わたしの故郷の隣町の牛久保町にむかしから伝わる奇祭「うなごうじ祭」のHPを紹介します。
この祭りは,道路の上をどろんこになって,ころがって,練り歩く(練り転がる?),というので有名です。わたしの子どものころにも,しばしば話題になっていましたが,とうとうそれを見る機会を逸したまま,東京にでてきてしまいました。残念の極み。父は酔うと,よく,このときに囃し立てる歌を歌っていましたが,こどものわたしには理解不能でした。かなり卑猥な歌だったように記憶します。母が子どもの前で歌うな,と言っていましたから。
「うなごうじ祭」,正式には「若葉祭」といいますが,地元の人たちはみんな「うなごうじ」と呼び習わしていました。その祭りを紹介するHPができあがりました,と柴田晴廣さんからメールがありました。ちょうど,そのとき,浜松の「冨さん」というニックネームの人から,わたしのブログ「『穂国幻史考』なる奇書がとどく」にコメントが入っていました。この『穂国幻史考』の著者が柴田晴廣さんですので,早速,お礼とともに,このことをお知らせしました。
柴田さんは,伯父さん(母上のお兄さん)が浜松に住んでいるので,ひょっとしたら・・・と思ったけれども,違う人でした,と折り返しメールをくれました。柴田さんの母上とわたしとは小学校の同級生。ですから,そのお兄さんもおぼろげながら記憶があります。こどもながら,どこか古武士の風格を備えた,なんとなく「怖い」という雰囲気が漂っていた人だ,と記憶しています。その妹である母上もまた,しっかり者で,存在感のある人でした(小学校のころの記憶です)。いまは,とてもチャーミングな女性になっています。
で,浜松の「冨さん」は,わたしのブログを読んで,とても興味をもち,早速,この『穂国幻史考』を購入したそうです。そして,その記述のなかに,「冨永の冨の字の頭に点がないのは,そのむかし祖先が不本意ながら首を刎ねられるという事件があり,その記憶を子々孫々にまで伝えるためだった」という文面があります。ほんとうは,もっと長くて「えっ,そうなの」というびっくり仰天の話なのですが,ここでは割愛。これと同じ話を「冨さん」は,祖母と父から聞いている,というのです。ですから,もっと詳しい情報があったら教えてほしい,というのがコメントでした。
そこで,わたしは,なによりも『穂国幻史考』の著者柴田さんこそ,その冨永の直系の末裔であることを知らせ,同時に,柴田さんにも連絡しました。「冨さん」は,わたしの祖先は静岡県の佐久間町に住んでいた,と聞いていますという。佐久間といえば,穂国の豊川を遡っていけは必然的にそこにたどりつきます。いまは,佐久間ダムのあるところとして知られていますが・・・。わたしの予感としては,間違いなく,同じ「冨永」の一族だと思います。あちこちに逃げて,散らばって生き延びてきたその子孫だと思います。
といささか脱線してしまいましたが,その柴田さんは,この「うなごうじ祭」にも深くかかわってきた人で,いまもその世話人を務めていらっしゃる,と聞いています。ですので,こんどできたHPにも,早速,一文を頼まれ,面白い話を書いていらっしゃいます。いわゆる「うなごうじ」の語源について,公文書などに記載されている説は誤りだ,と鋭い指摘をしていらっしゃいます。郷土史家としての,長年の調査や文献研究の結果にもとづく結論ですので,説得力があります。
これからも,このHPをとおして,柴田さんはもっともっと詳細な情報を提供してくれるのではないか,とわたしは楽しみにしています。ちなみに,このHPのアドレスは以下のとおりです。
http://unagoji.dosugoi.net/
ぜひ,追跡してみてください。このHPに登録しておくと,随時,こちらに送信してくれるそうです。わたしは,すぐに,登録手続きを済ませました。こういう故郷の古い祭りが,また,元気を取り戻しつつあることを知るのは,とても嬉しいことです。それぞれの土地に根をもつ祭祀が,近代に入って,とかくないがしろにされてきた,とりわけ敗戦後の農村の民主化(生活合理化)運動のなかで,抑圧され,排除されてきました。その経緯の真っ只中で育ってきたわたしとしては,感無量,なんとも嬉しいかぎりです。
そんな思いもあって,これからも「うなごうじ祭」がどのような推移をたどるか注目していきたいと思います。柴田さん,頑張れ,と応援しながら・・・・。
この祭りは,道路の上をどろんこになって,ころがって,練り歩く(練り転がる?),というので有名です。わたしの子どものころにも,しばしば話題になっていましたが,とうとうそれを見る機会を逸したまま,東京にでてきてしまいました。残念の極み。父は酔うと,よく,このときに囃し立てる歌を歌っていましたが,こどものわたしには理解不能でした。かなり卑猥な歌だったように記憶します。母が子どもの前で歌うな,と言っていましたから。
「うなごうじ祭」,正式には「若葉祭」といいますが,地元の人たちはみんな「うなごうじ」と呼び習わしていました。その祭りを紹介するHPができあがりました,と柴田晴廣さんからメールがありました。ちょうど,そのとき,浜松の「冨さん」というニックネームの人から,わたしのブログ「『穂国幻史考』なる奇書がとどく」にコメントが入っていました。この『穂国幻史考』の著者が柴田晴廣さんですので,早速,お礼とともに,このことをお知らせしました。
柴田さんは,伯父さん(母上のお兄さん)が浜松に住んでいるので,ひょっとしたら・・・と思ったけれども,違う人でした,と折り返しメールをくれました。柴田さんの母上とわたしとは小学校の同級生。ですから,そのお兄さんもおぼろげながら記憶があります。こどもながら,どこか古武士の風格を備えた,なんとなく「怖い」という雰囲気が漂っていた人だ,と記憶しています。その妹である母上もまた,しっかり者で,存在感のある人でした(小学校のころの記憶です)。いまは,とてもチャーミングな女性になっています。
で,浜松の「冨さん」は,わたしのブログを読んで,とても興味をもち,早速,この『穂国幻史考』を購入したそうです。そして,その記述のなかに,「冨永の冨の字の頭に点がないのは,そのむかし祖先が不本意ながら首を刎ねられるという事件があり,その記憶を子々孫々にまで伝えるためだった」という文面があります。ほんとうは,もっと長くて「えっ,そうなの」というびっくり仰天の話なのですが,ここでは割愛。これと同じ話を「冨さん」は,祖母と父から聞いている,というのです。ですから,もっと詳しい情報があったら教えてほしい,というのがコメントでした。
そこで,わたしは,なによりも『穂国幻史考』の著者柴田さんこそ,その冨永の直系の末裔であることを知らせ,同時に,柴田さんにも連絡しました。「冨さん」は,わたしの祖先は静岡県の佐久間町に住んでいた,と聞いていますという。佐久間といえば,穂国の豊川を遡っていけは必然的にそこにたどりつきます。いまは,佐久間ダムのあるところとして知られていますが・・・。わたしの予感としては,間違いなく,同じ「冨永」の一族だと思います。あちこちに逃げて,散らばって生き延びてきたその子孫だと思います。
といささか脱線してしまいましたが,その柴田さんは,この「うなごうじ祭」にも深くかかわってきた人で,いまもその世話人を務めていらっしゃる,と聞いています。ですので,こんどできたHPにも,早速,一文を頼まれ,面白い話を書いていらっしゃいます。いわゆる「うなごうじ」の語源について,公文書などに記載されている説は誤りだ,と鋭い指摘をしていらっしゃいます。郷土史家としての,長年の調査や文献研究の結果にもとづく結論ですので,説得力があります。
これからも,このHPをとおして,柴田さんはもっともっと詳細な情報を提供してくれるのではないか,とわたしは楽しみにしています。ちなみに,このHPのアドレスは以下のとおりです。
http://unagoji.dosugoi.net/
ぜひ,追跡してみてください。このHPに登録しておくと,随時,こちらに送信してくれるそうです。わたしは,すぐに,登録手続きを済ませました。こういう故郷の古い祭りが,また,元気を取り戻しつつあることを知るのは,とても嬉しいことです。それぞれの土地に根をもつ祭祀が,近代に入って,とかくないがしろにされてきた,とりわけ敗戦後の農村の民主化(生活合理化)運動のなかで,抑圧され,排除されてきました。その経緯の真っ只中で育ってきたわたしとしては,感無量,なんとも嬉しいかぎりです。
そんな思いもあって,これからも「うなごうじ祭」がどのような推移をたどるか注目していきたいと思います。柴田さん,頑張れ,と応援しながら・・・・。
1 件のコメント:
紹介ありがとうございます。
昨夜は、若葉祭紹介サイトの立案者で管理人のI君、用語集、みどころを担当したS君と、私の家で、完成祝いの酒盛りをしました。
他の笹踊も紹介していこうという案もでました。今月の末には、大村のお祭りで笹踊が奉納されますね。
大村が済むと、上長山スサノオ、牛久保、小坂井、大木、千両(ちぎり)、上長山若宮、伊奈と春の笹踊が奉納されます。
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