2015年2月11日水曜日

「無常(むじょう)憑(たの)み難(がた)し」。『修証義』第3節。

 無常ほど頼りにならないものはありません,と第3節は切り出しています。まずは,第3節の全文を挙げておきましょう。

 「無常(むじょう)憑(たの)み難(がた)し,知(し)らず露命(ろめい)いかなる道(みち)の草(くさ)にか落(お)ちん,身(み)已(すで)に私(わたくし)に非(あら)ず,命(いのち)は光陰(こういん)に移(うつ)されて暫(しばら)くも停(とど)め難(がた)し,紅顔(こうがん)いずくへか去(さ)りにし,尋(たず)ねんとするに〇跡(しょうせき)なし,熟(つらつら)観(かん)ずる所(ところ)に往時(おうじ)の再(ふたた)び逢(お)うべからざる多(おお)し,無常(むじょう)忽(たちま)ちに到(いた)るときは国王(こくおう)大臣(だいじん)親〇(しんじつ)従僕(じゅうぼく)妻子(さいし)珍宝(しんほう)たすくる無(な)し,唯(ただ)独(ひと)り黄泉(こうせん)に趣(おもむ)くのみなり,己(おの)れに随(したが)い行(ゆ)くは只(ただ)是(こ)れ善悪(ぜんなく)業(ごう)等(とう)のみなり」。

 ※ワープロ機能の漢字レベルが低いために,打ち出せない漢字については「〇」としておきました。そこに入る文字は,下の写真で確認してください。お許しのほどを。

 
この第三節でもむつかしいことはなにも言ってはいません。毎日変化する日常なんてなんの当てにもなりませんよ。人の一生などというものはあっという間のできごと。気がついたときには死ぬときを迎えていますよ。死ぬのはたった独り。だれも助けてはくれません。一緒についてくるのは生涯にわたって自分で積み上げた「善悪の業等」だけですよ,と説いています。大意はこんなところです。もう少し詳しい読解は,最後に述べてみたいとおもいます。

 ここではまず「無常」ということについて考えてみたいとおもいます。

 「無常(むじょう)憑(たの)み難(がた)し」。

 「無常」と「無情」とを混同している人は意外に少なくありません。かく申すわたしも若いころはきちんとした区別もできないまま混同していました。しかし,あるとき,「無常」=「常が無い」と「無情」=「情が無い」とでは,まったく次元の違う話ではないか,と気づきました。そして,「常が無い」とはどういうことなのだろうか,と本気で考えるようになりました。すると,そこにはとてつもない広がりがあり,深い哲学的な思考が隠されていることに気づき,唖然としてしまったことがあります。

 以来,「無常」とはなにか,と自問自答を繰り返してきました。「常が無い」。では「常」とはなにか。仏教用語としては,「常」とは「一定の静止した状態のこと」を意味します。森羅万象からはじまって,身近な存在である動植物も,そして,わたしたち人間も,一瞬たりとも「静止した状態」は「無い」と説きます。変化などしないとおもわれがちの鉱物(石や鉄など)も,時間の単位が異なるだけで,「常」に時々刻々と「変化」しつづけている,というわけです。

 わたしたちの生命も,誕生から死まで,いっときたりとも「静止」することはなく,「常」に変化しつづけ(誕生・成長・成熟・老化・死)ています。お釈迦さんはこれを「生・老・病・死」と位置づけ,人間の四つの苦しみ=「四苦」と呼びました。そうです。四苦八苦の「四苦」です。こんなことは一度,耳にすればだれにでもわかっていることです。しかし,わたしたちは,日々の暮らしに押し流されて,このことをすっかり忘れてしまっています。つまり,目先の,ごく日常的な変化に眼が奪われてしまい,人が「生きる」ということはどういうことなのか,という一番大事な要件を忘れてしまい,ないがしろにしたまま生涯を過ごしてしまいがちになる,ということです。つまり,自分の「存在」をしっかりと視野に取り込むことを忘れてしまいます。

 この辺りのことは,ドイツの哲学者・ハイデガーも同じような思考を名著『存在と時間』の中で展開しています。「いま,ここ」にある「わたし」は,瞬時にして過去の「わたし」になってしまいます。「いま」と言った瞬間に,その「いま」は過去になってしまいます。つまり,わたしたちの「存在」は,「時間」の流れの中に押し流されてしまい,見失ってしまう,というわけです。そして無為のうちに日常性のなかに埋没してしまう,と。

 そうして,いつのまにか,日々,同じ生活のパターンの繰り返しを,惰性的に「生きる」ようになってしまう,と説きます。それが,ハイデガーの主張した重要な概念の一つ「頽落」(Verfallen)というわけです。ふつうのことばに直せば「堕落」ということです。そして,この「頽落」から抜け出すにはどうすればいいのか,という問いをてがかりにして「存在」とはなにか,人間が「存在」するとはどういうことか,という思考が展開されていきます。

 世界観も方法も異なりますが,道元が説いたこととハイデガーが説いたこととは,もののみごとに符合するところがあります。

 「無常(むじょ)憑(たの)み難(がた)し」とは,そういうことなのです。

 このことをしっかりと押さえておけば,あとは,ごくごく当たり前のことを説いているだけです。が,この「当たり前」がもっとも困難なことであるわけです。このことも,ここではとくに注意を喚起しておきたいとおもいます。

 それでは最後にわたしの読解を提示しておきたいとおもいます。

 無常はなんの頼りにもなりません。知らないうちにみずからのはかない命の露を道端の草の上に落とすだけです。そのとき,すでに,わたしのからだはわたしのものではなくなっています。わたしの命は時間の流れのなかに取り込まれてしまって,いたずらに押し流されていくだけです。少年時代はもう遠い過去となり,振り返ってみてもこれといった思い出はなにもありません。よくよく考えてみても,一番よかったとおもわれる時代を取り戻すことはほとんど不可能です。あっという間の人生を終えるときは国王も大臣も親しき友も弟子も妻子も宝物もなんの助けにもなりません。たった独りで黄泉の国に旅立つのみです。わたしに従ってついてくるものは,生涯にわたって積み上げてきた「善悪の業等」だけです。

 ※「善悪の業等」については,このあとに詳しく展開されてきますので,そのときに考えてみたいとおもいます。

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