第84回・「ISC・21」7月東京例会で,西谷修先生にご講演をしていただけることになりました。「ISC・21」というのは,わたしの主宰しています「21世紀スポーツ文化研究所」のことです。この研究所が主催する月1回の研究会を月例会と名づけ,東京,名古屋,大阪,神戸,奈良,などを巡回しながら開催しています。
で,今回は7月に東京で開催しますので,「7月東京例会」という次第です。この月例会は,原則として一般に公開しています。どなたでも参加は自由です。ただし,参加を希望される方はわたし宛にご連絡ください。座席に制限がありますので,若干の調整をさせていただきます。会費はありません。が,懇親会は実費(頭割り)です。当日,清算します。
さて,前置きが長くなってしまいましたが,第84回「ISC・21」7月東京例会」の開催要領は以下のとおりです。
日時:2014年7月19日(土)午後1時~午後6時。
場所:青山学院大学総研ビル(正門を入ってすぐ右の建物)4階,14404教室。
プログラム:
第一部:情報交換会(午後1時~午後2時45分)
会員の活動報告,ショート・プレゼンテーション,ブック・レヴュー,論文紹介,など。
第二部:講演会(午後3時~午後6時)
演者:西谷修先生(立教大学大学院特任教授)
演目:『聖なるものの刻印』──科学的合理性はなぜ盲目なのか(J=P.デュピュイ著,西谷 修,森元庸介,渡名喜庸哲訳,以文社,2014年刊)をどう読むか。
司会:稲垣正浩(「ISC・21」主幹研究員・神戸市外国語大学特別研究員)
質疑応答・・・代表質問(会員)ののち,一般参加者に公開。
以上。
なお,一般で参加を希望される方は第二部からお願いします。当然のことですが,事前にテクストをよく読んできてください。かなり難解ですので,そのつもりで。できれば,デュピュイの著作はたくさん翻訳されていますので,そちらにも触手をのばしておいてください。西谷先生のお話のなかに,当然,それらの著作についても触れられると思いますので。
それから,講演会終了後,会費制による懇親会を予定しています。参加希望者はわたし宛に申し込みをしてください。こちらも座席数に限りがありますので,オーバーした場合には調整をさせていただきます。アドレスは,「ISC・21」のHPにあります。
以上が,開催要領です。
講演会開催の趣旨は,わたしの個人的な強い要望によるものです。それは以下のとおりです。
「スポーツ評論」なるものは世に氾濫していますが,いわゆる「スポーツ批評」なるものはほんのわずかしか存在しません。つまり,スポーツの表層に咲く徒花を「評論」することばかり多くして,スポーツとはなにかという問いを根底にもつ「批評」精神が欠落している,というのがわたしの現状認識です。すなわち,スポーツの語りに偏りがあって,スポーツの内実とは縁遠い騙りものが多すぎるという,わたしの反省が根底にあります。これではスポーツのあるべき姿を見失ってしまいます。つまり,スポーツ本来の互酬性に富んだ攻防や,贈与にも等しい美しさや感動からは遠のいてしまいます。そして,ひたすら勝ち負けだけを追求する勝利至上主義ばかりが闊歩することになってしまいます。
なぜ,そのようになってしまったのか。スポーツもまた「科学的合理性」を追求するあまりに,スポーツのもつ遊戯性やスポーツ全体を見渡す視力を失ってしまったことに由来する,とわたしは考えています。しかも,科学的合理性から導き出されるロジックのほとんどは「盲目」に等しい,ということを見抜くだけの力量を,こんにちのわたしたちは失ってしまったからだ,とわたしは考えています。その最大の理由は,デュピュイのいう「聖なるもの」に対するまなざしや配慮を,非科学的という名のもとに否定してきた近代合理主義の考え方にある,とわたしは考えています。
しかし,人間は「聖なるもの」を無視して,あるいは,完全に否定して生きることはほとんど不可能です。むしろ,極限情況の最後の最後のところでは,人間は,まず,間違いなく「聖なるもの」のなにかに向かって「祈り」ます。この「祈り」ともいうべき「自己超越」の「場」こそ,スポーツの原初の姿が立ち現れる「場」ではないか,とわたしは考えています。
ですから,デュピュイのこのテクストを熟読すればするほど,ことばの正しい意味での「スポーツ批評」の源泉をそこに読み取ることができます。
デュピュイの主張する「破局」論は,そっくりそのままこんにちのスポーツ競技が陥っている破局(臨界点)にも当てはまります。
こんなことを考えているわたし(および,わたしの研究者仲間たち)に対して,西谷修先生がなにを語りかけてくださるのか,それが最大の関心事です。デュピュイ自身がそうでありますように,アカデミズムの専門分化した狭い視野から抜け出し,西谷修先生が主張される「チョー哲学」から繰り出される「聖なるもの」の読解はいかなるものなのか,全身を耳にして聞いてみたい,といまから楽しみです。
そこで,ある意味でのわたし自身の踏ん切りがつけば,これからのわたしの「スポーツ批評」を展開するための土俵ができあがる,と考えています。それはまた,デュピュイも西谷先生も強調されますように,目の前に迎えてしまった「破局」(カタストロフィ)を,少しでも「先送り」するための最後の,そして,唯一の方法であり手段ではないか,とわたしは考えています。
ですから,わたしは,いまから,ドキドキです。夜も眠れないほど興奮しています。かつて,真島一郎先生が語ってくださった「力としかいいようのない空恐ろしいもの」に間違いなく通底する「聖なるもの」の存在,そして,それがこんにちの科学的合理性の網の目をかいくぐって,現代社会の隅々にまで「刻印」されているというデュピュイの指摘・・・・。
はたして,西谷修先生は,なにを,どのように語ってくださるのか,期待に胸がいっぱいです。
こんな関心をお持ちの方がたくさん集まってくださると,とてもありがたい,と仕掛け人としては願っているところです。取り急ぎ,私見のご紹介を兼ねて,7月東京例会のご案内まで。
で,今回は7月に東京で開催しますので,「7月東京例会」という次第です。この月例会は,原則として一般に公開しています。どなたでも参加は自由です。ただし,参加を希望される方はわたし宛にご連絡ください。座席に制限がありますので,若干の調整をさせていただきます。会費はありません。が,懇親会は実費(頭割り)です。当日,清算します。
さて,前置きが長くなってしまいましたが,第84回「ISC・21」7月東京例会」の開催要領は以下のとおりです。
日時:2014年7月19日(土)午後1時~午後6時。
場所:青山学院大学総研ビル(正門を入ってすぐ右の建物)4階,14404教室。
プログラム:
第一部:情報交換会(午後1時~午後2時45分)
会員の活動報告,ショート・プレゼンテーション,ブック・レヴュー,論文紹介,など。
第二部:講演会(午後3時~午後6時)
演者:西谷修先生(立教大学大学院特任教授)
演目:『聖なるものの刻印』──科学的合理性はなぜ盲目なのか(J=P.デュピュイ著,西谷 修,森元庸介,渡名喜庸哲訳,以文社,2014年刊)をどう読むか。
司会:稲垣正浩(「ISC・21」主幹研究員・神戸市外国語大学特別研究員)
質疑応答・・・代表質問(会員)ののち,一般参加者に公開。
以上。
なお,一般で参加を希望される方は第二部からお願いします。当然のことですが,事前にテクストをよく読んできてください。かなり難解ですので,そのつもりで。できれば,デュピュイの著作はたくさん翻訳されていますので,そちらにも触手をのばしておいてください。西谷先生のお話のなかに,当然,それらの著作についても触れられると思いますので。
それから,講演会終了後,会費制による懇親会を予定しています。参加希望者はわたし宛に申し込みをしてください。こちらも座席数に限りがありますので,オーバーした場合には調整をさせていただきます。アドレスは,「ISC・21」のHPにあります。
以上が,開催要領です。
講演会開催の趣旨は,わたしの個人的な強い要望によるものです。それは以下のとおりです。
「スポーツ評論」なるものは世に氾濫していますが,いわゆる「スポーツ批評」なるものはほんのわずかしか存在しません。つまり,スポーツの表層に咲く徒花を「評論」することばかり多くして,スポーツとはなにかという問いを根底にもつ「批評」精神が欠落している,というのがわたしの現状認識です。すなわち,スポーツの語りに偏りがあって,スポーツの内実とは縁遠い騙りものが多すぎるという,わたしの反省が根底にあります。これではスポーツのあるべき姿を見失ってしまいます。つまり,スポーツ本来の互酬性に富んだ攻防や,贈与にも等しい美しさや感動からは遠のいてしまいます。そして,ひたすら勝ち負けだけを追求する勝利至上主義ばかりが闊歩することになってしまいます。
なぜ,そのようになってしまったのか。スポーツもまた「科学的合理性」を追求するあまりに,スポーツのもつ遊戯性やスポーツ全体を見渡す視力を失ってしまったことに由来する,とわたしは考えています。しかも,科学的合理性から導き出されるロジックのほとんどは「盲目」に等しい,ということを見抜くだけの力量を,こんにちのわたしたちは失ってしまったからだ,とわたしは考えています。その最大の理由は,デュピュイのいう「聖なるもの」に対するまなざしや配慮を,非科学的という名のもとに否定してきた近代合理主義の考え方にある,とわたしは考えています。
しかし,人間は「聖なるもの」を無視して,あるいは,完全に否定して生きることはほとんど不可能です。むしろ,極限情況の最後の最後のところでは,人間は,まず,間違いなく「聖なるもの」のなにかに向かって「祈り」ます。この「祈り」ともいうべき「自己超越」の「場」こそ,スポーツの原初の姿が立ち現れる「場」ではないか,とわたしは考えています。
ですから,デュピュイのこのテクストを熟読すればするほど,ことばの正しい意味での「スポーツ批評」の源泉をそこに読み取ることができます。
デュピュイの主張する「破局」論は,そっくりそのままこんにちのスポーツ競技が陥っている破局(臨界点)にも当てはまります。
こんなことを考えているわたし(および,わたしの研究者仲間たち)に対して,西谷修先生がなにを語りかけてくださるのか,それが最大の関心事です。デュピュイ自身がそうでありますように,アカデミズムの専門分化した狭い視野から抜け出し,西谷修先生が主張される「チョー哲学」から繰り出される「聖なるもの」の読解はいかなるものなのか,全身を耳にして聞いてみたい,といまから楽しみです。
そこで,ある意味でのわたし自身の踏ん切りがつけば,これからのわたしの「スポーツ批評」を展開するための土俵ができあがる,と考えています。それはまた,デュピュイも西谷先生も強調されますように,目の前に迎えてしまった「破局」(カタストロフィ)を,少しでも「先送り」するための最後の,そして,唯一の方法であり手段ではないか,とわたしは考えています。
ですから,わたしは,いまから,ドキドキです。夜も眠れないほど興奮しています。かつて,真島一郎先生が語ってくださった「力としかいいようのない空恐ろしいもの」に間違いなく通底する「聖なるもの」の存在,そして,それがこんにちの科学的合理性の網の目をかいくぐって,現代社会の隅々にまで「刻印」されているというデュピュイの指摘・・・・。
はたして,西谷修先生は,なにを,どのように語ってくださるのか,期待に胸がいっぱいです。
こんな関心をお持ちの方がたくさん集まってくださると,とてもありがたい,と仕掛け人としては願っているところです。取り急ぎ,私見のご紹介を兼ねて,7月東京例会のご案内まで。
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