わたしの住んでいる溝の口駅前のコンコースの一角に「指定喫煙場所」が設定されています。喫煙者はみんなここにきてたばこを吸っています。最近の喫煙者は概してマナーのいい人が多いようで,歩きながらたばこを吸っている人は滅多にみかけません。ですから,駅を降りてすぐにたばこを吸いたい人はみんなここに集まってきます。その結果でしょう。このコーナーは常時,愛煙家でとても賑わっています。
この写真のような天気のいい日の朝の一服はさぞかしおいしかろうなぁ,と想像しています。わたしもかつては愛煙家でしたので,すがすがしい朝日を浴びながらの一服のおいしさはわかります。みなさん,それぞれにここで喫煙を楽しんでいらっしゃいます。
でも,いわゆる嫌煙家ではないわたしは,このコーナーを通るたびに,なんだか世の中少し奇怪しいよなぁ,とおもっています。なぜなら,こんな風にして「囲い込み」をしなければならない根拠が,わたしにはあまりピンとこないからです。たとえば,たばこの煙害と自動車の排気ガスと,どちらが人体に悪影響をおよぼすのか,と考えてしまうからです。もっとも,最近の自動車の排気ガスはあまり気にならなくなってきています。が,それでも自動車のたくさん走る大通りは異臭でいっぱいです。それに比べたら,たばこの煙害などたいしたことはない(現状をみるかぎりでは),と考えてしまいます。
だからといって,どこでもところかまわずたばこを吸っていいとはおもっていません。もちろん,そこには愛煙家としての一定の良識がはたらいていて,臨機応変にTPOを考えてもらえる,ということが前提条件ではありますが・・・・。
しかし,この写真をよくよくご覧ください。指定喫煙場所を区切っている可動式の植栽(檜葉?)は赤く変色しています。あれっ?枯れているのかな,とおもって近くに寄って葉をかき分けてみますと,幹に近い部分は若干ですが「みどり」色の葉が残っています。が,大半はご覧のとおり立ち枯れ寸前です。
さらに,このコーナーを囲んでいる外側の植栽は,完全に立ち枯れています。見るも無惨としかいいようがありません。また,このコーナーの近くの「つつじ」も一部,枯れてしまっています。
この情況をみていますと,やはり,たばこの煙害なのでは・・・・?と考えざるを得ません。しかし,たばこの煙くらいで植栽が枯れてしまうものなのでしょうか。この因果関係はもう少し精確なデータを確認してみる必要があるでしょう。それにしても,目の前でこのような現象を,日々,目の当たりにしていますと,やはり,そうなんだろうなぁ,とおもってしまいます。
街の景観ということを考えますと,あまりいい光景ではありません。たばこの煙に強い植栽も可能ではないか,と考えたりします。といいますのは,一昔前に大きな自動車道路の中央分離帯の植栽が枯れてしまい,問題になったことがあります。その後,自動車の排気ガスに強い植栽をしたところ,みごとに「みどり」を維持することができるようになりました。ですから,たばこの煙に強い植栽をすれば,この問題は解決できるのでは,とおもいます。
しかし,愛煙家を「囲い込んで」しまえば,それでいいのかといえば,かならずしもそうではない,というのがわたしの考えです。やはり,どうみても奇怪しな光景だからです。不自然です。法律をつくって,それで管理すればそれでいい,というのは成熟した社会とはいえないでしょう。法律で管理しなくても,愛煙家の良識にゆだねておくだけで,それで問題が起きない社会の方がはるかに成熟した社会ではないでしょうか。
つまり,自動車のハンドルのように,「あそび」があることによって,よりハンドリングがスムースにできるというような具合に・・・・。もう少しお互いに「ゆとり」がほしいとおもいます。喫煙に関しては,法律という「線」を引いて,そこを超えると罰,という時代はもう卒業したいものです。なぜなら,喫煙マナーを法律で管理するようになってから,人と人との絆がまたひとつ断ち切られたようにおもうからです。
先年訪ねた中国・雲南省の昆明では,立派な「たばこ文化」が生きていて,とてもうまい具合に機能していることを目の当たりにして驚きました。道がわからなくて教えてもらうときのための「たばこ」(やや高級なもの)と,自分が吸うたばこの両方を,愛煙家は持ち歩いている,というのです。なにか,人に尋ねたりするときには,まず「たばこをどうですか?」と薦めた上で,要件を切り出すのが習慣になっているというのです。そして,尋ねられた人はとても親切に,楽しそうに,知らない人同士なのに会話がはずんでいるのです。そういう光景に出くわしますと,なんとも「ほのぼの」としたものを感じます。
たばこの「功罪」を,もう一度,原点に立ち返って考え直すことも必要なのではないか,と最近は考えるようになっています。たばこの「罪」ばかりをあげつらい,排除してしまえばいい,という発想だけではなく,たばこの「功」の側面にも光をあてて考えてみることも必要なのではないか,と。そして,愛煙家も嫌煙家の境界線を「ゆるやかな」ものにしていく工夫が,これからの時代には必要なのではないか,と。
善か悪かの二項対立的な発想だけでは,これからの時代はやってはいけない・・・と,最近の国際的な諸般の情況を鑑みるにつけ,考えざるをえません。
でも,いわゆる嫌煙家ではないわたしは,このコーナーを通るたびに,なんだか世の中少し奇怪しいよなぁ,とおもっています。なぜなら,こんな風にして「囲い込み」をしなければならない根拠が,わたしにはあまりピンとこないからです。たとえば,たばこの煙害と自動車の排気ガスと,どちらが人体に悪影響をおよぼすのか,と考えてしまうからです。もっとも,最近の自動車の排気ガスはあまり気にならなくなってきています。が,それでも自動車のたくさん走る大通りは異臭でいっぱいです。それに比べたら,たばこの煙害などたいしたことはない(現状をみるかぎりでは),と考えてしまいます。
だからといって,どこでもところかまわずたばこを吸っていいとはおもっていません。もちろん,そこには愛煙家としての一定の良識がはたらいていて,臨機応変にTPOを考えてもらえる,ということが前提条件ではありますが・・・・。
しかし,この写真をよくよくご覧ください。指定喫煙場所を区切っている可動式の植栽(檜葉?)は赤く変色しています。あれっ?枯れているのかな,とおもって近くに寄って葉をかき分けてみますと,幹に近い部分は若干ですが「みどり」色の葉が残っています。が,大半はご覧のとおり立ち枯れ寸前です。
さらに,このコーナーを囲んでいる外側の植栽は,完全に立ち枯れています。見るも無惨としかいいようがありません。また,このコーナーの近くの「つつじ」も一部,枯れてしまっています。
この情況をみていますと,やはり,たばこの煙害なのでは・・・・?と考えざるを得ません。しかし,たばこの煙くらいで植栽が枯れてしまうものなのでしょうか。この因果関係はもう少し精確なデータを確認してみる必要があるでしょう。それにしても,目の前でこのような現象を,日々,目の当たりにしていますと,やはり,そうなんだろうなぁ,とおもってしまいます。
街の景観ということを考えますと,あまりいい光景ではありません。たばこの煙に強い植栽も可能ではないか,と考えたりします。といいますのは,一昔前に大きな自動車道路の中央分離帯の植栽が枯れてしまい,問題になったことがあります。その後,自動車の排気ガスに強い植栽をしたところ,みごとに「みどり」を維持することができるようになりました。ですから,たばこの煙に強い植栽をすれば,この問題は解決できるのでは,とおもいます。
しかし,愛煙家を「囲い込んで」しまえば,それでいいのかといえば,かならずしもそうではない,というのがわたしの考えです。やはり,どうみても奇怪しな光景だからです。不自然です。法律をつくって,それで管理すればそれでいい,というのは成熟した社会とはいえないでしょう。法律で管理しなくても,愛煙家の良識にゆだねておくだけで,それで問題が起きない社会の方がはるかに成熟した社会ではないでしょうか。
つまり,自動車のハンドルのように,「あそび」があることによって,よりハンドリングがスムースにできるというような具合に・・・・。もう少しお互いに「ゆとり」がほしいとおもいます。喫煙に関しては,法律という「線」を引いて,そこを超えると罰,という時代はもう卒業したいものです。なぜなら,喫煙マナーを法律で管理するようになってから,人と人との絆がまたひとつ断ち切られたようにおもうからです。
先年訪ねた中国・雲南省の昆明では,立派な「たばこ文化」が生きていて,とてもうまい具合に機能していることを目の当たりにして驚きました。道がわからなくて教えてもらうときのための「たばこ」(やや高級なもの)と,自分が吸うたばこの両方を,愛煙家は持ち歩いている,というのです。なにか,人に尋ねたりするときには,まず「たばこをどうですか?」と薦めた上で,要件を切り出すのが習慣になっているというのです。そして,尋ねられた人はとても親切に,楽しそうに,知らない人同士なのに会話がはずんでいるのです。そういう光景に出くわしますと,なんとも「ほのぼの」としたものを感じます。
たばこの「功罪」を,もう一度,原点に立ち返って考え直すことも必要なのではないか,と最近は考えるようになっています。たばこの「罪」ばかりをあげつらい,排除してしまえばいい,という発想だけではなく,たばこの「功」の側面にも光をあてて考えてみることも必要なのではないか,と。そして,愛煙家も嫌煙家の境界線を「ゆるやかな」ものにしていく工夫が,これからの時代には必要なのではないか,と。
善か悪かの二項対立的な発想だけでは,これからの時代はやってはいけない・・・と,最近の国際的な諸般の情況を鑑みるにつけ,考えざるをえません。
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