2014年6月13日金曜日

人間集団の特性は,アルキメデスの物理学よりはミュンヒハウゼン男爵の離れ業に類している(J.P.デュピュイ)。

 人間集団の特性とはなにか,と問われて即答できる人はそんなに多くはいないと思います。さしずめ,わたしならしばらく考えて,集団心理のようなものを想定しながら,個を超えたなにかとんでもない力を生みだすこと,と答えるでしょう。つまり,個を超越した熱狂のようなものに身を寄せていくこと,というように。

 しかし,J.P.デュピュイは,みずから問いをたてて「人間集団の特性は,アルキメデスの物理学よりはミュンヒハウゼン男爵の離れ業に類している」ともののみごとにバッサリと断言します。かんたんに言ってしまえば,人間集団の特性は,アルキメデスの物理学のように理路整然とした論理のもとにコントロールされるというよりは,ミュンヒハウゼン男爵の冒険のように現実ばなれした離れ業の方に類している,というわけです。

 もう少し踏み込んで考えてみましょう。
 アルキメデスといえば,お風呂に入るときに浴槽から溢れでる水からヒントを得たといわれる浮力の原理(アルキメデスの原理)やてこの原理がよく知られています。つまり,ものごとにはかならずきちんとした因果関係がある,ということを追求した人というわけです。

 それに引き換え,ミュンヒハウゼン男爵の冒険は,日本では『ほら吹き男爵の冒険』(ビュルガー編,新井訳,岩波文庫)としてよく知られているように,現実にはありえない奇想天外な冒険譚を集めた「ほら話」です。たとえば,一直線の隊形をとって飛んでいた8羽の雁をたった一発の銃弾で全部撃ち落とした,というような調子です。つまり,このような話のことをJ.P.デュピュイは「離れ業」と呼んでいるわけです。

 ここからみえてくることは,アルキメデスの追求した合理性の世界よりも,ミュンヒハウゼン男爵の冒険譚で語られる非合理的な「離れ業」の方に,人間集団の特性は類している,とJ.P.デュピュイが言っているということです。

 デュピュイ自身はつぎのように説明をしています。

 アルキメデスは世界を自分の腕力だけで持ち上げることができると考えたが,ただしその場合には梃子と外部の支点が必要だった。ところがミュンヒハウゼン男爵のほうは,沼にはまって,自分の髪の毛を引っぱって体を引き上げたとか,また別のヴァージョンによればブーツの紐を引っぱって,首尾よく窮地を脱したというのである。かれはきっと分身の術でも使って,自分のいわばアルター・エゴの体の一部をつかむ手を見つけたのだろう。このような奇術はもちろん不可能だ。とはいえやはり,人間の集団はこれと同じような離れ業をやってのけることができた。それがおそらくは,この集団が社会となるための条件だったのだ。

 この引用文の最後のところで,はっと虚をつかれるような文章がでてきます。それは,不可能な離れ業を,人間集団はやってのけることができた,と断言した上で,「それがおそらくは,この集団が社会となるための条件だったのだ」というくだりです。

 ここは慎重を要するところです。つまり,人間は集団になると「不可能な離れ業」をやってのけることができるということ,そして,この「離れ業」こそが,人間の集団が「社会」になるための条件だった,というのです。つまり,個々の人間があつまって集団を形成すれば,そのままそれが「社会」になるという単純な話ではない,ということです。そこには「離れ業」が必須の条件として機能していたのだ,とJ.P.デュピュイは言っているのです。

 そして,このような発想はわたしの専売特許というわけではないとした上で,以下のような哲学者たちの名前とキー概念を提示しています。

 ヘーゲル=「自己外化」(Entaeusserung)
 マルクス=「疎外」(Entfremdung)
 ハイエク=「自己超越」(self-transcendence)
 ルイ・デュモン=「ヒエラルキー」(聖なる秩序)

 ここにわたしとしては,以下のような人物の名前とキー概念を挙げておきたいと思います。
 ハイデガー=「脱自」「脱存」(Ekstase)
 バタイユ=「恍惚」(extase),「横滑り」
 ル・クレジオ=「物質的恍惚」
 西田幾多郎=「絶対矛盾的自己同一」
 老子=「無為自然」(むいじねん)
 道元=「只管打坐」「禅定」
 釈迦=「解脱」
 以下,割愛。

 さて,このさきJ.P.デュピュイはどのような展開をみせようとしているのでしょうか。これからの楽しみに。

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