(31日)の『東京新聞』の「筆洗」に面白い話が紹介されていました。『子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの?』(福岡伸一著,日経BP社刊)という本のなかにつぎのような話がある,というのです。わたしは読んだ瞬間に,あっ,これはジョルジュ・バタイユが仮説として提示した<横滑り>の内実の話だ,と直観しました。
短い文章ですので,そのまま引いておきます。
人類誕生をめぐるこんな説があるらしい。ある時,サルの中に成熟が遅い,言い換えれば,子ども時代がとりわけ長いサルが突然変異で現れた。普通に考えれば,不利な存在のはずなのに,なぜかそのサルが繁栄するようになった。食料調達や縄張りなど「大人の問題」に悩まされず,好奇心に従っていろいろ探ったり,遊びで新しい技を身につけたりする時間がたっぷりあったために,脳の発達が促されたというのだ。長い子ども時代は人間だけに与えられた特権であり,その中で「世界の成り立ち」や「自分の存在意義」などという「大きな問い」を発明した・・・と,福岡さんは指摘している。そして,そんな人類がたどってきた進化の道を自分で踏みしめてみることこそ,勉強なのだと。
この仮説の立て方は,なんの違和感もなく,わたしにはまことにすんなりと入ってきました。そして,それがそのままジョルジュ・バタイユが立てた仮説<横滑り>の内実を意味している,と感じた次第です。なぜ,そのように感じたのかということについて,できるだけ簡単に書いておきたいとおもいます。
野生のサルの世界は,バタイユのことばでいえば「内在性」を生きる世界です。何回もこのブログでも書いてきましたように,「水のなかに水があるように」存在する様態のことです。つまり,自他の区別がきわめて曖昧な,あるいは自他が一体化した状態を生きているということです。そういう状態で生きている野生のサルにとっては,生まれた子どももできるだけ早く大人と同じ生活を営むことができるようになることが,なによりも優先される絶対条件でしょう。ですから,子どものサルは生まれてすぐに母親のからだにしがみついて離れないでいられる手足の握力をもっています。馬や鹿の子どもたちが,生まれてすぐに立ち上がり,歩きはじめるのと同じです。
しかし,そこに未熟児のまま子どもを生むサルが登場したのではないか,しかも,このサルたちが繁栄の一途をたどったのではないか,しかも,そのサルの系譜こそ人類の始祖ではないか、という説があるというわけです。この仮説の面白いところは,未熟児で生まれ,かつ,子ども時代がとりわけ長いということは生存競争を生き延びていく上ではきわめて不利になるはずなのに,その不利な条件をかえって有利にするという逆転現象が起きたのではないか,というところにあります。ここが,すなわち,バタイユのいう<横滑り>です。そして,そこが,他者を意識しはじめる始原の場ではなかったか,というのがわたしの直観です。
つまり,未熟児を産んだ母サルは,もはや,単純な内在性を生きているわけにはいかなくなるはずです。つまり,未熟児の子サルを外敵から守り,育てるためにさまざまな創意工夫が必要になったはずです。と同時に,未熟児で生まれてきた子サルは,親サルの庇護のもとにのんびりと,自由気ままな遊びに熱中します。そして,自分の身のまわりの環境世界を対象(オブジェ)としてとらえるようになり,やがて,それらを事物( )として自分たちに都合のいい道具(石器など)にしたり,動物の飼育や植物の栽培へと,その歩を進めていくことになります。ここが,サルからヒトへの<横滑り>の始原の場ではなかったか,というわけです。つまり,自然を事物にするサル,すなわち,文化を獲得したヒトの出現へ,という次第です。
その一端が,新聞に書かれているように(福岡さんの話のように),「好奇心に従っていろいろ探ったり,遊びで新しい技を身につけたり」したのだろう,という話になってきます。この未熟児サルから大人サルに達するまでのプロセスは,こんにちの人間の赤ちゃんが成人するまでのプロセスと原則的にはほとんどなにも変わらないだろうとおもいます。
そのプロセスを効率的に学習し,身につけることが,こんにちの「勉強」の中核にあるのだ,と福岡ハカセは仰るわけです。もちろん,バタイユのいう<横滑り>の仮説はこれだけではありません。もっともっと多くの複合的な問題がからんでいます。それらについてはひとまず措くとして,未熟児のまま生まれてくるサル,そして,その結果として,とりわけ長い少年時代を送ることになるサル,このようなサルが突然変異として出現したという仮説は,バタイユの<横滑り>仮説を補填する内実としては文句なく説得力がある,とわたしは受け止めました。
人類の脳の発達は,二足歩行とは別にもう一つ,「とりわけ長い少年時代」を過ごすことにその鍵が隠されていた,という次第です。わたしにとっては,<横滑り>の内実が一つ明らかになった,という点で大満足でした。これからも福岡ハカセの著作には注目していきたいとおもいます。
短い文章ですので,そのまま引いておきます。
人類誕生をめぐるこんな説があるらしい。ある時,サルの中に成熟が遅い,言い換えれば,子ども時代がとりわけ長いサルが突然変異で現れた。普通に考えれば,不利な存在のはずなのに,なぜかそのサルが繁栄するようになった。食料調達や縄張りなど「大人の問題」に悩まされず,好奇心に従っていろいろ探ったり,遊びで新しい技を身につけたりする時間がたっぷりあったために,脳の発達が促されたというのだ。長い子ども時代は人間だけに与えられた特権であり,その中で「世界の成り立ち」や「自分の存在意義」などという「大きな問い」を発明した・・・と,福岡さんは指摘している。そして,そんな人類がたどってきた進化の道を自分で踏みしめてみることこそ,勉強なのだと。
この仮説の立て方は,なんの違和感もなく,わたしにはまことにすんなりと入ってきました。そして,それがそのままジョルジュ・バタイユが立てた仮説<横滑り>の内実を意味している,と感じた次第です。なぜ,そのように感じたのかということについて,できるだけ簡単に書いておきたいとおもいます。
野生のサルの世界は,バタイユのことばでいえば「内在性」を生きる世界です。何回もこのブログでも書いてきましたように,「水のなかに水があるように」存在する様態のことです。つまり,自他の区別がきわめて曖昧な,あるいは自他が一体化した状態を生きているということです。そういう状態で生きている野生のサルにとっては,生まれた子どももできるだけ早く大人と同じ生活を営むことができるようになることが,なによりも優先される絶対条件でしょう。ですから,子どものサルは生まれてすぐに母親のからだにしがみついて離れないでいられる手足の握力をもっています。馬や鹿の子どもたちが,生まれてすぐに立ち上がり,歩きはじめるのと同じです。
しかし,そこに未熟児のまま子どもを生むサルが登場したのではないか,しかも,このサルたちが繁栄の一途をたどったのではないか,しかも,そのサルの系譜こそ人類の始祖ではないか、という説があるというわけです。この仮説の面白いところは,未熟児で生まれ,かつ,子ども時代がとりわけ長いということは生存競争を生き延びていく上ではきわめて不利になるはずなのに,その不利な条件をかえって有利にするという逆転現象が起きたのではないか,というところにあります。ここが,すなわち,バタイユのいう<横滑り>です。そして,そこが,他者を意識しはじめる始原の場ではなかったか,というのがわたしの直観です。
つまり,未熟児を産んだ母サルは,もはや,単純な内在性を生きているわけにはいかなくなるはずです。つまり,未熟児の子サルを外敵から守り,育てるためにさまざまな創意工夫が必要になったはずです。と同時に,未熟児で生まれてきた子サルは,親サルの庇護のもとにのんびりと,自由気ままな遊びに熱中します。そして,自分の身のまわりの環境世界を対象(オブジェ)としてとらえるようになり,やがて,それらを事物( )として自分たちに都合のいい道具(石器など)にしたり,動物の飼育や植物の栽培へと,その歩を進めていくことになります。ここが,サルからヒトへの<横滑り>の始原の場ではなかったか,というわけです。つまり,自然を事物にするサル,すなわち,文化を獲得したヒトの出現へ,という次第です。
その一端が,新聞に書かれているように(福岡さんの話のように),「好奇心に従っていろいろ探ったり,遊びで新しい技を身につけたり」したのだろう,という話になってきます。この未熟児サルから大人サルに達するまでのプロセスは,こんにちの人間の赤ちゃんが成人するまでのプロセスと原則的にはほとんどなにも変わらないだろうとおもいます。
そのプロセスを効率的に学習し,身につけることが,こんにちの「勉強」の中核にあるのだ,と福岡ハカセは仰るわけです。もちろん,バタイユのいう<横滑り>の仮説はこれだけではありません。もっともっと多くの複合的な問題がからんでいます。それらについてはひとまず措くとして,未熟児のまま生まれてくるサル,そして,その結果として,とりわけ長い少年時代を送ることになるサル,このようなサルが突然変異として出現したという仮説は,バタイユの<横滑り>仮説を補填する内実としては文句なく説得力がある,とわたしは受け止めました。
人類の脳の発達は,二足歩行とは別にもう一つ,「とりわけ長い少年時代」を過ごすことにその鍵が隠されていた,という次第です。わたしにとっては,<横滑り>の内実が一つ明らかになった,という点で大満足でした。これからも福岡ハカセの著作には注目していきたいとおもいます。
0 件のコメント:
コメントを投稿