2015年1月26日月曜日

ダブル・ダッチ。競技化の壁=人間の<事物化>,とどのように折り合いをつけるか。

 1月24日(土)に開催されたISC21・1月奈良例会で,思いがけない収穫がありました。若い院生さんが,ダブル・ダッチの競技化をめぐる問題について,研究発表をしてくれたお蔭です。

 その要旨は,以下のとおりです。ダブル・ダッチはもともと遊びでした。それがいつしか競い合うようになりました。そして,ついには競技化することになって,近代スポーツ競技の仲間入りをはたそうとしています。しかし,そのためには,だれもが納得するきちんとしたルールが必要になります。そこで問題になるのが,ダブル・ダッチのパフォーマンスの優劣を決める基準づくりと,その採点方法です。

 現段階では,二つの競技の方法が模索されています。一つは「技の得点を競う大会」,もう一つは「パフォーマンスを競う大会です。前者は「規定演技+スピード+フリースタイル」の合計点,後者は「技術力・構成力・表現力・完成度・オリジナリティー」の5項目を採点した合計点,という違いがあります。

 共通する問題点は,演技を採点する,つまり,点数化することによって,ダブル・ダッチがもともと持っていた「遊び」の楽しさがそぎ落とされてしまい,形骸化していく傾向があること,採点基準の根拠があいまいなこと,観客の印象(できばえ,採点)と審査員の点数との間にギャップがあること,などです。

 この発表を聞いていて,わたしもまたいろいろと考えることがありました。とてもいい勉強をさせてもらったとおもっています。その要点を記しておきますと,以下のとおりです。

 この問題は,体操競技やフィギュア・スケート,新体操や太極拳などと同じで,いわゆる採点競技に共通する問題です。そして,その問題の中核をなしているのは,「人間の<事物化>」という「思想・哲学」上の問題だ,ということです。その概要は以下のとおりです。

 遊びを点数化することはできるのか。あるいは,遊びのパフォーマンスを点数化することはできるのか。あるいはまた,技術や表現を点数化することはできるのか。結論をさきに言っておけば,それは不可能です。しかし,遊びであったダブル・ダッチを競技化し,その優劣を決するということになれば,それを無理矢理「できる」ことにしなければなりません。ここに大きな「飛躍」があります。では,その「飛躍」とはなにか。

 採点競技の最大の難点は,採点の基準を「ことば」で表現しなければならない,ということにあります。つまり,だれもが納得できる「ルール」は,まずは,「ことば」で表記しなければなりません。「ことば」で表記するということは,だれの眼にもみえていることだけに限定されてしまいます。つまり,言語化し,それを点数化する,という篩にかけることによって,ダブル・ダッチのもつ魅力の多くの要素が抜け落ちてしまいます。そこに立ち現れるものは,ダブル・ダッチの形骸化したものだけ,ということになります。

 つまり,客観化できる要素だけが残って,客観化できない要素は点数化の対象にはならない,ということです。すなわち,楽しさや心地よさといった主観的な要素は,すべて点数化の対象からは外れてしまう,ということです。

 このことはなにを意味しているのでしょうか。結論から言っておきますと,それは「人間の<事物化>」です。生身の人間を<事物>としてとらえることになる,ということです。すなわち<モノ化>です。

 もう一歩踏み込んでおきましょう。それは「人間の生の否定」です。「生きもの」としての人間の存在を否定するということです。

 「人間が生きる」ということを擁護する,これが<善>だとすれば(西田幾多郎),競技の点数化は<善>に反する行為だということになります。

 しかし,ダブル・ダッチの競技化には点数化は不可欠です。このとき,数量的合理主義の考え方は採点基準を定めたり,点数化する上でとても役に立ちます。多くの人びとを説得し,認識を共有する上では,大いに威力を発揮します。つまり,「有用性」が高いということです。しかし,この「有用性」には<限界>がある(バタイユ),ということを忘れてはなりません。つまり,一定の歯止めが必要だということです。

 ということは,数量的合理主義の考え方をどこまで取り入れて,客観的に数量化(点数化)できない主観的な要素をどの程度まで残すか,この両者のバランスをとること,つまり<折り合い>をつけることが大事な課題である,ということになるでしょう。

 ダブル・ダッチの競技化の壁=人間の<事物化>。この壁とどのように折り合いをつけるか,すなわち<絶対矛盾的自己同一>をはたすか。いま,ダブル・ダッチが問われている問題の核心はここにある,と言っていいでしょう。

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