今回の合評会には,できるだけ多くの編集者に集まってもらって,いろいろ論評してもらおうと考えていました。しかし,わたしの親しくしている編集者はみんな忙しい人ばかりで,なんとか都合をつけて参加します,と言ってくださっていた人たちも直近になって,急用ができて・・・とキャンセル。あわてて,いつものメンバーにコメンテーターを依頼するということがありました。
そんな忙しい編集者のうち,伊藤雅昭さん(みやび出版)と関口秀紀さん(平凡社)のお二人が参加してくださいました。ありがたいことでした。
まず,伊藤雅昭さんからは,『スポートロジイ』を編集・刊行した担当者という立場からご意見をいただきました。この仕事を依頼されたとき,いささか躊躇するものがあったけれども,年に一冊だというので引き受けた。ところが,予想以上にレベルが高いこと,内容が面白いことに驚きました,とおほめのことば。
もう一人の編集者である関口秀紀さん(平凡社)には,少し踏み込んでコメントをしていただきたいとお願いをしておきました。そうしましたら,第2号のできが素晴らしいとほめてくださった上で,ご自分の興味・関心から,竹村匡弥さんの「野見宿禰と河童伝承に潜む修祓(しゅばつ)の思想」をとりあげ,いろいろと面白いコメントをしてくださいました。まずは,平凡社の百科事典に書かれている小松和彦さんの「河童」の項目を引き合いに出して,ここには書かれていない,もっと奥の深い河童研究の世界が広がっていて,とても興味深く読んだ,とのこと。その上で,河童をどのように定義するかによって,研究のスタンスも大きく変化するのではないか,という基本的なコメントがありました。さらに踏み込んで,やはり藤原不比等と橘三千代の関係をどのように解釈するかによって,それ以後に登場する河童のイメージがかなり鮮明になってくるのではないか,というご指摘がありました。
こうした関口さんのご指摘に,竹村さんは一つずつ丁寧に受け答えをしながら,関口さんと竹村さんの間で,とても面白い意見のやりとりがありました。それらを全部,手際よく紹介できるといいのですが,ちょっとばかり自信がありません。そこで,このやりとりを聞きながら,わたしの脳裏を駆けめぐったことを書いてみたいと思います。
それは,以下のとおりです。
河童というものを,大和朝廷の天皇制にもとづく権力に対して,まつろわぬ者のうちでも,とくにその存在そのものを抹消しなければならないと考えられた人びとの総称というように考えてみると面白いのではないか,と。そして,その発端にある存在が,野見宿禰ではないか,と。
なぜなら,野見宿禰の出自が「出雲の人」と書かれているだけで,それ以上の記述がないことにわたしは注目しています。垂仁朝の時代に突然その名が浮上し,いきなり,当麻蹴速との対決で名をなし,そのまま天皇に仕えることになります。しかし,埴輪の提唱で知られるように,そして,土師氏の身分を与えられるように,葬送儀礼と焼き物の特殊技能をもった職能集団のトップに立つ人として,代々,天皇に仕えます。がしかし,この話にも,どうやら裏があるようです。つまり,出雲の勢力を徹底的に排除しつつ,かつ,その一部を服属させておく。つまり,表向きは厚遇しているかのように見せかけておいて,その背後では徹底的に毛嫌いしている痕跡がみられるからです。
その一例を挙げれば,東大寺の記録のなかに,野見氏,能美氏,能見氏,野身氏は「卑民」とあり,徹底した差別がなされていたことが類推できます。この人たちはすべて「出雲」出身者である野見宿禰の子孫と考えていいでしょう。なのに,野見から菅原に名乗りを変えた直系の一門だけが天皇家に取り立てられ,仕えることになります。その中興の祖が菅原道真だというわけです。しかし,その頼みの菅原道真ですら,冤罪を負って,太宰府に流されてしまいます。にもかかわらず,その祟りを恐れた天皇家は北野天満宮を建造し,その霊を鎮めようとしなければなりませんでした。それほどに,菅原一族を恐れたというよりも,菅原一族のバックにいる出雲族の反乱を恐れたのだとわたしは推理しています。国譲りによって,中央から(大和から)追い落とされた出雲族は全国に散らばって,隠然たる勢力を誇っていました。その残像は,いまでも,全国にあるオオクニヌシを祭神とする神社(そのほとんどは「一宮」としてその名をとどめています)の影響力や,スサノウを祭神とする神社や野見宿禰を祀る神社の数の多さをみれば,よくわかります。諏訪大社などの存在も忘れることはできません。
おまけに,河童伝承のなかには,「もとはスガワラ」という差別的な表現が残っていることも無視できません。スガワラ一族が立身出世していくら偉くなったとしても,もとはスガワラ,すなわち,河童出身ではないか,というわけです。この伝承を,じつは,わたしはとても注目していて,もっと詳しく検証していく必要があります。が,スガワラが河童の出であるということは,野見宿禰は河童の出身,すなわち,天皇制から追い落とされた出雲族は河童だ,というアナロジーが成立します。
この河童を差別するための根拠を,より明確にする方法(罠,仕掛け)が「ケガレ」という発想ではないか,と考えています。つまり,ケガレているから世の中から排除されるのは当然だ,と。ということは,天皇にまつろわぬ人間は,すべてケガレた人間である,と断定すればそれでいいわけです。あとはケガレた人間を,とことん抑圧・排除・隠蔽していけばいいことになります。ですから,天皇の子孫であっても,権力闘争に負けて,野に下ったあとも天皇に逆らった人間はすべて河童にされてしまいます。そういう人も歴史上少なくありません。もちろん,河童になった,とはどこにも書いてはありませんが,その子孫は闇のなかに消えていきます。
山奥の,僻地に隠れ住むようにしている一族の多くは,そういう天皇家にまつろわぬ過去をもっていることが多いということもよく知られているとおりです。そういう世界を,中上健次は小説にして,もののみごとに描きだしてみせています。「オリュウノオバ」は,中上作品にはしばしば登場する「路地」の中心人物です。「世が世ならば天皇家ともあろう者が・・・・」といって「路地」の若者たちを叱りつけるシーンが鮮烈に脳裏に焼きついています。この人たちもまた,河童です。ケガレた人びと(天皇制の側からみたら)である,というわけです。
竹村さんが注目する「修祓」の思想は,そうした背景から生まれてきたのは間違いない,とわたしは考えています。あとは,その傍証をどこまで固めるか,その根拠の整合性をどこまで立証することができるか,そこが鍵だと思います。
これからさきの竹村さんの研究がとても楽しみになってきました。わたしもこころから応援したいと思っています。
そんな忙しい編集者のうち,伊藤雅昭さん(みやび出版)と関口秀紀さん(平凡社)のお二人が参加してくださいました。ありがたいことでした。
まず,伊藤雅昭さんからは,『スポートロジイ』を編集・刊行した担当者という立場からご意見をいただきました。この仕事を依頼されたとき,いささか躊躇するものがあったけれども,年に一冊だというので引き受けた。ところが,予想以上にレベルが高いこと,内容が面白いことに驚きました,とおほめのことば。
もう一人の編集者である関口秀紀さん(平凡社)には,少し踏み込んでコメントをしていただきたいとお願いをしておきました。そうしましたら,第2号のできが素晴らしいとほめてくださった上で,ご自分の興味・関心から,竹村匡弥さんの「野見宿禰と河童伝承に潜む修祓(しゅばつ)の思想」をとりあげ,いろいろと面白いコメントをしてくださいました。まずは,平凡社の百科事典に書かれている小松和彦さんの「河童」の項目を引き合いに出して,ここには書かれていない,もっと奥の深い河童研究の世界が広がっていて,とても興味深く読んだ,とのこと。その上で,河童をどのように定義するかによって,研究のスタンスも大きく変化するのではないか,という基本的なコメントがありました。さらに踏み込んで,やはり藤原不比等と橘三千代の関係をどのように解釈するかによって,それ以後に登場する河童のイメージがかなり鮮明になってくるのではないか,というご指摘がありました。
こうした関口さんのご指摘に,竹村さんは一つずつ丁寧に受け答えをしながら,関口さんと竹村さんの間で,とても面白い意見のやりとりがありました。それらを全部,手際よく紹介できるといいのですが,ちょっとばかり自信がありません。そこで,このやりとりを聞きながら,わたしの脳裏を駆けめぐったことを書いてみたいと思います。
それは,以下のとおりです。
河童というものを,大和朝廷の天皇制にもとづく権力に対して,まつろわぬ者のうちでも,とくにその存在そのものを抹消しなければならないと考えられた人びとの総称というように考えてみると面白いのではないか,と。そして,その発端にある存在が,野見宿禰ではないか,と。
なぜなら,野見宿禰の出自が「出雲の人」と書かれているだけで,それ以上の記述がないことにわたしは注目しています。垂仁朝の時代に突然その名が浮上し,いきなり,当麻蹴速との対決で名をなし,そのまま天皇に仕えることになります。しかし,埴輪の提唱で知られるように,そして,土師氏の身分を与えられるように,葬送儀礼と焼き物の特殊技能をもった職能集団のトップに立つ人として,代々,天皇に仕えます。がしかし,この話にも,どうやら裏があるようです。つまり,出雲の勢力を徹底的に排除しつつ,かつ,その一部を服属させておく。つまり,表向きは厚遇しているかのように見せかけておいて,その背後では徹底的に毛嫌いしている痕跡がみられるからです。
その一例を挙げれば,東大寺の記録のなかに,野見氏,能美氏,能見氏,野身氏は「卑民」とあり,徹底した差別がなされていたことが類推できます。この人たちはすべて「出雲」出身者である野見宿禰の子孫と考えていいでしょう。なのに,野見から菅原に名乗りを変えた直系の一門だけが天皇家に取り立てられ,仕えることになります。その中興の祖が菅原道真だというわけです。しかし,その頼みの菅原道真ですら,冤罪を負って,太宰府に流されてしまいます。にもかかわらず,その祟りを恐れた天皇家は北野天満宮を建造し,その霊を鎮めようとしなければなりませんでした。それほどに,菅原一族を恐れたというよりも,菅原一族のバックにいる出雲族の反乱を恐れたのだとわたしは推理しています。国譲りによって,中央から(大和から)追い落とされた出雲族は全国に散らばって,隠然たる勢力を誇っていました。その残像は,いまでも,全国にあるオオクニヌシを祭神とする神社(そのほとんどは「一宮」としてその名をとどめています)の影響力や,スサノウを祭神とする神社や野見宿禰を祀る神社の数の多さをみれば,よくわかります。諏訪大社などの存在も忘れることはできません。
おまけに,河童伝承のなかには,「もとはスガワラ」という差別的な表現が残っていることも無視できません。スガワラ一族が立身出世していくら偉くなったとしても,もとはスガワラ,すなわち,河童出身ではないか,というわけです。この伝承を,じつは,わたしはとても注目していて,もっと詳しく検証していく必要があります。が,スガワラが河童の出であるということは,野見宿禰は河童の出身,すなわち,天皇制から追い落とされた出雲族は河童だ,というアナロジーが成立します。
この河童を差別するための根拠を,より明確にする方法(罠,仕掛け)が「ケガレ」という発想ではないか,と考えています。つまり,ケガレているから世の中から排除されるのは当然だ,と。ということは,天皇にまつろわぬ人間は,すべてケガレた人間である,と断定すればそれでいいわけです。あとはケガレた人間を,とことん抑圧・排除・隠蔽していけばいいことになります。ですから,天皇の子孫であっても,権力闘争に負けて,野に下ったあとも天皇に逆らった人間はすべて河童にされてしまいます。そういう人も歴史上少なくありません。もちろん,河童になった,とはどこにも書いてはありませんが,その子孫は闇のなかに消えていきます。
山奥の,僻地に隠れ住むようにしている一族の多くは,そういう天皇家にまつろわぬ過去をもっていることが多いということもよく知られているとおりです。そういう世界を,中上健次は小説にして,もののみごとに描きだしてみせています。「オリュウノオバ」は,中上作品にはしばしば登場する「路地」の中心人物です。「世が世ならば天皇家ともあろう者が・・・・」といって「路地」の若者たちを叱りつけるシーンが鮮烈に脳裏に焼きついています。この人たちもまた,河童です。ケガレた人びと(天皇制の側からみたら)である,というわけです。
竹村さんが注目する「修祓」の思想は,そうした背景から生まれてきたのは間違いない,とわたしは考えています。あとは,その傍証をどこまで固めるか,その根拠の整合性をどこまで立証することができるか,そこが鍵だと思います。
これからさきの竹村さんの研究がとても楽しみになってきました。わたしもこころから応援したいと思っています。
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