画家たちの描く空や水は,なんと豊かな色をしていることか,とまずはそのことに驚きました。

 対象は光を受けて色を発する,というこの考え方は,それまでの自然をみるわたしの眼に革命を起こしました。そして,なにより自然と真っ正面から向き合うことの重要さを教えてくれました。しかも,時々刻々と自然の色は変化しつづけているということを全身で,じかに感じたときの感動はいまも忘れることはできません(南アルプス・北岳山頂から眺めた夕景,三浦半島葉山のレストランから眺めた富士山の夕景,など)。そういう眼でシスレーのこの絵を眺めてみますと,あきることなく,ぞんぶんに楽しむことができます。

 もうひとつの自然と人間との関係については,以下のとおりです。シスレーよりも少し前に,マネが『草上の昼食』(1863年,オルセー美術館蔵)という勇名な絵を発表してセンセーションを巻き起こします。郊外の森のなかの草の上に坐って昼食をとっている紳士たちのなかに,ひとりだけ裸婦が横たわっている,あの絵です。絵画のなかの裸婦もまた,大自然のなかに放り出されることによって,それまでとはまったく違った美しい「色」を発するようになります。新たなるオブジェの登場です。マネが着目したのはそこでしょう。しかも,そうすることによって,本来が自然であるべき人間の身体がふたたび自然のなかに融合していく,その瞬間,瞬間のもっとも美しい裸婦を描き込むことがマネにとってのひとつの大きな実験だったのでしょう。

 この絵が引き金となって,多くの印象派と呼ばれる画家たちが登場し,活動するようになります。しかし,マネ自身は印象派の画家たちと活動をともにすることはありませんでした。が,マネの描いた『睡蓮』(大作で,しかも,いくつものヴァリエーションを生み出した)は,のちの印象派の画家たちに大きな影響を与えることになりました。

 自然と人間との関係をどのように認識するか。この問題は,当時の人びとの暮らし方にも大きな変化を与えました。たとえば,家のなかに閉じ籠もりがちであった若い女性たちが,装いも新たにした軽やかなデザインのおしゃれをして,積極的に野外に飛び出してくるようになりました。ちょうど,この時代に,ローン・テニスやクロッケーや自転車やハイキング・登山が大流行します。その原動力となったのは,活動的な軽装の若い女性たちでした。自転車に乗るための専用の女性用ファッションの誕生は,のちのスポーツ服のさきがけとなりました。

 そのきっかけをつくったのは,印象派の画家たちではなかったか,というのがわたしの仮説です。このシスレーの絵も,人物は小さく描かれていますが,野外にでて散策したり,ボートを浮かべて漕いでみたり,ヨットを浮かべたり,という当時の最先端の流行の対象(オブジェ)が描き込まれています。もはや,人物もまた,大自然の放つ光のなかに溶け込んでしまって,たんなる色の一部と化しています。こういう自然と人間の一体感が,19世紀末から20世紀初頭にかけてのスポーツの隆盛と無縁であったとは考えられません。

 こんな風に,スポーツ史・スポーツ文化論的なアングルから絵画作品を楽しむのも一興かと,ちかごろはしみじみおもいます。

 なお,このシスレーの絵に注目して,こんなことを書いたのは理由があってのことです。いま,ある雑誌(『SF』Sports Facility,体育施設出版)で「絵画にみるスポーツ施設の原風景」という連載を隔月で担当しています。その締め切りが昨日(30日)でした。それを書き上げて,原稿を送信したのですが,字数がほんのわずかなキャプション程度のものでしかありませんでしたので,その欲求不満をここで解消しようと考えた次第です。これだけの分量の文章を書いておけば,わたしの頭のなかを駆けめぐっていることがらのおおよそのことは吐き出せた,とこれは自己満足。というか,ひとつのメモリーとして整理できた,とやはり自己満足。

 みなさんは,この絵をどのようにご覧になり,この文章をどのように読まれたでしょうか。ご意見などお聞かせいただければ幸いです。

2013年5月30日木曜日

5月25日のブログ「遠州浜名湖・奥山の方廣寺(臨済宗)を訪ね・・・・・」に写真を7葉,アップしました。ご笑覧ください。

 もうかれこれ10年ほどになるわたしのパソコンが,いよいよ音をあげはじめ,とうとう「エラー」を連発しています。そして,とうとう「C領域のメモリーを減らしてください」と具体的な忠告までしてくれるようになりました。なんとかしなくてはとおもっているのですが,でもまだ動くので,まあ,いいか,という怠け心のまま放置して使っています。

 が,このブログに写真を入れようとしたときに,とうとう「エラー」がでて,どうにも反応してくれません。わずかしかないパソコンに関する知識を頼りに,あちこちいじりまわして,ようやく写真を操作することができるところまで修復しました。

 というわけで,5月25日のブログ「遠州浜名湖・奥山の方廣寺(臨済宗)を訪ね,羅漢さんを拝む。感動。」に写真を入れることができなくて困っていましたが,ようやく修復でき,写真を入れることができました。遅まきながら,ぜひ,もう一度,ご覧いただければ幸いです。遅れたついでに,たくさんの写真を挿入しました。文字だけの情報とは違って,ちょっと面白いブログになったとおもっています。

 たとえば,羅漢さんの表情などはいくら文字で説明しても,写真の表情には勝てません。じつに飄々とした,なんともいえない顔の表情は一見の価値があるとおもいます。思わず吹き出してしまうような写真も入れておきました。


 幕末の三舟と呼ばれた山岡鉄舟の書いた扁額「深奥山」も必見の書です。三舟とは,勝海舟,高橋泥舟,山岡鉄舟の三人のことです。高橋泥舟は槍術の名人で,講武所師範役。徳川慶喜が大政奉還したあと,身辺護衛の任にあたったといいます。もともと高橋泥舟は山岡姓で,槍術の山岡静山の出であったが,高橋家を継ぐ。いっぽう,山岡鉄舟の父は旗本小野朝右衛門。儒学,書,剣術に秀でたが,山岡静山の家名を継ぐ。しかも,山岡鉄舟は,勝海舟と西郷隆盛の江戸城明け渡しのための直談判の橋渡し役をつとめた。まあ,考えてみれば,幕末の三舟の因縁もまた不思議なつながりになっていることがわかります。

 というようなことをふくめて,7葉の写真を追加したブログをもう一度ご覧いただければ幸いです。
取り急ぎ,追加のお知らせまで。


閣僚に沖縄の「かりゆし」を着せる,わたしが決めた,と安倍首相。なるほど,憲法改悪(軍国主義化)後の予備練習ですか。

  日本政府の中枢をになう閣僚たちが,首相の一声で,沖縄の「かりゆし」を着ることになるそうな。なるほど,いまから号令一下,全国民を意のままに動かす予備練習ですか。その練習のために,わざわざ沖縄の「かりゆし」をもちだすとは・・・・。沖縄の人びとのこころを逆撫でにし,踏みにじるのもはなはだしい愚挙だ。これまで,あれほど沖縄の人びとの声を無視して,日米地位協定のまま米軍基地を押しつけ,なにひとつ沖縄の人びとの民意をくみ取ろうともしなかった日本政府。その閣僚たちが沖縄の「かりゆし」を着るという。いったい,どんな神経の持ち主たちなんだろうか,と怒りが込み上げてくる。こんなことまでして沖縄の人びとのこころを冒涜するのか,と。

 「かりゆし」を着れば,沖縄の人びとと仲良しになれる,とでも考えているのだろうか。もっとも,あの単細胞の安倍君は子どものままの純朴なこころでそうおもっているかもしれない。だとしたら,そこが恐ろしい。それは大違いだ。むしろ,沖縄の人びとの神経を逆撫でするような,見せしめにしかならない,ということをこそ知るべし。まったくの逆効果だ。

 沖縄に観光旅行に行った一般の庶民が,思い出の記念に買ってきて,余暇気分を楽しみながら着るのとはわけが違う。

 JTBの窓口で接客をする職員が,かりゆしを着ているのは,職業柄,それとなく旅情を誘っていいものだ。そこはかとなく異国情緒をただよわせ,旅情を誘う。そして,ことしの夏休みは沖縄に行ってみようかなと考えたりもする。わたしも娘が沖縄に嫁いだご縁もあって,かりゆしを何着かもっているし,暑い日差しが照りつけるようになると,沖縄の光景を思い出し,しばしば愛用している。そして,つかのまの沖縄を楽しんでいる。

 しかし,日本政府の閣僚につかのまのかりゆし着用は似合わない。それどころか,正真正銘の詐欺師にみえてくる。沖縄のことを本気で考えるのなら,一年中,かりゆしで過ごしなさい。沖縄県知事の仲井真さんのように。冬用のかりゆしもあります。国会内で過ごすにはなんの問題もありません。そうして,常時,沖縄問題を念頭に置いて,国民に向けて大いに議論を展開してほしい。それが誠意というものではないか。

 夏限定のかりゆし。これでは,どこかの見本市で戦車に乗って喜んでいたり,わざわざプロの歌手のコンサートに飛び入り歌を披露するのと,どこも違わない。それどころか,もっと質が悪い。親沖縄とみせかけて,基地を押しつけて知らぬ顔。この行為は,こころをこめて説得すると公言した,あの約束がたんなるみせかけにすぎなかったことを実証しているようなものだ。思考を停止してしまったヤマトの人びとはこれで騙せるかもしれない。しかしウチナンチュにとっては,まさに,詐欺にも等しい行為だ。こんなポーズをとりながら,オスプレイも増やすらしい。

 それだけではない。首相の号令一下,なんでも決めることができる,そういう国家にするための予備練習をしているようにもみえる。96条を前倒しして変えてしまえば,そして両院で過半数を占めてしまえば,憲法が憲法ではなくなり,首相の権限はますます増大する。それこそ首相の号令一下,全員「右へならえ」ということになる。政府与党内にも存在する反対派議員はますます軽んじられ,無視されていく。

 いまでさえ,古賀誠元幹事長をはじめとする「96条」改悪に断固反対という議員の存在は,ほとんど無視されている。原発に反対する河野太郎も無視されている。マスコミも,もっと政府自民党の真の姿を告発すべきなのに,なぜか,ほとんどとりあげようともしない。政府自民党だって,けして,一枚岩ではないのだ。そのことをもっと取り上げて,政府の独断・独走に歯止めをかけなくてはならないのに,なぜか,腰が引けている。

 ならば,われわれ国民が声をあげるしかない。このブログもその試みのひとつ。ひとりでも多くのみなさんの賛同が得られれば,そんなに嬉しいことはない。そして,周囲の人にも声をかけていただけたら・・・・,と期待しつつ。

 みせかけの二枚舌,三枚舌にごまかされないように。

2013年5月29日水曜日

水木しげる著『古代出雲』(角川書店)を読む(出雲幻視考・その3.)。

 平成25年は「遷宮年」と銘打って,JTBをはじめ旅行会社各社がアイディアを競うようにして,さまざまな旅行プランを売り出しています。もちろん,その目玉は「出雲大社」と「伊勢神宮」。

 出版界も「遷宮年」に合わせた企画がつぎつぎに誕生。いわゆる初心者向けの解説本から,相当にマニアックな専門書まで多種多様な出版物が書店を賑わせています。こちらは大型書店に行けば,「遷宮年」に関するすべての出版物をはしからはしまで全部手にとることができます。中には破天荒な企画もあって,結構,楽しむことができます。

 そのひとつが,マンガ本である水木しげる著『古代出雲』(角川書店,平成24年刊)です。しかも,この本が,なんと思想・哲学のコーナーに置いてありました。いま,話題になっているまったく別の本の検分のために書店に立ち寄ったら,この本がありました。てっきり,マンガ本ではなくて,水木しげるが本気で古代出雲の本を書いたのだと,びっくりして手にとりました。ハード・カバーのどっしりとした立派な装いです。こちらは鷺沼の書店の話。

 早速に購入。買った理由は簡単。本の帯につぎのように書いてあったからです。

 「幼いころ水木少年は島根半島の裏,すなわち日本海側によく出かけていた。そこのうす暗い道に出ると,たとえはじめて来た道であってもいつか通った気がしてならなかった。長じてからはそれだけではなく,出雲族の青年と思われる霊が,たびたび夢で彼らのことを描くよう訴えかけてきたのだ・・・!以来,長い時を経てついに描かれる水木版・古代出雲史!」

 いかにも水木しげるらしい,とひどく納得してしまいました。かつて,水木しげるは,つぎのように語っていたことを記憶していたからです。

 ヒット作『ゲゲの鬼太郎』に登場するお化け・妖怪はすべて,わたしがこの眼でみたものばかりです。わたしの眼にしっかりと見えたものしか,わたしは作品のなかに登場させません。わたしにとってはまことにリアルであり,けして非現実の想像のものではありません。だから,いくらでも描くことができるのです。

 つまり,水木しげるは「幻視」の名人なのです。いや,本人が意識する以前に,向こうからやってくる対象をそのまま素直に眺めているだけのようです。いわゆる「見えてしまう」人のようです。そのかれが,「出雲族の青年と思われる霊が,たびたび夢で彼らのことを描くよう訴えかけてきた」ので,この本を書いたというのですから,これこそが「出雲幻視」のひとつの典型的な実践の記録だといっても過言ではないでしょう。そこに,わたしは大いに共振・共鳴したというわけです。

 さて,前置きが長くなってしまいました。この作品は,いわゆる『古事記』や『出雲風土記』に記されている有名な神話を手際よく(とはいっても水木しげる独特の脚色がほどこされています)整理し,わかりやすく説いたものです。が,唯一,この本の存在価値が問われるのは,「国譲り」神話に対して大いなる疑問を投げかけ,水木しげるが「幻視」をしてみると「実際はこうだったのではないか」という問題提起をしている点にあります。しかも,この水木しげるの幻視と,わたしの幻視とが,なぜか,ほとんど一致していることに新鮮な驚きを禁じえません。

 その幻視してみえてくるものは以下のとおりです。

 「国譲り」神話は,まさに「神話」であって,現実をうまく隠蔽するためにでっち上げられた創作である,という立場を水木しげるはとります。しかも,そのことを夢に現れる「出雲族の青年の霊」が教えてくれたといいます。「国譲り」の実際のところは,つぎのようだったのではないか,と水木しげるは幻視したままを絵にしています。

 実際のところは「国譲り」などというような生易しいものではなくて,相当にひどい出雲族殲滅作戦がのちの大和朝廷側の軍によって繰り広げられ,追い詰められた大国主は出雲の海のなかに沈められる,という悲劇的な最後を遂げたのだ,と幻視します。そのために大和朝廷は出雲族の憎悪と恨みを買うことになります。そうして,大和朝廷の人びとは出雲族の怨霊に脅かされることになります。それに耐えられなくなった大和朝廷は,とうとうその出雲族の怨霊を鎮める作戦にでます。それが,こんにちのわたしたちには想像もできないような巨大な神殿の築造です。それが出雲大社だ,というわけです。つまり,出雲族の鎮魂,これが巨大な神殿を建立した最大の目的だった,という次第です。

 水木仮説のもうひとつの面白いところは以下のとおりです。

 アマテラスを筆頭とする天孫族は韓半島からの渡来人である,という指摘です。このことをはっきりと断言した人は管見ながらわたしは知りません。みんな,ぼんやりとごまかしています。水木仮説によれば,韓半島でくり返された壮絶な権力闘争に敗れた一族,それが天孫族だというわけです。ですから,戦いのテクニックも武器も戦術も磨き上げられていて,出雲族のそれとは比較にならないほどのレベルの高さをほこっていたのではないか,と幻視します。とりわけ,武器は優れた製鉄技術に支えられた鋭利な鉄製のものを多用したと考えられます。その結果,出雲族は手もなく捻られてしまいます。そうして,大国主も,長男の事代主も,出雲の海に沈んでいくことになります。最後まで抵抗した次男の建御名方は諏訪まで逃げて,命乞いをします。でも,立派な諏訪大社としてのちのちまでも祀られているところをみると,こちらもまた虐殺されたに違いありません。その鎮魂のための社,それが諏訪大社だ,というわけです。

 もうひとつ,誤解されないように断っておきたいことがあります。

 それは,韓半島から渡来した天孫族は,武力統治のほかにも,大和の豪族の娘を娶るという政略結婚を繰り返します。しかも,代々,繰り返していきます。つまり,混血です。その結果,あっという間に,韓半島からの渡来人としての血は薄められていきます。同時に,大和の豪族もまた天孫族の娘と結婚を繰り返していきます。ですから,純血の大和民族もなければ,純血のままの渡来人も存在しなくなっていきます。その混血の産物が,こんにちのわたしたちである,ということです。この認識はとても重要なことだとわたしは考えています。ただ,男系の系譜をたどると天孫族であるとか,そうではないとかの違いが生まれるだけの話になってきます。その伝にならえば,わたしは源氏系の子孫ということになります。が,その源氏も,もとをたどれば天皇家につながっていきます。となると,おやおや,このわたしのなかにも韓半島からの渡来人の血が,すなわち,天皇家の血が流れているのかもしれません。

 閑話休題。

 それでもなお,出雲族は,なにかにつけ差別・選別を受けつづけることになります。表向きは,出雲大社に祀られて,丁重にもてなされているかにみえますが,その裏では,もっと手ひどい仕打ちを受けた人も少なくないようです。その代表的な人が菅原道真だというわけです。とはいえ,桓武天皇の母となった新笠(にいがさ)のような出雲族も登場します。つまり,出雲族は,いっぽうでは天皇家とも直属しつつ,他方では,徹底的に排除される,という複雑な取り扱いをうけることになった,と考えられます。

 いつのまにか,水木仮説から脱線して,わたしの幻視の世界に入り込んでしまいました。が,まあ,幻視のベクトルは同じですので,そんなに問題はなかろうかとおもいます。

 で,わたしの最大のテーマである野見宿禰という人の存在もまた,こうした視座に立つとまことに微妙な姿となって立ち現れてきます。この人が『日本書紀』には登場するものの,『古事記』には登場しない,ということの意味もなんとなく透視することができそうです。

 というところで,今日はおしまい。

2013年5月27日月曜日

稀勢の里の活躍で盛り上がる大相撲。来場所は優勝して横綱に王手を。

 白鵬だけが強いのではない。大関が弱すぎるのだ。白鵬を脅かす大関がでてこないかぎり大相撲に明日はない。これがわたしの持論だ。

 それを実証したのが,今場所の稀勢の里だ。これまでの稀勢の里とはまるで別人の,見違えるような,きびしい攻めの相撲を展開した。白鵬との全勝対決はその見本のような相撲だった。負けはしたが,稀勢の里は自信をつかんだことだろう。来場所は,その白鵬を超えること。そのとき念願の横綱が向こうからやってくる。

 でも,千秋楽の琴奨菊との一戦はいただけない。あの一戦だけは,先場所までの稀勢の里の悪い面が露呈してしまった。緊張の糸が切れてしまったのか,立ち合いに遅れ,棒立ちの受けにまわってしまった。そして,琴奨菊に電車道を提供してしまった。きびしい踏み込みがないと,相手の思うままに相撲をとられてしまう稀勢の里の悪い癖だ。ここは大いに反省して,きびしい立ち合いを身につけること。そして,白鵬を脅かす存在になること。それを多くのファンは待っている。

 先場所までの稀勢の里と大きく違ったのは,かれの顔の表情だ。闘志を丸出しにした,怖い表情の先場所までの稀勢の里の顔が,今場所はこころなしか柔和にみえた。そして,自信に満ちあふれた風格すら感じられた。なにがあったのかは想像する以外にないが,内なるこころの壁をひとつ超えたに違いない。つまり,内面の成長がその背景にはあるに違いない。だから,土俵の上での所作にも落ち着きが見られ,ゆったりと構えることができたのだろう。あれは,意識してできることではなく,おのずから表出するものだ。

 心技体の心に柱が一本立った,そんな印象である。心がしっかりしてくれば技はおのずからついてくる。体はもうすでに合格点である。横綱に到達するための,最後の階段である心,これを徹底的に鍛えこむこと。ここをクリアした暁には綱が待っている。あとは,自己との闘いだ。自己にきびしく向き合い,自己を律する力を身につけること。日馬富士が横綱に駆け上ったときのように。そして,そのなによりの見本が白鵬だ。

 その日馬富士が,今場所も情けなかった。途中で少しよくなりかけたが,やはり駄目だった。なによりも立ち合いが悪い。楽に相撲をとることを覚えてしまったのだろうか。初日の相撲をみたとき,わたしの脳裏にはいちまつの不安がよぎった。その不安が的中してしまった。立ち合いが甘いのである。というか,腰高だ。全勝した場所の立ち合いは,低い姿勢から突き上げるようにして相手を攻撃し,そこから自分に有利な相撲の流れをつくりだす。しかも,スピードに乗って。その相撲をすっかり忘れてしまっている。このことに気づいて,立ち合いからの攻撃に磨きをかけること。これなしには日馬富士の絶好調のときの相撲はもどってこない。

 今場所のもうひとりのヒーローは鶴竜だ。稀勢の里と並んで白星を重ねた。かれの相撲は地味だが,わたしは好きだ。じつに理にかなった手順を踏んで,相手のいやがる懐のなかに入り込む。そうなると,この人は存分に力を発揮する。あと一息で,横綱に嫌がられる存在になれる,とわたしは期待している。頭脳明晰な人だから,こつこつと稽古を積み,みずからの弱点を修正して,やがて綱に王手をかけることになるだろう。その日を楽しみにしたい。

 終ってみれば白鵬の全勝優勝。みごとだ。でも,稀勢の里が肉薄し,日馬富士が調子をとりもどし,鶴竜が磨きをかけてくると,そういつまでも安泰というわけにはいかないだろう。そんな印象を残す場所だった。以前から言っているように,白鵬が抜群に強いわけではない。他の力士たちが弱すぎるのだ。強いときの日馬富士だけが,白鵬の力量を超えることができる。このときだけは,さすがの白鵬も防戦にまわる。立ち合いの鋭さ,のど輪,左からの攻撃,そして,スピードが加わると,さすがの白鵬も受けにまわってしまう。こういう横綱を脅かすほどの,自分に固有の独特の型をもった力士が出現すること。

 その筆頭に,どうやら稀勢の里が躍り出てきた。立ち合いで白鵬の先手をとって攻撃を仕掛ける,そういう相撲を磨くこと。調子がととのえば絶対に負けないという自信をつけること。それだけの資質があることを今場所の稀勢の里は見せつけた。来場所は2横綱を倒して,堂々たる相撲を展開し,頂点を目指せ。

 それが実現したとき,大相撲がふたたび活況を呈することになる。満員御礼の垂れ幕が連日みられ,制限時間がくると館内が割れるような歓声につつまれる日の近かからんことを。

 大関が活躍する場所は面白い。稀勢の里,鶴竜につづいて名乗りを上げる大関が現れることを,大いに期待したい。来場所は,琴奨菊か,それとも琴欧州か,そこに割って入ってくる大関は。ひとりの大相撲ファンとして,いまから楽しみにしている。

NHKスペシャル・病の起源・”脳卒中”。落しどころに疑問。「科学」依存症からの脱出こそが課題。

 NHKスペシャル・病の起源の第2回目の放映が5月26日(日)午後9時からありました。第1回目の内容がとてもよかったので,第2回目も注目していました。そして,期待どおりの内容があり,深く考えることができました。

 ただし,第1回目同様に,第2回目もまたさいごの落しどころが奇怪しい,という印象をもちました。それをひとことで言ってしまえば,この番組制作者たちの「科学」依存症からの脱出が急務だということです。つまり,なにがなんでも病を最新の「科学」で克服できる/しようというある種の信仰のようなものです。その考え方そのものの方が「病的」ではないか,とわたしは憂えています。このことを最初に強調しておきたいとおもいます。

 第2回目のテーマは”脳卒中”。この脳卒中という病が人類の進化とともに増大したというのが,この番組の趣旨です。つまり,人類進化の陰に埋め込まれた病を明らかにしよう,というわけです。そして,そのプロセスをわかりやすく3段階に分けて整理し,問題の所在を明らかにしてくれています。そして,そのこと事態はわたしたちの理解を助ける上でありがたいことです。しかし,よくよく考えてみますと,この説明の仕方もまた,きわめて科学一辺倒で,やはり「科学」依存症にどっぷり浸かっているなぁ,という印象をつよくもちました。なにを言いたいのかといえば,ヒトのからだをモノとしてしか考えていないのではないか,という根源的な問いです。

 そのあらましは以下のとおりです(ご覧になった方も多いとおもいますので,ごく簡単に説明しておきます)。

 ”脳卒中”で死亡する人が,毎年,世界で1,500万人いると言われています。いまから700万年前にチンパンジーから分かれてヒトが誕生しますが,チンパンジーには”脳卒中”という病はありません。その他の哺乳類にもありません。しかし,ヒトだけが”脳卒中”という病をわがものとするようになった,というのです。

 その理由/原因はなにか。大きく分けると三つあるといいます。ひとつは,脳の巨大化,ふたつには塩との出会い,みっつには食事への異常な欲望にある,という次第です。

 脳の巨大化は,二足歩行によって自由になった手を使うことによって,脳が急速に巨大化したといいます。このことはこれまでにも言われてきたことと変わりはありません。しかし,最初は不器用だった手のつかい方も次第に器用さを身につけるようになってきます。そうして,脳神経や脳細胞が急速に発達していくことになりますが,それにともなって大量の血液を脳の隅々まで送り込まなくてはならなくなります。が,どういうわけか脳の血管の壁は薄いまま,こんにちにいたっているというのです。この事実がわたしにはとても新鮮でした。つまり,主要な動脈の血管壁が薄いまま,毛細血管だけが異常に増えていくことになり(全長約600キロメートルに及ぶ),その大量の血流量に耐えられなくなり,微小動脈瘤があちこちにできるようになります。これが,”脳卒中”を引き起こす誘因となっているというわけです。

 このことが急速に進んだのが約200万年前からだといいます。とくに,石器を用いはじめる約140万年前から脳の運動野がどんどん発達することになります。その結果,脳の巨大化は加速していくことになります。そうして,約6万年前には,人類は出アフリカをはたし,全世界にヒトが拡散していくことになります。このとき,”塩”との新しい出会いをします。塩のなかにふくまれているナトリウムが,ますます発達していく神経細胞や筋肉にはどうしても必要です。つまり,文明化の過程で”塩”はなくてはならない必需品として大量に消費するようになるというわけです。こうして,特殊なタンパク質がわたしたちのからだのなかに蓄えられるようになります。が,このタンパク質がより多くの”塩”を求めるようになります。それは麻薬と同じようなはたらきをしていて,”塩”を求める欲望は抑えがたくなってしまいます。その結果,ヒトは高血圧症という病をえることになります。

 最後の仕上げは,塩と脂肪の多い食事です。美味しい食べ物への欲望は,いまや,とどまるところを知らないほど高まってしまいました。その結果,過食,運動不足というダブル・パンチを受けて,ますます肥満体を増産し,慢性的な高血圧症が広まっていくことになります。こんにちのわたしたちは,いま,この段階で苦しんでいるというのが現状です。

 かくして,脳の巨大化,塩の大量消費,栄養過剰の食事,という三拍子が揃い,”脳卒中”という病をえることになります。しかも,年々,増加の一途をたどっています。

 ところが,”脳卒中”を発症させない最新医学がここまで進んでいて,そこに光明を見出すことができるだろう,と言ってこの番組が終わります。それは,「幹細胞」を脳に送り込むことによって,もっと丈夫な毛細血管をつくることができるようになる,というものです。この終わり方は,第1回目とおなじパターンです。つまり,巨大化した脳の力を借りて,その対策を練ればいい,というきわめて安易なものです。

 わたしはこういう発想には抵抗があります。巨大化した脳の病を巨大化した脳の力を借りて克服することには限界があると考えるからです。もちろん,新しい治療の方法を見出すために「科学」の力を軽視するつもりはありません。が,それと同時に,あるいは,それ以上に,もっと根本的な解決策を講じるべきではないか,というのがわたしの考えです。

 すなわち,美味しいものが食べたいという過剰な欲望がわたしたちのからだを蝕んでいることが明らかなのですから,その欲望をコントロールする方策を,もっと鮮明に打ち出すべきではないか,とわたしは考えています。となりますと,過食,運動不足による現代病をトータルに考えることの方が,むしろ大事ではないか,と。つまり,からだの病理だけをモノ的にとらえるのではなくて,人間のからだとこころのトータルな問題として,欲望という名の病理には対応すべきではないか,というわけです。

 こんなところにも,いまだに「科学神話」から抜けきらないメディアの体質のようなものが,ちょろりと顔をみせているようにおもいました。

※断るまでもなく「幹細胞」とは,いま,話題の「人工多能性幹細胞」のこと,すなわち,「iPS細胞」のこと。これに頼れば,脳内の毛細血管も補填できるという,きわめて安易な発想がNHKの番組制作者の意識のなかにあることが,はしなくも露呈している,という次第です。
 もうひとこと断っておけば,「iPS細胞」は「核エネルギー」と同様,自然界には存在しないものを「人工的」にテクノロジーがつくりだした産物です。ひとたび,トラブルを起こすと,人間の力では制御不能に陥る,きわめて危険な産物です。
 さらに断っておけば,「核」も実験段階にあったものを前倒しして,戦争に利用し,さらに,原発に利用しました。しかし,その「核」がいったんトラブルを起こすと,もはや,人間の手には負えない代物となってしまいます。そして,あとは,何十万年もの間,じっと待つしかないということも,いまではよく知られているとおりです。「iPS細胞」も原理的にはまったく同じです。まだまだ,実験段階のものでしかありません。それを,前倒しして,実用化をはかろうとしています。しかし,いったん,トラブルを起こすと手の打ちようがない,ただ,じっと見守るしかない,そういう代物であるということをわたしたちはしっかりと認識しておく必要があります。
 その実験室においてすら,東海村では,トラブルが起きると換気扇をまわして放射性物質を屋外に放出していたという程度の認識でしかありません。それを監視しているはずの原子力規制委員会は,こともあろうに「安全文化」が未成熟だからだ,と強弁しています。こんな「文化」レベルの低い人たちが原子力の専門家として崇められている国です。
 ですから,「幹細胞」(=iPS細胞)などに頼らなくても生きていかれる方途を提示することこそが,NHKの責務ではないでしょうか。それがまったくの「逆向き」です。このことの有り様こそ大問題です。もはや,マスメディアの役割をはたしていません。困ったものですが,これが現実です。そこを見極める「眼」をわたしたちは持たなくてはなりません。
 長くなってしまいましたが,追記させていただきました(2013年5月28日)。

2013年5月26日日曜日

早坂暁さんの語るお遍路さんの話に感動。まずは歩け,と。

 旅のつれづれにとおもって本屋に立ち寄ったら,目の前に荒俣宏の対談集がありました。みると,15人の人との対談で,いろいろの名士が登場しています。なかには,福岡伸一さんの名前もあって,即,購入。書名は『すごい人のすごい話』(イースト・プレス,2013年4月刊)。

 新幹線に乗ってすぐに目次をながめていたら,最後の対談者が早坂暁さんであることがわかり,そこから読みはじめました。もうずいぶん前のテレビの「夢千代日記」が,わたしが早坂さんの名前を知った最初でした。その後も多くの脚本や小説,エッセイを世に送り出していますので,知る人はおおいとおもいます。わたしはたった一度だけ,直接,ご挨拶をさせていただく機会があり,なぜか不思議な印象をもちました。人をじっとみる視線の鋭さは(サングラスをかけていたにもかかわらず)並の人のそれではありませんでした。

 こういう対談は,まずは知っている人から読む,というのがわたしのやり方。案の定,早坂さんの対談はじつに面白いものでした。話題の中心は「お遍路さん」。早坂さんのご出身は愛媛県松山市。ご実家が51番札所の石手寺(いしでじ)に近い遍路道に面した商家(呉服や本,菓子などを販売)で,しかも三階建て,芝居小屋もあって,当時の娯楽センターのようなところだったそうです。

 なるほど,海軍兵学校に進学した秀才が,敗戦とともに進路を変更して,日大芸術学部演劇科をめざすのも,子どものころからの環境がなさしめるものであったか,と納得です。もうひとつは,遍路道に面した家に生まれ育っていますから,こちらもこどものときからの自然の風景としてお遍路さんがインプットされています。ですから,作家の眼をとおしてセレクトされるお遍路さんの話がとびきり面白い,というのも納得です。

 そんな話題のなかからひとつ,ふたつ,紹介してみたいとおもいます。

 「昔はひどいもので,離婚され,家から追われた女性が,子どもを抱いて遍路していることが多かったんです。そういう人がうちの前に裕福な商家だから育ててくれるだろうと子どもを置いていくんです。しかしだいたい1,2年のうちに,「すみませんでした」と引き取りに来ましたけれど。戦前のお遍路さんの悩みは,大半が不治の病,家庭内の愛情のもつれ,そして死んだ肉親への回向です。だからどうしても陰気なんです。顔や体の筋肉や,いや人生の筋肉がすっかり落ちたような人が歩いていたんですから。」

 こういうお遍路さんを,四国の人びとはむかしから暖かく迎え入れ,いわゆる「お接待」で支えてくれる,そういう土地柄であることは,ものの本で読んで知ってはいました。しかし,早坂さんのお話は,作家としての眼で,お遍路さんから直接,聞き取りをしたものばかりで,恐ろしいほど深い「お遍路さん」のリアルな姿が浮かび上がってきます。たとえば,つぎのような話もあります。

 「いまから10年ほど前,6年間で30回も遍路を逆打ちした名物じいさんがいましてね。手押し車にわずかな荷物を積んで,お接待で暮らしていました。30回も回るというのは大変な難行ですから,遍路道の位(くらい)がもらえるのです。地元の人はその人が来ると拝んだり,子どもに触ってもらったりして,ちょっと「生き大師」みたいな扱いを受けていた。NHKが番組で取り上げて,世間に知られるようにもなった。俳句もつくる人で,あるお坊さんが今度それを出版するとぼくに見せてくれていたとき,逮捕されました。」

 理由は,12年ほど前の前科(殺人未遂)で,指名手配中だったのが,テレビに出演したときについ口がすべって本名を名乗ってしまったために,足がついてしまったという次第です。こんなびっくりするような話から,感動して涙してしまうような話まで,つぎからつぎへとでてきます。夫の定年と同時に夫婦でお遍路をして,そこで最終的な見極めをして離婚することを考えた6組の夫婦の話などは,とても他人事とは思えません。

 そして,最後に「同行二人」(どうぎょうににん)の早坂さんのお話を。

 「大師さんが亡くなるとき,大勢の弟子たちが周りに集まって泣きわめきますよね。そのときお大師さんが,「私が死んだ後も修行して歩きなさい。本当に困ったら『南無大師遍照金剛』(なむだいしへんじょうこんごう)と唱えれば,私はただちにお前たちのそばに行って一緒に歩いてやる」という。「助ける」とはいわない,「歩いてやる」と。それで「同行二人」なんです。お大師さんが一緒に歩いてくれるなんて,こんな力強い言葉はない。苦しんでいる人には最高の言葉です。」

 こんな話がどこまでもつづきます。ここには書きませんが,早坂さんが病で生死の境をさまよったときには,お大師さんのことば「生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く,死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し」にすがった,というとても深い話も登場します。

 この早坂さんのお話を聞いて,お遍路さんという存在についてのわたしの考えが一変してしまいました。現代の日本という国のあり方を考える上で,お遍路さんという視点を,もう一度,初手から取り入れる必要があるようにおもいました。

 こんどはチャンスをみつけて,早坂さんの『遍路国往還記』を読んでみたいとおもいます。それは,日本を考え,世界を考えるために,いまのわたしには不可欠なことだとおもわれるからです。つまり,すべては「歩く」ことからはじまる,その基本を人類はどこかに置き忘れてきてしまっている,と考えるからです。

2013年5月25日土曜日

「96条の会」からの呼びかけに応答しよう。主権在民を守るために。

 わたしが旅などをしてほっつき歩いているうちに,世の中は驚くべき速さでものごとが急展開していきます。のんびりとよそ見などしている余裕もない,恐るべき時代に突入したという実感でいっぱいです。それにしてもこの慌ただしさはなんなのでしょうか。

 旅からもどって,西谷修さんのブログを開いたら,ご自身も発起人に名を連ねている「96条の会」の情報が満載。そして,少しでも多くの人に呼びかけてほしい,とのメッセージもついていました。もとより,96条に定められている憲法改正手続きを「三分の二」から「二分の一」に変えようという政府自民党の提案には真っ向から反対でしたので,迷うことなくすぐに署名しました。ついでに,ひとことメッセージも書き込んでおきました。

 すでに,「9条の会」(大江健三郎,小森陽一,など)が,いちはやく96条問題についても反対の強い意思表示をしていることは,みなさんもすでにご承知のこととおもいます。しかし,96条に真っ向から向き合うには,いくらかはぐらかされているような感じは否めませんでした。ですが,「96条の会」を結成してくれたお蔭で,真っ正面から反対の意思表示ができる,というのがわたしの印象でした。ああ,助かった,とおもいました。ですから,これから大急ぎで,わたしの友人たちにもお願いの呼びかけをしようとおもっています。

 「96条の会」は樋口陽一さんを会の代表者として,36名の発起人が名を連ねています(5月22日現在)。あいうえお順で,わたしにもなじみのある人の名前を挙げておきますと,上野千鶴子,奥平康弘,姜尚中,小森陽一,坂本義和,高橋哲哉,西谷修,山口二郎,といった人びとです。この人たちが受け皿になってくだされば安心です。これから大いに声を挙げてほしいものだと,祈りながら,応援しています。

 なお,6月14日(金)には,上智大学を会場にして,会の代表者である樋口陽一さんの基調講演があり,それを中心にしたシンポジウムも予定されています。詳しくは,「96条の会」のホーム・ページを参照してください。アドレスは以下のとおりです。
http://www.96jo.com/index.html

  このブログで初めて「96条の会」のことをお知りになられた方は,趣意書(ホームページ)をお読みになって,賛同していただけるようでしたら,ひとりでも多くの方に声をかけてくださるよう,お願いいたします。

 わたしの考えは単純です。二分の一,つまり,単純多数で憲法が変えられるのであれば,衆参両議院とも過半数を確保する政権ができるたびに,憲法は国民の意志に関係なく,好き勝手に変えることができるようになる。ならば,憲法などというものは必要ではない。憲法は,主権在民,すなわち国民の監視下にあって,権力の暴走をくい止めるために存在するものである考えています。それを,政府の好きなように変えることができるようにするということは,憲法の精神を無視した本末転倒の議論です。もし,こんなことを許してしまったら,日本という国は,世界中の笑い物になってしまうでしょう。

 そんな恥ずかしいことを,いま,日本の政府はやろうとしているのです。

 ここはなにがなんでも,国民一人ひとりがよく考えて,声を挙げるべきときでしょう。そのつもりで,政府自民党の意見に賛成の人とも,大いに議論する機会をもちたい,とわたし自身は考えています。とても笑いごとで済まされるような問題ではありませんので・・・。血をみない程度に,激烈な議論もときには辞さない覚悟が必要,と自分自身に言い聞かせながら。

 そして,いま,政府がやるべきことは,違憲判決がでている選挙制度を「違憲」にならない制度に改めること,ここにあります。しかも,喫緊の政治家の仕事です。それを棚上げにしたまま,またぞろ,違憲選挙を繰り広げようというのですから。開いた口が塞がりません。

 まずは,ともあれ,「96条の会」へのご支援を。


遠州浜名湖・奥山の方廣寺(臨済宗)を訪ね,羅漢さんを拝む。感動。

 年に一回旅をする会があって,ことしは奥浜名湖の井伊谷(いいのや)からさらに奥山に分け入った臨済宗の古刹方廣寺に行ってきました。以前にも,何回も訪ねたことのある立派なお寺で,そのつど,深い感銘を受けていたのですが,今回はことのほか大きな感動がありました。


 とりわけ,境内に点在している羅漢像の表情に惹きつけられるものがありました。これまでにも面白い表情をしているなぁと思って眺めていましたが,今回は一体ずつ丁寧に拝みみるようにして,じっと向き合うことをこころがけてみました。というか,気がついたらいつのまにか「向き合って」いた,というのが正直なところです。


 五百羅漢という言い方がありますが,ここ方廣寺の羅漢さんも,境内のいたるところに無数に点在していて,やはり同じように五百羅漢としてひろく知られています。その表情がじつに豊か,そしてそのポーズもまったく自由奔放,一体として同じ表情のものはありません。寺の発行した図録『東海の名刹 方廣寺』によれば,「全境内の樹下石上に姿態自由な立像座像臥像が苔衣を着て,或いは禅思し,或いは流水を俯瞰し,或いは行雲を仰視して居る」という具合です。


 これらの羅漢さんは,開祖無文元選禅師が,かつて中国で天台の修行中に,とある石橋に茶を献じたところ,忽然と羅漢さんが身を現し,別峯に禅師を案内したという故事に由来するものだといわれています。あるいは,開祖無文元選禅師を慕って,常時,五百人を越える修行僧が集まっていたという伝承にもとづくものだ,ともいわれています。いずれにしても,五百体の羅漢さんが勢ぞろいして名実ともに五百羅漢になったのは明和七年(1772年)のことだそうです。


  ついでに書いておけば,開祖無文元選禅師は後醍醐天皇の王子(次男)で,天皇の没後,18歳のときに得度して仏道に入り,中国にわたって修行してきた人です。帰国後も諸国を遍歴しながら,随所に庵を結び,僧俗の接化につとめたと言われています。やがて,三河に廣澤庵を開創します。そのとき,遠江の豪族井伊家の分家奥山六郎次郎朝藤が廣澤庵に参籠して,無文元選禅師に深く帰依することになります。そして,そのご恩に酬いるためと後醍醐天皇追善のためとを兼ねて,領地内に一寺を建立し,禅師を請来したのが深奥山(じんおうざん)方廣寺のはじまりだとのことです。ときに,1371年。(1384年の異説ありとのこと)。
 
  ちなみに,羅漢さんの正式な名前は阿羅漢といいます。阿羅漢とは,辞典によれば,「(尊敬・供養を受けるのに値するという意味で応供(おうぐ)と訳す)仏教の修行の最高段階,また,その段階に達した人。もとは仏の尊称にも用いたが,後世は主として部派仏教の聖者を指す」とあります。これが省略されて,羅漢さんと親しみをこめた呼び名になり,ひろく知られるようになったようです。


 羅漢さんという人はこういう人たちのことなのだ,ということがわかってきますと,ますます,あの境内のいたるところに坐っていたり,立っていたり,横になっていたりした羅漢さんが,もっともっと親しみ深いものになってきます。なるほど,修行を積んで,あるレベルに達すると,あらゆるしがらみからも解き放たれて自由奔放になれるのだ,と。そこからさきに禅定の世界がひろがっているんだなぁ,とこれまた納得です。これは,仏教にかぎらず,どの分野でも一つの道を究め,あるレベルを超えでてしまった人たちの見えてくる「景色」はわたしのような凡人とはまったく別物だ,ということもそれとなくわかってきます。どの世界の道にしろ,一歩一歩,精進していくことの意味は,自己から解き放たれる自己に出会うことにあるのだろう,とそんなことを方廣寺で感じながら,至福のときを過ごしました。


  そんな羅漢さんを存分に楽しみながら,境内の山道を登っていきました。登りつめてところに堂々たる本堂だ聳え立っています。何回,訪ねてはても,仰ぎみて圧倒されてしまいます。しかも,正面の扁額には「深奥山」(じんおうざん)と勢いのいい文字が踊っています。思わず足を止めて,じっと見入ってしまいます。すると,そのすぐ横に「山岡鉄舟書」と説明書きが目に入り,ああ,なるほど,と納得。ここからさきに,またまた,思いがけない出会いというか,新しい発見もあったりして・・・。このことについてはまた機会を改めることにしましょう。

 というわけで,今日のところはここまで。
 とても素晴らしいお寺ですので,ぜひ,訪ねてみてください。お薦めです。

2013年5月21日火曜日

稀勢の里,鶴竜が元気で大相撲が面白い。いよいよ終盤戦。☆の潰し合いがはじまる。

 全然駄目だった日馬富士の相撲がもどってきました。あの低い立ち合いから,突き上げるようなのど輪がでるようになれば,あとは変幻自在。スピードに乗って,いかようにも相撲をとることができます。当初,おもったよりは足首の状態は悪くなさそうなので(でも,いくらかかばっているのがみえる),このまま白鵬戦に向けて突き進んでいってほしい。そして,大きな波乱を呼び起こしてほしい。大相撲のためにも。そして,日馬富士のためにも。

 それよりも,今場所は,稀勢の里,鶴竜のふたりの大関がともに元気。やはり,大関が元気な場所は盛り上がります。この二人が横綱と対戦する一番は,これまでにない見どころになりました。調子のいいときの大関には,それまでとはまた違った新しい戦略が飛び出してくる確率も高くなってきますので,そのあたりのことも楽しみのひとつです。

 さて,閑話休題。稀勢の里が,ようやく,自分の相撲の型ができつつあります。この型を,この場所,最後まで貫くことができるかどうか,そこが大きな天王山となります。どこか,北の湖が絶好調だったころの相撲に似たところがあって,土俵際は腹で押し出す,そういうパターンが多くでてくるようになると面白くなります。課題だった左からの攻撃が今場所は安定しています。これまでのように,一気に左から攻撃を仕掛けるのではなくて,相手のいやがるように左からじわじわと攻めたてると,相手の上体が起きてきますので,そうなればあとは持ち前の体力とあの腹で寄り切れいい。勝ったときのにくたらしい表情も,北の湖とよく似てきました。でも,やや上体が起きている姿勢が気になります。下位の力士にはあれで通用するものの(むしろ,取りこぼしがなくて安全),上位の横綱にはあれでは通用しないとおもいます。大関同士の対決でも危ないかもしれません。そのときに,どのような秘策をもっているかどうか,そこが,こんごの終盤戦の鍵となるでしょう。

 もうひとりの大関・鶴竜の取り口がいつになくいい。大関に上がってきたころの相撲です。今日は,少し早く立ちすぎて,重心が上に上がってしまいました。そこを突かれて下から持ち上げられるようにして,寄り切られてしまいました。やはり,勝ち急いだのでしょうか。立ち合いで,一呼吸,遅れるくらいの方が相手の重心の下に入ることができます。いわゆる「後の先」です。鶴竜がこの立ち合いの呼吸を完全にマスターしたとき,横綱がみえてくるでしょう。かれが大関に昇進したときの口上が素晴らしかったことを,なぜか,強烈に記憶しています。なので,「この男,ただ者ではない」と,このブログにも書きました。詳しくは,そちらのブログで確認してみてください。

 相撲界には「心技体」ということばがあります。大関以上の地位に上がっていく,最後の決め手は「心」にあるようです。技も体も申し分ないのに,どうしても取りこぼしがおおい力士にいえることは「心」の軽さです。どんなに不利な体勢になっても諦めない強い「心」が必要です。その日,一番の勝負に全力を傾けることのできる集中力と,勝負が長くなって呼吸が苦しくなっても諦めない持続力,この二つが求められます。そこが大関・横綱とそれ以下の力士との大きな違いでしょう。じつは,ここに大きなハードルがあるようにおもいます。もっと言ってしまえば,大関と横綱の間にはもっともっと大きなハードルがあります。そこをいかにして通過するか。ですから,横綱になるような男はどこかできが違います。

 日馬富士も,狂っていた相撲勘をとりもどし,以前のような勢いがでてきました。この終盤戦で,だれが白鵬に土をつけるか,楽しみになってきました。今場所の白鵬にはスキがありません。絶好調です。しかし,こういうスキのない場所ほど,意外なところに落とし穴が待っているものです。そのためには,白鵬を慌てさせるような秘策を練って土俵に上がる力士がでてくることです。これからさきの横綱・大関の取り組みは,すべて見逃すことはできません。ここをどのように耐えて,凌ぎきるか,そこが勝負の分かれ目となります。

 今日からの終盤戦,目が離せません。
 今場所の稀勢の里,鶴竜,日馬富士,そして,白鵬。みんな勝たせてやりたい。しかし,そうはいかないところが相撲の厳しさです。その厳しさを耐え抜く「力」,それが問われます。力士といわれる所以はこんなところにもありそうです。力士のもつ「力」。それが今場所はどのように表出しているか,じっくりと終盤戦では楽しみたいとおもいます。

 頑張れ,4力士。自分の型を貫き通せ。型と型との激突。それをファンは待っているのです。わたしもそのひとりです。千秋楽に笑うのはだれか。そのために今日がある。それいけ,ワッセイ。

2013年5月20日月曜日

NHKスペシャル・病の起源・人類進化に潜む”がん” の病根。

 5月19日午後9時から放映されたNHKスペシャル,シリーズ「病の起源」が面白かった。というより,空恐ろしかった,といった方が正しいかもしれない。なぜなら,不治の病”がん”は人類の進化とともに,その病因が増えてきたというのだから。同時に,この番組の終わり方に大いなる疑問をいだいたからである。

 チンパンジーと人間の遺伝子は99%同じなのだそうな。たった1%しか違わない,という。なのにこの違いが,外見的にも内実的にも,こんなに大きな違いを生んでいるという。しかも,チンパンジーががんを発症する確率は全体の2%であるのに対して,人間は30%に達するという。つまり,チンパンジーは50分の1,人間は3分の1だ。この違いはいったいどこからくるのだろうか,と考えてしまう。しかし,この番組はその違いをじつにわかりやすく解いていく。

 驚いたことに,その理由が人類の進化に深くかかわっている,というのだ。ヒトが動物性の世界に生きていた時代には,チンパンジーと同じ50分の1ががんを発症するにすぎなかった。が,約700万年前に人類の祖先たちが「二足歩行」をはじめるようになったときから,がんの発症率がしだいに高くなってきたという。

 その第一のきっかけは自由になった「手」にあるという。ヒトはこの手を用いて,こまかな手作業をするようになる。この手作業による大きな変化は石器を用いるときからはじまるという。そして,その石器はますます精緻を極めることになる。そうして,手作業による脳への刺激が,脳の発達をうながす効果となる。その結果,約80万年前には,脳の巨大化がはじまる。驚くべきことに,このときに,がん細胞もまた一緒に誕生したという。つまり,がんを発症させるFASという酵素がつくられるようになったのはこのときからだ,というのである。

 さらに,約6万年前に,人類は出アフリカをはたす。つまり,ジャングルに守られた樹上生活中心から平原に降り立ち,まったく新たな生存競争に参入することとなる。そして,このときに,オスの精子の製造能力が異常に高まったらしい。その一因に,狩り(ハンティング)が大きく影響したのではないかと考えられている。

 つまり,オスとメスの役割分担のはじまりである。夜明けとともに起き出し,狩りにでて,獲物をもってメスのところに帰ってくる。そして,日没とともに就寝。メスはいい獲物を確実に手に入れるために,新たな特別の戦略を編み出す。オスは,そういうメスのところに惹きつけられていく。こうして,新たなオスとメスの関係が生まれる。かくしてオスの精子の生産能力も高まっていく。

 じつは,この精子を増産するための細胞分裂の仕方が,がんの細胞分裂の仕方と,その仕組みはまったく同じだというのである。かくして,オスの精子はがん細胞なみに,つねに異常に増産されることになる。となると生産過剰となった精子は,ひたすら使い捨てにするしかない。この新たな事態は,言ってみれば自然界の法則に反する恐るべき事態というべきだろう。オスの異常性欲はこうして誕生したというのである。

 事態はそれだけでは終らなかった。狩りにでるオスは,一日中,原野を駆け回り,太陽に照りつけられる。ジャングルの生活にあっては,オスのからだはおのずから紫外線から守られていた。しかし,生活環境の急変は,一気に,紫外線にさらされることを余儀なくされる。こうして,がんを発症しやすい条件がひとつ増えていくことになる。

 そのつぎには,産業革命以後に大きな転機があったと考えられている。端的に言ってしまえば,電灯の発明による夜の後退である。そして,睡眠時間を圧迫するようになる。人間のからだは夜の睡眠中にメラトニンという物質がはたらいて,がんの発症を抑制する。そのためにも,夜の休息は不可欠なのだという。だから,ある統計によると,夜間勤務者のがんの発症率は,ふつうの勤務者よりも3倍も高いという。日光浴は一日15分くらいはした方がよく,それ以上になるとしだいに紫外線のなかのVDの影響を受けるようになるという。

 では,どうすればいいのか。この番組の最後に提示されたキー・ワードは「大きな脳をつかえ」というものだ。つまり,大きく発達した人間の脳を使え,というのである。なんのことかとおもっていたら,がん細胞であるFAS阻害薬を「大きな脳」をフルに活用して開発しろ,というのである。これにはびっくり仰天である。なんという無能,無神経な番組制作者たちか,というべきか。

 思考を停止してしまった番組制作者たちは,最初から,がんは避けられないのだから,そのがん細胞を阻害する薬を開発すればそれでいい,という短絡的な思考しかはたらかない。まことに安易な発想の番組の作り方になっている。この事実に唖然としてしまう。そして,アメリカでその研究が進んでいる様子を映像にして流す。いまにも,この薬が開発され,人類を救済するだろう,という安っぽい夢を視聴者に与えて,この番組は終った。

 わたしは,しばし,ポカンとしていた。この最後の終わり方に愕然としてしまい,すっかり失望してしまったのである。その直前までの,がんが発症するにいたった経緯が,人類の進化とともに進展してきたのだ,という恐るべき情報に目をまるくして,しっかりとりこにされていたのに,この終わり方はなんだ,と腹がたってきた。なんでもかんでも,「科学」の力で抑え込めばそれでいいのだという,またぞろ新たな「科学神話」を再生産し,NHKという公共のメディアをとおして垂れ流す。ただでさえNHK信仰は広く蔓延しているのだ。一般の無邪気な視聴者は,この仕掛けになんの違和感をいだくこともなく,いとも簡単に洗脳されてしまう。

 大した病気でもないのに薬さえ飲んでいれば安心,と信じている人は少なくない。安易に薬に依存すればするほど,人間の生体のなかに仕組まれている自然治癒能力はますます低下していく。つまり,生体のなかに育まれているはずの免疫力もますます低下していくことになる。毎年,インフルエンザが流行するたびに,風邪薬を大量に買い込んで「防衛」している人が,わたしのまわりにも少なくない。かくして,自然治癒力も免疫力も,さらには体力もどんどん低下していく。この悪循環をいかにして断ち切るか,その智慧が求められているというのに・・・・。

 がんの発症の要因となるものがここまで明らかになっているのなら,それらの要因をもっと精緻に分析していくことが必要だろう。そうして,それらの要因をいかにして社会から少なくしていくかということに全力を傾けていくべきだろう。そのための智慧をしぼることを,最初から放棄している番組制作者たちの,まことに安易な発想の仕方を,この番組はいやというほど見せつけてくれた。これでは受信料を拒否する人びとが増大していくのも,よくわかる。

 しかし,前半の情報は,人間の「からだ」というものを考えつづけているわたしにとっては,あらたな知見を提示してくれていて大いに役立つ。ありがたい限りである。しかし,この結論のもって行き方については,断じて許せない。

 「大きな脳」ががんを生み出したのだから,その「大きな脳」を使ってがんを克服する薬を開発すればいい,という。この図式はそのまま,「大きな脳」が原発を生み出したのだから,その「大きな脳」を使って原発を克服すればいい,という安易な思考にすり替え可能だ。こんなところにも,原子力ムラの恐るべき影響力が及んでいるという事実が,期せずして露呈してしまっている。

 わたしは二重の意味で,この番組のもつ力の恐ろしさに震えている。

第72回「ISC・21」5月例会(犬山で開催)からもどりました。

 「ISC・21」(21世紀スポーツ文化研究所)のホームページの掲示板に掲載してありましたように,第72回「ISC・21」5月犬山例会(世話人・船井廣則)が開催され,一泊して帰ってきました。今回は,参加者の人数こそ少なかったですが,内容のある,とても充実した研究会となりました。なお,この研究会は参加自由ですので,だれでも参加できます。興味のある方はホームページの掲示板をチェックしていて,ご都合のいいときにご参加ください。大歓迎いたします。

 今回のブログでは,研究会で話題になったトピックスのいくつかをご紹介しておきたいとおもいます。ほんとうは全部,ご紹介できるといいのですが・・・・。そうもいきませんので,わたしのこころを強く動かしたプレゼンテーションに限定します。

 Oさんは,イ・ソンギルという日帝時代に大活躍した韓国の柔道家を追っています。そのためにハングルを勉強し,直接,韓国に行ってイ・ソンギルに関する資料集めをしています。ところが,日帝時代の資料はほとんどが焼却されていて残ってはいません。それで,とうとうイ・ソンギルの親族を探して,直接,取材をしようと試みます。が,イ・ソンギルが勤務していた春川の警察署まで訪ねていきます。とても丁寧に応対をしてくれるものの,イ・ソンギルの記録となると,ほとんどなにも残っていないのが現状だそうです。イ・ソンギルの卒業した学校を訪ねてみても,個人情報に関することなので,と言って急に口が重くなってしまうということです。あとは,回数を重ねて,何回も訪問し,心情的に接近するしかない,とOさんも覚悟を決めています。もっとも近い燐国であるにもかかわらず,その壁を突破するのは,なかなか容易ではありません。それを覚悟で,この研究に取り組んでいるOさんの姿勢に敬意を表したいとおもいます。

 Mさんからは,長年,取り組んでいます竹内敏晴研究(この研究会の有志のメンバーとともに取り組んだ「竹内敏晴さんを囲む会」でのお話をまとめたもの)の第一次原稿を出版社に渡して,担当編集者との詰めの段階に入った,という報告がありました。できるだけ早く編集作業が進んで,単行本として世にでることを期待したいとおもいます。なお,『竹内敏晴選集』なる企画がF書店でいま進行しているとも聞いています。こちらと合わせて,わたしたちの仲間の手で竹内敏晴さんの本がでることは嬉しいことだとおもっています。

 Tさんは,4月に行われた真島一郎さんの「力」──この空恐ろしきもの,というお話について,河童研究の立場からのコメントをしてくれました。西アフリカ・コートジヴォアール・ダン族の「すもう」で繰り広げられる「呪力」の世界と,日本の河童伝承にまつわる摩訶不思議な想像の世界との「接点」をさぐる,きわめてユニークなものでした。河童の属性のひとつである「呪力」が,どのような背景から生まれてくるのか,そして,いかなる意味をもつのか,と問いつつ,そこに見届けることのできる「力──この空恐ろしきもの」を提示しようとする,ぎりぎりのエッジに立つ思考をそこにみることができたようにおもいます。

 Hさんの,日本のソフト・テニスの歴史として語られている定説のいくつかをとりあげ,その定説はほんとうに信じることができるのか,正しいといえるのだろうか,と疑問を投げかけます。そして,それらの定説をくつがえすための根拠をいくつか提示してくれました。とりわけ,ソフト・テニスの技術史的な視点からの提示される仮説のいくつかは,とても説得力のあるものでした。わたしが聞いているかぎり,テーマの立て方を工夫すれば,四つも五つもの論文が可能だな,とひらめきました。以前に研究ノートとして書かれた内容をさらに発展させたもので,これからさきの研究の成り行きがとても気になる,魅力的な内容でした。

 このほかにも面白い話がいくつもありますが,とりあえず,今日のところはここまでとします。

 次回の6月は奈良,7月は大阪を予定しています。
 興味のある方は,どうぞ,お出かけください。

2013年5月18日土曜日

『スポートロジイ』第2号の目処が立つ。すごい内容になります。乞う,ご期待!

 4月には刊行したいと考えていました『スポートロジイ』第2号の原稿が,ほぼ,揃いました。だいぶ遅くなってしまいましたが,これで行けるという目処が立ちました。このまま進行していけば6月末,または7月上旬には刊行できるのてはないか,と楽しみにしています。

 予告編として,内容について,大枠の紹介をしておきたいとおもいます。
 大きくは,ドーピング問題関連,バスク国際セミナー関係(今福龍太基調講演,西谷修特別講演をふくむ),ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン』読解に関する西谷修論文,そして,わたしの「研究ノート」の四つの柱になります。

 ドーピング問題関連では,伊藤偵之さんの論考(長年,ドーピング・ドクターとして,国際的に活躍されてこられた伊藤先生が,ご自分の目でみてきたドーピング・チェックの世界の諸矛盾について,赤裸々に論じてくださっています。前代未聞の論考です。)と,橋本一径さんの翻訳(フランスの近刊『ドーピングの哲学』に収録されている論文を一編,翻訳してくださいました。この内容については,「ISC・21」の東京例会でも橋本さんに紹介していただいていますので,あの場にいた人にとってはおなじみのもの)の2本立て。ここに,わたしが10年ほど前に,日本体育学会のシンポジウムで提起した論考を加えようかどうか,いま,検討中です。もう一度,手を加えて,掲載できるものかどうか,慎重を期したいと思っています。

 もうひとつの柱は,昨年(2012年)に開催されました「第2回日本・バスク国際セミナー」での論考をいくつかとりあげてみることにしました。その中味は,今福龍太さんの基調講演,西谷修さんの特別講演,そこに,若手研究者の魅力満点の論考を3編(井上邦子,松浪稔,竹村匡弥),収録する予定です。どなたの論考も眼からウロコという印象をもつ,すごい迫力のあるものばかりです。読みごたえ充分というところ。

 もうひとつは,ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン』の合評会の折に,西谷修さんに解説をしていただいたものですが,そのときのテープ起こし原稿を,あえて,切り捨てて,『スポートロジイ』第2号のために書き下ろし原稿を寄せてくださいました。これがまたとびきりの内容で,このまま,どのメディアに出しても大歓迎される素晴らしいものになっています。わたしは,すでに,何回も読み返して『ショック・ドクトリン』という著作のもつ威力を再認識しているところです。この論考は,第2号の最大の目玉商品と言ってもいいとおもいます。

 そして,最後はわたしの「研究ノート」です。こちらは,ブログに連載として書き留めておいた「十牛図」読解(スポーツ史的読解)を,もう一度,推敲して掲載する予定。この作業だけが遅れていて,あとの原稿はすべて揃い,すでに,みやび出版に送信しました。いまごろは,みやび出版の伊藤さんが,一つひとつの論考を精読しながら,どのように編集するか,あの人のことですから楽しみながら検討の真っ盛りだとおもいます。

 まあ,なんとか,ここまでこぎ着けました,ということのご報告です。
 ちょっと,類書にはみられない,驚くべき内容になっていると自画自賛しているところです。創刊号もいろいろのところで話題にしていただきました。が,第2号は,創刊号にも増して,話題性のある内容になっていますので,いまから楽しみにしているところです。

 刊行されましたら,また,このブログでご紹介させていただきますので,どうか,書店で手にしてみてください。時代をかなり先取りした編集を志していますので,現段階ではそれほどの評価は得られないかもしれませんが,やがては,こういう本が出版されていたのだ,と注目されるときがくると確信しています。

 というところで,取り急ぎ,『スポートロジイ』第2号刊行に関する中間報告まで。

2013年5月17日金曜日

ナポレオンの軍隊はなぜ強かったのか。国民主権誕生の背景。聴講生レポート・その7。

 先週の授業の終わりに,6月はフランスに4週間出張することになったので,その補講をこの授業のあとにつづけて行いたい,というN教授の提案がありました。この授業は午後4時から午後5時30分まで。そのあとといえば,午後5時40分から午後7時10分まで,となります。が,意外なことに困るという学生さんはいませんでした。まあ,この授業のあとのルーティン化された予定はあるけれども,この場合には仕方ないと学生さんたちが自主的に判断したのかもしれません。

 という前提もあって,今日(14日),早速に,このあと補講を行うということになりました。つまり,平常の講義の延長戦というか,ダブル・ヘッダーというわけです。いやはや,N教授のこのバイタリティには驚くほかはありません。この授業の前にはゼミナールがあって,しばしば延長して,この授業に遅れて駆け込んでくるというのが常態化していましたから。それでも,疲れた様子もみせずに,気合の入った授業を展開されています。すごい先生だなぁ,と思います。

 さて,その突然の延長戦のテーマは,近代的な戦争を支える「人間」でした。つまり,近代国民国家を支える国民は同時に国民兵でもある,という話です。その国民兵を養成するためには,近代の生み出したメディアが重要な役割を果たすことになります。そして,いつものように,近代の国民兵にいたる,その前提となる「戦う人」はどのように変遷してきたのか,という長い人類の歴史を総ざらいするところからN教授は切り出されました。しかし,その詳細は多岐にわたりますので,残念ながら割愛。いつものように,わたしの関心事に引きつけてのレポートに入ります。

 如是我聞。

 主権国家体制ができあがるということは領土が固定化するということです,とN教授。しかも,その領土は国民のものであり,国民が主権者として登場することを意味します。前近代までの,国王や教皇の領土から国民の領土へと,大きな変化が生まれます。そのきっかけとなった大きなできごとのひとつが,フランス革命です。このフランス革命を経たことによって,フランスでは「自由・平等・博愛」が国民統合のひとつのシンボル(合言葉)となります。そうして,ようやく手にした「自由」を守るためなら死ぬことも辞さない,そういう国民が生まれてきます。ナポレオン軍の自由兵は,これまでにはなかった新しい自覚と信念に支えられて戦う強力な兵士たちでした。つまり,「自由」のためにはみずからの命を投げ出してもいい,という自覚をもった兵士たちでした。ですから,ナポレオン軍は向うところ敵なしの,強力な軍隊を組織することができました。

 その結果,ナポレオン軍がめざましい活躍をしたことは西洋史の教科書にも書かれているとおりです。そのあまりの強さに驚愕したドイツのクラウゼヴィッツはその秘密をさぐります。そうして書かれたのが,いまも戦争論のバイブルともいわれるクラウゼヴィッツの『戦争論』(岩波文庫)です。N教授がお薦めの本の一冊です。ついでに言っておけば,N教授にも同名の著書があります。わたしは名著だと思っています。

 かくして,近代国民国家を支える強力な軍隊を組織するために,すぐれた兵士を養成することが喫緊の課題となります。それは傭兵とは違う,国家に対する主権者としての自覚をもつ国民による兵士の育成です。日本近代の「富国強兵」策もまた,その流れに乗るものです。ヨーロッパ列強もこぞって,ここに力を注ぎます。

 かくして,立憲君主制のもとでの国王といえども,国民の代表ではあるけれども「国民の利益を守るために統治するのだ」と主張するようになります。つまり,「国民の利益」を最優先しないことには国家を「統治」することは不可能である,そういう情況が生まれてきます。ここから国民を中心とする考え方,すなわち「国民主権」という考え方が誕生します。すなわち,国民の利益を守ることが国家の使命である,ということが明確になってきます。こうして,近代の国民国家の憲法には,国民主権の考え方が色濃く盛り込まれることになります。わが国の憲法に謳われた「主権在民」の考え方の根はここからきています。このことを,わたしたちはややもすれば忘れがちです。が,この事実をわたしたちは重く受け止めなくてはなりません。

 (※この話を聞きながら,わたしはあっては欲しくない妄想にふけっていました。どこぞの国では,この国民主権という考え方はヨーロッパから押し付けられたものであって,自分たちのものではない。しかも,これは古い考え方であるから,現代の時流に合わせて,憲法を<改訂>する必要がある,と本気で考えています。そして,政府の思うままに国民を統合し,統治する必要がある,と主張しています。しかも,国民の主権を奪った上で,軍隊を組織して国民を戦争に駆り立てようというのです。主権を奪われた国民軍は,単なる傭兵と変わりません。時代錯誤もはなはだしい,こんなことを平気で主張する,どこぞの政府高官たちはいったいなにを考えていのだろうか,と憤りさえ感じながら,N教授の話を聞いていました。しかし,N教授はひとことも,この問題には触れることはありませんでした。それどころか,「気づけよ」「気づけよ」と言っているように,わたしには聞こえました。よくよく考えてみれば,N教授は大学の講義のなかでは,あくまでも事実関係の歴史的根拠を明らかにする,そして,そのロジックを明らかにすることに徹しておられるようです。これまでわたしが馴染んできた,大学の授業とは関係のないシンポジウムやワークショップや講演などで,N教授が,みずからの思想・信条を吐露する語りとは,まったく別のものです。つまり,大学という制度のもとに縛りつけられた学生さんを相手にする「講義」では,たんたんと事実関係を明らかにするという姿勢を貫いていらっしゃるようにおもいます。それに引き比べて,みずからの著作や講演のような,ひとりの自由な人間としての言説とは,はっきり区別されているようにおもいました。)

 この「国民主権」(「主権在民」)という考え方がどのようにして誕生するのか,そのプロセスをこのブログできちんと説明するのはきわめて困難です。そこで,ここではその骨子について,わたしは以下のように理解しました,ということだけを書いておきたいとおもいます。

 前近代までの「戦う人」はあらかじめ決まっていました。ヨーロッパでいえば騎士階級が,日本でいえば武士階級がその任にあたっていました。つまり,国王(城主)との主従関係が前提にあって,その国王(城主)のために命をかけて戦う人びとです。封建制度のもとでは,このシステムが充分に機能していました。しかし,次第に「戦う人」の手が足りなくなってきます。そうすると,こんどは「傭兵」というシステムが導入されることになります。しかし,この傭兵は命懸けで戦うということはしません。与えられた職務をまっとうして,給料をもらえば,それでいいのです。命を落してしまっては,なんの意味もなくなってしまいます。

 その上で,N教授は,戦争にメディアという補助線を引いて,戦争とそれに従事する兵士たちにどのような影響を及ぼすことになったのか,と問題提起をします。そして,このことについて,詳細な説明をしていきます。そして,そこから,ヨーロッパ近代がどのようにして立ち現れてきたのか,ということを明らかにしていきます。

 たとえば,100年戦争とも呼ばれる宗教戦争の引き金になったのは,聖書のドイツ語訳(ルター),フランス語訳(カルバン)がなされ,しかも,グーテンベルグの印刷技術の開発によって,大量に聖書が印刷され,多くの人が直接,その内容に触れることができるようになったからだといいます。それまでの聖書はラテン語で書かれていたために,聖職者によって解説してもらう必要がありました。つまり,聖職者による情報のコントロールが思いのままでした。しかし,聖書が母語で読めるとなれば,その読解は,一気に多様化していきます。人びとは,直接,聖書をとおして自分の頭で考えるようになります。そういう目覚めた人びとによって展開された「宗教戦争」は終わりのない戦いの様相を呈することになってしまいます。

 つまり,独占的であった教会権力が母語に翻訳された聖書の登場によって,あえなく齟齬をきたすことになってしまいます。こうして,ニーチェのいう「神は死んだ」という時代に突入していくことになります。

 ここからさきが,じつは,とても大事なところなのですが(メディアがなにゆえにこれほどまでに大きな力をもつことになったのか,という話はどこかできちんと書いておきたいとおもいます),今回は,とりあえず,ここまでとします。わたしとしては「国民主権」(「主権在民」)という考え方が登場してくる根拠が明らかにされただけで大満足の授業でした。

 N教授にこころから感謝しています。

今場所の日馬富士は駄目。低い立ち合いからの攻撃がなく,その上,致命的な腰高。

 初日の相撲をみて,いやな予感がした。真っ向勝負がこの人の持ち味。低い姿勢の立ち合いからの強烈な攻撃があるからこそ,そのあとの流れが生まれてくる。それはアートにも等しい,とわたしは思っている。なのに,あんな楽な相撲をとった。左に変わって上手をとり,そのまま出し投げを打って,送り出し。しかも,楽勝である。こころもからだもこの勝ちに味をしめてしまう。相撲とはそういうものなのだ。無意識のうちに二匹目のどじょうを狙うことになる。しかし,そうは問屋が卸さない。

 早くも二日目にその結果が現れた。相手は真っ正面から当ってすぐに左に変わった。ために,日馬富士の得意の左がまわしをとれずに空を切る。目標を失って,棒立ちになっていたところを,下から押し込まれた。万事休す,である。慌ててはたきこんだが,残る土俵がない。呆気なく土俵の外へ。

 今日(16日)の五日目の相撲はもっと悪い。なんの策もないまま左が入ったが,右の上手がとれない。しかも,相手の左が深く入っていたために,その肩ごしに右上手をとろうとする。無謀である。その間に腰が伸びて棒立ちになっている。もたもたしているうちに巻き変えられて双差しを許すことになる。なぜ,このときに寄ってでるか,左から下手投げを打たなかったのか。腰高になっていたために,なにもできなかったのだ。こんな大きな相手に外四つで相撲がとれるわけがない。苦し紛れの首投げ。それも外されてて,あわてて体勢を整え,前に圧力をかけたところを下手出し投げを打たれ,あえなく土俵を這う。

 今場所の日馬富士をみるかぎり,からだもひとまわり大きくなり,これまでよりも逞しくみえる。稽古場でも,いつもにもまして力強い相撲をみせていたという。しかも,これまでになく絶好調だったという。なのに,なぜ?自信過剰?それとも直近の稽古で致命傷の足首を痛めたか。それにしても,これまで培ってきた日馬富士の相撲をすっかり忘れている。まるで別人だ。

 もう一度,初心に帰るべし。平幕のときから,どんなに大きな相手にも真っ向勝負の立ち合いをしてきたではないか。しかも,後の先の立ち合いで。それは低い姿勢の立ち合いから相手の喉元に向かって攻撃を仕掛ける,かれ独特のものだ。頭から行ってもいいし,右のど輪でもいい。あるいは,突っ張りでもいい。その上で左からのいなし。相手の体勢がくずれたところで左上手をとっての攻撃。あとは変幻自在だ。相撲勘のよさとスピードで相手を圧倒していく相撲。日馬富士ファンはそういう相撲を楽しみに待っている。

 なのに今場所は立ち合いに破壊的な攻撃がみられない。まずは,相手の出足を止める攻撃を仕掛けることだ。口さがない評論家がなんと言おうと,張手なり,のど輪なり,大きく変化するなり,思いきった攻撃を仕掛けることだ。それも,できればアーティスティックに。軽量力士に許された特権だ。そうやって横綱まで登り詰めたのだから。

 あるいは,からだが大きくなりはじめたことによる相撲の変化のきざしかもしれない。むかしの名横綱栃錦が横綱になってから体型が変化した。軽量力士から重量力士へと変化した。この変化していくとき,一時,相撲が乱れたことがある。評論家からぼろくそに叩かれた。わたしは熱烈な栃錦ファンであったから,勝ち負けしか評価しない評論家をにくんだ。違う,からだが変化しているのだ。だから,それまでの取り口とからだが噛み合わないだけのことだ,と。そして,立派な太鼓腹が仕上がったとき,栃錦は投げの名人から寄り切りの横綱に変化していた。そうして名横綱の名をほしいままにした。

 日馬富士のいまの相撲はそれかもしれない。変化の途上にある相撲かも。でも,それにしても,この乱れ方はいささか重症だ。早く気づいて,基本だけは取り戻すこと。もし,足首のどこにも異常がないのだとしたら,このあとの土俵は居直って上がるべし。失うものはなにもない,そういう覚悟が決まれば,また,つぎの相撲が現れる。それは相手にとっては脅威となる。とりわけ,白鵬にとっては。

 日馬富士よ。あなたの相撲はアートなのだから。自分の思い描く相撲をとことん追求してほしい。そして,余分な迷いが消え去ったとき,あなたに固有の,あのアーティスティックな相撲が表出してくるに違いない。それを見せてほしい。負けてもいい。それでもアートになるような負け方をしてほしい。もちろん,勝てばもっといい。せっかくの才能を存分に花開かせよ。

 いずれにしても,まずは,重心を下げよ。腰高では相撲はとれない。どれだけ立派なからだに恵まれようとも。低い,土俵にはいつくばるような,あの最後の仕切りのイメージのまま,相手の喉元めがけて攻撃を仕掛けろ。低く出ればでるほど相手は攻撃の手がなくなってしまう。そこが,先手をとるチャンスだ。絶好調のときの舞の海のように。猫だましだって立派な相撲の手のうちだ。

 目覚めよ。初日の相撲の悪夢から目覚めよ。
 明日からの相撲を楽しみにしている。熱烈なるファンのひとりとして。

2013年5月16日木曜日

沖縄「本土復帰41年 高まる怒り」「琉球独立へ学会設立」(『東京新聞』)。

 昨日の5月15日は,沖縄の本土復帰41年を迎える記念の日だった。わたしはうっかりしていて忘れていた。今朝の『東京新聞』を読んで,はっと胸を突かれた。あー,そうだった,と。こちらの本土のメディアがほとんど触れていないので,わたしも忘却の波にさらわれていた。しかし,沖縄の『琉球新報』は大きく報道したという。たぶん,『沖縄タイムス』も同様に力を入れて報道しているのだろう。急いで,ネットで確認してみようと思う。

 ここでも,わたしたちは沖縄を切り捨てている。無意識のうちに。忘却という最悪の「暴力」によって。

 東京新聞によれば,この日(15日),二つの動きがあったという。
 ひとつは,「琉球民族独立総合研究学会」の設立。もうひとつは,「憲法改悪反対抗議集会」の開催である。

 沖縄独立運動は,40年以上前の本土復帰をめぐる議論のなかで大きく盛り上がったことがあった。その後,下火になっていたが,本土復帰をはたしたものの,最大の期待であり,希望であった「本土並み」の基地問題改善が裏切られ,「本土並み」はおろか,ますます事態が悪化する進みゆきを経験することになるにつれ,「琉球独立」の声が若者たちを中心にして次第に高まってきていた。このことは西谷修さんが深くかかわったNHKのETV特集でも,最後の結論のところで強調されていたことが記憶に残っている。そして,その後も,沖縄の頭越しに,しかも「日米地位協定」に縛られたまま,日米合意がなされていく現状に,とうとう我慢も限界に達し,さまざまな運動体が結成されつつある。その最新の動きが「琉球民族独立総合研究学会」である。

 記事によれば,以下のとおりである。以下,引用。
 琉球にルーツを持つ人々が独立を目指し,調査研究を進める「琉球民族独立総合研究学会」が15日,設立された。会の研究者らは,米軍基地問題を例に「沖縄の問題を解決するには独立しかない」と指摘。「独自の民族として,平和に生きる甘世(あまゆー)を」と,基地のない島を目指す。
 学会は「琉球の将来を決めることができるのは琉球民族だけ」という立場。琉球の島々に民族的ルーツを持つ人に限定して会員を募集。法律や歴史,言語の観点から独立に向けた議論をしていく。

 設立準備委員会の友知(ともち)政樹・沖縄国際大准教授は,米軍新型輸送機MV22オスプレイの強行配備などを例に「日本や米国の強制がくり返されている。学会設立は子どもたちの世代に対する責任でもある」と意義を話した。
 会の設立記念シンポジウムも宜野湾市内であった。リゾート開発の反対運動に取り組んできた西表をほりおこす会の石垣金星代表は,与那国への自衛隊配備に触れ,本土復帰で幸せになれるというのは幻想だったと指摘。「これ以上我慢してはいけない。独立の道を開かなければ」。

 以上は引用文。

 わたしたちは沖縄についての思考を停止したまま,のほほんと過ごしているが,事態は急展開のきざしを呈しはじめているかにみえる。この学会をふくめ,こんごの推移を見守っていきたいと思う。そして,ヤマトの人間にできることはなにか,を真剣に考えていきたい思う。わたしたちは重い負債を背負い込んでいるのだから。それも長年にわたって。

 もうひとつの動きは,「憲法改悪反対抗議集会」。こちらも新聞から引いておく。
 沖縄の米軍基地負担問題に抗議する集会が15日,那覇市の与儀公園を起点に行われた。土砂降りだった41年前の復帰の日を思わせる豪雨の中,約150人が参加した。「憲法改悪反対」「オスプレイ撤去」を訴え,改憲を進める安倍晋三首相や,在沖縄米軍に風俗業者を活用することを提案した橋下徹大阪市長に抗議の声を上げた。

 わたしたちは,こうした沖縄の人びとの抗議行動や声を受けて,どんなにささやかな行動や声でもいい,なんらかの意思表示をしていかなくては・・・・とひとり悶々としながら,このブログを書いている。そして,みずから書いた内容に対する責任を感じながら,さらにみずからの思考を深めようと思う。そして,行動へ,とつなげていきたい。

 少なくとも,いまや慢性病と化しつつある「思考停止」症候群や「自発的隷従」症の軛から脱出しようと,みずからに言い聞かせながら・・・・。


「戦争」とはなにか,を考えることによって浮かび上がってくる「世界」のイメージについて。聴講生レポート・その6.

  如是我聞(にょぜがもん)。仏教経典の冒頭によく登場することばです。お釈迦様の話をわたしはこんな風に聞きました,という断り書きです。弟子のアーナンダがお釈迦さんの話されたことばを忘れないように書き留めるときに,誤解を避けるために,わたしの聞いたのはこんな話でした,とまずは断りを入れたわけです。というのは,同じ話を聞いても,弟子によってはその受け止め方が異なっていたからです。

 わたしのこのレポートも,N教授の話されたことをまんべんなく整理し,その要点を書くというものではありません。なにせ,90分にわたって話される内容は多岐にわたります。そして,そのいずれもきわめて重要な内容をふくんでいます。ですから,それらをすべて書き記すとなると,こんなブログではとても網羅することは不可能です。ですので,あくまでもわたしの独断と偏見に身をゆだねて,いま,現在のわたしの関心事に響く内容の部分だけをとりだしてきて整理しておく,というのが正直なところです。その点をどうぞお含みの上で,読んでいただけると幸いです。

 さて,如是我聞。

 今回の講義のテーマは「戦争」でした。
 「戦争」ということばが,いつから,どのようにして用いられるようになったのか,その意味するところはなにか,というところから講義がはじまりました。

 まずは,「戦争」ということばを疑うこと,わたしたちは「戦争」ということばがアプリオリに存在したと考えがちですが,じつはとても新しいことばであることが,少し考えるだけでわかってきます。それは明治以後のことばです。いうまでもなく,英語のwarの翻訳語です。

 それ以前までの日本語では,「役」「乱」「変」ということばが用いられ,これらは内容によって使い分けがなされていました。それが近代に入ってからは「戦争」ということばで統一されることになりました。そこには深いわけがありました。

 たとえば,こんな具合です。西南の役,戊辰の役,などといいます。が,これを西南戦争とか,戊辰戦争と表記することが,最近になって多くなっています。が,ことばの正しいつかい方としては間違いです。「役」は朝廷や政府に駆り出された人たちが戦うことを意味します。つまり,兵役による戦いのことです。すなわち,「役」ということばの裏側には為政者に対して抵抗/反抗する勢力を征伐するという意味がふくまれています。それに対して,「戦争」は主権国家同士の戦いを意味することばです(この点については,のちほど,詳しく説明します)。

 いっぽう「乱」は,「将門の乱」というように用いられます。いわゆる内戦状態の戦いです。両者の言い分が対等で,どちらにも義が成立する戦いです。将門の乱は天慶の乱ともいいます。いわゆる律令国家体制の崩壊を象徴する事件でした。それに対して「変」は,「本能寺の変」のように,こちらはクーデターを意味します。織田信長のもとで武将として仕えていた明智光秀が主君の織田信長を襲った戦いです。まさに意表をつく,ありえない戦いです。ですから「変」というわけです。

 このほかにも「冊封」(奴倭国)とか「処分」(琉球),あるいは「植民地」という支配・統治の仕方もありますが,これらについては,ここでは省略。

 つづいて「戦争」です。こちらは近代的な主権国家が成立してからの,主権国家同士の戦いを意味します。日清戦争は,日本が主権国家として戦った最初の戦争です。ついで,日露戦争という具合です。いずれも,日本と清国,日本とロシア,といった主権国家間での戦争です。そうではない場合には,内乱とか,動乱とか,紛争,などが用いられます。あるいは,たんに「戦い」と呼ぶわけです。「テロとの戦い」とか,「正義のための戦い」などは,主権をもたない,あるいは見えない相手に対して強国が一方的な「正当化」をして,巨大な暴力を行使する事態が存在します。しかし,この場合には攻撃される相手側にも,まったく同じ「正当化」が成立します。「聖戦」(ジハード)と呼ばれるのは,こういうケースです。(このあたりのところは,N教授が意図的にパスしたと思われますが,N教授のお話をうかがいながら,わたし自身の頭のなかで思い描いていたことを,わたしの独断で付け加えています。)

 では,「戦争」することのできる国家(主権国家,国民国家,法治国家)はいかにして成立するのか,というきわめて重要なテーマについて詳細な説明がありました。この問題をここで簡潔に書くにはわたしの能力を超えていますので,割愛させていただきます。ただ一点だけ触れておけば,主権国家となるためには,周囲の資格をもった主権国家の承認を得なければならない,ということです。独立国家を宣言しても,周囲の国家がその独立を認めないかぎり,独立国家とは言えません。つまり,国際社会に認められるかどうかが,ひとつの大きなポイントとなります。もっともわかりやすい見方は,新たに独立した国家の国連加盟が承認されるかどうか,ということになります。ですから,近代の戦争は,すべて主権が認められた国家間の戦いを意味します。

 そして,日本という国がどのような経緯で主権国家を形成していくことになったのか,ということが詳細に語られていきます。こうして,「戦争」ということばの成り立ちを考えることによって,近代という時代のより本質的な特色がもののみごとに浮き彫りにされる,という次第です。

 授業の最後のあたりで「近代になって編み出されたことばを用いて,前近代を語ることの愚」というお話が,ちらり,とありました。このフレーズが,なぜか,わたしのなかではいたく響くものがありました。このことについては,また,機会をあらためて考えてみたいとおもいます。

 また,N教授の著作のなかで「戦争は人間にとっての全体的体験を意味する」という趣旨の文章があったことも,この講義をうかがいながら,わたしの頭のなかを駆けめぐっていたことも付け加えておきたいとおもいます。

 とりあえず,今日のところはここまで。

2013年5月15日水曜日

桓武天皇の生母「高野新笠」は菅原伏見に住み,土師臣の出であるとか?(出雲幻視考・その2.)

 最初にお断りをしておきますが,この「出雲幻視考」のシリーズは,あくまでも「幻視考」であるということです。つまり,こうとも言える,ああとも言える,というあまり根拠のしっかりしない世界をわたしの直観だけを頼りに「幻視」したものを描き出す,ただそれだけのものである,ということです。ただし,わたし自身はそこにかなりの「信」を置いている,ということも白状しておきます。ですから,半分は遊び,そしてあとの半分は本気です。このあたりのバランスが古代史に分け入るにはちょうどいいのではないか,と自分を納得させています。

 そこで,今日の本題へ。昨日のブログで桓武天皇のことを書きました。当然のことながら,桓武天皇の「生母」とはどういう人だったのか,という疑問が湧いてきます。わたしは日本の古代史についてはずぶの素人ですので,なにからなにまで初めて読むことになる文献ばかりです。ですから,わたしにとっての発見は,古代史に関心をもつ人びとにとっては,すでに常識になっていることかもしれません。が,そんなことを気にしていては,せっかくのわたしの「遊び」が台無しになってしまいます。そこは幼児の「遊び」よろしく,素直に思ったままを,想像力たくましく展開してみたいとおもいます。そのためには,どこまでも,なにものにも縛られることなく,自由気ままに「幻視」していきたいとおもいます。

 さて,桓武天皇の生母の名前は「高野新笠」(たかののにいがさ)。

 いまさら,断るまでもなく,父は百済の武寧王の末裔。わたしの関心はそちらにはなくて,新笠の母,大枝真妹。なぜなら,大枝氏(大江氏)は土師臣を名乗る野見宿禰の系譜に連なる人だからです。そこから新笠が誕生し,やがて,天皇の母となり,のちの時代に大きな影響を及ぼすことになるという,この話の方にわたしの興味・関心が向かいます。事実。桓武天皇が長岡京に都を移すのも,その地が桓武天皇の祖母である大枝真妹の拠点であったことと無縁とは考えられません。つまり,長岡京は土師臣・大枝(大江)氏が勢力を張っていたところである,ということがわたしの大きな関心事です。つまり,この時代には,すでに,土師氏を名乗る一族はとてつもなく大きな勢力を全国的に張りめぐらせていた,と考えられるからです。

 しかも,大枝真妹の娘である高野新笠が,女御として朝廷に仕えたときには,平城京のすぐ西側に位置する菅原伏見に住んでいたといいます。菅原伏見といえば,野見宿禰が垂仁天皇から拝領し,土師臣の官職をいただいた由緒あるところ。つまり,土師氏の出発点は,ここ菅原伏見であること。ですから,野見宿禰を召し抱えた垂仁天皇の御陵は,ここ菅原伏見にあり,その名も「菅原伏見東御陵」と呼ばれています。近鉄西大寺駅から近鉄電車に乗って南に迎えば,唐招提寺や薬師寺の手前の右側に立派な御陵がみえてきます。

 まさに,野見宿禰の拠点であった菅原伏見から高野新笠が朝廷に出仕していたというのは,土師氏の一族ということから考えれば,なんの不思議もありません。しかも,桓武天皇の幼少時,つまり,山部皇子の時代には,ここ菅原伏見で育てられたらしい。

 高野新笠の「高野」の字(あざ)は,こんにちの「高の原」に比定されています。高の原は,菅原伏見の北部,いまでいうと京都府と奈良県の府県境に位置しています。この地は,いまは,両府県の共同開発によって開かれた新興の文化都市になっています。ちょうど,わたしが奈良県中山町(高の原と秋篠寺の間,もちろん菅原伏見にふくまれる)に住んでいたころに,新興の町「高の原」の開発がはじまったばかりでした。ですから,このあたりは,しばしば散歩にでかけて開発の推移を遠くから見守っていたところでもあります。それまでは,なにもない丘陵地帯で灌木の生い茂る原野でした。

 その「高の原」が,高野新笠のゆかりの地だったと知り,わたしとしては不思議なご縁を感じないわけにはいきません。そうと知っていたら,もっともっと,あちこち散策して,徹底的に調べておけばよかったと,いまごろになって後悔。そういえば,秋篠寺の界隈や,押熊町のあたり,そして,わたしの住んでいた中山町の周辺にも,むかしの住居跡らしき地形(それも隠れ里のような)や,思いがけない竹藪の中に,『古事記』や『日本書紀』に登場する人物の碑が建っていたりして,びっくり仰天したことを,いまさらながら思い出しています。

 もう一度,あの地を歩き回ってみたい,そんな衝動に駆られています。

 この菅原伏見から菅原道真がでてくるのも,当然といえば当然。菅原道真は野見宿禰の子孫ですから。その姓である「菅原」は,野見などの姓を名乗っていた土師氏に,桓武天皇が下賜したものだといわれています。その陰には,高野新笠の力があった,とも言われています。ただし,ここにはひとつ大きな問題があります。野見の姓から菅原の姓に変わることのメリットはなにであったのか,だれがそれを望んだのか,その結果はどうだったのか,などなど。

 その後の子孫の活躍ぶりを考えてみると,その代表が菅原道真ですが,土師氏の身分では登りつめることのできない高位の官職(右大臣,など)につくことができたのは,野見の姓ではなく,菅原の姓だから可能だったとも考えられています。しかも,菅原道真が冤罪で太宰府に流されることになった遠因には,もともとは土師氏であり,葬祭儀礼に携わる身分の低い出自ではないか,という藤原一族からの蔑視・陰謀があったという説もあります。

 さて,こんなことを考えているうちに,こんどはもっともっと大きな問題に突き当たることになりました。それは,この菅原伏見と呼ばれる土地は,富雄とか,登美が丘という地名がいまも残るように,そのむかし,富雄川流域に勢力を張っていたといわれる鳥見(とみ)の長髄彦(ながすねひこ)の拠点でもあったといわれているからです。

 この問題については,いずれ,稿を改めて考えてみたいとおもいます。なぜなら,そこにはとてつもなく大きなテーマが隠されているからです。わたしの幻視はとどまるところを知らないほどに,つぎからつぎへと広がっていきます。

 とりあえず,今日のところは,ここまでとします。


2013年5月14日火曜日

「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,『続日本紀』に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。」(今上天皇)。

 安倍晋三首相の歴史認識がアメリカで話題になったとたんに,軌道修正したことは昨日のブログに書いたとおりです。同時に,新大久保で繰り広げられている 「ヘイトスピーチ」についても憂慮している,といまごろになって意志表明をしました。これについて,山口二郎氏が「本音のコラム」(『東京新聞』)で噛みついたのは,昨日のブログに書いたとおりです。そして,それならば,そのことの確かさを証明する担保を国際社会に向けて提示すべきだ,とも釘を刺しています。わたしもまったく同感。

 こんなことを考えていたら,そういえば今上天皇が,サッカー・ワールド・カップの日韓共催の折に,日本と韓国の関係についてどう思うかと問われ(記者会見),それに対して一歩踏み込んだ考えを語られたことを思い出しました。当時の新聞にかなり大きく報道されましたので,記憶していらっしゃる方も多いと思います。わたしのそのときの印象では,今上天皇の歴史認識はなかなかのものではないか,という驚きをともなうものでした。それにつけても,安倍首相はこのときの今上天皇の談話をどのように受け止めているのだろうか,とまたつぎなる疑問が湧いてきたという次第です。一国の頂点に立つ政治家が,この今上天皇の発言をどのように受け止め,どのように応答していくのか,つまり,どのようにみずからの政治姿勢に反映させていくのか,という問題はあだやおろそかにはできない重大な問題でもあります。

 そこで,ちらりと宮内庁のホームページを覗いてみましたら,そのときの「ご発言」が公開されていました。平成13年12月8日。お誕生日に際し,記者会見。宮殿・石橋の間。とありました。ずいぶん長い談話になっていますが,大事なところだけ引用しておきたいと思います。
(http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h13e.html)

 ホームページの見出しは〔宮内記者会代表質問〕となっていて,その一つひとつに今上天皇が丁寧に応答しているようすが伝わってきます。
 その代表質問の問3.は,「世界的なイベントであるサッカーのワールドカップが来年,日本と韓国の共同開催で行われます。開催が近づくにつれ,両国の市民レベルの交流も活発化していますが,歴史的・地理的にも近い国である韓国に対し,陛下が持っておられる関心,思いなどをお聞かせください。

 この問いに対して,天皇陛下の応答は以下のとおりです。

 日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は,日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。
 しかし,残念なことに,韓国との交流は,このような交流ばかりではありませんでした。このことを,私どもは忘れてはならないと思います。
 ワールドカップを控え,両国民の交流が盛んになってきていますが,それが良い方向に向かうためには,両国の人々が,それぞれの国が歩んできた道を,個々の出来事において正確に知ることに努め,個人個人として,互いの立場を理解していくことが大切と考えます。ワールドカップが両国民の協力により滞りなく行われ,このことを通して,両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております。

 以上です。少し長くなりましたが,無駄な誤解を避ける意味で全文引用させていただきました。これが,今上天皇の公式見解として,現在も宮内庁のホームページに公開されているという事実を,まず,確認しておきたいと思います。ちなみに,これの〔英文〕版も公開されています。つまり,国際社会に向けても,今上天皇の「担保」として,その立場を明らかにされている,というわけです。

 わたし自身は,天皇制そのものの存在について,まっさらな気持ちで支持することにはいささか抵抗を感ずる者ではありますが,安倍晋三首相よりは,今上天皇の方が,歴史認識においても,それに対応する誠実さにおいても,はるかに良識的である(比較級という意味で),と受け止めています。ですから,みずからの信ずる歴史認識についての「担保」を,山口二郎氏が言うように,国際社会に向けて提示しておくことが急務だと思います。

 今上天皇のこの姿勢は,いまも変わってはいません。2010年10月8日の「平城遷都1300年」の記念祝典でも,この宮内庁のホームページに公開されている見解を,「深い感慨」をもって述べられたことが,当時の『日経新聞』でも確認することができます。

 こうした流れできていた韓国との関係が,一気に悪化してしまった経緯については,みなさんのよくご存知のとおりです。中国との関係についても同じです。そして,沖縄との関係についても同根です。なぜ,こういうことになってしまうのか。それは,わたしたちの選んだ政治家たちのあまりの「愚かさ」に,すべては帰すことになります。そして,そういう人々を選んでしまったわたしたちは,ただ,ただ,茫然自失する以外にありません。情けないかぎりです。

 ヘイトスピーチなどと言って傍観している場合ではないはずです。少なくとも今上天皇はこころを痛めているはずです。しかし,政治家のほとんどは無視です。マスコミも同罪です。なにを「是」とし,なにを「非」とするか,その最大公約数的な良識や,あるいは,その根拠となるべき思想・哲学を見失ってしまった現代の日本の社会の脆弱性が剥き出しになっている・・・・・。

 第二次世界大戦の敗戦によって,いったん「根こぎ」にされてしまった日本社会が,新たな「根づけ」をすることを怠ってきたそのツケが,ここにきて露呈している・・・・というのがわたしの大づかみの認識です。未来の,あるいは,21世紀を生き延びていくために日本人としての「根をもつこと」の重みをしみじみと考えているところです。

 それは,天皇制を礼賛することでもなく,憲法9条を「改悪」することでもなく,ましてや「ヘイトスピーチ」で憂さを晴らすことでもありません。日本人としての「根」をどこに求めていくべきか,ほんとうの意味での「魂の欲求」に依拠する生き方はいかにして可能なのか,こういう根源的な問いを,叡智を絞って模索することからはじまる,とわたしは考えています。

 このブログを書いたわたしの意とするところをお汲み取りいただければ幸いです。

 取り急ぎ,今日のところは,ここまで。

2013年5月13日月曜日

片足立ちの基本姿勢は「鳩胸,出っ尻」・李自力老師語録・その32。

 片足立ちの基本姿勢は「鳩胸,出っ尻」・・・これは李老師のことばではありません。わたしが李老師の教えに当てはめたことばです。以前から,片足立ちになったときの「前傾姿勢」を注意されていたのですが,どのように修正すればいいのか,模索していました。李老師は,「前傾姿勢」にならないように,百会を高くして踵までまっすぐに軸をつくって,鉛直になるように立ちなさい,と仰います。ことばでは理解できたつもりでいるのですが,どうしてもからだが言うことを聞かず,ついつい前傾してしまいます。

 どうすればいいのか。強く意識しているときは,それなりに「まっすぐ」に立つことができるのですが,意識しないと,また,すぐに元の木阿弥。つまり,からだが受け入れてくれない,そういう無理がどこかにかかっている,というわけです。

 そこで,何回か自分で稽古しているうちに,わたしの場合には「鳩胸,出っ尻」の姿勢がからだに合っている,ということに気づきました。そして,急いで李老師のDVDで,片足立ちのときの姿勢を確認してみましたら,みごとなまでの「鳩胸,出っ尻」になっていることがわかりました。あの李老師のお尻の筋肉がもこもこと動くのがみえるのは,ここに秘密があった,とわたしなりに納得です。そこで,急いで稽古して修正につとめることにしました。

 そして,あるとき,李老師にみてもらいました。にっこり笑って「その姿勢です」とお墨付きをいただきました。あとは,からだに叩き込んで記憶させるだけです。でも,まだ,つい,うっかりすると「鳩胸,出っ尻」を忘れて,前傾姿勢になっています。うまくできるようになるまで,ゆっくり,時間をかけて,からだに染みこませることに努めようと思っています。

 どういうことなのか,もう少し,具体的にくわしく述べておくと以下のようです。

 いつもの基本の稽古のときを例にしましょう。
 両手の甲ををうしろの腰に当てがい,イエマフントゥンの足の運びの稽古をするとしましょう。たとえば,右足前のゴンブの姿勢からうしろ足である左足に体重をもどし,股関節をゆるめながら腰を45度,右方向に回転させます。当然のことながら,腰の回転と同時に上体も頭も一緒に回転することになります。そして,体重を右足に移動させます。このときです。わたしの上体が前傾してしまうのは。ですから,このときに「鳩胸」のまま体重を右足に移動させて左足が床を蹴って床から離れる瞬間,腰をぐいっと中に食い込ませるようにします。そうして,完全に片足立ちになったときには,みごとな「鳩胸,出っ尻」の姿勢ができあがっています。

 この姿勢ができて初めて,「お尻を巻き込むようにして」,猫のように左足を前にそっと送り出すことが可能となります。左足の踵が床についたときには,すでに「出っ尻」の姿勢は消えています。こんどは,尾てい骨から百会まで鉛直になっています。ここから体重を前にある左足に移動させながら腰を回転させ,ゴンブの姿勢をとります。あとは,左右が入れ替わって,同じ動作の繰り返しになります。

 こうして,「お尻を巻き込むように」という動作の意味不明のことばもようやく解消。「出っ尻」になっていなければ,「巻き込む」お尻が残っていません。そのためにも,しっかりと「出っ尻」を残す必要があります。そうすれば,李老師の,あの猫の足のように音もなくそうっと前に送り出されてくる,悠揚迫らざる,柔らかくて力のこもった足の運びに近づくことができる,というわけです。

 このことに気づくまでに,わたしは8年を要しました。でも,気づいたときが吉日。わたしにとっての発見があるかぎり,それこそが醍醐味,至福のとき。太極拳は止められません。

2013年5月12日日曜日

腰のすわらない「豹変政治家」=安倍晋三にあきれはてる。一国の宰相ともあろう者が・・・。

 今日(12日)の『東京新聞』の「本音のコラム」で,山口二郎が「変節政治家」と題して,安倍晋三首相をこきおろしている。わたしも,このところの安倍晋三君の言動にあきれはてていたので,ようやく少しだけ溜飲を下げることができた。山口二郎の意見にまったく,同感である。

 内容は,安倍晋三君の歴史認識と排外主義の2点をとりあげて,その「変節」ぶりを批判したものだ。歴史認識については,アメリカからの批判がはじまると,とたんにこれまでの中国や韓国に対する強行姿勢の取り下げに走り,排外主義については,いまごろになって「憂慮している」という姿勢を示した。そして,村山談話の見直しには着手しないとも(官房長官)表明した。これまでの強気の姿勢はいったいどこにいってしまったのか,と。

 その上で,「強者の圧力で差し替えた議論は,状況の変化でまた元に戻る。歴史認識で国際的常識を共有することには賛成である。」と釘を刺しておいて,「ならば,将来にわたって認識を貫くことについて,担保を差し出すべきである。参議院選挙の後も,反省と謝罪の認識を変えないことを今から世界に向って約束すべきである。」と断じている。

 わたしも,この意見に大賛成である。
 それにしても,こんなにあっさりと宗旨がえをするとは・・・・・。こんどは,まったく別の意味であきれはてている。一国の宰相が,みずからの政治生命をかけて,一貫した強気の姿勢を貫くのは,いい・悪いの判断はともかくとして,政治家として当然だと思う。国民はそれを見届けた上で,是非の判断をし,選挙という方法で判定をくだせばいいのだから。

 一番困るのは「玉虫色」の姿勢を貫く政治家。これには,多くの国民はしばしば騙されてしまう。どれが本質なのかの見極めがむつかしくなるから。しかし,強気から弱気に一気に宗旨がえをするのも,わかりやすいとはいえ,困ったものだ。こうなると,安倍晋三君は,アメリカの風向きいかんによっては,いかようにも舵を切り替える人だ,ということがはっきりしてきた。山口二郎は「変節政治家」という冠を載せたが,わたしは「豹変政治家」の冠を被せておきたい。

 かつて,「お腹が痛くなったから」といって,政権をあっさり投げ出したお坊ちゃん宰相だ。こんどは,TPPには参加しないと選挙公約にかかげておきながら,それを無視してあっさりと「参加表明」に豹変した。選挙公約違反にもなにくわぬ顔をして。そして,眼くらましをかますかのようにして矢継ぎ早に,つぎからつぎへと持論の政治課題を提示して,あれよあれよと思う間に駆け抜けようとする。そして「スピード感のある政治」を標榜する。国民は,この眼くらましにあって,なんだか実行力のある政治家だと勘違いしてしまう。それが,嘘のような高支持率になって表れているのだろう。でも,これが一時的な虚構であることは,多くの識者は承知しているところだ。

 わたし自身は,二度目の政権担当ということもあって,いよいよ父祖伝来の政治家の血が乗り移ってきたのかも・・・と考えもした。岸信介,佐藤栄作の血が,かれのからだを流れていることは間違いないのだから。となれば,こんどの安倍晋三君は「要注意」だと思っていた。

 ところがである。まったく真逆の意味で,「要注意」だった。
 安倍晋三君は,アメリカからの風向きによっては,いかようにも宗旨がえをする「豹変政治家」である,ということがはっきりしたからだ。

 「アベ蚤ックス」の効果もはっきりしてきた。単なる為替の変動だけで,儲かる企業と損をする企業との二極に分裂した。そこには企業努力のかけらもない。そして,国民のレベルでいえば,金持ちはますます金持ちに,貧乏人はますます貧乏になっていく。アメリカの歩いた道を,まっすぐそのまま後追いをしている。アメリカはたった1割の金持ちのために9割の貧乏人が犠牲にされている,とアメリカ国民が怒りの声をあげている,という報道がしばらく前にあった。日本も,もう,すぐ目の前にそれが待っている。

 歌謡コンサートに飛び入り参加して歌を歌うのも,この人らしいといえばこの人らしい。背番号「96」をつけて始球式の球審を務めるのも,この人らしいといえば,この人らしい。しかし,人のふんどしで相撲をとることはやめよう。不快である。とりわけ,背番号「96」は。場違いなジョークを言って殺された人がいる,という俚諺を想起せよ。ジョークは用意周到な場と間合いが命なのだ。いま,「96」はどのように細工をしようが,ジョークにはならない。

 ひょいひょいと,その場の思いつきで,なにをやらかすかわからない,そういう「お坊ちゃん」的性格は生来のものなのであろう。だから,「豹変」するのもお手のもの。かれにとってはなんの違和感もないのだろう。そこが,怖い。

 でも,これで,いよいよ「アベ蚤ックス」の底が割れた。

 しかし,それにしても,自民党に代わりうる政党がみつからない。そちらの方がもっと深刻かもしれない。「根」なし草の悲しさか。「根をもつこと」の重要さを,ここでも考えてしまう。

2013年5月11日土曜日

60年ぶりの出雲大社「本殿遷座祭」挙行に思うこと(出雲幻視考・その1.)。

 すもうについてのもっとも古い記述とされる『日本書紀』のなかに,野見宿禰と当麻蹴速の相撲(決闘)の話が描かれていることはよく知られているとおりです。その相撲に勝った報奨として,野見宿禰は垂仁天皇に召し抱えられます。そして,人身供犠の代わりに埴輪を提唱したその論功行賞により土師臣(はじしのおみ)の姓(かばね)を与えられたといいます。以後,土師臣として代々,天皇に仕えることになります。その末裔には菅原道真が登場します。その始祖ともいうべき野見宿禰は「出雲の人」とあるだけで,その出自についての記述はどこにも見当たりません。あるのは天穂日命が始祖である,というだけです。しかし,ここにも大きな謎が隠されているように,わたしは考えています。

 なぜ,野見宿禰の出自については明らかにされていないのだろうか。『日本書紀』を編纂した権力の側にとって,なにか都合の悪いことでもあるのだろうか。奇妙なことに『古事記』には野見宿禰と当麻蹴速の相撲の話はひとことも触れていません。それは,いったい,なぜか。そんな素朴な疑問をきっかけにして,野見宿禰およびその子孫とはどういう人たちだったのだろうか,そして,かれの出自である「出雲」とは,その当時,どのように考えられていたのだろうか,という謎解きがはじまりました。

 が,具体的な手がかりが見つからないまま,何回も挫折しては,また,やり直すということの繰り返しでした。が,村井康彦さんの『出雲と大和』(岩波新書)が刊行され,眼からウロコの落ちる経験をしました。そして,ふたたび,野見宿禰と出雲の幻影を追ってみようという情熱が湧いてきました。その一端は,すでに,このブログでも書いたとおりです。

 が,今回からは,少し趣向を変えて,連続してこのテーマを追ってみようという気になり,「出雲幻視考」と題して,なにものにもとらわれることなく(とくに,アカデミズムの呪縛から解き放たれた立ち位置で),まったく自由に「幻視」してみようという次第です。なにせ,まともな資料もほとんどない神代の世界の話であったり,神話の世界の話なのですから。そうとも言える,こうとも言える,そして,それらが間違っているとも言えない,つまり,さしたる根拠もない世界の話なのですから。これはもう「幻視」するしか方法はありません。ですから,自分でもっとも納得のいく理屈をこねあげ,それに依拠するしかありません。まさに,独断と偏見の世界での「遊び」です。

 でも,人がなにかを信じて,わが道をゆく「思想・信条」のようなものもまた,こんな風にして無意識のうちに構築されていくものだ,とわたしは考えています。その意味での,独断と偏見にみちた世界の「遊び」は,きわめて重要だと思っています。この「遊び」のなかでこそ,人は本気で「考える」という営みをはじめるのですから。少なくとも,思考停止に導くようなアカデミズムの呪縛に縛られてしまうよりは,ずっと,ましだと考えています。

 なにか,まえおきのつもりが,いつのまにか自己弁護をはじめてしまいましたので,この話はこのあたりにして,本題に入っていきたいと思います。

 昨日(10日)は,出雲大社で,修復を終えたばかりの本殿(国宝)にご神体をもどす「本殿遷座祭」が盛大に行われた,と新聞がつたえています。この遷座祭は60年ぶりということで,大きな話題になっています。が,それだけではなくて,伊勢神宮の遷座祭(こちらは20年に1回)と重なったこともあって,なにかと両者がコラボレートするイベントなども企画されていて,情報量が多くなっているのでしょう。でも,よくよく考えてみますと,古代の神さまが社殿を改築して移住するからといって,こんなに大騒ぎをする必要もないようにも思います。そこには,なにか,意図が隠されているように思うのは,いささか考えすぎというものでしょうか。

 で,報道によりますと,昨夜の出雲大社には,天皇の勅使をはじめとする約1万2千人の参列者が集まり,荘厳な雰囲気のなかで「遷座祭」が執り行われたといいます。そのうち,8千5百人は招待客,あとは一般の参列者ということなのでしょうか。午後7時すぎには,ちょうちん以外のすべての明かりが消され,暗闇のなかで「遷座祭」が,いろいろに演出されたようです。

 総事業費は約80億円。この金額が多いのか,少ないのか,わたしのような小市民には理解できません。が,これだけの金額を集めるのは出雲大社なら,いともかんたんなことなのかもしれません。なにせ,一年に一度は「八百万」の神さまが集まって「会議」をなさる,という伝承が広く知られているくらいですから。世間の神無月(陰暦の10月)は,出雲では「神在月」(かみありづき)といわれるゆえんです。その神々のもとには,それぞれ氏子や垣内と呼ばれる人びとが大勢,組織されているわけですから。でも,それだけでもなさそうな気がします。

 さて,ここからがわたしの幻視のはじまりです。天皇の勅使が参列することと「事業費」の問題をどのように考えるか,ということです。なぜなら,『古事記』に詳しく描かれていますように,「国譲り」神話の交渉の段階で,オオクニヌシを祀る社殿を,朝廷が祀る社殿にも等しいか,それ以上の立派なものを建造すること,という条件を提示して,それを受け入れた,とあります。それが「国譲り」の条件だったというわけです。

 そのために,一時は,16丈もの高さの社殿が建造された,といわれています。現在の社殿の高さが8丈といいますので,その倍の高さがあったということになります。丈は尺の10倍(10尺)ですから,約3m。その16倍,すなわち,48mの高さがあった,ということになります。そして,これは事実だっただろう,と上田正昭さんは書いています(『出雲──聖地の至宝』,古事記1300年・出雲大社大遷宮特別展図録,P.6~11.2012年)。その証拠に,2000年の発掘調査で見つかった宇豆柱(うづばしら),御柱(心御柱・しんのみはしら),などを挙げています。それらの柱は,3本の巨大の杉の大木を組み合わせてつくられており,その直径は2.7m~3mに達している,といいます。このうちの宇豆柱は,昨年の秋,上野の国立博物館で開催された特別展で,わたしもこの目でみてきました。それは想像を絶するほどの太さでした。

 さらに,上田正昭さんは,「雲太(うんた),和二(わに),京三(きょうさん)」の話を,『口遊(くちずさみ)』(源為憲著,970年)から引いて紹介しています。「雲太」とは出雲国杵築明神殿のことで,ここが日本で一番高い建物であったと。つづけて,「和二」(東大寺大仏殿)が二番目,「京三」(平安宮大極殿)が三番目,という次第です。

 こんなに大きなものを,ときの朝廷はつくらなくてはならなかった「国譲り」神話の約束とは,いったいどういうものだったのか,とても不思議です。この約束を守らなくては国を治めていくことはできない,なんらかの理由があったということなのでしょう。だとしたら,その理由とはなにか。そして,このことと野見宿禰の相撲とは無縁ではない,というのがわたしの幻視のひとつです。

 この大社殿の造営・維持管理の約束が,のちのちの朝廷にとってもとても大きな財政的な重荷になってのしかかっていた,と村井康彦さんも『出雲と大和』のなかで触れています。

 こうなってきますと,「出雲」とはそもそもなにものなのか。そして,「大国主命」とはなにものなのか,というとてつもなく大きな疑問が湧いてきます。

 その残像が,「天皇の勅使」の派遣でしょう。そして,約80億円という総事業費は,信者の寄進によるものだけではなく,どこか別のところからも捻出されているのではないだろうか,などと余分なことまで「幻視」してしまいます。

 なぜ,このようなことにこだわるのか,これから追い追い明らかにするつもりですが,とりあえずは,シモーヌ・ヴェイユの『根をもつこと』(岩波文庫)と深く共振・共鳴するものがあるから,とだけ答えておきたいと思います。つまり,「魂の欲求」ということです。

 今日のところは,ここまでにしておきます。