「尾てい骨を巻き込むようにして脚を送り出しなさい」と初めて言われたとき,なんのことだろう?と考えてしまった。第一,尾てい骨を巻き込む,などということをやったことがない。それどころか,尾てい骨を動かすなどということは考えたこともなかった。それよりなにより,尾てい骨を動かすことなど可能なのか,と必死で考える。そして,意識して動かしてみようとする。尾てい骨は微動だにしない。ああ,困ったと頭をかかえこむ。
納得がいかないので,例によって,李老師に必死に食い下がる。やさしい李老師は,そのつど,丁寧に教えてくださる。手指の動きで説明してくださったり,じっさいにやって見せてくださったり,とさまざまである。あとは,そこに意識を集中させて,繰り返し稽古をするだけです,と仰る。
不肖の弟子は,なかなか自分ひとりで稽古するということができない。だから,遅々として上達しない。みんなと一緒の稽古のときに,いつも同じ注意を受ける。恥ずかしい,が自分が悪いのだから仕方ない。何回も何回も同じ注意を受けつづけていると,そのうちに「あれっ,このことかな?」という感覚が尾てい骨の周辺に現れる。ようやく意識とからだとがつながりはじめる。なんとなく,こういうことなのかな,という「イメージ」が湧いてくる。
若いころに熱中した体操競技では,新しいワザを習得するときに,まず最初に「イメージ」をつくることからはじめる。ワザのイメージがはっきり脳裏に描けるようになると,こんどはからだが少しずつ反応するようになる。こうなったらしめたものだ。あとは繰り返し練習するのみ。
そのつもりで,まずは「イメージ」を固める。そして,こんどはからだの感覚に置き換える。そして,からだが反応しはじめたら,あとは面白くなるので,おのずからひとり稽古がはじまる。そして,ひたすら「尾てい骨を巻き込むようにして脚を送り出す」を繰り返す。
でも,それが自然に,無意識のうちにできるようになるには時間がかかるようだ。わたしのからだは「太極拳する身体」には,まだ,ほど遠い。だから,いまは意識的に試みている。だから,たまにしかうまくはいかない。でも,この「うまくいったな」の回数を増やせばいいのだ,とみずからを励ます。これが,いまのわたしの課題だ。
上達するということは,どこまでその運動を分節化できるか,ということと表裏の関係にある。そして,分節化した運動をなぞりながら,納得のいくまで稽古をすること。やがては,考えなくてもできるようになる。あとは,仕上げるだけ。ゆっくりと,静かに,滑らかに,しかも力強く,流れるように。
尾てい骨とは解剖学では仙骨という。この仙骨は,そのむかし,わたしたちの祖先が尻尾をもっていた名残りの骨。つまり,尻尾が退化して残った遺物。ふつうは,3~5個の骨がくっついている。が,時折,もっとたくさんの骨をもっている人がいる。つまり,小さな尻尾をいまも保持しているという次第。
尻尾だったのであれば,動かすことができるはず。でも,仙骨になってしまったいまは,ふつうの人にはほとんど困難。しかし,李老師の「尾てい骨」は,幼少のころからの長年の稽古の結果,どうやら動いているらしい。みずから示範してくれるときなどは,「はい,ここで尾てい骨を巻き込んで,その力で脚を前に送り出す・・・」というような説明をされる。じっさいに,どのようになっているのかは想像の域をでない。しかし,李老師の大臀筋が不思議な動き方をしているのは,稽古着の上からもみてとることができる。ああ,大臀筋のつき方からして違う,ということがわかる。
太極拳は奥が深い。しみじみとそう思う。だから,愉しい。
いつの日か,李老師の仰る「からだの快感」が感じられるように,それを夢見ながら・・・・。
〔追記〕
「尾てい骨を巻き込む」とは「仙骨を動かす」と同義。「仙骨を動かす」は「尻尾を振る」と同義。だとすれば,先祖返りをするということ。すなわち,人間性を生きているわたしたちのからだに,もう一度,動物性を生きていた時代のからだを取り戻すこと。もっと言ってしまえば,内なる他者と自己同一すること。なるほど,李老師のからだに「快感」が駆け巡るとはこういうことだったのだ,と納得。太極拳する身体と,坐禅する身体とは,そのゴールでは同じ。すなわち,「恍惚する身体」=エクスターズ。ああ,バタイユのいう「非-知」。禅仏教でいえば,「禅定」。
こういう身体の行き着くところは,なぜか,みんな同じようなところに集まってくる。この話は,また,いつか,詳しく書いてみたい。宿題としておく。
李老師もまた,最近は時間をみつけて,太極拳に関する古い文献を渉猟している,と聞いている。そして,やはり,みんな同じような世界に到達している,という。この話も,また,いずれ。
納得がいかないので,例によって,李老師に必死に食い下がる。やさしい李老師は,そのつど,丁寧に教えてくださる。手指の動きで説明してくださったり,じっさいにやって見せてくださったり,とさまざまである。あとは,そこに意識を集中させて,繰り返し稽古をするだけです,と仰る。
不肖の弟子は,なかなか自分ひとりで稽古するということができない。だから,遅々として上達しない。みんなと一緒の稽古のときに,いつも同じ注意を受ける。恥ずかしい,が自分が悪いのだから仕方ない。何回も何回も同じ注意を受けつづけていると,そのうちに「あれっ,このことかな?」という感覚が尾てい骨の周辺に現れる。ようやく意識とからだとがつながりはじめる。なんとなく,こういうことなのかな,という「イメージ」が湧いてくる。
若いころに熱中した体操競技では,新しいワザを習得するときに,まず最初に「イメージ」をつくることからはじめる。ワザのイメージがはっきり脳裏に描けるようになると,こんどはからだが少しずつ反応するようになる。こうなったらしめたものだ。あとは繰り返し練習するのみ。
そのつもりで,まずは「イメージ」を固める。そして,こんどはからだの感覚に置き換える。そして,からだが反応しはじめたら,あとは面白くなるので,おのずからひとり稽古がはじまる。そして,ひたすら「尾てい骨を巻き込むようにして脚を送り出す」を繰り返す。
でも,それが自然に,無意識のうちにできるようになるには時間がかかるようだ。わたしのからだは「太極拳する身体」には,まだ,ほど遠い。だから,いまは意識的に試みている。だから,たまにしかうまくはいかない。でも,この「うまくいったな」の回数を増やせばいいのだ,とみずからを励ます。これが,いまのわたしの課題だ。
上達するということは,どこまでその運動を分節化できるか,ということと表裏の関係にある。そして,分節化した運動をなぞりながら,納得のいくまで稽古をすること。やがては,考えなくてもできるようになる。あとは,仕上げるだけ。ゆっくりと,静かに,滑らかに,しかも力強く,流れるように。
尾てい骨とは解剖学では仙骨という。この仙骨は,そのむかし,わたしたちの祖先が尻尾をもっていた名残りの骨。つまり,尻尾が退化して残った遺物。ふつうは,3~5個の骨がくっついている。が,時折,もっとたくさんの骨をもっている人がいる。つまり,小さな尻尾をいまも保持しているという次第。
尻尾だったのであれば,動かすことができるはず。でも,仙骨になってしまったいまは,ふつうの人にはほとんど困難。しかし,李老師の「尾てい骨」は,幼少のころからの長年の稽古の結果,どうやら動いているらしい。みずから示範してくれるときなどは,「はい,ここで尾てい骨を巻き込んで,その力で脚を前に送り出す・・・」というような説明をされる。じっさいに,どのようになっているのかは想像の域をでない。しかし,李老師の大臀筋が不思議な動き方をしているのは,稽古着の上からもみてとることができる。ああ,大臀筋のつき方からして違う,ということがわかる。
太極拳は奥が深い。しみじみとそう思う。だから,愉しい。
いつの日か,李老師の仰る「からだの快感」が感じられるように,それを夢見ながら・・・・。
〔追記〕
「尾てい骨を巻き込む」とは「仙骨を動かす」と同義。「仙骨を動かす」は「尻尾を振る」と同義。だとすれば,先祖返りをするということ。すなわち,人間性を生きているわたしたちのからだに,もう一度,動物性を生きていた時代のからだを取り戻すこと。もっと言ってしまえば,内なる他者と自己同一すること。なるほど,李老師のからだに「快感」が駆け巡るとはこういうことだったのだ,と納得。太極拳する身体と,坐禅する身体とは,そのゴールでは同じ。すなわち,「恍惚する身体」=エクスターズ。ああ,バタイユのいう「非-知」。禅仏教でいえば,「禅定」。
こういう身体の行き着くところは,なぜか,みんな同じようなところに集まってくる。この話は,また,いつか,詳しく書いてみたい。宿題としておく。
李老師もまた,最近は時間をみつけて,太極拳に関する古い文献を渉猟している,と聞いている。そして,やはり,みんな同じような世界に到達している,という。この話も,また,いずれ。