2015年2月22日日曜日

「ランニング・ポリス」(東京マラソンで採用)って,少し変だとおもいませんか。

 
 東京マラソンが「攻撃」のターゲットになっている・・・・。だから,ランナーたちの安全を守るために「ランニング・ポリス」制度を採用した・・・。なにか,もっともらしい話に聞こえますが,どこか本末転倒しているのではないか,とおもうのはわたしだけでしょうか。

 マラソン大会を開催すること自体が危険にさらされている・・・まずは,こういう事態を回避するための智恵・方策こそが求められるべきなのに・・・とおもいませんか。つまり,原因を除去することが先決なのに,対象療法的な小手先の対処でことの本質をごまかそうとしている・・・のでは,と。

 
だれかさんの手法とまったく同じ。テロリストがすべて悪い。だから,テロリストを徹底的に撲滅することだけが「正義」。そのためには手段を選ばず。一般の市民や女性・子どもを巻き添えにしても,すべて許される。この発想自体が狂っているということに気づいていない。いな,気づいていても「みてみないふり」をしている。ましてや,声に出して言うことは憚られる,そういう雰囲気が蔓延している。だから,みんな黙っているだけ。

 そして,これが日常化してしまい,その奇怪しさがふつうになってしまう。それが当たり前に。

 その結果,ゆきついた結論のひとつが「ランニング・ポリス」の登場ではないか。そして,このこと自体が狂っている,奇怪しいとおもう感性すら,すでにマヒしてしまっている,のでは。だとしたら,重病です。

 いま,必要なのは,なぜ,テロリストが生まれるのか,そして,なぜ,テロリストが蔓延しているのか,その原因を明らかにすることではないでしょうか。テロリストを圧倒的な(あるいは,一方的な)「暴力」で排除しようとすればするほど,テロリストが蔓延していくのは,なぜか。そして,この日本の若者のなかにもテロリスト集団に身を投じたいという願望をいだく者がでてくるのは,なぜか。

 いま問われているのは,このことです。

 この悪循環の輪を断ち切るための智恵・方策こそが,いま求められている喫緊の課題ではないでしょうか。

 今日(2月20日)の東京新聞の記事を読みながら,素直におもったことを書いてみました。

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