2014年2月16日日曜日

『3・11以後のこの絶望の国で──死者の語りの地平から』(山形孝夫×西谷修,ぷねうま舎)がとどく。

 今日(16日)の昼過ぎ,ひょっこりと西谷修さんが病室に現れ,昨日,出版社からとどいたばかりという見本の『3・11以後この絶望の国で──死者の語りの地平から』(山形孝夫×西谷修,ぷねうま舎)をとどけてくださいました。いつに変わらぬ優しい気配りに感謝あるのみです。今週末の22,3日ころには書店に並ぶだろうとの話です。


 思い返せば,西谷さんは,昨年(2013年)かなり頻繁に山形孝夫さんを尋ねて,一緒に東日本の被災地めぐりをしているというお話は耳にしていました。が,まさか,こんな企画もあっての話だとは想像もしていませんでした。ですから,西谷さんが「これ・・・・」と言って差し出してくださったときには思わず「あっ」と小さな声をあげてしまいました。やはり,そういうことだったのか,と。


 いずれにしても,いま,西谷さんのなさっていることは,シンポジウムにしろ,ラウンドテーブルにしろ,必ず書籍となってまとめられ,世に問われるものばかりです。それもメジャーな出版社ではなく,地道に一つのコンセプトにこだわりつづけ,明確な主張をもつマイナーな出版社をとおしてです。しかも,その内容も,フランス現代思想はもとより,戦争を語り,テロルを語り,沖縄を語り,経済を<審問>し,キリスト教を語り,という具合に多岐にわたります。そして,これらをくし刺しにする西谷さんのスタンスが「チョー哲学」(西谷さん自身による命名)というわけです。


 いまや近代アカデミズムの設定した専門の学問分野に閉じこもって発言することは,ほとんどなんの意味もない,ということがはっきりしてきました。むしろ,それらの学問領域を軽々と越境して,いま起きている世界の現象の根源にあるものを捉えることこそが喫緊の課題だ,というわけです。そのお手本のようなテクストの一つが『聖なるものの刻印──科学的合理性はなぜ盲目なのか』(ジャン=ピエール・デュピュイ著,西谷修,森元庸介,渡名喜庸哲訳,以文社)です。デュピュイもまた立派な「チョー哲学」者だとわたしは受け止めています。


 いささか脱線してしまいました。いつものように,まずはお二人の対談者の「あとがきに代えて」(山形孝夫)と「対談を終えて」(西谷修)から読み始めました。そこにはお二人のこの本に寄せる深い「思い」が書き込まれていて,期待するに充分なものを感じました。明日は無理ですが,明後日から読もうと楽しみにしています。


 なお,西谷修さんのブログに,簡にして要を得たこの本の解説がアップされていますので,ぜひ,ご覧になってみてください。テクストの写真も載っています。(「西谷修」で検索すればすぐにみられます)。


 最後に,表紙カバーの折り返しに書き込まれたコピーを紹介しておきたいと思います。


「破滅のシナリオ」がリアリティを増すこの時代に,
生き延びるためのヴィジョンを探って。
 
  破局を生きざるをえない被災者に寄り添って,
  私たちに何ができるのだろう。この問いを原点として対話する───
  死とは何か,社会は死とどのように向き合ってきたのか,
  「近代」は何を切り捨てることで
  果てしない進歩と豊かさの幻想を生んできたのか,
  そして宗教はそこでどのような役割を担ってきたのか。
  死者たちの声に重ねて,グローバリゼーションと戦争と貧困の出自を問う。

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