最近のテレビには失望ばかりしていましたが,今夜は「泣きました」「嗚咽しました」。これほど涙を流したことは記憶にないほどです。いい番組でした。こういう番組をつくろうと思えばつくれるではないか,と思いつつ。
たったいま,見終わったところです。そして,しばらく呆然としながら,あれこれ記憶をたどっています。夜の7時54分から9時48分までの,かなり長い番組でしたが,あっという間のことでした。それほどに濃密な内容だったということです。
精確に番組の名前を書いておきましょう。
東日本大震災から1年,ドラマ特別企画”明日をあきらめないがれきの中の新聞社”「原作・河北新報のいちばん長い日~被災地に届けた命の新聞・販売店家族の感動実話」。
ちょうど夕食時間だったので,なにか面白い番組はないかと探していたら,この番組が眼に飛び込んできました。躊躇なく「7」にスイッチ・オン。場合によってはメモも必要と考え,そばに置く。最初の入りがよかった。
「白河以北 一山百文」から,河北新報という社名の「河北」をとったという。白河の関を越えたさきの土地は,瓦礫の山ばかりで,一山の値段は百文程度のものだ,と考えられていた時代があり,長くそう思われていたというのです。東京中心主義はいまも歴然として生きており,東北地方は少なからず「上から目線」で眺められることは,いまでも少なくありません。そんな「河北新報」が,みごとに東京中心の大手新聞社には真似のできない大仕事をやってのけた,いや,新聞社本来の役割を果たしてみせた,そういう実話にもとづくテレビ番組でした。
「われわれも被災者なのだ。だから,被災者の視線で,いま起きている現実と向き合おう。そして,一刻も早くいま起きている真実を伝えよう。それが明日への生きる力につながるはずだ。これこそが新聞の使命ではないか。」
と新聞社全体が一致団結して,大震災の翌日の3月12日の朝には,いつもどおり新聞を配達し,以後も,欠かさず新聞をつくりつづけた,その現場の一断面をテレビドラマに仕立てあげた作品です。
『河北新報のいちばん長い日』は,いま話題の本ですので,すでに多くの人が読んでいることと思います。わたしは残念ながらまだ読んではいません。が,昨年の6月に現地を3日間にわたって尋ね歩いたときに,地元の新聞を読んで驚きました。記事に籠められた記者たちの思い入れの強さ,その情熱が直に伝わってきたからです。それに引き換え,東京に本社をおく大手の新聞社の記事の,なんと白々しいことか。まるで他人事としか思えない,薄情な記事ばかりが眼につきました。
帰りに仙台の大きな書店に入って,震災以後の河北新報の「縮刷版」を買いました。こちらに戻ってきてからも,そして,いまも,ときおりめくっては涙しています。こういう新聞がありうるのだ,これまでわたしが読んできた新聞はいったいなんだったのだろうか,とわが眼を疑いました。十分な取材もしないで,ぶら下がり記者会見をそのまま垂れ流すようなジャーナリズムの頽廃ぶりに慣らされてしまって,それが当たり前だと思い込まされてきたのですから。その状態はいまもつづいています。残念ながら。
この経験が引き金となって,50年間,愛読してきた朝日新聞に別れを告げ,東京新聞に乗り換えました。これも比較級の問題にすぎませんが,少なくとも「脱原発」を宣言して紙面づくりに励んでいるという点で,他紙にはない新鮮さが伝わってきます。しかし,東京新聞にも限界があって,やはり,河北新報のような地元の生え抜きの記者たちが,みずからの問題として大震災を取材し,書き上げる記事には,とても叶いません。
それと同じことが琉球新報や沖縄タイムスという新聞にみることができます。沖縄に関する情報は,東京の大手新聞社の記事を読んでいると,まるで他人事でしかありません。しかし,琉球新報や沖縄タイムスを読むと,河北新報を読むときと同じような,わがこととしての「熱」が伝わってきます。つまり,現地で起きていることがらを,現地に生きている人びとと同じ目線で取材をし,記事を書いている,そのハートが伝わってくるのです。
取材して記事を書く人,それを印刷する人,できあがった新聞を配達する人,この三位一体となったチーム・ワークなしには大震災直後の新聞は不可能でした。実際にも,3月12日の朝刊は,河北新報の印刷機が壊れていて印刷できなかったために,新潟の新聞社に協力してもらって刷り上げたという秘話までありました。この新聞のお蔭で,電気も止まってしまってテレビもラジオも聞けない,電話も通じない,世の中,どうなっているのかわけがわからなくなっているときに届けられた新聞が,どれほど大きな意味をもっていたかは,わたしたちの推測をはるかに越えるものだったに違いありません。
まだまだ,こういう新聞社が健在であるということを知り,わたしは勇気を与えられました。その意味では,わたしたちはあまり知らないでいますが,琉球新報や沖縄タイムスは,もう,長い間,からだを張った記事を書きつづけてきています。その紙面の発する迫力に,東京の大手新聞に慣れきってしまっているわたしたちは圧倒されてしまうほどです。わたしたちは「ゆでカエル」に成りきってしまっている,と。ちなみに,インターネットでいいですから,沖縄の両紙の記事を拾い読みしてみてください。基地問題への取り組みの姿勢が,ヤマトンチューの書く記事とは雲泥の差があるほど,違います。
わたしたちは,できるだけ多くの新聞を,とりわけ地方紙の名だたる新聞を手にして,読み比べる必要があると思います。読売新聞のように社説で,堂々と「原発稼働」を主張する新聞もあれば,真っ向からそれを否定する東京新聞のような新聞もあります。そのはざまで揺れ動きながら「玉虫色」の記事を書いている,まことにもって無責任な新聞もあります。それらを読み比べて,どの新聞に「信」を置くかは,読者であるわたしたちが決めることです。
長くなってきましたので,このあたりでこのブログは終わりにします。
それにしても,河北新報に拍手。そして,これをドラマ化した東京テレビに拍手(普段の番組は低俗なれど)。こんごも,このような番組づくりに情熱をそそいでほしいものです。いい番組をつくれば,視聴者はかならず増えます。テレビの果たすべき使命を肝に銘じて,こんごの番組づくりに励んでもらいたいと思います。
今夜のこのドラマは素晴らしかった。
そして,涙が,これほどまでも流れ出てくるものか,と驚きました。
とても,清々しい気持でいます。感謝。
たったいま,見終わったところです。そして,しばらく呆然としながら,あれこれ記憶をたどっています。夜の7時54分から9時48分までの,かなり長い番組でしたが,あっという間のことでした。それほどに濃密な内容だったということです。
精確に番組の名前を書いておきましょう。
東日本大震災から1年,ドラマ特別企画”明日をあきらめないがれきの中の新聞社”「原作・河北新報のいちばん長い日~被災地に届けた命の新聞・販売店家族の感動実話」。
ちょうど夕食時間だったので,なにか面白い番組はないかと探していたら,この番組が眼に飛び込んできました。躊躇なく「7」にスイッチ・オン。場合によってはメモも必要と考え,そばに置く。最初の入りがよかった。
「白河以北 一山百文」から,河北新報という社名の「河北」をとったという。白河の関を越えたさきの土地は,瓦礫の山ばかりで,一山の値段は百文程度のものだ,と考えられていた時代があり,長くそう思われていたというのです。東京中心主義はいまも歴然として生きており,東北地方は少なからず「上から目線」で眺められることは,いまでも少なくありません。そんな「河北新報」が,みごとに東京中心の大手新聞社には真似のできない大仕事をやってのけた,いや,新聞社本来の役割を果たしてみせた,そういう実話にもとづくテレビ番組でした。
「われわれも被災者なのだ。だから,被災者の視線で,いま起きている現実と向き合おう。そして,一刻も早くいま起きている真実を伝えよう。それが明日への生きる力につながるはずだ。これこそが新聞の使命ではないか。」
と新聞社全体が一致団結して,大震災の翌日の3月12日の朝には,いつもどおり新聞を配達し,以後も,欠かさず新聞をつくりつづけた,その現場の一断面をテレビドラマに仕立てあげた作品です。
『河北新報のいちばん長い日』は,いま話題の本ですので,すでに多くの人が読んでいることと思います。わたしは残念ながらまだ読んではいません。が,昨年の6月に現地を3日間にわたって尋ね歩いたときに,地元の新聞を読んで驚きました。記事に籠められた記者たちの思い入れの強さ,その情熱が直に伝わってきたからです。それに引き換え,東京に本社をおく大手の新聞社の記事の,なんと白々しいことか。まるで他人事としか思えない,薄情な記事ばかりが眼につきました。
帰りに仙台の大きな書店に入って,震災以後の河北新報の「縮刷版」を買いました。こちらに戻ってきてからも,そして,いまも,ときおりめくっては涙しています。こういう新聞がありうるのだ,これまでわたしが読んできた新聞はいったいなんだったのだろうか,とわが眼を疑いました。十分な取材もしないで,ぶら下がり記者会見をそのまま垂れ流すようなジャーナリズムの頽廃ぶりに慣らされてしまって,それが当たり前だと思い込まされてきたのですから。その状態はいまもつづいています。残念ながら。
この経験が引き金となって,50年間,愛読してきた朝日新聞に別れを告げ,東京新聞に乗り換えました。これも比較級の問題にすぎませんが,少なくとも「脱原発」を宣言して紙面づくりに励んでいるという点で,他紙にはない新鮮さが伝わってきます。しかし,東京新聞にも限界があって,やはり,河北新報のような地元の生え抜きの記者たちが,みずからの問題として大震災を取材し,書き上げる記事には,とても叶いません。
それと同じことが琉球新報や沖縄タイムスという新聞にみることができます。沖縄に関する情報は,東京の大手新聞社の記事を読んでいると,まるで他人事でしかありません。しかし,琉球新報や沖縄タイムスを読むと,河北新報を読むときと同じような,わがこととしての「熱」が伝わってきます。つまり,現地で起きていることがらを,現地に生きている人びとと同じ目線で取材をし,記事を書いている,そのハートが伝わってくるのです。
取材して記事を書く人,それを印刷する人,できあがった新聞を配達する人,この三位一体となったチーム・ワークなしには大震災直後の新聞は不可能でした。実際にも,3月12日の朝刊は,河北新報の印刷機が壊れていて印刷できなかったために,新潟の新聞社に協力してもらって刷り上げたという秘話までありました。この新聞のお蔭で,電気も止まってしまってテレビもラジオも聞けない,電話も通じない,世の中,どうなっているのかわけがわからなくなっているときに届けられた新聞が,どれほど大きな意味をもっていたかは,わたしたちの推測をはるかに越えるものだったに違いありません。
まだまだ,こういう新聞社が健在であるということを知り,わたしは勇気を与えられました。その意味では,わたしたちはあまり知らないでいますが,琉球新報や沖縄タイムスは,もう,長い間,からだを張った記事を書きつづけてきています。その紙面の発する迫力に,東京の大手新聞に慣れきってしまっているわたしたちは圧倒されてしまうほどです。わたしたちは「ゆでカエル」に成りきってしまっている,と。ちなみに,インターネットでいいですから,沖縄の両紙の記事を拾い読みしてみてください。基地問題への取り組みの姿勢が,ヤマトンチューの書く記事とは雲泥の差があるほど,違います。
わたしたちは,できるだけ多くの新聞を,とりわけ地方紙の名だたる新聞を手にして,読み比べる必要があると思います。読売新聞のように社説で,堂々と「原発稼働」を主張する新聞もあれば,真っ向からそれを否定する東京新聞のような新聞もあります。そのはざまで揺れ動きながら「玉虫色」の記事を書いている,まことにもって無責任な新聞もあります。それらを読み比べて,どの新聞に「信」を置くかは,読者であるわたしたちが決めることです。
長くなってきましたので,このあたりでこのブログは終わりにします。
それにしても,河北新報に拍手。そして,これをドラマ化した東京テレビに拍手(普段の番組は低俗なれど)。こんごも,このような番組づくりに情熱をそそいでほしいものです。いい番組をつくれば,視聴者はかならず増えます。テレビの果たすべき使命を肝に銘じて,こんごの番組づくりに励んでもらいたいと思います。
今夜のこのドラマは素晴らしかった。
そして,涙が,これほどまでも流れ出てくるものか,と驚きました。
とても,清々しい気持でいます。感謝。
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