2012年3月11日日曜日

「東日本大震災」後のこの一年。情報化社会なのに必要な情報が流れない。なぜだ。

あれから,もう,一年が経過した。
なんとも複雑な心境である。早いといえば早い,遅いといえば遅い,そんな時間の経過である。いったい,この一年とは,わたしにとってなにであったのか,頭を抱え込んでしまう。そんな状態のなかにあっても,どこかに希望の光を見出すことはできないものか,といまも考える。

ひとくちに「東日本大震災」と言っても,その規模があまりにも大きすぎて,どこで,なにが起きているのか,かなり努力したけれども確信のもてる情報はほんのわずかでしかなかった。その分,不安ばかりがこころの奥底に鬱積した。

インターネットの普及もあり,まさに未曽有の「情報化社会」が到来しているにもかかわらず,肝心要の,信頼できる必要な情報はほとんど流れることはなかった。ほんのわずかな信頼できる情報を手がかりに,あとは,自分の頭でいろいろと想像し,推測することしかできなかった。なんとも歯痒い思いの一年であった。

なかでも,福島原発事故に関する信頼できる情報は,ついに見定めることはできなかった。言ってしまえば,数字の羅列ばかりがあって(マイクロシーベルト),それがなにを意味しているのか,どのように対応すべきか,いま,なにをすべきか,という点についてはほとんど「風評」の域をでなかった。しかも,その「風評」(政府発表も含めて)も,めまぐるしく変化した。それでもみんな耐えた。ひたすら,じっと,耐えた。そんな一年だった。

2月の終わりになって「福島原発事故独立検証委員会」(民間事故調)が「政府や国会の事故調査とは別に,民間の立場から福島第一原発事故と政府の事故対応を調査・分析した」(『東京新聞』)『調査・検証報告書』を発表した。これによって,福島原発の事故当初の混乱ぶりの,驚くべき実態のかなりの部分は明らかになった。「約30人のワーキンググループが昨夏以降,政治家,官僚ら約300人を対象に聴取,報告書にまとめた」(同上)という。

しかし,しかし,しかしながら,「東京電力は聴取に応じなかった」というのだ。この事実を,わたしは,この『報告書』が出されたときから知っていた。しかし,しかし,しかしながら,NHKも,ほかの民放も,大手の新聞も,あるいは,その他のメディアも「東京電力は聴取に応じなかった」という<事実>を重視しようとはしなかった。知っていて知らぬふりをしたのだ。知らぬ勘兵衛である。これぞ「思考停止」の最たるものだ。

そして,いまや,『読売新聞』を筆頭に「原発再稼働」のオンパレードだ。東電の責任など,だれも問おうともしない。もう,すでに原発事故の記憶が「風化」した,という判断なのだろう。

ここ数日前から少しずつ「東日本大震災」の特別番組が,テレビ各社で取り上げられている。今日は,どこのテレビ局も,足並みを揃えたかのように特番を組んでいる。しかし,その番組紹介をみるかぎりでは,地震・大津波による被災地・被災者に焦点を当てた番組に比較して,福島原発事故関連の番組は目立たない。どこか陰が薄い。そこに,なにか,大きな力に対する「自発的隷従」という「他意」を,わたしは感じてしまう。

おそらくは,一週間も経たないうちに,午後8時前後のテレビのゴールデンタイムは,いつもの「おちゃらけ番組」(わたしはなんの稔りもないバカ番組と呼んでいる)一色に塗りつぶされてしまうのだろう。それもまた福島原発事故の記憶を「風化」させる上で大きな役割を演じている,ということを計算しつくした上での番組編成ではないか。と,ここにもまぎれもない大きな「他意」が働いていると,わたしは強く感じてしまう。

この一年に関するかぎり,わたしたちにとって「必要な情報」は権力者によって意のままにコントロールされてきた,とわたしは考えている。しかも,その実態はあまりにも酷すぎる,と。この現状をどのように超克していくのか,情報化社会のひとつの「壁」が露わになった年でもあった,と考えている。

こんなことをいつまでも繰り返していていいはずはない。この一年で,わたしは自分自身の生き方そのものを変えなくてはならないと考えつづけ,その方途を模索しつづけてきたつもりである。その経緯は,このブログのなかでもしばしば取り上げてきたつもりである。それでもなお,もっときびしく自分自身の生き方を問い直さなくてはならない,と考えている。ひとりひとりの生き方が変わらないかぎり,日本の社会は変わらない,と考えるからだ。

今日は,そのための「第二の出発」の日と定めたい。
無為の一年を過ごさないために。

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