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2015年4月3日金曜日

「飛鳥の原に百済の花が咲きました」(Hong-june You)。韓国からのまなざし,強烈なインパクト。

 「飛鳥は百済のコントロール下にあった」とは言っていませんが,内容はまさにそのままの印象です。韓国の美術史の専門家(Hong-june You)の眼には,飛鳥は百済の支配下にあった,とみえているようです。飛鳥時代に飛鳥の各地に残された,これだけの仏教文化の影響をみれば一目瞭然ではないか,と言外に含ませています。

 この韓国の研究者のまなざしは,一瞬,虚をつかれ,びっくりさせられますが,それでもなお,なるほどと納得させられてしまいます。そういう説得力を持ち合わせています。単なる紀行文のかたちを借りた著者の強烈なメッセージは,大成功と言っていいでしょう。

 正直に告白しておけば,古代史がひっくり返る,そんな印象です。そして,そのようにみた方がはるかに自然でもあります。しかし,その実態をいかに隠蔽・排除するか,そして,万世一系の天皇制をいかに正当化するか,知恵者・藤原不比等はあらんかぎりの手段をつくして,記紀編纂の仕事に取り組んだ,という見方がますます正当性を帯びてきます。

 やはり,すべての謎は蘇我4代にわたる大王の存在をいかにして矮小化し,否定するか,そして,その実態をいかに隠すか,そこに尽きるようにおもいます。それでもなお隠しきれずに露呈してしまうものが,あとを絶ちません。

 その筆頭が,石舞台,すなわち蘇我馬子の墓。それも,「そう言われている」というだけで,断定はされていません。なぜ?もし,違うとしたら,では,蘇我馬子の墓はどこにあるのか,それすらわかってはいません。なぜ,これほどの大王の墓が特定できないのか,そこにすべてが集約されているようにおもいます。

 
だれか,都合の悪い人が,必死になって隠したのです。蘇我一族の墓は寄ってたかって破壊したか,土を積んで隠してしまったに違いありません。

 石舞台とはよく名づけたものです。この場に立って考えてみると,いろいろのことが透けてみえてきます。たとえば,このロケーションの良さ。飛鳥の中でも一等地です。後ろに山を背負い,川が流れ,眼下に飛鳥平野が一望のもとです。風水から考えても文句なしの条件が整っています。しかも,この一等地に,墓らしきものがあるのはこの石舞台だけです。こんなところに墓(古墳)を,しかも巨大な墓(古墳)をつくることができた大王は,どう考えてみても蘇我馬子くらいしか考えられません。なのに,そのような伝承すら残ってはいないというのですから,よくもまあ,ここまで徹底して,その痕跡を消したものだと感心してしまいます。

 この石舞台も長い間,土に埋もれ,小高い丘になっていたようです。そして,灌木が生い茂っていたようです。しかし,長い歳月を経て,土は少しずつ雨水に流され,巨大な岩が姿をあらわすことになります。そして,いつの頃かに,盗掘され,石室の中には遺骨も宝石らしきものも,なにも残ってはいません。単なる空洞だけです。虚しいかぎりです。

 蘇我馬子と同時代にともに天皇を支えたといわれる聖徳太子の誕生寺・橘寺は,この石舞台のはるか下に位置しています。しかも,聖徳太子の墓は,なんと飛鳥ではなく,山一つ越えた難波にあります。これもまた,大きな謎です。

 そして,飛鳥の原の中心に位置して大きな役割をはたした寺,それこそが飛鳥寺です。仏教伝来の中心です。いまでこそ小さな寺にしかみえませんが,その遺構をみると,当時にあっては巨大な伽藍が立ち並んでいたことがわかります。そのシンボルともいうべき飛鳥大仏はいまも健在です。そして,異様な雰囲気をかもしだしています。手を伸ばせばとどきそうな至近距離というのも,この飛鳥大仏の魅力の一つといっていいでしょう。

 この飛鳥寺を中心にして,周囲にさまざまな仏教文化の花が咲き誇ることになります。その一つひとつを尋ね歩きながら,著者のHong-june You は「飛鳥の原に百済の花が咲きました」と宣言します。詳しいことは省略しますが,この本を読んで,わたしの飛鳥を見る眼は一変してしまいました。そして,もう一度,全部,自分の足で歩きながら,「百済の花」をみてまわりたいとおもっています。そういう距離に全部,そろっているのですから。

 とてもとても不思議な本です。ぜひ,ご一読をお薦めします。
 立ち位置が違うだけで,こうも古代史の見方が変わるものか,といういい見本です。
 そして,古代史はまだまだ謎だらけだということもよくわかります。

 ということは,いま,学校で教えている日本の古代史は,いったい,だれのために,だれが書いた歴史なのか,ということも大問題となってきます。

 歴史認識ほど恐ろしいものはありません。それはいまも隣国との紛争の種となってつづいているのですから。

2015年2月27日金曜日

『万葉集があばく 捏造された天皇・天智』上(渡辺康則著,大空出版,2014年刊)を読む。

 天智天皇はなぜ飛鳥ではなく大津に宮を移して天皇となったのか,これはわたしの長年の疑問でした。この疑問に真っ正面から応答してくれた初めての本がこれでした。この渡辺康則さんの主張がどこまで信頼できるのか,はひとまずおくとして,いささか驚きの新説が飛び出したものだと半ばあきれながら,また,あらたな想像をたくましくしています。

 日本の古代史は面白い,と。なかでも,歴史の中から忽然と消された出雲族と蘇我一族をめぐる推理が,です。諸説紛々とするなかで,根拠と想像力の入り交じった推理が,ある意味では自由自在の世界です。そうであるとも言えないけれども,そうでないとも言えない世界,この狭間で揺れ動く推理,と言ったら言い過ぎでしょうか。

 
その新手の,意表をつく,実証を試みたのがこのテクストと言っていいでしょう。
 書名のタイトルにも明らかなように,天皇・天智は捏造されたとする仮説を,『万葉集』のなかに埋め込まれた万葉コード,あるいは万葉史観をとおして『日本書紀』を,ありのまま読み解くという方法を徹底することによって,これまでとはまったく違う解釈・世界が立ち現れる・・・。この方法論を著者の渡辺康則さんは徹底して貫きます。

 そして,とうとう天智天皇は中大兄時代から生涯にわたって飛鳥に居住した痕跡はない,と渡辺さんは結論づけています。では,どこに居たのか。九州の筑紫王朝に居て,そこから勢力を伸ばし,やがて大津宮に遷都した,つまり,「東征」してきたのだ,といいます。

 その謎を解く,最大の鍵が『万葉集』の冒頭を飾る倭三山歌にあるとして,詳細にその分析を展開しています。つまり,倭三山を引き合いに出して歌った天智,天武,額田王の「三角関係」にある,というのです。とりわけ,額田王の歌はいかようにも解釈可能な意味深長な内容になっていて,そこに「万葉コード」や「万葉史観」のヒントが隠されている,と渡辺さんは説いています。

 そして,この『万葉集』と『日本書紀』は連動していて,『万葉集』の立場に立って『日本書紀』を読み解くと,これまでのアカデミズムのとってきた立場とはまったく異なる解釈が可能になる,というのです。そして,それを実践してみせていきます。

 これまでの『日本書紀』読解は,本居宣長以来,つじつまの合わない記述については,ことごとく「転記ミス」「誤記」「誤字」「脱字」として取り扱い,無理矢理つじつま合わせをしてきましたが,それが,そもそもの間違いなのだ,と渡辺さんは強調します。そうではなくて,「つじつまの合わない記述」こそが『日本書紀』を読み解くためのヒントになっているのだ,と。つまり,当時の伝承や資料そのものが乱れていて,その実態を反映しているのだから,それはそのまま受け止めて,なぜ,そのような乱れが生じているのかを読み解くことが重要なのだ,というわけです。

 わけても,謎だらけの中大兄・天智の足跡をたどる上では不可欠だ,と。その謎解きの,最大の鍵となっているのが額田王が中大兄に返した歌だといい,額田王は中大兄をこけにしている,つまり,皇太子としては扱っていない,と渡辺さんは解釈しています。くわしくは,テクストでご確認ください。この部分が,このテクストの冒頭を飾る圧巻の部分でもあります。

 この本を読んでのわたしの感想は,長年の疑問だった中大兄と大海人はほんとうに兄弟だったのか,という謎が一気に晴れて,すっきりしたというものにつきます。そして,同時に,新たな,とてつもなく大きな疑問が立ち上がってきました。それは,では,いったい,皇極・斉明天皇とはなにものだったのか,という疑問です。そして,なにゆえに中大兄と大海人を兄弟にしつらえ,斉明天皇の息子にして,まったく別の歴史を捏造しなくてはならなかった藤原不比等の企みは,いったい,なんだったのか。

 おそらくは,乙巳の乱と大化改新(聖徳太子の捏造もふくめて)の正当性を主張するための,歴史の改ざんが,どうしても必要だったのでしょう。のちの天皇制の土台を固めるための歴史修正主義の権化,それが藤原不比等であったことは明らかですが,ならばこそ,そこに隠された歴史の真実はなにであったのか,知りたいところです。

 わたしの幻視によれば,ここにも,出雲族の陰がちらついているようにおもえてなりません。詳しくは,いずれまた。今回は,とりあえず,このテクストのご紹介まで。