2013年2月5日火曜日

「スポーツ的自立人間」のパイオニア,マラソンの川内優輝さんにこころから敬意を表します。

 「ぼくが尊敬するのは,家庭も仕事も大事にする市民ランナーです」と,川内優輝さんは断言しています。おみごと。こころの底から「おみごと」だと敬意を表したいと思います。なぜ,おみごとなのか,少し考えてみたいと思います。

 「市民ランナー」ということばが,川内さんの活躍とインタヴュー記事をとおして,新たな意味を帯びて,ますます輝きを増してきているように思います。わたしの記憶では,ジョギング・ブームが起きたころ,ジョギング出身の,一般市民がマラソン競技に参加しはじめたころから「市民ランナー」ということばが使われるようになりました。いわば,素人さんなのに偉いねぇ,というある種「上から目線」がありました。それは,いまでも基本的には変わりません。ですから,川内選手が活躍すると「市民ランナー」なのに偉い,立派だ,ということになります。

 しかし,それはちょっと違うのではないか,とわたしは考えています。
 なぜなら,マラソン・ランナーというものは,大学や企業の陸上競技部で,いわゆる科学的で専門的なトレーニングや指導を受けた人でなければなれないもの,という世間の通念ができあがっていて,それ以外の人は除外されている,という認識の仕方が間違っていると考えるからです。つまり,そこを通過しないで,自分で勝手に走っている素人さんの出る幕ではない,という暗黙の了解事項のようなものが前提となっている,そのことに異を唱えたいからです。

 たとえば,川内選手が活躍しはじめたころの日本陸上競技連盟の対応は,どこかぎくしゃくしていたことを記憶しています。記憶に新しいところでは,昨年のオリンピック代表選手選考にあたっての,日本陸上競技連盟の狼狽ぶりがありました。そして,結局は,代表選手からはずされてしまいました。あれだけの実績があるのに,なぜ? というのがわたしの実感でした。

 そのからくりは簡単です。単純に言ってしまえば,川内選手を支持する理事がいなかったということです。理事とは,それぞれの大学や企業のチームを率いている監督・コーチ,あるいは,そのOBたちで構成されています。ですから,川内選手は孤立無援だったわけです。言ってしまえば無視されてしまったということです。それでも,川内選手は「記録が悪かったのだから仕方がない。また,頑張ります」と,まことに潔かった印象があります。

 そんなことは百も承知です,と言わぬばかりのみごとなものでした。この人には「走る哲学がある」と感じました。これだ。これが,これまでのランナーには欠けていた,と。もちろん,これまでのマラソン・ランナーに「走る哲学」がなかったとはいいません。しかし,次元が異なります。たったひとりで,孤立無援のなかで,みずからの「走る哲学」を貫きとおして,その結果については一切コメントはしないという姿勢はただごとではありません。

 もう少し踏み込んで考えてみましょう。たとえば,公式のマラソン・レースに参加するには,どこかのクラブに所属し,日本陸上競技連盟の会員登録をしなければなりません。個人で登録することは,制度的にまったく考えられていませんでした。そんなことはありえないこととして無視されてきました。つまり,理事といわれる人たちがとおってきた道しか念頭にはなかったということです。それが当たり前と考えられてきました。ですから,それ以外の道からやってきた選手,つまり,異端者は排除されるという力学がはたらきます。

 つまり,マラソン・ランナーにかぎらず,トップ・アスリートというものは,優れた指導者によって育成されるものだという,一種の信仰のようなものが,現代社会でも支配しています。すなわち,科学的で,合理的で,専門的な指導を受けなければトップ・アスリートにはなれない,という信仰です。そのためには大学を卒業したら,レベルの高い,どこかの企業クラブに所属して,さらに専門的な指導を受けることが不可欠である,とみんな考えています。

 しかし,そこに大きな落とし穴が待ち受けている,ということに多くの人びとは気づいていません。ですから,選手たちはいつまで経っても「自立」しません。監督・コーチからの指導・助言にもとづいて,黙々と努力することになります。これが間違っているとは思ってもいません。むしろ,その方がいいと信じている選手たちが圧倒的多数を占めています。しかし,すべての選手たちをこのパターンにはめ込んでしまう,こんにちのこのシステムはそろそろ見直さなくてはならないのではないか,とわたしは考えています。

 今回の女子柔道でおきた園田監督辞任問題は,このケースの最悪の事態が起きていたということなのでしょう。ですから,もっともっと根の深いところまで見直さないかぎりは,女子選手15名の提起した問題が解決したことにはならないでしょう。それにしても,意を決して異議申立をした15名の女子柔道の選手たちには,こころからの拍手を送りたいと思います。この選手たちもまた,「自立」への第一歩を踏み出している,と考えるからです。

 話をもとにもどします。
 わたしはトップ・アスリートである前に,まずは,立派な「人間」,立派な「市民」であることが不可欠である(成年の場合)と考えています。トップ・アスリートだから,世間の常識が欠けていてもある程度は仕方がないのだ,という甘い考え方がどこかにあります。しかし,それは基本的なところで間違っているとわたしは考えています。

 いかなるスポーツであれ,柔道であれ,その道を極めるということは,最終的にはひとりの人間として「自立」すること,それもふつうの道をとおってきた人とは,一味もふた味も違う,味のある人間として「自立」することだ,というのがわたしの考えです。

 「スポーツ的自立人間」ということばは,このような意味を籠めて,わたしが創作したものです。

 その意味で,マラソンの川内優輝さんは,わたしの考える「スポーツ的自立人間」のパイオニアです。ですから,こころからの敬意を表したいと思います。

 科学的合理主義も自分で納得できることは取り入れる。しかし,それだけではない,という強い信念のようなものを,わたしは川内さんから感じます。人間は非合理な存在なのだ。そのことをしっかり認識した上で,みずからの「からだの声」に耳を傾けながら,日々,どのような練習をすべきか,どのタイミングでレースに出場するか,などなどをトータルに考えるランナー。いかなるものにも束縛されることなく,ひたすら自己と向き合いながら走るランナー。

 試合もまた練習の一環と位置づけ,目標を遠いところにしっかりとセットし,日々,走りつづけるランナー。だれからも干渉されることなく,みずからの信念を貫くランナー。これが「市民ランナー」の真の姿だと川内さんは信じているように思います。

 このように考えてきますと,逆に,企業に抱えられたランナーたちがみじめにみえてきてしまいます。ある一定の「しばり」のなかでの競技生活を送るしかありません。真に自由で,スポーツ的に自立している人間は,間違いなく「市民ランナー」の方です。

 川内優輝さんは,いろいろのことがらに絡め捕られている企業ランナーとは異なる,真の「スポーツ的自立人間」の理想を追求するパイオニアです。しかも,上から目線でみられる「市民ランナー」の位置を逆転させて,これこそが「自立」したランナーの真の姿なのだ,ということを周知させることに大きな貢献をしています。

 経済的な不安のない企業ランナーであるよりは,こころの豊さを求める「市民ランナー」の道を選んだ川内さんに,21世紀の新しいスポーツ文化の可能性をみる思いがします。

 そういうことも全部含めて,万感の思いを籠めて,川内優輝さんにこころからの敬意を表します。ありがとう。新しい21世紀のスポーツ文化の創造に向けて,これからも頑張ってください。こころから応援しています。

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