「観音導利興聖宝林禅寺」。通称「興聖寺」(こうしょうじ)。日本で最初の中国式僧堂。道元が中国の如浄禅師から「正法」(しょうぼう)を面授され,帰国後に,最初に建てた僧堂,それがこの通称「興聖寺」です。
しかし,わたしの眼は最後の「宝林禅寺」という名称に釘付けになっています。なぜなら,わたしの母の実家が禅寺で,その寺の名前が「宝林寺」。この寺に,アメリカ軍の空襲(いまの「空爆」と同じ)により焼け出され,すべてを失って着の身・着のまま疎開し,ほぼ1年,寄留生活をしていたことがあります。文字どおりに読めば「ほうりんじ」のはずなのに,なぜか村の人たちは「ほうれんじ」と呼んでいるように聞こえ,不思議におもった記憶があります。
僻村にしては立派な門構えの寺で,子どもごころにも,どことなく誇りを感じていました。村の人たちのまなざしも暖かく,親切にしてくれました。疎開してまもなくは,通学(国民学校,いまの小学校の2年生)の途中で村の人に挨拶をすると,初めて逢った人はかならず声をかけてくれました。
「あんた,どこの子だん?」「宝林寺」と答えると「ほいじゃぁ,たえちゃんの子かん?」「うん」「ほいじゃぁ,いい子だのん」「?」
このとき,寺の子は「いい子」でなくてはならないのだ,と知りました。が,我が意に反して,悪さばかりするとんでもない子として育ちましたが・・・・。
敗戦直前から敗戦直後の,ほぼ1年,この寺で生活をしました。天皇による「玉音放送」もこの寺で聞きました。当時,寺の住職をしていた大伯父もまだ若々しく,とても元気でした。夏の風呂上がりにはふんどし一丁で涼をとっていた姿が印象に残っています。逆三角形の筋肉隆々たる上半身はみごとでした。恐るおそる近寄って,肩の筋肉にそうっと触ると,にっこり笑って「おしも大きくなったら柔道をやりゃあいい」と教えてくれました。
この大伯父が,いま考えてみると,世を達観したような日常の立ち居振る舞いをしていました。それはみごとというほかはない,淡々とした生き方でした。この話をはじめますとエンドレスですので,今回は割愛。
でも,ひとことだけ。どうやらこの大伯父は「道元」さんの存在をつねに意識しながら生きていたのではなかったか,とこれも今回の発見でした。なぜなら,この大伯父が「観音導利興聖宝林禅寺」の存在を知らなかったはずはないでしょうし,道元が「常住坐臥これ坐禅」と説いた話も,「身心脱落」(しんじんだつらく・しんじんとつらく)して悟りに達した話も,「修証一等」(しゅしょういっとう)を説いた話も,みんなからだの中に叩き込まれていたに違いありません。そして,それをみずから実践しておられたのではないか,と。つまり,道元さんのいう意味での「坐禅」に徹して生きておられたのではないか,と。
わたしは子どもごころに,「宝林寺」の意味がわからず,不思議で仕方がありませんでした。「宝の林の寺」とは,いったい,どういうことなのか,と。いつか,大伯父に聞いてみようとおもいながら,ついに,そのチャンスを逸してしまいました。が,いまごろになって,ようやくその意味がこころの底から腑に落ちました。
すべては道元さんが建てた僧堂「観音導利興聖宝林禅寺」の名づけのなかにある,と。不粋ながら,この僧堂の名づけの意味を,わたしがどう読み取ったかを明らかにしておきましょう。
観音さまがお釈迦さまの教え(「正法」)を導いてくれる禅寺,そして,聖なるものを説き興こし盛んにしてくれる禅寺,だから,ありがたい宝ものがいっぱい詰まった禅寺,これがわたしの建てた禅寺です,とこれは道元さんのこころの底から発せられた一大決意であり,その宣言である,と。
観音さまとは『般若心経』の冒頭に登場します「観自在菩薩」のことです。そして,『般若心経』は衆知のようにお釈迦様の説いた「正法」のエキスを集約して,観音さまが舎利子(修行僧)に説いて聞かせているお経です。ですから,禅寺では毎朝のお勤めは『般若心経』の読経からはじまります。大伯父もまた「宝林寺」の朝を『般若心経』の読経からはじめていました。
道元さんもまた,「観音導利興聖宝林禅寺」の朝は『般若心経』をあげることからはじめていました。そして,修行僧に向かって,声高らかに宣言したことば,それが今日のブログのテーマです。
「坐禅は,悟りの手段ではなく,悟りそのものである」,と。
すなわち,「修証一等」。
鎌倉時代の仏教界に衝撃が走りました。なぜ? この問題はいつかまた。
しかし,わたしの眼は最後の「宝林禅寺」という名称に釘付けになっています。なぜなら,わたしの母の実家が禅寺で,その寺の名前が「宝林寺」。この寺に,アメリカ軍の空襲(いまの「空爆」と同じ)により焼け出され,すべてを失って着の身・着のまま疎開し,ほぼ1年,寄留生活をしていたことがあります。文字どおりに読めば「ほうりんじ」のはずなのに,なぜか村の人たちは「ほうれんじ」と呼んでいるように聞こえ,不思議におもった記憶があります。
僻村にしては立派な門構えの寺で,子どもごころにも,どことなく誇りを感じていました。村の人たちのまなざしも暖かく,親切にしてくれました。疎開してまもなくは,通学(国民学校,いまの小学校の2年生)の途中で村の人に挨拶をすると,初めて逢った人はかならず声をかけてくれました。
「あんた,どこの子だん?」「宝林寺」と答えると「ほいじゃぁ,たえちゃんの子かん?」「うん」「ほいじゃぁ,いい子だのん」「?」
このとき,寺の子は「いい子」でなくてはならないのだ,と知りました。が,我が意に反して,悪さばかりするとんでもない子として育ちましたが・・・・。
敗戦直前から敗戦直後の,ほぼ1年,この寺で生活をしました。天皇による「玉音放送」もこの寺で聞きました。当時,寺の住職をしていた大伯父もまだ若々しく,とても元気でした。夏の風呂上がりにはふんどし一丁で涼をとっていた姿が印象に残っています。逆三角形の筋肉隆々たる上半身はみごとでした。恐るおそる近寄って,肩の筋肉にそうっと触ると,にっこり笑って「おしも大きくなったら柔道をやりゃあいい」と教えてくれました。
この大伯父が,いま考えてみると,世を達観したような日常の立ち居振る舞いをしていました。それはみごとというほかはない,淡々とした生き方でした。この話をはじめますとエンドレスですので,今回は割愛。
でも,ひとことだけ。どうやらこの大伯父は「道元」さんの存在をつねに意識しながら生きていたのではなかったか,とこれも今回の発見でした。なぜなら,この大伯父が「観音導利興聖宝林禅寺」の存在を知らなかったはずはないでしょうし,道元が「常住坐臥これ坐禅」と説いた話も,「身心脱落」(しんじんだつらく・しんじんとつらく)して悟りに達した話も,「修証一等」(しゅしょういっとう)を説いた話も,みんなからだの中に叩き込まれていたに違いありません。そして,それをみずから実践しておられたのではないか,と。つまり,道元さんのいう意味での「坐禅」に徹して生きておられたのではないか,と。
わたしは子どもごころに,「宝林寺」の意味がわからず,不思議で仕方がありませんでした。「宝の林の寺」とは,いったい,どういうことなのか,と。いつか,大伯父に聞いてみようとおもいながら,ついに,そのチャンスを逸してしまいました。が,いまごろになって,ようやくその意味がこころの底から腑に落ちました。
すべては道元さんが建てた僧堂「観音導利興聖宝林禅寺」の名づけのなかにある,と。不粋ながら,この僧堂の名づけの意味を,わたしがどう読み取ったかを明らかにしておきましょう。
観音さまがお釈迦さまの教え(「正法」)を導いてくれる禅寺,そして,聖なるものを説き興こし盛んにしてくれる禅寺,だから,ありがたい宝ものがいっぱい詰まった禅寺,これがわたしの建てた禅寺です,とこれは道元さんのこころの底から発せられた一大決意であり,その宣言である,と。
観音さまとは『般若心経』の冒頭に登場します「観自在菩薩」のことです。そして,『般若心経』は衆知のようにお釈迦様の説いた「正法」のエキスを集約して,観音さまが舎利子(修行僧)に説いて聞かせているお経です。ですから,禅寺では毎朝のお勤めは『般若心経』の読経からはじまります。大伯父もまた「宝林寺」の朝を『般若心経』の読経からはじめていました。
道元さんもまた,「観音導利興聖宝林禅寺」の朝は『般若心経』をあげることからはじめていました。そして,修行僧に向かって,声高らかに宣言したことば,それが今日のブログのテーマです。
「坐禅は,悟りの手段ではなく,悟りそのものである」,と。
すなわち,「修証一等」。
鎌倉時代の仏教界に衝撃が走りました。なぜ? この問題はいつかまた。
0 件のコメント:
コメントを投稿