11月18日(日)は,前日の雨があがって,快晴無風の素晴らしい青空がひろがりました。以前からお招きのあった北鎌倉に住む友人Oさん宅でのバーベキューの集まりには,申し分のない絶好の天気に恵まれました。小春日和を思わせるようなポカポカした温かい日差しを浴びてのバーベキューには最高でした。
この集まりが12時からでした。ならば,折角,北鎌倉まででかけるのだから,その前に東慶寺に立ち寄ることにしようということで,朝,少し早めに家を出ました。北鎌倉の駅を降りてすぐのところに東慶寺はあります。線路を挟んで円覚寺の斜め前くらいのところに位置します。ついでに言っておけば,東慶寺は臨済宗円覚寺派のお寺です。鎌倉街道に面していますので,電車を降りた観光客が長蛇の列をつくって歩いています。その列から離れて東慶寺の境内へ。
ひとりで,のんびりと,気の向くままに東慶寺の境内を散策です。急ぎ足でとおり過ぎてゆく観光客を横目にみやりながら,足元の草花を鑑賞したり,散りはじめた「いわたばこ」の葉を眺めたりしながらの散策です。ですから,ほとんどの人が気づかずにとおり過ぎてゆく「十月ざくら」もじっくりと鑑賞することができました。すでに,散りはじめていましたが,まだ,かなりの花が咲いていました。でも,あまりに小さな花なので,よほど注意をしないと気づきません。
本堂を右手にみながら,メインの参道を登っていくとやがて墓地に達します。ここからが,今日のわたしの主目的です。以前,ここにきたときには大勢で歩いていましたので,その流れに身をまかせていました。が,今日はひとりだけですので,完全に自分のペースで歩くことができました。まずは,一直線に西田幾多郎の墓へ。その墓碑には「寸心居士」と彫ってあるだけですので,知らない人にはこれが西田幾多郎の墓だとはわかりません。とても素朴なというか,簡素なお墓です。しばらく,ここに佇んで,西田幾多郎に思いを馳せ,かれの悲劇的な生涯や,その生涯と深く切り結ぶことになったかれ独特の哲学(純粋経験,行為的直観,絶対矛盾的自己同一,「哲学とは悲劇でなければならない」という名言も残している)のことを考えました。
その西田幾多郎の墓の左隣には安倍能成の墓が,そして右隣には岩波茂雄の墓があります。そして,さらに道を隔てた右前には鈴木大拙の墓があります。こちらも「大拙居士」とだけ墓碑に彫ってあるだけです。「寸心居士」と「大拙居士」の墓碑はほとんど同じ大きさ・形をしています。いずれも五輪塔です。金沢の四高時代からの同級生で,無二の親友らしく,墓碑まで相談してあったのではないかと思わせます。晩年の西田幾多郎は鎌倉に住んでいました。が,第二次大戦末期には食料を手に入れることができず困りはてていたようです。そこへ,鈴木大拙がさつまいものなどの差し入れをしてくれることがあって,とても助かるということを日記に書き留めています。が,西田は,ほとんど栄養失調のような状態で,敗戦直前にこの世を去ります。まるで,シモーヌ・ヴェーユの最後を思い起こさせるような死に方をしています。その西田の死を見届けたのちも,大拙は長生きをしています(1966年没)。ですので,大拙は折あるごとに西田のお墓に何回も足を運んでいたはずです。その大拙が西田とそっくりのお墓を残しているわけですので,これは偶然とはいえないでしょう。
その西田や大拙のお墓から一段下がったところに竹林に囲まれた大きな構えの和辻哲郎のお墓があります。ここだけは独立して別世界を形成しています。ここでもしばらく佇んで,和辻の『風土論』(最近,見直されつつある)のことを考えたり,西田幾多郎との関係を考えたりして時間を過ごしました。
大拙の墓の裏側には谷川徹三の墓が,西田の墓の二つ隣には野上弥生子の墓が・・・・という具合にこのあたりにひとかたまりになって著名人の墓があります。が,大半の人たちは足を止めることもなくなにげなく眺めてとおり過ぎていきます。時間がないのか,興味がないのか,なんだろうかと首をひねりながら,黙ってみやっていましたが・・・・。
さて,このほかにも今回,初めて見つけた墓もいくつかありました。この墓地の一番奥の左端の高まったところに高見順の墓,墓地の中央あたりに田村俊子の墓,その近くに前田青邨の墓,さらに下ってきて左に小林秀雄(この墓碑には「小林」とだけ彫り込まれています。いかにも小林秀雄らしいと思いました)の墓が・・・・という具合です。
最後に,以前,確認してあった織田幹雄と大松博文の墓(左の一番奥まったところ)を詣でてきました。意外に質素な墓ですが,二人並んでいるところが,なんとなく微笑ましい感じがしました。と同時に,なぜ,この二人の墓がここ東慶寺にあるのかなぁ,と考えたりしました。よほどの思い入れがないかぎり,わざわざここにお墓をつくる必要はないはずです。
ここでの話は割愛。いつか機会をみて。
愉しい,ほんとうに愉しい時間を過ごして,家にもどってから東慶寺のパンフレットを確認していたら,なんと楊名時の墓があることがわかりました。日本に最初に太極拳を普及させた功労者です。いまは,娘さんが後継者となり,活躍されています。わたしのやっている太極拳とは違って,楊名時のそれは「健康太極拳」,わたしのやっているのは「武術太極拳」。次回は,かならず詣でることにしようと思います。考えてみれば,楊名時の墓がここにあるというのも,不思議な感じがします。でも,ひと理屈こねれば,太極拳の太極思想と禅仏教の禅の思想とは親戚同士でもありますので,なにも縁がないというわけでもありません。この件については,また,いずれ。
今日はここまで。
この集まりが12時からでした。ならば,折角,北鎌倉まででかけるのだから,その前に東慶寺に立ち寄ることにしようということで,朝,少し早めに家を出ました。北鎌倉の駅を降りてすぐのところに東慶寺はあります。線路を挟んで円覚寺の斜め前くらいのところに位置します。ついでに言っておけば,東慶寺は臨済宗円覚寺派のお寺です。鎌倉街道に面していますので,電車を降りた観光客が長蛇の列をつくって歩いています。その列から離れて東慶寺の境内へ。
ひとりで,のんびりと,気の向くままに東慶寺の境内を散策です。急ぎ足でとおり過ぎてゆく観光客を横目にみやりながら,足元の草花を鑑賞したり,散りはじめた「いわたばこ」の葉を眺めたりしながらの散策です。ですから,ほとんどの人が気づかずにとおり過ぎてゆく「十月ざくら」もじっくりと鑑賞することができました。すでに,散りはじめていましたが,まだ,かなりの花が咲いていました。でも,あまりに小さな花なので,よほど注意をしないと気づきません。
本堂を右手にみながら,メインの参道を登っていくとやがて墓地に達します。ここからが,今日のわたしの主目的です。以前,ここにきたときには大勢で歩いていましたので,その流れに身をまかせていました。が,今日はひとりだけですので,完全に自分のペースで歩くことができました。まずは,一直線に西田幾多郎の墓へ。その墓碑には「寸心居士」と彫ってあるだけですので,知らない人にはこれが西田幾多郎の墓だとはわかりません。とても素朴なというか,簡素なお墓です。しばらく,ここに佇んで,西田幾多郎に思いを馳せ,かれの悲劇的な生涯や,その生涯と深く切り結ぶことになったかれ独特の哲学(純粋経験,行為的直観,絶対矛盾的自己同一,「哲学とは悲劇でなければならない」という名言も残している)のことを考えました。
その西田幾多郎の墓の左隣には安倍能成の墓が,そして右隣には岩波茂雄の墓があります。そして,さらに道を隔てた右前には鈴木大拙の墓があります。こちらも「大拙居士」とだけ墓碑に彫ってあるだけです。「寸心居士」と「大拙居士」の墓碑はほとんど同じ大きさ・形をしています。いずれも五輪塔です。金沢の四高時代からの同級生で,無二の親友らしく,墓碑まで相談してあったのではないかと思わせます。晩年の西田幾多郎は鎌倉に住んでいました。が,第二次大戦末期には食料を手に入れることができず困りはてていたようです。そこへ,鈴木大拙がさつまいものなどの差し入れをしてくれることがあって,とても助かるということを日記に書き留めています。が,西田は,ほとんど栄養失調のような状態で,敗戦直前にこの世を去ります。まるで,シモーヌ・ヴェーユの最後を思い起こさせるような死に方をしています。その西田の死を見届けたのちも,大拙は長生きをしています(1966年没)。ですので,大拙は折あるごとに西田のお墓に何回も足を運んでいたはずです。その大拙が西田とそっくりのお墓を残しているわけですので,これは偶然とはいえないでしょう。
その西田や大拙のお墓から一段下がったところに竹林に囲まれた大きな構えの和辻哲郎のお墓があります。ここだけは独立して別世界を形成しています。ここでもしばらく佇んで,和辻の『風土論』(最近,見直されつつある)のことを考えたり,西田幾多郎との関係を考えたりして時間を過ごしました。
大拙の墓の裏側には谷川徹三の墓が,西田の墓の二つ隣には野上弥生子の墓が・・・・という具合にこのあたりにひとかたまりになって著名人の墓があります。が,大半の人たちは足を止めることもなくなにげなく眺めてとおり過ぎていきます。時間がないのか,興味がないのか,なんだろうかと首をひねりながら,黙ってみやっていましたが・・・・。
さて,このほかにも今回,初めて見つけた墓もいくつかありました。この墓地の一番奥の左端の高まったところに高見順の墓,墓地の中央あたりに田村俊子の墓,その近くに前田青邨の墓,さらに下ってきて左に小林秀雄(この墓碑には「小林」とだけ彫り込まれています。いかにも小林秀雄らしいと思いました)の墓が・・・・という具合です。
最後に,以前,確認してあった織田幹雄と大松博文の墓(左の一番奥まったところ)を詣でてきました。意外に質素な墓ですが,二人並んでいるところが,なんとなく微笑ましい感じがしました。と同時に,なぜ,この二人の墓がここ東慶寺にあるのかなぁ,と考えたりしました。よほどの思い入れがないかぎり,わざわざここにお墓をつくる必要はないはずです。
中央の銅像が織田幹雄さんで,その左側にお墓がある。この銅像の右側が大松博文さんのお墓。織田さんは「精進」,大松さんは「根性」ということばをお墓に彫り込んでいる。 |
ここまできたときに,1時間くらいは経過したかなと思って時計をみたら,なんと2時間が経過していました。すでに,集合時間に遅刻です。急いでOさんの家をめざしました。とはいえ,歩いて5分ほどのところです。最後の急坂を登りながら,もう,みんな揃っているのだろうなぁ,と想像しながら胸を躍らせていました。
ここでの話は割愛。いつか機会をみて。
愉しい,ほんとうに愉しい時間を過ごして,家にもどってから東慶寺のパンフレットを確認していたら,なんと楊名時の墓があることがわかりました。日本に最初に太極拳を普及させた功労者です。いまは,娘さんが後継者となり,活躍されています。わたしのやっている太極拳とは違って,楊名時のそれは「健康太極拳」,わたしのやっているのは「武術太極拳」。次回は,かならず詣でることにしようと思います。考えてみれば,楊名時の墓がここにあるというのも,不思議な感じがします。でも,ひと理屈こねれば,太極拳の太極思想と禅仏教の禅の思想とは親戚同士でもありますので,なにも縁がないというわけでもありません。この件については,また,いずれ。
今日はここまで。
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