2014年4月11日金曜日

『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』・上(増田俊也著,新潮文庫,平成26年)を読む。

 このぶっそうな名前の本は刊行と同時に大きな話題になりました。わたしも書店で手にとって読み始めたとたんに,「この本はいけない」と直感して,すぐに元にもどしました。なぜなら,こんな本を買ってしまったら,しばらくは仕事ができなくなってしまう,と思ったからでした。分厚い上に細かな文字がびっしり詰め込まれた大部な本でした。ここは禁欲,とみずからに言い聞かせました。

 が,このほど文庫本となって(上・下2巻,平成26年3月),ふたたび書店に並びました。もう,どうにも我慢できなくて,即刻,購入。でも,一日50ページまで,それ以上は読まないと自分に言い聞かせました。この作戦はどうやら正解でした。なぜなら,じつに密度の濃い内容で,よくぞここまで調べ上げたものだと感心してしまうこほど,その情報量はいわゆるノン・フィクションでは考えられないレベルの高いものだったからです。つまり,わたしの惚けはじめた頭にも,しっかりとした記憶として残すには「50ページ」くらいがちょうどよかったからです。

 いま,ちょうど上巻を読み終えたばかりです。「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」というなんとも怪しげなタイトルに惹かれて読み始めたわたしは,完全に裏切られてしまいました。なぜなら,少なくとも上巻にはその謎解きも答えもどこにも書いてなかったからです。ヒントらしきものもなにもありません。それなのに,まったく別の意味で,この本には驚かされ,こころの底から感動させられました。

 この本は,多くの日本人が信じて疑わない,講道館柔道にまつわるまったく根拠のない「神話」を根底から突き崩し,日本の柔道史の真の姿を描き出すことを大きな目的のひとつとしてかかげているからです。少なくとも,上巻は徹底して講道館柔道の虚像を突き崩すことに,筆者・増田俊也は全力を傾けています。そして,そこには柔道史には相当明るいつもりでいたわたしにも,びっくりするような内容が満載されていました。

 著者の増田俊也氏は北大柔道部出身の,柔道をこよなく愛する柔道マンのひとりです。その著者が「柔道とはなにか」という根源的な問いを内に抱え込みながら,木村政彦のライフ・ヒストリーを丹念に追っかけていったら,そこには講道館柔道とはまるで別の柔道の世界が広がっていて,しかも,そちらの方が日本の柔道としては「主流」であった,という「事実」が明らかになってきます。いわゆる武徳会柔道と高専柔道の二つの系譜が圧倒的な力をもっていて,講道館柔道は細々と流派柔道の伝承に励んでいたにすぎない,ということが。

 上巻を読んだかぎりでの結論を言ってしまえば,講道館柔道は第二次世界大戦後になって,ようやく柔道界の中心に位置づけられるものであって,それまでは単なる流派柔道の家元にすぎなかった,と(増田俊也は力説します)。それも,戦後のGHQの占領政策のもとで,講道館柔道以外の柔道団体がすべて解散させられてしまったからだ,と。講道館柔道は,要するに漁夫の利を拾ったにすぎない,と。

 その結果,講道館柔道と全日本柔道連盟とが表裏一体の癒着関係が生じてしまったこと,つまり,講道館柔道こそが柔道の本家本元である,という「神話」が一気に広まり,いつのまにか定着し,みごとにその「神話」が構築されてしまったこと,ここに日本の柔道が堕落・頽廃していく根源的な理由があった,と。このまったく偶発的に,降って湧いたような,つまり,GHQですら意図しなかったであろうような,戦後の柔道政策の,とんだ置き土産が「講道館柔道中心主義」を導き出し,同時に柔道の歴史を語る上でも,「講道館柔道中心史観」がまかりとおるようになった,と増田俊也は主張します。そして,その根拠を一つひとつ提示していきます。その迫力たるや,読む者をして「目からウロコ」にさせてしまいます。

 しかも,その一つひとつが木村政彦という希代の柔道マン誕生の足跡を綿密にたどることによって,確たる根拠をもって浮かび上がってきます。その説得力は,これまでわたしが目にしてきた柔道の歴史に関する本にはなかった,みごとなものです。もっと言ってしまえば,著者の一歩も譲らないぞという気魄さえ感じられます。

 そうです。この本は,木村政彦という柔道界のレジェンドの謎解きをしていったら,期せずして日本の柔道界の「虚実」が一気に露呈し,噴出してきた,そういう本なのだというべきかもしれません。場合によっては,著者自身が「虚実」の第一発見者であり,もっとも興奮しながら,その謎解きに挑んでいった,というのがほんとうかもしれません。だからこそ,読む者のこころを打つのだと思います。

 この本のなかに埋め込まれた柔道の「虚実」の面白さは,計り知れないものがあります。それらの「各論」については,また,追々,このブログでも取り上げてみたいと思っています。いずれにしても,歴史は「創られる」という見本のような作品です。と同時に,わたしもまた「スポーツ史」という領域で,同じような「愚」を侵しているのではないか,と痛く反省を迫られるそういう本でした。

 こんどでた文庫本の帯には「大宅壮一ノンフィクション賞・新潮ドキュメント賞」受賞と仰々しく謳われています。が,その名に恥じない力作であり,傑作だとわたしも思いました。

 これから下巻にとりかかります。一日50ページを禁欲的に遵守しながら。
 いまからこころが躍ります。こんどこそ「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の謎解きがはじまるはずですから。
 

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