術後,ようやく気力・体力ともに復活してきたのか,西谷さんにいただいた近著『3・11以後この絶望の国で』(西谷修×山形孝夫著,ぷねうま舎)をぽつりぽつりと読み始めています。が,あまりの迫力にひきづられて深夜まで読みつづけることも少なくありません。
そのなかの,わたしを震撼させた内容について,ひとつだけご紹介してみたいと思います。
『ユダ福音書』なるものが,つい最近になって(20世紀の後半から今世紀にかけて)エジプト中部のナグ・ハマディ村で発見され,現在,その文書がさかんに解読されつつある,という話です。この文書は題名どおり,あの裏切り者というレッテルを貼られた「ユダ」を主人公とした福音書です。つまり,異端のキリスト教として徹底的に排除されたグノーシス派の福音書というわけです。
いわゆる正統派の福音書には,イエス・キリストは人びとの罪を贖うために「犠牲」(サクリファイス)となって十字架に架けられた,と説かれています。そして,そこが正統派キリスト教の中核となる教義になっています。しかし,異端派の,つまりグノーシス派の『ユダ福音書』にはそんなことはひとことも書いてないばかりか,イエス・キリストがみずから「犠牲」(サクリファイス)などとはとんでもないと笑いとばしている,というのです。しかも,ユダは十二使徒のなかではただ一人,イエス・キリストの教えをもっとも精確に継承する弟子として称賛されている,というのです。
神に「生贄」をささげるのはユダヤ教の古くからの「儀礼」であって,その儀礼はなんの意味もない,ということをイエス・キリストは主張していたために,ユダヤ教徒から排除されることになった,というのです。イエスは,やがては死んで朽ち果てる肉体を脱ぎ捨てて,純粋無垢の魂となり,光の国の霊的存在となること,そのために十字架で処刑されることを潔しとした,というのです。
つまり,『ユダ福音書』で説かれている,もう一つのキリスト教は,だれのためでもない,ひたすらみずからの生をみつめ,みずからの魂を光の国に送り込むための修行である,というのです。こうなってきますと,お釈迦さまの説いた仏教とほとんど変わらない修行であることがわかってきます。
では,なぜ,正統派キリスト教はイエス・キリストの教えをねじ曲げて「贖罪」と「犠牲」を前面に押し立てて教義を確立させることになったのか,ここが大問題です。一つには,新生・キリスト教をユダヤ教の流れに位置づけておかないとキリスト教徒たちは,ユダヤ教徒から徹底的に弾圧を受けることになる,その難を避けるためにこのような教義をでっちあげたのだ,と考えられています。二つには,ローマ帝国の皇帝たちが,潔く「犠牲」になるキリスト教徒を求めていたからだ,という解釈です。つまり,帝国のために命を捧げることを潔しとする強い兵士を養成するために。
つまり,正統派キリスト教の説く「福音書」はいずれも,ユダヤ教とローマ帝国にすり寄るための戦略として書かれたものだ,というのです。そのとき,イエス・キリストのほんとうの教えは,まったく別のロジックにすり替えられてしまった,というのです。
以後,このすり替えられキリスト教がローマ帝国の国教となり,権威づけられ,全世界を席巻していくことになります。その流れはヨーロッパの中世,近代を駆け抜け,こんにちの世界をも支配しつづけているという次第です。この押しも押されもしない世界宗教となった正統派キリスト教の教義が,いま,根底からゆらぎはじめている,というのです。つい最近になって,正統派キリスト教こそが捏造されたものであって,異端とされたグノーシス派こそがイエス・キリストの真の教えを伝えていることが,さまざまな研究者たちによって明らかにされつつあるといいます。
こうなってきますと,夜もおちおちと眠るわけにもいきません。
歴史とは,なんと摩訶不思議な世界なのでしょう。官製の「歴史」がいかに捏造されたものであるかは,もはや,説明する余地もありません。
詳しくは,以下のテクストを参考にしてください。
『「ユダ福音書」の謎を解く』(山形孝夫・新免貢訳,河出書房新社,2013年)
『マグダラのマリアによる福音書』(山形孝夫・新免貢訳,河出書房新社,2006年)
そのなかの,わたしを震撼させた内容について,ひとつだけご紹介してみたいと思います。
『ユダ福音書』なるものが,つい最近になって(20世紀の後半から今世紀にかけて)エジプト中部のナグ・ハマディ村で発見され,現在,その文書がさかんに解読されつつある,という話です。この文書は題名どおり,あの裏切り者というレッテルを貼られた「ユダ」を主人公とした福音書です。つまり,異端のキリスト教として徹底的に排除されたグノーシス派の福音書というわけです。
いわゆる正統派の福音書には,イエス・キリストは人びとの罪を贖うために「犠牲」(サクリファイス)となって十字架に架けられた,と説かれています。そして,そこが正統派キリスト教の中核となる教義になっています。しかし,異端派の,つまりグノーシス派の『ユダ福音書』にはそんなことはひとことも書いてないばかりか,イエス・キリストがみずから「犠牲」(サクリファイス)などとはとんでもないと笑いとばしている,というのです。しかも,ユダは十二使徒のなかではただ一人,イエス・キリストの教えをもっとも精確に継承する弟子として称賛されている,というのです。
神に「生贄」をささげるのはユダヤ教の古くからの「儀礼」であって,その儀礼はなんの意味もない,ということをイエス・キリストは主張していたために,ユダヤ教徒から排除されることになった,というのです。イエスは,やがては死んで朽ち果てる肉体を脱ぎ捨てて,純粋無垢の魂となり,光の国の霊的存在となること,そのために十字架で処刑されることを潔しとした,というのです。
つまり,『ユダ福音書』で説かれている,もう一つのキリスト教は,だれのためでもない,ひたすらみずからの生をみつめ,みずからの魂を光の国に送り込むための修行である,というのです。こうなってきますと,お釈迦さまの説いた仏教とほとんど変わらない修行であることがわかってきます。
では,なぜ,正統派キリスト教はイエス・キリストの教えをねじ曲げて「贖罪」と「犠牲」を前面に押し立てて教義を確立させることになったのか,ここが大問題です。一つには,新生・キリスト教をユダヤ教の流れに位置づけておかないとキリスト教徒たちは,ユダヤ教徒から徹底的に弾圧を受けることになる,その難を避けるためにこのような教義をでっちあげたのだ,と考えられています。二つには,ローマ帝国の皇帝たちが,潔く「犠牲」になるキリスト教徒を求めていたからだ,という解釈です。つまり,帝国のために命を捧げることを潔しとする強い兵士を養成するために。
つまり,正統派キリスト教の説く「福音書」はいずれも,ユダヤ教とローマ帝国にすり寄るための戦略として書かれたものだ,というのです。そのとき,イエス・キリストのほんとうの教えは,まったく別のロジックにすり替えられてしまった,というのです。
以後,このすり替えられキリスト教がローマ帝国の国教となり,権威づけられ,全世界を席巻していくことになります。その流れはヨーロッパの中世,近代を駆け抜け,こんにちの世界をも支配しつづけているという次第です。この押しも押されもしない世界宗教となった正統派キリスト教の教義が,いま,根底からゆらぎはじめている,というのです。つい最近になって,正統派キリスト教こそが捏造されたものであって,異端とされたグノーシス派こそがイエス・キリストの真の教えを伝えていることが,さまざまな研究者たちによって明らかにされつつあるといいます。
こうなってきますと,夜もおちおちと眠るわけにもいきません。
歴史とは,なんと摩訶不思議な世界なのでしょう。官製の「歴史」がいかに捏造されたものであるかは,もはや,説明する余地もありません。
詳しくは,以下のテクストを参考にしてください。
『「ユダ福音書」の謎を解く』(山形孝夫・新免貢訳,河出書房新社,2013年)
『マグダラのマリアによる福音書』(山形孝夫・新免貢訳,河出書房新社,2006年)
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