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2013年9月1日日曜日

「子ども時代がとりわけ長いサルが突然変異で現れた」=<横滑り>(バタイユ)の内実?

  (31日)の『東京新聞』の「筆洗」に面白い話が紹介されていました。『子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの?』(福岡伸一著,日経BP社刊)という本のなかにつぎのような話がある,というのです。わたしは読んだ瞬間に,あっ,これはジョルジュ・バタイユが仮説として提示した<横滑り>の内実の話だ,と直観しました。

 短い文章ですので,そのまま引いておきます。
 人類誕生をめぐるこんな説があるらしい。ある時,サルの中に成熟が遅い,言い換えれば,子ども時代がとりわけ長いサルが突然変異で現れた。普通に考えれば,不利な存在のはずなのに,なぜかそのサルが繁栄するようになった。食料調達や縄張りなど「大人の問題」に悩まされず,好奇心に従っていろいろ探ったり,遊びで新しい技を身につけたりする時間がたっぷりあったために,脳の発達が促されたというのだ。長い子ども時代は人間だけに与えられた特権であり,その中で「世界の成り立ち」や「自分の存在意義」などという「大きな問い」を発明した・・・と,福岡さんは指摘している。そして,そんな人類がたどってきた進化の道を自分で踏みしめてみることこそ,勉強なのだと。

 この仮説の立て方は,なんの違和感もなく,わたしにはまことにすんなりと入ってきました。そして,それがそのままジョルジュ・バタイユが立てた仮説<横滑り>の内実を意味している,と感じた次第です。なぜ,そのように感じたのかということについて,できるだけ簡単に書いておきたいとおもいます。

 野生のサルの世界は,バタイユのことばでいえば「内在性」を生きる世界です。何回もこのブログでも書いてきましたように,「水のなかに水があるように」存在する様態のことです。つまり,自他の区別がきわめて曖昧な,あるいは自他が一体化した状態を生きているということです。そういう状態で生きている野生のサルにとっては,生まれた子どももできるだけ早く大人と同じ生活を営むことができるようになることが,なによりも優先される絶対条件でしょう。ですから,子どものサルは生まれてすぐに母親のからだにしがみついて離れないでいられる手足の握力をもっています。馬や鹿の子どもたちが,生まれてすぐに立ち上がり,歩きはじめるのと同じです。

 しかし,そこに未熟児のまま子どもを生むサルが登場したのではないか,しかも,このサルたちが繁栄の一途をたどったのではないか,しかも,そのサルの系譜こそ人類の始祖ではないか、という説があるというわけです。この仮説の面白いところは,未熟児で生まれ,かつ,子ども時代がとりわけ長いということは生存競争を生き延びていく上ではきわめて不利になるはずなのに,その不利な条件をかえって有利にするという逆転現象が起きたのではないか,というところにあります。ここが,すなわち,バタイユのいう<横滑り>です。そして,そこが,他者を意識しはじめる始原の場ではなかったか,というのがわたしの直観です。

 つまり,未熟児を産んだ母サルは,もはや,単純な内在性を生きているわけにはいかなくなるはずです。つまり,未熟児の子サルを外敵から守り,育てるためにさまざまな創意工夫が必要になったはずです。と同時に,未熟児で生まれてきた子サルは,親サルの庇護のもとにのんびりと,自由気ままな遊びに熱中します。そして,自分の身のまわりの環境世界を対象(オブジェ)としてとらえるようになり,やがて,それらを事物(     )として自分たちに都合のいい道具(石器など)にしたり,動物の飼育や植物の栽培へと,その歩を進めていくことになります。ここが,サルからヒトへの<横滑り>の始原の場ではなかったか,というわけです。つまり,自然を事物にするサル,すなわち,文化を獲得したヒトの出現へ,という次第です。

 その一端が,新聞に書かれているように(福岡さんの話のように),「好奇心に従っていろいろ探ったり,遊びで新しい技を身につけたり」したのだろう,という話になってきます。この未熟児サルから大人サルに達するまでのプロセスは,こんにちの人間の赤ちゃんが成人するまでのプロセスと原則的にはほとんどなにも変わらないだろうとおもいます。

 そのプロセスを効率的に学習し,身につけることが,こんにちの「勉強」の中核にあるのだ,と福岡ハカセは仰るわけです。もちろん,バタイユのいう<横滑り>の仮説はこれだけではありません。もっともっと多くの複合的な問題がからんでいます。それらについてはひとまず措くとして,未熟児のまま生まれてくるサル,そして,その結果として,とりわけ長い少年時代を送ることになるサル,このようなサルが突然変異として出現したという仮説は,バタイユの<横滑り>仮説を補填する内実としては文句なく説得力がある,とわたしは受け止めました。

 人類の脳の発達は,二足歩行とは別にもう一つ,「とりわけ長い少年時代」を過ごすことにその鍵が隠されていた,という次第です。わたしにとっては,<横滑り>の内実が一つ明らかになった,という点で大満足でした。これからも福岡ハカセの著作には注目していきたいとおもいます。

2012年11月19日月曜日

東慶寺の西田幾多郎,鈴木大拙,和辻哲郎,ほかのお墓詣でをしてきました。

 11月18日(日)は,前日の雨があがって,快晴無風の素晴らしい青空がひろがりました。以前からお招きのあった北鎌倉に住む友人Oさん宅でのバーベキューの集まりには,申し分のない絶好の天気に恵まれました。小春日和を思わせるようなポカポカした温かい日差しを浴びてのバーベキューには最高でした。

 この集まりが12時からでした。ならば,折角,北鎌倉まででかけるのだから,その前に東慶寺に立ち寄ることにしようということで,朝,少し早めに家を出ました。北鎌倉の駅を降りてすぐのところに東慶寺はあります。線路を挟んで円覚寺の斜め前くらいのところに位置します。ついでに言っておけば,東慶寺は臨済宗円覚寺派のお寺です。鎌倉街道に面していますので,電車を降りた観光客が長蛇の列をつくって歩いています。その列から離れて東慶寺の境内へ。

 ひとりで,のんびりと,気の向くままに東慶寺の境内を散策です。急ぎ足でとおり過ぎてゆく観光客を横目にみやりながら,足元の草花を鑑賞したり,散りはじめた「いわたばこ」の葉を眺めたりしながらの散策です。ですから,ほとんどの人が気づかずにとおり過ぎてゆく「十月ざくら」もじっくりと鑑賞することができました。すでに,散りはじめていましたが,まだ,かなりの花が咲いていました。でも,あまりに小さな花なので,よほど注意をしないと気づきません。

 本堂を右手にみながら,メインの参道を登っていくとやがて墓地に達します。ここからが,今日のわたしの主目的です。以前,ここにきたときには大勢で歩いていましたので,その流れに身をまかせていました。が,今日はひとりだけですので,完全に自分のペースで歩くことができました。まずは,一直線に西田幾多郎の墓へ。その墓碑には「寸心居士」と彫ってあるだけですので,知らない人にはこれが西田幾多郎の墓だとはわかりません。とても素朴なというか,簡素なお墓です。しばらく,ここに佇んで,西田幾多郎に思いを馳せ,かれの悲劇的な生涯や,その生涯と深く切り結ぶことになったかれ独特の哲学(純粋経験,行為的直観,絶対矛盾的自己同一,「哲学とは悲劇でなければならない」という名言も残している)のことを考えました。


 その西田幾多郎の墓の左隣には安倍能成の墓が,そして右隣には岩波茂雄の墓があります。そして,さらに道を隔てた右前には鈴木大拙の墓があります。こちらも「大拙居士」とだけ墓碑に彫ってあるだけです。「寸心居士」と「大拙居士」の墓碑はほとんど同じ大きさ・形をしています。いずれも五輪塔です。金沢の四高時代からの同級生で,無二の親友らしく,墓碑まで相談してあったのではないかと思わせます。晩年の西田幾多郎は鎌倉に住んでいました。が,第二次大戦末期には食料を手に入れることができず困りはてていたようです。そこへ,鈴木大拙がさつまいものなどの差し入れをしてくれることがあって,とても助かるということを日記に書き留めています。が,西田は,ほとんど栄養失調のような状態で,敗戦直前にこの世を去ります。まるで,シモーヌ・ヴェーユの最後を思い起こさせるような死に方をしています。その西田の死を見届けたのちも,大拙は長生きをしています(1966年没)。ですので,大拙は折あるごとに西田のお墓に何回も足を運んでいたはずです。その大拙が西田とそっくりのお墓を残しているわけですので,これは偶然とはいえないでしょう。


 その西田や大拙のお墓から一段下がったところに竹林に囲まれた大きな構えの和辻哲郎のお墓があります。ここだけは独立して別世界を形成しています。ここでもしばらく佇んで,和辻の『風土論』(最近,見直されつつある)のことを考えたり,西田幾多郎との関係を考えたりして時間を過ごしました。

 大拙の墓の裏側には谷川徹三の墓が,西田の墓の二つ隣には野上弥生子の墓が・・・・という具合にこのあたりにひとかたまりになって著名人の墓があります。が,大半の人たちは足を止めることもなくなにげなく眺めてとおり過ぎていきます。時間がないのか,興味がないのか,なんだろうかと首をひねりながら,黙ってみやっていましたが・・・・。

 さて,このほかにも今回,初めて見つけた墓もいくつかありました。この墓地の一番奥の左端の高まったところに高見順の墓,墓地の中央あたりに田村俊子の墓,その近くに前田青邨の墓,さらに下ってきて左に小林秀雄(この墓碑には「小林」とだけ彫り込まれています。いかにも小林秀雄らしいと思いました)の墓が・・・・という具合です。

 最後に,以前,確認してあった織田幹雄と大松博文の墓(左の一番奥まったところ)を詣でてきました。意外に質素な墓ですが,二人並んでいるところが,なんとなく微笑ましい感じがしました。と同時に,なぜ,この二人の墓がここ東慶寺にあるのかなぁ,と考えたりしました。よほどの思い入れがないかぎり,わざわざここにお墓をつくる必要はないはずです。

中央の銅像が織田幹雄さんで,その左側にお墓がある。この銅像の右側が大松博文さんのお墓。織田さんは「精進」,大松さんは「根性」ということばをお墓に彫り込んでいる。
 ここまできたときに,1時間くらいは経過したかなと思って時計をみたら,なんと2時間が経過していました。すでに,集合時間に遅刻です。急いでOさんの家をめざしました。とはいえ,歩いて5分ほどのところです。最後の急坂を登りながら,もう,みんな揃っているのだろうなぁ,と想像しながら胸を躍らせていました。

 ここでの話は割愛。いつか機会をみて。

 愉しい,ほんとうに愉しい時間を過ごして,家にもどってから東慶寺のパンフレットを確認していたら,なんと楊名時の墓があることがわかりました。日本に最初に太極拳を普及させた功労者です。いまは,娘さんが後継者となり,活躍されています。わたしのやっている太極拳とは違って,楊名時のそれは「健康太極拳」,わたしのやっているのは「武術太極拳」。次回は,かならず詣でることにしようと思います。考えてみれば,楊名時の墓がここにあるというのも,不思議な感じがします。でも,ひと理屈こねれば,太極拳の太極思想と禅仏教の禅の思想とは親戚同士でもありますので,なにも縁がないというわけでもありません。この件については,また,いずれ。

 今日はここまで。


2012年8月14日火曜日

「バタイユ没後50年」『週刊読書人』が特集。

 『週刊読書人』(8月10日刊・第2951号)が「バタイユ没後50年」を特集している。精確にいえば,ことしの6月3日に日本フランス語フランス文学会春季大会(東京大学本郷キャンパス)が開催され,そのときのワークショップ「バタイユ没後50年:これまでとこれからを考える」に参加した5人のプレゼンテーターとその仕掛け人の計6人による寄稿を掲載したものである。

 仕掛け人は福島勲(北九州市立大学准教授),プレゼンテーターは濱野耕一郎(青山学院大学准教授),岩野卓司(明治大学教授),湯浅博雄(東京大学名誉教授),酒井健(法政大学教授),西谷修(東京外国語大学教授)。この順番でプレゼンテーションが行われたが,最後の西谷さんのところにきたときには時間がほとんど残っていなかった,という(西谷さんからの伝聞)。シンポジウムやワークショップではよくみかける光景ではあるが,結局は最後のスピーカーの存在を無視した行為で,失礼千万だとわたしは考えている。学者先生方は,意外にだらしがない。もっと,約束どおり与えられた時間を守るべきである。その上で,フリーのディスカッションの時間で大いに弁舌を振るえばいい。

 こういうワークショップが行われたということは西谷さんから聞いていたので,どんな内容だったのかなぁ,とじつは楽しみにしていた。とこかで特集が組まれるはずだから。と思っていたら『週刊読書人』がわたしの期待を叶えてくれた。

 わたしも長い間,西谷さんのお話をうかがいながら,ジョルジュ・バタイユという人の考えたことに強い関心を寄せてきた。全部とは言わないまでも,バタイユの主だった文献は読破してきたつもりである。とくに,『宗教の理論』と『有用性の限界 呪われた部分』の2著は,何回も何回も繰り返し読みこんだ愛読書でもある。このテクストを用いて,神戸市外国語大学で集中講義をしたこともある。そのときの読解の試みの一部は『スポートロジイ』創刊号(みやび出版,2012年刊)に掲載してある。ご覧いただければ幸いである。

 そんな事情もあって,この特集は一気に読ませていただいた。いずれの論者の寄稿も面白く読ませていただいた。しかし,5人の論者が勢揃いして,一堂に会して議論をするということは,かなりの冒険でもあるなぁ,としみじみ考え込んでしまった。この寄稿原稿はその反映にほかならないのだが,なんとまあ,個人差があることか,と驚いてしまったのだ。

 もちろん,5人の論者はそれぞれバタイユに向き合うスタンスが異なるので仕方がないとはいえ,かくも違いがはっきりするものか,しかも,そのレベルの違いまでもが否応なく表出してしまうものなのか,と驚いてしまった。いずれも日本を代表するバタイユ研究者でありながら,この短いスペースに盛り込む内容の密度の濃さがまるで違うのである。

 で,ほかの論者のことはともかくとして,わたしのこころを強く打った論考は西谷さんのものだった。ほかの論者たちのものは「バタイユを」考えるという立場をとったのに対して,西谷さんだけがひとり「バタイユから」考えるという姿勢をとった。西谷さんは,おそらく,「バタイユを」考えるという段階をとうのむかしに通過して,そこからさらに「バタイユから」考えるというところに足を踏み出して,数々の著作を世に問うてきた。『不死のワンダーランド』や『世界史の臨界』『戦争論』,そして『離脱と移動』などがそれである,と西谷さんみずからが書いている。

 この短い寄稿のなかに,これ以上は圧縮できないというほどの密度の濃い内容が盛り込まれている。逆にいえば,西谷修とバタイユの思想とがどのように絡み合っているのか,ということを知るための絶好のガイドラインとなっている。この寄稿をもとにして,内容を展開していくだけで,ゆうに一冊の単行本が可能である。そういう内容として,わたしは受け止めた。

 言ってしまえば,西谷修が,ひとりだけ異次元の世界を遊んでいるようにわたしにはみえる。体操競技の内村航平選手が,世界でひとりだけ異次元の世界に飛び出しているのと同じように,わたしにはみえる。なんという人とわたしはお近づきになってしまったのだろうか,とわが身が引き締まる思いである。

 最後に,西谷さんの結論的な言説を引いておこう。
 「バタイユは単に特異な思想家であるのではない。近代を画したヘーゲルのかなたにキリスト教化初期のプロティノスを読むと,バタイユの<内的体験><非-知>の体験が,長い西洋思想の中でとのような位置をしめるのかがわかってくる。その意味ではバタイユは西洋思想二千年を画する思想家なのである。この点については拙稿「輝く闇,バタイユ・ヘーゲル・プロティノス」(『離脱と移動』所収)を参照されたい。」

2012年2月23日木曜日

「哲学のはじまり」について。ソクラテスの毒杯と西田幾多郎の『善の研究』。

太極拳の稽古場が大岡山から溝の口に移ってからは,稽古のあとのハヤシライスもまた変化して,こんどは稽古のあとのカキフライ・オムライスになりつつあります。メンバーも,そのときの都合で変化しますが,どうやらNさん,Kさんにわたしが加わって3人で定着しつつあります。

そんな情況のなかでの昨日の稽古のあと。いつものファミレスへ。
そして,久しぶりに話に熱が入りました。例によって,KさんがNさんに質問を投げかけます。それらの質問の一つひとつに懇切丁寧にNさんが応答してくださいます。それがとてもわかりやすい。だから,ついつい,これは,あれは・・・という具合に話が広がっていきます。

どういう話の流れでそうなったのかは,あまり定かではないのですが,気がついたら「哲学のはじまり」(起源)の話になっていました。わたしの朧げな記憶では,ポピュリズムなる悪しき風潮が世論を構築して力をもちはじめ,さまざまな制度を改悪する動きが目立つ(小沢裁判や少年の死刑判決,裁判員制度の導入,など),というような話がきっかけだったと思います。そして,そのポピュリズムの犠牲者のひとりが古代ギリシアの哲学者ソクラテスだ,とNさんが切り出したように思います。以下の話は,わたしはこのように聞いたという要約です。事実に反する内容が含まれていたとしたら,それはわたしの誤解であり,わたしの責任です。お許しのほどを。

ソクラテスの説く辻説法が,世の中の人びとの思考を混乱させ,悪い影響を及ぼす,という風評がアテネ市民の間に広まり,アテネ市民による直接民主主義の制度に則り,ソクラテスに「死刑」が宣告されてしまいます。ソクラテスの弟子たちは,アテネの外に逃げましょう,と説得にかかります。しかし,ソクラテスは動きません。しかも,死刑を執行する刑吏はいません。ソクラテスが,目の前に置かれた毒杯をみずから飲み干すことによって,この死刑が実現するというわけです。ですから,この毒杯を飲まない,拒否する,という選択肢もあったはずです。

しかし,ソクラテスは,アテネ市外に逃げることもせず,黙って静かにこの毒杯をあおります。そして,死を迎えるそのさなかに,弟子たちに向かって,民主主義には大きな落とし穴がある,民主主義のすべてが正しいとはかぎらない,そのことを後世の人びとの記憶にしっかりと銘記するために,わたしは命をかけてアテネ市民の決定に従うのだ,みずからの思考(哲学)の正しさに殉ずるのだ,と語ったといいます。

ここが「哲学」のはじまりだ,とNさんは力説します。つまり,それまでの人間の生死の問題は神の領域にあった,つまり,宗教の問題であった,というのです。しかし,ソクラテスは,みずからの「哲学」に殉じたのだ,これが哲学の起源だ,と。

民主主義が衆愚政治に悪用されてしまうと,つまり,ポピュリズムに便乗してしまうと,少数意見はいともかんたんに抹殺されてしまいます。それは,まさに,殺人行為そのものになってしまいます。そういうことを肝に銘すべし,とみずからのからだを張ったところに,ソクラテスの存在理由がある,というわけです。つまり,これがソクラテスの「生き方」の問題であり,かれの「哲学」(フィロ・ソフィア」そのものだった,ということになります。

この話にいたく感動したわたしは,直観的に,「じゃあ,西田幾多郎が『善の研究』を書いたのも,同じ理由ですね」と問うていました。Nさんは,にっこり笑って,そのとおりです,と。

西田のいう「善」の意味は「生きる」ことです。人間は生きることが「善」なのだ,と説いたのです。ですから,西田幾多郎の『善の研究』は存在論なんです。ものの「不在」「欠落」「死」は「悪」なのです。ですから,人間は生きることに意味があるんです。では,どのように「生きる」かが問われることになります。それが西田のいう「善」なのです。西田の場合には,そこに,「禅」の思想をまぶしながら,人間が生きるとはどういうことなのか,という存在の根源に迫ったというわけです。ですから,日本の哲学のはじまりは,西田幾多郎にあります。西田幾多郎が日本の最初の哲学者です。

この話を聞いて,西田幾多郎が提起した「純粋経験」や「行為的直観」の周辺にあったモヤが一気に晴れてしまいました。そして,「場の理論」も,なるほどと得心してしまいました。こうなると,もう一度,西田幾多郎を読んでみたいという衝動が突き上げてきます。たぶん,これまでとはまったく違う読解の世界が開けてくる,そういう予感でいっぱいです。

稽古のあとのカキフライ・オムライスの時間が,とても楽しみになってきました。
取り急ぎ,ご報告まで。


※訂正について。
このブログを読まれたNさんから,つぎのように訂正を,というメールをいただきました。やはり,わたしの力量の及ばないところがありました。そして,それを忌憚なくご指摘くださるNさんに感謝です。メールの部分をそのまま転載するのは失礼かもしれませんが,わたしがいじるよりは精確に伝えられると判断しました。そのポイントとなる部分だけを抜き取りますと,以下のとおりです。

弟子たちは,論敵が民会を煽っただけで,ソクラテスの方が正しいのだから,と逃亡を進めるのですが,逃亡する必要もないし,する理由もない,死ぬのもまたよいではないか,と言って毒杯をおあります。このことを解釈すると,・・・・・となる,という話です。
自分だけが賢くて正しいのだから判決を受け入れない,というのでは,ソクラテスの知は独断になります。独断ではなく,知への愛による正しい知がある,ということは,他者の承認によるしかないでしょう。
ソクラテスは死ぬ。その死の空白のなかに,知への愛(フィロ・ソフィア)がすっくと立つ。
トラは死して皮を残し,ソクラテス死して哲学を残す。

以上です。Nさん,ありがとうございました。

2010年12月3日金曜日

目取真俊の小説に注目したい。

 目取真俊の小説は,わたしの虚をついてくる。つまり,沖縄ということを考え,人間ということを考えるときの,わたしの中にある盲点といえばいいだろう,その虚である。もう少しだけ踏み込んでおけば,わたしがこれまで沖縄問題に関して,無関心を装ってきた虚,すなわち,知らぬ勘兵衛を決め込んで平気でこられた,その虚である。言ってしまえば,自分さえよければ他人のことなど知らぬ,という<わたし>という利己的な「人間性」が丸裸にされてしまう,その虚。だから,いやがおうでも,自己中心的な生き方の根源的な醜さが露呈されてしまい,丸裸のままの<わたし>が吹きさらしにされてしまうのである。その瞬間に,さぶいぼが全身を覆うことになる。その意味で,目取真俊の小説は恐るべきである。
 第一に,目取真俊という作家の風貌そのものが,ただ者ではない,という一種異様な雰囲気を漂わせてもいる。東京外国語大学で開催されたシンポジウム(西谷修主宰)で,一度だけ,生の姿と,その発言ぶりに接したことがある。サングラスをかけたまま,一歩も引かぬという強い決意を内に秘め,単刀直入に切り込んでくる発言は,まるで,街中のやくざが,敵対するやくざに出会って,覚悟の上で喧嘩を売っているようにも聞こえてくる。なんともはや迫力満点なのである。琉球空手の相当の使い手であるとも聞く。そのせいか,小柄ではあるが,上半身はがっしりしている。それでいて,どこか底抜けのロマンチックな繊細さというか,純朴な童心のようなものも,そこはかとなく伝わってくるから,いやはや不思議な存在ではある。つまり,いろいろの顔が,そのときどきの雰囲気によって表出してくるのだ。その意味ではとてつもない懐の深さを感ずる。
 それが如実に現れているのが,本業である小説作品であろう。
 ちなみに,いま思い出せる印象的な作品をあげてみると,以下のようだ。
 『風音』・・・・異郷の共同体の風葬場でいまだ野ざらしにされている旧日本兵の骨たちの発する「風音」から,さまざまな記憶が掘り起こされていく。その主人公には,特攻兵の所有物と思われる高級万年筆を盗み取った,という羞恥がつきまとう。
 『群蝶の木』・・・・「慰安婦」(沖縄の女性きたち)をめぐる悲劇。
 『魂込め(まぶいぐみ)』・・・・日本兵に殺された村の娘や男たちの話。そして,その遺体は消されてしまって,どこにも見当たらない。仕方がないので,その周辺の浜辺から珊瑚のかけらを拾い集め,それを骨代わりに。
 こんなことを思い浮かべながら書いていたら,突然,平敷兼七さんの写真集『失われしものたち』や大城弘明さんの写真集『地図にない村』などが脳裏をよぎる。俺たちの写真集についても書いてくれとばかりに。
 今日は気持ちが千々に乱れて,一点に集中していかない。
 どうしてだろう。とても,不思議だ。
 どうやら,目取真俊の毒気に当てられて,<わたし>そのものが粉砕されてしまったのかも知れない。こんなこともあっていいのだろう。いな,それどころか,このような経験こそが大事な自己変革の契機なのだから,もって瞑すべし,と言うべきだろう。

 残念ながら,今日はここで打ち止め。
 また,機会をあらためて,ポイントを絞って再挑戦することにしよう。

2010年11月23日火曜日

藤永茂の『トーマス・クーン解体新書』について

 『アメリカ・インディアン悲史』という,おそらく藤永茂さんの最初の著作であろうとおもわれる名著に接して,わたしのアメリカという国家をみる眼が変わったことを,つい昨日のように思い出す。その藤永さんのブログ(「わたしの闇の奥」)は注目に値する,と教えてくれたのは西谷さんであった。以後,折にふれ,藤永さんのブログは覗いてみることにしている。
 そんな中で,つい最近,『トーマス・クーン解体新書』(仮題)という本の構想と,その「まえがき」が掲載された。つまり,本にする予定の原稿をそのままブログの中で公表しているのである。わたしは,二つの点で,驚いた。
 一つは,「トーマス・クーン」批判を真っ正面から展開しようというその志の高さである。
 もう一つは,出版予定の本の原稿を,そのままブログとして公表する,という姿勢の潔さである。
 前者については,2008年に,すでに英文で『Undoing the Structure of Science Revolution 』という草稿を書き上げていて,それをシカゴ大学出版部に送ったが,刊行してくれなかったので,さらに,内容を推敲して日本語で『トーマス・クーン解体新書』(仮題)として刊行しようと考え,その草稿を公表しようというのである。日本では,訳者の中山茂さん(『科学革命の構造』みすず書房)をはじめ,野家啓一さんなども加わって,トーマス・クーン礼賛がなされたことを,わたしのような人間でも記憶している。そして,これだけ話題になり,絶賛され,批判らしい批判を眼にすることもなかったので(ひとえに,わたしの管見にすぎないのかもしれない),まことに都合のいい自己弁護のための隠れ蓑として「トーマス・クーン」という名前を借用してきた。のみならず,「科学革命」ということばと一緒に「パラダイム・シフト」ということばも大いに利用させていただいた。
 しかし,藤永さんは,化学者としての立場に立ち,トーマス・クーンの著作を徹底的に読み込んで,その問題の所在に気づく。そして,学問的な議論を立ち上げて,トーマス・クーンの学説に対して,はっきりと決着をつけるべきだ,と主張される。このまま,なんとなく「トーマス・クーン」現象を見過ごしておくことは,科学的な学問の発展のためにも非生産的である,と。つまり,どこに間違いがあったのかを明確にしておくべきではないか,と。
 第二点は,草稿の公表の問題である。すでに,英文で書き上げてあるので,それを日本語としての精度を高めるだけだと言ってしまえば,それだけのことである。しかし,わたしが注目するのは,ブログという形式で,折角の草稿を惜しげもなく公表するという,その潔さである。もはや,そういう時代になったのか,というのがわたしの偽らざる印象である。つまり,インターネット時代の本の書き方の一つのひな型になるのではないか,と。
 これまで,学術論文や評論・エッセイもふくめ,学術的な新知見に類するものはひたすら秘匿され,きちんとした出版物として初めて公表される,というのが一般的であった。あるいは,ある特定の雑誌などに,少しずつ連載というかたちで公表するのが一般的であった。しかし,藤永さんは,一気に個人的なブログという形式で「トーマス・クーン批判」を,それも刊行を前提にして,公表してしまおうというのである。わたしは眼からうろこの落ちるおもいで,この藤永さんのブログに注目している。こんご,どのような展開になっていくのか,楽しみでもある。
 と同時に,わたしもまた,いま考えているとっておきのアイディアを,書名も決めて(仮題として),刊行する予定の草稿である,と高らかに宣言して書きつなぐ,ということを試みてみようかとおもう。つまり,著作権の問題がちらりと脳裏をかすめるわけだが,しかし,よく考えてみれば,ブログには書かれた日付が歴然として残る。ということは,さきに公表してしまった方が,アイディアの盗作予防には逆に役立つという次第である。と同時に,そのくらいに自分自身を追い込んでいかないと,原稿というものは書けないという裏事情が,これはわたしだけの事情かもしれないが,ある。
 藤永さんの,時代の先取り的なこのスタンスのとり方に,わたしは大いに啓発されるところがあった。さすがは『インディアン悲史』の著者だけのことはある,としみじみおもう。
 アメリカという国家が触れてほしくない最大の恥部を,蜂の一刺しのごとく,ピンポイントで言い当てた名著である。その著者は,いまも健在そのものであることを知って,わがごとのように嬉しい。こんごも藤永さんのブログには注目していきたい。

2010年11月20日土曜日

三井悦子さんの書評『レッスンする人』が素晴らしい。

 書評するということは,じつは,とても恐ろしいことなのだ。なぜなら,書評をするこちら側がいやおうなく丸裸にされてしまう営みだから。そこに果敢に挑んだ三井さんに拍手を送りたい。
 毎週金曜日に発行される「週刊読書人」の最新号(11月19日号)に,三井悦子さんの書評『レッスンする人』語り下ろし自伝(竹内敏晴著,藤原書店)が掲載されている。「波乱万丈の前半生」「思想がいかにして形成されてきたか」という小見出しがついている。
 でまあ,内輪の話でもあるので,ざっくばらんに感じたことを書かせてもらおう。
 三井さんが化けた。それも,まことにみごとな大化けである。もうすぐ化けるよ,とわたしは予言者のように三井さんに声をかけてきた。じつは,もう少し早いだろうとおもっていたが,意外に時間がかかった。しかし,早めに器用に小化けして定着してしまうよりは,不器用に「わからへん」「わからへん」といいながらあちこち試行錯誤しながら悩み苦しんだ結果の「大化け」の方がずっといい。今回,この竹内敏晴さんの絶筆ともいうべき本の書評を書く,というどうしても避けてとおることのできない,しかも絶好のチャンスと真っ正面から向き合うことをとおして,三井さんは一気に化けた。
 わたしの勝手な推測では,三井さんの中で,すべての条件が整って,つまり満を持して,もうこれ以上は詰め込めないという飽和状態から,あるいは臨界状態に達したところから,一気にことばがあふれでるようにしてこの書評が書かれた,というようにみえる。しかも,竹内さんに対して一歩も引いてはいない。だから,ことばに無駄もないし,隙もな。しかも躍動している。リズムがいい。三井さんの,こころの奥底に長い時間をかけて醸成し,沈殿してきた,竹内敏晴に寄せる,ある種の錯綜した心情のときめきのようなものが伝わってくる。なにかがふっきれたのだろう,とおもう。
 もう少しだけ,内輪の話を書かせてもらおう。
 じつは,三井さんの今回の書評には前段がある。
 10月23日(土)の午後に開催された第45回「ISC・21」10月名古屋例会の折に,三井さんは下書きとなる書評をすでに書き上げていて,それを提示して参加者に意見を求めた。やや緊張感がただよっていたが,そのうちに,みんなでいろいろ智慧を出し合って,それぞれに意見を述べあうというとてもいい雰囲気になってきたので,わたしもいくつか意見というか,注文をつけた。それは以下のようなことであった,と記憶する。
 「竹内レッスン」を受講し,その内容を熟知している人びとにとっては,この書評(当日,配布された草稿)はとても読みごたえがあっていいかも知れない。しかし,それは,いわゆる<内部>に向けての書評であって,「週刊読書人」を愛読するような一般の読者向きではないようにおもう。できることなら,<内部>を熟知しつつ<外部>に開かれた書評を,わたしとしては期待したい。それは,言い方を変えれば,竹内さんの手の内にあって<内部>で書評をするのではなくて,その<外>にとびだして,ある程度,竹内敏晴という人・実践・思想とを客観視し,対象化することによって,真っ正面から竹内さんと向き合うことを意味する。三井さんには,ぜひとも,これを実践してほしい,と。そして,三井さんでなければ書けない書評をやってほしい,と。
 このとき,初めて「<じか>に触れる」という事態が起こる,とわたしは考える。このとき,初めて月並みな「書評」からとびだして,一対一のがちんこ勝負の「批評」に向うことが可能となる,と。しかも,これこそが竹内さんのいう「レッスン」だったのではないか,と。竹内さんは,どんなときにも高みからものを言うことはしなかった。いつも,水平目線で相手をしっかりと見据え,その相手と自己との間に起こる「<じか>に触れる」という事態を探し求めていたように,わたしは考える,と。しかも,そこに「実在」をみていたのではないか,と。
 だから,『レッスンする人』とは,教え・指導する人という意味ではなく,つねに,自分自身を可能なかぎり剥き出しにしつつ「<じか>に触れる」経験,つまり,「実在」の場を求める人のことを意味しているのではないだろうか,と。
 こんな,きわめて抽象的なことを言ったように記憶する。にもかかわらず,三井さんは,わたしの言説にもみごとに反応してくれ,わたしの予想をはるかに超える「跳躍」をしてくれた。それが,わたしのいう「大化け」である。別の言い方をすれば,三井さんは,竹内敏晴というある種の「呪縛」から解き放たれて,<外>から全体重をかけて,ぎりぎりのエッジに立って「批評」を展開することのできるスタンスを確保した,ということになろうか。
 こうなれば,あとは,いかなる批判も恐れることなく我が道を行くのみである。いよいよこれからの三井さんは楽しみである。水の中に水があるように,あるいは,空気の中に溶け込むように,わが身をあずけて(「無」にして),そこに映し出されてくる世界を楽しめばいい。
 「笑わざれば以て道をなすに足りず」の境地に立って。
 三井さん,おめでとう。
 これから,もっともっと,化けましょう。
 わたしも,三井さんに倣って,もっともっと化けてみたいとおもいます。

2010年11月7日日曜日

荒川修作は「天才」なのか。それとも単なる「キチガイ」なのか。

 昨日は一日,荒川修作の本を積み上げて,その一つひとつとにらめっこしながら過ごした。にらめっこをした,というのは読んで理解することを放棄したということだ。
 もう少し精確にいえば,読んでもほとんど理解不能だ,ということ。つまり,読むという行為は,少なくとも,近代的理性によりかかって,そのネットワークのどこかに絡め捕ろうとすることだ。ところが,荒川修作の著作は,そういう読者をことごとく拒絶する。もっと厳密にいえば,近代的理性の<外>にでて,可能なかぎりニュートラルな思考を要求する。こちらにその備えがないかぎり,荒川のメッセージはとどかない。だから,ひたすら「にらめっこ」をするしかないというわけだ。しかし,にらめっこにも効用はある。ことばを超えた世界に遊ぶことができるたら。まったくの空想の世界に遊ぶことができるから。
 むしろ,荒川はそれを歓迎しているようにもみえる。
 たとえば,『荒川修作 マドリン・ギンズ展 死なないために 養老天命反転地』。ほとんど,説明的な文章はなく,ただ,ひたすら「養老天命反転地」を制作するにいたる思考のプロセスがドローイングや模型や写真(建築現場のプロセス)をとおして明らかにされている。だから,必然的に「にらめっこ」をするだけになる。それでも,ときおり,なにかが「降りてくる」ことがある。これを荒川は「ランディング」(landing)と呼ぶ。そして,その「ランディング・サイト」(「降り立つ場」)を意図的・計画的に設計をし,制作し,「建築する身体」のあるべき姿を模索する。そんなことをぼんやり考えながら「にらめっこ」をする。つまり,近代的理性の枠組みの<外>にみずからの身もこころも放り出すようにして,可能なかぎり「ぼんやり」と。そうすると,意外や意外,つぎつぎに,なにかが「降り立って」くるのである。これはたまらない快感である。
 同じようなカタログ集に『荒川修作の実験展──見る者がつくられる場』がある。ちなみち,この書名の文字は裏返しになっている。すなわち,「リバーシブル・サイト」(「反転地」)というわけだ。こちらも,同じように,ひたすら「にらめっこ」をする。ほとんど,理解不能である。しかし,荒川修作がなにかを制作するときの,そのプロセスのようなものは伝わってくる。しかし,その思考の中身はわからない,理解不能。たぶん,荒川の発想のひらめきだけがドローイングとなってとびだしてくる,のだろう。それらを黙って「にらめっこ」するだけである。
 でも,不思議なことに,こんなことをしていると,あっという間に一日が暮れていく。時間が消えてしまうのである。いま,どこにいるのか,という空間すら消えてしまう。なにか,わけのわからない世界に誘導されながら,夢をみているような錯覚に陥る。ときおり,われに還る。わたしの中の内なる「自然」が,現実の世界に呼び戻してくれる(Nature call me)からだ。でも,また,すぐに荒川ワールドに飛び込んでいってしまう。快感が待っているから。
 この他にも,活字だけでできた本もある。『建築する身体』(荒川修作+マドリン・ギンズ著,河本英夫訳,春秋社)である。こちらも,読もうとはしない。「にらめっこ」することに専念。なぜなら,ほとんどが理解不能の文字が並ぶ。禅問答を読んでいるような感覚になる。たぶん,近代的理性の<外>でのみ通用する「アラカワ」言語を習得したのちにのみ理解可能となるような,一種独特の荒川ワールドが展開する。それはまさに「天才」の世界なので,こちらの「鈍才」君には理解不能である。仕方がないので,ひたすら,「にらめっこ」と相成る次第。でも,「にらめっこ」にもそれなりの効用はある。ある,ワン・センテンスが天啓のように「降り立って」くることが起こる。それは,オーバーに言えば,脳細胞の表皮が一つずつ剥ぎ取られていくような感覚である。あるいは,脳細胞の間を風が吹き抜けていく,そんな感覚。それだけで,もう,大満足なのだ。ときには,わけもなく走り出したくなる衝動にかられることもある。
 そういう衝動を引き起こした「荒川修作語録」とでもいうべきものを,最後に紹介しておこう。
 〇人間は死なない。死ねないって言ってるのだよ。
 〇地球上で初めて,この身体の使用の仕方によって,このオーガニズムの使用の仕方によって,人間が永遠に生きるってことを大発見した。
 〇人間はいつか死んじゃうんだよ,なんて言ってるのは哲学者か教育者だ。
 〇デュシャンはデュアリストだったから,お墓に書いてあるんだ。知ってる? ”いつも死ぬのは他者です”って。
 〇感覚っていうのはそこらじゅうにいっぱいある。そのことを明確に証明したのがヘレン・ケラーだ。
 〇空間とか時間っていうのはものすごいスピードで動いている。その中のホンの小さな物質がこの家って呼ばれているこの部屋だ。
 〇徹底的に間違っているんだよ。人間の生き方は。
 〇いまだに人間が戦争をしたり,人を殺したりするのはどうしてか知ってるか。何の楽しみも何の希望も無いからだ,この地球上に。
 〇大体活字を使ったものは全部省略されている,あらゆるものが。何一つ入ってない。ばい菌も無い,血も無い,何にも無い,何にもないんだ。
 〇僕にそっくりなやつが一人だけいた,歴史に。レオナルド・ダ・ヴィンチってやつだ。行き着いたところは彼も”体”だったんだ。
 〇気配を構成しなおす。これはものすごく不思議なことだろう? 気配を構成しなおすって。何によって変えると思う。雰囲気によって変えるんだ。雰囲気は何によって変わると思う? 環境によって変わるんだ。そのすべては何によって変わると思う? 有機体によってかわるんだ。
 以下,割愛。
 さてはて,荒川修作はほんとうに「天才」なのか。それとも単なる「キチガイ」?
 荒川の生涯の公私ともに伴侶となるマドリン・ギンズのことを,荒川はつぎのように言っている。
 「彼女と初めて出会ったとき,彼女は狂っていた。でも,おれなら直せると思ったんだ。その後,彼女の父親もキチガイで,母親もキチガイだということがわかった。でも,彼女は一番狂っていたんだ。」と。
 そのマドリン・ギンズを直そうと思っていたら,いつのまにか,こんなことになってしまった(生涯の伴侶に,という意味),と。しかし,わたしに言わせれば,もっとも狂っていたのは荒川さん,あなたではなかったのですか? それだから,あなたはほんとうの「天才」なんです,ということになる。
 まともな人間はまともなことしかできない。
 人がまねすることのできないことをやれる人間は,やはり,どこか狂っている。つまり,近代的理性の<外>にでている。問題は,そのことにどこまで自覚的であるかどうか,そこがポイントだ。でも,狂っている人間は自分だけが「まとも」であると確信していることも事実だ。
 荒川修作は「僕が使うボキャブラリーは,何一つ君たちにはわからないだろう」という。荒川修作は,はたして,どこまで狂っていたのだろうか。これが,わたしの,これからのテーマだ。

 

2010年11月4日木曜日

innewerden ということについて。その4.ヴィジョナリー・スポーツの根拠の一つとして。

 innewerden ということについて,3回ほどこのブログで書いた。しかし,その反応が芳しくない。なぜだろうか,とずーっと考えつづけている。が,わからない。
 マルチン・ブーバーは「対話」のもっとも根源的なところで起きている現象として,ことばを発することなくお互いのこころのうちで通い合う「交感」「交信」のことを,innewerden というドイツ語に籠めた。わたしはマルチン・ブーバーのテクスト『我と汝/対話』(植田重雄訳,岩波文庫)を熟読しながら,このinnewerden こそ,わたしが考えている「ヴィジョナリー・スポーツ」の一つの重要な根拠となりうる概念ではないか,と考えはじめている。だから,innewerden というドイツ語は,わたしにとっては「21世紀スポーツ文化」を模索する上でのきわめて重要な概念の一つとして,新たに立ち現れたもので,そんなに簡単に看過するわけにはいかないのである。そんな意味もこめて,このブログを読んでくださっている人たちに向けて,innewerden の重要性を説いてきたつもりなのだ。しかし,その反応がいま一つ。それはどうしたわけなのだろう,と頭を抱え込んでいる。やはり,説明の仕方が稚拙であるとしかいいようがない。
 ということで,4回目の挑戦である。くどいようだが,ご理解ください。
 わたしたちは,意識しているかしていないかはともかくとして,わたしたちを取り囲む環境世界(ユクスキュルのいう Umwelt )と,なんらかのかたちで「対話」(マルチン・ブーバーの意味)を交わしている。別の言い方をすれば,それは環境への適応でもある。それは,同時に,生きるという生命活動の基本でもある。だから,わたしたちが生きるということ,あるいは,生物が生きるということは,すなわち,そこでなんらかの「対話」がなされているということだ。
 しかし,わたしたちは,生物学でいう環境世界のみならず,物理学でいうところのさらに大きな宇宙とも対話の範囲を広げていく。この世界は,こんにちの科学の力によって,わたしたちの想像を絶するほどの気宇壮大なところにまで伸びている。
 そればかりではない。わたしたちは,精神世界や霊的世界とも,ずいぶん古い時代から対話をするようになる。わたしの仮説では,ヒトが人間になる,その瞬間からすでに説明のできない存在不安に襲われたはずであるし,その不安を埋め合わすための数限りない創意工夫がなされたはずである。それらの残像の一部が,供犠であったり,それにともなう祝祭であったり,さらにはマルセル・モースがいうところの「贈与」であろう。ポトラッチという消尽に近い贈与もまた,その一環として考えてよいのだろう。
 しかし,「死」という問題にどのように向き合うのか,そして,どのようなスタンスをとるのか,ということに関してはこんにちもなお決定的な方法を見出すこともできないまま,暗中模索がつづいている。だからこそ,その説明の仕方や説得の仕方をめぐって,諸説乱立がつづく。精神世界や霊的世界の鬱陶しさと同時に無視することのできない闇の世界の存在に,わたしたちは無縁ではいられない。そして,とりあえずは,自分に納得のいく方法で,それなりのやり過ごし方を身につけるしかないのだ。
 その是非は,いまは,問わない。一人ひとりのこころのうちには,説明不能な,もっとさまざまなものとの対話も行われている。つまり,自分が安心立命して生きていく上で必要な了解(あるいは,納得)をえるために。そうしたすべての交信・交感を,マルチン・ブーバーは innewerden ということばで表現したように,わたしには読める。もちろん,その背景には,マルチン・ブーバー固有の宗教体験もふくまれている。そして,そのことについても,マルチン・ブーバーは随所で正直に告白もしている。
 
 ちょっと,一休み。つづく。

2010年11月3日水曜日

色川大吉さんの考える「自分史」はインスクリプション。

 昨日の朝日の夕刊に,色川大吉さんの「自分史」が取り上げられている。そして,「自分史」とはなにか,ということについて色川さんがみごとな見解を提示している。それは,まさに,インスクリプションそのものだ。
 『昭和へのレクイエム──自分史最終篇』(岩波書店)が完成し,「自分史」を提唱して35年の年月をかけて「昭和自分史」5部作を完結。この機会をとらえて,池田洋一郎記者がインタビューし,色川大吉さん(85歳)が答えている。
 まず,その冒頭で,色川さんはつぎのように語っている。
 「自分史は,一般の歴史書を書くよりはるかに疲れます。単なる回想記でも自分勝手なものでもだめ。自分自身を客体化し,同時代の動きや環境とセットにして書かなきゃいけない。詳細な日記を提示して事実だったと実証せねば。しかも,自分を取り巻いていた状況が,自己の内面に深く食い込んだ部分を核としないと本当の自分史にならない。歴史を自分の外にあるものとせず,心の内側に突き刺さり,そこでスパークしたものを書く。非常に緊張を強いられる。今後はこんな仕事はできません。」
 ここを読んで,ただちに想起したことは,今福さんの提唱される「インスクリプション」である(詳しくは『近代スポーツのミッションは終わったか』平凡社刊,を参照のこと)。つまり,ディスクリプションではなく(「歴史を自分の外にあるものとせず」),インスクリプションでなくてはいけない(「心の内側に突き刺さり,そこでスパークしたものを書く」),ということだ。このことの意味を十分に理解しないまま,今福さんの主張を否定するのみならず,今福さんの主張に与する会員の研究発表を,寄ってたかって批難(批判でも,批評でもなく)するという事態が起きていると聞いている。だから,どうしても,色川さんのこのご意見には敏感に反応してしまう。そして,大きく勇気づけられる。
 しかも,色川さんは,「そもそも『自分史』を提唱した理由は何ですか」という問いに対して,さらに,つぎのように語る。
 「時代の構造や指導者像ばかりを追い,科学的で客観的な歴史学一点張りの硬直した学界に対する反発がありました。歴史をつくったのは少数のエリートではない。無名の多くの民衆の力でつくられてきた。民衆とは,それぞれ自分の人生を担っている人々の集合体。一人ひとりの人間にウエートを置いた歴史を書かねばならない。個性を重視し,歴史を物語る主体はその本人だということを明確にしようと,『自分史』を打ち出した。」
 色川さんのご指摘の「硬直した学界」は,いまも健在で,しかも反動的ですらある。もう,どうしようもない,というのがわたしの感想である。だから,なにがなんでも,その体質の土手っ腹に風穴を開けないことには我慢ならない。そのためには,ひとりでも闘えるだけの確固たる理論武装をしなければならない。そのための仮説として,まずは『スポーツ史研究』(スポーツ史学会機関誌)に総説論文として,わたしの考えを提起した。しかし,残念なことになんの反応もない。学会誌なのだから,もっと自由に議論が起こっていいと思うのだが・・・。
 その意味で,色川さんのお仕事は素晴らしいのひとことである。やはり,理論仮説などという甘いことを言っていてもだめで,その仮説にもとづいた具体的な記述をするしかないのだろう。ディスクリプションではなくてインスクリプションだ,などという空中戦をいくらやっても意味がない。色川さんは「自分史」を提唱してから35年かけて,みずからの「昭和自分史」5部作を完結させた。これしか方法はないのだろう。
 さきの発言につづけて,色川さんは,さらに,つぎのように追い打ちをかける。
 「もともと民衆一人ひとりは何を考えているのかというのが,私が昭和史を考える最大の問題点でした。私の10代は大戦争の真っ最中。私も含め国民の大部分が戦争万歳でした。決して一部の指導者が引きずったんじゃない。民衆が戦争を担い,焦土を招いた。なぜなのか。なぜあなたは,私は,あの無謀な戦争を疑わず支持したのか。一人ひとりの自分がそのとき何を考え,何をしたのかを問う学問が必要だと思いました。そこから歴史に対する反省と個人の責任が出てくる。それが自分史の出発点でもあります。」
 このことばの重さを,わが身をふり返りつつ,しみじみと受け止めざるをえない。ヨーロッパ近代の構築した歴史学というアカデミズムの硬直化した体質を,どこかで突き破り,みずからの主張を展開することは容易ではない。しかし,それをやらないことには,悪しき慣習行動から抜け出すことはできない。そのためには,燃えたぎるようなLeidenschaft(情熱,激情)が不可欠である。85歳になった色川さんが「今後はこんな仕事はできません」というのも宣なるべしというべきか。わたしも残り時間は多くはない。いまこそ・・・・と気持ちばかりが焦る。
 インスクリプション。inscriveする。「からだの中に書く」と今福さんはおっしゃる。「心の内側に突き刺さり,そこでスパークしたものを書く」と色川さんはおっしゃる。言っていることの内実は同じだ。さて,そこまで,みずからを追い込んだ「スポーツ史」なり,「スポーツ文化論」なりを記述することが,わたしには可能なのだろうか,と問い直す。ここから,まずは,はじめるしか方法はない。勇気をもって「第一歩」を踏み出すしかないのだ。
 「百尺竿頭出一歩」。

2010年10月28日木曜日

innewerden ということについて。その3.サッカーのピッチに神の降臨をみる。

 ちょっとしつこいと言われるかもしれないが,innewerden ということについて,少し違ったアングルからのわたしの考えを述べておきたい。
 これは,わたし自身の反省点でもあるのだが,innewerden について書いたブログに対して,「おもしろい」にクリックしてくれた読者があまりにも少ないので,じつは驚いている。わたしとしては,かなり悦に入って,新たな知の地平がマルチン・ブーバーをとおして開かれてきたと喜び勇んで書いたものである。にもかかわらず,多くの読者に「パス」されてしまった。もともと,わたし自身の研究ノートのようなつもりで書いているブログなので,「おもしろい」の数などは無視してよいのだ,と自分には言い聞かせていた。しかし,あまりの少なさは,やはり,気になって仕方がない。
 そこで,どうして?と考える。
 やはり,書き方が悪い,という結論に達する。ドイツ語がある程度わかる人にしか,この話は通用しない書き方をしている,と。
 そこで,今日はもう少し,具体的な事例に結びつけて考えてみることにする。もちろん,具体的な事例とは,スポーツである。それなら興味を示してもらえるのでは・・・,と。
 innewerden を,スポーツの事例に惹きつけて考えるとすれば,わたしの訳語は「共感する」「共振する」ということになるだろう。では,なぜ,そうなるのか。
 マルチン・ブーバーは,ことばがなくても「対話」は成立する,という事例として「ベンチに坐る二人の男性」の話を書いている。この二人は,なぜか,共に「共感し」「共振し」ている。だから,ことばは不要なのだ。こういうことは,スポーツのトップ・アスリートたちは,しばしば経験しているはずである。
 たとえば,サッカー。MFのA選手がボールをもらった瞬間に,このつぎのプレイをどのように展開しようかとイメージしたことが,他のポジションにいる仲間の選手のだれかに「共感」「共振」されたとしよう。その選手はそのイメージどおりに全力で走りだす。お互いのイメージが完全に共有されているので,ピン・ポイントでボールの受け渡しが可能となる。こういうパスやセンターリングがうまくつながったとき,スーパープレイが生まれる。
 これが,たとえば,一つのinnewerden である。
 この概念の前段として,マルチン・ブーバーが「観察」と「観照」という概念を提示していたことを思い出そう。これもまた,スポーツの具体的な事例に当てはめて考えてみよう。
 たとえば,ひとくちにサッカーファンといっても,いろいろの位相がある。それを,マルチン・ブーバーの概念に当てはめてみると,「観察」のレベルから「観照」のレベルへ,そして,さらには「共感・共振」のレベルへと並べて考えることもできよう。
 「観察」は,選手たちの外見に強い関心をもって,ことこまかに観察することを楽しんでいるレベルとしてみよう。選手たちのからだの特徴(背が高いとか,がっちりした体躯だとか,ハンサムだとか)や,足の速さ,ボールさばき,チーム・プレイへの機能の仕方,とうとうに眼が向っているレベル。ファンの最初の段階は,みんなここから始まるのだろう。
 しかし,「観照」となると,少し違ってくる。たんなる観察をとおしてみえてくるもの以外のもの,つまり,ふつうの人の眼には見えないけれども,サッカーに通暁してくると,まるで見えているかのように見えはじめるもの,マルチン・ブーバーのことばを借りれば「実存」。辞典的に説明すれば,「対象を主観を交えずに冷静に見つめること」となる。あるいは,仏教用語でいえば「智慧をもって事物の実相をとらえること」。芸術分野では「美的対象の受容における直観的認識」。これらを全部ひとまとめにして,サッカーに当てはめてみると,一番近い感覚は,見ていて「美しい」と感動する場面に出会うことだろうか。「潜在的なるものが突如として顕在化する」瞬間に立ち会うこと,とでもいえばいいだろうか。
 そして,innewerden =「共感・共振」である。ファンの立場からみれば,選手とファンが「共感・共振」すること。スタンドから見ているはずのファンが,いつのまにか選手と一体化している。まるで,プレイをしているかのように,ピッチを駆け回っている。そういう瞬間というものがある。こういうことを一度でも体験したことのあるファンは,もう,病みつきになること請け合いである。熱烈なサポーターといわれる人たちには,こういう人が多いはずだ。「オレが応援に行かないと,負けてしまう」という使命感のようなものが漲っている。
 とまあ,こんな具合なのだ。ただし,断っておくが,あくまでもスポーツの場面に,マルチン・ブーバーが提示した「対話」における三つの概念をかなり強引に当てはめてみただけのことである。むしろ,これをヒントにして,さまざまな文化を,ブーバーのいう「対話」の概念を用いて考えてみること,これが大事である。もっと卑近な例を引けば,日常的な人間関係,コミュニケーションの問題からはじまって,動物や植物,あるいは,鉱物といった自然存在との「対話」について考えることが重要なのである。
 つまり,21世紀を生きるわたしたちにとって「対話」(ブーバーの意味で)とはなにか,そして,いかにあるべきか,を問い直すこと。スポーツ文化論の立場から,ブーバーの「対話」の概念を,どのように受け止めていくか。教育の現場ではどうか,などなど。
 こういう意図があって,2回の「innewerdenということについて」というブログで,わたしなりの論考を試みてみたという次第。ご理解いただければ幸いである。

2010年10月26日火曜日

innewerden ということについて。その2.「純粋経験」「遊戯三昧」の世界

 マルチン・ブーバーのいう innewerden の概念について,わたしなりの解釈と訳語について考えてみたいと思う。昨日のブログで引いたマルチン・ブーバーのテクストからの長い引用文を手がかりにして。
 まず,最初に結論というべきか,わたしなりの「訳語」を提示しておくことにしよう。
 マルチン・ブーバーのいう「実例」から浮かび上がってくる,わたしなりの訳語は以下のとおりである。「交信する」「交感する」「共振する」「共鳴する」。あるいは,別の視点に立てば,「立ち現れる」「目覚める」「生まれる」「芽生える」。もっと言ってしまえば「萌の襲」(もえのかさね)。
 マルチン・ブーバーが innewerden などという概念を立ち上げて,どうしても言いたかったことはなにか。ここがポイントとなろう。
 昨日のブログにも触れたように,観察も観照も,じつは「自己完結」する近代的自我(あるいは,意識)のもとにある。(わたしの考える「ヴィジョナリー」という概念が,ブーバーのいう「観照」に近いものだとすれば,かならずしも「自己完結」しているとはいえない。なぜなら,わたしの考える「観照」は若干ながら,自己(われ)の<外>に浸透していくことが前提となっているから。)しかし,この両概念につづけてブーバーが提起する innewerden は,明らかに自己(われ)の<外>に自己(われ)を解き放つことによって成立する事態のことだ。つまり,ブーバーのことばに置き換えれば,<われ>と<なんじ>の「間」(あいだ)ということになる。もっと言ってしまえば,<われ>からも一歩,<なんじ>からも一歩,お互いに自己の<外>に一歩ずつ踏み出してできる「共通の場」,すなわち,「間」に身もこころも解き放つことによって,初めて成立する<われ>と<なんじ>の関係性である。そこに生まれるものは,すでに,意識を超越している。
 つまり,それまでの<われ>とは異なる別の<われ>になること。お互いがそうなること。そのときに,お互いの innen (内側に)になにかが werden (成る)する。そこで起こっていることは,これまでの<われ>とはまったく異なる,別次元の<われ>に成り代わっている,ということだ。そして,この「場」こそが「実在」の在り処だというのである。
 この世界は,わたしのイメージでいえば,西田幾多郎のいう「純粋経験」の「場」とほとんど変わらない。だから,innewerden というドイツ語に「悟る」という訳語が充てられてもなんの不思議もないのである。坐禅のさなかにある<われ>は,もはや,日常の<われ>とはまったくの別次元にある。「無」の境地とはそういうことだ。ただ,坐禅の世界はただ一人で「無」の境地をめざす。かぎりなく<われ>を消去することによって,マクロコスモスのとの一体感を深めていく。つまり,ミクロコスモスとマクロコスモスとの一体化である。
 しかし,ブーバーはそうは考えていない。とりあえずは,「二人の男」の「間」で,無言のうちに起こる「対話」についての独自の思考を深めていく。そのときのキーとなる概念が innewerden というわけである。こういうことを勘案して,わたしは,冒頭に列挙したような「訳語」を考えている。
 すなわち,お互いに「交感する」ことによって,まったく新しいなにかが「芽生える」。それがつぎつぎに重なっていく。だから「萌の襲」。
 これまでに経験したことのないなにかが,こころの内に,つぎつぎに「萌えいでてきて」,それはまるでなにものかによって「襲われている」かのようだ。しかし,それは限りなく心地よい。新たな<われ>への止むことのない変身。そこには「自己完結」する余地はまったくない。それどころか,つぎつぎに切り開かれて現前化する新しい「世界」との対応に嬉々として戯れることになるだろう。そこは,禅仏教でいう「遊戯三昧」の世界に近いと言っていいだろう。
 それが,マルチン・ブーバーのいう innewerden という概念ではないか,とわたしは考える。
 ご意見,ご批判をいただければ幸いである。

2010年10月25日月曜日

innewerden ということについて。その1.無言の対話・こころが通い合う。

 マルチン・ブーバーのいう,innewerden ということについて考えてみたい。植田重雄訳の岩波文庫『我と汝・対話』の中では「会得」という訳語が与えられている。
  翻訳の問題はとてもやっかいである。どこまで問い詰めていっても完全に一致する訳語というものはありえないからだ。したがって,もっとも近いことばを探し出し,当てはめていく以外にはない。あるいは,新しい訳語を創作するしかない。
 ドイツ語のinnewerden という単語もとてもやっかいなことばである。ためしに,独和辞典を引いてみる。辞典ごとに訳語が異なる。それほどやっかいなことばであるということだ。たとえば,「気づく」「悟る」「なりきる」「感知する」などの訳語が充てられている。たぶん,訳者の植田重雄さんも相当に考えた末に「会得」という訳語にいたりついたに違いない。つまりは,新訳であり,創作である。このことばは,数日前のブログで書いた「観察」と「観照」につづけて「会得」が並んででてくる。テクストでいえば,P.184~188。
 「観察者」は特徴の総和,「観照者」は実存,とマルチン・ブーバーはみごとに喝破している。そのあとにつづけて,ブーバーはつぎのように記述している。
 「しかしこれによって彼らは行為を要求されたり,運命を背負うこともなく,すべては,切り離された知覚の領域でおこる事柄なのである。」
 つまり,観察者も観照者も,特徴の総和と実存の違いはあれ,いずれも自分の行為や運命とは切り離された「知覚の領域でおこる事柄なのだ」というわけである。言ってしまえば,両者ともに「自己完結」しているということだ。そして,そういう観察者や観照者のレベルをこえた地平,つまり,「知覚の領域」を超越した領野で,人間の「内側」(innen)でなにかが「成る」(werden)という事態がおこる。その事態に対して訳者は「会得」という訳語を与えたのである。どれだけ深く考えた末の「創作」であったかが伝わってくる。
 このことの内実というか,マルチン・ブーバーの具体的なイメージについては,「沈黙が伝えるもの」という見出しの文章のなかに詳細に記述されている(P.174以下)。少し長いが,イメージを明確にする意味でブーバーの記述を引用してみよう。
 「わたしが頭にえがいていることを,実例で明らかにしよう。
 この世界のどこか寂しいところで,お互いに隣り合って腰かけている二人の男を想い浮かべていただきたい。彼らは互いに話しもせず,相手を見もせず,一度もふり向くことすらしない。彼らは親しい間柄でもなく,相手の経歴なども全然知っていない。彼らはこの日の朝早く,旅行の途中で知り合ったにすぎない。今,彼らは相手のことなど考えていない。われわれもまた彼らがどんなことを考えているかを知る必要もない。一方の男も他方の男も同じペンチに腰をおろしているが,一方の男はその持前の気分からして明らかに平静で,何が起ころうとゆったりとすべてを迎え容れる気持が見られる。彼は何かをしようとしている構えはほとんどないが,しかしまさにそこに現実にいなければならぬものとしてそこにいるといった様子である。他方の男は,その様子からでは,どのような人間か分からないが,無口で抑制力のつよい人間である。しかしこの男をよく知っているひとならば,幼児性の閉塞の呪縛が彼にあること,彼の抑制の様子は,彼の態度とはまったく別のものであることが分る。彼のすべての態度の背後には,貫徹できぬ自己伝達不可能というものがある。ところで──われわれの心を締めつけている七つの鉄の輪を破ってしまうような瞬間の一つがあることを思い浮かべてみよう,──突如この男の呪縛がとけてしまう。しかしこの男は一言も話しかけるわけでもなく,指一つ動かすわけでもない。にもかかわらず,彼は何ごとかをなす。彼の行為によらずに,呪縛の解消が起こった。それがどこから生起したかは問わない。とにかく突如として起こった。しかし彼は今や彼自身だけが支配する力をもっている一つの隔意を自ら止めてしまうのである。すると彼から隔意なく伝達が流れ出,沈黙がこの伝播を隣りにいる男にもたらすのである。この伝達はこの男に向けられたのであり,すべて真の運命の出合いにたいしてこの男がいつもするように,この伝達は隔意なく受け取るのである。彼は自分が経験したことをだれにも語ることはできない。いや自分自身にさえできない。このとき相手の男について彼は何を<知る>であろうか。知ることはここでは必要ではない。なぜならば,人間と人間の間で隔意なきものが支配しているところには,たとえ言葉はなくとも,対話的な言葉が秘蹟的に生ずるのである。」
 以上が,マルチン・ブーバーのいう innewerden の具体的なイメージである。この事態をひとまとめにする日本語にはどのようなものが考えられるであろうか。

(つづく)。

2010年10月22日金曜日

「観察」と「観照」の違いについて(マルチン・ブーバー)。

 マルチン・ブーバーの『我と汝・対話』のなかに,「観察,観照,会得」という見出しの短文が登場する(P.184)。このなかにはっとさせられる指摘が少なからずある。
 まずは,ブーバーのいうところを引いてみよう。
 「観察者は,観察すべき人間をよく記憶し,記述するために緊張している。彼は相手をしらべ,記述する。彼はできる限り多くの特徴を記述しようと骨折る。彼はその特徴を何一つ見逃すまいと様子をうかがう。対象はさまざまの特徴から成り立ち,諸特徴から対象の背後に存在しているものを知る。人間の表現体系の知識は,たえず新たに現れる個々の変化をたちどころに包括し役立つものとする。顔は表情にほかならず,行動は表現身振りにほかならない。」
 このように「観察者」について,厳密に定義を与えた上で,ブーバーはつぎのように話を展開していく。
 「これに反して,観照者は概してこのような緊張をおこすことはしない。彼は自由に対象を見れる態度をとり,自分に示されるものを,虚心に待ちうける。ただ始めのうちは,彼の思慮がはたらくけれど,その後になるとすべて恣意的なものは消滅する。彼は,記述することはひたすらおこなわず,生起するものをそのまま生起させ,忘れることすらおそれない。(忘れることはよいことである)とすら彼はいう。彼は記憶に課題を与えたりはしない。彼は残るに値いするもののみを残し,記憶の有機的働きに委せきっている。彼は観察者のように草を緑の飼料として運びこむことはしない。彼は干し草を投げて裏返し,太陽の光を当てやる。彼は特徴に注意をはらわない。(特徴は誤りにおちいらせると彼はいう。)重要なことは,対象の<特質>や<表示>ではない。(興味をひくことは重要ではないと彼はいう。)すべてすぐれた芸術家は観照者である。」
 これらの文章を読みながら,わたしはなにを考えているのか。そう,参与観察による記述(ディスクリプション)の問題である。それともう一つは「ヴィジョナリー・スポーツ」の問題である。
 ことばの厳密な意味では,参与観察は,たんなる観察者よりは一歩踏み込んでいることになる。が,このときの「参与」とははたしてどのようなレベルのことを意味しているのか,ある意味で曖昧である。つまり,観察者と参与者は間違いなく別だ。しかし,参与観察者とは,どのようなポジションをとることを意味しているのか。そこから生まれる「記述」(ディスクリプション)とはなにか。やはり,最終的には「外見の記述」に終始することになるのではないか。
 それに引き換え,観照者の立場は,まったく別である。「記憶の有機的働きに委せきっている」とブーバーがいうように,対象の外見的な特徴も特質も不要だという。しかも,すぐれた芸術家たちは,ここの地平から多くのすぐれた作品を生み出し,見る人を感動させる。ヴィジョナリー・スポーツの可能性は,この地平にひろがっているとわたしは考えている。これ以上のことはここでは言わないことにする。
 ブーバーはさらに,つぎのように追い打ちをかける。
 「観察者と観照者は,われわれの眼の前に生きている人間を知覚しようとする意図をもっているという立場から,共通している。この双方にとって当の人間は,観察し観照する彼ら自身からも個人的生活からも,分離した対象であるがゆえにまさに<正しく>知覚されるのである。したがって,彼らが経験するものは,観察者の場合には特徴の総和であり,観照者の場合には,実存である。しかしこれによって彼らは行為を要求されたり,運命を背負うこともなく,すべては,切り離された知覚の領域でおこる事柄なのである。」
 「特徴の総和」と「実存」の違い・・・・。このあまりの違いはなにを意味しているのか。
 「ディスクリプション」と「インスクリプション」の違いについては,『近代スポーツのミッションは終わったか』(今福龍太,西谷修,稲垣正浩著,平凡社)のなかでも,今福さんが持論を展開されている。「<外>に書く」(ディスクリプション」と「<内>に書く」(インスクリプション)との違いは,ブーバーのことばを借りれば,「特徴の総和」と「実存」ということになろうか。そして,ヨーロッパ近代のアカデミズムにもとづく文化人類学は「特徴の総和」に向った。そのために,「実存」の問題はないがしろにされてきたのではなかったか。そのギャップをいかにして埋めていくか,ここに今福さんが主張される立場の一つがある,とわたしは考える。
 そして,話をブーバーにもどせば,「われとなんじ」の<間>の対話(呼びかけ)は,間違いなく「実存」の時空間にしか成立しない。竹内敏晴さんもまた,この観照者の立場に立ち,実存の時空間を目指したのではないか,とわたしは推測する。
 この問題は,ブーバーの思考のなかでさらに深化していって,「会得」という段階に踏み込んでいく。この問題については,長くなってしまうので,残念ながら割愛する。テクストのP.186~188.を参照していただきたい。ただ,つぎの一文だけは紹介しておこう。
 「語りかけられるという働きは,観察や観照の働きとは,全く異なっている。」
 

2010年10月20日水曜日

竹内敏晴さんとマルチン・ブーバーの『我と汝』について。

 23日(土)の「ISC・21」10月名古屋例会が近づいてきたので,そろそろ準備にとりかからなければと気持ちだけが焦っている。しかし,ほとんどなにも準備ができていない。
 それでも,なんとかマルチン・ブーバーの『我と汝・対話』(岩波文庫)だけは読んでおこうと思い,あちこち拾い読みをはじめた。しかし,どこを拾ってみても難解きわまりない。が,なんとしても,竹内さんがブーバーのどこに興味をもたれたのか,その手がかりくらいはつかみたいものとアンテナを張っていたところ,最後の解説(訳者の植田重雄氏によるもの)に,そのヒントとなりそうな文章(P.270.)が見つかったので,それを,まず紹介してみようと思う。
 「存在は言葉であり,対話の語りかけ,語りかけられることによって,その存在性が明らかになり,啓示への新しい道が開かれるのである。今までは人間の思惟する<われ>が世界や存在や神を理解してきたが,ブーバーはこの対話という存在了解の道をとおって,人間中心の<われ>だけによるのではなく,<われ>と<なんじ>の間に生ずるものが,真の存在であり,出合いとしての啓示の展開であると見る。この<われ>と<なんじ>の「間の領域」こそ,存在が存在となり,一切が成熟してゆく。もはや啓示を遠い彼方のものとして想い浮かべるのではなく,現実に生きる<今><ここ>において,<われ>と<なんじ>の全人格的呼びかけや出合いの現存在の中に生起し,成熟するものなのである。対話的な思惟は,現代の存在の局面を根本的に変容させたのである。」
 竹内さんが「呼びかけのレッスン」や「<じか>に触れるレッスン」を編み出し,それに磨きをかけていくことになる,そのきっかけを与えた一つがマルチン・ブーバーの『我と汝・対話』というテクストにあったとすれば,植田氏のこの解説はきわめて重要な示唆をふくんでいるように,わたしには思われる。
 とりわけ,引用の最後の部分「この<われ>と<なんじ>の『間の領域』こそ,存在が存在となり,一切が成熟してゆく」 は,竹内さんが何回もくり返しおっしゃっていたことばと共振し,共鳴するように思う。竹内さんの「呼びかけのレッスン」も「<じか>に触れるレッスン」も,なにを隠そう「この<われ>と<なんじ>の『間の領域』」で成り立っているレッスンなのだ。だから,「呼びかけ」られることによって,さらに,<じか>に触れることによって,わたしという「存在が存在となる」。しかも,それをくり返していくことによって「一切が成熟してゆく」ということになる。
 だから,これらのレッスンは何回やってみても同じことは一度もない,そのつど毎回,変化する,と竹内さんはおっしゃる。「存在が存在になる」そのなり方も,「成熟してゆく」その仕方も,まいたびごとに変化する,というのである。レッスンはまるで生きものそのものである,と。

(あとで追加記入の予定)

2010年10月18日月曜日

宇沢弘文さんは竹内敏晴さんの3年後輩(一高時代)

 宇沢さんは1945年4月に一高理科乙類に入学。竹内さんは1942年4月に一高理科甲類に入学。したがって,竹内さんが4年生で宇沢さんは1年生,ということになる。
 しかし,竹内さんの自伝(『レッスンする人』語り下ろし自伝,藤原書店)によれば,弓術に打ち込むあまり「落第につぐ落第」とある。宇沢さんもまた,昨日のブログにも書いたように,ラグビーと芋の買い出しに追われ,大学受験には合格したものの一高の卒業に待ったがかかる。単位不足による落第である。しかし,一高の「Bitte」制度によって救済される。竹内さんもまた,1947年に東大文学部に合格するも,やはり単位不足で待ったがかかっている。竹内さんは,全寮制であった一高の寄宿寮の自治寮委員長としての献身的な功績が認められ,学校当局の特別の計らいにより,一高の「Bitte」制度に救われる。
 宇沢さんも竹内さんも,とてつもないスポーツマンであり,かつ他人のために献身的な努力を惜しまない人,それが原因で落第する,でも大学の入試には合格する,というまことに破天荒な青春時代を送っているという点で共通している。
 そして,お二人とも,第二次世界大戦の「敗戦」を経験し,そこを20歳・16歳という若さで通過していらっしゃる。竹内さんは,敗戦を前夜に知り,それを密かに安倍能成校長に報告し,元自治寮委員長として学生の動揺防止と翌日の行動の組織に当たった,と略年譜にある。つまり,大変な緊張のなかで敗戦の日を迎えていたのである。しかも,翌年には「自死をはかるが発見され果たさず」と略年譜にある。竹内さんにとって「敗戦」がどれほどの意味をもっていたかが忍ばれる。しかし,竹内好の「中国における近代意識の形成」という講演を聞き,魯迅に出会う,とこれも略年譜にある。そして,翌年,東大文学部歴史学科に入学。東洋史を専攻する。理科甲類からの転進である。すなわち,戦前を切り捨てて,「0」(ゼロ)からの出発である。
 他方,16歳で「敗戦」を迎えた宇沢さんは,これでようやく「解放」された,とホッとされたそうである。勝つ見込みがない戦争(日本の知識人の間では常識であった)の重圧のもとで,16歳の少年はラグビーでからだを痛みつけることに昇華の方法を見出していたようである。フォワードなので,脳震盪はつきもの。そのたびにバケツの水を浴びて我をとりもどす,という日常だったと振り返る。あとは,腹が減ってどうにもならないので,芋の買い出しに走った,と。その後,宇沢さんは大学では数学を専攻するも,独学で「経済学」を勉強して,経済学者として身を立てることになる。この数学から経済への転進に,宇沢さんの「敗戦」体験が写し出されているように,わたしにはみえる。そして,「人を幸せにするための嘘」に身を捧げることになったのでは・・・と。
 竹内さんは,学者への道をあきらめて,演劇の世界に身を投じていく。そして,生きる人間そのものと真っ正面から向き合う道を邁進する。このあたりのことは近著の『レッスンする人』のなかに詳細に語られているので,そちらに譲ることにする。竹内敏晴という人のライフ・ヒストリーを知るには必読のテクストである。
 こうして,お二人とも,それぞれの分野で日本の戦後史に大きな足跡を残すことになる。
 こんなことを考えていたら,16日の宇沢さんのシンポのあとの懇親会に参加して,竹内敏晴さんの記憶(あるいは,思い出)についてお聞きすべきであった,といまごろになって後悔している。おそらく,玉音放送の日に,竹内さんがどのように振る舞っていたかは,当時の1年生は鮮明に記憶しているに違いない。だとしたら,返す返すも残念の極み。もう二度とチャンスはあるまい。
 しかし,「双葉より芳し」ということばがあるが,大物の青春時代は,一定の枠組みには収まりきらない「激情」があふれんばかりに満ち満ちていたんだなぁ,と思いを新たにしている。こうしたみずからの信念を貫きとおして生きていく人物が,いまの日本の社会のなかで育っているのだろうかと思うと背筋が寒くなってくる。「敗戦」という大きなハードルを,とにもかくにも通過して,そこをバネにして大きく飛躍していく,そういう迫力のある人間はこんご期待できないのだろうか。
 いやいや,あちこちで,そういう芽が育ちつつある,ということに夢を託したい。また,ぜひ,そうあって欲しい,としみじみ思う。
 宇沢さんの「なま」に接することができて,幸せである。本とはまた別の宇沢さんが,体温とともに伝わってくる。シンポが終わってから,たまたま,廊下でばったり,真っ正面から出会うことがあった。なぜか,不思議そうな眼でわたしを鋭く見つめてくる。しかも,はるか上の方から。わたしは,身を固くして,ただ,仰ぎみるだけでどうしたらいいか困ってしまった。仕方がないので,にっこり笑って会釈を返した。それでも宇沢さんは納得がいかない顔のまま,やや小首をかしげるような挨拶を返してくださった。わたしのからだには何万ボルトもの電流が流れ込んできて,完全に感電してしまった。このからだの感覚は生涯,忘れることはないだろう。
 これとまったく同じような「まなざし」を,竹内さんからもいただいたことがある。あの,終始,にこやかに談笑される竹内さんのまなざしが,時折,ギラリと光ることがある。ほんの一瞬のことなのだが,わたしの全身に電気が走る。感電である。
 ここでいう「感電」とは,「我と汝」の境界がなくなってしまうことだ。
 この話のつづきは,23日の名古屋例会で。

2010年10月17日日曜日

人間・宇沢弘文と「Bitte!」

 「制度は人間のためにあるものであって,人間が制度の犠牲になってはいけない」,と宇沢さんはおっしゃる。そして,「Bitte !」というとてもいい制度が一高にはあった,と目を細めながら楽しそうに回想される。
 宇沢弘文さんは,一高・東大とラグビーの選手として活躍された。しかも,自称「名選手」であった,と。ポジションは「右ロック」。なるほど背の高い大男である。ひたすら相手フォワードとの肉弾線で,前へ,前へと押し込むことだけが仕事だった,と。ところが,あるとき,たまたま眼の前にボールが転がっていたので,あわてて拾って走った。すぐに,チーム・メートが「宇沢,宇沢!」と呼ぶ声が聞こえる。変だな,とはおもったが構わず走った。そうしたら,突然,チーム・メートにタックルされてしまった。気づいたら,「逆走」していたとのこと。だから,「迷選手」だったのだ,と。(会場はみんな爆笑)。
 これですっかり雰囲気が打ち解けたところで,宇沢さんの名言が飛び出す。「経済は人間のためにあるものであって,人間が経済の犠牲になってはいけない」,と。同じように,「制度は人間のためにあるものであって,人間が制度の犠牲になってはいけない」と置き換えをした上で,つぎのような思い出話をされた。
 1945年4月に一高に入学して,それから1948年3月に卒業するまでの3年間,ただ,ひたすらラグビーの練習と芋の買い出しに明け暮れしていた。授業はほとんど出なかったので,勉強らしい勉強はなにもした記憶がない,と。でも,卒業時には,みんなと同じように大学を受験した。しかし,最初から合格するつもりはなかったので,受験だけして,荷物をまとめて田舎に引き上げ,一年浪人をして合格をめざすつもりでいた。だから,合格発表の日も,発表を見にいくこともしないで,荷物をまとめていた。そうしたら,友人が,発表をみてきて「お前,合格しているぞ」と言った。宇沢さんは本気で「冗談を言うんじゃない,ふざけるのもいい加減にしろ!」と言ったものだから,その場で喧嘩になり,ならば,というので二人で発表を見に行った。そうしたら,友人の言うことが正しかったので,びっくり仰天した,と。
 ところが,一高の学務から連絡があって,「君は卒業できない。理由は,出席不足による単位不認定のため」とのこと。ああ,そうか,とこれも十分に納得できることだったので,来年,また,受験すればいい,と腹をくくっていた。そうしたら,件の友人が,「ちょっと待て。学務に掛け合ってくる」と言ってでかけた。そうして,友人は,「宇沢は友人たちの食料確保のために芋の買い出しで頑張ったのだ」と懇願して,ひたすら「Bitte ! 」「Bitte!」をくり返した,という。「Bitte」というのはドイツ語で「お願い」という意味だ。しかも,発音の仕方によっては,懇願のことばとなる。そうして,本人ではくて,友人がやってきて「懇願」したことが認められて,単位は追認され,めでたく卒業ができ,そして,東大の理学部の数学科に進学することができた,とのこと。当時の一高には「Bitte制度」というものがあった。これは「制度を超えて,人間を救済する素晴らしい<制度>である」と。
 この話には,もう一つの後日談がある。宇沢さんがシカゴ大学(だったと記憶する)で経済学の先生として教鞭をとっていたころの話。宇沢さんの信念として,教育は試験によって生徒の成績を点数化してはならない,というものがあったので,学生たちに「単位が欲しい者は言ってきなさい。いつでも単位を認定します」と公言したものだから,学生さんたちの多くは単位だけもらって,授業にはこない,ということが起きた。宇沢さんとしては,勉強したい者だけを相手に授業をやりたいので,この方が好都合であった。しかし,これが学内で問題となり,教授会でも議論となった。そのとき,まだ若いがとても切れる先生として評判だった人が立って,「宇沢先生のやっていることは,職務放棄に値する。したがって,免職に相当する,と考える。しかしながら,宇沢先生のやっていることは,こうした法規を超える,立派な行為でもある」と発言し,宇沢先生の単位認定は認められることになった,という。
 こんな秘話がもう一つあるのだが,あまりに長くなるのでそれは割愛する。
 こういう話をしながら,宇沢さんは,「社会的共通資本」という発想の原点になる,身近な傍証を提示し,この概念の重要性について,あちこち話を脱線させながらも,とつとつと語ってくださった。こうして,人間の生存にかかわる重要な財産,つまり,人類の生命を維持していく上で不可欠の,人類みんなが共有している財産については,「社会的共通資本」として,他の「資本」とは別に管理・運営をしていくことが,これからの人類に共通の課題である,と力説される(ことば足らずは,『社会的共通資本』を読んで補ってください)。
 制度は人間のためにあるものであって,人間が制度の犠牲になってはいけない。資本主義は絶対ではない,ということはこれまでの歴史過程をとおして明らかになっている。だとしたら,この資本主義を止揚できるような,新たな救済「制度」を創案するしかない。そのために,案出された概念が宇沢さんの提唱される「社会的共通資本」という考え方である。
 「嘘をつきなさい」,ただし「人を幸せにする嘘を」。一高の「Bitte」制度。宇沢さんの単位認定の姿勢。その他,もろもろの素地が積もり重なって,「社会的共通資本」という概念に結集していくことになる。
 その学問的な(経済学的な)経緯については,岩波新書の『社会的共通資本』を熟読玩味して,確認してみてください。じつに濃密な文章でつづられていて,考えさせられることが無尽蔵にある,とわたしは感じました。初版は2000年11月。2010年2月には11版を重ねている。この名著の存在すら知らないできた我が身の不勉強を羞じるのみである。
 『始まっている未来』(岩波書店,2010年)についても,いずれ,とりあげてみたいと考えている。未来が見えなくなってしまって,絶望の縁に立たされている,と思っていたが,そうではない曙光がそこに見えてくる,そういう希望と勇気を与えてくれる名著である。内橋克人さんとの対談。
 Lesen Sie, Bitte!

2010年10月16日土曜日

「宇沢弘文と語る」を聴講して

 西谷修さんが仕掛けた「宇沢弘文と語る」経済学から地球環境,日米安保・沖縄まで,というこれは対談なのか,独演会なのか,よくわからない不思議な,でも,じつに刺激的な会を聴講してきた。なぜか,とても満ち足りた時間をすごすことができて,大満足。
 「嘘をつきなさい。人びとを幸せにする嘘を沢山つきなさい」とわたしは教えられました。いきなり,こんなことばが宇沢さんの口から飛び出してきて,度胆を抜かれる。いろいろの事情があって,旧制中学の4年生のころに,新潟の禅寺(曹洞宗)に身を寄せることになったそうである。そして,そこの禅寺の住職が,晩飯になると宇沢さんを呼んで,一緒に食事をしようと誘ったという。しかも,とても立派な食事とお酒も用意されてある。まだ,未成年なのに,ごく当たり前のようにして,一緒にお酒もご馳走になる。そういう禅寺の坊主が,宇沢さんを相手にいろいろの話をしてくれる。そのなかの話の一つが,冒頭に引いた「嘘をつきなさい」というものだったそうである。
 このことばが,いまから考えるとわたしの経済学の考え方の根源になっているような気がする,とおっしゃる。誤解されるといけないので,もう少しきちんとした説明をしておく。ここでの力点は,「嘘をつきなさい」ではなく,「人びとを幸せにする」というところにある。「嘘」と言ったのは,ひとつの方便で,学問もまたひとつの「嘘」の範疇に入るものなのだから,という意味である。学問といい,科学的知見といい,宗教の教義といい,それらはどこまでいってもひとつの「仮説」にすぎない。つまりは,「嘘」の一種なのだから,どうせ「嘘」をつくなら「人びとを幸せにする嘘」をつきなさい,というのである。
 宇沢さんが数学を専攻しながら,独学で経済学に向かうときの引き金になったものが,「人びとを幸せにする嘘」だった,というようにわたしは受け取った。人間はひとしく生きる喜びを味わう権利をもっている。お互いの魂と魂が触れ合うような喜びを分かち合う権利をもっている。その権利を保証するための学問の一つが経済学ではないのか,と。つまり,生身の人間として生きる喜びを保証すること,これが経済学の使命ではないか,と。
 断わっておくが,宇沢さんがこのようにおっしゃったわけではない。あくまでも,宇沢さんのおっしゃった「嘘をつきなさい」という話のコンテクストを受け止めながら考えたたわたしの,かなり牽強付会ともいうべき解釈である。しかし,この「嘘をつきなさい」,ただし「人びとを幸せにする嘘をつきなさい」が,やがて,宇沢さんがのちに声を大にして提唱なさる「社会的共通資本」という概念の基礎になっている,と受け取った。
 
 『社会的共通資本』(宇沢弘文著,岩波新書)という本の存在すら,不勉強なわたしは知らなかった。が,いつものことながら,ありがたいことに西谷さんから,今回のこの企画の話を聞き,その話の流れのなかで『社会的共通資本』という名著があることを初めて知った。そして,この概念がきわめて魅力的なものであることも,西谷さんのお話をとおしておぼろげながら理解できた。ので,早速,本屋さんに走ってこの本を購入してきた。正直に告白しておけば,同じ,岩波新書の棚に,『自動車の社会的費用』『日本の教育を考える』『地球温暖化を考える』などの宇沢さんの本を見つけ,これらも購入した。
(未完)