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2015年12月3日木曜日

大相撲の土俵祭り。「方屋開口,故実言上」ということについて。

 文庫本の新刊コーナーに『力士の世界』(33代木村庄之助著,角川ソフィア文庫,2015年11月25日初版)があり,即購入。書店でペラペラとめくってみたかぎりでは,いわゆる相撲ファンの初心者向けの解説本という印象でしたが,家にもどってから中味を読んでみますと,思いの外,奥が深い本であることがわかりました。しかも,行司の眼をとおしてみた力士の世界が,なかなかの達意の文章で描き出されています。とてもいい本なので紹介したいとおもいます。

 内容は以下のとおりです。
 第一章 相撲は神事
 第二章 いつも厳しい勝負の世界
 第三章 相撲部屋はひとつの家族
 以上の三章立て。

 いかにも行司さんらしく「相撲は神事」と断言しています。そして,行司は神主なのだ,とも。なるほど,読んでみますと神主の修行もして,資格も取得しているとのこと。だから,土俵は神のいます聖域(神域)であって,力士は一番ごとに塩をまいて清めることが不可欠なのだ,とも。

 その聖域である土俵に神を降臨させるための儀礼が,いわゆる「土俵祭り」なのだ,と33代木村庄之助は熱弁を振るいます。そして,驚いたことに,土俵祭りのときに神主として行司が読み上げる祝詞がそのまま紹介されています。一般的に,神社で読み上げられる祝詞は,ふつうの読み物では活字化しないのがしきたりのようになっていますので,わたしはこれまで祝詞なるものを一般の刊行物の中ではみたことがありません。しかも,土俵祭りのときに神官をつとめる行司によって読み上げられる祝詞は初見でしたので,びっくりしてしまいました。折角ですので,その冒頭部分だけでも引用しておきましょう。

 掛巻くも畏きこの斎庭に吾相撲の道の守神と斎く
 戸隠大神 鹿島大神
 野見宿禰尊等を招奉り坐奉りて畏み畏み白さく
 千早ふる神代の昔より中今は更に白さず
 弥遠永に栄いくべき相撲の道はしも敏き心に術を尽くして
 猛き心に力を競べて勝負を争い
 人の心を勇ましむる吾邦固有の国技なれば

 という調子でつづいていきます。フリガナをつけないと正しく読むことも難しい文章になっています。しかし,意味するところはおおよその見当がつくとおもいます。こういう祝詞が,場所ごとに土俵祭りのときには読まれているというわけです。しかも,土俵は,地方巡業のときにも必要です。ですから,そのたびごとにこの祝詞が読み上げられることになります。

 土俵祭りでは,この祝詞のあと「故実言上」の儀式が行われます。そして,この儀式のことを「方屋開口」と呼んでいるそうです。方屋とは土俵場のこと,開口は開く,つまり「土俵開き」という意味だと33代木村庄之助は書いています。しかし,そこには土俵の起源となったといわれている「人方屋」の話はでてきません。ということは,「人方屋」の話は一度,疑ってみる必要がありそうです。なぜなら,ここで用いられている「方屋」という言い方はわたしなりに納得ができるからです。つまり,「方屋」とは,家の中の正方形の空間のことで,土俵をつくるとなれば相当に大きな家屋を構える必要があったはずです。それは,寺院や神社のような特別の建物であればともかくとして,ふつうの家屋では特別の大きさの空間を意味したはずです。ですから,「方屋」ということばが相撲場以外にも用いられていたのではないかとおもわれます。そのヒントのひとつは「方丈」ということばです。寺の住職が一丈四方の部屋に住んでいたので,寺の住職のことを「方丈さん」と呼ぶしきたりがいまでもあります。また,有名な「方丈記」は,まさに方丈一間の家を建てて,質素に暮らし,必要とあらば解体してそれを大八車に積んで引っ越しをすることも可能だった,といいます。「方屋」と「方丈」のニュアンスは同じです。これは調べてみる必要がありそうです。となると,人が円陣を組んで座っていた,その中で相撲を取っていたのが「人方屋」のはじまり,つまり土俵のはじまりだ,という説は怪しいということになります。 

 さて,その「方屋開口」のときに「故実言上」がなされます。これは文字とおり「故実」を申し上げる,というほどの意味です。その文章も引用しておきましょう。

 天地開け始まりてより,陰陽に分かれ,
 清く明らかなるもの,陽にして上にあり,これを勝ちと名付く。
 重く濁れるもの,陰にして下にあり,これを負けと名付く。
 勝負の道理は,天地自然の理にして,これなすもの人なり。
 清く潔きところに清浄の土を盛り,俵をもって形をなすは五穀成就の祭りごとなり。
 ひとつの兆しありて形となり,形なりて前後左右を東西南北,これを方という。
 その中にて勝負を決する家なれば,今初めて方屋と言い名付くなり。

 これを読みますと,なるほどと納得させる「方屋」の故実が明らかになってきます。ポイントは,勝負を決する「家」であること,そして,前後左右を「東西南北」に位置付けた家を「方(ほう)」という,そこにあります。さらには,「陰陽」にはじまることを考えれば,その起源が中国であることもみえてきます。そして,前後左右,東西南北の意味するところは「四神相応」そのままです。すなわち,左方は東の青龍,右方は西の白虎,正面(前方)は南の朱雀,後方は北の玄武,にそれぞれ対応します。ですから,そういう家を「方(ほう)」というわけです。

 これで納得。となれば,ますます「人方屋」という土俵起源説は怪しくなってきます。そして,このときの「人」はなにを意味しているのでしょうか。新たな疑問が湧いてきます。

 ことほど左様に,この本全体の記述は,初心者向けに「力士の世界」を語った読み物になっていますが,上記のように驚くべき発見も随所にあって,なかなか楽しめます。まさに,行司さんでなくては書けない逸話や秘話がてんこもりになっていて,相撲ファンには堪らない魅力を放っています。

 いい本との出会いでした。ご一読をお薦めします。

※写真を追加すること。

2015年11月13日金曜日

「相撲は馬力です」。もどってきた尾車親方の名解説と嘉風。

 今場所は,横綱・大関などの上位陣が全員勢ぞろいしました。とても充実した取組が展開していて,楽しみな場所となりました。やはり,横綱が全員顔をそろえ,大関陣が元気な場所は,いやでも盛り上がってきます。こうなると幕内下位の力士たちも,いつもにもまして気合が入るようです。テレビ観戦をしていて,そのことをしみじみ感じます。

 今日(12日)で5日間の取組が終わり,序盤戦が終了。早くも明暗を分ける力士が登場し,これからの中盤から終盤に向けての予測をする上での重要な手がかりを与えてくれています。そんな中で,先場所から絶好調をつづけている嘉風に注目してみたいとおもいます。

 初日・鶴竜,二日目・稀勢の里とつづけて横綱・大関に土をつけ,三日目は大関・琴奨菊が対戦相手でした。そして,この日の解説が尾車親方(元大関・琴風)。しかも,尾車親方は嘉風の師匠。この相撲は立ち合いひとつで流れが決まる,とわたしなりに予測をしていました。そして,お互いに間合いをとって,混戦に持ち込めば嘉風,抱え込んでしまえば琴奨菊,と。はたしてこの一番,どういう展開になるのかとわたしは大いに注目していました。

 が,結果は予想に反してあっけなく勝負がついてしまいました。琴奨菊の立ち合いから一気のがぶり寄りで,一方的な勝負になってしまいました。好調を維持していた嘉風はなにひとつできないまま土俵下まで吹っ飛ばされてしまいました。まさに,琴奨菊の圧勝でした。

 嘉風を贔屓にしているわたしの目には,立ち合いの失敗,つまり,立ち遅れたようにみえました。ですから,琴奨菊の圧力をもろに受けることになり,嘉風は腰砕けのような格好で土俵下まで飛ばされてしまいました。それだけに,琴奨菊の立ち合いの鋭さ,前に出る圧力の凄さ,なりふり構わずがぶり寄る馬力の底力,そういったことばかりが目立ちました。みごとな大関相撲でした。

 この相撲の感想をアナウンサーから問われた尾車親方は,一刀両断のもとに「相撲は馬力です」と言い切りました。「いろいろの小技も大事ですが,基本は馬力です」,と。このひとことで,わたしはすべてを納得してしまいました。なるほど,馬力の前にはどんなに技をもってしても,なすすべもなく吹っ飛ばされてしまう,というわけです。

 もちろん,尾車親方はアナウンサーに問われるままに,さらに,きめ細かな解説をしていきます。それは聞いていて心地よいものでした。

 強い琴奨菊がもどってきましたねぇ。大関に駆け上がってきたころの琴奨菊を彷彿とさせますねぇ。この調子を持続させていくと,後半戦が楽しみですねぇ。ひと波瀾もふた波瀾も起きる可能性がでてきましたねぇ。ご当地場所だけに盛り上がるんじゃあないてすか。強い大関が復活してくると,他の大関にも大いに刺激となるでしょうし,横綱もうかうかしてられませんからねぇ。

 嘉風も悪くなかったですよ。ただ今場所は,絶好調の琴奨菊の立ち合いの圧力に圧倒されてしまいましたが,これを機にさらに立ち合いの鋭い踏み込みを身につければ十分戦える力をもってますからねぇ。相撲は負けて覚えるのですから。嘉風は悔しさとともにこの相撲を記憶しておいて,鋭い当りを磨くことです。来場所はまたどういう結果になるかわかりませんよ。

 と,負けた嘉風にもエールを送ります。尾車親方の解説は,病気で倒れる前の絶好調のときからいまにいたるまで,終始一貫して変わらぬひとつの鉄則があります。それは,勝った力士のいいところを引き出し,それを褒めあげることであり,ひるがえって,負けた力士には敗因をピンポイントで指摘した上で,そこを修正してくると来場所の取組はどうなるかわからないですよ,とエールを送ることです。この心遣いの優しさが聞いている者のこころに響きます。尾車親方の人柄がにじみ出ていると言っていいでしょう。

 そうして尾車親方の解説を聞いていますと,大相撲の醍醐味がどこにあるか,そして,そのふところの広さと深さが次第にわかってきます。それとともにわたし自身の相撲鑑賞の仕方がどんどん深化していきます。たとえば,土俵下の控えにいるときの所作,土俵の上での一つひとつの立ち居振る舞いまでもが重要な鑑賞の対象となってきます。そこには力士たちのこころの有り様が如実に現れているからです。

 その点からしても,最近の嘉風は土俵上の所作も大きく変化してきています。じつに楽しそうに,さあ,これから大好きな相撲をとるんだ,という雰囲気がふわりと伝わってきます。表情からして平常心そのまま。そして,どの力士に対しても同じテンポで仕切り直しをし,最後の立ち合いは,相手力士よりも早く両手をついてじっと待っています。つまり,相手の呼吸に合わせて立ち合います。これはみごとというほかありません。

 昨日(11日)は横綱・白鵬の立ち合い一瞬の変化でコロリと転がってしまいました。横綱はいろいろと批判を浴びることになってしまいましたが,負けた嘉風は,あんなことで転がってしまう自分が悪い,と反省しています。このあたりも「おみごと」というほかありません。

 そして今日(12日)も栃煌山に真っ向勝負にでて,まずは,立ち合いの当り負けを防ぎました。そのあとは,自分のペースの相撲に持ち込み,最後は双差しで寄り切りました。嘉風に先手,先手で攻められた栃煌山はなすすべもなく負けてしまいました。これが,嘉風の相撲です。

 明日は日馬富士との対戦。これまでの対戦成績は6勝2敗と嘉風が大きくリードしています。スピード相撲の激しい展開となり,その混戦を制した方が勝つというのがこれまでの対戦内容です。たぶん,明日もこのパターンは変わらないとおもいます。だとすると,どういうことになるのか,楽しみな一番です。

 嘉風がこの好調をとりもどした背景には,平幕力士のままで終わりたくないという反省があって,それから一心不乱に猛稽古をしたからだ,と聞いています。そして,やはり,なによりも立ち合いの当りの強さを磨いたのだ,と。ここで相手の勢いを一瞬,止めてしまえば,あとは自分のペースに持ち込めるというわけです。そして,もう一点は,一番一番,全力が出せればそれでいいのだ,と自分に言い聞かせ,相撲を楽しむことだ,と割り切れるようになったからだ,と。つまり,勝敗を度外視して,自分の相撲をとりきること,その一点を楽しむことだ,と。

 嘉風は位をひとつ上げたなぁ,とわたしは受け止めています。こうなりますと,どんな相手であろうと委細かまわず,淡々と相撲をエンジョイすることができるようになります。いいところに到達したなぁ,と嘉風ファンとしては大満足です。

 さあ,これから後半に向けての注目力士たちの活躍を期待することにしましょう。そして,尾車親方の解説の回数が多くなることを期待したいとおもいます。熱烈なる尾車親方ファンとして。 

2015年8月23日日曜日

天保14(1843)年の相撲の稽古場風景。

 狭い空間のなかに所狭しとばかりに大勢の力士たちが描かれています。もともと浮世絵ですので,あらゆる情報を一枚の絵のなかにすべて書き込もうと欲張っています。ですから,実際の相撲部屋の稽古場はもう少し広かったと考えていいでしょう。が,それにしても,そんなには広くはなかったことは確かです。なぜなら,当時の木造家屋のなかに確保できる空間には限りがあったからです。

 
かなり大きな寺の庫裡でも,柱のない空間を確保することは容易ではありません。厨房の三和土などは,かなりゆったりとした空間になっていますが,それでも,柱と柱の間はそんなには広くありません。江戸時代に,木造家屋のなかに相撲の稽古用の土俵を設けるとなると,それはそれはたいへんなことだったとおもいます。

 ですから,逆に言えば,この絵は実態にかなり近かったのかもしれません。なぜなら,鉄筋コンクリートのビルのなかに設けられているこんにちの相撲部屋の土俵も,そんなに広いスペースではありません。やはり鉄筋・鉄骨の間隔をそんなに広くとることは建築上,無理があるということではないかとおもいます。ですから,体育館のような特殊な建築でないかぎり,広いスペースを確保することはできない,ということです。したがって,相撲部屋の稽古場は,いまも基本的にはほとんど変わらない,ということです。

 相撲部屋の稽古を見たことのある人ならすぐにわかりますが,こんなに狭いところに大きな力士がよくもまあ大勢集まって稽古をしているなぁ,と驚きます。ですから,交替制で,稽古をすることになります。入門したばかりの新弟子たちは,兄弟子たちが起きてくる前に土俵にでて,自分たちの稽古をします。そして,先輩力士たちが稽古するときには,その世話係となってなにかと面倒をみることになたます。それが,いわゆる「付き人」の役割です。

 その意味で大きな部屋の稽古場はいつも力士たちでいっぱいです。土俵の中は,いつだって二人上がれば,それで独占されることになります。ですから,それ以外の力士たちは土俵の周囲で,鉄砲やら四股やら股割などの稽古を黙々とやることになります。

 巡業などに出ますと,本格的な土俵を確保することはきわめて困難になりますので,いわゆる「山稽古」をすることになります。屋外の平らな場所に土俵の円を描き,そこで稽古をします。これなら,広い空き地があれば,土俵をいくつも描いて,一度に大勢の力士が稽古をすることができます。巡業のときの面白さの一つは,その「山稽古」をみて回ることができることにあります。それこそ,あちこちで稽古をしているのですから,稽古見物のはしごができるわけです。

 敗戦直後の,わたしがまだ小学校の4年生くらいだったときに,相撲の巡業がやってきて,友だちと見物に行ったことを思い出します。わたしは,当時の横綱・照国のファンでしたので,照国の追っかけをして一日をすごしたことを,いまも鮮明に記憶しています。

 照国などといっても,もはやわかる人は少ないこととおもいます。秋田県出身のあんこ型の力士で,色が白くて,イケメンでした。稽古をはじめると,白いからだがピンク色に染まって,それだけでもうっとりさせられました。

 いまの照の富士の「照」は,たぶん,この照国の縁起をかついでのものだとおもいます。「富士」は,東富士,北の富士,千代の富士,などのように,この名のつく横綱はいくらでもいますので,みんな憧れて,この名をもらい受けています。わたしの子どものころは,照国と東富士の両横綱の取組がもっとも人気がありました。これを,わたしはラジオの実況放送で必死になって聞いてしました。実況放送ですから,アナウンサーの語ることばをもとにして,取組の進み具合を自分の頭の中で再構成しながら,必死で聞くしかありません。いま考えてみれば,テレビで見るよりも印象が強烈だったようにおもいます。これはこれでとても味のあるものでした。

 おやおや,いつのまにか,稽古場風景とは関係のない話に脱線してしまいましたので,この稿はこの辺でおしまい。

〔追記〕写真は,雑誌『SF』月刊体育施設,August 2015,からの転載。連載・絵画にみるスポーツ施設の原風景,Vol.39.

2014年12月19日金曜日

沖縄県・北大東島を巣立つ15歳 別れの親子相撲。NHK・にっぽん紀行より。

 12月18日午後7時30分から放映されたNHK・にっぽん紀行「沖縄県・北大東島を巣立つ15歳 別れの親子相撲」を見ながら,なぜか,涙がながれて止まらなかった。いまはもう遠いどこかに置き忘れてきてしまった少年時代の素朴な情愛に満ちた人と人との交わりを思い出す。遠い過去の故郷の,なんとも表現のしようのない不思議な記憶が蘇ってくる。それがまた情動の古層をくすぐってくる。その強烈な「なにか」が,長く生きたこんにちの孤独なこころをホワーっと包み込んでくる。この情感に久しぶりに触れる。

 そして,このドキュメンタリーに描かれた世界こそが「生きる」ということの素のままの姿であり,「根をもつ」ということの実態のひとつなのだ・・・と感慨にふける。

 番組の内容はきわめて単純明快。中学を卒業したら北大東島を離れて沖縄本島の高校に進学する父親と息子,母親と娘の二組の親子にスポットを当てたドキュメンタリー。島の人びとが見守るなかで,父親と息子は相撲をとり,母親と娘は腕相撲をやって別れの儀礼を行う。ただ,これだけの話である。

 しかしながら,沖縄県とはいえ,大東島諸島は沖縄本島から遠く離れた東の海に浮かぶ小さな島である。高校進学によって一度,島を離れたらそんなにかんたんには帰っては来られない。海人である父親は息子が小さいときから一緒に舟に乗せて漁にでて,手塩にかけて育ててきている。息子は父親を尊敬し,高校を卒業したら島に帰って父親と同じ海人になることを夢見ている。父親は海人で生計を立てるのは難しくなってきているから,できれば別の職業につくことも視野に入れながら,息子の将来に夢を馳せる。

 そんな父と子が,これは島のしきたりとして,別れの親子相撲をみんなの前でとってみせる。父親は,まだまだ15歳の息子なんかに負けるわけがない,と固く信じている。だから,あっさりと投げ倒して,もっとしっかりせい,と檄を飛ばしたいと虎視眈々としている。いっぽう,息子は息子で,もはや父親にも勝てるほどに成長していることを,意地でも見せつけてやりたいとこころに決めている。そこには,いまの都会ではめったに見ることのない親と子の情愛に満ちた絆がある。その二人が真剣勝負の一番相撲をとる。

 この相撲をよくみると,わたしたちが子どものころに村祭りでとった相撲とは違う。それは韓国でみたシルム(韓国相撲)とよく似ている。柔道着のようなものを着て,やや緩めの腰帯を結んでいる。土俵はなく砂場。最初に,お互いに「右四つ」にしっかりと組み合う。そのとき,右手首は相手の腰帯の内側に入れて,ひとひねりして手首に腰帯をまきつけてから腰帯をしっかりと握る。左手はそのまま相手の腰帯をつかむ。お互いに十分に組み合ったことを確認したところで,行司が両者の肩をポンと叩いて試合開始を告げる。

 土俵はないので寄り切りはない。立ち合いのぶつかり合いもない。相手を投げて倒すまで,お互いに組んずほぐれつしながら,相撲をとりつづける。このシルム型の相撲はなかなか勝負がつかない。なぜなら,さまざまな投げ技に対して,それぞれに対応する防ぎ技があるので,片方が投げ技を繰り出すと,かならず他方は足を絡めて防御に入る。だから,勝負には時間がかかる。

 この父と子も長い時間,組み合って,熱戦を繰り広げる。お互いに技をつぎつぎに繰り出す。すると,お互いにその防ぎ技でこらえる。父も子も真剣そのもの。父が強引な投げにでる。子は必死でこらえて,二人一緒に頭から土俵の砂に突っ込んでいく。行司は同体とみて,取り直し。

 右手はお互いの腰帯を巻き付けてから握っているので,投げられても離せない。お互いに握ったまま倒れていく。だから,一緒に倒れていきながら,体を入れ換えるようにして上に乗った方が勝ち。下になった方が負け。この父と子の対決は,わずかに子の体が上になって倒れ込んでいき,決着がつく。息子の勝ちである。

 この間,わたしの眼からはとめどもなく涙が流れる。そして,からだ全体が熱くなってくる。「いいなぁ」としみじみ思う。ふと,わたしが中学校を卒業するときに,父親と相撲をとったら,どんな風になっただろうか,と想像してみる。そう思い浮かべるだけで,父のからだの温もりを感じてしまう。このからだの触れ合いこそが,言ってみれば,自他の関係性のはじまり。それが父と子であれば,その感慨も一入であろう,と思う。

 そういえば,南大東島出身のNさんは,からだは小柄だが,相撲は強かったと聞いている。そうか,なるほど,と納得がいった。本土の相撲のように土俵があって,立ち合いから激しく攻め合う相撲を思い描いていたので,どうして,あのNさんが強かったのか不思議だった。このシルム型の相撲なら合点がいく。おそらく,守って守って守り抜き,相手のスタミナが切れたころを見計らって,さっと投げに出て,相手に覆い被さっていったのだろう,と。そうか,Nさんのあのねばっこい文体は相撲からきている,とこちらも納得。

 それはともかくとして,「別れの親子相撲」という,こんな相撲文化もあることを知り,いまさらながら相撲の奥は深いとしみじみ思いました。というところで,終わり。

2014年9月19日金曜日

嗚呼!日馬富士,右眼窩内壁骨折で休場。出血が止まらない,という。

 土俵の上には魔物/鬼が棲むという。と同時に,神が降臨する聖なる場所,女人禁制の聖域でもある。いまは釣り屋根だけになり,屋根を支える柱はなくなったが,屋根の四隅には四神(しじん)が祀られている。すなわち,東に「青龍(せいりょう)」,西に「白虎」,南に「朱雀(しゅじゃく),北に「玄武」が飾られている。四神相応ということばがあるように,大相撲の土俵はこれらの神々に守られているのである。この理念を土俵は継承している。つまり,官位・福禄・無病・長寿を併有する場であることをも意味している。

 この聖なる場=土俵上で,力士たちは命懸けで相撲をとる。立ち合いの頭と頭のぶつかり合いは,ときに脳震盪を起こしたり,頸椎に電気が走る(相撲用語で「しびれる」の意)ことがある。だから,多くの力士たちはこれを嫌がる。これを怖がり,嫌がる力士は上位には上がれない。その恐怖心を克服する強い意思・気持をわがものとした力士だけが上位に昇進していく。よほどの天賦の才能がないかぎり,少なくとも役力士にはなれない。

 そんな意地と意地のぶつかり合いが,大相撲の立ち合いだ。怖がった方が負け。稽古場で,至近距離の目の前で頭と頭がぶつかる音を聞くと,見ているこちらが目眩を起こすほどだ。初めて稽古場を訪れたときのわたしがそうだった。途中で吐き気を催したほどだ。それは,その場に立った者でなければ理解不能だと思う。それはそれはすさまじい光景だ。ぶつかり稽古や三番勝負に入ると稽古場の雰囲気は一変する。ピーンと張りつめた緊張感が漲ってくる。ここからが,本番さながらの稽古となる。迫力満点である。

 こういう厳しい稽古をとおして横綱の地位を手に入れた日馬富士と,三役経験者である嘉風が18日に対決した。小兵といわれる両者は,人一倍の厳しい稽古を経て,こんにちの地位を確保した素晴らしい力士である。わたしは,こういう小兵力士が好きだ。かれらが体格に恵まれた大型力士を倒すところに,大相撲の魅力を感じてきた。そのために磨き上げられた心技体の絶妙なバランスをわがものとした力士に,わたしは敬意を表したいほど好きだ。だから,この両者はいずれもわたしの熱烈なるご贔屓なのである。

 18日のこの両者の立ち合い。そこがすべてだ,勝負の分かれ目だ,と予想しながらじっと眼を凝らす。お互いに低い姿勢から頭と頭で当りあった。が,ほんのわずかに日馬富士の頭が左に逸れた。このとき,嘉風の頭が日馬富士の右眼窩を直撃した。このあとの展開は,これまた意外な経過をたどることになる。このことはここでは触れないでおく。

 勝負が終わった土俵下の日馬富士は右手で右目を抑えたまま動かない。すぐそばで嘉風が心配そうに見ている。しばらくその状態がつづき,やがて,日馬富士が気を取り直したようにして土俵上に上がってくる。すでに,右目が腫れ上がっている。最初,わたしは立ち合い後の激しい攻防の間に,嘉風の指が日馬富士の眼に入ったのだろう,と考えた。それにしては,こんなに早く眼が腫れ上がってくるのをみるのは初めてだ。

 しかし,その日の夜のネット情報では「右目眼窩内壁骨折」と報じられ,嘉風の頭が直撃したのが原因とあった。そうか,頭頂骨の固さに比べれば眼窩の内壁の骨は柔らかいのだ,と納得。今朝の新聞も同じ報道だった。手術をするかどうかは経過をみながら判断するという。手術をすれば全治3カ月,手術をしなくて済めば全治1カ月,という。なんとか,出血が止まって,手術をしなくても治る状態であってほしい,とわたしは祈る。

 今場所の日馬富士のアキレス腱である左足首の状態は悪くなさそうにみえた。この調子で前半戦を勝ちつづけていけば,最後の5日間の横綱・大関戦が面白くなる,とわたしは期待していた。久しぶりに日馬富士旋風を巻き起こすか,と。しかし,残念ながら,その夢はあっけなくついえさってしまった。こうなってしまった以上は治療に専念し,一刻も早い再起を待つしかない。

 日馬富士の絶好調のときの,あのアーティスティックな相撲を,いま一度みてみたい。白鵬にも鶴竜にもない,日馬富士の固有の世界だ。その再現をいまから期待し,じっと待つことにしよう。元気な姿で土俵にもどってきてくれることを。その間に,足首の治療にも取り組んでほしい。これさえ克服できれば,鬼に金棒である。新生・日馬富士の再登場を,いまから夢見ている。

 頑張れ!日馬富士!勝つことよりも「正しく生きること」を横綱の目標に掲げた人間・日馬富士にこころからのエールを送りたい。そして大学院生として学位論文にも挑戦してほしい。史上初の学位取得横綱への先鞭をつけてほしい。ひとりの熱烈なファンとして,まるごと,いまの日馬富士の努力に声援を送りたい。

2014年5月26日月曜日

千秋楽の一番。下手くそな八百長相撲。後味の悪さが残る。

 白鵬の圧倒的な強さだけが光った一番だった,と多くのメディアは絶賛するだろう。そして,白鵬の優勝を絶賛し,こころから言祝ぐことだろう。そして,日馬富士は優勝戦線から脱落して気落ちしたか,雑な相撲をとった,と。

 しかし,わたしの眼にはそうは写らなかった。
 これは日馬富士のひとり八百長だったのだろうか。それとも白鵬も承知の上だったのだろうか。あるいは,途中でわかったのだろうか。と,三つの見方が同時にわたしの頭のなかを駆けめぐっている。

 土俵上の相撲の流れをみるかぎりでは,日馬富士のひとり八百長,とみるのが自然だ。それにしては下手すぎた。最後の投げられ方(上手出し投げ)は,昨日の琴奨菊とまったく同じだった。まるで,格の違いをみせつけるような演出だった。あそこまでやってはいけない。少し眼の肥えた相撲ファンにはバレバレになってしまう。

 ひとり八百長でもなさそうだな,という見方もある。それは,控えに入ってからの白鵬の顔つきがいつもとは違っていた。いつもは,控えに入ってからも眼つきは鋭く,闘志を全面にみなぎらせている。しかし,千秋楽はそうではなかった。腰を下ろして座ったときから,どこか悟りきったようなおだやかな顔をしていた。目つきもどこかトロンとしている。このときから,わたしは「おやっ?」と思って,以後,土俵に上がるまでの白鵬の目つきを追った。ずっと静かな,そして柔らかなまなざしのままだった。

 土俵に上がってからは,いつもの白鵬の目つき・顔つきになった。日馬富士の方はいつもとまったく同じ顔つき。そして立ち合い。日馬富士はもろ手突きででたが足が動いていない。まったくいつもの立ち合いとは違う。白鵬は左から張手,そして,やや左に回り込んで左上手をとる。これで十分の組み手となる。日馬富士は左上手も引けないまま,右を差して,動こうとはしない。どうしたんだ,とわたし。動け,動いて動いて左の上手を狙え,さもなくば巻き替えて双差しを狙え,とわたし。しかし,一向に動こうとはしない。それどころか,日馬富士のやったことは両足を揃えて腰を低くして身構えたことだ。まるで白鵬の寄り身に備えているかのようにみせていたが,その意図は激しい寄り身をみせた上で,上手出し投げを打ってくれという合図を送ったのだ。

 白鵬は,よしわかった,とばかりにちょっと寄りをみせてすぐに出し投げを打った。日馬富士はなんの抵抗もしないでみごとに投げられ,転がっていった。これは日馬富士の思惑とはいささかズレがあった。日馬富士は白鵬の寄り身に備える体勢をつくったのだから,激しく寄り身をみせて,それを日馬富士が必死でこらえる,その場面を演出したかったのだ。その上で,出し投げを打ってくれ,と。だが,白鵬はほんのちょっと寄りをみせてすぐに出し投げを打った。さきを急ぎすぎたのである。少なくとも,あの場面は,真っ赤になって寄り身をこらえる日馬富士の見せ場をつくった上で,最後に出し投げを打つべきだった。そうすれば申し分のない完璧な八百長だった。まだまだ白鵬はわかっていないなぁ,そして,下手くそだなぁ,というのがわたしの見立て。

 さて,みなさんの見立てはいかがなものだったのでしょうか。

 もうひとこと加えておけば以下のとおり。
 稀勢の里が,もしも負けていたら,日馬富士は勝ちにいっただろう。しかし,稀勢の里が勝ったので,ここは白鵬に華をもたせてやろう,ということになったのだろう。その意味では,日馬富士のひとり八百長。でも,最初から仕組まれていた可能性もなきにしもあらず,という見方もある。

 これもまた大相撲の醍醐味というもの。こういう楽しみ方もあり,というのがわたしのスタンス。

2013年3月12日火曜日

ダン族のすもうは「人間という生き物たちが共同の生活を組み立てるその役割をになっている」(西谷修)。

 3月9日(土)の研究会は,とてもいい雰囲気のなかで展開し,まことに稔り多い成果をあげることができました。講師をつとめてくださった真島一郎先生にこころから感謝しているところです。参加してくださったみなさんも,とても喜んでくださり,わたしとしてはほっと一息というところです。

 いくつもの面白い議論があったのですが,まずは,わたしにとって特筆すべきコメントがあったこと,そして,そのコメントが強烈な印象を残しこと,このコメントはこれからのわたしたちの研究の行方にも大きな影響をもつものであること,がありましたので,その話題を記憶が鮮明なうちに記録しておきたいと思います。

 それは西谷修さんが指摘されたコメントです。結論からいいますと,
 「ダン族のすもうは,たんなる余暇の楽しみではなく,たとえば沖縄の島々の人たちにとっての祀りとか,ニガイの儀礼のように,人間という生き物たちが共同の生活を組み立てるその役割をになっているのでは・・・・?」
 という内容のコメントでした。

 実際には,もう少し長いお話をされた上で,このような結論を導き出すかたちでなされました。真島先生はこの西谷さんのコメントを受けて,さらに補強するようにして,詳細にその根拠となることがらについてお話してくださいました。そこで,はっと気づいたのですが,西谷さんのコメントは,わたしのような,近代的な二項対立的な思考法になじんでしまった人間に警告を発するためのものであった,ということです。つまり,つい習慣化してしまっている近代の二項対立的思考の呪縛から解き放ち,もうひとつ違う次元に立つ思考法を取り入れるべきではないか,という深い意味が籠められていたということです。その理由は以下のとおりです。

 ダン族のすもうは農作業のできない乾期に行われるということ,そして,雨期に入ると農繁期に入るのですもうは行われない,というわけです。これがダン族のすもうの大きな枠組みです。すると,わたしたちは,いともかんたんに「ああ,農閑期の暇なときの娯楽・楽しみとしてすもうが行われているのだ」と思い込んでしまいます。そして,労働と余暇との二項対立で整理すると,いかにももっともらしく聞こえ,多くの人が納得しやすいというわけです。こういう近代的な思考癖に対する警句として,西谷さんのコメントがなされたのでは,というわけです。

 秘密結社を組織しているダン族の人たちの「すもう」は,そんなに単純なものではない,ということです。むしろ,結社社会を組み立てるためにはなくてはならない文化要素,つまり,必要不可欠のものとして「すもう」が存在するのでは,というわけです。秘密結社の中核にあるものが仮面だとすれば,「すもう」はもうひとつの仮面に相当するのではないか,という次第です。

 ここまで考えてきますと,わたしの思考はジョルジュ・バタイユが『宗教の理論』のなかで展開した「祝祭空間」の成立の問題につながっていきます。それは,いささかややこしい議論なのですが,ごく簡単に整理してしまえば,以下のようなことになろうかと思います。バタイユは,祝祭空間は「有用性」を打破するために,つまり,事物化したものをもう一度,内在性の世界に送り返すという意味が原点にある,といいます。だとすれば,祝祭空間では,ただ,ひたすら消尽が繰り広げられるということになります。それは,マルセル・モースのいう贈与でもあります。

 こうした消尽や贈与もまた,文明の進展とともに「有用性」に絡め捕られていきます。そして,ますます事物化していきます。その成れの果てが近代スポーツ競技としての「レスリング」だというわけです。

 西谷さんは,こういう思考の枠組みを念頭におきながら,さらに,ピエール・ルジャンドルのドグマ人類学的な発想を加味して,表題のようなコメントをしてくださったのでは,というのがわたしの推測です。

 さらに,付け加えておけば,「人間という生き物たちが共同の生活を組み立てるその役割」という西谷さんの発想の含意としては,シモーヌ・ヴェイユの『根をもつこと』とも響きあうものがある,とわたしは受けとめています。つまり,結社社会を組織するということは,まさに,ダン族としての「根をもつこと」のための文化装置として仮面やすもうを共有するということでもあるからです。

 というような次第で,西谷さんのコメントは,考えれば考えるほど重い意味を帯びてきます。そして,このような視点を加えることによって,これまでのスポーツ史やスポーツ人類学やスポーツ文化論の語り口も,みごとにひっくりかえっていくことになります。それほどに大きな問題を秘めたコメントであった,とわたしは考えています。そして,これからの研究会でも,このコメントは継続して議論していきたいものだと考えています。

 以上です。

2011年10月30日日曜日

「死」と相撲の関係について。

昨日(29日)の「ISC・21」10月東京例会で久しぶりに気持が入り,思考がフル回転し,記憶に残る例会になった(わたしひとりだけだったかもしれないが)。現段階での思考のとどくかぎりの,ぎりぎりの議論ができた,と思うからだ。それを挑発してくれたのは,井上邦子さんのプレゼンテーション。テーマは「死を賭すモンゴル相撲を考える」。

このところ井上さんの研究は,はじけたように新たな展望をみせてくれる。その視点がフレッシュで魅力的だ。だから,わたしなどは妙に興奮してしまう。ふつうなら見過ごしてしまうところに焦点をあて,これはなぜか,と問う。まことに鋭い指摘にであう。

今回は,モンゴル相撲に関する記述を,三大古典文学にさぐり,ひとつの重要な疑問点を提起してくれた。モンゴルの三大古典文学とは,『ゲセル・ハーン物語』『ジャンガル』『元朝秘史』。これらの古典文学のなかに記述されている相撲には,あるひとつの共通点がある,という。それは,決闘ではないのに,相手を殺し,しかもその亡骸を引きちぎって捨ててしまう,という描写だ,という。

決闘は相撲とはまったく別個に扱われていて,決闘そのものの描写として登場し,完結している。しかし,相撲は宴の余興のようにして「取り組まれる」にもかかわらず,最終的には「殺して」しまい,亡骸を「引きちぎって」ばらばらにし,「捨てて」しまう,というのである。

相撲は決闘とはことなる(力を競い合う)「取組み」であるにもかかわらず,最後は,無残にも相手を殺してしまい,その亡骸をばらばらにして,捨ててしまうのは,なぜか?と井上さんは問題提起をする。そして,そこから井上さん独自のアナロジーが展開する。

このプレゼンテーションを聴きながら,わたしは「死」と相撲の関係に思いを巡らせていた。日本の相撲もノミノスクネはタイマノケハヤを「蹴り殺して」いる。これも天皇が「相撲を取らせた」という記述のなかでのことである。もうひとつの「国譲り」神話のなかでも,タケミカズチがタケミナカタと相撲を取ったが,タケミナカタが途中で逃げだしてしまい,諏訪でまで逃げたがつかまってしまい,「命だけは助けてくれ」と頼み,国を譲ったという話になっている。だから,わたしは日本の古代の相撲は「決闘」である,と単純に考えてきた。

さらには,ギリシア神話のなかにも,ある男が旅人をつかまえて「レスリングをしよう」と声をかけ,それに応じた旅人を「殺して」しまっている。ペロップス神話も同じだ。娘の婿取りのために大王が戦車競走を仕掛ける。それに応募した婿候補はつぎつぎに負けて大王に「殺されて」しまう。最後に勝ったぺロップスは大王を殺し,婿となり,その土地を領有する。それがギリシアのペロポンネソス半島の名前の由来だ。

ドイツ中世の英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』のなかにも,女王の婿選びのための競技会が描かれている。ここでも女王と競技をして負けた相手はみんな「殺されて」いる。

こういう例をあげていくとまだまだいくつもある。ギリシア神話のなかには,女王と駆けっこをして勝てば婿,負ければ殺される,という話もある。つまり,相撲や競技による「力比べ」はみんな,最後には「殺されて」いる。もっと言ってしまえば,「死を賭した力くらべ」なのだ。だから,わたしはこれらすべてが「決闘」だと考えてきた。

しかし,井上さんは,そうは考えない。モンゴル相撲の記述を三大古典文学にさぐり,明らかな「決闘」と「相撲をとる」とは分けて考えるべきだ,と提起する。つまり,最初から武器をもって闘う「決闘」と,武器をもたないで「力くらべ」をする「相撲」とは,分けて考えるべきだ,と。そして,そうすることによって「相撲」(力くらべ)のなんたるか,すなわち,相撲の本質により深く迫ることができるのではないか,と。

この井上仮説の感性の鋭さに,わたしは痛く感動し,同時に,わたしの思考にスイッチが入り,一気にフル回転しはじめた。ここからさきの話は,記述するとしたら大論文になってしまうので,ブログにはふさわしくない。また,いつか機会をあらためて,小さなテーマに分けて考え,書いてみたいと思う。

研究会というのは,こういうことが起きるから面白い。これは一種の「場」の力でもある。まさに至福の時である。残念だったのは,井上さんが懇親会に参加することなく,急いで帰途につかれてしまったことだ。あの思考の余韻を,懇親会で,さらに追い込んでみたかった。その時の到来をいまから楽しみにしているところ。


2011年9月27日火曜日

白鵬20回目の優勝。透けてみえてくるシナリオ。

中国に行っている間に大相撲は千秋楽を迎えていました。
そして,白鵬の20回目の優勝。まずは,おめでとう。これで,かれの念願であった大横綱への階段をひとつクリアしたことになります。モンゴル相撲の大横綱だった父親への最大のプレゼント。新聞によれば,初めて優勝パレードの車に父親を乗せたという。よほど嬉しかったのでしょう。

それと,もうひとつ,今場所の話題は琴奨菊。大関とりの場所。それも,みごとに12勝をあげて達成。そのあとを追うようにして,稀勢里も12勝をあげ,来場所の大関とりに名乗りをあげました。後半戦は大いに盛り上がっただろうなぁ,と取組み表一覧をみて,そう思いました。

ひとつだけ残念だったのは,日馬富士。前半戦,気負いすぎたのか,無駄な星をいくつも落としてしまいました。やはり,大関,横綱をねらう場所の「こころ」の置き所がいかにむつかしいか,ということがよくわかります。そこを通過してこそ,大関,横綱と呼ばれるに値するというもの。何回もの試練を一つずつクリアして,最終的に突破すればいい。日馬富士にはそれだけの素質がある。あとは「こころ」の問題を時間をかけて向かい合うこと。そこをクリアした暁には,日馬富士は白鵬にとって恐るべき脅威となろう。

一つひとつの取組みの映像をみる機会を失してしまいましたので,仕方がありません,星勘定をじっと眺めながら,もうひとつの大相撲の楽しみ方を味わってみることにしました。

ここからは,完全なるわたしの個人的なアナロジー。透視術。
対象は,白鵬の13勝2敗,琴奨菊の12勝3敗,稀勢里の12勝3敗,そして,日馬富士の星の内容。この4者の星勘定をよくよく眺めてみると,まことに面白い大相撲のもうひとつの世界が透けてみえてくるように,わたしには思えました。

まずは,白鵬の二つの黒星。いずれも,次期大関と角界が期待する琴奨菊と稀勢里の2力士に献上したものだ。わたしは思わず「白鵬は大人になったなぁ」と唸ってしまいました。そして,文字どおりの「大横綱」になった,と感心してしまいました。なぜなら,横綱はただ強ければいいということではないからです。むしろ,後輩を本場所の土俵の上で育てながら(星を譲りながら),最終的には「優勝」をわがものとすること,これこそが「大横綱」への道なのだ。

かつて,千代の富士は,貴乃花に星を譲って(まことに不思議な負け方をして),その一番を最後に引退しました。あまりにあっけない幕切れではありましたが,他方では「なるほどなぁ」と感心もしました。こんな例はほかにもあります。が,ここではこの一番だけにとどめておくことにしましょう。

そして,千秋楽の白鵬と日馬富士の一戦。この一番は,なにがなんでも日馬富士は勝ってはならない一番であるということを,日馬富士はわかっていたと思います。ですから,がっぷり右四つとなり,左からの上手投げに転がっていきました。これでいいのです。問題は,右四つの態勢で,どこまで抵抗することができたか,そこにあります。おそらく,日馬富士のことだから,このときの態勢について十分にからだに記憶を叩き込んだことでしょう。その経験が,つぎの場所に生きてきます。

もし,このとき,日馬富士が勝ってしまうと,白鵬,琴奨菊,稀勢里の3力士が12勝3敗となり,優勝決定戦へとなだれこみます。観客はそれを大いに期待しただろうと思います。が,それはまずいのです。それをやってしまうと,のちのちに,ややこしいことが起きてしまいます。なぜなら,大相撲の力士たちは,みんな「仲良し」なのです。その「和」をくずすようなことはしてはならないのです。ですから,もし,優勝決定戦になったとしても,みるべき相撲内容にはならなかったでしょう。しかも,いとも簡単に白鵬の優勝が決まってしまうはずです。このからくりを知らない観客は喜んだとしても,玄人すじは喜びはしません。

日馬富士はそこまで読み切った上で,みずからのはたすべき役割の相撲をとりました。これがわたしのアナロジー。だとすれば,来場所,来々場所の日馬富士の相撲に注目が集まります。そして,おそらく,3場所後には横綱になっているでしょう。白鵬もその後押しをするでしょう。そして,稀勢里も,来場所に12勝をあげて大関へ。

これが,わたしの考える「シナリオ」。幕内の力士であれば,このくらいのことは十分に承知していることでしょう。そうして,大相撲全体が盛り上がらないかぎり,二度と「満員御礼」の垂れ幕は下がらなくなってしまうでしょう。それは,自分たちのおまんまの食い上げになってしまうことを意味します。ですから,そのことのためには,みんなが無言で協力する。これを,間違っても「八百長」と呼んではなりません。

もし,これを「八百長」と呼ぶのであれば,政界,財界,学界,メディア界は「八百長」だらけの「ドロ沼」そのものだ,と言わなければなりません。むしろ,こちらの方がはるかに罪が深いと言わなければなりません。メディアに大相撲を断罪するエネルギーが残っているのなら,それよりさきに,フクシマ原発をめぐる責任問題を弾劾してほしい,とわたしは考えています。

さてはて,来場所がどのような展開になるのか,わたしはいまから胸がどきどきしてきます。わたしの描いたシナリオどおりに展開するのか,はたまた,それとはまったく別のシナリオが展開することになるのか,興味は尽きません。

実力と演出という,虚実皮膜の間(あわい)にこそ「真実」は宿る,といいます。大相撲の面白さは,ひとくちに言ってしまえば,まさに,ここにある,という次第です。たんなる勝ち負けだけではなく,職業として角力社会を生きるということは,ことほど左様に単純ではありません。それらのすべてを視野にいれて大相撲を堪能すること,これが日本文化としての大相撲を観照するための基本ではないか,とわたしは考えています。

来場所の大相撲は間違いなく面白くなりそうです。
注目は,日馬富士と稀勢里です。とりわけ,後半戦が楽しみです。
日本相撲協会に成り代わって,乞う! ご期待!

2011年5月24日火曜日

高槻市の上宮天満宮,今城塚古墳を見学。

今日(23日)の午後に,高槻市の如是公民館から依頼されていた講演を済ませて,さきほど,もどってきました。演題は「相撲ってなに?古代相撲から現代相撲まで」というもの。この演題は,如是公民館の富田英子さんに決めてもらいました。というのも,富田さんがわたしのブログを読んで,野見宿禰に関する記述をみつけたのが講演依頼のきっかけだった,と聞いたからです。

この講演に先立って,午前中に,富田さんが上宮天満宮と今城塚古墳を案内してくださいました。
上宮天満宮(じょうぐうてんまんぐう)では,代表役員という肩書の森嘉和さんが応対してくださり,いろいろと貴重な勉強をすることができました。事前に,富田さんが『てんじんさん風土記』という冊子をおくってくださっていたので,ある程度の予習はできていました。
そこで,まずは,ここの境内にある野身神社。この「野身」という文字が気になりました。で,さっそく,あちこち文献をあたってしらべてみましたら,いろいろの表記があるということがわかりました。たとえば,以下のようです。
野見,能見,能美,弩美(のみ),祈祷(のみ),乃禰(のみ),濃美,濃味・・・・という具合です。
要するに,野見一族が,あちこちに分散して,それぞれに好みの当て字を用いて名乗っていたことの名残だろうと,いまのところは推測しています。
それはちょうど,安曇野に拠点をおいた「あずみ」族と同じだなぁ,とかんがえています。安曇,安住,渥美,安積,などのヴァリエーションがあるのと同じだ,と。

上宮天満宮に野身神社があることは,なんの不思議もありません。天満宮は菅原道真を祀った神社ですから,その祖先である野見宿禰を祀るのは当たり前のことでもあります。もちろん,北天満宮にも野見宿禰神社があります。
が,驚いたのは,上宮天満宮は,北天満宮よりも2年前に建立された,という事実です。しかも,この上宮天満宮のある高槻市一帯は,野見一族の拠点になっていた,という事実です。この二つの事実を知って,わたしの頭のなかはフル回転をはじめました。奈良県には「出雲」と呼ばれる土地があって,野見宿禰はそこに住んでいたといわれています。そして,この「出雲」と出雲大社のある出雲とを混同して,野見宿禰は出雲の人,と考えられているからです。わたしも長い間,野見宿禰は出雲の人だと思っていました。が,この事実を知って仰天です。

高槻市には,野見,菅原,という地名がいまも残っていて,その近くには「野見郷」(のみのさと)と呼ばれている土地もあります。それは,上宮天満宮からまっすぐ南にくだってきた地域につらなるようにしてあります。ということは,上宮天満宮ができてからのちも,野見宿禰の子孫たちが,そこに居住していたとかんがえていいだろう,ということです。

さらに驚いたことは以下のことがらです。
富田さんの案内で,今城塚古墳を前にしたときです。発掘したときにでてきた埴輪が,ほぼ,その位置に並べてあるのだそうですが,それがとてつもない数の多さでした。雨が降っていたのと,時間が足りなくなっていた(講演前でしたので)のとで,ゆっくりと見学するわけにはいきませんでしたが,ここは,もう一度きて,じっくりと巨大な今城塚古墳の全体を歩いてまわりながら,感じ,考えてみたいと思いました。そこに並んでいた埴輪の一部に,力士埴輪があって,それらは相撲の所作と考えられるポーズをとっています。そのなかの一体は,神官や巫女さんの集団の先頭に立って,なにやら相撲の所作をしています。その近くには,祭祀が執り行われたであろう二階建ての建物を表した埴輪がいくつも置いてありました。この力士埴輪を眺めているかぎりでは,力士は「すまい」(=素舞い)をしているであって,相撲をとっているわけではありません。「素舞い」とは,祈りの所作が大きくなったもの,つまり,「舞い」=「祈り」=「祈祷」(のみ)そのものである,ということです。

このことと同時に,この今城塚古墳から,これほどの大量の埴輪がでてくることの意味を考えてみると,もっと驚くべきことが明らかになってきます。埴輪を焼くようになったのは,『古事記』によれば,野見宿禰が天皇に上申したのがはじまりだった,ということになっています。以後,埴輪が多く制作されるようになった,というのが一般的な理解です。そして,この埴輪は土師氏という職能集団が焼いたものであります。その長ともいうべき人物が野見宿禰だったわけです。そして,ここにおびただしい数の埴輪が出土するということの意味もおのずから明らかになってきます。

となると,野見宿禰は,出雲の人ではなくて,ここ高槻の人ということになってきます。
だからこそ,菅原道真が太宰府に流されたとき,京都を出発して,最初に宿泊したところが先祖の拠点であったここ高槻ではなかったか,とわたしは考えます。そして,太宰府に到着した菅原道真は2年後には失意のうちに没してしまいます。

それからまもなく京の都ではたいへんなことが起こります。天皇の子どもたちが立て続けに病気になって死に,右大臣であった菅原道真に冤罪をかぶせた左大臣一族がつぎつぎに奇病にかかって死んでいきます。さらに,雷が鳴りつづけ,疫病が大流行します。この現象を京の都の人たちは菅原道真の怨霊による祟りだと受け止めます。そして,菅原道真の御霊を鎮めるために北天満宮を建立します。
が,その前に,菅原道真の死後,ただちに,高槻に住む野見郷(のみのさと)の人びとは天満宮の造営にとりかかったのではないか,とわたしは考えます。その結果,北天満宮に先立つ天満宮という意味で「上宮天満宮」と名づけられたのではないか,とこれもまたわたしの推測です。

というようなわけで,今回の高槻市如是公民館での講演がご縁となって,とんでもない大発見が(少なくともわたしにとっては)ありました。それもこれも,みんな,富田英子さんのお蔭です。富田さんが,もし,わたしのブログを読むことがなかったら,この講演は成立しなかったわけですから。富田さん,お世話になりました。ありがとうございました。
いつか,チャンスをつくって,必ず,もう一度,時間をかけてあちこちの古墳めぐりをしたいと考えています。そのときは,ぜひ,お付き合いくださいますよう,お願いいたします。
取り急ぎ,富田さんへのお礼を兼ねて,このブログを捧げます。ありがとうございました。

2011年2月28日月曜日

「油断騎乗」で黛騎手,30日の騎乗停止処分。

 競馬では「油断騎乗」といいます,という情報を太極拳の兄弟弟子のNさんがメールで知らせてくださった。関連のURLも付記して。とてもありがたいことです。感謝あるのみ。
 で,そのURLを開いてみたら,つぎのような記事が載っていた。
 黛騎手を30日間,騎乗禁止
 日本中央競馬会(JRA)は26日,第2回小倉競馬第1日の第12レースを黛弘人騎手に,「注意義務を著しく怠った油断騎乗があった」とし,27日から3月28日まで騎乗禁止の処分を科した。騎乗停止30日は,レースの裁決委員が科すことのできる最長の処分。
 黛騎手はメジロガストンに騎乗したが,決勝線手前で2完歩ほどを追う動作を緩めた結果,1着とハナ差の2着に終わった。(時事通信)
 競馬は公営ギャンブルという性格もあってか,騎手の騎乗の仕方についてきびしい眼を光らせているなぁ,としみじみ思う。それにつけても,大相撲は甘いなぁ・・・とこれまたしみじみと思う。
 大相撲にも,じつは,「無気力相撲」を禁止するための監察委員会なるものが存在していて,毎場所,「無気力相撲」を監視していることになっている。しかし,どうやら機能していなかったようだ。元力士,それも,かなりの上位にまで上り詰めた人たちの眼から見れば,「無気力相撲」などは,すぐにわかるはずだ。にもかかわらず,この数年の間,「無気力相撲」ということばがあることすら,忘れていた。だから,わたしは「無気力相撲」は消えてなくなったのだ,と信じていた。しかし,八百長問題が,いまも色濃く残存していることを知り,組織のたがの緩みを感じてしまう。
 監察委員会の委員長は,貴乃花親方である。かれのように清廉潔白を貫いてきた大横綱であれば,びしびしと「無気力相撲」を摘発し,処分をしていくだろうと期待していた。しかし,どうやらなにもやってなかったようである。これでは,貴乃花が理事となり,監察委員会委員長となった意味がどこかにふっとんでいってしまう。
 大相撲の八百長を,土俵の上での取り組みをとおして見破るのはきわめてむつかしい,と言われてきた。たしかに,そのとおりなのかもしれない。しかし,貴乃花のような,八百長をいっさい拒否してきたといわれている大横綱の眼をもってすれば,わたしは見破ることは可能だと信じている。もちろん,他の元力士だって同じだ。にもかかわらず,その眼が機能していないとなれば,それこそが大問題である。たぶん,機能させると困る問題が,その背景にはあるのだろうと推測している。それほどに相撲界を生き延びていくということは,われわれ通俗の世界とはちがって,ちょっと考えられないほどの複雑怪奇さなのであろう。
 この複雑怪奇さのなかに,じつは,大相撲の良さも悪さも全部詰まっているのだ。ここを,どの程度まで暴けばいいのか,その手加減はきわめて微妙なところである。かといって放置しておくわけにもいかず・・・・。日本相撲協会の苦悩たるや尋常一様ではない(はずだ)。
 でも,ここはひとつ蛮勇をふるって改革すべきは改革し,温存すべきは温存するという覚悟が求められている。組織のピンチは改革のチャンスでもあるのだから。この機会を逃してはなるまい。公益法人とかなんとかは,もっとあとの問題。いまは,大相撲を存続させるのかさせないのかの「関が原」の戦いの真っ最中なのだから。
 その意味でも,大相撲とはなにか,という根源的な問いをみんなで発しつつ,みんなでその答えを模索していくときなのだ,とわたしは考えている。
 競馬の話がそのまま大相撲の話になってしまった。
 そんな含みもあって,Nさんはわたしに情報を提供してくださったに違いない。だから,わたしとしても,それなりの応答をしてみたつもり。
 このブログが〔未完〕のままの段階で,すでに,コメントが入っていました。わたしのこころに響くものがありましたので,珍しくわたしも応答しています。コメントの方も併せて確認していただければ幸いです。

2011年1月25日火曜日

大相撲は世界化できるか。否。

 22日の「山焼きの会」(1月奈良例会)での合評会の中で,わたしへの問いに,「大相撲は世界化できるのか」というものがありました。わたしの結論は「否」。なぜか。そのときにお話したその理由について書いておこうと思います。
 まず,「大相撲」と「相撲」ということばの概念をきちんとしておきましょう。「大相撲」とは,こんにちわたしたちがテレビでおなじみの日本相撲協会が組織している興行相撲のことを意味します。それ以外の相撲は大相撲とはいいません。他方,「相撲」は,大相撲も学生相撲もちびっこ相撲もふくめた普通名詞として,一定の形式をもった(主として,ルールと制度が確立している)ものを意味します。その他にも,わたしは「すもう」ということばを用います。つまり,大相撲でもない,相撲でもない,その他の相撲のようなものをひとくくりにして「すもう」と呼びます。
 以上がわたしの相撲を論ずるときの前提です。そして,以下が本論。
 まずは,結論から。「相撲」の世界化は可能。しかし,「大相撲」の世界化は不可能。
 その理由は以下のとおりです。
 「相撲」の世界化はすでに進展していて,「世界相撲選手権大会」も開催されています(1992年以後)。「ヨーロッパ相撲選手権大会」や,国別の選手権大会も,それ以前から開催されています。ルールも日本発のアマチュア相撲のルールに準拠して行われています。ただし,若干の文化変容が起きていることは事実です。たとえば,土俵ではなくマットが主流。ということは,土俵という概念が基本的なところで違います。つまり,体育館の中でも,野外でも,相撲用のマットをセットすればどこでも土俵ができる簡易式の土俵と,土を盛り上げて,その上に砂を撒いた土俵とでは,相撲の基本的な身体技法(たとえば,摺り足)までもが違ってきます。のみならず,大相撲のように土俵祭りをとおして神の降臨を待つというような祭祀儀礼をとおして聖域化される土俵とは,まったく別物と言わざるを得ません。つまり,日本の伝統的なアニミスティックな神信仰(神道)は,きれいに抜け落ちています。ここが,相撲のグローバリゼーション(世界化・国際化)にともなう,もっとも深いところでの変化・変容ということになる,とわたしは考えています。
 で,この土俵に典型的に現れていますように,日本の大相撲を世界化することは不可能,というわけです。土俵の他にも,たとえば「髷」を結うことは力士の必須の条件になっています。また,場所に入るときの服装も,力士の番付上の地位によって決まっています。つまり,和装です。あるいは,行司さんの装束もたいへんです。このように一つひとつ数えていけば,まだまだあります。こうした日本の伝統的な様式美をどのようにして輸出していけばいいのか,と考えたときどうしても大きな壁に突き当たってしまいます。
 というようなわけで,大相撲が日本から外にでていって,そのまま伝統的な様式美を保持したまま世界化することは不可能だ,というのが現段階でのわたしの考えです。がしかし,日本の国内で開催される大相撲を支える力士たちが「国際化」することは可能です。現に,その進展ぶりを,わたしたちは目の当たりにしています。ですから,このことは説明するまでもないと思います。もうすでに,大相撲の番付表のほぼ半分は外国出身の力士です。三役以上の力士でいえば,圧倒的に外国人力士が多数を占めています。一部には,日本の大相撲が外国人力士たちによって乗っ取られてしまうと危惧する人もいます。ですから,日本相撲協会は,一部屋に一人以上の外国出身力士の登録を認めていません。このように,大相撲の力士の数だけで考えれば,もうとっくのむかしに大相撲は国際化している,ということになります。
 また,外国人力士の代表格である横綱白鵬などは,日本人以上に日本人になろうとしています。日本の国籍をとって,日本人の女性と結婚し,日本の相撲の歴史を熱心に勉強しています。とくに,双葉山を理想の力士として尊敬し,その伝記なども読んで,その理想像に近づこうと努力しています。こういう白鵬のように,日本人になるための努力をまじめにしている力士は比較的多いと聞いています。つまり,そこのところをうまく通過しないことには,外国人力士は大相撲の社会では生きてはいけないからです。逆に,日本人力士の方が,日本の伝統社会の礼儀・作法などをないがしろにする挙動が多いとも聞いています。つまり,いまの若者たちは日本人としての躾けとは縁遠い存在だという次第です。ひょっとすると,この部分でも日本人力士と外国人力士との間に逆転現象が起きてくるかもしれません。
 というような次第で,大相撲がそのままの様式美を保持したまま世界に普及していくとは考えられません。が,相撲の方の国際化は可能であろう,と思います。しかし,それでもなお,その相撲はわたしたちが考える阿吽の呼吸を合わせて立ち上がるというものとはほど遠いものになっている,と聞いています。つまり,阿吽の呼吸を理解するのはとても困難なので,「1,2の3」で立つ,というように教えているそうです。もっと言ってしまえば,きわめて機械的な立ち会いになってしまっている,というのです。当然のことながら,相撲道というような考え方はどこかに消え失せてしまい,完全なる「近代スポーツ」に変化・変容した相撲になってしまいます。これは,伝統スポーツが近代化して「近代スポーツ」となるときの,ひとつの必然というべきでしょう。
 この道は柔道や剣道も同じです。
 日本の伝統的な柔道は国際化すると「JUDO」となり,わたしなどが考えるには,もはや,似て非なるもの,まったく別種の近代スポーツが誕生したという印象です。このことは剣道でも同じことが起きています。また,中国の太極拳でも同じことが起きています。つまり,近代化すること,あるいは,国際化することの背景には必ずそういう問題が隠されています。
 ある特定の地域や社会で伝承されてきたバナキュラーな(土着文化的な)スポーツは,近代化と同時に,そのバナキュラー性を放棄することになります。つまり,土着的な宗教性をすっぽりとそぎ落とすことが,普遍性を求める「近代化」の前提条件となるからです。近代スポーツは,すべて,その道を通過することによって成立した近代に固有のスポーツ文化です。ですから,一見したところ,無色透明なものにみえます。
 ですから,大相撲を無色透明なものにしてしまえば,それはもうまったく別のスポーツ文化になってしまう,とわたしは考えています。ですから,相撲はこれからも世界に向けて広く普及していくと考えられますが,それらは日本で培われてきた「相撲」からはどんどん離れていって,それぞれの地域の文化と融合することによって,さまざまに文化変容していくことは間違いありません。
 というような次第で,相撲の国際化は可能,しかし,大相撲の国際化は不可能である,これがわたしの現段階での考えです。
 みなさんのご意見をお聞かせください。

2010年9月28日火曜日

新田一郎さんの『相撲の歴史』再々読。

 新田一郎さんの『相撲の歴史』(講談社学術文庫,2010年7月)を再々読。いま,相撲の通史として読むにはもっともよい本。
 なんといっても,いまも土俵に立ち,学生さんたちと一緒に稽古をしている現役の力士であり,東大教授。相撲をこよなく愛していて,土俵だけでは足りず,テレビ観戦をしている奥さんを相手に,実際に相撲を取りながら「解説」をするほどの熱の入れよう。そのあふれるばかりの相撲への「愛」が,この本を読んでいてひしひしと伝わってくる。だから,読んでいて心地よい。
 それだけではない。新田さんは,いまは,法学部教授だが,もともとは文学部の日本史を専攻した人だ。しかも,中世法制史が専門。だから,古代の相撲節(すまいのせち)・相撲人(すまいびと)の制度がどのようにして成立し,中世に入って相撲節が制度的に崩壊し,相撲が見せ物化していく過程をみごとに解きあかしてくれる。
 新田さんの説によれば,相撲節によって一定の様式化をはたした相撲は,やがて庶民の娯楽として普及するところとなり,相撲人の系譜につらなる人たちは社寺の祭礼相撲へと転じ,次第に芸能化していった,という。しかも,その土壌は猿楽や能と同じで,地方の社寺を巡回する芸能集団を形成して相撲人の命脈を保った,という。したがって身分もきわめて低く,猿楽などと同様,賤民あつかいをされながら,地方の社寺の祭礼を彩る芸能の一つとして相撲が演じられていた,というのである。ところが,これまた猿楽と同様,武士の支配階級の目にとまり,お抱えの相撲人となっていく。ちょうど,観阿弥・世阿弥親子が,室町幕府の将軍足利義満に見出され,一気に世の注目を浴びたように,相撲もまた武士階級の娯楽として歓迎され,武家屋敷で貴賓を迎えての芸能の一つとして観賞されたというのである。
 つまり,新田さんの言うには,相撲は「芸能」となったことによって命脈を保つことができたのだ,と。そして,相撲は「芸能」になることによって,真の「相撲」となることができたのだ,という。このあたりの論の展開はとても魅力的で,ぜひ,ご一読をお薦めしたい。しかも,新田さんは,こんにちの大相撲も「芸能」でいいのだ,と言い切る。いや,「芸能」として磨きをかけることにこそ「大相撲」の価値があるのだし,存在理由があるのだ,ともおっしゃる。それに追い打ちをかけるように,大相撲が勝利至上主義に舵を切ったのは,天皇杯という賜杯制度が確立した1926年以後のことだ,という。それまでの大相撲は,勝負預かりや引き分けがいっぱいあって,勝敗の決着がつくものに迫るほどだったとか。優勝杯が授与されるようになってから,大相撲の取組の内容は一変したという。つまり,それまでの大相撲は,勝ち負けよりも「芸能」としての「技芸」のせめぎ合いをショウとしてみせていたのだという。
 断わっておくが,新田さんが,こんなに露骨に極論を展開しているわけではない。すべて,わたしが読み取って,編集すると,こういうことになる,という話である。お間違いのないように。つまり,新田さんの書かれた文章を丹念に読み込んでいくと,最終的には,こういうことが言いたかったに違いないというわたしの読解である。
 まあ,いずれにしても,この本はおもしろい。とりわけ,新田さんも書いていらっしゃるように,これまでの相撲の歴史書があまり取り扱ってこなかった「中世」に力点をおいているという点で,この本の存在価値がある。これから,もっと読み込んで,わたしなりの大相撲の改革問題について考えてみたいとおもう。そのための絶好の導きの書である。いまも,問題になっている「相撲は日本の国技である」という根拠は,どこにも見当たらない。1909年に国技館ができたときの「挨拶文」のなかにはじめて用いられたのが嚆矢となり,以後の国策の一環として,このことばが繰り返し喧伝されることになっただけの話だ,ということがこの本を読んでいくとよくわかる。とりわけ,第二次世界大戦を戦うための国策として,決定的な意味をもった,と。
 それが,こんにちまで継承されることの時代錯誤から,いまも多くの日本人は気づいていない。まあ,こんなことを考えるための材料がふんだんに詰まった好著。これからしばらくは,この本を手がかりにして,大相撲問題を考えてみたいとおもう。乞う,ご期待!
 

2010年9月9日木曜日

相撲の大転換:「決闘」から「芸能」へ。

 「国ゆずりの相撲」も「決闘の相撲」も,こんにちわたしたちが思い浮かべる相撲とはおよそ縁遠いものであった。つまり,ルールというものが存在しない,なんでもありのきわめて乱暴な「格闘技」だった。
 相撲が現代の様式をととのえる濫觴となったのは,聖武天皇の神亀2年の神事相撲だったという。このとき,「諸国が旱魃して大凶作であったので,天皇は畏くも近畿付近の明神,大社に勅願されて,天地長久・風雨順治・五穀成就を祈らせたもうた。ところが,翌年には果たして豊作だったので,相撲を奉納して,神霊を慰め奉ったという。これが神事相撲の濫觴となっのである」と舟橋聖一は書いている。そして,「相撲式」から,つぎの文章を引用している。
 「五聖武天皇の御時,神亀年中,国富民栄,世の豊なる事前代にも希なりとぞ。諸国一同に相撲のわざ益盛に起,朝廷にも専ら行はれしなり。其外相撲の作法,此時に道正敷定る。先作法勝負理り決しがたき故,其道に精しき者を御尋有りしに近江国志賀の里に,志賀清林といへる者此道に達しける事世のきこへ有故に,召上せられて相撲御行事此人と定めらる」
 これが,こんにちに伝わる司(つかさ)家の始祖となった,というのである。しかし,志賀清林の存在については,一部では疑問視するむきもあり,定かでない部分が残る。この問題については,いつかまた取り上げて,考えてみたいとおもう。ここでは,相撲が,生死を度外視する乱暴な「決闘」から,徐々に「作法」(ルール)を定めて,より安全な「遊技」や「芸能」へと進化していく上で,重要な役割を演じた人物がいた,ということを確認できればいいことにしよう。それが,のちの記録によれば,「志賀清林」という固有名詞に集約されて,一つの物語が構成され,伝承されることになったのであろう。
 この志賀清林について,舟橋聖一はつぎのように記述している。
 「・・・・清林は,単に相撲の司となっただけでなく,彼が当時,選ばれて,御行事人になったのについては,それに相当する権威ある大力士であったからで,身長も六尺八寸,殆ど天下無敵の強剛であったらしい。そして彼が司家として,制定したルールは,突く,蹴る,殴るの三手を禁じ,現行の四十八手の初源の型法を創成したのである。」
 この記述によれば,当代の実力者が「突く,蹴る,殴る」の三手を禁じ手と定めたこと,これが相撲の作法(ルール)として広く受け入れられるようになったこと,の二点が透けてみえてくる。これを聖武天皇が採用したことによって,さらに,権威づけられ,広く流布していったと考えられよう。
 ここではじめて,相撲なるものが乱暴な「決闘」から決別して,「命」を保証された「格闘技」へと,その歩を進めたという次第である。そして,この禁じ手が次第に多くなり,細部にわたるようになっていく。このことが,相撲にとってなにを意味しているのか,ここは注意を要するところである。
 そこで,少しだけ前にもどって,聖武天皇が「神事相撲」を行ったことについて,触れておきたい。前年の旱魃・大凶作に対して天皇みずから明神・大社に勅願して,天地長久・風雨順治・五穀成就を祈ったこと(ここまでは,まだ相撲は登場しない),その結果,翌年には豊作となったので,こんどは「相撲を奉納して,神霊を慰め奉った」という記述について。つまり,勅願を聞き入れてくれた神霊に対して,「相撲を奉納する」という考え方が,どこからくるのか,ということである。そして,なぜ,相撲なのか。
 この前後の舟橋聖一の記述によれば,聖武天皇のころには相撲があちこちで盛んに行われるようになっていた,という。それは,おそらく,それぞれの地域で独自の作法(ルール)を定め,いわゆるローカル・ルールで行っていたことが想定できる。つまり,一つには比較的安全に「相撲」を楽しむことができるようになっていたということ,もう一つには,なぜ,それほどに人びとは「相撲」を愛好するようになったのかということ,さらに,もう一つは,だれが,なんの目的のために,「相撲」を普及させたのかということ,などが考えなくてはならないポイントとして浮上してくる。
 一般の相撲史の本などでは,ほとんど扱われない話(あるいは,知っていて忌避されている話)に,野見宿禰の一族とその子孫(その末裔は菅原道真にいたる)がはたした「相撲」への影響力が強かったのではないか,という裏の話がある。野見宿禰の直系の子孫は,その後も『古事記』や『日本書紀』にもしばしば登場し,朝廷のなかではかなり重要な地位を登っていく。そのフィナーレを飾ったのが「菅原道真」である。なぜ,野見一族の相撲への貢献が,ほとんど評価されないのか,ここに一つのポイントがある。
 野見宿禰は,当麻蹴速を蹴り殺し,一躍勇名を馳せることになり,朝廷でも重く用いられるようになる。有名な「はにわ」(人身供犠の代わり)の提案は,当時の人びとにとってはなによりもの恩寵をもたらしたに違いない。こうして,ますます,野見一族の名は広まっていったはずである。しかし,その一部で,それをこころよしとしない貴族が現れる。なぜなら,野見一族は,葬送儀礼に携わる職能集団の一つだったからである。つまり,身分が低い,ということ。貴族たちは,野見一族を「葬祭屋」として蔑視する。その頂点に立つ事件が菅原道真の太宰府流しである。
 しかし,庶民は,野見の身分には関係なく,相撲への貢献をそのまま受け止め,庶民の「遊技」の一つとして受け入れていったのではないか,というのがここでのわたしの仮説である。もっと言ってしまえば,聖武天皇が「神事儀礼」として相撲を奉納する以前に,葬祭儀礼として相撲が広く行われていたのではないか,というのがもう一つのわたしの仮説である。
 つまり,「決闘」からの離脱,そして,「遊技」への移行,あるいは,「葬祭儀礼」への移行,そして,「神事儀礼」への移行,という具合に拡大していったのではないか,と。こうして,相撲が「芸能」となる下準備が着々と進展していったのではないか,と。
 相撲の禁じ手は,志賀清林のあとも,つぎつぎに追加されていった節がある。近世の木村柳悦直の著した「相撲伝書」によれば,「次のような,数カ条があげられている」と舟橋聖一は紹介している。たとえば,
 〇拳或は大指を以て眼を突く事。
 〇両掌を以て一拍子に両耳を強くうつときは気を絶し茫然となるなり。
 〇顕露(目と鼻の間)を拳をもって突くこと。
 〇鼻尖を上から,撲ひしぎては,眼くらむのみにて絶入はせず。鼻柱を下より上へ突こむときは悶絶す。茫然ともなる。
 以下,割愛(さらに10項目,その他にも3項目が追加され,さらに,人体の急所を図示して,この部分を攻撃してはならない,と断わっている)。一つひとつ確認していくと,まことに懇切丁寧というべきか,驚くべき指摘がなされている。
 禁じ手については,時代や社会によって,さまざまな変遷をへてこんにちにいたっている。雷電為右衛門が「張手」「閂」「鯖折り」の三つの技を禁じ手とされた話は有名である。つまり,力士個人に対して「禁じ手」が定められたのである。こういう「禁じ手」は特例中の特例というべきであろう。なぜなら,「張手」「鯖折り」で相手の力士が死んでしまったという珍事が起こったこと,「閂」では相手の力士の両腕をへし折ってしまったというこれまた信じられないようなことがおこったためである。こんなことは滅多にあることではないのだが・・・。それほどに,雷電という力士はケタがはずれるほどに強かったという証左でもある。
 いささか脱線してしまったが,雷電の時代の相撲は,すでに勧進相撲などと呼ばれる「見世物」(「芸能」)そのものであったことも書き加えておくことにしよう。
 とりあえず,今日のところはここまで。

 

2010年9月8日水曜日

野見宿禰と当麻蹴速の「決闘」の話を再検討してみる。

 野見宿禰と当麻蹴速の間で繰り広げられた「決闘」の話は,日本人であればたいていの人が知っている。しかも,これが「相撲の祖」として,一般に語りつがれていることも。
 しかし,この話,典拠となっている『日本書紀』の該当部分をよくよく読んでみると,野見宿禰は当麻蹴速を蹴り殺しているのである。昨日のブログで書いた話は,まずは,手と手を取り合って力競べをしている。そして「つかみひしぎて投げはなって」いる。こちらは,いくらかこんにちの相撲のイメージに近いものがあるが,野見宿禰と当麻蹴速の相撲はお互いに蹴りあって,蹴り殺してしまっている。いわゆる「決闘」である。このことが,ずっと以前から,なんとなく釈然としないまま,こんにちにいたっている。
 しかし,舟橋聖一は『相撲記』のなかで,とても面白い話を紹介している。それは,杉浦重剛の解釈である。「倫理御進講草案」というもので,そのなかに以下のような記述がある,という。
 「我が国の遊技にして,外国に類例無きものは,相撲を以て最も著るしと為す,故に世人之を日本の国技と称す。
 太古より武人が其の力量を角することは無きにしもあらざりしが,相撲道の祖としては一般に野見宿禰を推す。宿禰は出雲国の産にして垂仁天皇の御世の勇士なり。当時当麻蹴速といふものありて,強力無双,能く角を毀き,〇を申(の)べたり。天下我に敵するものなしと傲語す。
 天皇之を聞召され,出雲国より宿禰を召して,蹴速と力を角せしむ。両人相向って立ち,互に足を挙げて蹴合ひたるに,宿禰遂に勝ちて,蹴速を蹴殺し了りぬ。
 天皇大に宿禰の勇力を称し蹴速の所領を収めて,悉く之を宿禰に下し賜はりぬ。
 是れ相撲道の濫〇なり。爾後朝廷に於ても相撲(すまひ)の節会(せちえ)を設けらるることありて,之を奨励せられたり。(以下略)」(倫理御進講草案,第一学年序説第十二篇中の第十一より)
 杉浦重剛といっても,いまの人たちにはとんとなんのことやらわからないという人が多いかもしれない。簡単に触れておけば,明治・大正の時代に,日本の国粋主義者としてその名をとどろかせた論客である。読売・朝日の論説を書いていた時代もあり,各方面で大きな影響を及ぼした人物である。この人物が,昭和天皇や,その兄弟である秩父宮,髙松宮,両親王に帝王学の一環として「倫理」を進講した,その「草案」が上記の引用文献である。
 こうした背景はともかくとして,杉浦重剛も,「互に足を挙げ蹴合ひたるに,宿禰遂に勝ちて,蹴速を蹴殺し了りぬ」と述べている点に注目したいのである。つまり,「手」が登場しないのである。『日本書紀』の原文を読んでみても,「手」はひとこともでてこない。互いに蹴り合って,「足」で「蹴り殺した」とあるのみ。これを,なんの疑問もなく「相撲」と断定して,「相撲の祖」としている。しかも,「之を日本の国技と称す」とまで言っているのである。
 この杉浦重剛の文章を引用した上で,舟橋聖一もまた,「蹴速は,脇骨をふみさかれ,腰をふみくじかれて,遂に死んでしまったというのであるから,まさに死生を賭した,壮絶凄絶の一番勝負であったことが想像される」と述べている。「ふみさかれ」「ふみくじかれ」て死んだということは,「手」はつかってはいないと判断することができ,もっぱら「足」で勝負がつけられている,と推測することができる。これが「相撲の祖」であり,「相撲道」の原風景なのである。
 昨日の「国ゆずりの相撲」といい,今日の「決闘」といい,「手」で勝負をしたり,「足」で勝負をしたりしていて,言ってしまえば,「なんでもあり」の,「ルール」なき闘いである。生死を超越した格闘技,それが日本の国技といわれる相撲の原風景なのである。この原風景は,たとえば,古代ギリシアの神話のなかにもしばしば登場する「レスリングをして相手を殺した」という話と,まったく変わらない。おそらく,世界中のあらゆるところの古い「格闘技」は,こうした「決闘」であったのではないか,とわたしは類推している。
 にもかかわらず,舟橋聖一は,杉浦重剛の「我が国の遊技にして,外国に類例無きものは,相撲を以て最も著るしと為す,故に世人之を日本の国技と称す」という文章をそのまま紹介している。そこには,なんの疑念もない。それどころか,ごく当然のように歩調を合わせるかのようにして,ほとんど同じ立場に立って,このテクストの文章を展開している。
 こういう話をそのまま垂れ流しにしてしまうと,こんどは相撲は人殺しの技だったのだ,というとんでもない誤解が生じかねないので,もう一歩,踏み込んで,ここは考えておきたいとおもう。
 それは,「決闘」が正当化されるのは,どうしてか,という素朴な疑問である。なぜ,人は人を殺さなくてはいけなくなるのか。人を殺す必然性はどのようにして成立するのだろうか。自分にとって都合の悪い存在は殺してしまえ,という論理はどこから生まれてくるのだろうか。その根をたどっていくと,どうやら「供犠」にたどりつくように,いまのところは考えている。では,人間はどうして「供犠」を行うようになったのか。「供犠」をしなくてはならない必然性はどこにあるのか。とりあえず,ここでは,人間の存在を不安にする「超越」的な存在への「贈与」としておこう。では,なぜ,人間は「存在不安」に陥るのか。ここでの仮説も,すでに,このブログを以前から読んできてくださっている読者の方にはわかってもらえるものとおもう。それは,「内在性」からの離脱による「存在不安」である,と。「内在性」の内側で生きている者同士は,よほどの生物学的な理由がないかぎり,殺し合うことはない。なぜなら,お互いの「存在不安」がお互いの生死を賭して戦わなくてはならなくなる必然性は考えられないからである。
 相撲のはじまりは「決闘」だったのだ,というところで話を終わらせてはならない,とわたしは考えている。そうではなくて,その「決闘」という文化がどのようにして成立するのか,という根源的な問いが必要である,と考える。そうでないと,「神事儀礼」としての「相撲」というものの本質はみえてこない,とわたしは考える。なにゆえに,こんにちの土俵の上で展開される,荒々しい相撲にわたしの魂がとりこになってしまうのか,あるいはまた,相手の動きを封じ込めた上で,正々堂々と「寄り切る」相撲にこころを奪われてしまうのか,さらには,電光石火のごとき一瞬の技が決まるときの感動にしびれてしまうのか。相撲という文化の奥底に見え隠れしている,計り知れない「生の躍動」の源泉を,この眼で確認したい,このからだで感じ取ってみたい,という果てしない夢をいまも追いつづけているのである。すべての人間に共有されてしかるべき時空間の在り処を求めて・・・。その多くは「近代」が排除してきたように思われて仕方がないのだが・・・。
 21世紀のスポーツ文化を考えるために。

2010年9月7日火曜日

相撲に関する最古の記録「国ゆずりの相撲」について。

 ちょっとした相撲の歴史の本であれば,必ず書いてあることだが,相撲に関する最古の記録は『古事記』のなかにでてくる「国ゆずりの相撲」だということになっている。
 この話に関して,作家の舟橋聖一は『相撲記』(講談社文芸文庫)のなかで,なかなか興味深いことを書いている。その大筋は以下のとおりである。
 天照大神の詔を奉じて,建御雷(たけみかずち)の神が,出雲の国伊那佐の小浜にやってきて,剣を引き抜いて波打ち際に刺し立てておいてから,国津神の大国主命に向かって,お前の所領している豊葦原の中つ国をわたしによこせ,そして,家来になれ,と言った。大国主命はひとりの息子とともに「わかった」とその申し出でを受け入れることにした。ところが,もうひとりの息子の建御名方(たてみなかた)の神はそれに反対して,まずは,力競べをしよう,と提案した。そして「かれ我れ先づその御手を取らむ」と言った。
 この「御手を取らむ」という記述が,相撲に関する最古の記録だ,というのである。いまの,わたしたちのことばで理解しようとすると,ただ,お互いに手を取り合った,つまり,握手をした,と読めてしまう。しかし,舟橋聖一は,これをなんの矛盾もなく「相撲を取ろう」と言ったと理解している。舟橋聖一は,もともとは東大文学部国文科の卒業なので,日本の古典を読むことに関しては専門家である。そのことを勘案しながら,舟橋聖一の言うことに耳を傾けてみると,おもしろいことがわかってくる。
 「相撲を取る」という。相撲は「する」でもなく,「行う」でもない。もちろん,「プレイする」ものでもない。相撲は「取る」ものなのだ。その発端になる記述が,この「御手を取らむ」だというわけである。そして,この「御手」というのは,単に「手」のことを言っているのではなく,この「手」は,技,業をふくんだ手業を意味している,と。つまり,いざ,勝負となったときにお互いに手さぐりをしながら,相手の手をとろうとする。それも,できるだけ自分有利になるように手をとろうとする。立ち会いに「ぶつかり合う」ようになるのは土俵ができてからのことなので,当初は「手さぐり」からはじまったのであろう。現に,土俵のないモンゴルの相撲も,立ち会いは「手さぐり」からはじまる。韓国のシルムは,お互いに手でまわしをしっかりと「取って」(つかんで)から,試合開始となる。つまり,まわしを取ってがっぷり四つからはじまる。中国の少数民族の間で行われている相撲も,最初は「手さぐり」からはじまる。レスリングも同じである。
 「かれ我れ先づその御手を取らむ」というのはそういうことを意味しているようだ。だから,相撲にとっては「手」はきわめて重要な意味をもっていたということが,「手取り」「極め手」「手合い」「四十八手」ということばとなって残っていることからも理解できよう。つまり,「手」の意味する範囲が広い。同じように,「取る」もそうだ。「関取」「取的」「相撲取り」「取組」「取り直し」などをみれば一目瞭然である。
 ところで,建御雷神と建御名方神(よく似た名前でとてもやっかい)の勝負の結果はといえば,建御雷神の方が圧倒的に強く,あっという間に勝負はついたようである。その様子は,
 「若葦を取るがごと,つかみひしぎて投げはなち給へば,即ち逃げ去(い)にき」とある。
 建御雷神があまりに強すぎて相手ならなかった建御名方神はあわてて逃げたというのである。さて,では,建御名方神はどこに逃げたのか。遠く信州の諏訪湖に逃げたのである。しかし,建御雷神は,そのあとを追って,とうとう諏訪湖で建御名方神を取り押さえてしまう。仕方がないので,平身低頭,謝りつづけ,大国主命ともうひとりの兄弟と同じように,国を譲り渡し,建御雷神に恭順することを誓い,命だけは助けてもらう。
 こうして建御名方神は諏訪を新たな所有地として勢力を張り,こんにちの諏訪神社の祭神となる。この諏訪神社の祭りの一つの大きなイベントが,あの「御柱まつり」である。出雲大社が,かつては木造の巨大な神殿であったことを思えば,その系譜に連なる巨木を切り出す技術をもった職能集団も移住して行ったということも考えられようか。この地方の一種独特の共同体意識の強さは,この祭りと無縁ではないと言われている。
 もうひとりの建御雷神は,さらに,北東に進み,鹿島神宮に祀られているという。鹿島神宮が,当時にあっては,東北地方にあった一大勢力に対抗する,天照大神の勢力の北限であったと言われている。鹿島神宮は,いまでも「武」の神さまとして,武術が伝承されている。建御雷神は,たんに相撲が強かっただけではなく,武芸百般に通暁する武の達人だったのだ,ということが明らかになってくる。なかでも,相撲は武芸の中核をなしていた,と言ってもいいかもしれない。刀折れ,矢尽きたあとの「組み討ち」は,決闘にも等しかった時代の相撲そのものと考えてよいだろう。
 「御手を取らむ」の「手」は,武術全般に用いられる「手合わせ」するという意味での「手」であることも,ここまでくるとよくわかる。囲碁や将棋などの勝負ごとでも「手合わせ」ということばが用いられる。この「手」も技,業,術を全部ふくんだことばである。
 相撲の「手」ともいう。「攻め手」「守り手」「決まり手」などの「手」も同じ。
 「手のうち」ともいう。こうなると,作戦,戦略まで取り込んできて,ますます意味が広がっていく。
 際限がなくなってきた。このあたりで「手打ち」をして終わりにしておこう。