最近の李老師は,わたしのからだのことを気遣って,高い姿勢でいい,まじめにやらなくてもいい,もっとリラックスして太極拳を気楽に楽しみなさい,と仰る。そして,全身の筋肉を弛緩させてユルユルにしなさい,と。そうすれば,そこから無理のない自然な動作が生まれます,と。「わたしの父がやっているような太極拳を・・・・」と仰る。
ここに至って,ハッと気づくことがありました。
李老師の父上は,たった一度だけ,わたしたちの稽古に参加され,最後に表演をしてくださいました。それも,李老師が父上に懇願されてのことでした。父上はわたしより少しだけ年上ですが,ほぼ,同年代の方です。細身のすらりとしたからだから繰り出される太極拳は,これまでに見たこともない,まったく別次元の太極拳でした。体幹の軸がぴたりと決まり,脚の動きはじつにしなやか,しかも腕の力はほとんど抜けていて,極端な言い方をすれば「へろんへろん」に動かされているように見えました。動作の内容も,わたしたちの見たことのない動作の連続でした。しかも,ずいぶん長い表演でした。そして,途中で,「この辺で・・・」と言って終わりになりました。
あとで,李老師に伺ったところでは,父上の弟さん(つまり,叔父さん)が太極拳の先生で,李老師も子どものときからこの叔父さんから手ほどきを受けたとのことです。その叔父さんと一緒に父上は長い間,太極拳を楽しんでこられたとのこと。ですから,いまでは,特別の形式にこだわることなく,アドリブで,その日の気分,からだの調子に合わせて,意識に「引導」されるままに動作を繰り出すことを楽しんでいる,とのこと。
この父上の自由自在の太極拳もさることながら,それを見ていた李老師の目の「光」ぐあいが尋常ではなかったことが,いまも鮮烈に思い出されます。李老師はそこになにを見ていたのだろうか,といまもときおり考えることがあります。
世阿弥のことばに「時分の華」というものがあります。奥の深いことばだそうですが,わかりやすく意訳してしまえば,年齢相応の「華」の咲かせ方があるので,そのことをわきまえて稽古をしなさい,ということになるでしょうか。だとすれば,李老師は父上の太極拳に,その年齢にならなければできない太極拳の境地を見届けていたのでしょうか。それにしても,滅多にみせない李老師のキラリと光るまなざしは忘れられません。
この李老師の父上のような太極拳には遠く及ばないまでも,いつまでも若い人たちと同じ太極拳を目指すのではなくて,年齢相応に枯淡の色合いを楽しんだ方がいいのですよ,その方が太極拳の本質(奥義)により接近することになるのですよ,と李老師はわたしに語りかけてくださっているように思います。ですが,いかんせん,まだまだ若気の抜けないわたしは,大まじめに若者と同じような太極拳を目指そうとしています。
書道でいえば,楷書です。どの世界でも基本が大事だと考えていますので,まずは,太極拳も楷書から入るべし,というわけです。そして,ある程度,楷書の太極拳ができるようになれば,やがて,無駄な力も抜けて,行書の世界に入り,最終的には草書の太極拳に到達するだろう,と自分で勝手に考えていました。ですから,そろそろ行書の太極拳をめざしてもいいのかな,とは密かに考えていました。
ですから,李老師から,もっと全身の力を抜いてユルユルにしなさい,と言われたときに「よし,いよいよお許しがでたのだから,行書の世界に一歩踏み込もう」と決心しました。ところが,この「ユルユル」がとんでもなくむつかしいことである,ということを知りました。やろうとしてもそんなに簡単にはユルユルにはならないのです。李老師が見ていると意識したとたんに,わたしのからだは硬直してしまいます。
そうか,わたしの身体は,そのむかし体操競技をやっていたころのヨーロッパ近代の身体のままなのだ,と。体操競技は最初から最後まで緊張の連続です。でも,ほんとうにトップに躍り出てくるような名手の演技は,不思議なことに演技に「余裕」が感じられます。たぶん,そういう感覚はまったく同じなのだろうなぁ,と理解はできても,それを実施できるかどうかということとは別問題なのでしょう。
おそらく体操競技を行う身体と,太極拳を行う身体とはまったく別の身体なのでしょう。この壁を乗り越えないと,たぶん,太極拳を行う身体には到達しないのではないか,といまごろになってようやく気づいた次第です。もう少し精確に言っておけば,このことは頭のなかではかなり前から承知はしていました。しかし,実際に本気で取り組むというまでにはいたっていませんでした。
この両者の間にある壁は,たぶん,こころの置き所の違いではないか,と考えています。ですから,このこころの置き所をつかむことが,これまた至難の業だということのようです。
からだの全身の筋肉を弛緩させてユルユルにする,という大きな壁に向かって,これからさらなる挑戦のはじまりです。どこまでできるかはともかく,そこを目指してみたいと思います。それが,「時分の華」につながるのだとすれば・・・・。
それにしても,李老師の父上のあの太極拳はなんだったのだろうか,といまさらのように驚いています。いつかまた,拝見させていただける恩恵に浴することを夢みながら,気持を新たにして取り組んでみたいと思います。
ここに至って,ハッと気づくことがありました。
李老師の父上は,たった一度だけ,わたしたちの稽古に参加され,最後に表演をしてくださいました。それも,李老師が父上に懇願されてのことでした。父上はわたしより少しだけ年上ですが,ほぼ,同年代の方です。細身のすらりとしたからだから繰り出される太極拳は,これまでに見たこともない,まったく別次元の太極拳でした。体幹の軸がぴたりと決まり,脚の動きはじつにしなやか,しかも腕の力はほとんど抜けていて,極端な言い方をすれば「へろんへろん」に動かされているように見えました。動作の内容も,わたしたちの見たことのない動作の連続でした。しかも,ずいぶん長い表演でした。そして,途中で,「この辺で・・・」と言って終わりになりました。
あとで,李老師に伺ったところでは,父上の弟さん(つまり,叔父さん)が太極拳の先生で,李老師も子どものときからこの叔父さんから手ほどきを受けたとのことです。その叔父さんと一緒に父上は長い間,太極拳を楽しんでこられたとのこと。ですから,いまでは,特別の形式にこだわることなく,アドリブで,その日の気分,からだの調子に合わせて,意識に「引導」されるままに動作を繰り出すことを楽しんでいる,とのこと。
この父上の自由自在の太極拳もさることながら,それを見ていた李老師の目の「光」ぐあいが尋常ではなかったことが,いまも鮮烈に思い出されます。李老師はそこになにを見ていたのだろうか,といまもときおり考えることがあります。
世阿弥のことばに「時分の華」というものがあります。奥の深いことばだそうですが,わかりやすく意訳してしまえば,年齢相応の「華」の咲かせ方があるので,そのことをわきまえて稽古をしなさい,ということになるでしょうか。だとすれば,李老師は父上の太極拳に,その年齢にならなければできない太極拳の境地を見届けていたのでしょうか。それにしても,滅多にみせない李老師のキラリと光るまなざしは忘れられません。
この李老師の父上のような太極拳には遠く及ばないまでも,いつまでも若い人たちと同じ太極拳を目指すのではなくて,年齢相応に枯淡の色合いを楽しんだ方がいいのですよ,その方が太極拳の本質(奥義)により接近することになるのですよ,と李老師はわたしに語りかけてくださっているように思います。ですが,いかんせん,まだまだ若気の抜けないわたしは,大まじめに若者と同じような太極拳を目指そうとしています。
書道でいえば,楷書です。どの世界でも基本が大事だと考えていますので,まずは,太極拳も楷書から入るべし,というわけです。そして,ある程度,楷書の太極拳ができるようになれば,やがて,無駄な力も抜けて,行書の世界に入り,最終的には草書の太極拳に到達するだろう,と自分で勝手に考えていました。ですから,そろそろ行書の太極拳をめざしてもいいのかな,とは密かに考えていました。
ですから,李老師から,もっと全身の力を抜いてユルユルにしなさい,と言われたときに「よし,いよいよお許しがでたのだから,行書の世界に一歩踏み込もう」と決心しました。ところが,この「ユルユル」がとんでもなくむつかしいことである,ということを知りました。やろうとしてもそんなに簡単にはユルユルにはならないのです。李老師が見ていると意識したとたんに,わたしのからだは硬直してしまいます。
そうか,わたしの身体は,そのむかし体操競技をやっていたころのヨーロッパ近代の身体のままなのだ,と。体操競技は最初から最後まで緊張の連続です。でも,ほんとうにトップに躍り出てくるような名手の演技は,不思議なことに演技に「余裕」が感じられます。たぶん,そういう感覚はまったく同じなのだろうなぁ,と理解はできても,それを実施できるかどうかということとは別問題なのでしょう。
おそらく体操競技を行う身体と,太極拳を行う身体とはまったく別の身体なのでしょう。この壁を乗り越えないと,たぶん,太極拳を行う身体には到達しないのではないか,といまごろになってようやく気づいた次第です。もう少し精確に言っておけば,このことは頭のなかではかなり前から承知はしていました。しかし,実際に本気で取り組むというまでにはいたっていませんでした。
この両者の間にある壁は,たぶん,こころの置き所の違いではないか,と考えています。ですから,このこころの置き所をつかむことが,これまた至難の業だということのようです。
からだの全身の筋肉を弛緩させてユルユルにする,という大きな壁に向かって,これからさらなる挑戦のはじまりです。どこまでできるかはともかく,そこを目指してみたいと思います。それが,「時分の華」につながるのだとすれば・・・・。
それにしても,李老師の父上のあの太極拳はなんだったのだろうか,といまさらのように驚いています。いつかまた,拝見させていただける恩恵に浴することを夢みながら,気持を新たにして取り組んでみたいと思います。
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