西谷修さんの近著『アフター・フクシマ・クロニクル』(ぷねうま舎,2014年6月20日刊)の終章 ここにある未来──ジャン=ピエール・デュピュイとの対話──の冒頭の書き出しはつぎのようになっています。
破局(カタストロフィ)の予言はいつも受け容れられない。なぜなら,災厄(さいやく)はただでさえ信じたくないことだし,たしかなのは,いまはまだきていないということでしかないから。人びとは現在の現実的関係のなかで生きており,不確かな予言にたばかられたくはないのだ。だから予言は,それが現実になったときにしか人びとに信じられない。だが,それでは遅すぎるのだ。予言には意味がなかったことになる。予言は人びとに災厄を免れさせるためにこそなされるのだが,それが現実になってしまっては,予言はその役目をはたせなかったことになる。
この「予言のパラドックス」から,人はどうしたら抜け出すことができるのか? それがこの本,ジャン=ピエール・デュピュイ『ツナミの小形而上学』(嶋崎正樹訳,岩波書店,2011年)のテーマである。冒頭に引用されたのは,旧約聖書の預言者ノア(箱舟によって大洪水を脱したノア)に仮託したエピソードだが,この本が念頭に置いている「破局」(災厄)は神話的なものばかりではない。もちろん自然災害もある。だが,この本が扱うのは,とりわけ科学技術や産業経済の仕組みとグローバル化とが条件づけている,人間社会全体の「システム的破局」である。
この書き出しからはじまるこの終章は,わたしにとっては電撃的なショックをともなうものでした。なぜなら,「3・11」とはなにか,その意味するところはなにか,とりわけ,わたしたちが「生きる」という基本的な営みにとって,なにをつきつけたのか,そして,その人間の「生」とはいったいなんなのか,ひいてはその「生」と深く切り結んでいるはずの「スポーツ」という文化装置はこのままでいいのか,どこかでとんでもない間違いを犯していたのではないか,ボタンの掛け違いのような,気づいたときにはすでに手遅れのような,そんなことをずーっと考えつづけていたからです。
ついでに,もう少しだけ加えておけば,以下のとおりです。
わたしはかなり若いときから,なにかが変だ,なにかが大きく変化しはじめている,という予感癖・思考癖をもっていました。当然のことながら,スポーツのあり方にも同じような疑念をいだいていました。しかし,その「なにか」がわからない。しかし,人間の「生」の根源的なところに,その「なにか」がひそんでいるにちがいない,とは思っていました。
そして,かなりのちになってから,ようやくそれがハイデガーのいう「存在不安」(Sorge)につながっているということがわかってきました。では,わたしの存在不安はどこからくるのか,と漠然と考えつづけていました。が,ある日,突然,これもまた電撃的な直観が降りてきました。それは「核」(当時の認識では原子爆弾)だ,と。人類が「核」を保有する以前と以後とでは,人類の存在様態がまったく異なるのだ,と。
この直観がはたらいたときに到達した新しい時代区分としての概念装置が「後近代」ということばでした。そうして,早速,わたしはみずからのスポーツ史研究にこの概念を持ち込むことにしました。当初はほとんどの人が認めようとはしてくれませんでした。でも,わたしはこれで新しいスポーツ史研究の地平を切り拓くことができると確信しました。
そうして,つぎに提案した概念装置が「下降志向のスポーツ」というものでした。ことわるまでもなく,勝利至上主義を追求するあまりに過剰な競争原理によって著しく奇形化していく競技スポーツの限界を意識してのものでした。わたしとしては,上昇志向のスポーツ=近代競技スポーツに対して,その逆をいく下降志向のスポーツ=後近代のスポーツ,ということでなんの矛盾も感じませんでした。しかし,これもまた,大きな抵抗に会いました。もう少し表現の仕方がなんとかならないのか,と。
こんなことを考えながらも,まだ,その「なにか」を適切に説明するロジックを欠いていました。なんとかならないものか,とずっと考えてきました。ですが,こころの底から自分で納得のできるロジックを構築することはできませんでした。しかし,「科学技術や産業経済とグローバル化とが条件づけている,人間社会全体の「システム的破局」である」という指摘が,わたしのこころの奥底まですとんと落ちていきました。まるで,電撃のように。そして,限りない快感をともなって。
終章のこの西谷さんの文章に出会うまでには,多くの伏線があったことは隠しようもありません。が,その伏線のおかげで,西谷さんのこの文章に接して,一気にわたしの疑念が瓦解してしまいました。もう,この終章を何回,読み返していることでしょう。短い文章ですが,一分のすきもない,簡潔で,ピンポイントのように問題の所在を指摘してくれていて,いま現在のわたしにはバイブルにも等しい存在です。
さきの引用文のあとに,つづけて西谷さんはつぎのように書いています。
そこでは大文字の「破局」つまりいわゆる「人類の滅亡」も想定されるが,局地的「破局」もある。前者は後者の積み重ねからも起こりうる。日本を襲った自然災害が引き起こしたのもこのような「破局」である。
破局はいつも「まだ起こっていない」ものとして「未来」にある。だが,いまその「未来」がここにある。それが「大洪水のあと」ということだ。その「大洪水のあと」,われわれはもはやいままでのように生きることはできない,目先にかまけて「未来」を無視するようにしては。むしろ,ここに現実化してしまった「未来」を基準に,この「未来」の全面化を退けるようにしてしか,「これから」を思い描くことはできないということだ。
末尾の文章をもう一度,引いておきます。
この「未来」の全面化を退けるようにしてしか,「これから」を思い描くことはできないということだ。
「予言のパラドックス」から抜け出す道はここにしかないのでしょう。さて,この教訓をスポーツ史・スポーツ文化論の世界に持ち込むと,どういうことになるのでしょう。また,ひとつ仕事が増えてしまいました。でも,この仕事こそ,喫緊の課題です。喜んで,取り組んでいきたいと思います。
それにしても,こんどの西谷修さんの講演が楽しみです。
破局(カタストロフィ)の予言はいつも受け容れられない。なぜなら,災厄(さいやく)はただでさえ信じたくないことだし,たしかなのは,いまはまだきていないということでしかないから。人びとは現在の現実的関係のなかで生きており,不確かな予言にたばかられたくはないのだ。だから予言は,それが現実になったときにしか人びとに信じられない。だが,それでは遅すぎるのだ。予言には意味がなかったことになる。予言は人びとに災厄を免れさせるためにこそなされるのだが,それが現実になってしまっては,予言はその役目をはたせなかったことになる。
この「予言のパラドックス」から,人はどうしたら抜け出すことができるのか? それがこの本,ジャン=ピエール・デュピュイ『ツナミの小形而上学』(嶋崎正樹訳,岩波書店,2011年)のテーマである。冒頭に引用されたのは,旧約聖書の預言者ノア(箱舟によって大洪水を脱したノア)に仮託したエピソードだが,この本が念頭に置いている「破局」(災厄)は神話的なものばかりではない。もちろん自然災害もある。だが,この本が扱うのは,とりわけ科学技術や産業経済の仕組みとグローバル化とが条件づけている,人間社会全体の「システム的破局」である。
この書き出しからはじまるこの終章は,わたしにとっては電撃的なショックをともなうものでした。なぜなら,「3・11」とはなにか,その意味するところはなにか,とりわけ,わたしたちが「生きる」という基本的な営みにとって,なにをつきつけたのか,そして,その人間の「生」とはいったいなんなのか,ひいてはその「生」と深く切り結んでいるはずの「スポーツ」という文化装置はこのままでいいのか,どこかでとんでもない間違いを犯していたのではないか,ボタンの掛け違いのような,気づいたときにはすでに手遅れのような,そんなことをずーっと考えつづけていたからです。
ついでに,もう少しだけ加えておけば,以下のとおりです。
わたしはかなり若いときから,なにかが変だ,なにかが大きく変化しはじめている,という予感癖・思考癖をもっていました。当然のことながら,スポーツのあり方にも同じような疑念をいだいていました。しかし,その「なにか」がわからない。しかし,人間の「生」の根源的なところに,その「なにか」がひそんでいるにちがいない,とは思っていました。
そして,かなりのちになってから,ようやくそれがハイデガーのいう「存在不安」(Sorge)につながっているということがわかってきました。では,わたしの存在不安はどこからくるのか,と漠然と考えつづけていました。が,ある日,突然,これもまた電撃的な直観が降りてきました。それは「核」(当時の認識では原子爆弾)だ,と。人類が「核」を保有する以前と以後とでは,人類の存在様態がまったく異なるのだ,と。
この直観がはたらいたときに到達した新しい時代区分としての概念装置が「後近代」ということばでした。そうして,早速,わたしはみずからのスポーツ史研究にこの概念を持ち込むことにしました。当初はほとんどの人が認めようとはしてくれませんでした。でも,わたしはこれで新しいスポーツ史研究の地平を切り拓くことができると確信しました。
そうして,つぎに提案した概念装置が「下降志向のスポーツ」というものでした。ことわるまでもなく,勝利至上主義を追求するあまりに過剰な競争原理によって著しく奇形化していく競技スポーツの限界を意識してのものでした。わたしとしては,上昇志向のスポーツ=近代競技スポーツに対して,その逆をいく下降志向のスポーツ=後近代のスポーツ,ということでなんの矛盾も感じませんでした。しかし,これもまた,大きな抵抗に会いました。もう少し表現の仕方がなんとかならないのか,と。
こんなことを考えながらも,まだ,その「なにか」を適切に説明するロジックを欠いていました。なんとかならないものか,とずっと考えてきました。ですが,こころの底から自分で納得のできるロジックを構築することはできませんでした。しかし,「科学技術や産業経済とグローバル化とが条件づけている,人間社会全体の「システム的破局」である」という指摘が,わたしのこころの奥底まですとんと落ちていきました。まるで,電撃のように。そして,限りない快感をともなって。
終章のこの西谷さんの文章に出会うまでには,多くの伏線があったことは隠しようもありません。が,その伏線のおかげで,西谷さんのこの文章に接して,一気にわたしの疑念が瓦解してしまいました。もう,この終章を何回,読み返していることでしょう。短い文章ですが,一分のすきもない,簡潔で,ピンポイントのように問題の所在を指摘してくれていて,いま現在のわたしにはバイブルにも等しい存在です。
さきの引用文のあとに,つづけて西谷さんはつぎのように書いています。
そこでは大文字の「破局」つまりいわゆる「人類の滅亡」も想定されるが,局地的「破局」もある。前者は後者の積み重ねからも起こりうる。日本を襲った自然災害が引き起こしたのもこのような「破局」である。
破局はいつも「まだ起こっていない」ものとして「未来」にある。だが,いまその「未来」がここにある。それが「大洪水のあと」ということだ。その「大洪水のあと」,われわれはもはやいままでのように生きることはできない,目先にかまけて「未来」を無視するようにしては。むしろ,ここに現実化してしまった「未来」を基準に,この「未来」の全面化を退けるようにしてしか,「これから」を思い描くことはできないということだ。
末尾の文章をもう一度,引いておきます。
この「未来」の全面化を退けるようにしてしか,「これから」を思い描くことはできないということだ。
「予言のパラドックス」から抜け出す道はここにしかないのでしょう。さて,この教訓をスポーツ史・スポーツ文化論の世界に持ち込むと,どういうことになるのでしょう。また,ひとつ仕事が増えてしまいました。でも,この仕事こそ,喫緊の課題です。喜んで,取り組んでいきたいと思います。
それにしても,こんどの西谷修さんの講演が楽しみです。
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