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2015年10月16日金曜日

「おや,だれかとおもったら,この門のかめんだわ」(浦島太郎)。

 最近,なんの脈絡もなく突然,こどものころのことがふっと脳裏に浮かんでくることが多くなってきたようにおもいます。加齢による特異現象の一つなのでしょうか。あるいは,惚けのはじまりか。でも,慌てても仕方ありません。あるがままの「いま」を素直に受け止めて,そのことをエンジョイすることにしています。

 その中の一つ。赤っ恥をかいて,顔から火がでそうになった思い出。

 1945年の初夏。敗戦直前の,国民学校2年生のときのこと。戦時中は小学校とはいわず,国民学校と呼んでいました。新しい担任の先生ともなじんできて,授業がとても楽しかった記憶が,遠い向こうの方にみえています。ある日の授業で,国語の教科書の「浦島太郎」の物語を勉強して,つぎの時間は,その物語の中の一節を「絵」にしなさい,という課題がでました。

 絵は嫌いではなかったので,夢中になって描きました。でも,完成しないうちに時間がきてしまいました。それでも提出しなさいと先生が仰るので,持っていきました。ところが,絵の一節となる文章がまだ書いてありませんでした。先生が,「急いで,ここで書きなさい」と仰るので,教科書も見ないで記憶だけで書き込みました。

 それが「おや,だれかとおもったら,この門のかめんだわ」という次第です。慌てて書いたものですから,二カ所に,誤字・脱字があります。それは「門」は「間」の間違い,「かめんだわ」は「かめさんだわ」で「さ」が脱字。正しくは,「おや,だれかとおもったら,この間のかめさんだわ」となります。

 ところが,先生はなにをおもったのか,この絵を教室のうしろの掲示板に張り出しました。全部で3人の生徒の絵が張り出されました。まあ,比較的うまく描けた絵を張り出したのでしょう。ですから,わたしとしては得意満面でした。3人のなかに選ばれた,と。このときは,まだ,このような誤字・脱字があるということを,わたし自身が知らないでいました。たぶん,先生も気づいていなかったのではないかとおもいます。

 この絵を,なぜか,たまたまわたしの教室を通りがかった次兄(4年生)がみて,その日の夕食どきにこの絵を話題にしました。しかも,いきなり「この門のかめんだわ」というのはなんなんだ,と詰問です。わたしは,なんのことやらさっぱりわからず,呆然としていました。しかし,次兄は「わけのわからん文章を書いて,それが張り出されている。恥を知れ」というわけです。でも,なんのことかわたしにはわかりません。

 翌日,教室に入って真っ先に自分の描いた絵をみました。「アッ」とおもわず声を出してしまいました。顔から火がでる,とはこのことです。もう,恥ずかしくて恥ずかしくて,友だちに顔向けもできません。しかし,クラスメイトのだれ一人として,わたしの絵の間違いのことは話題にもしません。たぶん,だれもしっかり読んではいないのでしょう。

 それをいいことにして,休み時間にみんな校庭に飛び出して行って,だれも居なくなるのを待って,大急ぎで「門」を「間」に,「かめんだわ」を「かめさんだわ」に直しておきました。それでも,教室ではなんの話題にもならないまま,過ぎていきました。

 こうして,教室では,先生も友だちもなんの問題もなく,平穏に終わりました。

 しかし,次兄からは,その後も折あるごとに「この門のかめんだわ」を話題にされ,わたしを冷やかします。それが,いまも続いています。法事などがあって,大勢の人が集って会食するときなどに,酒もほどほどにまわってきたころになると,これを話題にし,兄貴風を吹かせます。ですから,親戚中,この話を知らない人はいないほどです。いまは,もう,どんな風にからかわれようと,どうということはありません。が,かなりの年齢になるまでは,いやな奴だ,いつまでも・・・,と腹におもっていました。

 どこかにしこりが多少は残っているのでしょうか。ふと,なんの脈絡もなく,このときのことが脳裏をよぎります。そして,こんなことがあったなぁ,という懐かしさと,くそっ,この野郎,いまにみてろ,とこころに誓って臥薪嘗胆,40歳をすぎたころから,ずいぶんと頑張って勉強したことを思い出します。こういう「負荷」を与えられて初めて発奮することもある,と感謝することすらあるのですから,兄弟というものは不思議なものです。

 最近の次兄が酔いにまかせて吐くセリフは,「こんにち,お前があるのは,だれのお蔭だとおもっとるのか」というものです。わたしはなんの抵抗もなく,「はいはい,お兄様のお蔭でございます」と馬鹿丁寧に応答します。それでその場の笑いがとれればそれでおしまい,というわけです。

 こどもが成長するにあたって受ける刺激(情報)のうち,なにがよくて,なにが悪いのか,こればっかりは個人差があって決められるものではありません。まあ,わたしなどは運がよかった,というべきかもしれません。このほかにも,いま,考えてみれば,ずいぶん酷い扱われ方をしたことが,子ども時代にはありました。そのために,一時は引き籠もりになり,口もきかないでいたこともあります。いまでは,だれも信じてはくれませんが・・・・。

2015年8月14日金曜日

遠い日の思い出。8月15日の玉音放送とその前後の記憶。

 1945年8月15日。わたしは国民学校2年生。夏休みで,毎日のように,疎開先の寺の広庭にむしろを敷いて,従姉妹たちとままごと遊びのようなことをして過ごしていた。時折,艦載機が低空飛行をして,バリバリバリと銃を乱射して通過していく。そのたびに,震え上がって庫裡のなかに逃げ込む。それさえなければ,なんとものどかな渥美半島(愛知県)の田舎の寺での,こころの温かい人たちに囲まれた楽しい生活だった。

 疎開するまでは,豊橋市の郊外に住み,東田国民学校に通っていた。1年生の夏には,干し草をつくって学校に提出する宿題に追われていた。毎日のように,午前中は近くの朝倉川の土手にでかけ,草を刈り,大きな束にして担いで帰るのが日課だった。そして,家の猫の額ほどの庭に草を干して,夕方になるとそれを束ねて,翌日,また干すを繰り返す。その草の量は,毎日,少しずつ増えていく。しかし,完全に乾いた干し草になると,ほんのわずかなものになってしまう。日々の労働の割には成果があがっていないような,むなしさも伴っていた。

 夏休み中の登校日ごとに,これを学校に提出。これらは,軍馬のえさになる,と教えられた。軍国少年は,ただひたすらお国のためにと祈りながら,必死で頑張った。しかし,戦況は日に日に悪化していたようで(子どもにはなにもわからなかった),1943年の秋口からは,戦勝祈願と称して,近くの神社に早朝の参拝が日課に加わった。寒い冬の朝などは,霜焼けで赤く腫れ上がった手が痛かったことを記憶している。

 1944年の6月には,豊橋市は空襲があって,火の海のなかを逃げまどいながら,いつも参拝している神社までたどりついた。そして,その脇を流れる小川の中に身を沈め,一夜を明かした。そのまわりには大勢の人たちが,同じようにして一夜を明かしていたことを朝になって知る。みんな,声も出さずに押し黙っていたのだ。

 夜が明けて,みんなが歩きはじめたので,それにつられるようにして家路についた。市街に入ると,すぐに目にしたのが,辺り一面の焼け野原。当時としては珍しい鉄筋コンクリートの細長い建物(ヌカビルと呼んでいた)が立っているだけで,あとは,全部,焼け野原。しばらく,呆然として眺めていたようにおもう。そして,歩きはじめると,あちこちに逃げおくれた人の死体が転がっている。なかには,焼夷弾の直撃に会ったのか,後頭部が半分なくなっている女の人の死体も目に飛び込んでくる。思わず足がすくんでしまって動けなくなる。

 これ以上のことは,ここに書くに忍びない。思い出したくない,とからだが拒否する。必死になって記憶から消去しようとするが,逆に消えるものでもない。より,鮮明な印象となって蘇ってくる。場合によっては,現実以上に印象だけが増幅して,妄想となって肥大していくようだ。しかし,それがわたしにとっての「真実」となる。記憶とは恐ろしいものだ。

 こんな経験のあと,母の実家である渥美半島の寺に疎開する。祖父はすでに隠居していたので,大伯父・大伯母の心温まる好意に支えられて,わたしたちは束の間の安寧を得る。空襲警報と艦砲射撃と艦載機の襲撃さえなければ,まことにのどかな田舎の暮らしが日常を支配していた。

 そうして迎えたのが,1945年8月15日の玉音放送だ。いまでいえばお盆のお中日だが,当時は,旧暦でお盆が行われていたので,なにごともない平日だった。突然,広庭のむしろの上で遊んでいた子どもたちに,庫裡から声がかかって呼び集められた。これから大事な放送があるので,しっかり聞きなさいと言われ,小さなラジオの前に正座させられた。

 それが玉音放送だった。国民学校2年生の子どもにはなんのことか,さっぱりわからなかった。それでも,「耐えがたきを耐え,忍びがたきを忍び・・・」というフレーズだけは記憶に残っている。いや,これも,あとで記憶したことを,このときに記憶した,と勘違いしているのかもしれない。なにか,重大な放送であったらしい,ということだけはわかったような気がする。

 放送のあと,「戦争が終わった」と教えられ,なんとなくホッとしたことを覚えている。もっとも恐ろしくて怯えていた,空襲警報と艦砲射撃と艦載機の乱射から解放される,という安堵からくるものだったのだろう。

 こころの平安はかろうじて取り戻したものの,予期せぬ敗戦後の苦難が待ち構えていた。この記憶もまた,あまりたどりたくはない,わたしの記憶の中に封印されていることばかりだ。しかし,いつかは語っておかなくてはいけないことなのだろう,とこころのどこかでは考えている。そのときを待つことにしよう。

 ことしもまた,8月15日はやってくる。しかも,「70年目」の節目の年として。

2015年4月18日土曜日

戦争の記憶・その1.戦争のことを話そう。ひとりの語り部として。

 まもなく敗戦後「70年」を迎える。遅ればせながら,この3月でわたしも「77歳」になった。敗戦の年,わたしは7歳だった。当時の小学校である国民学校2年生。まだ,小さかったが,それなりに戦争の記憶は鮮明に残っている。というか,加齢とともに幼かったころの記憶がつぎからつぎへとよみがえってくる。だから,すっかり忘れていた戦争の記憶もまた,新しい発見のようにして思い出されてくる。とても不思議だが事実だ。

 これが「77歳」という年齢になって,はっと気づいたことだった。それまで考えたこともなかったことだ。というよりは,思い出したくなかった。むしろ,忘れようとしていた。あるいは,忌避していた。しかし,それが一変した。なぜか。その一因に,昨年の大病の経験があるようだ。病気などとはまったく無縁な人間として,ほとんど一直線に生きてきた。だから,うしろを振り返るということもなく,ただ,ひたすら前を向いて生きてきた。これからやらなくてはならないこと,まだ,やり残していることなどを,どのようにしてなし遂げるか,そんなことばかりを考えていた。

 しかし,大病は大きな転機となった。初めて「死」と向き合った。わが生涯もここまでか,といっときは腹をくくった。ならば,生きているうちにやれることをやろう,と本気で「幕引き」を考えた。このとき,初めて自分の歩んできた道を振り返った。このときから,わたしの考え方も大きく変化した。そして,まずは,残り時間をつねに考えるようになった。早い人なら半年だ。しかし,ゆっくりの人であれば,まだ,多少はゆとりがある。

 幸いなことに,発病後,まもなく1年と4カ月となるが,いまのところ元気だ。というか,発病前の元気さをとりもどしつつある。これはラッキーというしかない。ありがたいことだ。初めて,いただいた命を大切にしなければ・・・とおもうようになった。

 そこで,ふと,周囲を見回してみると,いつのまにかわたしより年齢の上の人があっという間に少なくなっていることに気づく。すでに,そういう年回りになってきたのだ,と教えられる。しかも,ことしは敗戦後「70年」を迎える節目の年でもある。70年もの長きにわたって,日本は戦争をしないできた。感慨無量である。と同時に,憲法9条の重みをおもう。

 なのに,政府自民党は,敗戦の教訓を忘れてしまったかのように,ひたすら戦争のできる国をめざして,法改正にとりかかっている。その中心人物を筆頭に,政府執行部のほとんどは戦争を知らない世代だ。ということは,政界のみならず,財界も官界も学界もメディア界も,同じように戦争を知らない世代が主役となっている。だから,だれも戦争のほんとうの悲惨さを身をもって体験してはいない。頭のなかでの,つまりはヴァーチャルな知識としてしか戦争を理解してはいない。からだの痛みとしての記憶がない。だから,まるでゲーム感覚でしかない。恐ろしいことだ。

 このままいくと,とんでもないことになりそうだ。

 手を拱いているだけでは駄目だ。ならば,残された時間を,なんとか戦争の悲惨さを語る「語り部」としての時間にも割くことにしよう。そうして,少なくとも「憲法9条」を死守する側に身をおくことにしよう。そのための一助になれれば・・・と考える。後期高齢者に与えられた唯一の特権であり,最大の使命は,まずは,ここからだろう,と。

 その手始めに,まずは,このブログをとおして,ささやかなわたしの「戦争の記憶」を書きつらねてみたいとおもう。そうして,少しでも多くの人たちに共有してもらえたなら,こんな嬉しいことはない。あまり気張ることなく,ごく自然体で,わたしの「戦争の記憶」をたどってみたいとおもう。今日は,そのための導入。

 戦争に「正義」はない。そのことを肝に銘じて・・・。

2014年11月16日日曜日

「48会」(愛教大卒業生の会)に参加。「美術する身体」展を鑑賞のあと,懇親会で旧交を温めてきました。

 昭和48年(1973年)に愛知教育大学に入学した学生さんたちの集まりなので「48会」。わたしが同大学に勤務したのが,その翌年,昭和49年(1974年),36歳のときでした。これがわたしの初めての定職でした。それまでは非常勤講師やらなにやら,いろいろのことをしながら食いつないでいました。ですから,愛知教育大学に就職が決まったときは,これでなんとかやっていけると安堵したものでした。それだけに気合も入りました。

 その最初のゼミ生たちの会,それが「48会」です。言ってみれば,お互いにとても新鮮な出会いでした。まだ,教員の採用も多く,学生さんたちもみんな教員をめざして,大きな夢をいだきながら,元気よく学生生活を楽しんでいました。わたしもまた,長年,待ち望んだ大学教員としてのスタート点に立ったばかりのほやほやです。その人たちとの最初のゼミ生としての出会い。やはり,強烈な印象となって,いまも鮮明に記憶しています。

 年齢が近かったこともあったと思います。大学のなかには,まだ,70年安保の余韻も色濃く残っていました。ゼミ生以外には,熱烈な闘士もいました。そういう闘士たちと研究室で夜遅くまで激論を闘わしたこともありました。わたしとは主義主張も異なりましたので,どこまでも平行線でした。なかには「高給取りのくせに」と食い下がる学生もいましたので,「じゃあ,お前のおやじさんの給料明細書をもってこい。おれのも見せてやる」という話になりました。その結果,わたしの給料が学生の思っていた額よりもはるかに少なかったのでショックを受けていました。

 当時の愛知県の教員の給料のランクは,同一年齢で比較してみたら,名古屋市の教員が一番,つぎが愛知県の県立の教員が二番,ビリが国立の教員でした。これには,わたし自身もショックでした。ああ,そうなのか・・・・と。でも,難癖をつけてきた学生さんとは,その後,とても仲良しになりました。が,主義主張は相変わらず平行線。それでいいのだ,と諭したのですが,かれは納得できないと一歩も譲りませんでした。

 それに引き換え,どういうわけか,わたしのゼミ生はみんな穏健というか,自分の主義主張を強烈に主張するというよりは,わきまえている学生さんが多かったようです。ですから,とてもいい雰囲気でゼミを展開することができました。わたしはとても幸運でした。

 卒業後はみんな教員となり,それぞれが理想とする教員としての道を歩みました。校長職をめざして頑張る人もあれば,平教員であることを理想として生きた人もあれば,途中で,教職を辞し,方向転換した人もいます。なかには政治に身を投じた人もいました。人,それぞれに生きざまは異なりますが,それでいいのだ,といまは心静かに見守ることができるようになりました。

 その彼らも,もう,定年を迎えています。早い人はことしの3月で定年。その多くは来年3月で定年です。時間の経つのは早いものです。あの,紅顔可憐な美少年,美少女たちが,いつのまにか年輪を重ね,それぞれにいい顔をつくり上げています。なにより生き方に自信がみなぎっています。そして,とても情緒が安定しています。こういう人たちと,お互いに若かりしころに出会い,刺激を与え合いながら,Strum und Drang の激情を生きたのかと,いまさらながら懐かしさが込み上げてきます。

 今回の企画は,最初にまず「美術する身体」展(金山の名古屋ボストン美術館)をみんなで鑑賞してから,懇親会というものでした。ですから,懇親会では,この美術展の話で盛り上がり,いつのまにかピカソの話題に入ったあたりから,わたしのテンションが異常に高くなってしまい,気がついたら日本古代の蘇我氏の話を夢中になってしゃべっていました。さすがにみんな聞き上手で,適切な合いの手を入れてくれましたので,わたしはますます図に乗ってしまった,という次第です。みなさんにはとんでもない迷惑をかけてしまった,といまごろになって反省。いつもは,できるだけ聞き役に徹することをみずからに言い聞かせてきたのですが,今回はその路線から大いに逸脱してしまいました。

 来年もこの会は開催されるということですので,こんどは気をつけようと思います。
 久しぶりに興奮してしゃべったせいか,今日の体調は抜群にいいようです。ありがたいことです。やはり,いい話し相手と夢中になってしゃべることは,老後の健康維持にとっては最良の妙薬だ,と痛感しました。

 これからは,日常的にもおしゃべりをする時間をきちんと組み込まなくては,と思っています。
 「48会」に集まってくださったみなさん,ありがとうございました。そして,その幹事役をつとめてくださったH君,ありがとうございました。

 では,また,来年,お会いしましょう。それまでお元気で。

2014年10月22日水曜日

1907(明治40)年,神社の境内で遊ぶ子どもたち。

 わたしの育った村は,小さな集落(字)ごとに神社と寺があり,村落共同体の基本単位となっていました。子どもたちも,自分たちの字の子とそうでない子との間には,どことなく仲間意識が違っていました。その違いは遊ぶ場所の違いからきていたように思います。

 
みんなの共通の遊び場は小学校の運動場。授業後は,かばんを家に放り込んで,一目散に運動場をめざしました。先着順で遊び場を確保するためです。しかし,当時は野球が盛んでしたので,中学生や小学校の上級生たちに追い出されることがしばしばでした。「六三制,野球ばかりがうまくなり」という川柳が生まれた時代です。

 敗戦後の小学校3年生だったわたしたちは運動場から追い出されると,神社か寺の境内をめざしました。ただし,ここでの野球は禁止されていましたので,この図版に描かれているような遊びをしていました。つまり,明治の終わりころの子どもたちの遊びが,昭和20年代の敗戦後にも行われていた,ということです。しかも,場所も同じ神社の境内です。

 第二次世界大戦という戦争に負けてしまいましたので,食べるものも着るものもない,貧乏な生活を送っていました。もちろん,遊具もありませんので,みんな手作りです。こま回しは,いかに上手にこまをつくるかが勝負の分かれ目でした。負けると悔しいので,みんな必死でこまづくりに励みました。肥後守という名のナイフが大活躍でした。当時は,鉛筆削り用に,みんな一本ずつポケットに入れて,持ち歩いていました。

 ですから,喧嘩になると,ポケットから肥後守をとりだし,これを握って振り回しました。が,お互いに切りつけるほどの勇気はないので,ひたすら威嚇のための道具でした。こどもなりの安全圏を確保した上での,ナイフの活躍でした。学校の休み時間だけでなく,神社の境内でも,この肥後守は大活躍でした。

 こんもりとした森に囲まれた鎮守の森は,子どもたちにとっては別世界でした。大人の監視の眼からも逃れ,子どもたちの自由の天国でした。言ってみればなんでもありの世界でした。ですから,ずいぶん乱暴な遊びもしました。みんなに嫌われるようなことをすると,縄で縛られ,木の枝に吊るされることもありました。必死になって謝らないかぎり,降ろしてはくれません。ルールはなにもありませんでしたが,暗黙のうちに,やってはいけないことは決まっていました。そのぎりぎりのところの遊びが最高の遊びでした。

 大人になるための大事なこと,人生にとって大事なこと,それらはすべて鎮守の森の「遊び」のなかで学んだ,と言っても過言ではありません。

 ところが,最近では,鎮守の森で遊ぶ子どもたちはいません。こんもりとした森もあらかた伐採されて明るくなり,遠くからでも社殿が丸見え。寺も同じ。集落の藪も取り除かれ(防犯のためと聞いています),あちこち明るくなってしまいました。しかし,子どもたちにとっては,秘め事に近い遊びをするには薄暗い,ほのかな闇が舞台装置として不可欠でした。ですから,明るくなってしまった神社や寺の境内は,密かな悪事を企む子どもたちにとっては,もはや,なんの魅力もない場所になってしまったようです。

 こんなことを回想させる一枚の絵。わたしにとっては,なんとも懐かしい記憶を呼び覚ます絵。数少ないわたしの宝物のような絵。それがこの絵です。

2014年8月18日月曜日

木田元さんが逝く。85歳。こころからの哀悼の意を表します。

 わたしのハイデガー理解は,木田元さんの著作によってだった。それまで,いろいろの人のハイデガー解説本を読んでみたが,いまひとつ納得がいかなかった。というより,なにを言っているのか理解不能でした。しかし,木田元さんのものは,じつにわかりやすく,こなれていました。ですから,木田元さんが書かれたハイデガー本はほとんど全部読んだと思います。読めば読むほどに理解が深まり,読むのが楽しみでした。そのお蔭で,ジョルジュ・バタイユ理解も深まりました。ありがたいことでした。

 その木田元さんが逝った。85歳。考えてみれば,希有なる人生を歩まれた,叩き上げの哲学者。自分が納得するまで,妥協を許さぬ知へのあくなき挑戦の結果が,わたしのような人間にまでハイデガーをわからせてしまう,深い洞察を生んだのだろうと思います。『闇屋になりそこねた哲学者』(晶文社,2003年⇒ちくま文庫)によれば,若き日の木田元さんが古本屋で手にしたハイデガーの『存在と時間』の訳本が,なにを言っているのかさっぱりわからず,でも,なにか重要なことを言っているらしいと予感し,この本を理解するにはドイツ語で読むしかないと決意し,それから東北大学哲学科への進学をめざした,といいます。そうして,まずはドイツ語を習得し(3カ月後には『存在と時間』を読めるようになった,とのこと),つづけて一年に一つずつ,ラテン語,ギリシア語,フランス語を習得し,語学の幅を広げていきます。まさに血のでるような研鑽を積み,徹底してハイデガー読解に挑んでいきます。

 柔道で鍛えた強靱なからだで,一度は病魔に倒れるもみごとに復帰され,やはり凄い人だなぁと感心していました。が,とうとう完全復帰を果たすことなく,最後は肺炎に襲われてしまいました。もう少し,人生をふり返った余談を書き残してくださるものとばかり思っていました。が,残念なことにその期待には応えてもらえませんでした。

 竹内敏晴さんとの対談『待つしかない,か』──二十一世紀身体と哲学(春風社,2003年)は,わたしたちが竹内さんと昵懇の間柄になってからの著作でしたので,とても興味深く読ませていただきました。竹内さんは演劇の現場から編み出した,竹内さん固有の身体論をベースにした,生身で生きる人間の哲学を展開すれば,それを受けて木田元さんは「反哲学」(西洋の形而上学に縛られない哲学の立場)という木田元さん固有の哲学で応答する,とても息の合った対談でした。その竹内さんもまた,病魔に襲われ,あっけなくお別れしなくてはなりませんでした。わたしたちの研究会との約束もペンディングになってしまいました。残念の極みでした。

 木田元さんの書かれた『反哲学史』(講談社,1995年⇒講談社学術文庫)を最初に読んだとき,びっくり仰天し,わたしの頭の中がひっくり返されたような衝撃を受けました。わたしの頭の中には,いわゆる西洋の伝統的な「哲学史」がベースにあって,それが唯一絶対のものだと信じて疑わなかったからです。それに対して,木田元さんは「反哲学」という考え方を打ち出されたのでした。このあたりが木田元さんの真骨頂だったように思います。

 わたしはこの本に勇気をいただき,スポーツの「哲学」の可能性を探る決意をしました。といいますのは,わたしの恩師の岸野雄三先生から,「君,スポーツに哲学はある,と思うかね」と問われ,絶句したことがあり,そのまま答えを導き出せないまま尾を引いていたからです。この問題をなんとかしなくては・・・と苦慮していたからです。

 ですから,木田元さんの「反哲学」の土俵を借りれば,「スポーツの哲学」はなんとかなるのではないか,とひらめきました。そして,なんとかしてみよう,と模索をはじめました。そこに,忽然とジョルジュ・バタイユの思想・哲学が,わたしの手のとどくところに現れました。その後押しをしてくれたのも,冒頭で触れたように木田元さんのハイデガー解釈でした。それで,一気に世界が開かれた思いがしました。いまは,その延長線上の思考を重ねているところです。

 この木田元さんの「反哲学」をもっともっと大きな視野から,それもまったく次元の異なるレベルから発想されたのが西谷修さんの仰る「チョー哲学」ということになるのでしょう。そして,そのベースになっているのが,ジョルジュ・バタイユの思想・哲学であり,ルジャンドルの「ドグマ人類学」ではないか,とこれはわたしの勝手な推測です。最近では,そこにジャン=ピエール・デュピュイの『聖なるものの刻印』──科学的合理性はなぜ盲目なのか(西谷修・森元庸介・渡名喜庸哲訳,以文社,2014年)が加わるのかな,とこれまたわたしの推測です。

 いささか脱線してしまいましたが,木田元さんの提起された「反哲学」から受けた衝撃は,以上に述べてきましたように,計り知れないものがありました。その木田元さんが,とうとう逝かれてしまいました。謹んで,こころからの感謝と哀悼の意を表したいと思います。もう一度,『闇屋になりそこねた哲学者』でも読み返しながら,木田元さんの面影を忍びたいと思います。合掌。 

2014年3月18日火曜日

バレエダンサーの米沢唯さん,中川鋭之助賞を受賞。おめでとう!

 新進気鋭のダンサーに贈られる中川鋭之助賞を米沢唯さんが受賞した,という囲み記事(「この人」・東京新聞)が今日(18日)の朝刊に掲載されていました。早速,切り抜いて保存しました。笑顔で座っている米沢唯さんの写真もあって,しばらくじっと眺めてしまいました。やはり,どこか似ているなぁ,と思いながら。


 米沢唯さんは,いまは新国立劇場に所属するプリマドンナ。「白鳥の湖」「くるみ割り人形」「ジゼル」などの主役を務めています。押しも押されもしない堂々たるプロのダンサーです。その活躍ぶりは,それとなく情報が入ってはいました。が,中川鋭之助賞を受賞するほどに注目される存在になっていらっしゃるとは,考えていませんでした。ですから,この記事を読んでわがことのように嬉しくて仕方がありません。


 米沢唯さんは,わたしにとっては竹内敏晴さんのお嬢さん。まだ,面識はありません。しかし,わたしのなかには米沢唯さんのイメージがしっかりと出来上がっています。なぜなら,折に触れ,竹内敏晴さんからお嬢さんの唯さんの話をお聞きしていたからです。


 「人間には天性というものがあるようです。うちの娘はダンスが好きで好きでたまらないようです。家に帰ってからも,暇さえあればストレッチをしたり,柔軟運動をしたりしてからだと向き合っています。よほど好きでなければあそこまではできません」とニコニコ顔でお話をしてくださった竹内さんの顔はいまでも鮮明に記憶に残っています。


 またある時には,唯さんの活躍の新聞の切り抜きをもってきてみせてくださいました。「なんだかよくはわかりませんが,どうやらダンサーの道に進んでいくようです。本人が好きで進む道ですから,親は静かに見守るだけです」と,これまた嬉しそうに話されました。それが,高校一年生でローザンヌ国際バレエコンクールの最終審査に残ったときの新聞の切り抜きでした。


 そしてまたある時には,「とうとうアメリカに行ってしまいました。いまごろは苦労していると思います。が,そこをクリアしないことには道は開かれてはきませんから・・・」と。さすがに,この時は,いささか寂しそうに,しかし,こころの奥底には期するものがある,と感じさせる雰囲気がありました。この時が,19歳でアメリカ・サンノゼ・バレエ団に入団したときのことでした。


 新聞にある唯さんの談話では「英語もままならない。一人暮らしも初めて。4年間苦しみ抜きました」ということです。新聞によれば「バレエに集中するあまり電気,ガス料金の振り込みが滞り止まったことも。適正な食事の量や睡眠時間まで分からなくなった。」「バレエと生活を両立しないとプロではない。心身ともにアンバランスだった」と。この4年間,いかに徹底してバレエに集中した生活であったかが,伝わってきます。


 そして,2010年に失意の帰国。そうです。父・竹内敏晴さんが亡くなられた年です。わたしたちもショックでしたが,唯さんにとっては想像だにしなかった衝撃だったことでしょう。ご高齢ではありましたが,すこぶるお元気で,休む暇もないほどスケジュールを埋め,全国を飛び回るようにして「竹内レッスン」をつづけておられたからです。唯さんはとうとう父・竹内敏晴さんの死に立ち会うことはできませんでした。


 帰国後,一度はプロのダンサーであることを諦めかけていましたが,新国立劇場のオーディションを受けてみることにします。不合格ならバレエは趣味に,と腹をくくっての受験でした。が,みごとにソリストとして採用され,こんにちに至るというわけです。


 唯さんは,文章の達人でもあります。帰国後に書かれた父・竹内敏晴さんへの追悼の文章を読んだとき,わたしは凍りつきました。文章の力が素人ではありません。まるで,竹内敏晴さんが乗り移ったかのような,説得力のある文章でした。その中の一節に,「わたしがステージに立つときには,父はかならず客席の一番後ろに立って,じっとこちらを見てくれているはずです。わたしはそのつもりで踊ります」とありました。この一節を読んだ瞬間にわたしの涙腺は一気に緩んでしまいました。そして,嗚咽してしまいました。


 新聞の記事の最後の唯さんのことばがまた素晴らしいので,そのまま引いておきます。
 「満席の観客が,すっと舞台に集中する瞬間をつくるのがダンサーの力。そういう空間で踊っていたい」。まるで竹内敏晴さんのことばではないか,と目を疑いたくなってしまいます。やはり,血筋というものは争いようがないようです。


 この受賞を機に,また一皮剥けたダンサーの力を発揮して,多くの人を魅了する舞台をつくってくださることを祈ります。いよいよ,わたしも舞台を拝見したいものと思っています。できるだけ早い時期に実現したいと思っています。


 米沢唯さんのますますのご活躍を祈っています。そして,応援していきたいと思っています。

2013年12月27日金曜日

長松禅寺の奇祭「どんき」。神仏混淆時代の名残りか。穂国(ほのくに)の匂いも。

 ことしも友人の柴田晴廣(『穂国幻史考』の著者)さんから,たくさんのお祭りの写真を送ってもらいました。「穂国」(ほのくに)は愛知県三河地方の古称。どうやら「瑞穂国」の由来とつながっているらしいのです。つまり,日本の古代史にかかわるきわめて重要な根っこのひとつが,穂国・三河にある,というわけです。そのことは柴田さんの主著である『穂国幻史考』で詳細に論じられています。それを読むと,三河で育ったわたしには,そこはかとなく日本古代のロマンが伝わってきます。柴田さんももちろん穂国に生まれ育った人で,穂国の主のような住人です。

 その柴田さんが,四季折々に催される穂国の各地のお祭りを,毎年,欠かさずフィールドワークされていて,そのときに撮影された写真のおこぼれをわたしが頂戴している,という次第です。

 今回は,その一部を紹介してみたいと思います。
 表題にも書きましたように,長松禅寺(愛知県豊川市御津町の下佐脇)に伝わる奇祭・どんきについてです。残念ながら,わたし自身はまだ見たことのない祭りです。もっぱら,柴田さんの写真から想像力をたくましくして,あれこれ考えていました。が,柴田さんはこの「どんき」という祭りをビデオ映像でみることができる,その方法も教えてくれました。


 それは「こちら三河放送局」(http://allmikawa.tv)でした。早速,開いてみましたら,いくつものヴァージョンの映像(ここ数年の祭りの映像)をみることができ,この祭りの雰囲気もとてもよくわかりました。とても面白い祭りですので,ぜひ,ご覧になってみてください。

 まつりの概要をごくかんたんに紹介しておきますと,以下のとおりです。
 「どんき」とは秋葉祭のことで,火防(ひぶせ)のお祭りです。もともとは「どんき」とは撞木(しゅもく)のことで,この祭りに登場する狐(3),天狗(赤,青)がこの撞木に紅ガラを塗って,それを子どもたちの顔に塗りつけるのです。紅ガラを塗られた子どもは無病息災で,丈夫な子に育つというわけです。それでも,狐や天狗が塗るわけですので,小さな子どもたちは逃げ回ります。その手にもつ撞木(紅ガラ)が主役です。この撞木がいつしか「どんき」と呼ばれるようになったというのです。12月の第三日曜日にこの祭りが行われるようです。



 じつは,この祭りの行われる寺や下佐脇という場所には,わたしのごく個人的なわけありの事情があって,とりわけ興味をもったという次第です。

 わけあり,などと意味深なことを書いてしまいましたが,きわめて個人的なわたしにとってのわけありであって,それ以外には他意はありません。

 一つは,長松禅寺,通称・長松寺という名前です。といいますのは,わたしの育った寺の名前は長松院。場所もそんなに遠くはありません。しかも禅宗ですので,同系です。が,それ以上のなにかがあるということは聞いたことがありません。が,わたしにとっては他人事ではありません。なにかつながりがあるに違いありません。調べれば,なにかわかってくるのではないか,とひそかに期待しています。が,いまは,なにもわかってはいません。

 二つには,この寺のある下佐脇という集落は,わたしの祖母の出たところです。いまも,この集落には親戚の家があります。が,子どものころに母に連れられて一度だけ行った記憶はありますが,いまは親戚づきあいはありません。ですので,尋ねて行って名乗りをあげれば,わかってもらえるとは思いますが・・・・。もう,直接,会った記憶のある人はだれもいません。が,そんなところにこんな珍しいお祭りが伝承されているというのですから,やはり,他人事ではありません。

 三つには,この寺に伝わっている奇祭・どんきは,火防(火伏せ)の祭りで秋葉祭りと呼ばれているということです。ということは,秋葉神社(静岡県周智郡春野町)の祭りということになります。秋葉神社といえば,火難よけ(火伏せ)の信仰と火祭りで有名です。この地方には,むかしから「秋葉さん」と親しまれていて,村の代表者が秋葉神社に代参に行き,御札(火伏せのお守り)をもらってきてくばる,という習俗がありました。そして,どこの家にもかまどがありましたから,その近くの壁や柱に張って,一年間の火伏せを祈っていました。わたしが子どものころには,間違いなく張ってありました。いまは,かまどがなくなってしまったでしょうから,どうなったかは知りません。
 これは,わたしの想像ですが,どんき(撞木)のさきに紅ガラ(赤)を塗ってあるのは,おそらく火祭りの「たいまつ」の代わりではないかと思います。そのどんきを狐や天狗が手に持って,子どもたちを追いかけるのですから,少し考えてみれば奇怪しな話ではあります。とりわけ,狐がたいまつを手に持つわけがありません。が,そこはあまり厳密に考えない方がいいでしょう。秋葉さんと狐や天狗はなんの関係もないと思います。狐は豊川稲荷が近くにありますし,天狗も修験道場がむかしはあったと聞いていますので,そういうものとの習合によるものだと思います。
 寺も神社もお稲荷さんも修験道も,ありがたいものはなんでもござれの神仏混淆時代の残滓が,いまもこの長松寺で伝承されていることに意味があると思います。近代合理主義の世界に生きているわたしたちからすると,まことに矛盾だらけの,奇怪しな話に聞こえるかもしれません。しかし,わたしのような考え方をする人間にとっては,むしろ,この方がいかにも日本人らしい伝統的な生き方ではないか,と嬉しくなってしまいます。

 四つには,この寺のある下佐脇から西に少し歩けば三河湾があり,その海岸は,そのむかし持統天皇が伊勢からわたってきて上陸したところだといわれています(このあたりのことは,柴田さんの『穂国幻史考』に詳しい)。いまはすっかり埋め立てられてしまって様変わりをしてしまいましたが,わたしが子どものころには,御馬(おうま)の海岸と呼ばれ,松林が並び,別荘があって,海水浴場としても知られていました。この御馬という地名のところに引馬神社があります。なぜ,馬なのか,というのがわたしの頭のなかをよぎります。この話は長くなってしまいますので,残念ながらここは割愛。持統天皇つながりで触れておきたいことは,この下佐脇から海岸沿いに西北に行けば,額田郡があります。額田王のゆかりの土地だとも聞いています。持統天皇ときて,額田王と並べると,そこはもはや天武天皇の時代のあの謎に満ちた,怪しげな時代の匂いがぷんぷんとします。おまけに,この地方には小便をすることを「まる」(放る)という雅びなことばが,いまも用いられています。

 というあたりで,このブログは終わりにしておきます。じつは,ここまで書いたらもっと書いておきたいことが山ほどでてきました。いつか,このつづきを書くことにして,今日のところはここまでとします。
 

2013年11月15日金曜日

島倉千代子,逝く。75歳,寅年。死ぬ3日前までスタジオで吹き込み,とか。 おみごと,万歳。

 この人の声と,あのコロコロところがる節回し,そして,歌に籠められるこの人の深い情感がわたしのからだに,わたしの人生とともにしみこんでいる。突然の訃報を聞いて涙した。なんだか知らないが,涙した。わたしにとってはそういう歌手だった。

 「東京だよ お母っさん」をラジオで聞いたのが最初だった。まだ,高校生だった。なんという歌手なんだろう,とびっくりした。こんな歌い方をする歌手は初めてだった。それまで聞いてきた演歌歌手とはまったく異質のなにかを直感した。すごいっ!と思った。上手・下手を超越したなにかがつたわってきた。それ以後,この人の歌はじっと耳を傾けて聞いた。いい。とても,いい。ことばにならない「なにか」が間違いなくとどいてくる。からだの芯まで,ビリビリと「なにか」が響いてくる。いつも,いつも,いいなぁ,と思いながら聞いていた。ラジオで。

 その翌年に大学受験のために上京した。父の知人の家にお世話になった。その初日に,試験会場を確認しに都心にでた。その帰り道に,東京駅から歩いて皇居前に行き,「東京だよ お母っさん」を口ずさみながら,初めて二重橋の前に立った。その記憶がいまも鮮明に浮かんでくる。いまでも,お千代さんの声が頭のなかで鳴り響く。いいなぁ,といまも思う。

 わたしとお千代さんとは同じ寅年生まれ。一つ年上の丑年生まれに美空ひばりがいて,江利チエミがいて,雪村いずみがいた。こちらは「三人娘」というキャッチ・フレーズで歌に映画で大活躍をしていた。しかし,島倉千代子だけは,ひとり,別個の道を歩んだ。だれとも気軽に馴れ合ったり,馴染むことを拒否するような,孤高の道を歩んだ。つまり,個性がまるで違うのだ。歌の質も違う。どこか孤独感を漂わせる,深い響きがあった。そこが好きだった。

 大学一年生の秋に,島倉千代子ワンマンショウのチケットがあるが,一緒に行かないかと同級生の女の子に誘われた。えっ,おれでいいの?とかいいつつ,いそいそとついて行った。その彼女は,わたしが島倉千代子の熱烈なファンであることを知らないまま,誘ったらしい。わたしは着席するなり,入り口でもらったパンフレットに読みふけり,一緒に行った彼女とはほとんど口もきかなかったらしい。そして,歌がはじまったら,もう,全身全霊を傾けて島倉千代子に聞き入っている。わたしにとっては,初めてのライブである。島倉千代子の歌に生で触れる,初体験。

 終わったあと,彼女は食事に誘ってくれたように思う。が,わたしは田舎からでてきたばかりの木偶の坊。ただ,島倉千代子の歌の余韻に浸りたくて,食事を断り,ひとりで夜の町をさまよっていた。それっきり,彼女との縁は切れた。当たり前である。あまりに,わたしは「ウブ」だった。

 それからしばらくして,テレビが電気屋さんの店頭に並ぶようになり,デモ用のテレビで島倉千代子をみかけると立ち止まって聞き入った。同じ歳の女の子が,それも天才歌手が,輝いていてまぶしかった。すごいなぁ,とひとりで感心していた。なによりも,島倉千代子の純粋なあどけなさというか,おちゃめな可愛らしさというか,いちずな思いというか,彼女の素のこころのようなものが歌をとおして伝わってくるのが,そこはかとなく嬉しかった。

 同郷の出身者ばかりが生活する学生寮で暮らしていたが,わたしが島倉千代子が好きだということは,だれにも言わないで内緒にしていた。その方が日々,充実した生活がてきるように,その当時はまじめに思っていた。たったひとつの秘密を抱え込みながら生きるのは,なんとも楽しかった。というか,ときめきがあった。まだ,初恋も知らないウブな大学生だった。

 島倉千代子はつぎつぎにヒット曲をとばした。そのつど,わがことのように嬉しかった。順番も,もう定かではないが,「この世の花」「からたち日記」「人生いろいろ」など,それぞれに忘れられない思い出がある。それを語りだしたらエンドレスになる。

 それにしても,阪神タイガースの中軸バッターだった藤本選手と結婚したときはショックだった。それは違うだろう,と。やはり,この結婚は長くはつづかなかった。ここからお千代さんの苦難の人生がはじまる。そういう苦難を一つひとつ乗り越えながら,そのたびに,あたらしい歌の境地が開かれていったように思う。

 島倉千代子の個人的な苦難のつづく人生には同情もしたが,それ以上に歌のできばえに意識を集中していた。たとえば,「人生いろいろ」がでてきたときには驚いた。それまでの歌とはまったく雰囲気の違う歌の出現に,大丈夫か,と思ったほどだ。が,そんなことは杞憂だった。歌い込まれるほどに,こちらの耳も馴染んできたのか,しだいに味がでてくる。今夜も久しぶりに聞いたが,いいなぁ,とほんとうに思う。うまい,というより味がある。

 ことしは,気のせいか,なじみの有名人がばたばたと逝ってしまう。まだ,わたしより年上の人なら順番だから仕方がない,とあきらめもつく。しかし,島倉千代子はわたしと同じ歳だ。これは辛いものがある。

 でも,お千代さんは自分の部屋にシタジオを作ってもらい,亡くなる3日前まで歌の吹き込みをやっていた,という。もちろん,死期が近いことを承知の上で。おみごと。立派。お千代さんに万歳を捧げたい。そして,たくさんの思い出をありがとう,とひとこと。

 明日は,DVDを買いに行こう。そして,もう一度,お別れにじっくりと聞いてみよう。あの,だれにも真似のできない「お千代さん節」を。
 

2013年8月30日金曜日

犬山・木曽川の鵜飼ショーをみてきました。小学校の同級生9名と。

 「面白ろうて,やがて哀しき鵜飼かな」

 夜景にライトアップされた犬山城を眺めながら,その足下で繰り広げられる木曽川の鵜飼ショーを見物してきました。手を伸ばせば鵜にとどきそうな,しかも篝火の火の粉が舞ってくる至近距離で,じっくりと鵜飼ショーを堪能しました。初めての経験でしたので,とても感動しました。なるほど,こんな風にして鵜が魚を追い,獲物をとらえても飲み込むことができない仕掛け(首が縄で締められている)のまま魚を飲むと,こんどは船縁に引き上げられて獲物を吐き出す,というプロセスが目の前で展開され,納得しました。しかし,一方では,ここまでどのように飼育され,訓練を受けて,実用として晴れの舞台に登場するのか,とちらりと脳裏をかすめました。

 8月29日(木)の夕刻。集まったのは小学校の同級生・9名。卒業時の人数は48名。男子24名,女子24名。ですから,48分の9が出席。この数字はじつは微妙です。同級生の年齢は75歳から76歳。参加できなかった人の大半は,本人のからだの都合,すなわち,体調不良。からだは元気だけれども用事があって欠席という人はほんのわずか。つまり,自分の足で歩いて参加できた人が,48分の9,という数字です。その内訳は,男子5,女子4。ここに参加できた人は,なにはともあれ元気で,みんなと会って大きな声で笑いあえる幸せな人。

 幹事さんは,犬山在住の同級生H君。かつての野球少年。名投手。わたしは捕手。名投手が,もうひとりいて,こちらはS君。のちに高校野球の投手としても大活躍。この二人の投手を要して,豊橋市の野球大会に参加。つまり,24人の同級生のなかから9名のレギュラーを,にわか仕込みで選んで結成したチーム。H君はとてもコントロールのいい投手。何種類もの変化球をもっていて,わたしが求めたところに,きちんとボールを投げてくれる。一方,S君は剛球を投げる。スピードも速いのですが,球質が重いのが特徴。なぜか,打たれても遠くに飛ばない。つまり,打者が押し込まれてしまうのです。

 この二人の投手がサードと投手を兼務してくれる。だから,調子が悪くなるとすぐに交代。たった24名しかいない男子生徒のなかから9人を選んで即席に結成したチームが,なんと,試合をするたびにどんどん上手になり,驚くほどの快進撃。どんどん勝ち進むので,やっているわたしたちが驚いたほどでした。最後は,準決勝で1-0で負け。その相手チームは決勝戦で大差をつけて優勝。ですから,実質的な優勝戦はわれわれとの対戦だった,と知る。

 その主戦投手であったH君が幹事をつとめて,今回の同級会をセットしてくださった。やはり,コントロールのいい投手の片鱗が,こういう幹事をつとめてもみごとに発揮されていて,じつにきめ細やかな気配りがあって,これまた,なるほどなぁ,と感心してしまいました。S君のお蔭で,みんな大満足。

 犬山・木曽川の鵜飼ショーには,女性の鵜匠が誕生して,つい最近も新聞で話題になっていました。が,29日は彼女の出番はなくて,残念。運がよければ,この女性鵜匠のショーが見られるところでした。これは本当かどうかはわかりませんが,リクエストすることができる,とか。もし,それが本当なら,もう一度,彼女の鵜飼ショーを見物してみたいなぁ,とみんなで話し合った次第です。

 鵜飼ショーで夕食の弁当を食べて,ホテルにもどってから,男性軍の和室に全員集まって,ここからが本番のおしゃべり会。わたしは,長い間,この会には一度も参加したことがなかったので,どうしてもお客さん。話題についていかれないのです。でも,ことしで3回目。少し慣れてきて,みんなもむかしのように声をかけてくれるようになりました。

 みんなそれぞれに長い人生を生きてきた重みをもっていて,いつも,その重みに圧倒されてしまいます。わたしの生き方なぞというものは,地に足のついてない,空中戦ばかりでしたから。つまりは知的なゲームのようなもの。ああ,軽いなぁ,と今回もまた大いなる反省。でも,いまさらどうすることもできないので,このまま居直って,みんなの話に耳を傾けることに専念。いい勉強になりました。でも,今回は,わたしも少しだけ前にでて,長い間の空白の時間を埋めるための質問などをさせてもらいました。すると,思いがけない応答があったりして,まったく予期せぬ新しい発見が多々ありました。たとえば,わたしの知っている「日本」という国のイメージは,この同級生たちの共有しているものに比べたら,ほんとうに,ある特定のポジションからのものでしかない,ということ。もっともっと視野を広げて,その上にみずからのイメージを構築していかないといけないなぁ,と。でも,その一方では,やはりどこまで頑張って努力しても,最終的には「ドグマ」でしかないなぁ,とルジャンドルのことを考えていました。

 でも,こんなことまで話ができるようになって,ようやく,仲間に入れてもらえたかなぁ,とおもってトイレに立ったら,その間に,来年の幹事はお前やれ,ということが決まっていました。いずれは・・・とは覚悟していましたが,来年やってほんとうにいいのかなぁ,と半信半疑。もう,あと何回できるかわからないので,いまのうちにやっておけ,と強く押されて引き受けることに。となると,東京になるがいいか,と了解も得る。全部,お前に任せる,とのこと。まあ,足腰の弱ってきた人もこの参加者のなかにもいらっしゃる。わたしも含めて,ことしの9名が,来年の〇名になるか,そこは神のみぞ知る世界。

 翌日(30日)は,犬山・成田山にお参りし,犬山城に移動。むかしの城下町である本町通りの犬山市文化資料館に立ち寄り,本町通りを散策。昼食をとって解散。H君は車で何回もピストン輸送をしながらの大奮闘。すっかりお世話になりました。最後の昼食をとったお寿司屋さんの味が抜群でした。突き出しの「もずく」の味が忘れられない。突然の豪雨が降り出したので,奥さんが車を出して犬山駅まで送ってくれました。

 感謝の気持ちも籠めて,ご紹介させていただきます。
 「立喰 光寿司」犬山市三笠町 0568-62-4184
 どうぞ,ご贔屓に。

2013年6月26日水曜日

サツマイモ畑に花が咲く,というお話。

 子どものころ,つまり,敗戦後のまもないころ,食料確保のために,わずかばかりの畑にいろいろの作物を植えて,母親が必死になっていた。父親もまた,昼の勤務を終えてから,腰に懐中電灯をつけて畑にでかけていた。当然のことながら,子どもたちもみんなで畑を手伝っていた。生き延びるために家族が一致団結していた。兄弟喧嘩も絶えなかったが,それでも協力すべきときは仲良く力を合わせていた。その意味では深い情愛に結ばれていたように思う。

 そんな敗戦直後の食料難の時代の主食はサツマイモであった。くる日もくる日もサツマイモで飢えをしのいだ。しかし,この時代のサツマイモは当たりはずれが多く,うまいイモもあれば,まずくて食べられないイモもあった。その当時のもっとも新しくて美味しサツマイモと農林一号と呼ばれた新しく品種改良されたイモだった。その農林一号の苗(つる)を近所の農家から分けてもらって,わが家でも植えることになった。すでに,前の年に「農林一号」という名のサツマイモを一二度食べたことがあって,その味のよさは知っていた。ので,みんな必死で植えた。

 ことしの夏にはおいしいさつまいもが食べられる,と楽しみにしていた。ところがである。奇怪しなことが起きた。つるが伸びてきて,そろそろ地下には芋ができるころだ,イモ堀りも近いぞ,と思っていたら,畑のところどころに花が咲きはじめたではないか。サツマイモに花が咲くとは知らなかった。だから,なにごとか,と初めてみてびっくりした。それも,朝顔に似た清楚な花である。わたしたち家族はだれもこの異変がなにを意味しているのかを知らなかったので,ただ,ただ,傍観するのみだった。

 ところが,ある日,苗を分けてくれた農家の人がやってきて,「いもに花を咲かせちゃあダメだぞん。いもがつかんぞん。」という。なんのことかわからない母親が「どういうこと?」と聞いている。農家の人は「いもはのん,根元の方を活けて,芽の方は土の上に出して植えんと,みんな花が咲いてしまう。そうなると,いもがつかんくなるだぞん」という。そばで聞いていたわたしは「ヘェーッ」とびっくり仰天。

 そういえば,ほとんどの苗は根元と芽がはっきり確認できるものだったので,植え方を間違えることはなかった。が,ときおり,芽の方も切ってあって,どちらが根元なのか芽なのか判断できない苗があったことを思い出す。どちらが芽の方かわからないので,適当に判断して,こっちが根と考えて植えた。それが間違いのもとだったのだ。どうやら母親も知らなかったようで,だから,見分けがつかないまま植えた苗が,あちこちで花を咲かせることになったらしい。でも,それを知ってからは恥ずかしいので,家族交代で朝早く畑に行っては,花を摘むことにした。が,やはり,いもはつかなかった。

 あの花さえ咲かさなかったら,秋の収穫はもっともっと多かっただろうに,とみんなで悔しがった。が,後の祭り。それでも,みんなで苦労して世話をした農林一号の味は格別だった。収穫した当座は,蒸かし芋にして食べた。腹一杯になるほど食べた。米が配給でしか買えない時代なので,圧倒的に少なかった。だから,米のごはんにもサツマイモを角切りにして混ぜて増量した。このご飯も美味しかった。

 秋も深まり冷たい風が吹きはじめると,蒸かしたイモを薄く切って,ゴザの上に並べて干した。うっすらと白い粉が吹き出てくると完成である。これは保存食として大事に保管された。冬の間のおやつはこのイモ切り干しだった。わたしの育った地方ではイモ切り干しと呼んだが,東京にでてきたら「干しイモ」と呼ばれていて驚いた。

 いまごろになって,突然,こんな話を思い出したのは,ある人から「ジャガイモの苗木にトマトを接ぎ木すると,ジャガイモとトマトの両方ともとれる」という,とんでもない話を聞いたからだ。この話はまたいつか書くことにしよう。

 今日は,サツマイモ畑に花が咲く,という子ども時代(小学校3年生)の,なんとも笑えない懐かしい思い出話まで。