「人間として正しく生きること」。日馬富士が横綱に昇進したときに「どういう横綱を目指すか」と聞かれて答えたことばです。それを聞いた瞬間,わたしは鳥肌が立った。この男はなにを考えているのだろうか,と。並の男ではない。勝ち負けを超越しているではありませんか。
「日本とモンゴルを比較して,どうしたら安心安全で人を信じて暮らせる場所が作れるかということについて論文を書きたい。横綱という最高の地位をはることができたが,いろんな意味で一人前の人間になるように”人間道”に向かって頑張りたい」。こんどは,大学院生として初登校したときのことば(4月12日)。日馬富士のまなざしはどこまでも「人間」に向かっています。しかも,そこには立派な人生哲学があります。
「モンゴルでは,男は30歳からと言われる。全ての力や考えがしっかりしてくるから。ぼくもしっかりと相撲に集中する」。4月14日は日馬富士の30歳の誕生日。三十路の決意を述べたことば。ここでも立派な人間,立派な男として生きる「人間」の覚悟が述べられています。
この三つの談話を並べてみますと,そうか,日馬富士という男は「人間」に強い興味・関心をいだいているんだ,そして,自分の生き方はこれでいいのかと常に問い続けている,ということがはっきりと浮かび上がってきます。わたしは日馬富士の,あの天才的な切れ味鋭い相撲が好きでファンになりましたが,こういう談話を聞いていると,ひとりの生きる人間としての日馬富士にも強く惹かれるものを感じます。一度,会って話を聞いてみたい・・・と。
出典を示すことができませんが,どこかの雑誌対談で,「相撲道を究めるということは,結局,人間道を究めることだと思います」と語っていたことを記憶しています。そうか,この人は「求道」の人なのだ,とそのときに思いました。
しかし,日馬富士についてのイメージは,一般的にはあまりいいものではありません。なぜか,メディアも日馬富士バッシングに加担してきました。白鵬だけが,なぜか,善玉。朝青龍は典型的な悪玉あつかい。そして,日馬富士も喫煙する,ガムを噛む横綱という目で,一方的に片づけられています。しかも,横綱として安定していない(調子の波が大きすぎる),と。思い出すのは,「連続優勝しても横綱にすべきではない」と主張した女性の横綱審議委員(名前は書きたくない)のこと。偏見と独断の強い人間は,男女を問わず好きにはなれません。「連続優勝すれば横綱になれるのなら横綱審議委員会は不要だ」とまでのたまわれました。相撲のなんたるかが少しもわかってはいない横綱審議委員でした。
横綱審議委員や,あるいは,ジャーナリストたちは,力士についてどれだけの情報にもとづいて発言したり,報道をしているのでしょうか。わたしはずっと疑問に思っています。なぜなら,力士についての報道のレベルが低すぎます。そのために一般のファンの力士理解のレベルもまことにお粗末です。その結果が,勝ち負けだけ。記録主義。勝利至上主義だけが一人歩きをしています。力士の人間性などはメディアの関心事からは抜け落ちてしまっているのです。
この日馬富士についても同じです。12日にはNHKも日馬富士の大学院生としての初登校をテレビで放映しましたが,ただ,それだけ。つまり,「横綱が大学院生になったんだって?」という,単なる面白ニュース扱いでした。ですから,13日には「なんで横綱が大学院へ行く必要があるんだ」とわたしに詰め寄ってきた人がいました。この人はかなりの相撲通の人です。しかし,強いか弱いか,そこにしか興味がもてない人です。仕方がないので,わたしの知っている範囲で,日馬富士に関する特殊な経歴についての話をかい摘んでしました。要旨はつぎのとおりです。
日馬富士は,モンゴルのNPO法人「ハートセービングプロジェクト」(HSP)の会員で,心臓病の子どもへの医療支援をしていること。とりわけ,医療の遅れているモンゴルの田舎での検診活動の費用を懸賞金で全額賄っていること。日本の小児循環器病棟への慰問活動も熱心に行っていること。首都ウランバートルにある視覚・聴覚障害者のための雇用施設を運営していること。その他の慈善活動も積極的に行っていること。こういう活動をとおして,日馬富士は本気で勉強したくなったのだろうと思う,と。そのために,モンゴルの大学の通信制で法律の勉強をし,去年,卒業。そして,この春の,法政大学大学院政策創造研究科への入学につながっていること,など。
「そんなことは知らなかった」と。そして「なぜ,NHKはそういう情報も流さないんだ」と憤っていました。そうなんです。メディアのスポーツ報道の根幹が狂っているのです。モンゴルからはるばるやってきた,しかも,あまりからだも大きくはない少年が,臥薪嘗胆,必死の稽古をとおして横綱の地位にまで登りつめるには,単なる才能だけではなく人間としての総合的な「力」が必要だったことは,少し考えればわかることです。ですから,横綱になるのは「なりたい人がなる」のではなく「なるべくしてなる」のだ,ということを日馬富士は言っています。こういうことばがするりと出てくるところが日馬富士のすごいところだと思います。
ちなみに,日馬富士のお父さんは警察官。ブフ(モンゴル相撲)の国家ザーン(大相撲でいえば関脇)。「日本に行って立派な人間になりなさい。そして,人のために尽くす人間になりなさい」と言って送り出したといいます。この父の教えをひたすら守りとおして,ひたすら研鑽を積み重ね,今日の日馬富士があるのです。その研鑽はいまもつづいています。その到達点の一つが「横綱大学院生」の誕生です。2年課程ですが,4年かけて論文に挑戦するとのこと。はたして,どんな修士論文を書くのか,いまから楽しみです。しかも,日本語で書くことを目指すと言っていますから。
日馬富士のことですから,修士論文を書き終えた暁には,また,つぎの目標が忽然と眼前に立ち現れることでしょう。そのとき,経済学修士・日馬富士公平がどんなことばを吐くか,これもまた楽しみの一つ。
日馬富士の魅力は,わが道をまっしぐら。自立していること。つねに自己と向き合いながら,人間とはなにか,という「人間道」を追求していること。勝率や優勝回数も大事ですが,わたしは人間として立派な横綱をめざす日馬富士の生き方にこころから声援を送りたいと思います。そして,ひとまわりもふたまわりも大きな存在になることを期待したいと思います。
絵画はセミプロの腕前だと聞いています。日馬富士のアーティスティックな相撲の取り口はそこからきているのかもしれません。あなたの相撲はまぎれもなく「アート」です。過去のどの力士も踏み込んだことのない特殊個の境地を切り開く世界です。その意味では孤高の人でもあります。だれも真似のできない世界に向かって,自己を超え出て行ってください。そういう相撲をわたしは一番でも多くみられればそれで充分です。勝敗を度外視した世界に飛び出し,自由自在に遊んでください。そこに待っているものが「相撲道」の奥義であり,「人間道」の最高の境地ではないでしょうか。
あなたならできる,と信じています。
「日本とモンゴルを比較して,どうしたら安心安全で人を信じて暮らせる場所が作れるかということについて論文を書きたい。横綱という最高の地位をはることができたが,いろんな意味で一人前の人間になるように”人間道”に向かって頑張りたい」。こんどは,大学院生として初登校したときのことば(4月12日)。日馬富士のまなざしはどこまでも「人間」に向かっています。しかも,そこには立派な人生哲学があります。
「モンゴルでは,男は30歳からと言われる。全ての力や考えがしっかりしてくるから。ぼくもしっかりと相撲に集中する」。4月14日は日馬富士の30歳の誕生日。三十路の決意を述べたことば。ここでも立派な人間,立派な男として生きる「人間」の覚悟が述べられています。
この三つの談話を並べてみますと,そうか,日馬富士という男は「人間」に強い興味・関心をいだいているんだ,そして,自分の生き方はこれでいいのかと常に問い続けている,ということがはっきりと浮かび上がってきます。わたしは日馬富士の,あの天才的な切れ味鋭い相撲が好きでファンになりましたが,こういう談話を聞いていると,ひとりの生きる人間としての日馬富士にも強く惹かれるものを感じます。一度,会って話を聞いてみたい・・・と。
出典を示すことができませんが,どこかの雑誌対談で,「相撲道を究めるということは,結局,人間道を究めることだと思います」と語っていたことを記憶しています。そうか,この人は「求道」の人なのだ,とそのときに思いました。
しかし,日馬富士についてのイメージは,一般的にはあまりいいものではありません。なぜか,メディアも日馬富士バッシングに加担してきました。白鵬だけが,なぜか,善玉。朝青龍は典型的な悪玉あつかい。そして,日馬富士も喫煙する,ガムを噛む横綱という目で,一方的に片づけられています。しかも,横綱として安定していない(調子の波が大きすぎる),と。思い出すのは,「連続優勝しても横綱にすべきではない」と主張した女性の横綱審議委員(名前は書きたくない)のこと。偏見と独断の強い人間は,男女を問わず好きにはなれません。「連続優勝すれば横綱になれるのなら横綱審議委員会は不要だ」とまでのたまわれました。相撲のなんたるかが少しもわかってはいない横綱審議委員でした。
横綱審議委員や,あるいは,ジャーナリストたちは,力士についてどれだけの情報にもとづいて発言したり,報道をしているのでしょうか。わたしはずっと疑問に思っています。なぜなら,力士についての報道のレベルが低すぎます。そのために一般のファンの力士理解のレベルもまことにお粗末です。その結果が,勝ち負けだけ。記録主義。勝利至上主義だけが一人歩きをしています。力士の人間性などはメディアの関心事からは抜け落ちてしまっているのです。
この日馬富士についても同じです。12日にはNHKも日馬富士の大学院生としての初登校をテレビで放映しましたが,ただ,それだけ。つまり,「横綱が大学院生になったんだって?」という,単なる面白ニュース扱いでした。ですから,13日には「なんで横綱が大学院へ行く必要があるんだ」とわたしに詰め寄ってきた人がいました。この人はかなりの相撲通の人です。しかし,強いか弱いか,そこにしか興味がもてない人です。仕方がないので,わたしの知っている範囲で,日馬富士に関する特殊な経歴についての話をかい摘んでしました。要旨はつぎのとおりです。
日馬富士は,モンゴルのNPO法人「ハートセービングプロジェクト」(HSP)の会員で,心臓病の子どもへの医療支援をしていること。とりわけ,医療の遅れているモンゴルの田舎での検診活動の費用を懸賞金で全額賄っていること。日本の小児循環器病棟への慰問活動も熱心に行っていること。首都ウランバートルにある視覚・聴覚障害者のための雇用施設を運営していること。その他の慈善活動も積極的に行っていること。こういう活動をとおして,日馬富士は本気で勉強したくなったのだろうと思う,と。そのために,モンゴルの大学の通信制で法律の勉強をし,去年,卒業。そして,この春の,法政大学大学院政策創造研究科への入学につながっていること,など。
「そんなことは知らなかった」と。そして「なぜ,NHKはそういう情報も流さないんだ」と憤っていました。そうなんです。メディアのスポーツ報道の根幹が狂っているのです。モンゴルからはるばるやってきた,しかも,あまりからだも大きくはない少年が,臥薪嘗胆,必死の稽古をとおして横綱の地位にまで登りつめるには,単なる才能だけではなく人間としての総合的な「力」が必要だったことは,少し考えればわかることです。ですから,横綱になるのは「なりたい人がなる」のではなく「なるべくしてなる」のだ,ということを日馬富士は言っています。こういうことばがするりと出てくるところが日馬富士のすごいところだと思います。
ちなみに,日馬富士のお父さんは警察官。ブフ(モンゴル相撲)の国家ザーン(大相撲でいえば関脇)。「日本に行って立派な人間になりなさい。そして,人のために尽くす人間になりなさい」と言って送り出したといいます。この父の教えをひたすら守りとおして,ひたすら研鑽を積み重ね,今日の日馬富士があるのです。その研鑽はいまもつづいています。その到達点の一つが「横綱大学院生」の誕生です。2年課程ですが,4年かけて論文に挑戦するとのこと。はたして,どんな修士論文を書くのか,いまから楽しみです。しかも,日本語で書くことを目指すと言っていますから。
日馬富士のことですから,修士論文を書き終えた暁には,また,つぎの目標が忽然と眼前に立ち現れることでしょう。そのとき,経済学修士・日馬富士公平がどんなことばを吐くか,これもまた楽しみの一つ。
日馬富士の魅力は,わが道をまっしぐら。自立していること。つねに自己と向き合いながら,人間とはなにか,という「人間道」を追求していること。勝率や優勝回数も大事ですが,わたしは人間として立派な横綱をめざす日馬富士の生き方にこころから声援を送りたいと思います。そして,ひとまわりもふたまわりも大きな存在になることを期待したいと思います。
絵画はセミプロの腕前だと聞いています。日馬富士のアーティスティックな相撲の取り口はそこからきているのかもしれません。あなたの相撲はまぎれもなく「アート」です。過去のどの力士も踏み込んだことのない特殊個の境地を切り開く世界です。その意味では孤高の人でもあります。だれも真似のできない世界に向かって,自己を超え出て行ってください。そういう相撲をわたしは一番でも多くみられればそれで充分です。勝敗を度外視した世界に飛び出し,自由自在に遊んでください。そこに待っているものが「相撲道」の奥義であり,「人間道」の最高の境地ではないでしょうか。
あなたならできる,と信じています。
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