ラベル スポーツ・メディア関連 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル スポーツ・メディア関連 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2015年11月20日金曜日

『こんなことを書いてきた』──スポーツメディアの現場から(落合博著)を読む。

 一度,取材を受けたあとお付き合いがはじまった毎日新聞・運動部記者・論説委員の落合博さんから近著が送られてきました。『こんなことを書いてきた』──スポーツメディアの現場から(創文企画,2015年10月刊)。

 タイトルから推測できますように,落合さんが運動部記者として毎日新聞のコラム「発信箱」に書きつづけてきたエッセイ(2006年4月~2015年7月)を中心に,関連する文章を集めて一冊にまとめた本です。文字どおり「スポーツメディアの現場から」生まれた落合ワールドが満載です。ひとことで言ってしまえば,落合さんのスポーツ観がそのまま表出した,いかにも落合さんらしいスポーツ批評となっています。

 わたしのようなスポーツの現場とはやや距離をおきながら,一定の思想・哲学を背景にしてスポーツ文化論を展開してきた者にとっては,貴重な現場からの思考がみごとに結晶していて,とても勉強になりました。同時に,スポーツメディアの「力」の凄さをいまさらのように感じました。やはり,現場で取材を重ね,生の声を聞き取りながら思考を重ね,そこから生まれてくるひとつの到達点は,迫力満点です。

 もちろん,落合さんの博識に裏打ちされた達意の文章があってのものであることは間違いありません。じつに広い読書量が,抑制された短い文章のはしばしにちらりと表れ,それをテコにしてスポーツ文化の普遍に触手が伸びている,それが読んでいて心地よいかぎりです。加えて,落合さん自身がスポーツマンであること,そして,こよなくスポーツを愛していらっしゃる人であること,そういうスポーツに向き合う姿勢・愛情が文章に人としての温かさが注入されています。ですから,ついつい惹きつけられ,気がつくと心地よく落合ワールドにどっぷりとはまり込んでいます。

 のみならず,現代のスポーツ(ここでは広義のスポーツ,つまり,競技スポーツから学校スポーツ,趣味のスポーツにいたるまで,あらゆるスポーツ文化が対象)を考える上での貴重なヒントをいくつも提供してくれます。まさに,スポーツメディアの「力」だとおもいます。ですから,現場から遠いところにいる研究者はもとより,スポーツ学・体育学を学ぶ学生さんたちにも,是非,読んでもらいたい一冊だとおもいます。

 とりわけ,講義のネタの宝庫。講義の冒頭のまくらとして,問題の所在を明確にするには最適の教材になります。あるいは,大学院生を対象にしたゼミナールなどでのディスカッションのテーマを設定するには,こんなに面白いテクストはないでしょう。わたしが現役であったなら,この本一冊で,一年間,存分に授業を楽しむことになったでしょう。

 落合さんは,中学・高校とサッカーに熱中し,大学(東京外大)ではラグビーに身を投じています。おそらく足の早いスクラムハーフとして活躍されたのではないか,とこれはわたしの勝手な想像です。いずれにしても,熱血ラガーマンのイメージが彷彿としてきます。しかも,いまもランニングを日常的に楽しんでいらっしゃるとのこと,これにはこころから敬意を表したいとおもいます。こういう人こそが新聞のスポーツ記事を書くに値する人だとわたしは信じています。

 本書の内容について触れるだけのスペースが,残念ながらありませんので,ここでは本書の構成をとおしてみえてくる落合さんのスタンスを紹介するにとどめたいとおもいます。

 本書は8本の柱で編集されています。それは以下のとおりです。
 1.未来のために
 2.過酷な文化
 3.「主食」の悲劇
 4.仕組みを考える
 5.共に生きる
 6.疑義をはさむ
 7.変わるもの 変わらぬもの
 8.生きるということ

 以上が全8章の見出しです。これをじっと眺めているだけで,落合さんのスポーツに取り組むスタンスが透けてみえてきます。それは,どこまでも「人間中心」です。実際に現代社会を生きている人間(子どもも大人もふくめて)にとって「スポーツとはなにか」という根源的な問いが落合さんの思考の根っこにある,といっていいでしょう。そのことは読んでみれば,なおさら明白です。ですから,薄っぺらなスポーツ評論ではなく,魂の入ったスポーツ批評になっています。

 ほかのなによりも,この点を力説しておきたいとおもいます。

 各論に入りますと,これはもうエンドレスになってしまいます。わたしの考えとぴったり一致する点もあれば,微妙にスレ違っていく点も少なくありません。それは,たぶん,現場で磨き上げられたスタンスと,思想・哲学との接点を重視しながらスポーツ再考を試みるわたしのスタンスの違いであろうかとおもいます。ですから,一度,とことん深入りして議論をしてみたいなぁ,といまから楽しみにしているところです。

 鷺沼の事務所は,午後5時を過ぎると「延命庵」という居酒屋になりますので,ぜひ,そこで一献傾けながら語り合いたいとおもっています。落合さんの趣味の一つが「居酒屋探訪」ということですので,これは容易に成立することでしょう。

 落合さん,是非一度,お待ちしています。

2015年8月29日土曜日

ああ,ウサイン・ボルト。200m決勝レースでも後半は流している。

 ウサイン・ボルト。200m決勝レースでも,コーナーを廻って直線コースにでてきて,自分が一番だと確認したとたんに,もう流している。ゆったりと楽に流している。にもかかわらず,追ってくる選手たちはその差を詰めることはできなかった。そして,悠々とゴール。いったい,なんという男か。こと200mに関しては敵なしだ。しかも,こんなにも力の差があるとは・・・・。 

 このところ,世界陸上にくびったけ。毎夕食のたびにテレビ観戦。そのまま午後10時までやめられない。困ったものだ。陸上競技がこんなに面白いものだとは知らなかった。たぶん,これはテレビ観戦の効果なのだろう。実際に競技場で観戦するのとはまるで違う世界。これこそ「みるスポーツ」の権化。いったい,テレビの画像をとおして,わたしたちはなにを「みて」いるのだろうか。

 じっさいに,スタジアムに行って,自分の眼で「みる」のと,テレビをとおして「みる」のとの違いはなにか。同じ「みる」行為なのに,どこが,どう違うのか。これは,じつは,とてつもなく重要なテーマなのだ。が,これまであまり踏み込んだ議論をだれもやっていない,と記憶する。今回はその入口の議論だけでも,ちょっとだけ試みてみたい。

 その違いの第一は,「みる」行為の主体がまったく異なるという点にある。テレビ観戦がはじまる前までは(それは,1964年オリンピック東京大会が大きな節目の年だった),スポーツを「みる」ためにはみずからスタジアムや野球場に足を運んで,自分の眼でみた。そして,そこでなにを「みる」かも自分で決めた。自分の興味・関心に合わせて見たいものを「みる」。つまり,すべてその主体は自分自身にある。しかし,テレビ観戦となると,送られてくる映像はすべてテレビ局によって編集されたものである。どの映像を切り取るかはすべてディレクターの主観に委ねられている。わたしたちは,それをただ享受するだけ。没主体。受け身。

 こんなことを繰り返しているから,やがては「思考停止」,ついには「自発的隷従」が透けてみえてくる。テレビとはそういう装置だということがみえてくる。このプロセスについては,しっかりと分析しておくことが肝要だ。なぜなら,いま,問題になっている「だれも責任をとらない社会」の淵源をたどっていくと,その一因に,このからくりが浮かびあがってくるからだ。

 第二のポイントは,映像がアップにされ,リピートされるということ。感動的なシーンは何回でも繰り返し映し出されるということ。これは,テレビならではのメリット。だからテレビ観戦はやめられない。スタジアムではみることのできない決定的なシーンを,テレビは「映像」化して提供してくれる。もっと言ってしまえば,人間の眼にはみえないものまでも映像を解析して,しかも,スローモーションにして,じっくりと「みせて」くれる。肉眼ではみることもできない1000分の1秒の世界を可視化してくれる。しかし,このことの功罪については慎重を要するところだ。

 というような具合に,重要な問題が,随所に隠されている。

 こうした問題とは別に,わたし自身は,決勝レースの直前にアップで映し出される選手たちの顔を楽しんでいる。みんないい顔をしている。いざ,勝負という直前にしか表出しない,えもいわれぬいい顔ばかりだ。緊張の極にいながら,それをなんとか解きほぐそうとしてカメラに向かって満面の笑顔を向けた直後に,ちらりとみせる寂しそうな表情。役者の演技とはまるで次元の違う世界での,人間の真実の顔。

 スーパープレイもさることながら,わたしは選手たちの表情を存分に楽しんでみようとおもう。こんな顔は,こんなときしか拝むことはできないビッグ・チャンスだ。これもまた,「みるスポーツ」の醍醐味のひとつだ。

 ウサイン・ボルトの顔はその意味でも天下一品である。千変万化する素晴らしい顔だ。よくよく観察してみると,やはり,天才の顔だ。どこか根本が違うようにおもう。これからリレーに登場してくるボルトの顔を追ってみよう。また,新しい発見がある,そんな予感がする。

2015年4月28日火曜日

毎日新聞・余祿から。漱石の『三四郎』の「運動会」で100分の1秒を計測。

 数日前に,毎日新聞社のO記者からメールと電話で取材があり,このような記事を書きたいという連絡がありました。O記者とは以前からの知己でしたので,快諾。でも,どんな記事になるのかはいささか不安はありました。以前,痛い思いをしたことがあるからです。でも,O記者なら大丈夫と信じて,記事の内容についてはお任せしました。

 それが下の写真のとおりです。とても面白い内容になっていて,よく調べて書いているなぁ,と感心してしまいました。さすがにO記者だなぁ,と。


 もう少しだけホットな話題を提供しておけば,以下のとおりです。
 4月25日(土)にわたしが主宰しています「ISC・21」(21世紀スポーツ文化研究所)の月例研究会を青山学院大学で開催しました。この案内をO記者にも流しておきましたところ,時間を割いて参加してくださいました。というより,ご縁があるのか,地下鉄の表参道から青山学院大学に向かって歩いていたら,その路上でばったりお会いしました。

 おやまあ奇縁ですねぇ,という話からはじめて歩きながら,今回のこの記事にまつわる雑談を交わしました。そのときのお話でとても興味深かったのは,新聞がスポーツ情報をいかに伝えるか,マンネリ化してしまっていて,記者はみんな頭を悩ましている,ということでした。つまり,スポーツ情報が,饅頭に例えれば,表層の薄皮の部分だけに集中していて,スポーツの肝ともいうべき「餡子」の部分を描ききれないでいる,というのです。もっと言ってしまえば,スポーツの「文化性」に触れる記事にできないでいる,と。

 わたしも,まったく同感でしたので,スポーツ記事が少しも面白くない,その理由などをあれこれ話しながら歩きました。少しきつい言い方をすれば,スポーツ担当記者の勉強不足。我田引水になってしまいますが,スポーツの歴史的なバックグラウンドに関する知識不足であったり,アスリートの人間性に触れるような情報不足にその原因があります,と。しかし,スポーツ担当記者の置かれている環境情況もきわめて劣化しているようです。もう,かなり以前からひどい情況になっている,というお話を元毎日新聞記者で『甲子園球場物語』などの著書もあり,いまは,わたしたちの研究者仲間になっているTさんから伺っています。

 つまり,むかしは野球担当,相撲担当,という具合にスポーツの担当部門がかなり専門分化されていたので,十分に時間をかけて取材もし,調査もし,じっくり熟成された記事を書くことができた,というのです。ところが,しばらく前から「合理化」の名のもとに,いわゆるスポーツ記者として特定される記者はほんのわずかな人数になってしまい,しかも,あれもこれもひとりで担当することになってしまったので,とても時間的な余裕がなくなってしまったというのです。ときには,手が足りなくなって,ほかの部局の記者の応援を頼むこともまれではない,といいます。

 そう言われてみれば,数年前に朝日新聞社の記者から取材を受けたときに担当してくださった女性記者は,所属部局は「政治部」だと言っていました。が,個人的にスポーツにも興味があるので,ときおり応援に引っぱりだされるのだ,と笑っていました。最近では,雑誌『世界』に女子プロレスの草創期の話を連載しており,そのみごとな描写に感動しています。人間性にあふれた温かなまなざしが文面の裏に感じ取られて,読者をぐいっと惹きつけます。

 やはり,書くべきものをきちんともったひとが書くといいものになる,これがわたしの現段階での結論です。それと共に思い出すのは,東京五輪1964のときには,各新聞社とも,一流の作家を動員して,見聞記を書いてもらっていたという事実です。三島由紀夫や井上靖といった錚々たる作家が名を連ねて,日替わりメニューのようにして登場していました。ですから,毎日,新聞でオリンピック見聞記を読むことがとても楽しみでした。

 今回の,この毎日新聞の「余祿」を読んで,こんなことを思い出していました。やはり,いろいろ事情はあるでしょうが,劣化した情況のなかにあっても,ピカリと光る記事を書く記者はいるのだ,と。だから,書き手次第だ,と。O記者もそのうちのひとりだ,と。

2014年1月2日木曜日

箱根駅伝・東洋大学往路優勝おめでとう。テレビの放映の仕方にひとこと。

 箱根駅伝は大好きなので,毎年,応援することにしている。とくに,これといって贔屓の大学があるわけではない。が,若者たちが一生懸命に走る姿は美しい。この箱根駅伝に向けて一年間,それぞれに精進を重ね,晴れの舞台に立つ。だから,選手たちの顔の表情も引き締まっていて,とてもいい。みんな,それぞれの可能性にかけて真剣勝負だ。

 その晴れの舞台で,初日の今日,往路で脚光を浴びたのは東洋大学チーム。一区でやや出遅れたが,二区で頑張り,三区で駒沢大学を逆転した。そのあと,四区,五区と頑張ってトップでゴール。その頑張りとチーム・ワークの良さに感動した。これはチームの裏方もふくめた全員の勝利だ。そういうチームの輪(和)があってこその結果だ。そのうちのどれかひとつ欠けても,この結果は得られない。駅伝とはそういうスポーツなのだ。

 たまたま,昨年11月末に開催されたスポーツ史学会大会の会場が東洋大学(朝霞キャンパス)だったので,あのキャンパスで学んでいる学生さんたちが走っているんだ,と密かに親しみを覚えながら応援をしていた。強豪・駒沢大学もよく頑張った。しかし,わずかに59秒,及ばなかった。5人の選手が東京から箱根まで,100㎞余を走ってつないで,たった59秒の差で明暗を分けた。復路に,充分期待をもてる僅差だ。さあ,明日の両大学のデッドヒートを楽しみにしよう。

 今日も多くの感動をテレビ観戦していていただいた。そのテレビに対して苦情を言うのはいささか気がひけるが,ここは言っておかなくてはなるまい。もっともっといい放映をしてもらうためにも。そして,箱根駅伝とはなにか,スポーツとはなにか,ということをテレビ放映チームに理解してもらうためにも。

 それはいまにはじまったことではないが,一つは,コマーシャルの流し方だ。今日,とくに酷かったのは,東洋大学と駒沢大学がゴールした直後に,東洋大学の監督・選手へのインタヴューがはじまったと思ったら,その途中でコマーシャル。そして,かなり長いコマーシャルが流れてからの,再インタヴュー。選手たちはその間,雛壇に立たされ,待ちぼうけ。再び映し出された選手たちの顔は,もう,感動もどこかに消え失せ,うんざり,いい加減にしてくれと言わぬばかりの表情が剥き出しになっていた。応答もどうでもい,と言わぬばかりのものだった。なんと冷めた選手たちなのだろうかと思った人もいたのではないかと思う。しかし,これは選手たちに責任はない。わけてもインタヴューしたアナウンサーの問いかけも,気の抜けたものばかりだった。選手たちにとってはどうでもいい問いかけばかり。もっと核心をつく問いを発すれば,選手たちの顔にも精気がよみがえってきたはずだ。すべては,テレビ局のディレクターの責任だ。

 ゴール直後の優勝チームの感動を伝えようとした企画であることはよくわかる。ならば,なぜ,その途中にコマーシャルを挟んだのか。しかも,長々と。テレビ観戦していたわたしですら,いま,このタイミングでコマーシャルはないだろう,と心底腹を立てていた。東洋大学,駒沢大学につづいて,その他の大学が,ゴール前のデッドヒートを繰り広げている真っ最中だ。まさに死力を尽くして,アンカーたちがチームの命運を賭けて頑張っているのだ。そんな,駅伝にとって一番大事なときに「コマーシャル」。箱根駅伝を冒涜している。

 たぶん,スポンサーやディレクターたちは,もっとも効果のあるコマーシャル・タイムだと信じて疑わないだろうが,そうではない。わたしなどは,あまりの腹立たしさに,さっさとチャンネルを切り換えて他局を覗き見しては,また,もどってくる,を繰り返していた。その間の長いこと。これにも驚いた。したがって,この間,どんなコマーシャルが流れていたのか,なにも知らない。いいたいことは「無駄だ」ということ。しかも,駅伝を台無しにしているということ。

 その間,インタヴューも聞きたい,そして,まだ,ゴールしていない大学がどこを,どのように走っているのか,をこそ知りたい。コマーシャルなどはとんでもない。

 それから,もう一点。東洋大学の選手たちはみんな一丸となって,よく走った。素晴らしかった。にもかかわらず,何回も何回も,そして,ニュースでも,報じられたのは「双子の設楽兄弟の力走」だった。たしかに設楽兄弟の活躍はみごとだった。しかし,この兄弟の力走を際立たせたのは,一区の選手が手堅くまとめた走りをしたこと,そして二区で成長著しい選手がその役割をきちんと果たしたこと,さらには四区の死力を尽くしてのあの力走があったからだ。その選手たちに支えられて,はじめて設楽兄弟の快走が生まれたのだ。その事実をないがしろにしてはならない。

 テレビ局のディレクターやプロデューサーたちの,箱根駅伝というものに対する認識の甘さが,こういうところに露呈してくる。とりわけ,スポーツとはなにか,という根源的な問いが欠落している。安易に「ヒーロー」を見つけ出して,それを強調すればこと足れり,と思っているらしい。そうすれば視聴率がとれる,その採算がかれらの第一の課題なのだ。だから,そのためには駅伝を成り立たせている影の部分などはどうでもいいのである。目立つところ,もっとも分かりやすい感動だけを演出すればそれでいいのだ。その結果が,勝利至上主義。勝った,負けた,それだけの娯楽に成り下がっていてもかられは平気なのだ。

 もちろん,それだけでも人は感動する。しかし,それが駅伝(スポーツ)だと多くの視聴者は思い込んでしまう。そうして,もっともっと豊穣な文化であるはずの駅伝(スポーツ)が,単なる勝ち負けだけの,やせ細った文化に成り果ててしまう。そういうものを,わたしたちは今日も箱根駅伝をとおして,一方的に押しつけられてしまったのだ。こんなことの繰り返し。この点については,わたしは大いに失望した。

 限られた時間のなかで,なにを,どのように伝えるのか,はとても難しいことだ。だからといって安易な方向に流されて欲しくない。きちんと考えればできるはずだ。そのために必要なことは「思想」だ。スポーツ・ジャーナリストに,いま,もっとも必要なのは「思想」だ。人が生きるということとスポーツはどのようにかかわっているのか,そのことを考える気概が必要なのだ。すなわち,スポーツを批評する精神。スポーツ批評。

 このことは,ことしも繰り返し考えていきたいと思っている。
 とりあえず,今日のところはここまで。

 スポーツに「思想」を。
 

2013年11月13日水曜日

老人は肉を食え,だどっ?! NHKクローズアップ現代の制作者のみなさん,大丈夫ですか?

 老人は肉を食べてはいけない,とかつて栄養学の権威者といわれる人がテレビで声高らかに仰った。そのとき,わたしは「ヘエッ,そんなもんかねぇ」と半信半疑。でも,その後に登場した多くのテクストも同じように,老人は肉を食べない方がいい,と書いてありました。わたしは大いに疑問を感じながら,栄養学の権威者がそう仰るのなら,そうなのかなぁ,といぶかしげに考えていました。でも,そのころのわたしは(60歳),どういうわけか肉がとても好きで,美味しくて,一週間に2,3回は肉を食べたいと思っていました。ですから,栄養学の先生方のいうことを無視して,「食べたいものは食べる」という原則のもとに,食べたくなったら肉を食べる,を実行していました。そして,魚が食べたくなったら魚を食べる。野菜が食べたくなったら野菜を食べる。つまり,そのときのからだがなにを食べたいと言っているか,そのときのからだの「声」に耳を傾け,それに従うことにしていました。そして,こんにちまで生きてきました。

 まあ,いまさら断るまでもありませんが,わたしは徹底して栄養学などの知見は無視して,いま,なにが食べたいか,というその日,その時のからだの声に忠実にしたがうことを心がけてきたつもりです。それがよかったか,どうであったかは,いまのわたしにはわかりません。が,いまのわたしは,絶好調で,なにも言うことはありません。間違いなく,絶好調です。

 正直に言っておきますと,栄養学を,半分は徹底的に勉強した成果であると思いますが,あとの半分は徹底的に栄養学を無視した結果なのだろう,と思っています。つまり,科学を半分信じて,あとの半分はわたしのからだの声に比重を置きながら,生きてきたということです。

 ところが,今日(12日)のNHKクローズアップ現代の番組をみていて,「冗談じゃあない」とまたまた大きな声でテレビに向かって怒鳴っていました。たぶん,このマンションのとなりの部屋の人ばかりではなく,上下左右すべての人たちに,わたしの怒鳴り声が響きわたっていたと思います。申し訳ありませんでした。お許しください。

 でも,どうしても抑え難い思いを声にすることは,その瞬間くらいは許してもらえるのではないか,とみずからの甘えの気持にもたれかかりながら,本音の気持を声にして思いっきり吼えていました。ご迷惑をおかけしました。もし,よろしければ,こんご,わたしが吼えているときには,どうぞ,押しかけてきてください。いったい,なにごとですか,と。その代わり,あとは,わたしの,Der getrunkener Mensch (単なる酔っぱらい)と成り果てた,もう一人のわたしという人間とお付き合いをしていただきます。

 でも,酔っぱらってからの発言は意外とことの本質をとらえているように思います。そこには,嘘も,計算も,打算もなにもありません。むしろ,わたしの正直な本音が露呈しています。ですから,わたし自身としては,酔っぱらって,夢中になって話していることのなかに,むしろ,真実があるのではないか,と思っています。ですから,どうぞ,ご心配なく。

 今日のテレビで「むかっ」ときた最初は,以下のとおりです。
 冒頭で,三浦雄一郎を紹介しながら,肉をもりもり食べている姿をアップで強調します。そして,すぐに,老人は肉を食べましょう,というキャプションがつづきます。そして,三浦雄一郎さんが元気な秘密は「肉をもりもり食べることにあった」という,まことしやかな,じつにいい加減なコメントをつけて,そこから話を展開していきます。

 このやり方に最初の異議申し立てです。なぜなら,三浦雄一郎さんという人は,並のひとではありません。言ってしまえば,一種の化け物です。平均値から大きくはみ出した,異常に丈夫な人間です。その桁外れな異常な日常を生きている三浦雄一郎さんを,歳をとっても元気でいられるんですよ,というサンプルとして冒頭に提示していることです。

 しかも,そのすぐあとに,88歳でカメラを片手に元気に写真を撮って歩いている関屋さんという女性が紹介されます。そして,元気なことはこれまでと同じように変化していないけれども,歩くときの歩幅が狭くなった,と関屋さんは嘆きます。自宅から駅まで歩くのに,これまでよりも時間がかかるようになって困る,と言わせています。

 映像をみるかぎりでは,とんでもない,年齢不相応に元気一杯です。なのに,関屋さんの一日の食事のメニューを紹介して,これでは栄養不足である,とコメントしています。しかし,どう考えてみても,わたしの一日のメニューよりもはるかに栄養価のあるものを食べていらっしゃいます。なのに,関屋さんの衰えは栄養不足にある,と断定しています。

 ですから,わたしは吼えてしまいます。おれよりいいものを食っているぞっ!,と。じゃあ,おれも栄養不足なのかっ!,と。

 でも,番組では,こういう人は体内の「アルブミン」という蛋白質が少なくなっていて,筋肉が衰え,血管が脆くなっていて,免疫力も低下している,と科学的な根拠を提示し,だから,歩くスピードが低下するのだ,と説明します。そして,その理由を,関屋さんが肉を食べないから栄養失調となり,筋力が低下するのだ,というところにもっていきます。しかも,たった一日だけのメニューを取り上げての説明です。せめて,一週間のメニューを提示してから結論づけてほしい。

 ですから,「えっ?冗談じゃない!」と思わず大きな声をだしてしまうわたし。

 しかも,ご丁寧に,その根拠として,実験データを提示しながら,名古屋大学名誉教授の蔦谷さんが説明してくれます。老人とはいえ,4,50歳代と同じ肉を食べてほしい,と。仰る。ほんまかいな,とわが耳を疑ってしまいます。まさに,木をみて森をみない,そういうサイエンス偏重の典型的な例をみる思いがしました。蔦谷さんは,たぶん,もっと丁寧な説明をしたはずです。問題は,こんなレベルの低い編集をして平気でいる番組制作者の横暴にある,とわたしは考えています。

 しばらく前までのクローズアップ現代は,もう少しきめ細かな分析をした上で,それなりの結論を導き出していたように思います。ここにきて,急速にレベル・ダウンしているように思えて仕方がありません。粗製濫造というべきか,なんともお粗末としかいいようがありません。

 NHKさん,ほんとうに大丈夫でしょうか。
 こんな番組を垂れ流しているようでは,受信料を拒否するしかありません。
 本気でご一考のほどを。


 

2012年7月18日水曜日

マラソンランナーのボディーを分析する「科学」のいい加減さ。つまり,ディレクターの無知。

 7月16日(日)の夜も,ちょうど夕食時だったので,昨夜と同じNHKスペシャルをみるともなくみてしまった。目的は,午後7時からの「ニュース7」で,代々木公園で開催された「脱原発10万人集会」をどのようにNHKが報道するか,それをみることだった。案の定,終わりの方でとってつけたような報道しかしなかったのだが・・・・。17万人が集まった過去最大級の集会だというのに,これだ。まあ,いやいや報道したという姿勢がまるみえだったので想定どおり。でも,さすがにNHKも無視はできなくなったようだ。金曜日の首相官邸前のデモはずっと無視してきたのに・・・。最近になって,ちょろっとだけ報道するようになった。この姿勢にNHKの体質のすべてが映し出されているということを知ってか知らずにか・・・・。

 話をもとにもどそう。
 7月16日(日)午後7時30分。NHKスペシャル「ミラクルボディー」マラソン世界最強軍団▽続々と2時間3分台▽アフリカの大自然が生んだ驚異の心肺機能▽疲れない走りの秘密。

 この番組も冗長だった。中味がないのだ。しかし,夕食を摂りながら,つまりビールを呑みながら見るにはちょうどよかったかもしれない。そういう番組だったのかも。なぜなら,昨夜の内村航平選手のボディーに迫る「科学」と同じで,まったく馬鹿みたいな「科学」のお話だったから。退屈しのぎのつもりだったが,やはり退屈してしまった。のみならず,テレビに向かって吼えつづけなくてはならない,というおまけつき。

 もう,皇帝と呼ばれたハイレ・セラシエ,などという固有名詞はぜんぶはぶいて,「科学」の力を借りて「ミラクル・ボディー」を解析しようとする番組制作者の愚かしさと,その到達した結論の「無」に注目したい。この「無」にはあらゆる意味をこめている。無意味,無知,無能,無目的,無内容,無駄,無実,無根,無思想,無批判,無理,・・・・あとはお好きなように。

 番組の小見出しに沿って,かんたんにわたしの感想を述べておく。
 ▽続々と2時間3分台・・・・たとえば,4000人の集落に1000人のランナーがいるからだという。この数字には驚いたが,マラソン・ランナーとして成功すれば,一族郎党みんなが安心して生活できるようになる,という貧困が背景にある,とテレビはさももっともらしく映像を流す。ならば,日本人もみんな貧困になればいい。ハングリー精神が必要だとは,以前から言われている。しかし,それは必要条件ではあっても,十分条件ではない。2時間3分台の選手が続出する背景にはこんな貧困があるということを,わたしたちはもっと別の角度から考えなくてはならないだろう。これを単なる説明論理として使うだけで済まされる問題ではないだろう。しかも,「ミラクル・ボディー」などという「科学」の視点から眺めてそれでよしとしている場合ではないだろう。こんなところにも,番組制作者たちのとんでもない「理性」の狂い方をみてとることができる。

 ▽アフリカの大自然が生んだ驚異の心肺機能・・・・標高2000mを超える高地で生まれ生活をしている人びとを映し出す。そして,子どもたちが毎日裸足で走って学校に通う姿が映し出される。そのなかからランナーが選ばれ,高い授業料を払ってトレーニング・スクールに入り,合宿生活をしながら厳しいトレーニングに耐える。その数たるや信じられないほどの数だ。そうして鍛えられた「驚異の心肺機能」だ。別に「科学」で明らかにしてくれなくても,映像をみているだけでわかることだ。それをまことしやかに「科学」の力を借りて,事細かに心肺機能を測定し「数量化」して比較する。なるほど,と一瞬思う。しかし,そんなことをしなくても初めからわかっているし,その「数量化」の数字は想定どおりであって,新しい知見でもなんでもない。環境に意図的・計画的に適応しただけの話ではないか。

 ▽疲れない走りの機能・・・・「つまさき」走りということがしばらく前から話題になっている。それを「科学」してみた,というだけの話。こまかな話は省略するが,この走りを身につけるのは容易ではない,とわたしは映像をみながら考える。前に送り出した足のつま先から順にかかとへと体重を移動させながら着地のときのショックを軽減している,と「科学」(者)は説明している。そして,これが可能なのは,「足底筋群」が発達しているからだ,と結論づける。それでおしまい。アホか,と思う。つまり,足の着地部分しか見ていないのである。だから,そこだけをスローモーションで動きを分節化し,その足の運び方だけに注目する。そして,日本人選手(可哀相に)の走りと比較する。その上で,かかとから着地する日本人選手の足が受ける衝撃は大きい,と説明する。その結果,大腿筋に大きな負荷がかかる,としてそれを測定する。それを数量化して,比較して,こんなに違うという。それで,おしまい。

 これがNHKスペシャルのいう「科学」なのだ。子供騙しもいいところ。こんなレベルで「科学神話」が構築されようとしているのだから恐ろしい。これを,世間では「スポーツ科学」だと信じている。名誉のために言っておくが,「スポーツ科学」はそんな幼稚なものではない。もっと,運動の特性をしっかりと把握した上で,トータルに分析のまなざしを投げかける。つまり,スポーツ科学にはその競技種目の専門家の意見を取り入れながら,分析対象を絞り込んでいく手続がある。それさえできてはいない,まことに素人考えの,稚拙な「科学」の援用でしかないのである。これが制作担当者の狂った「理性」であり,「無」だ,とあえてもう一度言っておく。

 わたしはアフリカのランナーたちの映像をみながら,まったく別のことを考えていた。
 足首の驚くべき柔らかさ,膝の柔らかさ,そして,股関節の柔らかさ・・・・つまり,全部の関節が「ゆるんで」いるのだ。だから,単にフラットに足を着地するだけではなくて,着地のときの衝撃を腰から下のすべての関節で順番に分担して受け止めつつ,それを推進力に変えている。しかも,受け止めた衝撃をバネに変えて足の蹴り出しにつなげている。これはかなり高度な技術だといわなけばならない。

 なぜなら,かれらの足の裏は手の平と同じくらい鋭敏な感覚と情報収集能力をもっているはずだ。それは,こどものときから裸足で駆け回り,足の裏からえられる情報を走りの改善に還元しているのだ。そうして,自分なりの走り方を創意工夫して身につけていく。

 もっと言っておけば,かれらの足は自然のままの,いかなる地形にも対応できる走りを,先祖代々にわたって受け継いできているのだ。つまり,まだ,退化していない足なのだ。それに引き換え,文明先進国の人間の足は幼児のころから靴を履き,大地から直接情報を受け止める能力を失っている。つまり,退化してしまっているのだ。一度,退化してしまった足をもとにもどさないかぎり,かれらの走りをわがものとすることは不可能なのだ。

 思い起こされることは,荒川修作が「死なないために」と言って養老天命反転地というテーマ・パークをつくったことだ。つまり,荒川修作は文明化した社会に生きている人間のからだはどんどん死に向かって直進していく。だから,「死なないために」は,人間の住環境を反転させて,まことに住みにくい家を建て,でこぼこの道をつくり・・・・して,その環境で生活することが必要なのだ,と荒川は主張した。そして,多くの作品を残している。かれの建築のテーマのひとつは「転ぶ」だった。「転ぶ」瞬間,人間は自己を失う。そこが生存の原点であり,その経験をとおして自己をとりもどしていくのだ,とかれは考えた。

 裸足で走る人たちの足の感覚は,文明人のそれとはまったく異質なのだ。

 そこからもう一度,走るとはどういうことなのかを考える必要がある。これがこの番組をとおして,わたしが学んだことだ。その意味では,まことにいい番組ではあった。しかし,このことは番組が意図した「科学」による分析とはなんの関係もない。バタイユは「有用性の限界」ということを言ったが,まさに「科学の限界」をしっかり認識することが,現代社会にあっては重要なのだ。それが「科学神話」から離脱し,移動するための手順なのだ。

 以上が,わたしからの報告です。

2012年6月22日金曜日

NHKテレビの特集番組にVTR出演を頼まれ,その収録を終える。

 番組の正式名はまだ決まっていないようですが,オリンピック特集のための特番だそうで,そこにワンカット出演をすることになり,その収録が昨日,鷺沼の事務所で行われました。以前,韓国のテレビ・クルーがやってきて以来,久しぶりのことでした。

 どうせ,ワンカットなんだから,2,3の質問に答えて,その中から使えるところだけを編集するのだろうと,軽く考えていたのが間違いのもとでした。以前,NHKの「クイズ・日本人の質問」という番組の正解説明者として,VTR収録に応じたことがありましたので(2回ほど),そのときの記憶が鮮明にありました。こちらは,正解を指定された時間内(1~2分)で説明するだけのことでしたので,一回でOKがでれば,それで終わり。もし,NGがでても,もう一回,同じことをやり直せばいい,というものでした。ですから,いとも簡単なことでした。

 今回も,どうせそんなものだろう。それよりはいくらか長い話になる程度で,大したことはないだろう,とタカをくくっていました。が,どっこい。つぎからつぎへと,いくつもの質問が飛び出し,それに対して必死になって応答しなくてはなりません。それも,簡単な質問ではありません。

 日本人選手が外国人選手よりも優れていると考えられる点はなにですか。
 「柔よく剛を制す」とは,どういうことですか。
 むかしの選手といまの選手の大きな違いはどこにありますか。
 トレーニング方法はどんな風に変化してきましたか。
 用具や施設はどのように変化してきたのでしょうか。

 というような質問からはじまって,八田一郎さんという人はどういう人だったのですか,とか「負けた選手は下の毛を剃れ」という名言を残した背景・真意はなんだったのですか,といったような質問まで種々雑多。

 とうとう,いつのまにか,スポーツとはなにか,スポーツを見て感動するのはなぜか,現代社会を生きる人間にとってスポーツとはなにか,日本のスポーツ史やスポーツ文化論まで,夢中になって語っている自分がいて,こんどは自分でびっくり。

 気がついたら,3時間半をすぎていました。途中で,テープを入れ換えます,と言われたときに「もう,いいでしょう」と言おうと思いましたが,担当者がなかなかの好青年でしたので,まあ,言われるままに応答していました。

 終わったときには,担当者が「こんなに深いお話が聞けるとは思ってもいませんでした」というので,こっちも「こんなに深い話をするつもりはなかった」と応答。大笑いになりました。

 最終的にどんなカットが使われるのか,まったく予想もつきませんが,楽しみにしたいと思っています。予定では,7月13日(金)のBS1で放映されるとのこと。また,詳しい情報がわかりましたら,わたしの研究所(「21世紀スポーツ文化研究所」)のHPの「掲示板」には書き込んでおきますので,そちらをご覧ください。

 取り急ぎ,近況のご報告まで。

2011年2月5日土曜日

「スポーツとは認めぬ」(西村欣也)にひとこと。

 しばらくは触れないでおこうと思っていたが,どうしても気になって仕方がないので,ひとこと書いておくことにした。2月3日(木)の朝日・朝刊に大相撲問題が大きくとりあげられた(これはどこの新聞社も同じだった)。そうした記事のなかで,ひときわ大きな文字で「スポーツとは認めぬ」という見出しで「編集委員(ゴチ)西村欣也」(この文字も小さくはない)という署名入りの論評がわたしの眼に飛び込んできた。「?」,なにがいいたいのだろうか,と。
 読んでみたら,もっとも平均的な日本人のスポーツ観(ということは,まことに素人的スポーツ観)にもとづく評論が展開されているだけだった。少なくとも,そこには朝日を代表するスポーツ記者としての矜恃はどこにも感じられなかった。だからこそ,この記事を読んだほとんどの読者は「そうだ,そのとおりだ」と,自分と同じ目線であることに安心もし,拍手喝采をおくったことだろう。そして,文部科学省のお役人さんもこの作文には「花丸」をつけて,いい子いい子と頭をなぜるだろう。しかし,この記事にはいくつかの重大な誤りがある。
 まず,第一に「スポーツとは認めぬ」とはどういうことか。この言説は,まさに,「朕は国家なり」と言ったむかしむかしのどこぞの王様と同じで,さぶいぼが立つほどの怖気とともに驚いた。いまどき,こんなに偉い人がいるんだ,と。「スポーツのことなら俺に聞け」「その俺が『スポーツとは認めぬ』と言ってるんだ」と聞こえてくる。まるでヒトラーの演説を聞いているようだ。
 たしかに,今回の八百長問題は,どのように批判されても仕方がないほどの大きな瑕疵を残したことは間違いない。みんなびっくり仰天して,腰を抜かしていることだろう。かくいう,わたしとて同じだ。しかし,だからといって一方的に大相撲をまるごと批判して,切って捨ててしまえばそれでいいという問題ではないだろう。こういう批判の仕方は(一方的な誹謗中傷もふくめて),もういやというほど日本の社会に蔓延している。しかも,そのことが野放しになっている。いいたい放題だ。そのことによって日本の社会がどれほど歪みを起こしているかは,みんな承知しているはずだ。その先鞭をつけるかのような役割を,なぜ,西村欣也氏がはたさなくてはならないのか。
 相手の非を突いて,一方的な批判をし,相手に有無を言わせぬようなことはしてはいけない,とヘーゲルの『精神現象学』の冒頭の「まえがき」(これが,なんと50ページにもわたる大論文)にくり返しでてくる。つまり,弁証法的な議論の積み上げには,なんの役にも立たない議論で,不毛である,と。だから,この愚を避けつつ,きびしい論評を展開してほしい,これがわたしの真意。
 しかし,今回の八百長問題に関しては,こうした不毛の論調があまりにも多い。ここは冷静に考えてみてほしい。力士の圧倒的多数は,まじめに稽古を積み,明日の横綱をめざして日夜精進しているのだ。そして,少しでもいい相撲をとってお客さんに喜んでもらいたい,とこころから念じている。こういう力士が多数を占めてきたからこそ,こんにちの大相撲が成立しているのだ。この事実を忘れないでほしい。そして,もし,言うのであれば「スポーツとは認めぬ」などという「上から目線」ではなく,まじめに努力している同僚力士に対して,どうやって償いをするのか,その罪の重さをこそ指摘し,そこからの救済の方法をさぐるべきではないのか。めざすべきは,どうやって今回の不祥事を乗り越えていけばいいのか,という議論ではないのか。
 第二に,西村欣也氏の考えるスポーツとはどういうものをいうのか。あえて,際立つように,わたしの考えを述べておこう。わたしは,大相撲になにが起ころうとも「スポーツである」と認めます。力士たちが八百長をしようが,賭博をしようが,大相撲はスポーツです。西村欣也氏に,少しだけ身をよせてわたしの考えを述べておけば,以下のようになろうか。
 西村欣也氏のいう「スポーツとは認めぬ」は,ややことばが乱暴すぎただけで,わたしなら,「大相撲は近代スポーツではない」と言うでしょう。そうです。大相撲は近代スポーツではありません。しかし,大相撲はスポーツではあります。この違いをスポーツを担当する記者のみなさんにはわかっていてほしいのです。
 スポーツ史という分野で長い間,仕事をしてきた人間としては,このことは強く主張しておきたいことがらなのです。大相撲は,どう考えてみても近代スポーツではありません。髷を結い,まわしひとつの裸体競技,土俵は神聖な場所で女性を立たせない,行司の装束,部屋制度,呼び出し,床山,などなど,いずれも前近代のままです。そういう前近代性を大相撲の世界はまだまだ多く引き継いだままです。そしてまた,それが様式美もふくめて,たまらない魅力にもなっているわけです。ただひとつ,勝負の判定についてだけはきわめて近代的な手法を導入しているために,それに付随して,優勝劣敗主義が徹底しているために,ついつい大相撲を近代スポーツと勘違いしてしまう人は多いと思います。
 しかし,近代スポーツもまた,もとを質せば前近代のスポーツから誕生したものです。その意味では,大相撲は前近代と近代の両方の論理に引き裂かれた状態にある,というのが現状でしょう。ですから,大相撲は,ノミノスクネとタイマノケハヤの決闘にしろ,タケミナカタとタケミカヅチとの決闘にまでさかのぼるにしても,それらもふくめて,わたしは「スポーツである」と考えています。この点は,ヨーロッパ産のスポーツもまた同様です。たとえば,もとをたどれば,古代ギリシア時代のレスリングのはじまりは決闘でした。日本の相撲の起源と変わりません。つまり,スポーツの概念はきわめて広いものだ,ということをここでは確認しておくにとどめます。
 ここでは,これ以上のところには踏み込みませんが,スポーツの長い歴史過程を視野に入れた上で「スポーツ」ということばの概念を用いていただきたい,それがわたしの願いです。
 西村欣也氏を名指しで批判する結果になってしまったかもしれません。が,いつも書いていますように,朝日新聞の長年の読者として(たぶん,大学に入って上京して以後ずっとですから,50年以上もの読者),しっかりしてほしいのです。ですから,わたしの主張の根底には悪意はありません。むしろ,かつての栄光に輝いていたころの朝日新聞に立ち返ってほしいという深い愛情が,あえて,西村欣也氏に集中したと受け止めてください。
 この問題は,西村欣也氏にかぎりません。わたしが眼にする多くのスポーツ記事が,あまりにも貧しいので,ついつい我慢できなくなってしまった,というだけの話です。なかには,素晴らしい感動的なスポーツ記事を書いてくれる記者の方もいらっしゃいます。相当に,スポーツ史やスポーツ文化論を勉強していらっしゃって,そういう素養に支えられた記事は,読んでいて安心です。そして,現実に生きている生身の人間にとってスポーツとはなにか,というもっとも基本的な問いかけがどこかに感じられると,わたしなどは拍手喝采を送っています。
 次回は,そういうスポーツ記者を紹介したいと思います。

2011年1月29日土曜日

大相撲の玉鷲報道を考える。

 昨日(28日)は,共同通信社のK記者から取材を受けて,ついつい長話をしてしまった。テープ・レコーダーにスイッチが入ると,なにかしゃべらなくては・・・と柄にもなくテンションがあがってしまったようだ。それもさることながら,K記者の取材の姿勢がとてもよく,上手に話題を引き出してくれる。だから,自分ひとりではふだん考えたこともないことにまでも新たな展望が開けてきて,不思議な体験をさせてもらった。K記者のお人柄の暖かさと記者としての矜恃のようなものが伝わってきて,いつのまにかわたしにも伝染してきて,必死で応答している自分がいる。だから,わたしの頭のなかはフル回転。とてもいい時間を過ごした。一種の「場」を作り上げる能力のある方だなぁ,といまにして思う。久しぶりに味わう快感である。
 そんな取材中の話のなかで,メディアをとおして流れる情報が人びとの意識に大きな影響を及ぼす時代なので,情報の取り扱いにはよほど注意しないといけませんね,というような話になった。同じひとつのできごとであっても,その見方,受け止め方によって,情報はいかようにも加工・編集できてしまいますからね,という具合に。
 そんな話をした直後だっただけに,今朝のインターネット上を流れていた大相撲の玉鷲報道にはあきれはててしまった。片男波部屋のモンゴル出身力士が,千秋楽の日の夜,酔っぱらって腕に大怪我をし,入院したが27日には退院した,というそれだけの話。もう少し補足しておけば,部屋で打ち上げが終わったあと,親方をはじめ後援会の人たちと街に繰り出した。店に入る通路で,酔っぱらった玉鷲がガラスにもたれかかったときに,そのガラスが割れて,腕の動脈を切る怪我をしたので,すぐに病院に運んだところ入院となり,27日に退院した,という(この書き方も,わたしが,ネット上を流れているいくつかのメディアの報道をチェックして,その記憶で,つまり,わたしが加工し,編集したことだけを取り上げているにすぎない。だから,真実はどうなのかは定かではない。あるいは,真実などというものは報道のしようがないのかも・・・・)。
 それでも,ここまで整理できるまでには相当の時間がかかっている。なぜなら,まず,最初に,びっくりしてこの報道に飛びついたのは,Niftyのホームページにでていた今日のニュースの見出しである。そこには,つぎのような見出しがでていた。
 「”朝青龍病”蔓延,モンゴル出身・玉鷲がガラス割る」(夕刊フジ)
 これをみた瞬間のわたしのこころの中は「ムカッ」といういらだたしさであった。「朝青龍病」だと?
そんな病名がいつから定着したのだ! いったい,どんな症状のことをいうのか? 数日前に,グルジア出身の黒海と臥牙丸が飲み屋で喧嘩して・・・という報道があったばかりなので,「えっ,またか?」と思うであろう読者のことを計算に入れた上での,まさに詐欺まがいのまことに質の悪い報道の仕方である。こういう報道を「メディアの暴力」とわたしは呼ぶ。報道の自由を騙る「暴力」だ。その理由は以下のとおり。
 関連の報道のポイントをいくつか紹介しておくと,以下のとおりである。
 「ガラスを壊した」(日刊スポーツ),「ガラスにひびが入った」(読売),「もたれかかって割れた」(共同通信),という具合である。
 「ガラス割る」と「ガラスを壊した」という表現には,明らかな悪意を感じ取ることができる。報道各社の記事を読み比べてみると(10社ほど確認),「店に入る通路で,酔っぱらった玉鷲が大きなガラスの仕切りにもたれかかったときに,そのガラスが割れた」というあたりが真相らしい。もちろん,これもわたしの推測にすぎない。しかし,「割った」と「割れた」では大違いである。ここには明らかな故意の悪意が感じられる。いや,それどころか,嘘の報道をしている。名誉棄損で訴えられてしかるべき報道だとわたしは思う。
 もちろん,基本的には,酔っぱらった玉鷲が悪い。しかし,そんなに酔っぱらった玉鷲を街中に連れ出した親方(元・玉春日)も悪い。監督不行届である。後援者の責任も重い。それにしても,このとき付き人たちはどうしていたのか。もしかして,玉鷲は,むりやりに連れ出されたのかもしれない。断り切れなくて・・・。もし,そうだとしたら・・・。これは単なる憶測なので,やめておこう。
 さきほど「故意の悪意」と書いたが,その背景にあるのは「ゼノフォビア」(外国人忌避)だ。このことは,すでに,雑誌『世界』(岩波書店)にも書かせてもらったことがある(朝青龍が腰痛を理由に巡業を休んでモンゴルに帰国。その間にサッカーをしていたことがテレビの映像となって流れた。それがマスコミの批判の的となり,朝青龍バッシングの嵐が吹きまくった。そのために,あの朝青龍が「ウツ」になってしまったほどのショックを受けた。なぜ,こういうことになるのか,朝青龍には理解できなかったのだ。その間の経緯を考えた論考。その結論のひとつが「ゼノフォビア」である)。日本人横綱が不在になってすでに久しい。そのことに対する,口ではいえない不満が屈折して,モンゴル出身力士に対する誹謗中傷となって噴出する。しかも,メディアの一部がそれを率先垂範している。つまり,アジテーションだ。そして,このアジテーションをそのまま信じてしまう日本人が少なくない,ということだ。このことがなによりも大問題だ,とわたしは考えている。
 じつは,わたしは共同通信社がどのように報道したのかな,とはらはらしながらページを開いた。そうしたら,きわめて冷静に「もたれかかって割れた」と書いてあって,胸をなでおろした次第。なぜなら,共同通信社は全国の地方紙とネットワークを組んでいるので,その影響力は計り知れないのだ。だから,せめて,共同通信だけは,冷静に,精確な報道をしてもらいたい,と以前から思っている。朝日・読売・毎日・日経,などの報道は,けしからんと思えば講読をやめればいい。そういう人が,わたしの身辺には増えてきている。わたしも大手新聞社の「傲慢」と「無自覚」,そして「不勉強」,「無責任」に業を煮やしているところ。そろそろ決別すべき時期か,と考慮中。その苦衷についてはこのブログでも書いたとおり。
 同時に,ブロバイダーも変えなくては・・・・と検討中。もっとも,こちらはいくらでもセレクトできるので,自分の好きなブロバイダーのHPに入っていけばいいのだが・・・。
 余談だが,最後にひとこと。玉鷲よ,強くなってもどってこい。前頭筆頭で5勝10敗は立派な星だ。あと三つ勝てば勝ち越しになり,三役に昇進だ。そのためには,三役力士から勝ち星を挙げられるようになること。そこを目標に頑張ってほしい。とても素質のある力士だけに,わたしはこころから期待している。あとは得意の型をもつこと。へこたれるなよ,玉鷲!モンゴル魂で一直線に前に出ろ。

2011年1月10日月曜日

ソウル放送局とはテレビ局のことでした。

 〔昨日のつづき〕電話で取材申し込みがあったときに確認したことは,「ソウル放送局」と「武道について」だけでした。ですから,わたしは放送局が取材にくるのだから,取材記者がひとりでやってきて,録音するなり,メモをとって終わり,と軽い気持ちでいました。
 約束の時間よりは相当に遅れて(電話で連絡がありました)到着。ドアを開けてみたら,二人で現れました。一人はスーツ姿の中年の紳士,もう一人はダウンのジャケットを羽織った大柄な若者で,大きなテレビ・カメラを担いでいるではありませんか。おやおやと思いながら,ご挨拶。スーツの紳士は李さんという名前,ダウンの若者は金さん。さっそく,金さんはダウンを脱いで三脚を立てて大きなテレビ・カメラをセット。この金さんの大胸筋がただものではありません。なにかスポーツをやっていたんですか,と問うとバレー・ボールをやっていた,とのこと。それにしては,その体格は柔道かシルムの選手ですよ,とわたし。学生時代はもっと細身でした,と金さん。これで少し緊張が解けて,さっそく簡単な打ち合わせに入りました。
 まずは,玄関のドアを開けるところからはじめて,ご挨拶を撮り,事務所と仕事部屋を撮りたい,とおっしゃる。そして,机に坐って仕事をしているところ・・・・,本を読んだり,原稿を書いていたり,パソコンを操作したり・・・と注文はいくつもつづきます。おまけに,本棚も撮りたい,能面も撮りたい,という調子です。ちょうど,いま,ある原稿を書こうとしていて,そのために必要な本があちこち山積みです。これはあまりにひどい状態なので,片づけるからと言ったら,この状態が最高です,という。困りました。が,仕方ないかと諦めることにしました。
 それよりもなによりも,ラジオだと思っていましたから,いつもの普段着のまま。作務衣のできそこなったようなものを着ていて,これでは日本人を誤解されてしまうからと話したのですが,それも「この方が雰囲気があっていい」とまたまた断られてしまいました。もっとひどいのは,わたしの髭。この髭は去年からカットもしないで伸び放題のまま。頭もぼさぼさのまま。ちょっとだけ待ってください,髭をカットして,頭にヘア・リキッドをつけてくるから,という申し出も,「いや,武道を語ってもらうには,このままの方がいい」と言って聞いてくれません。
 そうか,この人たちは,わたしの姿をみて「これは絵になる,いい画像になる」と考えたに違いありません。完全にわたしはひとつの「商品」として扱われている,と気づいたときはすでに手遅れでした。こうなったら,もう,相手の路線に乗っていくしか方法はありません。言われるままに(演出の打ち合わせどおりに),手順を踏んで撮影がはじまりました。かれらの思惑どおりに進んでいることは,かれらの嬉しそうな顔をみていて,途中から気づいていました。そうです。わたしが居直って一生懸命に合わせているのですから。
 さて,肝腎のインタビューの方も,きちんとシナリオ書きがあって,それをカメラマン兼ディレクターと取材記者とで何回も確認しながら進んでいきました。質問は多岐にわたり,これをどうやって編集するのかなぁ,と思いながらまじめに応答しました。質問の主なものをあげておきますと以下のとおりです(記憶に残っている範囲でのことですが)。
 この研究所はいつ開設したのですか。その目的はなんですか。
 武道の歴史について話してください。武道の起源はなんですか。(この応答だけは慎重にしなくてはと考えました。そこで,「武」「武芸」「武術」「武道」の概念の違いを説明し,それから,こんにちで言うところの武道の歴史について概略を話しました。)
 戦後,アメリカのGHQが武道を禁止しましたが,このことをどのように考えますか。
 いまの日本人は武士道についてどのように考えていますか。武士道とはなにですか。
 刀の製造法の歴史について話してください。
 武士が名刀を持つということについてはどのように考えていますか。
 空手の歴史について話をしてください。
 大山倍達についてはどのようにお考えですか。かれが日本の武道に与えた影響はどんなものですか。
 日本でいま一番盛んな武道はなにですか。柔道ですか,剣道ですか,空手ですか。(この問いに対して,わたしは連盟に加盟している人数と,愛好者を合わせると太極拳が一番多いと聞いています。概数ですが,100万人はゆうに越えるだろうと言われています。と応えると,これには驚いた様子でした。)
 最後に,忍者のことについて話してください。(ここは,わたしのもっとも得意とするところですので,熱弁を振るいました。そして,ここは使ってくださいね,とお願いもしておきました。たぶん,大丈夫でしょう。とても関心をもってくれたようですから。なぜなら,忍者は生き延びるためのプロである,ということを強調したからです。まずは,一般にはあまり知られていない忍者と禅仏教との関係をはじめ,天文学,地理学,薬草学,医術,といったありとあらゆる知識を身につけたとき,はじめて名のある忍者となることができるのです,ということから語りはじめ,そのための忍者に固有の修行法にいたるまで,かなり細かな説明をしました。途中で何回も「ほんとうですか」と問い直されたほどです。
 というような具合で,ほぼ2時間,おしゃべりをしました。それが15分に編集されるそうです。さて,どんな映像になるのでしょうか。できあがりを楽しみにしたいと思います。放映日は1月23日,ソウル・テレビからだそうです。あとで,収録したDVDを送ってくれるとのこと。2月の東京月例会の折にでもみていただきましょうか。
 取り急ぎ,以上が昨日のソウル・テレビ収録のご報告です。

 

2011年1月9日日曜日

朴(パク)ちゃんの紹介で,ソウル放送局の取材を受ける。

 珍しいこともあるものです。ソウル放送局から,取材の申し入れが数日前にありました。そして,今日の午後5時に鷺沼の事務所でその取材を受けることになりました。間に入ったのはパク・ジョンジュン君。そう,あの「朴ちゃん」です。もう,ずいぶん長い間,音信不通になっていましたので,どうしているのかとおもっていたら,いまは韓国にいる,というこれは留守電に入っていたかれのことばです。まあ,人間関係というものは,いつ,どこで,なにがあるかわからないものです。
 取材のテーマは「武道について」でした。ちょっと意外でしたが,朴ちゃんが間に入ったということであれば,なんとなく納得。朴ちゃんとは,日体大大学院の修士課程のとき,わたしの指導を受けた院生のことです。そのご,国士館大学大学院の博士課程に進みましたが,博士論文がなかなか書けなくて苦労している,というところまでは知っていました。が,そのごのことは情報がありませんでした。国士館大学での指導教員はT先生。この間のスポーツ史学会でお会いしたので,朴ちゃんのその後のことを聞いてみました。ちょっと困った顔をされて,「あの子ねぇ,最後の詰めが甘いんですよね。あと一踏ん張り,頑張ってくれるといいのですが・・・」と口をにごされました。このコメント,わたしには手にとるようにわかります。朴ちゃんは天才肌なので,自分でわかればそれで満足,それを人に伝えることはまことに下手。文章を書くと三段跳びで話が飛んでいってしまいます。これでは意味が通じないよ,と言えば,これ以上の説明は必要ない,と自信満々。長嶋茂雄のパッティング・コーチと同じです。「ボールがきたら,いいかい,バシッと打て。バシッとだよ」,これで長嶋君はバッティングの極意を説明したつもりなのである。
 朴ちゃんは,韓国では有名な柔道家です。中学生で全国チャンピオンになり,以後,各年齢別の柔道の大会のトップを走りつづけ,やがて,韓国ナショナルチーム入りをはたします。そして,世界各国での大会で大活躍をします。ですから,韓国の人はほとんどの人がかれの名前を知っています。わたしが韓国に講演を頼まれてでかけたときに,38度線から北朝鮮の景色をみたいと言って朴ちゃんに案内してもらったことがあります。そのときに,バス停などで立っていると,かならずこどもたちが寄ってきて話しかけてきました。一緒にいる親たちも,やはり,有名人をみる目つきをしていました。「なにを話しているの」と聞くと,「柔道が強くなるにはどうしたらいいか」と聞かれている,と。「なんと応えているの」「親孝行をしなさい」「それが答えなんだ」「韓国ではこれを言わないとスポーツマンとして失格です」「ああ,そうなんだ」というような会話をしたことを思い出します。
 朴ちゃんは,人なつっこくて,やさしいのでみんなに好かれていました(ここは過去形)。友達もたくさんいました(日本でも)。韓国の女優さんたちもほとんどみんな友達だと言っていました。日本でも,なぜか,有名人と友達になっていました。だから,わたしたちは「朴ちゃん」という愛称で親しみをこめて呼んでいました。しかし,短所もありました。ある一線を越えると,がんこでわがまま。自己中心主義者。これが見えはじめると,少しずつ,友達が身を引いていきました。それまでは,みんな仲良し,すぐに友達になってしまいました。その意味でも天才的でした。
 そのごの朴ちゃんがどのように成長したかをわたしは知りません。たぶん,いろいろの苦労を重ねて,年齢相応に成長しているのだろうなぁ,と想像しているだけです。そして,かれの得意の柔道をとおして,日本と韓国の架け橋となり,重要な役割をはたしているのだろうなぁ,と想像しています。なぜなら,わたしのところの院生であったときから,韓国の柔道関係者は,日本にくると,いつも朴ちゃんを通訳として頼っていましたから。こういう仕事をしているときの朴ちゃんは目が輝いていました。社交的で,すぐに人のこころをとらえるのが上手で,行動が早い。これはかれの天性でもありました。
 というわけで,そんな朴ちゃんの計らいで,ソウル放送局の取材が成立したというわけです。
 朴ちゃんを紹介する話が予想外に長くなってしまいましたので,取材の話は明日にまわすことにしましょう。
 乞う,ご期待! ということで。