玄有宗求著『さすらいの仏教語』暮らしに息づく秘話(中公新書,2014年刊)によれば,「どっこいしょ」は「六根清浄」がなまったものだ,ということです。おやおや,というような話ですが,玄有宗求さんが仰るのですから,間違いはないでしょう。
「どっこいしょ」は加齢とともにからだが衰えてきて,立ち上がったり,座り込んだりするときに,無意識のうちについついこのことばが口をついてでてきてしまうものです。要するに,「どっこいしょ」と声に出すことによって自分を叱咤激励をしている,というわけです。ですから,若いひとでも疲れたときなどには,つい無意識のうちに「どっこいしょ」と言ってしまうことがあります。すると,お前も歳だなぁ,と冷やかされたりします。
玄有宗求さんの説によれば,むかしから信仰登山などで,高い山に登る人たちが「六根清浄,お山は晴天」と声をそろえて唱え,足並みを揃え,お互いに励まし合ったのが,いつのまにか簡略化され,なまってしまったのが「どっこいしょ」の語源であろう,ということです。
なるほど,仏教的コスモロジーの世界観のもとで生きていた古代・中世の日本人が,信仰のために山に入るとなれば,相当の覚悟が必要であっただろうと思います。山は神仏のみならず,魑魅魍魎の跋扈する恐ろしいところでもあったわけですから。やはり安全を祈願し,無事の下山を祈りながら,登山に挑戦したのであろう,ということは容易に想像できることです。
そのためには「六根清浄」でなければなりません。つまり,身を清めて魑魅魍魎を近づけないようにすることが大事です。六根とは,般若心経にもでてきますように,「眼,耳,鼻,舌,身,意」を意味します。つまり,わたしたちが外界と接する感覚器官のことです。それらの器官をとおして,わたしたちは「色,声,香,味,触,法」を受け止めることになります。しかし,こうして得られる情報はすべてその人の個人的な欲望に左右される「偏見」にも等しいものであって,その実体は「無」に等しいのだ,と般若心経は説きます。
この「無」になった状態こそが「清浄」の世界であって,そういう清らかなからだが「六根清浄」だというわけです。信仰登山はそういうからだであることを自分自身に言い聞かせながら,どうか「晴天」を恵んでください,と祈るのが「六根清浄,お山は晴天」の意味になります。
しかし,登山というのは容易ではありません。富士山ともなれば,3000mを超えてから,さらに776mも登らなくてはなりません。空気を薄くなり,酸素不足になります。呼吸は激しくなり,足もなかなか前には進みません。そんな疲労困憊の状態で「六根清浄,お山は晴天」などと,きちんと唱えることはほとんど不可能になってきます。
最初の「六根清浄」ですら,最後まで唱えきるのは容易ではありません。となると,「六根清」(ろっこんしょ)まで唱えたところで酸素が足りなくなり,一呼吸入れなくてはならなくなってしまいます。そして,そのあとで「浄」(じょう)をとってつけたように唱え,さらに一呼吸いれて「お山は」と唱え,「晴天」と細切れになっていったというのが実情でしょう。その「六根清」(ろっこんしょ)が,しだいになまっていって疲れたときの「どっこいしょ」となった,と考えると納得がいきます。
あるいは,当初は「六根清浄」と唱える代わりに「どっこいしょ」でいい,と教えた先達の僧がいたのかもしれません。ちょうど,「南無阿弥陀仏」という代わりに「なんまいだー(ぶ)」と唱えるだけでいいと説いた僧がいたように。
というわけで,「どっこいしょ」の語源は「六根清浄」だった,というお話まで。
※玄有宗求の「有」は,ただしくは有に人偏をつけたものです。わたしのパソコンがいまわがままを言っていて正しい文字を表記してくれません。近日中にしつけ直しが必要です。お許しを。
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