今日(12日)から太極拳の稽古に復帰しました。軽くからだを慣らすつもりで稽古をはじめましたが,いつのまにか大まじめに真剣にやっていました。そこに李老師が現れ,一喝されてしまいました。退院後,まだ間がないのだから腹筋に負担をかけるような稽古をしてはいけません,と。無理をするとかえって回復が遅くなってしまいます,と。
そこで,教えてくださったのは,「高い姿勢のままゆったりと,意識だけを集中させて動くこと」,そして,「安定第一」をめざすこと,でした。そして,示範をしてくださいました。
以下は,李老師がわたしに語ってくださったことのうち,わたしの記憶に鮮明に残った部分です。つまり,これがすべてというわけではありません。いつも書きますように,「如是我聞」です。そのことをお断りしておきます。
太極拳で一番大事なことは「安定」です。無理して重心を下げて,ふらふらしたり,上半身に力が入ってしまったりする稽古は,ほとんど意味がありません。それよりも,重心を高くして,ふらふらしないポジションをとることが大事です。そうすれば,余裕ができてきますので,上半身の力みもなくなります。その上でゆったりとした動作で表演することです。ただし,意識はわざの一つひとつに集中させつつ,理想的なフォームをイメージしながら行うことです。すると,からだの奥の方から不思議な快感が伝わってきます。この心地よさを存分に味わうことです。これが体験できれば,あとのことはどうでもいいのです。そのときには,なにも考えなくても,ゆったりと流れるような美しい動作が生まれています。これが太極拳の稽古ということです。この心地よさは,それぞれの力量のレベルで現れます。そのステージがつぎつぎに上がっていくところを堪能すればいいのです。無理は絶対にしてはいけません。それぞれのレベルに応じた稽古しかできないのですから。気がついたらレベルが上がっていた,というのが自然です。無理をしてもレベルは上がりません。しかも,それは無駄なことです。ですから,無理はしない。そして,安定第一に稽古に励みなさい。おのずから道が開けてきます。
このお話を伺いながら,わたしは道元禅師が言った「修証一等」(しゅしょういっとう)ということばを思い浮かべていました。道元禅師は,若い修行僧に向かって,修行(修)と悟り(証)は表裏一体のものです,つまり,同じ意味です,と説きました。つまり,悟りが深まれば,それに応じて修行のレベルも高まっていく,というわけです。それを悟りも浅いのに,高望みをして苦行に挑んでもなんの意味もありません,と。そのとき,そのときの悟りに応じた修行をするしかないのです,と。そうして少しずつ,少しずつ,そのレベルが上がっていくのを待つしかないのです,と。
考えてみれば,太極拳の思想的なバックグラウンドの一つは道教にあります。中国で生まれた仏教の禅宗はインドから伝来した仏教と道教との出会いによって創意工夫されたものです。ですから,太極拳の稽古の考え方と,禅宗の修行の考え方が,とてもよく似ているのはなんの不思議もありません。
ですから,李自力老師のことばは,わたしには「修証一等」と同じ意味でつたわってきました。なるほど,これならわたしには分かりやすい,と。ならば,これからは禅の修行(たとえば,坐禅)と同じように考え,そのとき,そのときのからだやこころの有り様に寄り添うようにして,太極拳の稽古をすればいい,とこころの底から納得しました。
今日の稽古のお蔭で,これからの稽古の仕方も変わってくるように思います。
今日の李老師のことばは,わたしの骨身にしみました。
ありがたいことでした。
そこで,教えてくださったのは,「高い姿勢のままゆったりと,意識だけを集中させて動くこと」,そして,「安定第一」をめざすこと,でした。そして,示範をしてくださいました。
以下は,李老師がわたしに語ってくださったことのうち,わたしの記憶に鮮明に残った部分です。つまり,これがすべてというわけではありません。いつも書きますように,「如是我聞」です。そのことをお断りしておきます。
太極拳で一番大事なことは「安定」です。無理して重心を下げて,ふらふらしたり,上半身に力が入ってしまったりする稽古は,ほとんど意味がありません。それよりも,重心を高くして,ふらふらしないポジションをとることが大事です。そうすれば,余裕ができてきますので,上半身の力みもなくなります。その上でゆったりとした動作で表演することです。ただし,意識はわざの一つひとつに集中させつつ,理想的なフォームをイメージしながら行うことです。すると,からだの奥の方から不思議な快感が伝わってきます。この心地よさを存分に味わうことです。これが体験できれば,あとのことはどうでもいいのです。そのときには,なにも考えなくても,ゆったりと流れるような美しい動作が生まれています。これが太極拳の稽古ということです。この心地よさは,それぞれの力量のレベルで現れます。そのステージがつぎつぎに上がっていくところを堪能すればいいのです。無理は絶対にしてはいけません。それぞれのレベルに応じた稽古しかできないのですから。気がついたらレベルが上がっていた,というのが自然です。無理をしてもレベルは上がりません。しかも,それは無駄なことです。ですから,無理はしない。そして,安定第一に稽古に励みなさい。おのずから道が開けてきます。
このお話を伺いながら,わたしは道元禅師が言った「修証一等」(しゅしょういっとう)ということばを思い浮かべていました。道元禅師は,若い修行僧に向かって,修行(修)と悟り(証)は表裏一体のものです,つまり,同じ意味です,と説きました。つまり,悟りが深まれば,それに応じて修行のレベルも高まっていく,というわけです。それを悟りも浅いのに,高望みをして苦行に挑んでもなんの意味もありません,と。そのとき,そのときの悟りに応じた修行をするしかないのです,と。そうして少しずつ,少しずつ,そのレベルが上がっていくのを待つしかないのです,と。
考えてみれば,太極拳の思想的なバックグラウンドの一つは道教にあります。中国で生まれた仏教の禅宗はインドから伝来した仏教と道教との出会いによって創意工夫されたものです。ですから,太極拳の稽古の考え方と,禅宗の修行の考え方が,とてもよく似ているのはなんの不思議もありません。
ですから,李自力老師のことばは,わたしには「修証一等」と同じ意味でつたわってきました。なるほど,これならわたしには分かりやすい,と。ならば,これからは禅の修行(たとえば,坐禅)と同じように考え,そのとき,そのときのからだやこころの有り様に寄り添うようにして,太極拳の稽古をすればいい,とこころの底から納得しました。
今日の稽古のお蔭で,これからの稽古の仕方も変わってくるように思います。
今日の李老師のことばは,わたしの骨身にしみました。
ありがたいことでした。
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