昨日のブログにつづいて,J.P.デュピュイの言説について考えてみたいと思います。テクストも同じ『聖なるものの刻印』──科学的合理性はなぜ盲目なのか(J.P.デュピュイ著,西谷修,森元庸介・渡名喜庸哲訳,以文社,2014年刊)です。
J.P.デュピュイは,このテクストの冒頭で「人間の集合体とは神々を造り出すマシンだ」と言い切った上で,つぎのように問いかけます。
「なぜそういうことになるのか。そのマシンはどんなふうに機能するのか。このような問いが人間と社会に関する諸学の核心にあってしかるべきだろう。科学が非宗教的であろうとするならばなおのことである。」
近代に入って驚異的な進展をみた科学が,徹底して宗教的なものを排除してきたことは周知のとおりです。つまり,宗教的なものはすべて迷信であり,科学的根拠はなにもない,という理由のもとに。それでもなお,「人類の歴史をざっと見渡してみたときにくっきりと浮かびあがる」のは「人間の集合体とは神々を造り出すマシンだ」という真理はゆるがない,とJ.P.デュピュイは主張します。
だとしたら,その理由を問うことが不可欠だとした上で,この問いこそが「人間と社会に関する諸学の核心」にあってしかるべきだろう,と言います。そして,つぎのようにつづけます。
「ところがそうなってはいない。宗教的思考の名残と見まごうものは何でも捨てて顧みないという,実証的精神の頑迷なまでの決意が,研究に値すると判断される対象の選択にも浸透しているのだろう。この実証的精神によれば,世界を宗教的に見る見方は,今日では時代遅れの逸脱だというのである。そしてそこから,宗教学にはたいしたことは期待できないと結論づける。ところがそれが間違っているのだ」。
近代科学がよりどころとする実証的精神は,研究対象までも数量的合理化が可能なかぎられた部分に限定してしまいます。その上,さらに,「世界を宗教的に見る見方」は「時代遅れの逸脱だ」と決めつけてやみません。こうして近代科学のよりどころである実証的精神は「宗教学」を排除してしまいます。しかし,「それが間違っているのだ」とJ.P.デュピュイは主張します。
その上で,つぎのように問いかけます。
「もし反対に,宗教的なものの学と人間に関する学とがじつはひとつの学にほかならないとしたらどうだろう。もし,人間とは何かを知るためには,人間が神を発明したのは──そうだとして──なぜなのかを理解することがぜひとも必要だとしたら」。
この問いは読者の関心を惹きつけるために,そして,問題の本質をわかりやすく浮き彫りにするために,J.P.デュピュイが,きわめて意図的に仕掛けた問いである,とわたしは受け止めます。そして,同時に,この問いは答えをも包含している・・・と。すなわち,「宗教的なものの学と人間に関する学はひとつの学にほかならない」,と。そしてさらに,「人間とは何かを知るためには,人間が神を発明したのはなぜかを理解することが必要だ」,とJ.P.デュピュイは言い切っているのだ,とわたしは受け止めます。
そして,このことを明らかにするためにこのテクストを書いた,とJ.P.デュピュイはつぎのように告白しています。
「この本で示そうとするのは,われわれが理性と呼んでいるものがもとは宗教的経験に根差しており,その消しがたい痕跡をとどめているということだ」。
そうして,最後に,つぎのように言い切っています。
「理性が宗教に自分とは無縁なもののように向き合って,それを体よく切り捨てようとするか,あるいは逆にそれと平和的共存のかたちを考えようとするとき,理性はただ単に自己背信に陥っているだけなのだ」。
「理性の自己背信」・・・・,ここまでたどり着いたとき,ようやくJ.P.デュピュイの意図した「つぼ」が,わたしにもはっきりと見えてきました。そして,この視座こそが,近代を通過して,わたしのことばでいえばつぎなる時代である「後近代」にむけて,いよいよ突き抜けていくために不可欠な新たな「知」の地平であるに違いない,ということも確信することができました。
今日のところは,とりあえず,ここまで。
J.P.デュピュイは,このテクストの冒頭で「人間の集合体とは神々を造り出すマシンだ」と言い切った上で,つぎのように問いかけます。
「なぜそういうことになるのか。そのマシンはどんなふうに機能するのか。このような問いが人間と社会に関する諸学の核心にあってしかるべきだろう。科学が非宗教的であろうとするならばなおのことである。」
近代に入って驚異的な進展をみた科学が,徹底して宗教的なものを排除してきたことは周知のとおりです。つまり,宗教的なものはすべて迷信であり,科学的根拠はなにもない,という理由のもとに。それでもなお,「人類の歴史をざっと見渡してみたときにくっきりと浮かびあがる」のは「人間の集合体とは神々を造り出すマシンだ」という真理はゆるがない,とJ.P.デュピュイは主張します。
だとしたら,その理由を問うことが不可欠だとした上で,この問いこそが「人間と社会に関する諸学の核心」にあってしかるべきだろう,と言います。そして,つぎのようにつづけます。
「ところがそうなってはいない。宗教的思考の名残と見まごうものは何でも捨てて顧みないという,実証的精神の頑迷なまでの決意が,研究に値すると判断される対象の選択にも浸透しているのだろう。この実証的精神によれば,世界を宗教的に見る見方は,今日では時代遅れの逸脱だというのである。そしてそこから,宗教学にはたいしたことは期待できないと結論づける。ところがそれが間違っているのだ」。
近代科学がよりどころとする実証的精神は,研究対象までも数量的合理化が可能なかぎられた部分に限定してしまいます。その上,さらに,「世界を宗教的に見る見方」は「時代遅れの逸脱だ」と決めつけてやみません。こうして近代科学のよりどころである実証的精神は「宗教学」を排除してしまいます。しかし,「それが間違っているのだ」とJ.P.デュピュイは主張します。
その上で,つぎのように問いかけます。
「もし反対に,宗教的なものの学と人間に関する学とがじつはひとつの学にほかならないとしたらどうだろう。もし,人間とは何かを知るためには,人間が神を発明したのは──そうだとして──なぜなのかを理解することがぜひとも必要だとしたら」。
この問いは読者の関心を惹きつけるために,そして,問題の本質をわかりやすく浮き彫りにするために,J.P.デュピュイが,きわめて意図的に仕掛けた問いである,とわたしは受け止めます。そして,同時に,この問いは答えをも包含している・・・と。すなわち,「宗教的なものの学と人間に関する学はひとつの学にほかならない」,と。そしてさらに,「人間とは何かを知るためには,人間が神を発明したのはなぜかを理解することが必要だ」,とJ.P.デュピュイは言い切っているのだ,とわたしは受け止めます。
そして,このことを明らかにするためにこのテクストを書いた,とJ.P.デュピュイはつぎのように告白しています。
「この本で示そうとするのは,われわれが理性と呼んでいるものがもとは宗教的経験に根差しており,その消しがたい痕跡をとどめているということだ」。
そうして,最後に,つぎのように言い切っています。
「理性が宗教に自分とは無縁なもののように向き合って,それを体よく切り捨てようとするか,あるいは逆にそれと平和的共存のかたちを考えようとするとき,理性はただ単に自己背信に陥っているだけなのだ」。
「理性の自己背信」・・・・,ここまでたどり着いたとき,ようやくJ.P.デュピュイの意図した「つぼ」が,わたしにもはっきりと見えてきました。そして,この視座こそが,近代を通過して,わたしのことばでいえばつぎなる時代である「後近代」にむけて,いよいよ突き抜けていくために不可欠な新たな「知」の地平であるに違いない,ということも確信することができました。
今日のところは,とりあえず,ここまで。
0 件のコメント:
コメントを投稿