2012年3月11日日曜日

「3・11」以後をどう生きるか・山口二郎「本音のコラム」(『東京新聞』)を紹介します。

今日(11日)の『東京新聞』の「本音のコラム」に山口二郎さんが書いた,「3・11」以後をどう生きるか,を紹介します。コンパクトに,問題の本質を指摘していて,とても参考になります。

その前に,余談ですが,どこぞのレストランの〇〇〇は「不味い」とブログに書いた人が,裁判で訴えられ,有罪判決がでた,といいます。そうか,悪口を言うときは相当の覚悟をしておかなくてはいけない,と反省。すでに,わたしなどは実名を挙げて,このブログで批判を展開しています。ただ,相手があまりに大物なので,わたしなどのブログを相手にしないだけの話なのだろう,とたかをくくっていますが・・・・。でも,内心,ヒヤヒヤ。

でも,褒めるのは大丈夫,と安心して山口二郎さんのブログを紹介します。

大震災から一年の日にコラムを書くめぐり合わせとなった。あの受難をわれわれは正面から受け止め,生き方を変える転機にできているのか。
福島第一原発の事故は,日本の権力における無責任の体系を改めてわれわれに見せつけた。この言葉は政治学者丸山真男が満州事変から8・15にいたる日本政府の政策決定過程を分析する中で考え付いたものである。
国を動かすエリートが保身に走り,国民全体の生命や安全に対する責任感を失い,希望的観測と現実をあえて混同し,その場の空気に付和雷同することで,国全体を破滅に追い込んだものが,無責任の体系であった。この構図は,破局に至った原子力政策にもそのままあてはまる。
敗戦後,国民は悔悟に基づき,民主主義をつくったはずである。だが,民主主義を徹底できないまま数十年を過ごし,再び破局を迎えた。
震災後という意味で,災後の日本という言葉を使うメディアもある。しかし,私はこの安易な言葉遣いに反対である。震災は自動的に日本の仕組みを更新したわけではない。無責任の体系は戦前,戦中,戦後を貫き,これに対する政治家の戦いは中途半端である。
われわれは己が非力を自覚し,本当の民主主義を確立するという課題を再認識しなければならない。今日はその決意を新たにする日である。

こんな短い文章のなかに,これだけの内容を,簡潔に盛り込むことのできる力量は,さすがに山口二郎さんだと感服です。時折,不調のときもあり,ああ,山口二郎さんも人間だなぁ,と安心することもあります。が,大半のブログはまことにみごと。いつも,楽しみにしているブログでもあります。山口さんの健筆を,こんごも期待したいと思います。

今回のブログはわが襟を糺して,読ませていただきました。

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