2015年8月29日土曜日

ああ,ウサイン・ボルト。200m決勝レースでも後半は流している。

 ウサイン・ボルト。200m決勝レースでも,コーナーを廻って直線コースにでてきて,自分が一番だと確認したとたんに,もう流している。ゆったりと楽に流している。にもかかわらず,追ってくる選手たちはその差を詰めることはできなかった。そして,悠々とゴール。いったい,なんという男か。こと200mに関しては敵なしだ。しかも,こんなにも力の差があるとは・・・・。 

 このところ,世界陸上にくびったけ。毎夕食のたびにテレビ観戦。そのまま午後10時までやめられない。困ったものだ。陸上競技がこんなに面白いものだとは知らなかった。たぶん,これはテレビ観戦の効果なのだろう。実際に競技場で観戦するのとはまるで違う世界。これこそ「みるスポーツ」の権化。いったい,テレビの画像をとおして,わたしたちはなにを「みて」いるのだろうか。

 じっさいに,スタジアムに行って,自分の眼で「みる」のと,テレビをとおして「みる」のとの違いはなにか。同じ「みる」行為なのに,どこが,どう違うのか。これは,じつは,とてつもなく重要なテーマなのだ。が,これまであまり踏み込んだ議論をだれもやっていない,と記憶する。今回はその入口の議論だけでも,ちょっとだけ試みてみたい。

 その違いの第一は,「みる」行為の主体がまったく異なるという点にある。テレビ観戦がはじまる前までは(それは,1964年オリンピック東京大会が大きな節目の年だった),スポーツを「みる」ためにはみずからスタジアムや野球場に足を運んで,自分の眼でみた。そして,そこでなにを「みる」かも自分で決めた。自分の興味・関心に合わせて見たいものを「みる」。つまり,すべてその主体は自分自身にある。しかし,テレビ観戦となると,送られてくる映像はすべてテレビ局によって編集されたものである。どの映像を切り取るかはすべてディレクターの主観に委ねられている。わたしたちは,それをただ享受するだけ。没主体。受け身。

 こんなことを繰り返しているから,やがては「思考停止」,ついには「自発的隷従」が透けてみえてくる。テレビとはそういう装置だということがみえてくる。このプロセスについては,しっかりと分析しておくことが肝要だ。なぜなら,いま,問題になっている「だれも責任をとらない社会」の淵源をたどっていくと,その一因に,このからくりが浮かびあがってくるからだ。

 第二のポイントは,映像がアップにされ,リピートされるということ。感動的なシーンは何回でも繰り返し映し出されるということ。これは,テレビならではのメリット。だからテレビ観戦はやめられない。スタジアムではみることのできない決定的なシーンを,テレビは「映像」化して提供してくれる。もっと言ってしまえば,人間の眼にはみえないものまでも映像を解析して,しかも,スローモーションにして,じっくりと「みせて」くれる。肉眼ではみることもできない1000分の1秒の世界を可視化してくれる。しかし,このことの功罪については慎重を要するところだ。

 というような具合に,重要な問題が,随所に隠されている。

 こうした問題とは別に,わたし自身は,決勝レースの直前にアップで映し出される選手たちの顔を楽しんでいる。みんないい顔をしている。いざ,勝負という直前にしか表出しない,えもいわれぬいい顔ばかりだ。緊張の極にいながら,それをなんとか解きほぐそうとしてカメラに向かって満面の笑顔を向けた直後に,ちらりとみせる寂しそうな表情。役者の演技とはまるで次元の違う世界での,人間の真実の顔。

 スーパープレイもさることながら,わたしは選手たちの表情を存分に楽しんでみようとおもう。こんな顔は,こんなときしか拝むことはできないビッグ・チャンスだ。これもまた,「みるスポーツ」の醍醐味のひとつだ。

 ウサイン・ボルトの顔はその意味でも天下一品である。千変万化する素晴らしい顔だ。よくよく観察してみると,やはり,天才の顔だ。どこか根本が違うようにおもう。これからリレーに登場してくるボルトの顔を追ってみよう。また,新しい発見がある,そんな予感がする。

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