Iさん,Hさん,Mさんと話をしているときに,Iさんが「手紙は手書きが一番」と切り出し,ひとしきり「手書き手紙」論が披露されました。もちろん,わたしも大賛成ですが,困ることが一つある,とわたし。それは手書きで手紙を書いている途中で文章がねじれてきて意にそわなくなることがある,しかも修正がきかない,と。すると,すかさずIさんは「だからいいんです」と仰る。
手書きの文章は,その瞬間,瞬間のその人の気持がおのずから表出するからいいんです。多少,意にそわない文章になっていても構いません。それがその瞬間におけるその人のありのままの心情なのですから。それを修正する必要はまったくありません。いや,修正してしまったら元も子もありません。折角の心情がどこかに消えてしまいます。この心情こそが人と人とを結びつける,もっとも重要なポイントなのですから。
手紙を下書きして,それを推敲してから清書する人がいますが,それは最悪です。同じ手書きの手紙でも,そこには乱丁も落丁もありません。味もそっけもなくなってしまいます。
手書きの手紙のいい点はそれだけではありません。手書きの文字そのものがその人独特のスタイルをもっていて,そこからも伝わってくるものがあります。しかも,その時々の気持の置き所によって文字の勢いが変化します。嬉しいことを伝える手紙の文字はおのずから跳ねたり,躍ったりしています。哀しい内容のときには,それなりの文字になっています。文字は嘘をつきません。ですから,より直接的にその人の心情が伝わってきます。それがたまりません。
このように考えると,ワープロによる手紙は最悪ですね。文字は画一的で個性が消えてしまいます。文章は推敲して,いかようにも加工ができ,その瞬間,瞬間の情動はどこかに消えてしまいます。流れるようなきれいな文章になってはいても,味がない。誤字・脱字がいっぱいある手書きの文章の味にはかないません。
この話を聞きながら,わたしは反省することばかりでした。
もう長いこと手紙というものを書いたことがありません。ほとんどのことはメールで済ませてしまいます。もし,どうしてもメールでは具合が悪いという場合でも,ワープロで文書を作成して,推敲し,プリントアウトしたものを封書にして済ませてしまいます。手書きの手紙は,もう,とんと書いた記憶がありません。
考えてみれば,ワープロなるものが登場してから,手書きの手紙を書いた記憶がありません。ちょうど,ワープロがではじめたころに,恩師のK先生が「ワープロの手紙は味がないねぇ」と仰ったことがありました。そのとき冷や汗をかいたことをいまも鮮明に思い出します。ですから,K先生にだけは,手書きの手紙を書くようにしていました。それ以外は全部,ワープロ打ち出しの手紙でした。もらう手紙もほとんどはワープロ打ち出しでした。
そんななかで,手書きの手紙をもらうととても嬉しいものです。くれた相手によっては小躍りしてしまいます。それはいまでも変わりません。それでいて自分では手書きの手紙を書きません。駄目ですねぇ。これからはこころを入れ換えて,できるだけ手書きの手紙を書くよう努力してみたいと思います。
年賀状の表書きを,ことし初めて毛筆で書いてみました。かなり気合を入れて,毎日,少しずつ書きました。が,なんの反応もなくちょっぴり落胆。でも,受けとった人のうち何人かは喜んでもらえたのではないか,と自分を慰めています。これは,いただく年賀状の大半が,本文も宛て名も全部印刷されたもので,味もそっけもない,ましてやその人の人柄がどこにも見届けられない,せめて宛て名書きだけでも・・・・,という反省に立ってのものです。
まあ,どこまでできるかはともかくとして,手書きの手紙が激減してしまったことの意味を考えざるをえません。やはり,カントのいう「クンスト」Kunst の復権が,ここでも重要なのだ,といまさらのように思い知らされます。この問題は些細なことではすまされない,きわめて重要なことなのだ,といまになって気づきました。
遅きに失した感もなきにしもあらずですが,気づいたときが吉日と考え,少しずつ実行に移すよう努力したいと思います。
手書きの文章は,その瞬間,瞬間のその人の気持がおのずから表出するからいいんです。多少,意にそわない文章になっていても構いません。それがその瞬間におけるその人のありのままの心情なのですから。それを修正する必要はまったくありません。いや,修正してしまったら元も子もありません。折角の心情がどこかに消えてしまいます。この心情こそが人と人とを結びつける,もっとも重要なポイントなのですから。
手紙を下書きして,それを推敲してから清書する人がいますが,それは最悪です。同じ手書きの手紙でも,そこには乱丁も落丁もありません。味もそっけもなくなってしまいます。
手書きの手紙のいい点はそれだけではありません。手書きの文字そのものがその人独特のスタイルをもっていて,そこからも伝わってくるものがあります。しかも,その時々の気持の置き所によって文字の勢いが変化します。嬉しいことを伝える手紙の文字はおのずから跳ねたり,躍ったりしています。哀しい内容のときには,それなりの文字になっています。文字は嘘をつきません。ですから,より直接的にその人の心情が伝わってきます。それがたまりません。
このように考えると,ワープロによる手紙は最悪ですね。文字は画一的で個性が消えてしまいます。文章は推敲して,いかようにも加工ができ,その瞬間,瞬間の情動はどこかに消えてしまいます。流れるようなきれいな文章になってはいても,味がない。誤字・脱字がいっぱいある手書きの文章の味にはかないません。
この話を聞きながら,わたしは反省することばかりでした。
もう長いこと手紙というものを書いたことがありません。ほとんどのことはメールで済ませてしまいます。もし,どうしてもメールでは具合が悪いという場合でも,ワープロで文書を作成して,推敲し,プリントアウトしたものを封書にして済ませてしまいます。手書きの手紙は,もう,とんと書いた記憶がありません。
考えてみれば,ワープロなるものが登場してから,手書きの手紙を書いた記憶がありません。ちょうど,ワープロがではじめたころに,恩師のK先生が「ワープロの手紙は味がないねぇ」と仰ったことがありました。そのとき冷や汗をかいたことをいまも鮮明に思い出します。ですから,K先生にだけは,手書きの手紙を書くようにしていました。それ以外は全部,ワープロ打ち出しの手紙でした。もらう手紙もほとんどはワープロ打ち出しでした。
そんななかで,手書きの手紙をもらうととても嬉しいものです。くれた相手によっては小躍りしてしまいます。それはいまでも変わりません。それでいて自分では手書きの手紙を書きません。駄目ですねぇ。これからはこころを入れ換えて,できるだけ手書きの手紙を書くよう努力してみたいと思います。
年賀状の表書きを,ことし初めて毛筆で書いてみました。かなり気合を入れて,毎日,少しずつ書きました。が,なんの反応もなくちょっぴり落胆。でも,受けとった人のうち何人かは喜んでもらえたのではないか,と自分を慰めています。これは,いただく年賀状の大半が,本文も宛て名も全部印刷されたもので,味もそっけもない,ましてやその人の人柄がどこにも見届けられない,せめて宛て名書きだけでも・・・・,という反省に立ってのものです。
まあ,どこまでできるかはともかくとして,手書きの手紙が激減してしまったことの意味を考えざるをえません。やはり,カントのいう「クンスト」Kunst の復権が,ここでも重要なのだ,といまさらのように思い知らされます。この問題は些細なことではすまされない,きわめて重要なことなのだ,といまになって気づきました。
遅きに失した感もなきにしもあらずですが,気づいたときが吉日と考え,少しずつ実行に移すよう努力したいと思います。
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