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2015年2月21日土曜日

じわじわと広がっている放射能汚染。それでも原発再稼働なのか。

 あれからまもなく丸4年になろうとしています。

 
手も足も出せない放射能汚染。空に向かって拡散しつづけ,山林や平地に積もった放射能汚染は雨に流されて河川へ,そして沼や海洋に流れこむ。ただ,これあるのみ。必死になって掻き集めた汚染物質も行き先不明なまま,山積みにされ,放置されるのみ。

 
時間の経過とともに,わたしたちの記憶が徐々に,徐々に薄れていく間にも,放射能汚染はまぎれもなく蓄積され,新たな事態へと進展をつづけています。

 千葉県の手賀沼といえば,東京都からもすぐそこ。その手賀沼の底土が放出セシウムによって高濃度に汚染されている,といいます。ということは,濃度の差こそあれ,東京都の河川や湖沼もそこそこ汚染されている,と考えていいでしょう。

 しばらく前の東京新聞の報じたところでは,東京都新宿区の測定ポイントの放出セシウムが驚くほど高くなっている,とのこと。そのときの測定では,遠く離れた三重県でも高濃度が検出された,といいます。もはや,放射能汚染国家の態をなしつつあります。

 この進み行きに対して政府・自民党は手を拱いているだけ。まるで,「under control」と言わぬばかりに・・・。のみならず,原発再稼働ありきの政策を推し進めつつあります。いったい国民の命をどのように考えているのでしょうか。

 口を開けば,「国民の生活と安全を守るために」とアベ君はまるで「お題目」のように繰り返します。それでいて原発再稼働であり,原発輸出をめざしてまっしぐら。

 いったい,どういう知性と情動の持ち主なのでしょう。そのアベ君を一丸となってサポートする自民党議員たちとは,いったい,どういう「生きもの」集団なのでしょうか。わたしの辞書にはそのための語釈はありません。困ったものです。

 いま,政府自民党のセンセイたちに必要なものは,幼い子どもをもつ母親の「目線」でしょう。そんなにむつかしいことではありません。素直な眼とこころで,この子どもたちの未来を考えるだけでいいのです。政治とはそういうところから出発するものではないですか。アベ君。

2014年9月18日木曜日

「来年1月までに大きな地震が発生する可能性大」。村井俊治氏の電子基準点観測データの分析から(『週刊ポスト』)。

 日本地震学会のメンツが丸潰れ,という珍現象が起きています。年100億円もの研究助成金を分け合う既得権益にしがみつく日本地震学会は,「地震ムラ」と揶揄されるほどの閉鎖性のつよい学会といわれています。その日本の地震研究の最高権威とされている日本地震学会の「地震予想」がほとんど的中したことがありません。それでも,日本政府はこの地震学会の提供するデータにもとづいて,南海トラフ地震が起きる確率を「30年以内に60~70%」というわけのわからない予想を発表しています。

 それに引き換え,地震学者でもなんでもない,しかし「測量学の世界的権威」者である村井俊治さんの地震予想が,この5月以降,ことごとく的中していて,世の注目を集めています。その村井さんが,最近の電子基準点(全国1300カ所)から送られてくる観測データを分析した結果,「来年1月までに大きな地震が発生する可能性がきわめて高い」と予想しています。これは聞き捨てならない事態です。

 しかし,村井さんのこの予想を政府も日本地震学会も無視しています。大手メディアもほとんど無視しています。なぜか?週刊誌もそれほどの関心を示しません。ただ,『週刊ポスト』(小学館,秋の合併特大号,9.19/26)だけが,かなり念入りな取材をして,問題の所在を明らかにするなかなかいい記事をまとめています。

 この記事の中にも書かれていますが,地震という,それも差し迫った一大事にたいして,なぜ,地震学と測量学,あるいはその他の関連学会は協力して,より精度の高い地震情報を国民に提供しようとはしないのか,これが不思議です。その最大の障害になっているのは地震学会の既得権益にあるようですが・・・。だとしたら,それこそ政府が音頭をとって,あらゆる関連学会が協力するシステムを構築すべきでしょう。ところが,その政府もまた無関心です。長年にわたる癒着構造が,そのまま野放しにされているということなのでしょう。しかし,これは一刻も早く改善し,それこそ「国民の命と安全を守るために」(アベ君の常套句)しかるべき措置をとってほしいものです。ここにも原子力ムラとの癒着と同じ構造がみてとれます。困ったものです。

 さて,本題に入りましょう。
 村井俊治(東大名誉教授・元国際写真測量・リモートセンシング学会会長)は,国土地理院が94年から全国各地に約1300カ所に設置したGPSデータを測定する「電子基準点」からの情報を蒐集し,分析した結果,地震発生との相関関係がとても密接であることに気づきます。そして,この観点からの地震予想をしたところ,百発百中という成果を挙げています。しかし,村井さん自身は,まだまだ荒っぽい予測なので,その分析方法の精度をもっと上げるべく,いまも努力を重ねているところだといいます。

 その方法の核心は,各地の電子基準点で起きている地面の上下動が,一週間の間に「4㎝」以上ある場合には震度3から震度5弱の地震がおきる可能性が大であること,この上下動が「7㎝」を超えるともっと大きな地震が起きる可能性があること,を村井さんがつきとめたことにあります。そして,さらに,7月の後半から8月にかけて連続して起きている地面の上下動が日本各地の広範囲に広がっており,これだけの広範囲の変動は東日本大震災の時の前兆と酷似している,というのです。その結果,村井さんは「来年1月までに大きな地震が発生する可能性がきわめて高い」と警告を発しています。

 こうした情報の詳しいことは,メールマガジン『週刊MEGA地震予測』(http://www.jesea.co.jp/)で確認してみてください。毎週,村井さんが具体的にデータを提示しながら,その分析をし,地震予測をしています。

 『週刊ポスト』はこのJESEAのデータをもとに,詳細な「異常変動マップ」の全国版を作成し,掲載しています。このマップをそのまま転載するわけにもいきませんので,重要なポイントだけを紹介しておきます。このマップによれば,大きく分類すると4カ所で異常変動が起きているといいます。それは,「飛騨・甲信越・北関東警戒ゾーン」「首都圏・東海警戒ゾーン」「南海・東南海警戒ゾーン」「九州・南西諸島警戒ゾーン」の4カ所です。

 わたしの住んでいる川崎市にかかわるところでは,「神奈川県・静岡県の電子基準点変動の推移」(ことしの1月から8月末まで)という折れ線グラフが掲載されています。それによると,7月後半から8月にかけて7㎝,8㎝を超える大きな変動がつづいています。しかも,神奈川県の厚木,湯河原,大井といった基準点で大きな変動が見られる,と指摘しています。

 つづけてこの折れ線グラフについての村井さんの談話を紹介しておきます。
 「近年の研究では,関東大震災の最初の震源が大井近くだったとされている。首都圏全域に大きな影響を及ぼす大地震の兆候である可能性は否定できない」。

 となってくると,ことは重大です。ここまでのところ,村井予測は全部当たっているだけに説得力があります。こうなったら,少なくとも1週間分の水と非常食の備えをしておかなくては・・・と本気で考えてしまいます。日本地震学会,あるいは,政府の見解を聞きたいところです。しかし,これもまた無視することでしょう。

 いずれにしろ,これから村井予測による地震警告は,ますます大きな話題になっていきそうです。でも,そうなると,政府は水面下での強力なメディア・コントロールを仕掛けてくるでしょう。それでも「村井」情報は上記のメルマガで確認することは可能でしょう。ここも消去されるようになったら,もう日本はお終いです。しかし,その可能性も無視できません。困ったものです。

2014年6月7日土曜日

原発の広告塔。事故前のワースト1位は増田明美。

 「原発・広告塔」でネットを検索していたら,わたしとしてはびっくり仰天するような情報にゆきつきましたので紹介しておきます。情報のソースは,My News Japan. 15:07 06/15.2011. データは東日本大震災の前の1年間を集計したものです。つまり,原発事故の前の1年間のこと。そこには,以下のようにありました。

 CM,雑誌に続き新聞の「原発広告」に登場し,原発マネーで稼いできた知識人タレントを調査したところ,ワースト1位は増田明美(元マラソンランナー)。調査対象は,全国紙の朝日,読売,毎日,日経,産経の1年間分(2010年4月1日~2011年3月31日)の「全面広告」。その結果,14人の文化人・タレントが原発広告に出ていたことがわかった。
 2位・橋本登代子,3位・森田正光,4位・辰巳琢郎,5位・住田裕子,6位・木本教子,福澤朗・・・以下省略。

 増田明美といえば,知らぬ人とてない女子マラソンのパイオニアの一人であり,いまもマラソン解説者として活躍中。新聞,雑誌にもかなりの量の原稿を書いている「文筆家」でもあります。しかも,大阪芸術大学教授の肩書までついています。

 女子マラソンの解説者としては,珍しくしっかりとした取材にもとづく豊富な情報を駆使して,きわめて的確な解説をする,一本筋のとおった立派な人です。文筆家としてもなかなかの才能を発揮していて,メディアでは重宝がられているようです。そうした実績が高く評価されたのでしょう。いまでは,大阪芸術大学教授です。

 これも正直に白状しておきますが,わたしは増田明美がランナーとして登場してきたときからのファンです。ストイックに自分を追い込んで猛練習をし,からだを限界まで切り詰め,とうとう競技中に貧血を起こして倒れてしまうこともありました。そのシーンはいまでも眼に浮かびます。ついでに触れておけば,仕事がらみで手紙のやりとりをしたこともあります。

 ですから,この情報に接したときは愕然としてしまいました。言ってしまえば,舞の海のとき以上の衝撃でした。こんなことも知らずにいたわたしが迂闊だったとしかいいようがありませんが・・・・。

 それにしても考えさせられてしまうのは,舞の海にしろ,増田明美にしろ,スポーツ界の知名度の高い,そして,イメージのいい人たちばかりが狙い撃ちのようにして原発マネーの標的にされ,しかも,撃ち落とされてしまうという現実です。無防備というか,無知というか,世間に対する思考停止というか,常識が欠落しているというか・・・・。言ってしまえば,自分の専門のこと以外は頭のなかは空っぽという人がスポーツ界には少なくありません。もっとも,東大教授にもそういう人がごろごろいる現実をみると,スポーツ界だけの現象とも言えません。いわゆる「専門バカ」と呼ばれている人たちは,どの世界にも存在するようです。

 原発事故後の舞の海は確信犯として,もはや救いようがありません。が,事故前の増田明美は,つい,うっかり(原発マネーに眼がくらんで・・・)ということもありえたでしょう。実際にも,ワースト6位の福澤朗は「つい,うっかりして・・・」と懺悔しています(これもネットで確認できます)。そして,以後は謹んでいる,とか。

 増田明美はこれからでもいい。原発マネーで得た金をフクシマの被災者救援のために寄付し,その上で,懺悔をし(公表し),脱原発運動の先頭に立ち,文筆業でもそれを支えていくことをしてほしい。過去は取り返すことはできません。が,未来の時間は自由に使うことができます。どうか,脱原発宣言をして,その姿勢を示してほしい。

 増田さん。あなたの言動はそれほどに大きな影響力をもっています。ひとりのファンとしての切実な願いです。もっとも,すでに政府関係の多くの専門委員を委嘱されているいま,手遅れなのかもしれませんが・・・・。それに,メディアにもがんじがらめの関係が構築されてしまっているでしょうし・・・。

 しかし,日本の未来がかかっているのです。勇気ある決断を・・・・。

 未練がましいことではありますが,ひとりのファンとして最後の一縷の期待を寄せたい・・・・。叶うべくもないでしょうが・・・。

2014年6月3日火曜日

『美味しんぼ』の「鼻血」騒動を考える。

 こころやさしい友人のNさんが,入院生活の暇つぶしに,とにんまり笑って『美味しんぼ』の「福島の真実」23話と24話(最終回)をコピーして手渡してくださいました。世の中,大騒ぎをしているのに,わたしは読んでいなかったので,これはとても助かりました。

 作・雁屋哲,画・花咲アキラによる『美味しんぼ』は,この「福島の真実」で第604話(これだけて24回の連載)にもなる超ロングの連載であること,そして,この漫画にはしっかりとした思想・哲学の芯が一本とおっていること,さらに徹底した現場調査主義を貫いていること,こうした積み重ねの上での雁屋氏の最終的な結論=決断を導き出すという,みごとなまでの手法をとった作品であることを,まずは,念頭において考える必要があると思います。

 わたしは,ずいぶん前に(もう,何十年も前に),教え子(現在,中学校教師)から,ぜひ,これを読んで感想を聞かせてくれと段ボール箱いっぱいの『美味しんぼ』の単行本が送られてきて,そのとき,初めて大まじめに読みました。たかが漫画ではないか(当時はいまほど漫画の評価は高くなかった),くらいの軽い気持で読み始めましたら,とんでもない,きわめて重いテーマが重奏低音のように鳴り響いていることを知り,びっくり仰天した記憶がいまも鮮明に残っています。

 こうして何十年にもわたって雁屋氏が全体重をかけて取り組んできた作品を,たった一点だけ,重箱のすみをつつくようにして,「鼻血」が出た・出ないということだけを言挙げし,「風評被害」の名のもとに葬り去ろうとする,このなんともおぞましい歪んだヒューマニズムが台頭している現在の日本の風潮をこそ,恐ろしいと心底思っています。わたしは,ことばの正しい意味での「批評精神」に支えられた,しっかりとした「批評」のまなざしが欠落したまま,単なる上滑りなやすっぽい「評論」だけが一人歩きしている今回の騒動こそが,日本病という救いがたい大きな病の病根にある,と考えています。

 病室にいる間,それこそ「暇つぶし」に,何回も何回も読み返してみました。とりわけ,最終回に寄せられた識者,行政,団体などの文章をつぶさにチェックしてみました。もう,唖然とする以外にない,というのが率直なわたしの感想です。唯一,救われるとすれば,この「パンドラの箱」をひっくり返したような玉石混淆の「論調」こそが,現代日本の現実なのだ,ということを露呈させてくれた,ということでしょうか。それはそれは恐ろしいほどの「無責任」が,しかも稚拙な文章でつづられています。しかも,それが正しいと本人は信じて疑わない,この姿勢が恐ろしい。けれども,ピカリと光る識者の見解も掲載されていて,多少とも救われます。

 「鼻血」はでる人はでる,でない人はでない。線量の多寡に関係なく,低線量でも,でる人はでる,でない人はでない。たとえば,肥田舜太郎氏のいう「ペトカウ理論」や,チェルノブイリの「報告書」によれば,低線量による内部被曝の方がはるかに被害は甚大である,といいます。こういう事実を政府を筆頭に行政はひた隠しにして,年間10ミリシーベルト以下なら安全,と言い切ってはばかりません。そして,いつのまにか,わたしたちも「10ミリシーベルト」に慣らされてしまっています。しかし,この数字はとんでもない数値で,チェルノブイリでは考えられないといいます。

 一番驚いたのは,鼻血はストレスによるものであって放射能とはなんの関係もない,と言い切る識者があまりにも多いということでした。それを,わざわざ「心理的影響」とか「後づけバイアス」などということばを用いて,放射能との関係を切り離そうとしているのです。ストレスにはその原因となるストレッサーが存在します。そのストレッサーを取り除かないかぎりストレスは治癒しません。そのストレッサーこそが眼に見えない「放射能」なのですから,明らかにそこには因果関係が成立しています。ですから,それをあえて切り離そうとする識者の,意図的・計画的な「悪意」すら感じないではいられません。

 こんな事例を取り上げていくと際限がありません。一度,活字になったものは消えません。これからじっくりと時間をかけて議論していけばいいことです。

 それよりも絶対に見落としてはならないことは,雁屋氏が長年かけて,しかも全体重をかけて,「食」をとおして人間が「生きる」ということはどういうことなのかを考え,人間の「命」を守るということが,どれほど大事なことなのか,とりわけ,現代の日本において・・・,というこの視点です。そして,登場する中心人物のひとりにつぎのように言わせています。

 「福島の未来は日本の未来だ。
  これからの日本を考えるのに,まず福島が前提になる」。

 「福島を守ることは日本を守ることだ。
  であれば,俺の根っこは福島だ」。

 「風評被害」ということばは,だれかさんにとってまことに都合のいいことばなので,盛んに多用されます。なぜなら,「真実」かくしのための隠れ蓑としてまことに便利で,しかも,いともかんたんに世論を動かすことができるからです。一番大事なことは,ほんとうのことを明らかにすること,事実を確認すること,です。ここが問題解決の出発点です。ここを隠されてしまっては,どこまでいっても問題は解決しません。その最終的な被害者は国民であり,ついには,国民の「命」が犠牲になるのです。

 そこから脱出するための,一つの結論として,雁屋氏は決然として問題提起をしたのです。ですから,これだけ話題になったということは作者の思惑どおりと言っても過言ではないでしょう。問題は,それを受け止めるわたしたちの側にあります。

 どこかの雑誌が特集を組んで,さらに,議論を活性化させ,ほんとうの問題の所在を明らかにする努力をしてくれることを祈っています。そして,そこにはありとあらゆる立場の識者・経験者が登場することを。マンガ好きのアソウ君やナカザワ君も。

2014年5月23日金曜日

〔主文〕大飯原発3,4号機を運転してはならない。

 大飯原発訴訟の判決要旨を熟読してみました。何回も何回も繰り返して読み直してみました。とてもよくできた判決文で,感動しました。そこには生きものとしての生身の人間を重視する立派な思想・哲学が存在している,と感じ取りました。この判決を導き出した樋口英明裁判長にこころから敬意を表したいと思います。「司法は生きている」と心強くも思いました。

 この判決文を読んで,もっとも印象に残ったことは,「3・11」以後を生きる人間にとってなにが大事なのか,という司法の考え方が明らかにされたことでした。「3・11」以前と以後とでは,この国のあり方そのものが根源的に変わらざるをえなくなった,という良識がこの判決文に生き生きと脈打っています。まずは,そのことに,感動しました。これでなくてはいけない,とつねづね考えてきたことが,司法の場で機能していることを知り,こころから安堵しました。

 政治家の圧倒的多数が,上はトップから下は地方議会の議員にいたるまで,「思考停止」状態のまま,狂ったトップの言いなりになろうとしています。情けないことに・・・。韓国のセウォル号の悲劇はけして他山の火事ではありません。日本という国全体を巻き込んだ「日本丸」が,いま,まさに沈没しそうになっているのですから。そのことに,ようやく多くの国民が気づきはじめた「いま」,この大飯原発訴訟の判決が出されたことはとてもタイムリーで意義のあることだった,とわたしは考えています。

 「大飯原発3,4号機を運転してはならない」。これが主文です。まことに簡明で分かりやすい名文です。そして,〔求められる安全性〕の冒頭には以下のように書かれています。

 「原発の稼働は法的には電気を生みだす一手段である経済活動の自由に属し,憲法上は人格権の中核部分よりも劣位に置かれるべきだ。」

 なんと明快な文章でしょう。法律の世界に疎いわたしのような人間にも,すんなりと呑み込めてしまいます。原発の稼働は経済活動であって,人間の命にかかわる人格権よりも劣位にあるのだ,と明言しています。電気代と命,どちらが大事か,ということの憲法上の考え方(法的根拠)が提示されたのです。

 その上で,〔原発の特性〕を説き,〔大飯原発の欠陥〕を指摘し,〔冷却機能の維持〕についての考え方があまりに楽観的にすぎると批判し,さらに〔使用済み核燃料〕の処理方法についても,確かな展望もえられない脆弱なものだと断定。さらに〔国富の喪失〕について触れ,以下のような重要な指摘をしています。

 「被告は原発稼働が電力供給の安定性,コストの低減につながると主張するが,多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いという問題を並べて論じるような議論に加わり,議論の当否を判断すること自体,法的には許されない。原発停止で多額の貿易赤字が出るとしても,豊かな国土に国民が根を下ろして生活していることが国富であり,これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失だ。」

 「被告は,原発稼働がCO2(二酸化炭素)排出削減に資すると主張するが,福島原発事故はわが国始まって以来最大の環境汚染であり,原発の運転継続の根拠とすることは甚だしく筋違いだ。」

 そして,最後に〔結論〕として,「原告のうち,大飯原発から二百五十キロ圏内の住民は,直接的に人格権が侵害される具体的な危険があると認められる。〕と結んでいます。

 以上のように,この判決文は,とてもわかりやすくて,説得力のある,みごとな見解を示してくれています。少し冷静に考えれば,だれでもわかる理屈ばかりです。にもかかわらず,「思考停止」してしまった政府(菅義偉官房長官)は「再稼働方針は変えない」と判決後の記者会見で述べて平然としています。また,原子力規制委員長の田中俊一氏も「大飯原発は従来通り,われわれの考え方で適合性審査をする」と言っています。(※原子力規制委員6名全員が,もちろん,委員長もふくめて全員が電力会社や関連会社から研究費という名のリベートをもらっている,という事実が今日・23日の新聞に報じられています。規制委員会とは名ばかり。この委員会こそが「規制」されている,という笑えない事実こそが肝要。)

 わたしたちは,この司法による,じつに明快で,論理的整合性に支えられた立派な判決文を熟読玩味して,原発再稼働に突っ走る政府自民党に歯止めをかけていくことが,まさに,喫緊の課題です。これからは,この判決文を旗頭にして,あらたな闘争の段階に入っていくことができます。ひとつの明るい灯火がえられた,とわたしはこころから喜んでいます。

 みなさんはどのようにこの判決文を読まれたのでしょうか。お聞かせください。
 ではまた。お元気で。
 

2014年3月11日火曜日

3・11を忘れるな,だけでいいのか。反省すべきは人間の「驕り」ではないのか。

 3年目の3・11。新聞もテレビもみんな3・11。被災地の惨状や被災者の苦労を,これでもか,これでもか,というほど流しつづける。そして,「3・11を忘れてはならない」「3・11を風化させるな」の繰り返し。ただ,それだけ。どこか絵空事にみえてくる。3・11を忘れないで,しっかりと記憶にとどめておく,とはどういうことなのか。なにを,どうすればいいのか。日本人のひとりとして,取り組むべき課題はなにか。その具体的な提言も思想も哲学もない。単なる情報の垂れ流し。そして,「忘れるな」の繰り返し。


 そこには,メディア・サイドの深慮遠謀,つまり,ある意味で,意図的・計画的な「責任逃れ」が企まれているのではないか,と思われて仕方がない。もっとはっきり言っておこう。政府自民党の,そして,原子力ムラの,あるいは東京電力の,「深慮遠謀」がメディアに反映されているのではないか,と。


 つまり,東日本大震災の結果のすべてを自然災害のなかに封じ込め,だれも責任をとらなくてもいい,という免罪符を大量に発行しているだけではないのか。そこには,人災というきわめて重大な視点は最初から忌避され,無視する力学がはたらいているように思われる。だから,復興とは,すべて被災地・被災者の問題に還元されてしまう。そこには,われわれ日本人としての「復興」という視点が完全に欠落している。それでいて「忘れるな」と声高に叫ぶ。


 3・11がわれわれ日本人につきつけた問題は,たんなる自然災害への対応の仕方だけではない。それは,3・11以前まで,日本人の多くがなんの疑問も抱くことなく,ひたすら追い求めてきた経済的繁栄という虚像の上に構築されたライフ・スタイルに対する,根源的な問いではなかったか。それは,ひとことで言ってしまえば,生き物としての人間の「驕り」に対する根源的な問いではないのか。


 三陸地方の小さな漁港のほとんどは,高台に居を構え,漁のたびに海まで降りていって仕事をし,ふたたび高台にもどる。それが基本になっている。しかし,大きな都市になると,大津波の記憶から遠ざかるにつれ,高台から平地に降りて,そこに居宅を構え,漁にかかわる処理工場を設置し,海岸沿いに大きな商店街が誕生する。その方が経済的に効率がいいからである。つまり,儲かるからだ。そこに大きな落とし穴が待ち受けていた。そのとき,イノチとカネの交換が行われたことに気づかなかったのだ。これこそが生き物としての人間の「驕り」のなせる業だ。目先の欲望に目がくらみ,もっとも大事なイノチのことを忘れてしまった,ということ。


 災害は忘れたころにやってくる。


 その極めつけが原発だ。単位時間の発電効率の良さと安定供給を理由に,電気代の安さと安全という「神話」をでっちあげ(どちらもウソだったことを露呈させたのも3・11),全国各地に原発を大量に設置した。そのうちのフクイチが破綻をきたした。廃炉まで40年かかるという(政府発表)。とてもそんな時間で片づくとは思えないが・・・。加えて,使用済み核燃料の処分の方法はまったく未知の世界だという。最悪,40万年かかるという。これまた,生き物としての人間の「驕り」のなせる業である。利便性という甘い汁に誘われて・・・・。しかし,利便性には「限界」がある(ジョルジュ・バタイユは「有用性の限界」と言った),ということに気づく人は少なかった。その結果はもっとも大事な「イノチ」を代償として支払わなくてはならなくなった。


 復興とは,日本人のすべてが,生き物としての人間の「驕り」から目覚め,3・11以前のライフ・スタイル(経済的効率主義)に決別し,まったく新たなライフ・スタイルを構築することにある,とわたしは考える。わたしたち一人ひとりのからだとこころに「痛み」を伴うほどの,大転換が求められているのだ。そして,必要なことは,そのための思想であり,哲学である。


 3・11を通過したのちの社会を構築するための思想/哲学とはいかなるものか,この議論を立ち上げることこそが喫緊の課題だ,と言っておきたい。そして,そのための議論はすでに始まっている。たとえば,ジャン=ピエール・デュピュイの『経済の未来──世界をその幻惑から解くために』(森元庸介訳,以文社)や『聖なるものの刻印──科学的合理性はなぜ盲目なのか』(西谷修・森元庸介・渡名喜庸哲訳,以文社)をはじめ,『3・11以後この絶望の国で──死者の語りの地平から』(山形孝夫・西谷修著,ぷねうま舎)などがある。


 少しオーバーに聞こえるかもしれないが,思い切って言っておこう。3・11がさらけ出した問題は,世界史的な大転換を余儀なくする,それほどの根源的な問いである,と。3・11以後の世界は,いかなるまやかしも「驕り」も許されない,真に平等で公平,かつ自由を保障するものでなくてはならない,と。


 3・11を忘れるな,ということの内実は以上のようなことを意味している,とわたしは考える。死者たちの声に耳を傾けるということの内実は,以上のような新たな知の地平を切り拓くものでなくてはならない,と。少なくともわたしは,そのような努力をこれからも積み上げていきたいと念じている。それこそが,わたしにとっての復興の内実なのだから。

2014年3月10日月曜日

脱原発デモに3万2000人。国会周辺に集結(3月9日)。

 毎週金曜日に首相官邸前で脱原発を訴えつづけている三つの団体が,3月9日(日)に国会周辺でデモを行うという呼掛けは,ネットをとおして流れていました。わたしも出かけようかとこころが動きましたが,この寒さにまだ適応できないからだのことを考え,自宅に篭もっていました。ただ,気持だけは日比谷野外音楽堂にとどけ,と念じていました。


 今日の新聞によれば,国会周辺デモに3万2000人が集まった(主催者発表),ということです。この数をみて驚きました。というのも,この間の都知事選挙で,脱原発派の候補者が二つに割れたとはいえ,総得票数はわたしが期待していたほどには伸びなかったからです。もっとも,対立候補と目されていた舛添候補をして「わたしも脱原発派です」と言わしめたことによって,脱原発が都知事選の「争点」にはならなかったことも大きかったと思います。


 しかし,よく考えてみますと,舛添氏まで「脱原発です」と言わなければ選挙は戦えない,という情況をつくったことは,こんどの都知事選のひとつの大きな収穫であった,ともいえます。主要候補のうち,原発推進を声高に主張したのは田母神候補だけでした。ということは,安倍首相の代弁者以外の候補は,左も右もみんな「脱原発」だ,という現実を導き出したことになります。この事実は重いと思います。


 つまり,自民党の中にも,民主党の中にも「脱原発」派の議員はかなりの数を占めていること,ただ,声高に主張できないまま,どこかでチャンスを狙っていること,言うなれば「もの言わぬ脱原発議員」が存在するという事実が明らかになったということです。そして,この議員さんたちが,どのタイミングで本音を主張するようになるのか,そこに,わたしは少なからぬ期待をもっています。


 そん風な期待をいだいた人はわたしだけではないと思います。つまり,都知事選の結果は,新たな脱原発運動の出発点になる,と。市民運動を展開してきた人たちも,おそらく,そのような期待をいだいたことと思います。そして,その輪が,これから少しずつ一般市民の間にも広がっていくものと,期待した人も少なくないと思います。


 その一つの答えが,3月9日(日)の国会周辺に集結した脱原発デモ,3万2000人という数となって現れたのだ,とわたしは感動すら覚えました。体調さえよかったら,わたしもこの中の一人になれたのに・・・・といささか忸怩たるものがあります。早く体調をもどして,金曜日には首相官邸前に出かけられるようにしよう,といまから楽しみにしているところです。


 これからは日に日に暖かくなってきますので,国会周辺に集まってくる人も増えていくのではないか,とこちらも期待したいところです。


 いまや,脱原発運動は世界的な展開をみせています。逆に,本家本元の日本の脱原発運動があまりに停滞しているのではないか,と諸外国から批判されるほどです。もはや,脱原発運動は,一国の問題ではありません。国際社会を巻き込んだ,人類全体のテーマでもあります。端的に言ってしまえば,「金」と「命」を天秤にかけて,さあ,どちらを選ぶのかという大きな岐路に,いま,全人類が立たされています。「経済発展」という呪いのかかった呪縛をいかにして打破し,「人命尊重」という思想をわがものとするか,ただ,これだけのことです。


 どこまでも既得権益を守ろうとする権力(世界の原子力ムラ)と,その権力に「自発的に隷従」して,そのおこぼれを頂戴しようという歪んだ構造が,もはや臨界点に達しつつあります。もう,すでに,その一角が音を立てて崩れ落ちつつあります。そのことに気づいた人は,間違いなく脱原発に舵を切って,行動に移しつつある,とわたしは受け止めています。


 3万2000人という数が,3・11を直前にした一時的現象ではなく,これが出発点となって,これからますます大きな輪になって全国展開することをこころから期待したいと思います。わたしも微力ながら,そのひとりになりたいと念じています。

2014年3月3日月曜日

東京五輪はますます「復興」を風化させていく・・・・?!

 今日(3月3日)の東京新聞によると,被災42市町村長へのアンケート調査の結果,「復興に遅れ」が過半数を占めているという。しかも,9割以上の市町村長が「風化を感じている」という。そして,これからさきの見通しも暗い,と。


 同記事の書き出しを引いてみよう。
 東日本大震災と東京電力福島第一原発事故で大きな被害を受けた岩手,宮城,福島三県の四十二市町村長のうち過半数の二十四人は,復旧,復興が遅れているか進んでいないと受け止めていることが二日,共同通信のアンケートで分かった。震災や原発事故の風化を感じると回答したのは九割超の四十人に上った。


 以上が記事の一部である。そして,「風化を感じる」(九割超)と答えた人の多くが,「東京五輪の話題が被災地への関心離れを助長する」という懸念を示しているという。


 いまも記憶に残るあのIOC総会での東京五輪招致のためのプレゼンテーションでは,入れ代わり立ち代わり「東京五輪は復興に役立つのだ」と口を揃えて訴えていた。そして,このことが最終的に東京五輪に票が流れた大きな要因だった,とも言われた。その「復興」が風化しつつあるという。しかも,その理由が東京五輪の話題ばかりが脚光を浴びて,「復興」はその影に隠され,意識から薄れつつあるというのだ。


 それだけではない。実際にも,東京五輪にともなう巨大事業の展開が待ち受けていて,「復興」に従事していた大手ゼネコンが被災地から引き上げはじめ,その拠点を東京に移しつつある,というのだ。のみならず,東京五輪がらみの事業規模があまりに巨大なので,人材も資材も不足していて,経費も雪だるま式に膨れ上がっている,という。となると,「復興」はますます後回しにされ,風化の一途をたどるしかない,とも言われている。


 そこにきて,新しく選出された都知事は,東京を世界一の都市にする,東京五輪を歴史に残る立派な大会にする,と誇らしげに宣言している。もうすでに,この都知事の頭のなかには「復興」の二文字はほとんど意識されていないに違いない。この点は,「転ぶ」で名をなした組織委員会会長も同じだろう。もちろん,時代錯誤もはなはだしい「強い日本」をとりもどそうなどという頓珍漢なことを言っている首相をはじめ,政府自民党も大同小異だ。もはや,かれらにとって「復興」は,笛吹童子を演じていればいい,という程度のものでしかないのだろう。


 と思っていたら,成田─東京─羽田を結ぶ新線建造案に調査費がついたという情報が流れた。総工費6000億円という。これでまたゼネコンがここに集中してくることは間違いない。となれば,人も資材も足りないという情況が,ますます深刻化してくることになる。しかも,この新線建造は東京五輪には間に合わないのだそうだ。


 かててくわえて,原発の再稼働だという。いったい,この国はどこに向かって活路を見出そうとしているのだろうか。やっていることがはちゃめちゃである。


 入院中に熟読させていただいた『3・11以後この絶望の国で──死者の語りの地平から』(西谷修×山形孝夫著,ぷねうま舎,2014年2月刊)が,いま,わたしの頭のなかで渦を巻いている。やはり,もう一度,読み直そう。わけのわからない濁流に流されないように。そして,自分自身の立ち位置を確保するためにも。

2014年1月31日金曜日

フクイチで高濃度汚染水がジャジャ漏れ。1時間に3.4トン。これが首相のいう「under control」の実態。

 昨夜(1月30日)のYouTubeにANNnewsCHが,東京電力の記者会見として配信した映像をみて,愕然としてしまいました。その内容が表題に書いたことです。

 東京電力によると,福島原子力発電所一号機では,毎時4.4トンの冷却水を注入しているが,そのうちの8割が漏洩していることがわかった,と言うのです。しかも,その漏洩しているのは圧力抑制室からで,高濃度汚染水である,というのです。単純に計算すると,毎時3.4トンの高濃度汚染水が漏洩していることになります。さらに,別のところからも漏洩していることがわかった,といいます。詳細はさらに調査して明らかにしたい,とのこと。

 以上が,東電が発表した内容の短い映像から知ることのできた概要です。いずれ大きなニュースになるはずなのに,いまのところはなにごともなかったかのように推移しています。メディアの関心事は,いま,都知事選とソチ五輪。こういう喧騒のさなかに狙いを定めたかのように発表された東電の戦略のようなものも垣間見えてきます。じつは,もっと前からわかっていたのに,発表するなら「今でしょ」とでもいわぬばかりに・・・・。

 毎時3.4トンもの高濃度汚染水がジャジャ漏れになっているというのに,政府自民党は「知らぬ勘兵衛」を決め込むつもりなのでしょうか。それどころではない,都知事選と国会対応で手一杯である・・・と。

 都知事選も国会も,相変わらず,確たる事実確認もないままのフィクショナルな議論が展開している。もっと言ってしまえば,嘘のかため合い。その典型的な事例が「原発がなければ経済は立ち行かない」「原発は安全で,もっともコストが安い」。もう,耳にタコができてしまった「嘘の固まり」。そのうち,それが「当たり前」,つまり,本当の話(事実)になってしまいそうだ(もう,すでに,そうなってしまった国民は少なくない)。

 憲法改定論議といい,特定秘密保護法といい,TPPといい,原発再稼働+輸出といい,靖国参拝問題といい,中韓関係といい,再軍備といい,国民の右傾化といい,いま,日本という国家は日々「メルトダウン」に向かってまっしぐら。ジャン=ピエール・デュピュイのいう「破局」論が,いまさらのように,現実化しつつある。恐ろしいことだ。

 いま,わが国にとって最優先課題であるべきフクイチと放射性廃棄物の問題をないがしろにしたまま,原発再稼働も東京五輪もあったものではない。そのフクイチがますます悪化の一途をたどっているというのに,そして,福島の少年たちは「どうせ俺たちはガンで死ぬのだから・・・」と未来のない,いや,未来が過去になってしまった情況を生きているというのに・・・・。そう,未来完了形の「生」を。

 未来完了形の人生というものがどういうものか,という想像力がいまわたしたちに問われている。そして,飛び出そう,なにからなにまでがんじがらめにされてしまった「科学的合理性」という悪夢の外に。

 こんなことを,今日も考えつづけることになる。いま,を生きるために。

〔追記〕
今日(31日)になって,もう一度,記者会見の模様を映像で確認しようと思って探してみましたが,どこにも見当たりません。昨夜のあの映像はどこに行ってしまったのでしょう。30日(木)の『東京新聞』朝刊一面トップの記事と,どこかで連動しているのだろうか,と勘繰っています。その記事によれば,NHKは,ラジオのレギュラー番組を約20年間担当してきた中北徹(東洋大学教授)氏の予定原稿にあった「経済学の視点からリスクをゼロにできるのは原発を止めること」などというコメントに対して,「都知事選中はこの問題に触れるな」とチェックをかけたといいます。中北氏は強く抗議して番組を降板した,とのことです。NHKが,安倍派の新会長を迎えて,いよいよ政府御用達しの専属放送局へと舵を切ったということなのでしょうか。これまでも陰湿に反権力に対するプレッシャーはかかっていましたが,いよいよ本格的になってきたのでしょう。ですから,YouTubeに投稿された映像が,途中で消えてしまうことは,これまでにもたびたびあったことですので,なんの不思議もありません。これが,いま,日本で起きている現実です。政権の右翼化が急ピッチで進み,そこに「自発的」に「隷従」して,美味しい汁を吸う輩がわんさと群れをなしている,ということです。その動きに国民の多くも便乗し,美味しい汁を求めて右翼化が急速に進展しています。困ったことですが,それが現実です。

こうなると,なにがなんでも,とりあえずは「脱原発」知事を誕生させることが不可欠となってきました。さて,都民の選択はいずこへ?
 

2013年12月31日火曜日

鎌田東二著『聖地感覚』(角川ソフィア文庫,2013年)を読む。「生態智」を提言。

 小学生から大学生になるまでの間,わたしは田舎の小さな禅寺で育った。だから,寺というものの存在の仕方を内側から肌で感じ取り,無意識のうちに骨肉化していたように思う。それはどういうことかというと,寺の境内にはさまざまなパワー・スポットがあって,そこに近づくことを忌避したり,ときには惹きつけられたりする。そういう感覚が,いわゆるふつうの仕舞屋(しもたや)で育った人たちよりもほんの少しだけ敏感なような気がする。

 わたしくらいの年代の人であれば,子どものころに感じた鎮守の森の神秘感を記憶しているに違いない。かつての神社や寺院は,どこもこんもりとした森につつまれていた。そこには一種異様な空気が流れていた。それをわたしたち子どもは日常的に感じ取っていた。そこは通俗的な世間の空間とは異なる神秘の宿る聖なる空間だった。それを感じ取る感覚,すなわち「聖地感覚」。

 この神秘の源泉であった鎮守の森が伐採され,社殿や寺院が明るくなったことによって,わたしたちの「聖地感覚」が鈍麻されてしまった。その結果,こんにちの子どもたちは,わたしたちとは異なる,まったく別種の,言ってしまえばサイエンティフィックな「聖地感覚」が育っているらしい。その元凶はなにを隠そう,敗戦後のアメリカによる占領政策のもとで展開された生活の合理化運動が,いまとなっては大きな影を落としているように思う。

 それはともかくとして,鎌田東二さんは人間が自然と真っ正面から向き合ったときにおのずから生ずる「聖地感覚」を取り戻すことが,とりわけ,「3・11」以後の日本人にとっては不可欠であり,喫緊の課題である,と熱っぽく説く。そのエッセンスがびっしりと詰め込まれた本,それがこの『聖地感覚』である。

 鎌田さんの主張する「聖地感覚」は,ひとことで言えば「生態智」(エコソフィア)だという。そして,このことばを以下のように定義づけている。

「生態智」とは,「自然に対する深く慎ましい畏怖・畏敬の念に基づく,暮らしの中での鋭敏な観察と経験によって練り上げられた,自然と人工との持続可能な創造的バランス維持システムの技法と知恵」であるとわたしは定義している。

 そして,そのような定義にいたるプロセスを,さまざまなフィールドワークをとおしてからだで感じ取れるようになってきたことを力説している。その一部を紹介しておくと,以下のとおりである。

 理性知よりも,もっと深く大きな身体知というものに目覚めるだろう。ニーチェは『ツァラトゥストラかく語りき』の中で,「身体は大きな理性」だと語ったが,まさに頭脳の中の小さな理性を超え,それを包み込む「大きな理性」としての「身体理性=身体知」に目覚めるだろう。そして,その「身体知」がこの宇宙・世界・自然の中にある脈動・律動・情動をクリアに感じとり,察知し,洞察する中で「生態智」を学び,わがものとしていくのだということがよくわかってきた。

 わたしたちがいま享受てしいる現代文明の対極に位置づくもの,それが「生態智」だ。現代文明が「理性知」を求めつづけた結果が,「3・11」となって現出した。だから,そこから思い切って舵を切り直し,いま一度,見失ってしまった「身体知」をとりもどし,その「身体知」をとおして宇宙・世界・自然と交信・共鳴・共振させることによって「生態智」を学び,わがものとしていこう,と鎌田東二さんは力説する。

 この本を読みながら,もうずいぶん昔のことになるが,スポーツ史学会のシンポジウムにお招きして,お話を伺ったことがある。そのとき,石笛を鳴らして聞かせてくれた。人工的な手がひとつも加えられていない,自然のままの穴の開いた石,その石に人の息を吹き込むことによって自然の石が蘇生する。その音色のなんと神秘的なことであったことか。

 この自分のからだから出る息を吹き込むことによって自然の石が鳴り響く。この音をとおして,わたしのからだと自然とが交信をはじめ,やがて一体化していく。これは単なる自然回帰ではない。それは新たなる自然存在としての人間のあり方への道を拓くものだ。わたしの関心事に引きつけて言わせてもらえば,近代の臨界点をかろうじて通過したのちの,後近代を生きる人間の存在様態を指し示すものだ。鎌田東二さんのまなざしはまぎれもなくそこに向かっている。

 大づかみに言うと,この本はそういう本だ。しかも,奥の深い本だ。したがって,この本の細部については,また,機会を改めて書いてみたいと思っている。とりわけ,第三章 聖なる場所の秘密,一.三輪山──「ミワ」という聖地感覚の秘密,については詳細に分析してみたいと考えている。まったく新たな三輪山論が展開されていて,興味津々である。わたしの追っている野見宿禰論にも大きな影響力を与えずにはすまされない,強烈な仮説の提示である。

 まずは,鎌田東二さんの「生態智」の提案に,じっくりと耳を傾けてほしい。お薦めである。
 

2013年9月7日土曜日

”Emergency Without End” ”Neverending Crisis” 肝に銘ずべし。

 『世界』10月号がとどいた。

特集・イチエフ 未収束の危機──汚染水・高線量との苦闘,とある。
 恥ずかしながら「イチエフ」ということばを知らなかったので,一瞬とまどったが,すぐに「フクイチ」のことだとわかった。しかし,なぜ,『世界』の編集者たちは「イチエフ」というのか。

 こういうときには,すぐに調べてみるにかぎる。
 『ルポ イチエフ』福島第一原発レベル7の現場,布施祐仁著,岩波書店,2012年9月刊。
 放射能汚染のなか,原発事故の現場で作業にあたる原発作業員が「イチエフ」と呼ぶ福島第一原発。なぜ,改善されない劣悪な労働環境,横行する違法派遣・請負,労災隠し,危険手当さえピンハネされる,それでもなぜ彼らは働くのか。「誰かがやらなければいけない仕事」にあたる作業員数十名の肉声を伝える。

 東京新聞(2012年11月3日),朝日新聞(2012年12月9日)の両紙が書評で取り上げる。
 第18回平和・協同ジャーナリスト基金賞(2012年),とある。

 そういえば,ひところ話題になった本であったことを思い出す。読まなくては・・・と思いつつ,なにかにまぎれていつしか忘れてしまっていた。情けない。反省。

 『世界』がとどくのを,じつは,毎月楽しみにしている。表紙をみただけで,今月はひときわ充実していると直観。特集の他にはつぎのような見出しが表紙に躍っている。
 〇歴史認識問題と戦後補償──歴史の新しい舞台に立つために
 〇対談・あらゆる知恵で「改憲」「身売り」をしのぎ生きぬく(西谷修・小森陽一)
 〇レスター・ブラウン:ピーク・ウォーターという危機

 とっくに締め切りのきている原稿をそっちのけにして,『世界』10月号にしがみつく。
 まっさきに読むのは「編集後記」(編集長・清宮美稚子)。毎号,文体まで工夫したりして,きめ細やかな気配りと鋭い切れ味が心地よい。その清宮さんの文章のなかに,このブログの見出しのことばがでてきて,わたしのこころが凍りついた。

 もう一度,挙げておこう。
 汚染水問題は,海外でも”Emergency Without End” ”Neverending Crisis”などと大きく報じられている。──中略。国際的大問題になっていることに私たちはいまだ鈍感なのではないか。政府は,原発被災者の救済とともに,汚染水などイチエフの事故処理に全力で取り組むことが急務であり,そのための識者の提言(たとえば本号筒井氏)を真剣に受け止めるべきである。再稼働も原発輸出も「正気の沙汰ではない」のは言うまでもない。

 その「正気の沙汰ではない」人たちが,「五輪招致レース」(このことば自体に,鳥肌の立つほどの違和感を覚える)に血眼になっている。その結果やいかに,とメディアも血眼になっている。日本時間の明日の早朝(8日午前5時ごろ)には投票結果が判明するとか。徹夜で報道の構えをみせているところもあるらしい。愚の骨頂。それに躍らされる国民の多くもまた困ったものだ。

 自分の愚かさは必死で隠すし,忘れようとする防衛本能のようなものがあるので,ほとんどの人は気づかないでいる。しかし,他人の愚かさは,手にとるようにわかる。

 ピエール・ルジャンドルの本に『西洋が西洋について見ないでいること』(森元庸介訳,以文社)という書名のものがある。ドグマ人類学を説くルジャンドルらしい,まことに当を得た書名である。しかし,ルジャンドルはフランス人として「西洋が西洋について見ないでいること」という,ある意味では自己批判として,この問題を提起している。残念ながら,日本の「正気の沙汰ではない」人たちは,イチエフ隠しのために,そして,国民を目隠しにするためのまことに都合のいいツールとして「五輪招致レース」に血眼になっている。

 いずれ詳しく書くつもりでいるが,「五輪招致レース」なるまことに馬鹿げた狂想曲を演奏する管弦楽団の一員になることが,いかに「愚の骨頂」であるか,と書くとこれまた「国賊」として呼びすてにされてしまうに違いない。「正気の沙汰ではない」人たちが日本のトップに立つ,恐るべき時代を生きぬくために,では,わたしたちはどうすればいいのか。

 西谷修・小森陽一対談:あらゆる知恵で「改憲」「身売り」をしのぎ生きぬく,から読みはじめるとするか。「あらゆる知恵」に期待して。

 今夜,徹夜する人たちに告ぐ。今夜の狂想曲は,世界中の「正気の沙汰ではない」人たちによって演奏されるものであることを,じっくりと見届けていただきたい,と。

2013年8月28日水曜日

フクシマの放射性物質が太平洋に流出する10年間のシミュレーションにショック。

 昨日(27日)のブログを書いたあと,それとなくあちこちネット・サーフィンをしていたら,「太平洋#放射能汚染10年間予想図」(#Fukushima PacificSea#Radiarion Cintaminated)というブログに出会いました。細かな情報については,いろいろと意見があろうかとおもいます。が,このシミュレーションをみるかぎだでは,こんなことが予想されているのかと驚くべきフクシマの成り行きと環太平洋諸国の反応について,じっと考え込んでしまいました。

 このとおりに進行するかどうかはわたしには判断できません。しかし,ある条件を整えて,コンピュータにお伺いを立ててみるとこうなるというシミュレーションには,それなりの説得力があります。ですから,それをみるわたしたちには,それはまるで真実であるかのような印象を与えます。そして,それに対して積極的な「ノー」を突きつけることも不可能です。

 これによりますと,フクシマから流出する放射性物質は丸3年でアメリカ西海岸に到達します。しかも,5,6年を経過しますと,高濃度放射性物質は,日本の東海岸では薄くなり,逆にアメリカ西海岸に溜まることになる,と予想しています。これは単なるシミュレーションですから,そのまま事実と考える必要はありません。こうなる可能性を予測しているだけの話です。

 それにしても,来年の3月には,日本の太平洋側の海よりもアメリカ西海岸の方が放射性物質の濃度が高くなる,と予測しています。いまのところ,You Tube でアップされていますので,ぜひ一度,チェックを入れてみてください。10年後には東シナ海はもとより,日本海側も,完全に汚染されると予想されています。

 意外だったのは,海流の影響で4年後くらいから日本の太平洋側は放射性物質が薄くなり,それ以前の状態に一時的になる,というシミュレーションでした。でも,すぐに太平洋を一巡した汚染海水が5年後からは日本の太平洋側に流れ込んできて,平均値的な汚染度を示しています。しかし,相変わらず,アメリカの西海岸の海水の汚染度はもっとも高いまま,変化はしないとシミュレーションは示しています。つまり,吹き溜まり状態になる,と。

 この状態はやがて太平洋から外に広がって行って,大西洋に流れ込み,またたく間に地球上のすべての海洋がフクシマの放射性物質によって汚染されていくことになります。それが,どのくらいの時間でそうなるのかは,わたしには想定できません。しかし,放射性物質の半減期は驚くほど長いので,まず,間違いなくフクシマから流出している放射性物質が全世界を覆い尽くすことは間違いありません。それが,どのくらいの濃度になるのかは,まさに,現状で食い止めることができるのか,それとも,手のつけようがなくなって,「垂れ流し」状態になるのか,それによってまったく違った情況が生まれることになります。

 でも,現段階では,フクシマから流れ出る放射性物質の質・量ともに,厳密には掌握されていません。じつは,わかっているはずなのに,わたしたち国民には明らかにされていないだけのことかも知れません。でも,外国向けの情報はもっと現実に近いデータが明らかにされているのかも知れません。そうではなくて,わたしたちが熟慮するための精確なデータを明らかにしてほしいものです。にもかかわらず,どこかで歯止めがかかっていて,情報はあいまいなままです。

 そのことを考えると,最悪の場合には,もっともっと,とんでもなく劣悪な流出が起きているのかも知れません。それは,現段階では,神様のみが知る事実でしかありません。わたしたちは残念ながらおろおろしながら,ただ,ぼんやりと推測する以外にはないのです。ここが,情けないところです。しかし,いずれにしても,最悪の困った事態はみんなで分けもつしかないのですから,早めに精確なデータを明らかにしてほしいものです。

 しかし,そうはさせないぞ,という勢力があって,いまは膠着状態になっています。この状態から一刻も早く脱出する必要があります。そのためには,現政権にあれほどの多数を与えた国民側の間違いであったという反省に立つしかありません。

 選挙はわたしたちの命綱です。妙な妥協に屈することなく,しっかりとした歴史的展望にもとづく,きびしい政権批判を展開していく以外にはありません。

 なんとまあ,生きにくい時代になってきたものか,と日々ため息をついています。
 では,今日のところはここまで。





2013年8月22日木曜日

「レベル3」相当のフクシマに全力投球を。国家の存亡にかかわる一大事。

ヒロシマ・ナガサキと同様に,世界史に深い爪痕を残すことになったフクシマ原発の大事故に対して,早々に収束宣言をして,なにごともなかったかのようにしてしまおうとする原子力ムラの努力もむなしく,「レベル3」相当の事態が明るみにされた。驚くべきことは,この「レベル3」相当の事態に対してすら,具体的な対応策がなにも提示されない,この牛歩のようなフットワークの悪さである。つまり,ネコの首に鈴をつけるネズミが一匹もいないのである。

 いますぐにでも,特別プロジェクト・チームを結成して,総点検にとりかかるべきではないのか。下請けの下請けの,そのまた下請けの・・・という信じられないような作業員確保のシステムからして,まことに不可解である。むかしながらの「手配師」が徘徊して,甘い汁を吸わせつづけるこのシステムからの脱出も急務だというのに,ここにも手をつけようとはしない。

 今回の「レベル3」相当の「事故」は,東電のとってきた,こうしたルーズな組織・管理にその根があることは間違いない。だれも責任をとらない・・・・ゆるゆるのシステム。責任を追求しようにも,どこかでわけがわからなくなるようにその「抜け道」まで完備している,とも聞く。

 今朝(22日)の『東京新聞』は一面トップで高濃度汚染水漏えい問題をとりあげている。この情報によるかぎりでは,まことにお粗末な,信じられない事態の出現である。こんなことがこれまで放置されたままであったということ,そのことが信じられない。これが日本のトップをゆく大企業・東京電力のガバナンス(管理能力)のレベルだと知るとき,もはや夢も希望もいだけなくなってしまう。それに対応する政府も,みてみぬふりをしている,としかいいようがない。

 新聞記事の冒頭のつかみの文章をそのまま転記しておこう。
 まず,見出しは,大きな文字順に「堰の排水弁すべて開放」「海に流出 可能性大」「タンク汚染水漏れ」とあり,本文はつぎのようにはじまる。
 「東京電力福島第一原発のタンクから三百トンの汚染水が漏れた問題で,東電は,ほとんどのタンク群の周りに水を食い止めるコンクリート製の堰を設けたのに排水弁をすべて開けていたことが分った。今回の漏出事故では,大量の汚染水が排水弁から堰の外に漏れ,土のうを越え,近くの排水溝から海に汚染が広がった可能性が高い。」

 これまでの政府や東電の対応から考えて,今回のこの問題は,おそらく氷山の一角にすぎないだろう。なぜなら,隠せるものはすべて隠し,水蒸気が上がった,というような目にみえてしまったときにだけ,苦し紛れの弁明を繰り返してきたことをわたしたちはいやというほど知っているからだ。しかも,フクシマ関連の本はありあまるほど出回っている。それらのうちの信頼できる専門家の見解によれば,フクシマはいまもなおなにが起きてもおかしくない状態がつづいている,しかも,事故の核心部分に対する具体的で効果的な方策はなにもない,という。つまり,手も足も出せない状態がいまもつづいているのだ,という。そして,なぜ,こういう状態がつづいているのかも,確たる根拠を示して説明することもできないのだ,という。この不思議な均衡状態は,たまたま起きているにすぎない,と。

 だから,わたしは手も足もだせないといわれる原発の危機状態の行方にばかり意識を向けていた。ところが,である。素人のわたしがみても,「堰の排水弁すべて開放」などというまことに稚拙な管理しかなされていなかった,いや,放置に等しい管理しかなされていなかった,というこの事実に愕然としてしまう。つまり,最悪の「手抜き」である。これが現実なのかと知ると,もはや,東電という会社は機能していないとしかいいようがなくなる。存在していること自体が「悪」である。一刻も早く解体して,別組織にしないことには,「悪」は「悪」を再生産するという「悪」の連鎖から抜け出すことはできない。(全柔連のように。こちは,ようやく外部役員を導入して人事を刷新した。こんごのゆくえを見守りたい。この情報も今朝の新聞による。)


 こんな杜撰な管理で海が汚染されてしまうのでは,福島の漁師さんたちはたまったものではない。それどころか,関東から東北・北海道にかけての太平洋側の全域の漁師さんたちの顔は真っ青になってしまう。わたしが漁師だったらいても立ってもいられない。暴動だって起こしかねない。そんな気分である。

 このほかにも汚染水が海洋に流れ込んでいる可能性があるという。それがどのくらいなのかも,まったく不明だという。地下に染み込んでしまった汚染水がどのようにして海に流れ込んでいるのか,そのルートすら定かではないという。こうなると,フクシマは収束どころか,半永久的に汚染水を垂れ流すしか方法がないというのが現実なのだ,ということを再認識しなくてはならない。

 だとすれば,フクシマの汚染水はいずれは太平洋をくまなく回遊することになってしまう。もし,そんな事態になってしまったとしたら,日本はどういう責任のとり方をすればいいのだろうか。もう,気の遠くなるような事態がいまも無策のまま着々と進展している。にもかかわらず,日本の原発は安全だからといって世界に売り込みに歩く安倍首相の真意をはかりかねる。わたしの感覚では,もはや,狂気の商人としかいいようがないのだが・・・・。

 「レベル3」相当の「事故」が起きているのに,国民の目を経済政策に釘付けにし,社会保障制度や増税に惹きつけ,なにがなんでも「目くらまし」をかましつづけて逃げ切りをはかろうとしている政府自民党の責任は重大である。わたしたちはこの現実を直視し,きびしく監視をつづけ,できるところから行動を起こすしかない。その意志表示すらあきらめてしまったら,もはや政府自民党の思う壺になってしまう。それだけは回避しなくてはならない。

 少なくとも「東京オリンピック」どころの話ではない。もっとも,この事態の出現によって,3都市が,完全に「横並び」になったことは間違いない。

 いずれにしろ,国家の存亡にかかわる一大事だという認識たけは共有しておきたいとおもう。

2013年6月9日日曜日

玄侑宗求著『光の山』(新潮社,2013年4月刊)を読む。「3・11」を風化させないために。

 玄侑宗求さんが「3・11」以後を生きる福島(と思われる)の人びとの苦悩を描いた短編小説集。これまでにいろいろな雑誌に発表してきた6本の短編を一冊の本にまとめたもの。わたしにとってはいささか衝撃的な作品ばかりでした。

 気がつけば,「3・11」という記号(文字)がいつのまにかすっかり後退してしまっています。つまり,別の新しい話題の陰に隠れてしまい,あまり見かけなくなっています。ということは,当然のことながら,わたしたちの意識のなかからも,いつのまにか風化しはじめています。そして,遠い過去のことのような錯覚に陥りつつあります。

 なにを隠そう,このわたし自身がそうなってしまっている,ということにこの短編小説を読んで気づいた次第です。人間はいやなことを忘れたがる,そういう性質をもっています。そして,上手に忘れることができるからこそ生きていかれる,ともいいます。しかし,さっさと忘れてしまった方がいい記憶と,それとは逆に忘れてはならない記憶とは,当然ながら区別しなくてはなりません。「3・11」の記憶は,貴重な教訓としていつまでも忘れてはならない記憶だとわたしは考えています。ですから,その記憶の風化防止のためにも,この玄侑さんの書かれた短編小説集は,とても重要だとおもいます。

 わたしは,この小説集を読み終えてすぐに,「3・11」以後の被災者たちが,いま,どんな情況のもとで,どんな気持ちで生きているのか,その現実をどの程度まで理解しているのか,とみずからに問うてみました。情けないことに,新聞やテレビでちらりと見かける程度のことしか知りません。そして,あとは想像力をはたらかせて,たぶん,こんな情況で,こんな気持ちで生きているんだろうなぁ,とほんの少しだけ思い描く程度で済ませてきました。ですから,被災者の人たちの「痛み」を感じ取り,分かち合うという,経験を情動レベルの感覚で共有するということもほとんどしないまま,日々の雑用に明け暮れている,というのが情けないことにありのままの姿です。

 いわずとしれた玄侑宗求さんは,福島県三春町の福聚寺(臨済宗妙心寺派)の住職として,町の人びととともに「3・11」以後を生きる苦悩と向き合い,ともに考え,ともに試行錯誤しながら助け合って生きているお坊さんです。僧侶として,また,作家として,いま,なにをすべきかを厳しくみずからに問いかけながら,必死で生きている人です。つまり,土地に根をおろして,そこからすべての思考も行動も立ち上げるのだ,と覚悟して。当然のことながら,セシュウムに汚染されることも覚悟の上で。

 そんな中で,刻々と情況が変化しつづける人びとの暮らしぶりを,玄侑さんは私情を極力抑え,短編小説という形式に託してわたしたちにある重要なメッセージを送りつづけています。しかし,所詮は小説ではないかという人がいます。それは違うとおもいます。小説だからこそ伝わるものがあります。あるいは,小説でなければ伝えられないものもあります。とりわけ,一人ひとりが内面に抱え込んでいる苦悩を,マス・メディアのジャーナリスティックな文章でとらえるには限界があります。つまり,作家とはそこを超えていく才能をもった人びとなのだ,とわたしは考えています。わけても玄侑さんの描く被災者の人たちの苦悩は,同時に,玄侑さんみずからの苦悩でもあります。ですから,つねに体験を共有し,分かち合う人としての心情がつたわってきます。

 たとえば,「アメンボ」という短編があります。その作品のなかでは,セシュウムに対する認識の仕方や感性,そしてそれにともなう対応の仕方の違いが夫婦の間に亀裂を生み,やがて別居し,離婚していくという,そのプロセスを丹念に追っています。夫はインターネットを使って丹念にセシュウムの量とその影響についての情報を収集し,分析しながら,現状と真っ正面から向き合いながら,ぎりぎりまで汚染地域で生きる道を選択しています。しかし,妻は頭からセシュウムを有害と決めつけ,拒絶反応を示します。とりわけ,小さな子どものためによくないと考え,子どもをつれて北海道に移住します。時折,帰ってくるけれども長居はしない。そうして,何回もの話し合いが積み上げられていきますが,どうしても共有できるものが見つけられないまま,つまり,折り合いがつかないまま,最後には離婚という選択肢に追い込まれていきます。そんな夫婦を,もう一組の夫婦が見守ります。妻同士が子どものときから仲良しなので,この二組の夫婦も最初から親しいお付き合いをしてきました。が,そのお付き合いも「3・11」以後,ぎくしゃくしはじめます。もう一方の夫婦は,夫ががんこで無神経で,一見したところ独断的でいい加減なようにみえるけれども,それが逆に救いとなっていて,セシュウムに対しても楽観的に向き合っていきます。妻もまた,夫のいうとおりに,ほどほどに距離を保ちながらも,上手に妥協しながら波長を合わせていく。それだけの許容量の広さに助けられて,こちらの夫婦は安泰。

 二年目の夏のある日に北海道から一時帰宅(といっても仮説住宅)したときに,この二組の夫婦は家が無事だった夫婦の家で夕食を囲んだり,子どもたちを連れて水遊びに連れていったりする。表向きはどこもぶつかる問題はなく,さも楽しそうな会話がはずむ。なのに,つねにどこかでお互いに話を踏み込まないように配慮したり,そのために話にスレ違いが起きたり,淀んだ空気が流れ,いつしか重くなる。たまたま,話題が水たまりに棲むアメンボのことばの由来の話になります。いろいろの説が飛び交いますが,舐めると甘いからだ,というところに落ち着きます。それを聞いたセシュウムに対しておおらかな夫婦の方の子どもが,翌日,手水鉢のなかを泳いでいるアメンボをつかまえて口にふくみます。それをみていた北海道に移住している妻の友人が,飛び掛かるようにしてその子どもを押さえ込み,口に指をつっこんでアメンボを吐き出させようとします。それをみた夫が妻をうしろからはがい締めにして,その家の子どもを解放します。この場面が,この短編小説のひとつのクライマックスになっています。つまり,友人の子どもであっても/友人の子どもだからこそ,セシュウムに汚染されたアメンボを口にふくむ行為は許せない,そういう濃密な人間関係の背後にある,ぬきさしならない価値観の違いが引き起こす衝突/葛藤が日常化していることを,玄侑さんはわたしたちに問題提起します。その背景には,「絆」などという甘っちょろいキー・ワードなどでは,なんの問題解決にもならないという,ふつふつとわき上がる,こころの奥深くに潜む憤りのようなものさえ,わたしには伝わってきました。

 その事件の起きた翌日,離婚届に夫はしぶしぶ印鑑を押します。そのまま,妻は友人との別れの挨拶もせず,黙って北海道に帰っていきます。なんともやりきれない気分だけが,わたしのこころに残りました。

 こうした,セシュウムをめぐる,ほんのちょっとした感性の違いが,人と人との関係に亀裂を生じさせ,分断させることが日常的に展開している,という事実の前でわたしは無力のまま呆然としてしまいます。事態はそれだけではありません。こうした亀裂や分断は,さらに日常的に細分化され,分節化され,その密度がますます高まっていく社会を生きなければならない,この現実をどう考えればいいのか,と玄侑さんは問題をわたしたちに投げ返してきます。そこは答えのない長いトンネルのなかのようなものです。好むと好まざるとに関係なく,じわじわとそういう情況のなかにみんな飲み込まれていく,そんな重い空気が淀んでいることを,玄侑さんは淡々と,小説という形式を借りてわたしたちの前に提示してきます。

 人が生きるとはどういうことなのか,というもっとも根源的な問いを玄侑さんはわたしたちに突きつけてきます。そんな風に,わたしはこの短編小説集を読みました。

 短編集のタイトルともなっている最後の作品「光の山」は,汚染された土や瓦礫を掻き集めてできあがった山が,40年後に,忽然と光り輝きはじめる,というSFもどきの物語になっています。なんだか空恐ろしくなる,みごとな短編です。

 わたしたちは「3・11」の記憶を風化させないためにも,こうした玄侑さんのような作家が描く作品と,たえず接点をもち,考えつづけることが重要なのだ,といまさらながら考えさせられました。短編集なので,どこから読んでもいいし,いつでも,思い出したら,その日の気分でそのうちのひとつを選んで読むこともできます。ぜひ,座右の書のひとつに加えておきたい,とわたしは思いました。

2013年4月11日木曜日

山田詠美著『明日死ぬかも知れない自分,そしてあなたたち』(幻冬舎,2013年2月刊)を読む。いま,読むべき本。

  「3・11」を契機にして,まっとうにものごとを考えるようになった人,付和雷同して多数派に与するだけの人,わが身の保全のためにのみ走る人,メディア情報に振り回されている人,どうにでもなれと自棄っぱちになっている人,その他,信じられない言動をする人たち,等々,まるで箍が外れてしまった日本人が百花繚乱です。

 それはごく普通の日常生活を営んでいる日本人から,ありとあらゆる専門職に従事している人びとを含むすべての日本人を,そっくりそのまま,丸飲みにしたまま流れ去る巨大なツナミの光景と二重写しになって,見えてきます。あらゆるものが「破局」(ピエール・デュビュイ)を迎え,なすすべもないまま大海原を漂流するしかない,みじめな難民になってしまった・・・・。その自覚があるかどうかはともかくとして・・・・。

 もっと先にあると思い描いてきた美しい「未来」は,たんなる「幻想」にすぎないということが露呈してしまい,「未来」のゴールは「破局」でしかなかった,という現実をつきつけられ,わたしたちは,いま,なすすべも見出せないまま右往左往するしかないのです。そういう結果のでてしまった「未来」をいまわたしたちは生かされている・・・・。なんとも辛く重い日々でしかありません。

 作家の世界も例外ではありません。「3・11」を真っ正面に見据えつつ,つまり,「破局」を見据えつつ,みずからの文学世界をさらに大きく切り開くために,挑戦的に新しいテーマに向って,最大限の努力を傾ける作家もあれば,「3・11」など,どこ吹く風とばかりに面白おかしく売れればいいという売文稼業に専念する作家まで,これまた百花繚乱ではないか,とわたしの眼には写ります。

 そんな中で,わたしが信をおく作家のひとり,山田詠美の最新作がどんなものか気がかりになっていました。彼女が,いま,この時代といかに向き合いつつ,みずからの文学世界を構築しようとしているのか,ずっと気になっていました。たまたま覗いてみた本屋さんに平積みになっていた本の山のなかに,このテクスト『明日死ぬかも知れない自分,そしてあなたたち』を見つけ,内容を確認することもしないで,タイトルから閃く直観を頼りに,即購入しました。が,ここしばらくの間,なにかと雑用に取り紛れていて読むことなく机の上に横になったままでした。

 今日,たまたま,中途半端な時間ができたのをいいことに,早速,開いてみました。そこには,予想をはるかに越える,わたしの待ち望んだエイミー・ワールドが広がっていました。『跪いてわたしの足をお舐め』以来のエイミー・ワールドは健在なまま,まさに,「3・11」を通過したいましかないというタイミングを測ったかのように,山田詠美はこの作品を世に問うている,とわたしには伝わってきました。

 結論から言ってしまえば,途中から恐ろしくなって鳥肌が立つ,そういう身体感覚まで引き起こす,これはまさに「破局」をテーマに据えた傑作です。「3・11」後の日本の社会に起きているさまざまな「崩壊」現象を,なかでも,だれもが理想として思い描いてきた「家族神話」がもののみごとに崩壊していくさまを,じつに的確に描いてみせます。

 わたしはかねてから「3・11」以後,日本人のこころの箍がはずれてしまって,これまでに経験したことのない「破局」が,社会の裏側のみえない奥深くで,だれも気づかないまま,無意識のうちに進行しているという妙な予感をいだいていました。しかも,まだ大丈夫,まだ大丈夫と思っているうちに,その現象はとどめようもなく進行し,気づいたときにはすでに「手遅れ」だった,というような進みゆきとして感じていました。それが,どこからくるのか,そのためにはなにをなすべきか,わたしなりにあれこれ思い描いてきました。

 その「解」のひとつを,作家・山田詠美は『明日死ぬかも知れない自分,そしてあなたたち』という作品をとおして提示している,とわたしは受け止めました。一見したところ,周囲のだれもが羨むような平和で幸せいっぱいの生活をしていると思われていた家族が,じつは,それはたんなる虚構にすぎなかった,という実態をもののみごとに描いてみせます。山田詠美の作家魂がじかに伝わってきます。

 この作品の冒頭は,じつに暗示的な,つぎのような文章ではじまります。
 「人生よ,私を楽しませてくれてありがとう。母方の曾祖母は,96歳で息を引き取る間際,愛用のスケッチブックにそう書き残した。そのラストメッセージは,彼女と関わりを持つすべての人々に語り継がれて行き,理想的な人生を締めくくったひと言として羨望の溜息と共に受け止められた,らしい。天晴れな終わり方よねえ,とまるで立志伝中の人物について語るような調子を耳にしたのは一度や二度ではない。そのたびに,そうか,と私は思う。皆,満足の行くように長生きをしてからこの世を去りたいのだな,と。そして,それをやってのけた曾祖母にあやかりたいと願っている。幸せな長い一生の,幸せな完結。それを自覚しながら死ぬのを最大の目標として,今を生きる。ああ,素晴らしきかな,人生。」

 この作品のあらすじを紹介するのはやめておきます。それは野暮というものです。ただ,ひとことだけ。家族の期待の星,長男が落雷に会って突然死する。そこから,家族全員で演じてきた「幸せ家族」という芝居に亀裂が走り,だれが悪いわけでもなく(その自覚もないまま),家族の崩壊がはじまり,ついに「破局」を迎える。この「落雷」という自然災害にはじまる人間の崩壊,そして,破局が,そのまま「ツナミ」のイメージと重なっていきます。

 もうひとことだけ。お互いにホンネをひとことも語ることなく,つまり,非合理な魂の触れ合いを忌避して,合理的で,理性的に「正しい」とされる言動に支配されてしまった現代の「幸福家族」,その「未来」は「破局」しかない,という作者・山田詠美の声がどこかから聞こえてきます。それは,わたしの空耳なのでしょうか。

 かつてエイミーは「猫の眼で眺めてごらん。世の中,おかしなことばかりだよ」と書いたことがあった。animal から anima を取り除いてしまったら,それはもはや,animal とはいえない。人間もまた一匹の animal なのだから。anima を喪失してしまった人間は,もはや,人間とはいえない。

 いま,必要なことは「animate」することだ,と講義の最後にちらりと触れたN教授のことばが,いまさらのようにわたしの耳に鳴り響いてきます。土で作った人形(ひとがた)に,神さまが「魂を吹き込」んだことによって「人間」が誕生した,という聖書の一節も想起されます。

 もう一度,人間の「原点」に立ち返って,やり直すしか道(方法)はないのだろう,というのがわたしの読後の感想です。

 久々の山田詠美の傑作です。ぜひ,ご一読を。

2012年11月11日日曜日

「原発廃炉 経済的にも正しい」・城南信金シンクタンクにエールを。

  11月9日付けの『東京新聞』朝刊一面に,「原発廃炉 経済的にも正しい」という見出し記事が報じられています。情報の出どこは城南信用金庫のシンクタンク「城南総合研究所」(9日付けで本店企画部内に設立)。

 城南信用金庫といえば,「3・11」後に,いちはやく「脱原発」宣言をした金融機関として一躍有名になりました。正確にいえば,吉原毅理事長の強力なリーダーシップのもと,昨年4月に,「原発に頼らない安心できる社会」を目指す,という基本方針を発表しました。金融機関が「脱原発」を経営のコンセプトに据えて,全面展開をしているのは,おそらく城南信用金庫のほかにはないでしょう。寡聞にして,聞いたことがありません。

 この心意気に感動して,わたしもささやかながら口座を開設して,支援することにしたことはこのブログにも書いたとおりです。

 ですので,今回のシンクタンク「城南総合研究所」の立ち上げは,わたしにとっては大きな朗報でした。しかも,その第一報が「原発廃炉 経済的にも正しい」というリポートだったことも,大いに力づけられるものでした。といいますのも,原発推進派の動きが,最近になってふたたび活性化を始め,なし崩し的に原発再稼働に向って一直線・・・・ついには「もんじゅ」までもが息を吹き返しそうな勢い・・・になってきていたからです。

 民主党は自滅の道をまっしぐら,それを見届けながら,自民党はすでに次期政権に向けて手ぐすねを引いています。第三極も行き先不明・・・。もし,あるとすれば選挙の仕掛け人小沢一郎がどのようなわかりやすい選挙スローガンをかかげるか,だけでしょう。小沢一郎が,思い切って「原発の即時廃止」「再生エネルギーの推進」「日米地位協定の見直し」「尖閣問題の仕切り直し」「TPP拒否」等々の,日本の将来を決する懸案について決然と覚悟を決めるかどうか,ここだけを現段階では注目しています。でも,選挙の小沢は最後まで「だんまり」を決め込んでおいて,最後の最後で「切り札」を使うのだろうなぁ,と勝手な想像をしています。

 こんどの選挙は,なにがなんでも「原発」をどうするのかということについての決着をつけなくてはなりません。そのためには,国民の意志がきちんと反映される受け皿が必要です。その受け皿となるべき政党がいまのところ見当たりません。今日の『東京新聞』の世論調査結果がそれをみごとに映し出しています。つまり,投票したい政党がない,が圧倒的多数です。ここが大問題です。ここを小沢一郎が見逃すはずはない,とこれはもう妄想に近いものがわたしのなかに蠢いています。困ったものではありますが・・・・。ほかに,なにも打つ手がないのですから・・・。

 こういう情況のなかで,城南信用金庫のシンクタンク「城南総合研究所」の設立は,わたしにとってはタイミングのいい朗報だったというわけです。もちろん,ほとんどのメディアが無視するでしょうが,地域経済や中小企業にはそれなりの大きな役割をはたしていることを考えると,このシンクタンクのこれからのリポートには注目したいと思います。

 これまでに公表されてきた原発のコストは,国が支払う交付金も,使用済み核燃料の処理や保管に掛かる費用も含まれていません。これらを原発コストの計算のなかに加えるべきでしょう。そうすれば,原発コストが恐ろしい金額になることはだれの眼にも明らかです。そういうデータを,城南信用金庫のシンクタンクが,これからつぎつぎに提示してくれることを期待したいと思います。

 恐るべき原子力ムラの勢力に対抗して,ひとり孤軍奮戦する城南信用金庫を,これからもささやかながら応援していきたいと考えています。

2012年10月19日金曜日

1票の格差が5倍を越える不平等。選挙制度<違憲状態>(最高裁)からの脱出を。

「3・11」以後,これまでみごとに隠蔽されてきた日本の恥部が,「非常時」の対応のまずさからからつぎつぎに明るみにでてきて,そのあまりにもひどい実態を眼にし(それもまだほんの一部でしかないようだ),もはや打つ手もないのか,と頭を抱え込んでしまいます。毎日,毎日,くる日もくる日も,新聞を眺め,テレビをチェックし,ネット情報をサーフしながら脳裏に浮かぶことは,いまや,日本国および日本人の根幹にかかわる部分からメルトダウンを起こしている,というです。こんなにひどい国だったのか,そして,こんなに駄目な国民だったのか,と。そして,そんなことも知らずにのほほんと生きてきた自らの姿勢を,こころの底から悔やんでいます。

悔やんでばかりいても仕方がないので,遅まきながら,これからは悔やまなくて済むような生き方,行動の仕方,思考の練り直し(とくに,思想・哲学のブラッシュ・アップ)に残りの「生」の時間をそそぎたい,と泥縄のような覚悟をすることにしました。

脱原発への舵切りもできない政治家たち,見て見ぬふりをしつづける沖縄の基地問題に対するヤマトンチュ,省庁をあげての復興予算の分捕り合戦(被災地不在のまま,復興とはなんの関係もない部署に巨額の予算を配分),その復興予算審議で必死になって正当化しようとする政府の「愚」(眼にあまる責任転嫁,官僚の権力に政治家が怯えているとしかいいようがない),検察と司法がぐるになった「茶番」裁判(前福島県知事佐藤栄作久有罪判決,こんな例は山ほどあるという,メディアもそれを批判しない),検察による偽造文書作成,教育委員会をめぐる学校現場の問題(いじめ問題だけではない),肝心要の原子力規制委員会のいい加減さ(人事,役割分担,権限,など),尖閣諸島国有化の「愚」,領土問題をめぐる対応のお粗末さ,などなど。もうすでに,記憶から消え去ってしまったものまで拾えば際限がなくなります。

そんな中で,たった一つだけ,これも遅きに失しているとはいえ,ほんのわずかな光明をみる思いがしていますが,それも儚い幻に終わってしまうのでしょうか。それは,最高裁が出した結論「前回の参院選での一票の格差は<違憲状態>」だと断じたことです。しかも,「このままなら次の選挙は無効」とまで踏み込んだ判事もいたということです。ついでに言っておけば,衆院選での格差もすでに<違憲状態>だと最高裁は断じていることを記憶している人も少なくないでしょう。

もう,いまを去ること何十年前になるでしょうか(調べればわかることですが),一票の格差が2倍を越えたときに,不平等である,違憲だ,という議論が沸き起こりました。が,しかし,この一票の格差是正を解消するための権限をもっているのも,じつは,格差選挙によって選ばれた議員たちです。ですから,自分たちの首を締めるようなことには消極的でした。これまでにも,何回も議論としては持ち上がりますが,そして,具体的な提案もいくつかありましたが,いずれも一長一短で,お互いに叩きつぶしてしまい,改正案の成立をみるまでもなく,ずるずるとこんにちに至っているというわけです。とうとう,いまでは,一票の格差が5倍を越える選挙区まで存在するといいます(鳥取と神奈川)。ということは,2倍を越える格差選挙区はどれほどあるのだろうか,と考えてしまいます。新聞各社はぜひこの際,調べて選挙民に知らせる義務があります(しかし,それすら,いまの大手新聞社はやろうとはしないでしょうが・・・)。こんな失態を許してきたわたしたちが悪いのですが,議員もまた「無責任」のそしりをまぬがれることはできません。

国会議員の選挙制度が最高裁で<違憲状態>だと断じられた上に,このままの選挙は「無効」であるという判事まで現れた以上,このまま放置するわけにはいかないでしょう。それこそ,日本国の根幹にかかわる重大事です。日本人としての見識まで問われる大問題です。おまけに,もう目の前に迫りつつある総選挙も,このままでは「無効」になってしまいかねない,避けては通れない道です。となれば,現行の選挙制度を改正しないことには選挙もできません。民主党政権にとっては渡りに舟かもしれません。またぞろ,選挙制度改正案を提出して,時間稼ぎに走るには絶好のチャンスですから。

でも,この際ですから(ここまでメルトダウンを起こした重篤な事態にあることを考えれば),選挙制度調査特別委員会を立ち上げて,国民のだれもが納得のできる格差を2倍以下に抑える制度を立案・提案してほしいものです(長年の既得権などという議論を切り捨てて)。そして,積年のウミを一気に押し出すことをしないかぎり,国民の意志を国会に正しく反映させることはできません。とりわけ,原発推進か脱原発かを問う選挙になることを考えれば,つまり,日本という国家の命運を懸けた選挙になるということを考えれば,いましか,やるときはないのではないかと思います。それとも<違憲>と言われようが,なんと言われようが,厚顔無恥のいまの政治家たちは,国民の意志を無視して,(時間がないを理由に)現行制度のまま押し切ってしまうのでしょうか。

能面アーティストの柏木裕美さんの作品に「仏の顔も三度」という創作能面があります(柏木さんのブログをご覧ください)。大きな耳のついた,いや,巨大な耳のついた美しく気品のある顔をした小面です。もう,これ以上は許しませんよ,という柏木さんの覚悟が表出しているように思います。わたしたちも,その能面に負けないように,こんどというこんどこそ「覚悟」をもって選挙に立ち向かわなくてはいけないと考えています。

長くなってしまいましたが,今日のところはここまで。

2012年7月29日日曜日

「蛇の生殺しのような世界を生きています」と東北のK市で被災し,仮説住宅で暮らす友人からのメールに接し,絶句。

 朝食時のテレビでニュースをみようと思ったら,いきなり,ロンドン・オリンピックの開会式の映像が流れ,それが延々とつづく。職業柄,一応は見ておかなくてはと思いながら,あれこれメモをとりはじめる。いつからオリンピックの開会式のアトラクションが,こんなに演劇的になったのかなぁ,と考えたり,いったい,なんのために,だれのために,このアトラクションが演出されているのだろうか,と考えたり・・・・。やがて,選手団入場。ただ,漠然と入場行進を眺めているだけ。テレビのナレーションも気が抜けている。退屈してくると,いつしか,このオリンピックの安全を確保するために3万人に及ぶ軍隊,警察,その他の関係者が動員されているんだったなぁ,おまけに地対空ミサイルまで設置されているんだよなァ,と考えたりしている。そして,オリンピックはいまや戦争と同じになってしまったなぁ,などと考えはじめてますます興ざめとなる。なのに,とうとう,3時間もこの映像をみるはめになってしまった。

 これからオリンピックが終わるまで,もっと重要なニュースがあっても,みんなカットされてしまう。あるいは,軽くあしらわれてしまうことになる。そうして,脱原発デモも,国会審議の重要案件も,国際社会の動向も,どこか遠いところに霞んでしまい,人びとの意識から消えてしまう。オリンピックが終わったころには,もう,かつての「茹でガエル」になりはてているだろう。こうして,オリンピックは多くの人の「思考停止」のために大きな貢献をすることになる。つまり,オリンピックはアホの大量生産装置。

 そんなことを考えている折も折,東北のK市で被災し,仮説住宅暮らしを強いられている友人から表記のようなメールがとどく。「蛇の生殺しのような世界を生きています」と。

 いま友人と書いたが,じつは面識はない。わたしの書いたブログにコメントを入れてくれた人で,仮にTさんと呼ぶことにしよう。K市もTさんも,みんな実名で書いた方がいいかなとも考えたが,いつ,どんな形でK市にも,Tさんにもご迷惑をおかけすることになるかわからないと考え,イニシャルにした。じつは,Tさんからはこんどのメールが2回目である。しかも,1回目のメールからはずいぶん間が空いている。

 Tさんも,長い間,迷っていたが思いきってこのメールを送信することにした,と書いていらっしゃる。添付ファイルが膨大なので,3分割して,つまり,3回に分けてメールが送信されてきている。あちこちファイルを開いて,ちょいと覗いてみたら,これはおいそれと簡単に読めるメールではないし,ましてや簡単に返信を書けるメールではない,と気づく。そこで,正直に「いま締め切りのきている原稿と格闘中なので,しばらく時間をください」と応答。

 そのまま,原稿にとりかかる。しかし,Tさんのメールが気になって仕方がない。こんな気持では原稿どころではないと考え,原稿を中断してTさんからの長い手紙を開いて読みはじめる。Tさんの,胸のうちに湧き起こってくる感情を極力コントロールした,落ち着きのある重い文章がつづく。Tさんの個人情報はほとんどなにもわからない。ただ,65歳であるということだけで,どういう経歴の方かもわからない。しかし,文中に用いられていることばづかいからして,かなりの読書家であり,インテリであることだけは確かだ。

 Tさんのおっしゃる趣旨はおおよそ以下のとおり。
 こんどの大震災で家を流され,実母と義父の命を奪われてしまい,いまは,仮説住宅に住んでいる。しかし,仕事はない。K市の復興は遅々として進まない。政府による被災住宅再建のための500万円の資金援助の話もどこかに立ち消え。K市の人口はどんどん流出し,商店も閉じたまま。土地はあるがそこに家を建てることは許されず,それ以外の土地に家を建てるだけの資金がない。おまけに,仮説住宅を追い出されたら,家賃を払うお金がない。まったく身動きできないまま,このさきの展望も得られず,無為の日々を送っている。絶望のどん底から這い上がる目処も立たない。まるで,「蛇の生殺しのような世界を生きている」とTさんはおっしゃる。

 この他にも,Tさんは日本の社会の歪みの分析,たとえば,政府や地方自治体や企業などの「無責任体質」がどこから生じてきたかといった問題について,じつに適切な分析をなさっている。その道の専門家ではないか,とすら感じられる思考の深さが伝わってくる。

 このTさんに,どのような応答をすればいいのか,わたしはしばし考えてしまう。復興のための軍資金が宙に浮いてしまって,被災者の手元にとどかないまま,どこかに消えてしまっている。この複雑なからくりについて,Tさんは考え,苛立ちを禁じえない,とおっしゃる。

 こうなったら,まだ,開いていないファイルの資料や手記などを丹念に読んで勉強してから,わたしなりのスタンスを構築する以外にはない。重い宿題をいただいた。しかし,Tさんのお蔭で,被災者の生の声を聞かせていただくことができる。その上で考えることができる。新聞や本を読んで考えるのとはまったく違ったリアルがそこにはある。わたしにとっては,しっかりと勉強することのできる,ありがたいチャンスである。

 ロンドンでオリンピックが開催されようが,脱原発のデモが盛り上がろうが,Tさんのような被災者の生活は宙に浮いたままなのだ。それどころか,「蛇の生殺しのような世界を生きている」人たちの存在すら,多くの人びとの記憶から消えていく一方なのだ。

 東日本大震災からの「復興」は,これからが正念場だ。これから,どのような忍耐と努力を積み上げていくことができるか,その一点にかかっている。そして,遠く離れて暮らしているわたしたちが,これからどのような支援をしていくことができるのか,本気で考えなくてはならないだろう。

 ピンチはチャンスでもある。「復興」とはどういうことなのか。こんなことすら考えることができない,狂気と化してしまった「理性」を,もう一度,振り出しにもどすこと。そして,人が生きるための「理性」をわがものとすること。そこからの「復興」こそが待ち望まれるところだ。そのために,いま,わたしたちはなにをなすべきか。

ロンドン・オリンピックで浮かれている場合ではないのだ。



2012年5月21日月曜日

北茨城の震災被害の大きさに驚く。それでも海岸近くに住みつづける人間の意思をおもう。

北茨城ということばは,地震が多発する地域として全国的に知られるようになったが,大震災のときも大きな被害を被っていたことは意外に知られていないとおもう。なにを隠そう,このわたしもそのひとりだ。

19日(土),高萩市の知人は五浦の六角堂(岡倉天心)が津波で流されてしまったが,ようやく再現されたからといって,案内してくれた。そこでの感慨もさることながら,わたしには,その途中の光景が忘れられない。

五浦といえば,すぐとなりは福島県。茨城県の北部は,山が海岸まで迫っていて,平地はほんのわずかしかない。そのわずかな平地に人びとは家を建てて暮らしている。海岸から砂浜があり,防波堤のすぐそばに民家があり,国道が走り,常磐線が山側を走っている。だから,大きな都市はないが,小さな町は点々としてつながっている。そのあたりは,津波が常磐線を越えて,山側まで迫ったという。ということは,このあたりの家は全部,津波に襲われたということだ。

その地域の国道を走っていると,ほとんどの家の屋根がピカピカ光っている。そういう家のほとんどは津波に流されたあとに新築した家だという。そうでなければ,たまたま残ったけれども,屋根は地震で壊れてしまったので,それを修復したのだという。それでもまだ修復できないで,順番を待っている家の屋根はブルー・シートが被っている。そういう光景がつづく。

少し込み入った街中に入ると,歯が抜けたような空き地が点々とある。よくみるとその空き地には家の土台(礎石)が残っている。その周囲に建っている家は,ほとんど新築である。そして,鉄筋コンクリートでできた家だけは津波に流されないで残っている。ということは,木造の家は全部,津波に流されたということだ。つまり,この地域も津波で全滅状態になったのだ。しかし,名の知れた都市でも町でもないので,マスメディアはみてみぬふりをしたのだ。だから,わたしたちは,こういう地域の惨状を知らないでいた。

テレビで流れた津波の,あの光景は,この地域にも間違いなく襲っていたのだ。

そして,考えた。

東北地方の大きな漁港などは,再度の被災を避けて高台に移住すべきだという意見が強い。そして,政府も県も加わって,住民の意志を確認することもなく,高台移住を前提とした補助金の分配が,復興の大きなネックになっていると聞いている。しかし,その対象になっていないこの地域では,おそらく自費で家を再建しているという。しかも,自分の意志で,もともとの土地に。そうでない人は,どこかに転居したという。

津波に流されるようなところに住んではいけない,という権利はだれにあるのだろうか。テレビにも放映された東北の漁港の漁師のひとりは,滅多にやってこない津波のために高台に移住する意志なんかない,と語っていた。そして,津波がきたときはきたときで覚悟している。だから,もとどおりの土地に家を建てて住みたい。そして,これまでどおり漁師をしていきたい,と。なぜ,それができないのか,と。

東北地方には,これまで何回も大きな地震があり,そのつど大きな津波が押し寄せて,被害にあっていることは,その地域の住民はみんて知っている。にもかかわらず,先祖代々そこに住みつづける。そのことの意味は,東京の都会に住む高級官僚や政治家や財界の人間たちには理解できないだろう。

住めば都という。どんな僻地や危険をともなうような土地であっても,住めば都なのである。他人がとやかくいうべき筋合いのものではない。いやな人はさっさと引っ越している。しかし,その土地に愛着を感ずる人にとっては,ほかのどの土地よりも住み心地がいいのだ。

この北茨城の海岸地域に住む人たちにとっても,大きな津波が来ないかぎり,住み慣れたいいところなのである。だから,また,津波が襲ってくるかもしれないけれども,おそらくそれはずっとさきのことに違いない,とみずからを納得させているのだろう。

それでいいのだろう,とわたしはおもう。おそらく,わたしがその立場にあったとしたら,やはり,同じように先祖代々の土地に家を再建して住む道を選んだだろう。

復興とはなにか。まず,なによりも地域住民の意志を確認することが先決ではないのか。それを行政指導が優先されるようなことになると,とんでもない「復興」がはじまりかねない。つまり,『ショック・ドクトリン』(ナオミ・クライン著)で明らかにされたような,「惨事便乗型資本主義」が「復興」の名のもとに乗っ取りかねないからだ。

が,すでに,その路線を選んだのは宮城県知事だ。それに抵抗しているのが岩手県知事だ。この明暗を分けた知事の考えは,やがて,結果がでてくる。どちらが地域住民にとって満足のいく「復興」になるかは,火を見るよりも明らかだ。

こんなことを考えながら,五浦の六角堂の,ここまで津波がやってきたという標識を眺めていた。ここの「復興」は茨城大学が支援しているという。そして,その日も,沖合の磯の上に石灯籠を再建する作業を行っていた。やはり,ここでも,同じような津波がやってくれば,また,元の木阿弥となることを承知で,この作業に取り組んでいる。それでいいのだ,としみじみ思いながら,その作業に眼をこらす。

人間はこんなことをくり返しながら生きてきたのだ。改められるものは改めなくてはならないが,そうでないものは,そのままにしておくしかないのだろう。それは「合理主義」の<外>にあるものなのだから。

こんな文章を書きながら,わたしの脳裏にはジョルジュ・バタイユの『呪われた部分 有用性の限界』(中山元訳,ちくま学芸文庫)がちらついている。そして,もう一度,読み直そうとおもっている。

いま,わたしたちに必要なのは,こういう根源的な問い直しではないか,と。

そして,スポーツ文化論やスポーツ史研究もまた,このような根源的な問い直しが迫られている,とわたしは考えている。まもなく世にでる『スポートロジイ』(みやび出版,今月末刊行)は,こういう深い反省に立つ企画である。ご批判をいただければ幸いである。

今回の北茨城への旅は,なにかと収穫が多く,また,新たな出発ができそうだ。
高萩市の知人に感謝したい。

津波の被害がほとんどなかった鵜の岬(北茨城)周辺の海岸。

鵜の岬の国民宿舎の北側に隣接して海水浴場がある。高台にある国民宿舎から北を眺めると,右手(東側)に海,左手(西側)に長い砂浜,さらに左手にさほど高くもない堤防があって,その堤防に隣接して防砂林の松林が帯状に北に伸びている。その防砂林のすぐ西側には一般の民家がある。この地帯一帯はほとんど津波の被害はなかったという。

国民宿舎はやや高台に建っているが,海岸に隣接している。つまり,海岸の絶壁の崖の上に建っている。が,一部は海岸に降りて行かれるようにコンクリートの階段が入江の砂浜につながっている。この地帯一帯は,天然の鵜の棲息地で,たくさんの鵜が海面に浮かんでいる。その砂浜に降りていくコンクリートの階段のところに「津波到達点」という標識が立っている。目測では海面から5mくらいのところだ。

つまり,この鵜の岬と,それに隣接する海水浴場のある砂浜のあたりにやってきた津波は5m前後だった,というのだ。だから,このあたりはほとんど津波による被害はなかったという。

しかし,この鵜の岬の南側と少し離れた北側の海岸は大きな津波に襲われて,たいへんな被害を受けたという。なぜ,こんなことが起きたのか,国民宿舎の従業員で津波情報に詳しい人に聞いてみた。すると,つぎのような説明がかえってきた。

鵜の岬の海岸から東の沖合に向けて岩礁が10キロメートルほどさきまで伸びている。だから,魚もたくさんいるし,鵜の棲息地としてはまことに適している。この沖合まで伸びている岩礁が津波の侵入を防いだ,というのである。

もう少し精確に言えば,沖合から押し寄せてきた巨大な津波は,この岩礁に抵抗されて二つに分断され,北と南に分かれて海岸に押し寄せてきた。だから,鵜の岬の南側も北側も大きな被害を受けたが,鵜の岬に達した津波は南北に分散した残りの,力の弱いものだった,というのである。「地の利」ということばを思い出していた。

なるほど,こういうことなのか,と納得。
自然というものは,まことに正直なものだ。だから,むかしから津波の被害はほとんどなかった地帯だったと言い伝えられている,という。やはり,民間伝承にはそれなりの意味があるのだ。それを科学的根拠がないという理由で否定してきた「近代」という時代の,理性中心主義,つまり,科学中心主義の方に,むしろ落とし穴があったというべきだろう。自然現象のスケールの大きさに比べたら,科学が明らかにした事実などは微々たるものにすぎない。にもかかわらず,その「科学」に全面的な「信」をおき,そこにもたれかかった「近代」の奢れる「理性」,狂った「理性」こそが,いま問われている。

原発推進もまったく同じ路線を突っ走った結果である。

自然の猛威をあなどってはならない。つまり,自然は「神の領域」だ。その神の領域に人間が踏み込み,自然には存在しない元素に手を出してしまった。その結果がフクシマだ。

そんなことを考えながら,高台の上の9階にある大浴場から海を眺めていた。そんなときに,きちんと地震がやってきた。震度3。現地に身を置いて考えること。その重要性をからだで確認した旅だった。