2014年10月22日水曜日

1907(明治40)年,神社の境内で遊ぶ子どもたち。

 わたしの育った村は,小さな集落(字)ごとに神社と寺があり,村落共同体の基本単位となっていました。子どもたちも,自分たちの字の子とそうでない子との間には,どことなく仲間意識が違っていました。その違いは遊ぶ場所の違いからきていたように思います。

 
みんなの共通の遊び場は小学校の運動場。授業後は,かばんを家に放り込んで,一目散に運動場をめざしました。先着順で遊び場を確保するためです。しかし,当時は野球が盛んでしたので,中学生や小学校の上級生たちに追い出されることがしばしばでした。「六三制,野球ばかりがうまくなり」という川柳が生まれた時代です。

 敗戦後の小学校3年生だったわたしたちは運動場から追い出されると,神社か寺の境内をめざしました。ただし,ここでの野球は禁止されていましたので,この図版に描かれているような遊びをしていました。つまり,明治の終わりころの子どもたちの遊びが,昭和20年代の敗戦後にも行われていた,ということです。しかも,場所も同じ神社の境内です。

 第二次世界大戦という戦争に負けてしまいましたので,食べるものも着るものもない,貧乏な生活を送っていました。もちろん,遊具もありませんので,みんな手作りです。こま回しは,いかに上手にこまをつくるかが勝負の分かれ目でした。負けると悔しいので,みんな必死でこまづくりに励みました。肥後守という名のナイフが大活躍でした。当時は,鉛筆削り用に,みんな一本ずつポケットに入れて,持ち歩いていました。

 ですから,喧嘩になると,ポケットから肥後守をとりだし,これを握って振り回しました。が,お互いに切りつけるほどの勇気はないので,ひたすら威嚇のための道具でした。こどもなりの安全圏を確保した上での,ナイフの活躍でした。学校の休み時間だけでなく,神社の境内でも,この肥後守は大活躍でした。

 こんもりとした森に囲まれた鎮守の森は,子どもたちにとっては別世界でした。大人の監視の眼からも逃れ,子どもたちの自由の天国でした。言ってみればなんでもありの世界でした。ですから,ずいぶん乱暴な遊びもしました。みんなに嫌われるようなことをすると,縄で縛られ,木の枝に吊るされることもありました。必死になって謝らないかぎり,降ろしてはくれません。ルールはなにもありませんでしたが,暗黙のうちに,やってはいけないことは決まっていました。そのぎりぎりのところの遊びが最高の遊びでした。

 大人になるための大事なこと,人生にとって大事なこと,それらはすべて鎮守の森の「遊び」のなかで学んだ,と言っても過言ではありません。

 ところが,最近では,鎮守の森で遊ぶ子どもたちはいません。こんもりとした森もあらかた伐採されて明るくなり,遠くからでも社殿が丸見え。寺も同じ。集落の藪も取り除かれ(防犯のためと聞いています),あちこち明るくなってしまいました。しかし,子どもたちにとっては,秘め事に近い遊びをするには薄暗い,ほのかな闇が舞台装置として不可欠でした。ですから,明るくなってしまった神社や寺の境内は,密かな悪事を企む子どもたちにとっては,もはや,なんの魅力もない場所になってしまったようです。

 こんなことを回想させる一枚の絵。わたしにとっては,なんとも懐かしい記憶を呼び覚ます絵。数少ないわたしの宝物のような絵。それがこの絵です。

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