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2016年1月26日火曜日

第100回記念研究会,飛鳥散策の旅からもどってきました。

 第100回を記念する研究会(1月23日・奈良教育大学)+山焼きと日本の古代史に思いを馳せる飛鳥散策(1月24日),古民家を借り切っての夜遅くまでの楽しい団欒,さらに,1月25日には興福寺の宝物館,京都駅の美術館に立ち寄り,夕刻,帰路につき,無事に帰宅しました。

 1月23日(土)の第100回を記念する研究会は,予想をはるかに上回る話の展開となり,素晴らしい会になりました。これはひとえに,遠路はるばる奈良まで足を運んでくださった演者の方々のお蔭です。なんと言っても,経済思想史,表象文化論,アフリカ学,イスラム研究,政治思想,チョー哲学のそれぞれの領域の第一人者ばかりに集っていただいたわけですから。しかも,じつに手際よくそれぞれの研究領域からの発言をしてくださったお蔭で,わたしたちスポーツ史・スポーツ文化論を研究している人間のこころにも深く響くものがありました。やはり,無理をお願いしてよかった,としみじみおもいました。

 大雪,大荒れの天気が心配されていましたが,奈良はほとんどその影響もなく助かりました。夜の山焼きは,いつものオープニングの花火までは楽しむことができましたが,若草山の芝の状態が悪く,麓の部分が少し焼けただけでした。後日,焼き直しをするとのこと。その代わり,夜の懇親会はキャンパス内の寧楽館で行われ,多くの人がお互いに交流できて,とても充実したものとなりました。みなさん,大満足の様子でした。

 1月24日(日)は奈良のホテルから一直線に飛鳥を目指しました。朝から猛烈に寒く,冷え込みましたが,青空に恵まれました。まずは,豊浦宮跡を散策,その足で甘樫丘に登り,展望台から奈良盆地,西の葛城山とその裾野,東の三輪山からその奥のダンノダイラ方面,そして,眼下の飛鳥の里の眺望を堪能しました。そして,車で川原寺跡まで移動。橘寺を見学したところで時間となり,昼食。そのあと飛鳥川に沿って田んぼの中を歩き,あちこちに点在するかつての宮跡(伝承地)を一つひとつ確認しながらくだり,飛鳥寺で飛鳥大仏を拝観,入鹿首塚から甘樫丘を眺めました。そして,乙巳の変がいかなるものかに思いを馳せました。つぎに石舞台に移動,さらに高松塚壁画館へ,そして,天武・持統陵に登りました。ちょうど夕日が沈むころでした。

 急いで宿泊予定の古民家・古都里庵へ。ここがまたことのほか素晴らしいところでした。ここのことを書き始めますと際限がなくなってしまいそうですので,今回は割愛。自炊でしたので,可能なかぎり食材も持ち込み,女性軍(男性も大いに手伝いました)の奮闘で,素晴らしい宴を囲むことができました。建物といい,庭といい,眺望といい,申し分のないところでした。いずれ,またの機会に紹介したいとおもいます。でも,夜の部をちょっとだけ。可愛い歌姫の歌があり,それに感応して涙し,嗚咽する男あり,あるいは,アフリカニストによる魂の籠った迫力満点の歌あり,セミプロのシンガー・ソング・ライターによる演奏あり,という具合ですっかりいい雰囲気ができあがりました。あとは,夜遅くまで「囲炉裏」を囲みながら,団欒。みんな「ひとつ」のこころになれたようにおもいました。貴重な経験であり,嬉しいことでした。

 1月25日,朝食後に解散。わたしは近鉄で奈良まででて,興福寺の宝物殿(阿修羅,仏頭,千手観音像,など)へ。小野さんと竹谷さんが付き合ってくださいました。昼食は,名物「びっくり」(うどん)へ。そこから小野さんと二人でJR奈良線で京都へ。京都駅の駅美術館(伊勢丹内)で「京薩摩」の焼き物を鑑賞(林郁子さんのご推薦),これが想定外に素晴らしく感動。図録を買って新幹線へ。新幹線の中でも夢中になって図録に見入ってしまいました。

 というようなわけで,25日の遅い夕食の時間に帰宅。

 たった二泊三日だったはずなのに,ものすごく長い時間を過ごしたような感覚が,いまも残っていて不思議な感じです。浦島太郎の逆のヴァージョンです。思い切って,大きな計画を立てて,よかったなぁとしみじみおもっています。今回の第100回記念研究会は生涯の思い出になりそうです。参加してくださったみなさんにこころから感謝あるのみです。こんな経験をあと何回できるだろうか,と考えてしまいます。これからは,思い切って,二泊三日の計画(個人的に)で研究会に参加してみようかなぁ,と考えたりしています。

 以上,ブログが二日間,途絶えてしまいましたが,その言い訳を兼ねてのご報告まで。
 こんごともよろしくお願いいたします。

2015年12月19日土曜日

オイコノミア研究会「デュピュイについて,もういちど」(森元庸介主催)を傍聴してきました。

 「デュピュイについて,もういちど──『カタストロフからの哲学』をめぐって」というワークショップを開催するのでご参加を,という案内を主催者の森元庸介(東大准教授)さんからいただいていましたので,傍聴させていただきました。さぞかし大勢の人が集まるものとおもっていましたら,意外に質素で,しかし,緊張感の高い集りでした。なるほど,こういう質の高い研究会は,このくらいの規模がいいのだなぁ,とおもいました。

 日時:2015年12月18日(金)午後6時~8時45分。
 場所:東京大学(駒場),18号館4階コラボレーション・ルーム1。
 ワークショップ・テーマ:「デュピュイについて,もういちど──『カタストロフからの哲学』をめぐって。
 プログラム:
  ゲスト・スピーカー:三浦〇〇さん,桑田学さん。
  レギュラー:中村大介,渡名喜庸哲,森元庸介,西谷修。

 司会進行は主催者の森元庸介さん。

 冒頭に,森元さんからゲスト・スピーカーの紹介があり,つづいてテクストの執筆者の紹介に入って,「ただひとり異色の論考を寄せられた西谷修さん・・・」と紹介されたところで,西谷さんが挙手をされ,「なぜ,このような内容のものを書いたのか」という理由について,いきなり気合の入った話になりました。しかも,その内容が,また,このワークショップにいたる導入としては抜群でした。その要旨は以下のとおりです。

 デュピュイという人の仕事は,きわめて多岐にわたっています。しかも,これまでのアカデミックな研究の枠組みを度外視して,重要だとおもわれる領域に勇んで飛び込み,問題の所在を的確に押さえるという仕事をしてきました。ひとことで言ってしまえば,きわめて多面的で,かつ重層的な内容の本をたくさん書いてきました。ですから,場合によってはデュピュイのよって立つ基盤というか,思想の核心部分を見失ってしまう可能性が高い。たとえば,デュピュイの思想の中核をなす<破局>ということばの概念ひとつとってみても,場合によっては,その受け止め方の力点はバラバラになってしまう恐れがあります。そこで,デュピュイの言いたかったことの「肝」にあたる部分を,ざっくりと取り出し,ごくふつうのことばで語るとどうなるのか,ということを意識して書いたものです。

 という具合にして,最初に書いた文章は,『スポートロジイ』(21世紀スポーツ文化研究所紀要)第3号に寄せたもので,そのもとになっているのは,この研究所が主催する研究会で,デュピュイの『聖なるものの刻印』をどう読むか,という講演であります,といったわたしへのサービスまでしてくださいました。ありがたいことです。

 こうして,冒頭から高いテンションの話に入りましたので,ゲスト・スピーカーのお二人もかなり緊張されたようです。しかし,西谷さんのお話が,おそらくゲスト・スピーカーの魂の奥底をかきたてたかのようにして,三浦さん(映像文化論?),桑田さん(気象工学)のお話が展開しました。わたしにとっては,日ごろ,あまり触れることのない分野での最先端のお話が聞けて,とても刺激的でした。とりわけ,デュピュイのいう<カタストロフ>の射程はどこまでも広がっていて,現代の文明病の態をなしている,ということを強烈に刻印してくれたことが印象に残りました。

 このお二人の原稿が,おそらく間違いなく出版されるであろう『カタストロフからの哲学』の続編に,どのようにまとめられて提出されることになるのか,いまから楽しみです。わたし自身は,お二人のお話をうかがいながら,1月に予定されているわたしたちの研究会に思いを馳せていました。そこでのテーマは「<破局>に向き合う「いま」,スポーツ文化の限界と可能性を考える」です。ですから,ここでの議論をそのまま引き受けて,わたしたちの土俵に持ち込むと,どういうことになるのか,とあれこれ考えることになりました。

 その意味で,重要なヒントもいくつかいただきました。とりわけ,桑田さんの「気候工学とカタストロフ」は「研究」というものの,もはや切り離しがたい政治とのかかわりの深さを思い知らされるものでした。つまり,研究者自身は純粋に研究者としての良識の上に立ち,「気候工学」そのものの研究を深めていこうと純粋に努力を重ねていますが,その研究プロジェクトには巨額な研究費が科学研究費の名目で付いてきます。すると,その研究成果がどのように活用されることになるのか,そこのところの境目は曖昧なまま,実験,開発,実施へと,おそらく一直線で進むことになるのでは・・・と桑田さんは危惧されていました。

 このことの示唆しているところは,スポーツ科学の研究現場も同じです。むしろ,スポーツ科学の場合には,わたしの知るかぎりでは,もっと積極的に「現場」と密着して,研究が進められているようにおもいます。つまり,勝つためにスポーツ科学の研究者たちは,そのすべてを提供しようと必死です。当然のことながら,そこには経済原則がつよく働くことになります。

 わたしの目からすれば,スポーツ科学の研究者たちは,まことに無邪気に「現場」と癒着したまま,というより一心同体となって,研究に邁進しています。自分の立ち位置など,ほとんどなにも考えないまま・・・・。このことは,人文・社会系の研究者たちにも,そのまま当てはまります。つまり,自分の携わっている研究が,どういうことを意味しているのかという思想・哲学的な確たる思考を経ていない,ということです。

 すなわち,思想・哲学の欠落した研究は,いまや,無意味であるどころか,きわめて危険ですらある,ということです。

 長くなってしまいましたので,このブログはひとまずここまでとします。
 何カ月かののちに,続編が世に問われることを,いまから楽しみにしたいとおもいます。

2015年10月21日水曜日

「演出,あるいは人間的生存の基底。ルジャンドルのダンス論」(森元庸介)。如是我聞。

 10月17日(土)の「ISC21」10月東京例会で,念願のピエール・ルジャンドルの「ダンス論」について,森元庸介さんにお話をしていただきました。嬉しいことに,わたしの期待をはるかに上回る踏み込んだお話をしてくださり,わたしの胸は高鳴りました。正鵠を射るとはこのことでしょう。わたしの期待した問題の核心に,ズバリ切り込んでくださり,加えて,ルジャンドルの含意する知の地平にまで触手を伸ばしてくださった,というわけです。ルジャンドル読みの第一人者として評価の高い森元さんならではのお話でした。

 その全貌を,このブログで語ることはとても不可能ですので,その一部をご紹介しておきたいとおもいます。というよりは,興奮つづきの,わたし自身の頭の中を整理しておく,と言った方が正しいでしょう。

 この研究会の冒頭で,わたしは,つぎのようなお話をさせていただきました。その要点は以下のとおりです。

 スポーツ史・スポーツ文化論を長年にわたって考えてきましたが,ここにきて,とりわけ「3・11」以後にわたしがはっきり意識するようになった新たなテーマがあります。それは,西洋近代が生みだした近代スポーツ競技のミッションは臨界に達し,もはや,つぎなるステージに第一歩を踏み出さなければならない重大な局面を迎えているのではないか,というものです。そして,この局面を打破するためには,もう一度,スポーツ文化とはなにか,人間にとってスポーツとはなにか,スポーツする人間とはなにか,生身のからだを生きる人間にとってスポーツとはなにか,といった根源的な問いを発し,初手から再スタートしなければならないのではないか,ということでした。

 このテーマを考えていきますと,当然のことながら,スポーツ以前の,武術と舞踊の問題が大きく浮上してきます。しかし,いずれも,こんにちの武術や舞踊とはまるで異質の,呪術や儀礼の世界に踏み込んでいくことになります。そして,この問題は,ヒトが動物性から離脱して人間性の世界に移行するところで,いったい,なにが起きたのか,というところに到達してしまいます。もっと言ってしまえば,人間は,生きものとしての動物性と,ことばを話す生きものとしての人間性,すなわち,理性によってコントロールされる人間性との折り合いをどのようにつけようとしてきたのか,というところに至りつくことになります。

 このとき,舞踊はどのような役割をになったのか,舞踊とは生身のからだを生きる人間にとってなにであったのか,その原点を探り当てたい,それがわたしの最大の関心事です。この関心事にルジャンドルはどのように関与しているのか,いまからとても楽しみです・・・・というようなお話をさせていただきました。

 なぜなら,この研究会のために森元さんが立ててくださったテーマはつぎのようなものだったからです。「演出,あるいは人間的生存の基底 ピエール・ルジャンドルのダンス論から」。あらかじめ,このテーマが送られてきていましたので,何回も,何回もこのテーマとにらめっこをしながら,あれこれ考えました。考えるヒントは,ルジャンドルのダンス論のテクストのタイトル『他者たらんとする情熱 ダンスのための考察』(1978年)です。この二つの間を行ったり来たりしながら,思いっきり想像の世界をふくらませていました。

 このわたしの個人的なレディネスにたいして,森元さんのお話は,じつに刺激的であり,むしろ挑発的ですらありました。そこまで踏み込むか,と驚くと同時に,そこまで踏み込まないかぎりルジャンドルの思考をたどることはできないのだ,ということもわかってきました。法制史の専門家であるルジャンドルが「ドグマ人類学」を標榜し,精神分析学を法制史研究に取り込んで,まったく新たな「人間の学」の地平を切り拓こうとしている,ルジャンドルならではの「ダンス論」読解は,そこまで踏み込まなくてはならない不可欠な助走だったのだ,とわたしは大満足でした。

 わたしが聞き取ることのできた,ルジャンドルの「ダンス論」の「肝」に当たる部分は,以下のとおりです。

 「他者たらんとする情熱」・・・ここにルジャンドルのダンス論の源泉をくみ取ることができるのではないか。「他者たらんとする」とは,一つは,セックスのカップルとしての他者に成りきろうとする,という意味であり,もう一つは,わが内なる他者,すなわち,動物性に回帰したい,という意味。この二つは表裏一体のものと考えてよいだろう。言ってしまえば,人間は,セックスをとおして他者と「一つ」になりたい,つまりは,剥き出しの動物性に回帰したい,という二重の拘束を受けている,というわけである。

 しかも,この二つの行き着く先は「情熱」(passion)。この情熱=passion もまた二重・三重の意味を帯びている。日本語では,文字どおり「情熱」であるが,ルジャンドルが用いる passion にはいくつもの意味が織り込まれている。もともとは「苦しむこと」を意味し,キリストの「受難」であり,「(強い)感情」であり,「激情のほとばしり」である,と辞典の語釈にはある。ここを起点にして,まずは「情熱」を筆頭に,「激情」「熱中」「(男女間の)(激しい)愛情」「情欲」「キリストの受難」とつづく。

 つまり,passion とは,受け身の感情であり,その軛からは逃れられないもの,と考えられる。したがって,「他者たらんとする情熱」とは,「他者たらんとする止むに止まれぬ情熱」,あるいは「もう一人でありたい(セックスで交わりたい),止むに止まれぬ苦しみ」を含意している。これこそがルジャンドルの考える「ダンス」の中心にあるものだ,と。

 しかしながら,ダンスは「セックス(=動物性)の成立」を認めない。あるいは,「セックス」が成立したところで,それはダンスではなくなる。すなわち,人間性からの逸脱となる。このぎりぎりの瀬戸際で,ダンスは成立していることになる。

 ルジャンドルの説によれば,ダンスは「もっとも動物的な芸術」であり,「無内容性」にその特質があるという。だから,ダンスにあっては,セックスをどうするのか(あるいは,動物性をどうするのか)という問題がつねにつきまとう。したがって,この「動物性」を「調教」(dressage)する必要がでてくる。これが「制度」(institution)であり,「規範」(nome)である。

 この「制度」や「規範」のなかに隠された論理が「演出」(mise en scene)。なぜ,演出が必要なのか。それは動物性を排除・抑圧・隠蔽し,人間的生存を確保するため。すなわち,剥き出しの動物性を「禁止」(interdit)するための「演出」が,人間的生存の「基底」を確保するために不可欠となる。

 こうして,森元さんが提示されたテーマ「演出,あるいは人間的生存の基底」が明らかにされていきます。以上は,わたしが理解しえた範囲での,それも骨子を要約したにすぎません。もちろん,ことば足らずの説明になっていることは覚悟の上です。しかし,その核心部分のロジックは推測していただけるのではないかとおもいます。

 ここで論じられた森元さんの言説は,いずれ,『スポートロジイ』第4号に掲載する予定です。そこでは,森元さんのプレゼンテーションの全貌が明らかになります。それまで,いま,しばらく時間をください。

 以上,わたしの思考の整理まで。

2015年7月6日月曜日

スポーツの歴史を叙述するということについて。東ドイツを事例として(船井廣則)。

 1990年,東西ドイツが統合(Reichsgruendung )されたのち,東ドイツのスポーツの歴史をどのように叙述すべきか,という論争がつづいている。断るまでもなく,第二次大戦後,ドイツは東西の二つの国家として分断された。西ドイツは西側の資本主義や自由主義を標榜する国家と足並みを揃えて,戦後の再建に立ち上がる。一方,東ドイツはソ連を宗主国とする国家としてスタートを切る。つまり,マルキシズム(あるいは,史的唯物論)を旗印にした国家づくりである。言ってしまえば,イデオロギーを最優先する考え方が,あらゆる分野にわたって浸透していった。

 当然のことながら,東ドイツのスポーツは,ソ連を手本にした振興策が展開する。そして,スポーツ史を叙述する場合にもマルキシズムのもとでの理想的な共産主義社会建設をめざすことが大前提となった。だから,いかに厳密に史的唯物論の指標に立つ叙述がなされているかどうかが,評価の対象となった。他方,西ドイツはこれまでどおりの資本主義社会を前提とする自由競争の原理を是とするスポーツ史の叙述が展開された。そして,それぞれの国家がお互いに切磋琢磨して,スポーツ競技の世界でも,スポーツ史叙述の分野でも,激しい議論が展開されてきた。

 この両国が統合されて一つの国家となった(1990年)。当然のことながら,さまざまな分野で軋轢が生ずることになった。その一つが,スポーツ史の分野での「叙述」をめぐる論争である。つまり,史的唯物論をいかに超克して,ドイツ・スポーツ史を叙述するか,という問題である。

 この重い問題をテーマにして,船井廣則さんが定年退職を機に,長年の研究成果のエキスを注ぎ込む気合の入った研究発表をした。(日時:6月27日(土)午後2時より。場所:神戸市外国語大学。主催:「ISC・21」6月神戸例会)。補足をしておけば,2年前のスポーツ史学会大会シンポジウム(東洋大学)のシンポジストとしても登壇し,同じ問題を取りあつかった詳細な問題提起をしている。さらに,それをもとにした論考を『スポートロジイ』第3号にも寄稿している。今回は,この論考についての合評会という形式をとったものである。

 詳しいことは,当日の船井さんの発表抄録にゆずることにして,ここでは,その核心部分と,そこから派生してくる重大な諸問題について触れておきたいとおもう。それはわたしたちスポーツ史研究に携わっている者全員が背負わされた十字架のようなものでもある。

 核心部分とは,史的唯物論というイデオロギーはもとより,政治性や社会性にいたるまで,すべて排除して,スポーツを純粋なる「文化」として叙述すべきだ,という主張に対して,それはあまりにもやりすぎだろうという立場の論争である。旧東西ドイツの当事者にとっては大問題であることは間違いないのだが,遠く日本という立場から考えてみると,不思議な議論をいまも大まじめにやっているんだなぁ,と感心してしまう。しかも,「文化」という概念をそんな風に用いてしまっていいものかどうかももあやしいのに・・・。

 とはいえ,この問題は他山の火事ではすまされない。つまり,東西ドイツ統合という「大事件」が引き起こした必然の結果でもあるということを重視すれば,これと同様の,あるいは,もっと大きな問題が,わたしたちにも迫ってきているからである。しかも,それがたいした論争にもならないことの方が大問題かもしれない。

 たとえば,「9・11」という大事件が起きた。これはそれまでの世界秩序を根底からひっくり返すほどの,世界史のターニング・ポイントともなるべき大事件であった。つまり,それ以前と以後とでは,世界というものを考える認識の大前提を大きく揺るがすことになった。歴史家はいちはやくこの問題に対応すべきなのに,黙して語ろうとはしなかった。管見ながら,西谷修さんがいちはやく『世界史の臨界』(岩波書店)を投じて,歴史家たちの反論を待ったが,やはり沈黙のままだった。

 この西谷さんの問題提起を受けて,わたしたちの「ISC・21」月例研究会では,しばしば議論を積み重ね,それぞれの研究テーマに則して,再度,スポーツ史とどのように取組み,いかに叙述すべきかを模索してきている。たとえば,「グローバリゼーション」という世界的趨勢がスポーツ(文化)にいかなる変容を余儀なくしつつあるのか,については何年にもわたって,いまもなお継続して取り組んでいる。

 もう一つの問題は,「3・11」という未曾有の事態に対して,わたしたちのスポーツ史叙述はこれまでどおりでいいのか,という議論である。すでに,わたしたちは遠い未来にあるべきはずであった「破局」を迎えてしまった,という認識に立つJ.P.デュピュイの警告の書『ツナミの小形而上学』(嶋崎正樹訳,岩波書店,2011)を手にしている。その他にも,『経済の未来──世界をその幻惑から解くために』(森元庸介訳,以文社,2013年),『聖なるものの刻印──科学的合理性はなぜ盲目なのか』(西谷修,森元庸介,渡名喜庸哲訳,2014年)がある。そして,それらの訳者のひとりである西谷修さんもJ.P. デュピュイに鋭く反応して,この「破局」をいかにして「先送り」するか,その手立てについて多くの論考を明らかにしている。

 東西ドイツ統合によるイデオロギー論争とは違って,「9・11」も「3・11」もそのよってきたる原因を考えると,気の遠くなるような深刻な問題を内包している。それというのも,ざっくり言ってしまえば,資本主義経済やそれを支える自由競争の原理そのものがすでに「破綻」をきたしているにもかかわらず,それを隠蔽し,現体制を維持しようとする,いわば,国際社会を支配する主要国(G7,など)が居座っているからである。その結果,貧富の格差はますます拡大し,「3・11」のようなどうにもならない「破局」を迎えているにもかかわらず,旧態依然たる秩序体制を維持しようとやっきになっている。

 この問題は,あえて指摘しておけば,近代スポーツ競技の論理とまったく同根であり,その事象そのものが二重写しになっている。スポーツは善なるものだという神話を信じて疑わない人が圧倒的多数であって,このことに気づいて警鐘を鳴らす人はまだ希少である。しかし,近代スポーツ競技がすでに「臨界点」に達していることはだれの眼にも明らがだ。にもかかわらず,その発想から離脱し,移動し,新たな地平に立ち向かおうとする主張もまだまだ希少である。

 当然のことながら,スポーツ史研究の分野でも,真っ正面からこの問題を論ずる者は現れていない。わたしたちの「ISC・21」の研究会は,その希少な事例の一つなのだ。

 このような連関のなかに位置づくものとして,わたしは船井廣則さんのこの間のプレゼンテーションを受け止めている。だから,その意味できわめてセンセーショナルな問題提起だったのだ。そして,わたし自身に突きつけられた宿題も大きくて重い。が,それを避けてとおるわけにはいかないのだ。これを契機にして,これからも折あるごとに,この問題は議論していきたいとおもう。

 本来ならば,東京五輪2020を目前に控えて,こうした議論が熱く語られるべきだと考えているが,そうはならない。そこに,日本国の大きな病根が宿っている,とわたしは考えている。が,この問題はまた別のテーマを立てて論ずることにしよう。

 ということで,今日のところはここまで。

2015年3月29日日曜日

「ポストグローバル社会」のスポーツ文化を考える,とはどういうことなのか。

 昨日(3月28日),「ISC・21」3月大阪例会が大阪学院大学で開催され,とても刺激的な議論があって,考えることが多かった。こういう時間が過ごせることは幸せである。

 議論の焦点になったのは,「ポストグローバル社会」のスポーツ文化を考える,というときの「ポストグローバル社会」をどのように考えるか,ということだった。「ボストグローバル社会」ということば自体は,よくみかけるのでなんとなくわかったような気分でいる。しかし,いざ,わたしたちの研究会が議論してきている「スポーツ文化」が,「ポストグローバル社会」にはどうなっているのか考えよ,と言われると困ってしまう。

 なぜなら,「ポストグローバル社会」とは,と問われたとき,相手がどんな社会のことを想定しているのか,わたしには定かではないからである。たとえば,わたしの頭の中には,いくつものイメージが駆けめぐる。

 一つは,グローバリゼーションが徹底的に浸透して行って,あらゆるものがグローバル・スタンダードによって統一された結果として出現する社会,というイメージである。この社会は,いま,まさに進行中の「グローバリゼーション」が,このまま一直線に進展していった結果として誕生する社会,ということになるだろう。しかしながら,そこに浮かび上がってくる「社会」というものが,どんなものになるのか,わたしにはイメージしにくい点が多々ある。たとえば,キリスト教,資本主義,形而上学,などが支配秩序となる社会とはどんな社会なのか。残念ながら,わたしには殺風景な砂漠化した社会しか,イメージとしては浮かばないのだが・・・・。つまり,ジャン=ピエール・デュピュイのいう「破局」を迎えるしかない・・・・と。

 もう一つは,いま進行中のグローバリゼーションは,かならず行き詰まる,破綻をきたす,だから,グローバリゼーションにとって代わるものの見方・考え方・世界観・思想・哲学・宗教が誕生し,まったく別の価値観に支えられた社会が誕生する,というイメージである。しかも,たぶん,そうなるだろうと多くの人が想定している社会といっていいだろう。しかしながら,これもまた,きわめて抽象的なイメージでしかない。具体的に,なにが,どのようになるのか,その手がかりすら現段階では不明である。ましてや,そういう社会での「スポーツ文化」がどのようなものになるのか,イメージすることはきわめてむつかしい。

 さらには,J.P.デュピュイの「破局」論に立つとすれば,いま,ここの,目の前にてきしまった「破局」をいかにして先のばしにして遅らせるのか,そして,できることなら,その「破局」をうまい具合にクリアしていくのか,そのための思考を練り上げ,実践された結果として誕生する社会,というイメージである。たぶん,このようにして生まれる社会が,もっとも現実的であるようにおもう。では,どのようにしてそのような社会は可能となるのか。これが問題である。その中核をなすポイントは「聖なるもの」だ。この「聖なるもの」をいかにして止揚していくのか,これもまたとてもむつかしい問題をはらんでいる。このことは,同時に,「スポーツ文化」の「聖なるもの」をいかに止揚するか,という問題でもある。

 こんな風に,「ポストグローバル社会」のイメージは,さまざまに分散していってしまう。

 したがって,わたしたちの研究会では,この「ポストグローバル社会」をどのようにイメージし,共有していくのか,という問題についてさらなる議論の積み上げが必要となる。今回は,その第一回目の議論としてとても貴重だったようにおもう。もう少し継続して議論を積み上げていくことによって,問題の所在も整理され,理解も深まるのではないか,と楽しみである。

2015年1月26日月曜日

ダブル・ダッチ。競技化の壁=人間の<事物化>,とどのように折り合いをつけるか。

 1月24日(土)に開催されたISC21・1月奈良例会で,思いがけない収穫がありました。若い院生さんが,ダブル・ダッチの競技化をめぐる問題について,研究発表をしてくれたお蔭です。

 その要旨は,以下のとおりです。ダブル・ダッチはもともと遊びでした。それがいつしか競い合うようになりました。そして,ついには競技化することになって,近代スポーツ競技の仲間入りをはたそうとしています。しかし,そのためには,だれもが納得するきちんとしたルールが必要になります。そこで問題になるのが,ダブル・ダッチのパフォーマンスの優劣を決める基準づくりと,その採点方法です。

 現段階では,二つの競技の方法が模索されています。一つは「技の得点を競う大会」,もう一つは「パフォーマンスを競う大会です。前者は「規定演技+スピード+フリースタイル」の合計点,後者は「技術力・構成力・表現力・完成度・オリジナリティー」の5項目を採点した合計点,という違いがあります。

 共通する問題点は,演技を採点する,つまり,点数化することによって,ダブル・ダッチがもともと持っていた「遊び」の楽しさがそぎ落とされてしまい,形骸化していく傾向があること,採点基準の根拠があいまいなこと,観客の印象(できばえ,採点)と審査員の点数との間にギャップがあること,などです。

 この発表を聞いていて,わたしもまたいろいろと考えることがありました。とてもいい勉強をさせてもらったとおもっています。その要点を記しておきますと,以下のとおりです。

 この問題は,体操競技やフィギュア・スケート,新体操や太極拳などと同じで,いわゆる採点競技に共通する問題です。そして,その問題の中核をなしているのは,「人間の<事物化>」という「思想・哲学」上の問題だ,ということです。その概要は以下のとおりです。

 遊びを点数化することはできるのか。あるいは,遊びのパフォーマンスを点数化することはできるのか。あるいはまた,技術や表現を点数化することはできるのか。結論をさきに言っておけば,それは不可能です。しかし,遊びであったダブル・ダッチを競技化し,その優劣を決するということになれば,それを無理矢理「できる」ことにしなければなりません。ここに大きな「飛躍」があります。では,その「飛躍」とはなにか。

 採点競技の最大の難点は,採点の基準を「ことば」で表現しなければならない,ということにあります。つまり,だれもが納得できる「ルール」は,まずは,「ことば」で表記しなければなりません。「ことば」で表記するということは,だれの眼にもみえていることだけに限定されてしまいます。つまり,言語化し,それを点数化する,という篩にかけることによって,ダブル・ダッチのもつ魅力の多くの要素が抜け落ちてしまいます。そこに立ち現れるものは,ダブル・ダッチの形骸化したものだけ,ということになります。

 つまり,客観化できる要素だけが残って,客観化できない要素は点数化の対象にはならない,ということです。すなわち,楽しさや心地よさといった主観的な要素は,すべて点数化の対象からは外れてしまう,ということです。

 このことはなにを意味しているのでしょうか。結論から言っておきますと,それは「人間の<事物化>」です。生身の人間を<事物>としてとらえることになる,ということです。すなわち<モノ化>です。

 もう一歩踏み込んでおきましょう。それは「人間の生の否定」です。「生きもの」としての人間の存在を否定するということです。

 「人間が生きる」ということを擁護する,これが<善>だとすれば(西田幾多郎),競技の点数化は<善>に反する行為だということになります。

 しかし,ダブル・ダッチの競技化には点数化は不可欠です。このとき,数量的合理主義の考え方は採点基準を定めたり,点数化する上でとても役に立ちます。多くの人びとを説得し,認識を共有する上では,大いに威力を発揮します。つまり,「有用性」が高いということです。しかし,この「有用性」には<限界>がある(バタイユ),ということを忘れてはなりません。つまり,一定の歯止めが必要だということです。

 ということは,数量的合理主義の考え方をどこまで取り入れて,客観的に数量化(点数化)できない主観的な要素をどの程度まで残すか,この両者のバランスをとること,つまり<折り合い>をつけることが大事な課題である,ということになるでしょう。

 ダブル・ダッチの競技化の壁=人間の<事物化>。この壁とどのように折り合いをつけるか,すなわち<絶対矛盾的自己同一>をはたすか。いま,ダブル・ダッチが問われている問題の核心はここにある,と言っていいでしょう。

2014年12月8日月曜日

雪の富山大学で開催されたスポーツ史学会第28回大会から戻りました。

 12月8日(月)の今日の川崎は快晴無風の上天気。12月8日,と書いてから,アッと気付く。そうか,1941年,日本がハワイの真珠湾に攻撃を加え,無謀な戦争に突入していった日。それから4年足らずの間に,前途有望な若者たちの命が,無念のうちに犠牲になった。

 雲ひとつない紺碧の空をじっと眺めていると,まるで時間が止まっているようにみえる。選挙戦真っ只中の世間の喧騒を忘れ,遠い過去の記憶の中を,まるで宇宙遊泳をしているような錯覚を覚えながら,駆けめぐっている。ただし,いい記憶はひとつもない。ここに書くことさえはばかられる無惨な記憶ばかりだ。

 そんな戦争に,ふたたび足を踏み入れようとする政権党が,優位な選挙戦を戦っているとメディアが騒ぐ。このメディアもまた政権党に「脅されて」,せっせと政権党圧勝を報じている。とうとう,政権党はメディアにまでプレッシャーをかけて,選挙を操作しようとしている。こんな出鱈目な選挙があっていいのか,と空恐ろしくなる。これは政権党による明白なる犯罪ではないのか。そのことさえ,メディアは弾劾することができない。ジャーナリズムの「死」。世も末である。

 あっ,いけない。いきなり躓いてしまった。本題にもどそう。

 12月6日(土)・7日(日)の二日間にわたって開催されたスポーツ史学会第28回大会からもどってきた。ことしの会場は富山大学。寒波の襲来と重なり,間断なく雪が降りつづく。スポーツ史学会としては初めての雪国での開催となった。たまにはいい。スキーをやらなくなってから,雪国とは縁がなくなっていた。久しぶりの雪国を経験。

 さて,そのスポーツ史学会もことしで第28回となる。思い起こせば,わたしが40代の後半にさしかかったころから,新たにスポーツ史学を設立したいという夢を描くようになっていた。当時は,日本体育学会体育史専門分科会が研究発表の唯一の場であった。しかし,その体育史研究の限界をひしひしと感じていたわたしは同志たちに声をかけ,「体育史」という呪縛から解き放たれた,新たなスポーツ史学会の設立を説いていた。

 その夢がかなって,はや,28年の歳月が流れたことになる。スポーツ史学会,生みの親のひとりとして感慨無量である。そのときの同志たちも,それぞれの道に邁進し,いつしかわたしひとりが残った。それでも熱心な後継者たちに支えられて,スポーツ史学会は健在である。

 ここ数年の間に,スポーツ史学会もかなり様変わりをしてきた。とりわけ,若手の研究者が続々と育っていて,その人たちの研究発表が多くなってきた。心強いばかりである。しかし,その現実は,ひとつには,制度的な事情があっての現象でもある。なぜなら,近年になって大学院の博士過程が体育・スポーツ系大学に急増したからだ。その結果,院生たちが博士論文を提出する前提条件として,学会発表をし,学会誌に論文を掲載されることが求められるようになった。だから,博士後期過程の院生たちが,こぞって研究発表をするようになってきた。

 当然のことながら,研究のレベルでいえば,初心者が増えてくる。したがって,まだまだ稚拙な研究発表が,ときとして出現する。それをいい歳をした研究者が,真っ向から叩き潰すような発言も目立つ。そこには若い研究者を育てようという優しさがみられない。学会という場は,年齢に関係なく,ひとりの研究者として対等の立場に立つことが前提だ。だから,ダメなものはダメと言ってもいい。しかし,言い方が大事だ。自分もまた,かつてはそういう修羅場をかいくぐってきた過去があることを思い出してほしい。どこかに、若いころにやられたからやり返す,というなんとも貧しい心根がちらつく。少なくとも,歴史研究者のとるべき態度・姿勢ではない。過去を学び,その反省に立つ研究が求められているのだから。

 学会で重要なことは,これぞと思われる研究者の発見であり,出会いである。そういう研究に出会ったら,即座に別室の休憩室に呼び出して,個別の意見の交換をすることだ。そこから,限られた発表時間のなかでは語られなかった,もっと突っ込んだ議論に入っていくことができる。ことしも,何人かの人に声をかけて,話をさせてもらった。また,逆に声をかけられて,ずいぶん長い時間,話し込みもした。じつは,こういう時間を過ごすことが学会のいいところだ。

 来年は,群馬大学が当番校となって,第29回大会が開催される。スポーツ史学会の研究も,わたしの個人的な感想をいえば,ほとんどマンネリ化してしまっていて新鮮味に欠ける。分けても,新しい思想・哲学に支えられたスポーツ史研究という点では,情けないことに皆無と言ってよい。いつまでも旧態依然たる「資料実証主義」という近代アカデミズムの殻の中に閉じこもって安穏としているのではなく,そこから抜け出すような,ある種の冒険的な研究発表というものがそろそろでてきてほしいものだ。もっとも,そのきざしがないわけではないが・・・。

 再来年には第30回大会が待っている。このときには,なにか,特別企画を立てて,スポーツ史学会の新たな第一歩を踏み出す契機になることが期待される。わたしもまた,いくつかのアイディアを新しい理事会に向けて提案してみたいと思っている。

 以上,学会からもどって,今日のこの青空を眺めながらの,感想と反省まで。

2014年7月21日月曜日

J-P・デュピュイによるサッカーW杯ブラジル大会についてのコメント(森元庸介・談)。

 19日の「ISC・21」7月東京例会・第二部の最後のところで,ちょっと意表をつく面白い話題が展開しました。それはJ-P・デュピュイの人柄についての話題でした。そのきっかけをつくったのは,西谷さんと高校時代からの友人であるFさんでした。

 Fさんは,西谷さんのお話を聞いて,J-P・デュピュイについての疑問の多くは氷解したので,とてもありがたかった,と述べた上で,J-P・デュピュイとはどんなお人柄なのか,それを知りたいと注文を出しました。わたしとしては,あっ,そうか,と納得はしましたが,いささか意表を突かれた思いでした。つまり,とてもいい問いだ,という意味です。それを受けて西谷さんは,とてもフランクで,偉ぶるところがなく,気さくに話ができる人で,わたしとしては多くの点でシンパシイを感ずる,とてもいい人だと思っています,と応答。そして,フランスには大御所と呼ばれている著名な学者がたくさんいますが,そのほとんどの人たちがそれなりに偉ぶった態度をとっているが,J-P・デュピュイはそれらの人たちとはまったく違う種類の,ごく普通の人間です,と。しかも,ざっくばらんです。ですから,むかしからの顔なじみであるかのように,初対面から親しげに会話のできる人です,と。しかし,こと研究に関してはとても繊細な一種独特の感覚をもっていて,きわめて厳格な真理の探求者です,と応答。

 つづけて,訳者のお一人である渡名喜庸哲さんは,J-P・デュピュイさんが日本に来られたときに,行動を共にしたときのお話をしてくださいました。たとえば,大きなトランクを持ちましょうというと,いや,大丈夫だ,と言って自分で運んでいたこと,寿司が大好きで,それもスーパーで売っている寿司を「とても美味しい」と言って喜んで食べていたこと,というエピソードを語ってくださいました。

 最後に,同じ訳者のお一人である森元さんが,ちょっと話題からずれるかもしれませんが,と前置きして,つぎのような話題を提供してくださいました。それは,デュピュイがフランスの新聞「ル・モンド」に書いたサッカーW杯ブラジル大会に関する記事の話でした。デュピュイの奥さんはブラジルの人ですので,フランスとブラジルの間をしばしば往来していて,ブラジルのサッカーについても熟知しているのだそうです。ですから,フランスのメディアや知識人たちが,ブラジル人はW杯に金を使うよりも教育や医療に金をまわせ,という主張が根強くあると物知り顔でいうが,そんなプロパガンダに乗せられている愚かさを「ちゃんちゃら可笑しい」と痛烈に批判している,と。ブラジル人にとってのサッカーはフランス人のような趣味的な娯楽といったレベルの問題ではなく,サッカーは日々の生活を活性化させる生きがいなのだ,そのことが少しもわかっていない,と。さらに,ブラジルは治安が悪く,殺人事件も多い,とメディアが報じているが,これも大きな間違いだ,という。そして,殺人事件のほとんどは名誉や愛情のもつれから起きているのであって,それはむしろ称賛すべきことだ,と書いている,とのことです。しかも,こんな悪しきプロパガンダがさも当然であるかのごとく出回っていること自体が問題だ,とも。こんなところにも,デュピュイの面目躍如たるものがみてとれる,と森元さんは仰る。

 そういえば,日本のメディアも識者も同じようなプロパガンダを垂れ流しています。ですから,わたしも恥ずかしながら,ブラジルは治安が悪く,W杯開催よりも教育・医療に金を使うべきだ,という情報を信じていました。ですから,森元さんのお話をうかがって,びっくりでした。これからはもっと慎重であらねば・・・と深く反省させられました。

 これらのお話は,デュピュイ理解のためには,とても重要なお話だと思いました。これで,デュピュイという人物がテクストから受ける謹厳実直な学者さんという印象と同時に,日常生活のレベルではとても身近に感じられる,親しささえが感じられるようになりました。その意味で,Fさんの問いはクリーン・ヒットだった,と感謝しています。

 こんなことを知った上で,もう一度,テクストを読んでみたら,また,違った発見があるのではないかと楽しみになってきました。

 以上,もうひとつのJ-P・デュピュイの顔についてのご報告まで。

2014年7月20日日曜日

「人間は生殖によって継起する生き物だ」「西洋形而上学はその観点を排除している」。西谷修講演に感動の涙。

 昨日(19日),かねてから準備を進めてきました「ISC・21」7月東京例会を予定どおり開催。感動のうちに無事,終了しました。とりわけ,第二部に用意しましたプログラム「J-P・デュピュイ『聖なるものの刻印』をどう読むか」(西谷修)は予想をはるかに超える感動的な内容でした。わたしは思わず涙が出そうになってしまいました。

 それは長い間,わたしのなかにふつふつと沸き上がっていた大きな疑問が一気に解消されたからです。それは,なぜ,西洋の哲学は,人間存在の様態について半分しか思考の対象にしてこなかったのか,という疑問です。つまり,ヘーゲルに代表されるように人間の「精神現象」にのみ光を当てることに熱心で,なぜ,その光の影の部分に相当する人間の「動物性(=生殖を営む生き物)」をめぐる問題系を排除してきたのか,という疑問です。

 もう少しだけ踏み込んでおきますと,わたし自身の思想遍歴がその背景にはあります。わたしを思想・哲学の領域に導いてくださったのは西谷修さんでした。西谷さんが若いころから取り組んでこられたフランス現代思想の翻訳(レヴィナス,バタイユ,ナンシー,など)や著作(たとえば『不死のワンダーランド』など)にぐいぐいと引きつけられ,夢中になって読み耽りました。とりわけ,西谷さんの多くのお仕事のなかでは,バタイユの思想・哲学がわたしにはもっとも親近感を覚えるものでした。

 そして,ひととおりバタイユの著作に没頭して読みふけった時代がありました。なかでも,もっとも衝撃的だったのは小説『眼球たん』でした。そこには理性によるコントロールから解き放たれた人間の自由奔放な「生」(「性」も)が剥き出しに描き出されていたからです。そして,なぜ,バタイユはこのような小説を,まだ若いときに書いたのだろうか,と考えました。

 そして,当然のごとく『エロチシズム』や『エロチシズムの歴史』といった著作を,丹念に読むことになりました。そうして徐々に,なぜ,バタイユが『眼球たん』を書いたのか,その理由がみえてきました。そして,さらには,『有用性の限界 呪われた部分』で,その根拠となる思想的背景がみえてきました。最終的に,わたしなりに納得したのは『宗教の理論』でした。つまり,動物性の世界から人間性の世界へと<横滑り>して,徐々に,人間としての生き方を模索していく,その過程で人間は「宗教的なるもの」を思い描き,みずからを納得させる文化装置を考案していきます。そして,その過程で,動物性は徐々に封じこめられ,エロスの世界は次第に秘め事へと移行していきます。この流れがそのまま哲学にも引き継がれ,西洋形而上学となってこんにちに至る,というのがわたしの理解であったわけです。

 ですから,これでは片手落ちではないか,と。人間の存在様態について,存在論も認識論も,その半分しか思考の対象にしてこなかったのはなぜなのか,と。

 このわたしの長年の疑問に,西谷さんはデュピュイ読解をとおして,もののみごとに応答してくださいました。それも,この講演の最後のクライマックスをなす,もっとも重要な結論として,西谷さんは声高らかに宣言されたのです。それがこのブログの見出しに書いたことがらです。もう一度,繰り返します。すなわち,「人間は生殖によって継起する生き物だ」「西洋形而上学はその観点を排除している」,と。そして,その理由について,西洋形而上学を俎上に乗せ,わかりやすく丁寧に説明をしてくださいました。

 その典型が,ヘーゲルの哲学である,と。ヘーゲルの哲学は合理性の哲学(内在の哲学)であり,それ以外のものはすべて闇のなかに封じ込めてしまったのだ,と。このヘーゲル哲学が近代合理主義を正当化し,のみならず科学的合理性こそが唯一絶対に正しいのだとする神話を生みだしたのだ,と。したがって,「人間は生殖によって継起する生き物だ」という認識が,科学的合理性からはすっぽりと抜け落ちてしまい,盲目のまま暴走している,この盲目的暴走がこんにちの悲劇や破局を生みだしているのだ,と。

 こうして,西谷さんのお話が,最後の佳境に入ったとき,わたしはバタイユのことを思い浮かべ,涙があふれそうになったという次第です。その理由は,ヘーゲル哲学の限界をいちはやく予見したバタイユは,徹底的にヘーゲル哲学を研究し,分析し,その限界を見極めた上で,ヘーゲル的「知」(絶対知)に対して,その対極に位置する「非-知」という概念を立ち上げ,そこからすべての議論を開始します。かくしてバタイユの一連の著作集(無神学大全・未完)が誕生するというわけです。『宗教の理論』はその集大成ともいうべき作品だと,わたしは考えています。

 そうか,バタイユの思想・哲学のほんとうの評価は,まだまだこれからさきのことだ,と直感したこと,そして,これまで苦労してバタイユと格闘してきたことが無意味ではなかった,と知った瞬間です。わたしが涙しそうになったのは。

 7月19日は,わたしの生涯にとって,大事なメモリアル・デーとなりました。
 その意味で,西谷さんには感謝の気持でいっぱいです。ありがとうございました。

 これで,もやもやが吹っ切れて,いよいよ「スポーツ批評」の世界に一歩踏み出すことができる,と確信しました。あとは実行あるのみです。

 西谷さんはこの講演のなかで,生涯現役を宣言されました。その西谷さんは,わたしに対してはそろそろ「幕引き」のことを考えなくてはいけない,と迫っています。いえいえ,わたしもまた生涯現役を貫きたいと念じている者の一人です。もうしばらくの間,見守っていてくださるようお願いします。ということも含めて,いやはや大変な一日となりました。ありがたいことです。これでまた一皮剥けて,別人に生まれ変わったような気分です。

 これでますます元気になっていくぞ,と気分をよくしています。そうなることを願いつつ・・・,今日のブログを閉じたいと思います。

2014年5月19日月曜日

「ISC・21」5月大阪例会(通算82回目),無事に終了。

 表記の研究会(世話人・松本芳明)が5月17日(土)の午後に,大阪学院大学を会場にして開催され,無事に終了しました。通算82回目の研究会でした。数えてみてびっくりです。よくつづいているなぁ,とわれながら感心。でも,いつのまにか淘汰されて参加する人数は減少。でも,その代わり参加される人はみんなとても熱心。白熱した議論で盛り上がります。

 とくに盛り上がった議論のいくつかを紹介しておきますと,以下のとおりです。

 まずは,学会誌に論文を投稿する段階で,ドイツ語の訳語をどのようにすればいいか,という問題がSさんから提起されました。ひとつは,Eigenwesen.もうひとつは,Kunstbewegung.いずれも直訳では日本語として意味をなしません。そこで,ドイツ語の意味内容にできるだけ近い日本語を,ある程度,意訳して当てはめていくしかありません。

 まずは,Eigenwesen.訳本によれば「固有性情」と訳されているのですが,これではなんのことか意味が不明になってしまいます。むしろ,直訳して「固有の本質」,あるいは,「個々の本質」,または,本質のところを「存在」に置き換えてみる方がなんとなく意味がみえてきます。しかし,それでもまだしっくりはしません。ですから,もう少し意訳して,ぴったりの訳語を探さなくてはなりません。いろいろ議論してみましたが,結論には達せず。

 もうひとつのKunstbewegungもまた同様でした。直訳すれば「芸術運動」となってしまい,これでは思想運動になってしまいます。体操運動の訳語としては不適切です。芸術に代わる訳語としては「技術」「技芸」などがありますが,いずれもぴったりきません。こちらも結論には達せず。

 しかし,いま,少し気持の落ち着いたところで考えてみますと,以下のように考えるといいのではないかと思います。

 Eigenwesenは,運動をする存在ということを前提に考えてみますと,「生きもの」そのものを意味していることがわかってきます。となりますと,「個々の生きもの」というイメージが湧いてきます。しかも,生きもののうちでも,植物ではなくて動物であることもわかってきます。となれば,「個々の動物」くらいの意訳も可能となってきます。

 もうひとつのKunstbewegungは,その対立語がNaturbewegung(自然運動)だということですので,それを強くイメージして訳語を考えてみればいいように思います。自然運動は,あらゆる動物が生まれながらにしてからだを動かすことのできる運動の総称だとすれば,Kunstbewegungは,Naturbewegungをベースにした,人間だけに可能な創意工夫した運動のことではないか,ということがわかってきます。だとすれば,Kunstbewegungは「創意工夫運動」,あるいは「創造運動」という訳語が可能ではないかと思います。

 このあと,わたしのプレゼンテーションがありました。題して「歴史の天使」と「クンスト」(Kunst)について。(内容は省略)。

 最後に,『聖なるものの刻印』(ジャン=ピエール・デュピュイ著,西谷修,森元庸介,渡名喜庸哲訳,以文社)の読書会。こちらは時間切れになってしまいましたので,次回(6月神戸例会)に引きつづき行うことになりました。

 以上。時間切れ。未完成。
 

2014年4月1日火曜日

カントの「クンスト」Kunst について。技,芸術,技芸,巧みさ,こつ,など。答えのない問い。「とりあえず」の応答。

 29日に開催された「今福龍太氏を囲む会」(「ISC・21」3月東京例会)で一貫して流れていたテーマのひとつに「クンスト」Kunst がある。


 この日のテクストとなった『映像の歴史哲学』のなかでは,つぎのように語られています。
 「・・・・人間を構成しているのは,大変な思想であったり,芸術であったりするよりもまず日常生活なのです。日常生活こそが人間の文化をつくりあげているひとつの技なのです。カントはこれを「クンスト」Kunst と呼んでいます。「クンスト」というのは技とも読めるし,芸術とも言えます。この「クンスト」を守り抜けるかどうかが,この戦争化した世界のなかでなによりも大切なのです」(P.191.多木浩二)。


 第一部の情報交換の場でも,Kunst が議論の対象となった。1920年代のドイツの体操改革運動の研究者であるSさんから,kuenstlerisch というドイツ語にどのような訳語を当てるかを考えていたら,『映像の歴史哲学』のなかにカントのKunst の話がでてきて,大きなヒントをもらった,という話題が提供された。Sさんの仰るには,Kunst の派生語である kuenstlerisch という形容詞は「芸術的な」という語釈と同時に「人為的な」という語釈が辞典に載っているので,つねに,この二つの語釈の間でこころは揺れ動いてしまう,といいます。たしかに,この二つの語釈はまったく逆の意味になっているので,訳語を間違えるととんでもないことになってしまいます。


 なぜ,迷ってしまうのかというと,Gymnastik 体操の練習プログラムのなかに,Vorschule という学習形態が組み込まれているのだが,それを kuenstlerisch に行うことが重要だ,と書いてあるからだ。で,まずは Vorschule の訳語をどうするかが問題となり,つづいて kuenstlerisch をどう解釈するかが問題となる,と。
 つまり,Vorschule を仮に「就学前の予備学習」と訳すとすれば,ではそれを kuenstlerisch (芸術的に,あるいは,人為的に)に行うとはどういうことなのか,という問題になる。


 したがって,この問題は,最終的にドイツ語の Kunst ということばをどのように解釈するか,というところに突き当たってしまう。
 わたしも若いころ,Gymnastik や Turnen に関するドイツ語文献を読んでいるときに,しばしば考え込んでしまったのが,この Kunst と kuenstlerisch ということばにどのような日本語を充てればいいのか,という問題だった。つまり,辞典の語釈だけでは対応できないのである。そこで苦肉の策として,辞典的語釈に近い日本語を探し出してきて,一つひとつあてはめてみる。そうやってテクストの文脈にもっとも適している日本語を編み出すことをやっていた。
 しかし,ここにカントのいう Kunst という概念を持ち込むと,もっと広義の解釈が可能になってくる。つまり,日常生活を支える Kunst とはなにかを考えればいい。朝起きてふとんを畳む(いまの若い人はベッド・メーキングか),歯磨きをする,顔を洗う,から始まって日常生活を支える身体技法は限りなくある。それらがすべて Kunst である,とカントは言う。なぜなら,それらの身体技法は日々繰り返しているうちに,無駄な動作がはぶかれ,しだいに精度が高くなり,必要最小限の身体技法に到達する。これがカントのいう Kunst ということの意味なのだろう。
 だとすれば、1920年代の体操改革運動のなかで主張された Vorschule を kuenstlerisch に実施するということの意味も具体性を帯びてくる。たとえば,就学前の子どもたちに,歩いたり,走ったり,飛んだりする運動を指導するとき,近代合理主義的な考え方による「正しさ」の枠組みのなかにはめ込むのではなく(「鋳型化」するのではなく),子どもの気持(感情や意思)がそのまま表出するような歩き,走り,飛びを導き出すこと,それが kuenstlerisch の内実ではないか,とわたしは考える。そこが Kunst が立ち現れる「場」なのだ,と。
 この時代のドイツの Gymnastik は,音楽とダンスと体操が渾然一体となったもので,その境界線はほとんどなかったというのが現状である。もう少し踏み込んでおけば,音楽教育のためのリズム体操が考えられたり,ダンス教育のための基本運動としての Gymnastik が模索されたり,あるいは逆に,硬直化し鋳型化してしまった Gymnastik を解き放つために音楽(リズム)やダンス(表現)を取り込む,といった試みがさまざまに展開した時代だった。それらをくくるキー・ワードが Kunst であり,kuenstlerisch であった。
 このように考えてみると,多木浩二さんのいう言語以前のことばの立ち現れる「場」(それは「写真」や「映像」の「場」でもある)や,ベンヤミンのいう Aesthetik (美学)や Aesthetisch (美的なるもの)の対象となる「場」とも通底していることがわかってくる。そして,当然のことながら,シュールレアリズムの主張とも通底している。ついでに言っておけば,バタイユのいう「動物性」(『宗教の理論』)の問題ともつながり,レヴィ・ストロースのいう「蟻塚」にもつながっていく。
 「新しい天使」が,強風に煽られながらも,名残惜しそうに「瓦礫」や「屑」にじっと視線(まなざし)を向ける,クレーの象徴的な絵画(これこそ,子どものこころがそのまま表出したような,一切の装飾を排除した,素朴そのものの絵だ)に反応したベンヤミンの感性,これに反応する多木浩二さんは「歴史の天使」として「写真」「映像」の歴史哲学を展開する。こうした感性が,この体操改革運動を主導した人たちの思考のなかにも通底していたのだろうと,わたしは考える。
 かくして,再度,振り出しにもどって,Gymnastik にとって Kunst とはなにか,という問いが大きな意味をもちはじめる。同時に,Gymnastik にとって kuenstlerisch とはなにか,という根源的な問いが立ち上がってくる。
 というわけで,今回の議論はここまでにして,次回(4月犬山例会)にでも,原典のテクストを前にして,具体的な解釈を試みてみたいと思う。



2014年3月30日日曜日

「今福龍太氏を囲む会」(第81回「ISC・21」3月東京例会),盛況。濃密な時間。みなさん大満足。

 長い準備を経て,満を持して「今福龍太氏を囲む会」(第81回「ISC・21」3月東京例会)を開催しましたところ,いつもにも増して多くの方々が参加してくださり,とてもいい会となりました。会場をお借りした青山学院大学のキャンパスの桜もすでに八分咲き。「春宵一刻値千金」ということばが口をついてでてくるような,とてもいい雰囲気が漂い,密度の濃い時間を過ごすことができました。これも,ひとえに今福さんのお蔭です。今福さんの「多木浩二」さんに寄せる熱い思いが,わたしたちにもおのずから伝わり,それが隅々まで浸透した結果です。ウィーンでは「gemuetlich」(居心地がいい)ということばが最高の賛辞としてよく用いられます。そんな居心地のよさをみんなが共有しながら,今福さんの熱のこもったお話に集中して耳を傾けることができました。そういう場を醸しだしてくださった今福さんに感謝しつつ,参加されたみなさん全員にもお礼をいいたいと思います。上質の時間を共有することができ,ほんとうに,ありがとうございました。


 「ISC・21」(21世紀スポーツ文化研究所)の月例会では,1月に大阪で,2月に奈良で,それぞれ今回の「今福龍太氏を囲む会」のための事前のディスカッションを重ねてきました。それを前提にした今回の研究会でした。ですから,今回とりあげられたテクストについての予習は十分だったと思います。それだけに,今回の今福さんのお話は,なお一層,こころに沁みたことと思います。なぜなら,わたしたちの知らない「多木浩二」さんの秘話まで,今福さんは惜しげもなく披露されました。しかも,それらがすべて多木さんの思想・哲学の深いところまで触手が伸びていくような,今福さんでなくてはできないお話ばかりでした。


 この研究会に臨む今福さんの姿勢は,いつもにもまして迫力を感じました。それは,自作の映像をはじめ,A4に5枚ものレジュメを準備され(全部,ご自分でパソコンに入力),それらを満遍なく,丁寧にお話くださったからです。終了予定時間を予告しておきましたが,そんな時間などどこ吹く風とばかりに,多木浩二さんに寄せる思いのたけをわたしたちに投げかけてくださいました。お二人の関係がどれほど濃密なものであったのか,ということが皮膚をとおしてつたわってきました。ちょっとふつうではありえないような,奇跡的,あるいは特例としかいいようのない,天啓にも似た出会いと対話がお二人の間には存在していた,ということです。しかも,長い期間にわたって。それは単に住まいが近かったというだけの話ではありません。


 かつて,山口昌男さんの追悼集会のシンポジウムの折に,「わたしには学恩を受けた師と呼べる人が3人います。そのお一人が山口昌男さんでした」と今福さんが述べられたことがあります。そのとき,他のお二人の名前は仰られませんでした。あとお二人はどなたなのだろう,とそのとき考えました。そのときに,まっさきにわたしの脳裏に浮かんできた人の名は多木浩二さんでした。それが間違いではない,ということは今回のお話ではっきりしました。


 そういう思いで今回のテクストとなった『映像の歴史哲学』(多木浩二著,今福龍太編,みすず書房)を,もう一度読み返してみました。すると,このテクストは,今福さんがかなり入念に構想を練り,満を持して世に送り出した「多木浩二追悼本」である,ということがわかってきました。ですから,このテクストの細部にいたるまで,隅から隅まで,多木浩二理解のための仕掛けがほどこされています。それが,たとえば,エピグラフの「歴史の天使」(この詩文の美しさ,深さ,簡潔さ/完結さ,は驚嘆に値します)であり,脚注のつけ方(これもふつうの脚注ではありません。すべて,多木さんの著作からの引用で構成されています。それはベンヤミンの『パサージュ論』の発想を持ち込んだものと受け止めることも可能です),本文の間に挿入された「コメント」(これが多木浩二理解にどれほど役立っていることか),そして「後記」の最後に盛り込まれた逸話(わたしはこの部分を読んで涙しました),などがあります。


 今回の今福さんのお話は,いずれテープ起こしをして,編集の手を加え,『スポートロジイ』第4号(来年春刊行予定)に掲載する予定です。ご期待ください。


 それでは,今回はここまで。

2013年12月2日月曜日

第27回スポーツ史学会大会(東洋大学),盛況のうちに終わる。

 第27回スポーツ史学会大会が,11月30日(土)・12月1日(日)の二日間にわたり,東洋大学(朝霞キャンパス)で開催されました。参加者も例年よりも多く,若い研究者の質疑が盛んに展開され,これからが楽しみな会になってきたと思いました。言ってみれば,世代交代がはじまった,という印象でした。これはとてもいい傾向だと思いました。

 考えてみれば,スポーツ史学会を立ち上げるために研究者仲間の同志と情熱を傾けたのが,わたしが40歳代の終わりころのことでした。そのころのわたしはまだ若造の部類で,生意気盛りでした。ですから,大先輩たちを差し置いて,スポーツ史学会を立ち上げるなどということは暴挙にも等しい行為でした。しかし,恩師の岸野雄三先生のご尽力をいただき,なんとか軌道に乗せることができました。

 あれから,もうまもなく30年が経過しようとしています。大先輩たちの参加も年々減少し,ついにことしは,わたしより先輩の先生はたった一人になってしまいました。この先輩は80歳のはず。かく申すわたしも75歳をすぎました。しかも,わたしより若い人も激減していて,10歳ほど離れた人たちが,もはや長老クラスです。この人たちも定年退職とともに研究から離脱する人が多い前例からみると,あっという間に,もっと若返っていくことになりそうです。

 これは,ある意味では世代交代ですから,自然のなりゆきです。しかし,わたしより上の人たちに元気な人が多く,学会での質疑はこの人たちが牛耳っていました。その元気な人たちが,あっという間に激減してしまい,気がついたら,もはや65歳以下の人たちの会になっていたという次第です。その結果として,中堅どころの40歳代の人たちが元気に発言するようになりました。しかも,この人たちに触発されるようにして30歳代の人たちも立ち上がるようになりました。とてもいいことだと喜んでいるところです。

 しかし,世代交代だといって喜んでばかりはいられない側面も表れてきたように思います。それは,スポーツ史研究に取り組む姿勢にも,微妙な変化が表れてきている,と感じるからです。たとえば,研究内容の希薄化。問題意識の薄さ。先行研究批判の欠落。近代歴史学の手法への懐疑の欠落。もっと言ってしまえば,これまでのスポーツ史研究を超克しようという意欲の希薄化。つまり,これまでのスポーツ史研究を批判的に乗り越えていく,という自覚の欠落です。

 スポーツ史学会を立ち上げたときの,わたしたちを支えたパッションは,形骸化した体育史研究を批判し,それとは一線を画する新たな研究領域・方法・対象を切り開いていく,というものでした。ですから,熱く燃えていました。そして,そのつもりで意欲的に研究に踏み出しました。ですから,当初の,少なくともわたしのスポーツ史研究の主眼は,「いま,なぜ,スポーツ史研究なのか」を問い続け,その答えを導き出すことにありました。しかし,残念ながら,最近のスポーツ史研究は当初の問題意識が消滅しつつあるように思います。

 その根源にあるものはなにか。それは思想・哲学の不勉強につきる,とわたしは考えています。まずは,なによりも,「いま」を生きる人間としての危機意識が不足している,と。だから,研究テーマも内容も,薄っぺらなものになっていく傾向にある,と。

 たとえば,「特定秘密保護法」の案文の全文を読んだことがあるか,と会場でわたしに語りかけてきた会員の多くに問うてみました。残念ながら,読んだ,という人はほんの数人しかいませんでした。それも,必死になって考え,考えしながら,ノートをとりながら読んだという人は,たった一人でした。あとの人は,メディアの報道をとおして,なんとなく不安です,と答える程度でした。

 なかには,スポーツ史研究と「特定秘密保護法」案を熟読することとどのような関係があるのか,とまじめに聞いてきた会員もいました。その瞬間に唖然としてしまいました。が,まじめそうな会員には,できるだけ丁寧に説明をするよう努力しました。すると,何人かの若者は素直に理解してくれたように思いました。

 たとえば,「特定秘密保護法」が成立すると,権力にとって都合の悪い情報はすべて「特定秘密」に指定されてしまい秘匿されてしまうから,歴史は権力に都合のいいように,自由自在に改竄されてしまうことになる,という説明はすんなりとわかってくれました。そして,こんな法律がなくたって,これまでも,権力にとって都合のわるい情報はすべて秘匿されてきたのだ,そして,公開され・保存されてきた資料だけが資料実証主義歴史学(近代歴史学)を支えてきたのだ,だから,これまでの歴史の中核部分は改竄されたものでしかない,このことを忘れてはならない,と。これもわかってくれたように思いました。

 そして,もっと言ってしまえば・・・・,と言って日本の古代を語るときの基本となる「記紀」こそ,大和朝廷を正統化するための,改竄の歴史なのだという話をしました。その典型的な例は,聖徳太子の存在ですら,すでに,いまの教科書から消えている,と。この聖徳太子は存在しなかった,というような研究こそが,歴史研究の醍醐味なのだ,と。そういうスポーツ史研究のあり方を模索していくことが,これからの喫緊の課題なのだ,とも。

 まあ,最終的にどのように理解してくれたかどうかは心もとないかぎりではありますが,少しは「気付いて」くれたかなぁ,と期待しているところです。

 来年は,富山大学が当番大学として,第28回スポーツ史学会大会を準備・開催してくれることになりました。来年の日本がどんなことになっているのか,いまから不安だらけですが,また,若い研究者たちと歓談できることを楽しみにしたいと思っています。

 取り急ぎ,学会雑感まで。
 

2013年10月8日火曜日

「野見宿禰は河童である」と言えたら面白い。合評会報告・その2.

 今回の合評会には,できるだけ多くの編集者に集まってもらって,いろいろ論評してもらおうと考えていました。しかし,わたしの親しくしている編集者はみんな忙しい人ばかりで,なんとか都合をつけて参加します,と言ってくださっていた人たちも直近になって,急用ができて・・・とキャンセル。あわてて,いつものメンバーにコメンテーターを依頼するということがありました。

 そんな忙しい編集者のうち,伊藤雅昭さん(みやび出版)と関口秀紀さん(平凡社)のお二人が参加してくださいました。ありがたいことでした。

 まず,伊藤雅昭さんからは,『スポートロジイ』を編集・刊行した担当者という立場からご意見をいただきました。この仕事を依頼されたとき,いささか躊躇するものがあったけれども,年に一冊だというので引き受けた。ところが,予想以上にレベルが高いこと,内容が面白いことに驚きました,とおほめのことば。

 もう一人の編集者である関口秀紀さん(平凡社)には,少し踏み込んでコメントをしていただきたいとお願いをしておきました。そうしましたら,第2号のできが素晴らしいとほめてくださった上で,ご自分の興味・関心から,竹村匡弥さんの「野見宿禰と河童伝承に潜む修祓(しゅばつ)の思想」をとりあげ,いろいろと面白いコメントをしてくださいました。まずは,平凡社の百科事典に書かれている小松和彦さんの「河童」の項目を引き合いに出して,ここには書かれていない,もっと奥の深い河童研究の世界が広がっていて,とても興味深く読んだ,とのこと。その上で,河童をどのように定義するかによって,研究のスタンスも大きく変化するのではないか,という基本的なコメントがありました。さらに踏み込んで,やはり藤原不比等と橘三千代の関係をどのように解釈するかによって,それ以後に登場する河童のイメージがかなり鮮明になってくるのではないか,というご指摘がありました。

 こうした関口さんのご指摘に,竹村さんは一つずつ丁寧に受け答えをしながら,関口さんと竹村さんの間で,とても面白い意見のやりとりがありました。それらを全部,手際よく紹介できるといいのですが,ちょっとばかり自信がありません。そこで,このやりとりを聞きながら,わたしの脳裏を駆けめぐったことを書いてみたいと思います。

 それは,以下のとおりです。
 河童というものを,大和朝廷の天皇制にもとづく権力に対して,まつろわぬ者のうちでも,とくにその存在そのものを抹消しなければならないと考えられた人びとの総称というように考えてみると面白いのではないか,と。そして,その発端にある存在が,野見宿禰ではないか,と。

 なぜなら,野見宿禰の出自が「出雲の人」と書かれているだけで,それ以上の記述がないことにわたしは注目しています。垂仁朝の時代に突然その名が浮上し,いきなり,当麻蹴速との対決で名をなし,そのまま天皇に仕えることになります。しかし,埴輪の提唱で知られるように,そして,土師氏の身分を与えられるように,葬送儀礼と焼き物の特殊技能をもった職能集団のトップに立つ人として,代々,天皇に仕えます。がしかし,この話にも,どうやら裏があるようです。つまり,出雲の勢力を徹底的に排除しつつ,かつ,その一部を服属させておく。つまり,表向きは厚遇しているかのように見せかけておいて,その背後では徹底的に毛嫌いしている痕跡がみられるからです。

 その一例を挙げれば,東大寺の記録のなかに,野見氏,能美氏,能見氏,野身氏は「卑民」とあり,徹底した差別がなされていたことが類推できます。この人たちはすべて「出雲」出身者である野見宿禰の子孫と考えていいでしょう。なのに,野見から菅原に名乗りを変えた直系の一門だけが天皇家に取り立てられ,仕えることになります。その中興の祖が菅原道真だというわけです。しかし,その頼みの菅原道真ですら,冤罪を負って,太宰府に流されてしまいます。にもかかわらず,その祟りを恐れた天皇家は北野天満宮を建造し,その霊を鎮めようとしなければなりませんでした。それほどに,菅原一族を恐れたというよりも,菅原一族のバックにいる出雲族の反乱を恐れたのだとわたしは推理しています。国譲りによって,中央から(大和から)追い落とされた出雲族は全国に散らばって,隠然たる勢力を誇っていました。その残像は,いまでも,全国にあるオオクニヌシを祭神とする神社(そのほとんどは「一宮」としてその名をとどめています)の影響力や,スサノウを祭神とする神社や野見宿禰を祀る神社の数の多さをみれば,よくわかります。諏訪大社などの存在も忘れることはできません。

 おまけに,河童伝承のなかには,「もとはスガワラ」という差別的な表現が残っていることも無視できません。スガワラ一族が立身出世していくら偉くなったとしても,もとはスガワラ,すなわち,河童出身ではないか,というわけです。この伝承を,じつは,わたしはとても注目していて,もっと詳しく検証していく必要があります。が,スガワラが河童の出であるということは,野見宿禰は河童の出身,すなわち,天皇制から追い落とされた出雲族は河童だ,というアナロジーが成立します。

 この河童を差別するための根拠を,より明確にする方法(罠,仕掛け)が「ケガレ」という発想ではないか,と考えています。つまり,ケガレているから世の中から排除されるのは当然だ,と。ということは,天皇にまつろわぬ人間は,すべてケガレた人間である,と断定すればそれでいいわけです。あとはケガレた人間を,とことん抑圧・排除・隠蔽していけばいいことになります。ですから,天皇の子孫であっても,権力闘争に負けて,野に下ったあとも天皇に逆らった人間はすべて河童にされてしまいます。そういう人も歴史上少なくありません。もちろん,河童になった,とはどこにも書いてはありませんが,その子孫は闇のなかに消えていきます。

 山奥の,僻地に隠れ住むようにしている一族の多くは,そういう天皇家にまつろわぬ過去をもっていることが多いということもよく知られているとおりです。そういう世界を,中上健次は小説にして,もののみごとに描きだしてみせています。「オリュウノオバ」は,中上作品にはしばしば登場する「路地」の中心人物です。「世が世ならば天皇家ともあろう者が・・・・」といって「路地」の若者たちを叱りつけるシーンが鮮烈に脳裏に焼きついています。この人たちもまた,河童です。ケガレた人びと(天皇制の側からみたら)である,というわけです。

 竹村さんが注目する「修祓」の思想は,そうした背景から生まれてきたのは間違いない,とわたしは考えています。あとは,その傍証をどこまで固めるか,その根拠の整合性をどこまで立証することができるか,そこが鍵だと思います。

 これからさきの竹村さんの研究がとても楽しみになってきました。わたしもこころから応援したいと思っています。
 

2013年10月6日日曜日

『スポートロジイ』第2号の合評会が無事に終わりました。報告・その1.

青山学院大学の河本洋子先生のお世話で,第76回「ISC・21」10月東京例会が開催され,無事に終わることができました。午後1時から午後6時まで,あっという間に時間が過ぎていました。それほどに熱中できる密度の濃い時間でした。

第一部の情報交換から,すでに,話題が満載。こちらは,全員,ひとことずつお話をしてもらう時間なのですが,みんな聞いてほしい話がいっぱいで,なかなか順番がまわりません。全体の半分あたりのところで,時間切れ。あとは,ごめんとばかりに打ち切り。

ここで話題になったことは,以下のとおり。
竹内敏晴さんの話(出版記念会,藤原書店,唯さんのこと,名古屋での研究会のこと,など),テニスの日本語表記をめぐる諸問題をとおしてみえてくる歴史が面白い,ボーデ(Rhythmische Gymnastik)とクラーゲス(『リズムの本質』)と西谷修(一つひとつの命)のEigenwesen をめぐる思考仮説,『近代日本の身体表象』(瀬戸邦弘,杉山千鶴編,森話社),オリンピック教育,ボディ・ビル,モンゴルの土地所有の進展と身体の変容,イデオロギー論争からはじまった東西ドイツのスポーツ論争,以下,割愛・・・・・・という具合です。

どの話題一つとってみても,みんな一時間,二時間を要する話題ばかりです。最近のこの例会では,第一部の情報交換の時間がとても充実してきて,参加する人たちの目の輝きが変わってきました。やはり,短い時間でもいい,どんな話題でもいい,プレゼンテーションをするということは,人間の姿勢を変えてくれます。そして,新たな自己をそこに見いだすことができます。新しい自己の表出は,そこに参加している人にも不思議な力を与えます。こんなところに,集まってきて,わいわい,がやがやと議論することの意味があるのだ,としみじみ思います。

結局,第一部が終わったのは午後3時。少しだけ休憩を入れて,すぐに第二部の合評会『スポートロジイ』第2号に入りました。
こちらも話題は満載です。
まずは,今福龍太「身体──ある乱丁の歴史」と西谷修「グローバル化と身体の行方」の二つの論文をとりあげ,松本芳明さんにコメントをしてもらう。ここから一気にテンションが上がり,議論が白熱化してきます。スポーツする身体を,今福さんは,おそらく「身体の乱丁」というイメージで表現することによって,これまでステージの裏側に隠されていた身体の表象を取り出そうとしているのではないか。トレーニングやボディ・ビルによる身体もまた,乱丁の身体。どーピンクする身体などはまさに乱丁の身体。しかも,イーロ・マンチランタの事例(橋本一径訳)のように,遺伝子的にある「小さな変異」をもって生まれてくる身体などは,まさに,身体の乱丁ではないか。それが,もっと大がかりになってくると,スポーツ・メディア共同体(スポーツ・メディア・産業の三位一体)によって形成される身体ということになろうか。ということは,わたしたちの身体そのものが,歴史的産物であるという点で,まさに「乱丁の身体」ではないか。というように議論がエンドレスにつづきます。ここに書き出したのは,ほんの一例です。話題は,さらに,スポーツの「判定」をめぐる議論へと転じて,柔道,体操競技,太極拳,を数量的合理主義にからめとることによるスポーツの頽廃への道が,さまざまに語られました。

なにより問題なのは,柔道や太極拳のような武術が,点数化されてしまうことによる自己矛盾でしょう。武術にポイント制や採点制は似合いません。それどころか,武術の生命を絶ち,武術にあらざる「武術もどき」に変容し,太極拳にいたっては「舞踊化」現象する表れるという次第です。

ここまで書いたところで,時間切れ。これからつぎのプログラムに移動です。ひとまず,ここまでにして,このつづきをのちほど書いてみたいと思います。ではまた。
 

2013年7月1日月曜日

『スポーツする文学』(疋田・日高・日比編著,青弓社)をどう読んだか。

 このテクストの編者2名と著者1名を囲んで,このテクストをどのように読んだか,という研究会が奈良教育大学で開催された(6月29日午後1時30分~6時)。主催は「ISC・21」(21世紀スポーツ文化研究所)。世話人は井上邦子さん。

 ブログラム的に紹介をしておけば,以下のとおり。
 日高佳紀:テニス文芸のレトリック─田中純と「月刊テニスファン」×林郁子
 西川貴子:「わたし」と「わたしたち」の狭間─「走ることを語ること」の意味×松浪稔
 疋田雅昭:スポーツしない文学者─祭典の熱狂から抜け落ちる『オリンポスの果実』×稲垣正浩

 最初に各著者によるかんたんなプレゼンテーションがあって,それを受けて各コメンテーターが意見を述べるという形式をとった。それぞれのディスカッションに各1時間30分ほどが配分された。が,いずれも時間が足りないほどの意見の交換があった。その意味では,とても盛り上がった研究会になったと思う。

 しかし,わたしの個人的な感想としては,いささか物足りなかった。それは最初から予想されたことではあったが・・・・。なぜなら,日本文学を専門とする人びとが「スポーツ」を語ることと,わたしたちスポーツ史・スポーツ文化論的な立場に立つ人びとが「スポーツ」を語ることとの間には,最初から相当の乖離があると予想されたからである。実際にも,このテクストを最初に読んだときのわたしの印象は,この人たちは「スポーツ」というものをどのように考えているのだろうか,という大いなる疑問があった。その意味では,巻末に紹介されていた著者たちの「スポーツ歴」が役に立った。なるほど,こういう人たちが「スポーツ」を語るとこういうことになるのか,と。わたしたちの側は,一応は,なんらかの形でSpitzensport(世界の頂点をめざす近代競技スポーツ)に全身全霊を傾けた経験をもっている。だから,「スポーツ」というものを研究対象にするときの姿勢が基本的に違っている。かんたんに言ってしまえば,文学の側から「スポーツ」に光りをあてるのと,スポーツの側から「文学作品」を取り上げるのとでは,そのヴェクトルが真逆になっているからだ。

 このことは最初からわかっていたことであるし,それどころか,そうであるからこそこの研究会は面白くなる,と大いに期待していた。結果は,予想どおり。もののみごとに議論はスレ違っていく。その理由を考えることにこそ,この研究会の意味はある,とわたしは最初から覚悟していたので,じつに楽しくみなさんの議論を傍聴し,かつ,参加させていただいた。しかし,ついに議論をかろうじて成立させるための共通の土俵はみえないままに終った。これは初対面の若い男女の会話のようなもので,と半分は楽しみつつ,半分は苛立っていた。

 その最大のネックは「スポーツ」ということばについての理解の仕方にある,とわたしは考えていた。それはなによりもわたしたちの責任でもあるのだが,「スポーツ」ということばの概念規定がきちんとできていない,ということからくるものであるからだ。だから,あえて言ってしまえば,「スポーツ」ということばは学術用語としては,いまだ,認知されていないのだ。議論が噛み合わなくてスレ違うのも,すべてはここに端を発している。

 こういうことは以前からわかっていたことであるし,考えつづけてきたことでもある。つまり,「スポーツとはなにか」という,ある意味では永遠のテーマがそこには横たわっている。だから,わたし自身としては,「スポーツとはなにか」というこの根源的な問いに対する応答の仕方として,スポーツ史という方法を選んだ。しかし,それだけではとても応答できないと知り,その枠組みを少しだけ広げてスポーツ文化論という立場を取り込んだ。この過程で,わたしは「文学作品」や「絵画」が,「スポーツとはなにか」を考える上できわめて有効な手段になるということに気づいた。そして,いっときは相当にのめり込んで,この分野をさまよい歩いた。その余波はいまも残っていて,文学にはそれなりのアンテナを張り,絵画を中心とする美術作品の動向にも強い関心をもちつづけている。

 が,それでもまだなにかが足りないと気づく。「スポーツとはなにか」という根源的な問いを深めていけばいくほど必要なものは思想であり,哲学である,と気づく。こちらも,いまから考えれば,その情熱のそそぎ方のレベルはともかくとして,相当以前に遡ることができる。とりわけ,西谷修さんをとおして触れることになったフランス現代思想からの影響は,長くて,強い。そのお蔭で,日本の禅仏教の思想,とりわけ,道元に触れ,西田幾多郎に触れ,とうとう仏教経典にまでのめり込むことにもなった。そして,それはとても役に立っている。というよりも,みずからが寄って立つべき思想・哲学というものが次第に明らかになるにしたがって,あらゆるもののみえ方が変わってきた。つまり,登山のようなもので,高い山の頂上に立つことを繰り返しているうちに,少しずつ「見晴らし」がよくなってきたのである。

 こうした遍歴を経て,ようやく「批評」ということの意味が少しずつわかりはじめてきた。今福龍太さんの『ブラジルのホモ・ルーデンス─サッカー批評原論』や蓮実重彦さんの『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』などの主張していることの意味がようやくみえてくる。となると,わたし自身の「スポーツ批評」のスタンスを明確にしなくてはならなくなってくる。いま,ちょうど,このことを考えつづけているときだったので,久し振りに読み返すことになった『スポーツする文学』は,「文学批評」に新たな「補助線」を引く,まったく新たな試みではないのか,と考えることになった。

 もし,このテクストの編者や著者たちが,このことを強く意識して『スポーツする文学』というタイトルをつけ,各論でそれぞれのスポーツ競技種目をとりあげて「スポーツ批評」を展開し,最終的にまったく新たな「文学批評」の磁場を構築しようとしているとしたら,このテクストは画期的な意味をもつものではないか,と考えた。だから,わたしはこの点にかなりこだわりをもってコメントをさせていただいた。が,残念ながら,議論はスレ違ってしまった。だれが悪いということではなくて,こういう本質的な議論をするためには,もっともっと時間をかけてしっかりとした共通の「土俵」(アリーナ)を構築しなくてはならないのだ。

 この研究会は異種格闘技のようなもので,初めての手合わせ。だから,お互いにとまどうのは当たり前。議論はこれからはじまる,とわたしは受け止めた。こんどは,わたしたちの側から「スポーツする文学」のワークショップなどとの接点をさぐっていくべきだ,とも。

 それにしても,やはり,異種格闘技はむつかしい。でも,とてもスリリング。こういう営みをとおして,わたしたちの思考回路の硬直化を防止しなくては・・・・としみじみ考えた次第。

 最後になりましたが,わたしたちの研究会にお出でくださった日高さん,疋田さん,西川さんにこころからの謝意を表します。ありがとうございました。これに懲りずに,こんごともお付き合いくださることを,このブログをとおして(失礼ながら)お願いします。

 わたしの考えた『スポーツする文学』の「批評性」について,はいずれ機会をあらためて書いてみたいと思います。取り急ぎ,今日のところはここまで。

2013年5月20日月曜日

第72回「ISC・21」5月例会(犬山で開催)からもどりました。

 「ISC・21」(21世紀スポーツ文化研究所)のホームページの掲示板に掲載してありましたように,第72回「ISC・21」5月犬山例会(世話人・船井廣則)が開催され,一泊して帰ってきました。今回は,参加者の人数こそ少なかったですが,内容のある,とても充実した研究会となりました。なお,この研究会は参加自由ですので,だれでも参加できます。興味のある方はホームページの掲示板をチェックしていて,ご都合のいいときにご参加ください。大歓迎いたします。

 今回のブログでは,研究会で話題になったトピックスのいくつかをご紹介しておきたいとおもいます。ほんとうは全部,ご紹介できるといいのですが・・・・。そうもいきませんので,わたしのこころを強く動かしたプレゼンテーションに限定します。

 Oさんは,イ・ソンギルという日帝時代に大活躍した韓国の柔道家を追っています。そのためにハングルを勉強し,直接,韓国に行ってイ・ソンギルに関する資料集めをしています。ところが,日帝時代の資料はほとんどが焼却されていて残ってはいません。それで,とうとうイ・ソンギルの親族を探して,直接,取材をしようと試みます。が,イ・ソンギルが勤務していた春川の警察署まで訪ねていきます。とても丁寧に応対をしてくれるものの,イ・ソンギルの記録となると,ほとんどなにも残っていないのが現状だそうです。イ・ソンギルの卒業した学校を訪ねてみても,個人情報に関することなので,と言って急に口が重くなってしまうということです。あとは,回数を重ねて,何回も訪問し,心情的に接近するしかない,とOさんも覚悟を決めています。もっとも近い燐国であるにもかかわらず,その壁を突破するのは,なかなか容易ではありません。それを覚悟で,この研究に取り組んでいるOさんの姿勢に敬意を表したいとおもいます。

 Mさんからは,長年,取り組んでいます竹内敏晴研究(この研究会の有志のメンバーとともに取り組んだ「竹内敏晴さんを囲む会」でのお話をまとめたもの)の第一次原稿を出版社に渡して,担当編集者との詰めの段階に入った,という報告がありました。できるだけ早く編集作業が進んで,単行本として世にでることを期待したいとおもいます。なお,『竹内敏晴選集』なる企画がF書店でいま進行しているとも聞いています。こちらと合わせて,わたしたちの仲間の手で竹内敏晴さんの本がでることは嬉しいことだとおもっています。

 Tさんは,4月に行われた真島一郎さんの「力」──この空恐ろしきもの,というお話について,河童研究の立場からのコメントをしてくれました。西アフリカ・コートジヴォアール・ダン族の「すもう」で繰り広げられる「呪力」の世界と,日本の河童伝承にまつわる摩訶不思議な想像の世界との「接点」をさぐる,きわめてユニークなものでした。河童の属性のひとつである「呪力」が,どのような背景から生まれてくるのか,そして,いかなる意味をもつのか,と問いつつ,そこに見届けることのできる「力──この空恐ろしきもの」を提示しようとする,ぎりぎりのエッジに立つ思考をそこにみることができたようにおもいます。

 Hさんの,日本のソフト・テニスの歴史として語られている定説のいくつかをとりあげ,その定説はほんとうに信じることができるのか,正しいといえるのだろうか,と疑問を投げかけます。そして,それらの定説をくつがえすための根拠をいくつか提示してくれました。とりわけ,ソフト・テニスの技術史的な視点からの提示される仮説のいくつかは,とても説得力のあるものでした。わたしが聞いているかぎり,テーマの立て方を工夫すれば,四つも五つもの論文が可能だな,とひらめきました。以前に研究ノートとして書かれた内容をさらに発展させたもので,これからさきの研究の成り行きがとても気になる,魅力的な内容でした。

 このほかにも面白い話がいくつもありますが,とりあえず,今日のところはここまでとします。

 次回の6月は奈良,7月は大阪を予定しています。
 興味のある方は,どうぞ,お出かけください。

2013年4月26日金曜日

「<力>──この空恐ろしいもの」(真島一郎)について。科学では説明不能の潜在能力。

 4月20日(土)に開催された研究会(「ISC・21」4月神戸例会・世話人竹谷和之)で,ゲスト・スピーカーの真島一郎さん(東京外国語大学教授)が,じつに内容の濃いお話を理路整然と展開してくださり,聴くものを魅了してくださいました。そのお話の中核になる概念をひとことで言ってしまえば<力>。わたしたちがなにげなく用いている<力>とはいったいどういうものなのか,という深い問いを立て,さまざまな視点からの分析・考察を展開し,まことに示唆に富む,いくつかの問題を提起してくださいました。

 もちろん,ここで言っている<力>は物理的な力学の話でも,経済学でいう予測や計算の可能な経済力でもありません。そういう近代的なアカデミズムの合理的思考の枠組みには収まり切らない<力>,あるいは,近代合理主義的な制度や組織からこぼれ落ちてしまう,予測不可能な,しかし厳然として人の生の源泉に渦巻いている<力>のことです。この<力>こそ,文明化社会がないがしろにしてきた,人間の根源に宿る動物性にも似たバイタリティです。この<力>こそ,ある意味では無限の可能性を感じさせると同時に,人間の理性を超えでていく「空恐ろしい」ものでもあると真島さんは位置づけます。

 こうした真島さんの発想の根底には,わたしたちの知っているかぎりでは,アフリカ・コートジボアールのダン族の「霊力・呪力を競うすもう」があります。力士たちは,呪術師やサポーターたちから送られる霊力や呪力を全身で受け止め,それをすもうの<力>に変え,みずからの名誉のために闘います。そのとき,わたしたちのような(真島さんもふくめて)文明化社会に生まれ育った人間にはみえない,さまざまな<力>が,すもうを取っているその場には乱れとんでいるのだそうです。その<力>が,ダン族の人びとにはみんな見えている。その<力>を目の当たりにしながら,持参の呪具をふりかざし,声をからして,みんなが応援をする。当然のことながら,力士たちはそれらの<力>を全身で受け止めながら,相手力士と名誉をかけて闘います。そうして,勝利を収めた力士は,そのときの感動をはたしてどのように語るでしょうか,と真島さんはわたしたちに問いかけてきます。

 プロ野球のヒーロー・インタヴューや,オリンピックの金メダル獲得直後のインタヴューなどでは,選手たちは異口同音に「応援してくださったみなさんのおかげです」という。あらかじめ,メディアのインタヴューの応答の仕方をマニュアルとおりにしている選手が圧倒的に多い。しかし,なかには,こころの底からそう感じ,そう信じて「応援してくださったみなさんに支えられてこの結果があります」と心情を吐露する選手も少なくありません。このときの選手の心情と,ダン族の力士の心情とはほとんど変わらないのではないか,と真島さんは指摘されます。

 トップ・アスリートたちがときおり経験する「異次元」世界のパフォーマンスと,ダン族の力士たちの呪力に身をゆだねていく非日常の世界でのパフォーマンスとは,ほとんど違いはないのではないか,というわけです。そこではたらいている<力>は「空恐ろしい」ものでもある,と真島さんは力説なさいます。わたしも,まったく,同感です。

 こうして真島さんは,この「空恐ろしい」<力>とはなにか,ということをいくつもの事例を引き合いに出しながら多面的・多層的に説明をしてくださいました。そのうちのひとつが,わたしには強烈な印象となって残っていますのでご紹介したいと思います。それは以下のようなお話です。

 IMFや世界銀行などが,アフリカ諸国で生きている人びとの年収を計算してみると,とてもではないけれども生きてはいけない程度の年収でしかないのに,立派に生活している人びとがいる。どうしてこういうことが可能なのか,と大きな議論を呼んでいるそうです。そして,これを「賃金の謎」と呼ぶそうです。つまり,こんにちの経済学の計算によれば,生活が成り立たないはずなのに,生きている人たちが厳然として存在する。つまり,カネなどなくても生きていくことは可能だということです。その生きる<力>はいったいどこからくるのか,というわけです。

 その謎解きのひとつの例として,真島さんがダン族の社会で暮らしていたときの経験談をしてくださいました。食べ物がなくなって空腹に耐えられなくなると,真島さんは日本の「石焼き芋」の歌を歌って歩くことにしていた,といいます。すると,かならず村のだれかが現れて,真島さんに食べ物を与えてくれた,というのです。もちろん,「石焼き芋」の歌をダン族の人たちが知っているわけはありません。あらかじめ,真島さんが「腹が減っても食べ物がないときの歌」として村の人たちに教えてあったのだそうです。ですから,この歌を歌えば「マジマが困っている」と受け止め,みんなが救いの手を差し伸べてくれた,という次第です。

 この話を聞きながら,沖縄では「催合」に入っていればおカネが一銭もなくなっても,だれかが助けてくれる,という話を思い浮かべていました。つまり,賃金以外のところで機能する<力>が,資本主義経済が世界を支配する以前には立派に存在していた,ということです。それがマルセル・モースのいう「贈与経済」のシステムです。当然のことながら,真島さんもマルセル・モースの『贈与論』に触れて,ものを与える義務がある,ものを受け取る義務がある,この贈与交換の「義務」とはなにか,というお話になりました。そして,この「贈与経済」のシステムのなかにこそ計算不可能な<力>がはたらいている,というところまでわかりやすく説明をしてくださいました。

 ここからさらに,伊藤ルイさんの話に及びます。伊藤ルイさんは,大杉栄と伊藤野枝の娘として誕生しますが,この両親の呪縛から逃れるために必死の努力をし,みずからの生きる道を模索していきます。しかし,気がつけば,自分もまた両親と同じような社会運動に身を投じていた,といいます。この伊藤ルイさんが,ある日,バス停で並んで待っていたら,老婆が現れて「どなたさまも,おはようございます」と挨拶をする。よく観察していると,この老婆はバス停にくると毎回,だれかれかまわず「どなたさまも,おはようございます」と挨拶をしている。この挨拶の仕方に感動した伊藤ルイさんは,この老婆と親しくなっていきます。

 この老婆に感動する「心性」,あるいは「眼」は,伊藤ルイさんが忌避しようとした大杉栄と伊藤野枝の「まなざし」とまったく同じものだ,と真島さんは指摘します。一見,矛盾するようですが,アナーキズムの考え方のなかには,この老婆の発する「どなたさまも,おはようございます」という挨拶とが同居しているのだ,と真島さんは主張されます。そして,「人間の生の源泉に触れる経験」という表現を大杉栄は何回もくり返しているとのことです。このフレーズは,わたしが,多くの人びとがスポーツに魅了されていく原動力はいったいなにか,ということを説明するときに用いてきたものと同じです。

 ですから,こういうお話を真島さんから聞かせていただいて,わたしはびっくりしてしまいました。わたしの考えていることが,まさか,大杉栄のアナーキズムの考え方に通底しているとは,夢にも思っていなかったからです。ここのあたりのところは,また,機会をあらためて真島さんとお話ができればなぁ,と夢見ているところです。

 ちょっと,長くなりすぎていますので,今日のブログはこのあたりで終わりにしたいと思います。
 もちろん,また,テーマを変えて,真島さんのお話「<力>──この空恐ろしいもの」のつづきを,このブログでも取り上げてみたいと思っています。

 取り急ぎ,今日のところは,ここまで。

2013年4月23日火曜日

4月神戸例会(20日),奈良・出雲関連フィールド・ワーク(21・22日)からもどってきました。

 三日ほどブログをお休みしてしまいました。
 理由は表記のとおりです。

 20日(土)は,神戸にでかけていました。毎月1回,東京・名古屋・大阪・神戸などの都市を巡回して開催している研究会が,4月は神戸でした。5月は名古屋(犬山)の予定です。

 4月神戸例会の開催案内は,ISC・21(21世紀スポーツ文化研究所)のホームページの掲示板にアップしてありますので,ご存知の方も多いかと思います。念のために書いておきますと,以下のような内容でした。

 4月神戸例会の世話人は竹谷和之さん。勤務先の神戸市外国語大学の研究班「ボスト・グローバル化社会におけるスポーツ文化を考える」の第一回目の研究会を,「ISC・21」と共同開催という形式で行われました。研究会のタイトルは「大英帝国・アフリカ・スポーツ」とし,お二人のエキスパートをゲストにお迎えしました。大英帝国の視点からのプレゼンテーションは井野瀬久美恵さん(甲南大学教授),アフリカの視点からは真島一郎さん(東京外国語大学教授),そこにわたしがスポーツの視点からの話題を提供するという具合でした。

 井野瀬さんと真島さんのお話がことのほか刺激的で,参加者はみんな大喜び。このときの様子については,いずれこのブログでも書いてみたいと思っています。結論だけ触れておけば,近代スポーツによるグローバリゼーションはすでに臨界点に達しており,そこをいかに通過し,つぎの地平に突き抜けていくか,そのための方途・視点(理念と方法)が問われている,というところで三人の意見は一致したように思います。そして,そのためにはある意味での「逸脱」が必要ではないか,という次第です。詳しくは,いずれまた。

 以上が20日(土)13:30~18:30,場所はUNITY(学園前駅から1分)。夜の懇親会は三宮で開催。これまた,大いに盛り上がり,楽しい会となりました。二次会は,宿泊施設のわたしの部屋。いつものように深夜に及ぶ。眠くなった人から就寝。

 翌日の21日(日)は奈良へ。フィールド・ワーク。まずは,巻向山の「ダンノダイラ」を目指す。桜井市出雲の人びとがいまも大事にしている山頂近くの聖地。この聖地のことが,なぜか,ほとんど公にされることなく,秘められたままになっています。奈良で生まれ育った人でも,この「ダンノダイラ」という地名を知っている人はほとんどいません。また,村井康彦さんの話題の近著『出雲と大和』(岩波新書)でも,ひとことも触れられてはいません。すぐ近くに隣接している檜原神社から三輪山の頂上の磐座にいたるルートの紹介はあるのに,同じ尾根を東に向かえば,いともかんたんに「ダンノダイラ」に達することができる,しかも,出雲の人びとの磐座信仰の対象となっていた巨岩のある聖地が伏せられているのです。それはなぜか。その謎を解くために,まずは,その場に立つことからはじめようという次第です。

 この問題についても,いずれ詳しく,わたしの仮説を紹介してみたいと考えています。この「ダンノダイラ」にわたしを案内してくれたのは河童の研究者竹村匡弥さん。この出雲に住む人たちの聖地を一緒に歩きながら,可能なかぎりの仮説を提示しあうスリルを満喫しました。夜は明日香村の民宿に,奈良教育大学時代の教え子たちが数人集まって,楽しい団欒。ほやほやの「ダンノダイラ」の話を聴いてもらいました。この人たちも,だれも,「タンノダイラ」の存在を知りませんでした。どうやら,奈良にはこういう土地があちこちにあるようです。

 翌22日(月)は,岡寺を経て,石舞台を眼下に見下ろす絶景の地・上居(じょうご)に住むかつての同僚の先生宅(焼き物の大御所)をサブライズ訪問。残念ながらお留守。でも,奥さんとしばらく談笑できて大満足。広い応接間には,最新作の素晴らしい焼き物がずらりと並んでいて,しはし鑑賞させていただく。作品が,また,一段と進化しているのがわかり,感動。着々と研究・工夫をこらして,新しい境地を切り開いていく情熱が,飾ってある作品をとおしてつたわってきます。近々,近鉄デパートで個展が予定されているとか。今日は,その打ち合わせのためにお出かけ。

 そのあとは一路,奈良市の中心へ。元興寺から極楽坊でのんびりと時間をすごし,奈良町を散策して帰路につく。

 まあ,こんな三日間を過ごしてきました。
 いまは,頭のなかがさまざまな記憶でいっぱいですが,急いで記録を整理しておかないと,あっという間に,みんな忘れてしまいます。忘れることに関しては,いよいよ名人の境地に達しつつあります。これもまた不思議な世界ではあります。

 これから記憶を頼りに,この三日間のことをブログに書いていきたいと思っていますので,どうぞ,よろしく。では,今夜は,このあたりで。

2013年3月12日火曜日

ダン族のすもうは「人間という生き物たちが共同の生活を組み立てるその役割をになっている」(西谷修)。

 3月9日(土)の研究会は,とてもいい雰囲気のなかで展開し,まことに稔り多い成果をあげることができました。講師をつとめてくださった真島一郎先生にこころから感謝しているところです。参加してくださったみなさんも,とても喜んでくださり,わたしとしてはほっと一息というところです。

 いくつもの面白い議論があったのですが,まずは,わたしにとって特筆すべきコメントがあったこと,そして,そのコメントが強烈な印象を残しこと,このコメントはこれからのわたしたちの研究の行方にも大きな影響をもつものであること,がありましたので,その話題を記憶が鮮明なうちに記録しておきたいと思います。

 それは西谷修さんが指摘されたコメントです。結論からいいますと,
 「ダン族のすもうは,たんなる余暇の楽しみではなく,たとえば沖縄の島々の人たちにとっての祀りとか,ニガイの儀礼のように,人間という生き物たちが共同の生活を組み立てるその役割をになっているのでは・・・・?」
 という内容のコメントでした。

 実際には,もう少し長いお話をされた上で,このような結論を導き出すかたちでなされました。真島先生はこの西谷さんのコメントを受けて,さらに補強するようにして,詳細にその根拠となることがらについてお話してくださいました。そこで,はっと気づいたのですが,西谷さんのコメントは,わたしのような,近代的な二項対立的な思考法になじんでしまった人間に警告を発するためのものであった,ということです。つまり,つい習慣化してしまっている近代の二項対立的思考の呪縛から解き放ち,もうひとつ違う次元に立つ思考法を取り入れるべきではないか,という深い意味が籠められていたということです。その理由は以下のとおりです。

 ダン族のすもうは農作業のできない乾期に行われるということ,そして,雨期に入ると農繁期に入るのですもうは行われない,というわけです。これがダン族のすもうの大きな枠組みです。すると,わたしたちは,いともかんたんに「ああ,農閑期の暇なときの娯楽・楽しみとしてすもうが行われているのだ」と思い込んでしまいます。そして,労働と余暇との二項対立で整理すると,いかにももっともらしく聞こえ,多くの人が納得しやすいというわけです。こういう近代的な思考癖に対する警句として,西谷さんのコメントがなされたのでは,というわけです。

 秘密結社を組織しているダン族の人たちの「すもう」は,そんなに単純なものではない,ということです。むしろ,結社社会を組み立てるためにはなくてはならない文化要素,つまり,必要不可欠のものとして「すもう」が存在するのでは,というわけです。秘密結社の中核にあるものが仮面だとすれば,「すもう」はもうひとつの仮面に相当するのではないか,という次第です。

 ここまで考えてきますと,わたしの思考はジョルジュ・バタイユが『宗教の理論』のなかで展開した「祝祭空間」の成立の問題につながっていきます。それは,いささかややこしい議論なのですが,ごく簡単に整理してしまえば,以下のようなことになろうかと思います。バタイユは,祝祭空間は「有用性」を打破するために,つまり,事物化したものをもう一度,内在性の世界に送り返すという意味が原点にある,といいます。だとすれば,祝祭空間では,ただ,ひたすら消尽が繰り広げられるということになります。それは,マルセル・モースのいう贈与でもあります。

 こうした消尽や贈与もまた,文明の進展とともに「有用性」に絡め捕られていきます。そして,ますます事物化していきます。その成れの果てが近代スポーツ競技としての「レスリング」だというわけです。

 西谷さんは,こういう思考の枠組みを念頭におきながら,さらに,ピエール・ルジャンドルのドグマ人類学的な発想を加味して,表題のようなコメントをしてくださったのでは,というのがわたしの推測です。

 さらに,付け加えておけば,「人間という生き物たちが共同の生活を組み立てるその役割」という西谷さんの発想の含意としては,シモーヌ・ヴェイユの『根をもつこと』とも響きあうものがある,とわたしは受けとめています。つまり,結社社会を組織するということは,まさに,ダン族としての「根をもつこと」のための文化装置として仮面やすもうを共有するということでもあるからです。

 というような次第で,西谷さんのコメントは,考えれば考えるほど重い意味を帯びてきます。そして,このような視点を加えることによって,これまでのスポーツ史やスポーツ人類学やスポーツ文化論の語り口も,みごとにひっくりかえっていくことになります。それほどに大きな問題を秘めたコメントであった,とわたしは考えています。そして,これからの研究会でも,このコメントは継続して議論していきたいものだと考えています。

 以上です。