7月16日(日)の夜も,ちょうど夕食時だったので,昨夜と同じNHKスペシャルをみるともなくみてしまった。目的は,午後7時からの「ニュース7」で,代々木公園で開催された「脱原発10万人集会」をどのようにNHKが報道するか,それをみることだった。案の定,終わりの方でとってつけたような報道しかしなかったのだが・・・・。17万人が集まった過去最大級の集会だというのに,これだ。まあ,いやいや報道したという姿勢がまるみえだったので想定どおり。でも,さすがにNHKも無視はできなくなったようだ。金曜日の首相官邸前のデモはずっと無視してきたのに・・・。最近になって,ちょろっとだけ報道するようになった。この姿勢にNHKの体質のすべてが映し出されているということを知ってか知らずにか・・・・。
話をもとにもどそう。
7月16日(日)午後7時30分。NHKスペシャル「ミラクルボディー」マラソン世界最強軍団▽続々と2時間3分台▽アフリカの大自然が生んだ驚異の心肺機能▽疲れない走りの秘密。
この番組も冗長だった。中味がないのだ。しかし,夕食を摂りながら,つまりビールを呑みながら見るにはちょうどよかったかもしれない。そういう番組だったのかも。なぜなら,昨夜の内村航平選手のボディーに迫る「科学」と同じで,まったく馬鹿みたいな「科学」のお話だったから。退屈しのぎのつもりだったが,やはり退屈してしまった。のみならず,テレビに向かって吼えつづけなくてはならない,というおまけつき。
もう,皇帝と呼ばれたハイレ・セラシエ,などという固有名詞はぜんぶはぶいて,「科学」の力を借りて「ミラクル・ボディー」を解析しようとする番組制作者の愚かしさと,その到達した結論の「無」に注目したい。この「無」にはあらゆる意味をこめている。無意味,無知,無能,無目的,無内容,無駄,無実,無根,無思想,無批判,無理,・・・・あとはお好きなように。
番組の小見出しに沿って,かんたんにわたしの感想を述べておく。
▽続々と2時間3分台・・・・たとえば,4000人の集落に1000人のランナーがいるからだという。この数字には驚いたが,マラソン・ランナーとして成功すれば,一族郎党みんなが安心して生活できるようになる,という貧困が背景にある,とテレビはさももっともらしく映像を流す。ならば,日本人もみんな貧困になればいい。ハングリー精神が必要だとは,以前から言われている。しかし,それは必要条件ではあっても,十分条件ではない。2時間3分台の選手が続出する背景にはこんな貧困があるということを,わたしたちはもっと別の角度から考えなくてはならないだろう。これを単なる説明論理として使うだけで済まされる問題ではないだろう。しかも,「ミラクル・ボディー」などという「科学」の視点から眺めてそれでよしとしている場合ではないだろう。こんなところにも,番組制作者たちのとんでもない「理性」の狂い方をみてとることができる。
▽アフリカの大自然が生んだ驚異の心肺機能・・・・標高2000mを超える高地で生まれ生活をしている人びとを映し出す。そして,子どもたちが毎日裸足で走って学校に通う姿が映し出される。そのなかからランナーが選ばれ,高い授業料を払ってトレーニング・スクールに入り,合宿生活をしながら厳しいトレーニングに耐える。その数たるや信じられないほどの数だ。そうして鍛えられた「驚異の心肺機能」だ。別に「科学」で明らかにしてくれなくても,映像をみているだけでわかることだ。それをまことしやかに「科学」の力を借りて,事細かに心肺機能を測定し「数量化」して比較する。なるほど,と一瞬思う。しかし,そんなことをしなくても初めからわかっているし,その「数量化」の数字は想定どおりであって,新しい知見でもなんでもない。環境に意図的・計画的に適応しただけの話ではないか。
▽疲れない走りの機能・・・・「つまさき」走りということがしばらく前から話題になっている。それを「科学」してみた,というだけの話。こまかな話は省略するが,この走りを身につけるのは容易ではない,とわたしは映像をみながら考える。前に送り出した足のつま先から順にかかとへと体重を移動させながら着地のときのショックを軽減している,と「科学」(者)は説明している。そして,これが可能なのは,「足底筋群」が発達しているからだ,と結論づける。それでおしまい。アホか,と思う。つまり,足の着地部分しか見ていないのである。だから,そこだけをスローモーションで動きを分節化し,その足の運び方だけに注目する。そして,日本人選手(可哀相に)の走りと比較する。その上で,かかとから着地する日本人選手の足が受ける衝撃は大きい,と説明する。その結果,大腿筋に大きな負荷がかかる,としてそれを測定する。それを数量化して,比較して,こんなに違うという。それで,おしまい。
これがNHKスペシャルのいう「科学」なのだ。子供騙しもいいところ。こんなレベルで「科学神話」が構築されようとしているのだから恐ろしい。これを,世間では「スポーツ科学」だと信じている。名誉のために言っておくが,「スポーツ科学」はそんな幼稚なものではない。もっと,運動の特性をしっかりと把握した上で,トータルに分析のまなざしを投げかける。つまり,スポーツ科学にはその競技種目の専門家の意見を取り入れながら,分析対象を絞り込んでいく手続がある。それさえできてはいない,まことに素人考えの,稚拙な「科学」の援用でしかないのである。これが制作担当者の狂った「理性」であり,「無」だ,とあえてもう一度言っておく。
わたしはアフリカのランナーたちの映像をみながら,まったく別のことを考えていた。
足首の驚くべき柔らかさ,膝の柔らかさ,そして,股関節の柔らかさ・・・・つまり,全部の関節が「ゆるんで」いるのだ。だから,単にフラットに足を着地するだけではなくて,着地のときの衝撃を腰から下のすべての関節で順番に分担して受け止めつつ,それを推進力に変えている。しかも,受け止めた衝撃をバネに変えて足の蹴り出しにつなげている。これはかなり高度な技術だといわなけばならない。
なぜなら,かれらの足の裏は手の平と同じくらい鋭敏な感覚と情報収集能力をもっているはずだ。それは,こどものときから裸足で駆け回り,足の裏からえられる情報を走りの改善に還元しているのだ。そうして,自分なりの走り方を創意工夫して身につけていく。
もっと言っておけば,かれらの足は自然のままの,いかなる地形にも対応できる走りを,先祖代々にわたって受け継いできているのだ。つまり,まだ,退化していない足なのだ。それに引き換え,文明先進国の人間の足は幼児のころから靴を履き,大地から直接情報を受け止める能力を失っている。つまり,退化してしまっているのだ。一度,退化してしまった足をもとにもどさないかぎり,かれらの走りをわがものとすることは不可能なのだ。
思い起こされることは,荒川修作が「死なないために」と言って養老天命反転地というテーマ・パークをつくったことだ。つまり,荒川修作は文明化した社会に生きている人間のからだはどんどん死に向かって直進していく。だから,「死なないために」は,人間の住環境を反転させて,まことに住みにくい家を建て,でこぼこの道をつくり・・・・して,その環境で生活することが必要なのだ,と荒川は主張した。そして,多くの作品を残している。かれの建築のテーマのひとつは「転ぶ」だった。「転ぶ」瞬間,人間は自己を失う。そこが生存の原点であり,その経験をとおして自己をとりもどしていくのだ,とかれは考えた。
裸足で走る人たちの足の感覚は,文明人のそれとはまったく異質なのだ。
そこからもう一度,走るとはどういうことなのかを考える必要がある。これがこの番組をとおして,わたしが学んだことだ。その意味では,まことにいい番組ではあった。しかし,このことは番組が意図した「科学」による分析とはなんの関係もない。バタイユは「有用性の限界」ということを言ったが,まさに「科学の限界」をしっかり認識することが,現代社会にあっては重要なのだ。それが「科学神話」から離脱し,移動するための手順なのだ。
以上が,わたしからの報告です。
話をもとにもどそう。
7月16日(日)午後7時30分。NHKスペシャル「ミラクルボディー」マラソン世界最強軍団▽続々と2時間3分台▽アフリカの大自然が生んだ驚異の心肺機能▽疲れない走りの秘密。
この番組も冗長だった。中味がないのだ。しかし,夕食を摂りながら,つまりビールを呑みながら見るにはちょうどよかったかもしれない。そういう番組だったのかも。なぜなら,昨夜の内村航平選手のボディーに迫る「科学」と同じで,まったく馬鹿みたいな「科学」のお話だったから。退屈しのぎのつもりだったが,やはり退屈してしまった。のみならず,テレビに向かって吼えつづけなくてはならない,というおまけつき。
もう,皇帝と呼ばれたハイレ・セラシエ,などという固有名詞はぜんぶはぶいて,「科学」の力を借りて「ミラクル・ボディー」を解析しようとする番組制作者の愚かしさと,その到達した結論の「無」に注目したい。この「無」にはあらゆる意味をこめている。無意味,無知,無能,無目的,無内容,無駄,無実,無根,無思想,無批判,無理,・・・・あとはお好きなように。
番組の小見出しに沿って,かんたんにわたしの感想を述べておく。
▽続々と2時間3分台・・・・たとえば,4000人の集落に1000人のランナーがいるからだという。この数字には驚いたが,マラソン・ランナーとして成功すれば,一族郎党みんなが安心して生活できるようになる,という貧困が背景にある,とテレビはさももっともらしく映像を流す。ならば,日本人もみんな貧困になればいい。ハングリー精神が必要だとは,以前から言われている。しかし,それは必要条件ではあっても,十分条件ではない。2時間3分台の選手が続出する背景にはこんな貧困があるということを,わたしたちはもっと別の角度から考えなくてはならないだろう。これを単なる説明論理として使うだけで済まされる問題ではないだろう。しかも,「ミラクル・ボディー」などという「科学」の視点から眺めてそれでよしとしている場合ではないだろう。こんなところにも,番組制作者たちのとんでもない「理性」の狂い方をみてとることができる。
▽アフリカの大自然が生んだ驚異の心肺機能・・・・標高2000mを超える高地で生まれ生活をしている人びとを映し出す。そして,子どもたちが毎日裸足で走って学校に通う姿が映し出される。そのなかからランナーが選ばれ,高い授業料を払ってトレーニング・スクールに入り,合宿生活をしながら厳しいトレーニングに耐える。その数たるや信じられないほどの数だ。そうして鍛えられた「驚異の心肺機能」だ。別に「科学」で明らかにしてくれなくても,映像をみているだけでわかることだ。それをまことしやかに「科学」の力を借りて,事細かに心肺機能を測定し「数量化」して比較する。なるほど,と一瞬思う。しかし,そんなことをしなくても初めからわかっているし,その「数量化」の数字は想定どおりであって,新しい知見でもなんでもない。環境に意図的・計画的に適応しただけの話ではないか。
▽疲れない走りの機能・・・・「つまさき」走りということがしばらく前から話題になっている。それを「科学」してみた,というだけの話。こまかな話は省略するが,この走りを身につけるのは容易ではない,とわたしは映像をみながら考える。前に送り出した足のつま先から順にかかとへと体重を移動させながら着地のときのショックを軽減している,と「科学」(者)は説明している。そして,これが可能なのは,「足底筋群」が発達しているからだ,と結論づける。それでおしまい。アホか,と思う。つまり,足の着地部分しか見ていないのである。だから,そこだけをスローモーションで動きを分節化し,その足の運び方だけに注目する。そして,日本人選手(可哀相に)の走りと比較する。その上で,かかとから着地する日本人選手の足が受ける衝撃は大きい,と説明する。その結果,大腿筋に大きな負荷がかかる,としてそれを測定する。それを数量化して,比較して,こんなに違うという。それで,おしまい。
これがNHKスペシャルのいう「科学」なのだ。子供騙しもいいところ。こんなレベルで「科学神話」が構築されようとしているのだから恐ろしい。これを,世間では「スポーツ科学」だと信じている。名誉のために言っておくが,「スポーツ科学」はそんな幼稚なものではない。もっと,運動の特性をしっかりと把握した上で,トータルに分析のまなざしを投げかける。つまり,スポーツ科学にはその競技種目の専門家の意見を取り入れながら,分析対象を絞り込んでいく手続がある。それさえできてはいない,まことに素人考えの,稚拙な「科学」の援用でしかないのである。これが制作担当者の狂った「理性」であり,「無」だ,とあえてもう一度言っておく。
わたしはアフリカのランナーたちの映像をみながら,まったく別のことを考えていた。
足首の驚くべき柔らかさ,膝の柔らかさ,そして,股関節の柔らかさ・・・・つまり,全部の関節が「ゆるんで」いるのだ。だから,単にフラットに足を着地するだけではなくて,着地のときの衝撃を腰から下のすべての関節で順番に分担して受け止めつつ,それを推進力に変えている。しかも,受け止めた衝撃をバネに変えて足の蹴り出しにつなげている。これはかなり高度な技術だといわなけばならない。
なぜなら,かれらの足の裏は手の平と同じくらい鋭敏な感覚と情報収集能力をもっているはずだ。それは,こどものときから裸足で駆け回り,足の裏からえられる情報を走りの改善に還元しているのだ。そうして,自分なりの走り方を創意工夫して身につけていく。
もっと言っておけば,かれらの足は自然のままの,いかなる地形にも対応できる走りを,先祖代々にわたって受け継いできているのだ。つまり,まだ,退化していない足なのだ。それに引き換え,文明先進国の人間の足は幼児のころから靴を履き,大地から直接情報を受け止める能力を失っている。つまり,退化してしまっているのだ。一度,退化してしまった足をもとにもどさないかぎり,かれらの走りをわがものとすることは不可能なのだ。
思い起こされることは,荒川修作が「死なないために」と言って養老天命反転地というテーマ・パークをつくったことだ。つまり,荒川修作は文明化した社会に生きている人間のからだはどんどん死に向かって直進していく。だから,「死なないために」は,人間の住環境を反転させて,まことに住みにくい家を建て,でこぼこの道をつくり・・・・して,その環境で生活することが必要なのだ,と荒川は主張した。そして,多くの作品を残している。かれの建築のテーマのひとつは「転ぶ」だった。「転ぶ」瞬間,人間は自己を失う。そこが生存の原点であり,その経験をとおして自己をとりもどしていくのだ,とかれは考えた。
裸足で走る人たちの足の感覚は,文明人のそれとはまったく異質なのだ。
そこからもう一度,走るとはどういうことなのかを考える必要がある。これがこの番組をとおして,わたしが学んだことだ。その意味では,まことにいい番組ではあった。しかし,このことは番組が意図した「科学」による分析とはなんの関係もない。バタイユは「有用性の限界」ということを言ったが,まさに「科学の限界」をしっかり認識することが,現代社会にあっては重要なのだ。それが「科学神話」から離脱し,移動するための手順なのだ。
以上が,わたしからの報告です。
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