2012年1月19日木曜日

「太極拳に正しい,間違いはありません」李自力老師語録・その2.。

李老師が事務所に到着。すると,いきなりカメラをもちだして(ソニーのスマートフォンとかで,カメラの性能がとてもいいらしい。わたしにはよくわからない話),わたしの顔を撮影する,と仰る。なぜ?とわたし。弟さんが設立した商事会社(貿易)のHPに,わたしの顔写真と短い文章を載せたいのだ,と。おやおや,である。それはまあ,無事に終わって,よもやま話になる。

わたしは,早速,「肩関節をゆるめる」は「はずす」だったという話を李老師にしようと思ったけれども,これはこんどみてもらってから話をしよう,と急遽,引っ込めることに。それでも,おのずから太極拳の話になり,いつのまにか,とてつもない奥義に触れるような話になった。

わたしが切り出したのは,太極拳の正しい動作の仕方はとても奥が深くて,むつかしい,という話。この話を受けて,しばらく考えた李老師はつぎのような話をなさる。

太極拳に正しいとか,間違いとかはありません。いま,やっていることがそのまま正しいのです。それ以上でも,それ以下でもありません。それしかないのです。あっ,これだ,と気づいて,それらしくできるようになる,ただ,それだけです。ただし,その気づきは無限と言ってもいいでしょう。とても,奥が深いものです。

なぜなら,太極拳の所作は,その人の理解,イメージの範囲内でしかできません。自分でこうだなと思ってやること,それでしかないのです。それがその人にとっての真実なのです。ですから,初心者に高度な演技を要求しても無理です。それぞれのレベルに応じた演技しかできないのですから。それを無理して高度な演技をやろうとすることは,なんの意味もありません。どうせ,できないのですから。あるいは,見よう見まねでそれらしくできたとしても,それは形だけであって,内実はなにもないのですから。まったく無意味です。

それよりも,大事なことは,いつもくり返しやっている24式をとことん追究していくと,あるとき,突然,からだの方になにかが起こります。からだが勝手に動きはじめるのです。それまでに体験したことのないからだが忽然と現れてきます。そのからだにすべてを委ねるのです。そこは,もはや,桃源郷のような心地よさで充たされ,なにものにも代えがたい,至福の時空間の中に溶け込んでいきます。こういうことが何段階にも分かれていて,あるとき,突然,むこうの方からやってきます。それをひたすら待つのみです。待つことすら忘れて,無心になって,ある集中の状態に入ったとき,それが起こります。

初心者には初心者なりの快感が立ち現れます。それがすべてなのです。あまり上手になろうと欲張らないことです。いま,ある力で,楽しめばいいのです。

という具合に,延々と,こういう話がつづきました。
わたしはこの話を聞きながら,あっ,これは道元禅師が『正法眼蔵』のなかで言っている「修証一等」ということと同じではないか,と思いました。

道元禅師のいう「修証一等」とは,つぎのようなことです。
早く悟りの境地に到達したくて,無理をして修行してもなんの役にも立ちませんよ,と。修行というものは,その人の悟りのレベルに合わせて行うしかできないのですよ,と。その人の,そのときの実力に合わせて,修行のプログラムを組むことが大事です。それ以上のことをやろうとしてもてきるものではありません。つまり,修行(=修)と悟り(=証)は,一つのことであって,等しいものなのです。

このことはタオイズムの元になった老子の『老子道徳経』の中にも,同じような趣旨のことが書かれています。もともと,仏教と老子の思想との接触によって,禅仏教が生まれ,それを道元は中国から持ち帰ったわけですので,こういう符合が起きたとしてもなんの不思議もありません。

李老師は,太極拳の根本にある思想がタオイズム(道教,道家思想)にあることを,もちろん熟知した上で,みずからの体験をまじえて,さきほどのような話をわたしにしてくれたのだと思います。そして,よくよく考えてみれば,わたしが,いまもなお,からだを自分の意志で動かすことに必死になっていることを見極めた上で,そろそろ,そのレベルを卒業しなさい,と婉曲に知らしめてくださっているようにも思います。わたしの,いまの段階の意識としては,24式を,書道でいえば,まずは,楷書でできるようにすること,にあります。それがきちんとできるようになれば,やがて草書も行書も書けるようになるだろう,と。しかし,そんなことにあまりこだわる必要はない,と言ってくださっているようにも思います。

「肩関節をゆるめて」やれば,自然につぎの運動が起きてくる。余分なからだの力みをそぎ落としてやれば,からだは自ずからなる法則にしたがって,まったく別次元の動きをはじめる。そのことを気づかせるために「肩関節をゆるめる」という課題を,わたしに与えてくださったのではないか,といまごろになって気づくわけです。

でも,気づいたときが吉日。そこから,あらたなスタートを切ればいいのです。

李老師は,「正しいとか,間違いとか」というようなヨーロッパ近代の二項対立的な考え方を超越したところに太極拳はあるのだ,とわたしに説いてくださったように思います。わたしの,これからの太極拳の稽古の仕方,あるいは,取り組み方が変化するとすれば,ここからでしょう。さて,これからどんな展開が待っているのやら・・・・楽しみがいっぱい。

最後に,溝の口の会場を借り上げるときの団体名に「自然功力会・溝の口支部」を使わせてもらっていいですか,と許可ももらいました。「自然功力会」は李老師が組織している太極拳愛好家たちの団体名です。これからは,立派な「自然功力会」の一員として認めてもらった,という次第です。ただし,月謝を受け取ってもらえない,この関係はなんとかしなくては・・・・とこれだけが悩みのタネですが(こんなことを書くと李老師ファンの方たちから叱られそうですが,お許しください)。まあ,隠れ「自然功力会」のメンバーくらいのところでお許しを。

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