2014年4月25日金曜日

(下巻)『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也著,新潮文庫)を読む。

 「木村の前に木村なし,木村の後に木村なし」と謳われた不世出の柔道家・木村政彦の生涯を追ったノン・フィクションの傑作です。文庫本化の際に,上下2巻に分冊しましたが,それでも上下とも600ページに達する大部の作品です。著者・増田俊也の執念ともいうべき情熱が全巻にみなぎっていて,木村政彦を理解するためには必読の作品です。のみならず,力道山という人間についても,わたしがこれまでに読んできた伝記もののどの作品をも凌駕する,最高のノン・フィクションになっています。その理由は,綿密な取材・調査にもとづくしっかりとした裏付けにあります。ですから,説得力が抜群です。

 上巻は木村政彦の生い立ちからはじまり,木村が柔道家として大成していくプロセスを綿密に追っていきます。ですから,木村の歩んだ柔道の世界がリアルに描き出されています。その結果,これまでの講道館柔道史が無視してきた,日本武徳会の柔道や高専柔道が綿密に描写されることになっています。しかも,戦前までは講道館柔道は私的な家元柔道でしかなかったという事実が浮かびあがってきます。その意味で,このノン・フィクションは立派な「日本柔道史」にもなっている,ということに注目すべきでしょう。

 下巻は大づかみに言えば,第二次世界大戦後の木村政彦の人生を追っていきます。敗戦後の柔道界は大変でした。まずは,GHQ(連合軍総司令部)による柔道の禁止命令があって,柔道家の活動の場がなくなってしまいます。ですから,生き延びるために闇屋はもとより,裏社会とも結びつきながら(用心棒,など),ありとあらゆる仕事に手を出すことになります。木村政彦もその例外ではありませんでした。

 が,いつまでもそんなことはしていられないということになって,柔道をショーとして見せる「プロ柔道」を木村の師匠である牛島辰熊が中心になって旗揚げをします。もちろん,柔道日本一の木村はそのスターとして駆り出されます。が,所詮は武士の商法で,最初は興行として成り立っていましたが,徐々に問題(さまざまなトラブル)が露呈してきます。そのプロセスで木村と師匠の間に亀裂が走ります。そして,木村は自分で「プロ柔道」の仲間をかき集めて海外遠征に飛び出していきます。

 この海外遠征によって,日本の柔道の真髄が世界に知れ渡ることになります。木村は行くさきざきのナンバーワン格闘家(主としてプロレスラー)と戦い,連戦連勝をつづけ,柔道は世界最強の格闘技であり,無敵であるという強烈な印象を各地の人びとに与えることになります。ここでの柔道は立ち技ではなく寝技が中心でした。なぜなら,格闘技では(とくに,プロレスでは)立ち技で投げても勝敗には関係ありません。寝技に持ち込んで,相手をギブアップさせて,初めて一本をとることができるからです。木村は立ち技でも,目にも止まらぬスピードで,みごとな一瞬の技を見せつけます。その上で寝技に持ち込んでいきます。これは「ショー」としても,それまでの「プロレス」にはない面白さがありました。ですから,どこの会場も満員の盛況。

 かくして,木村は巨額の富を手にして凱旋します。力道山がプロレスを目指して海外行脚にでるのは,木村が地ならしをしたあとのことでした。が,興行主としての才覚も持ち合わせていた力道山は行くさきざきのプロレス界に大事な人脈を構築していきます。帰国したときには,日本でのプロレス興行は力道山抜きにはできない,そういうネットワークを確立していました。しかし,木村政彦の興味・関心は格闘技の攻防の内容にあって,興行主になって一旗挙げてやろう,などとは考えていませんでした。ここが,力道山と木村政彦の大きな違いでした。

 力道山は帰国するとすぐに木村政彦とタッグを組んで,アメリカの最強のプロレスラー・シャープ兄弟を招聘して,日本各地を転戦してまわります。が,興行の主体は力道山が握っていましたので,木村は一試合のファイトマネー契約で雇われた形となりました。そして,そこでの木村の役割は「負け役」でした。木村は律儀にも,その「負け役」を演じていきます。本気でやれば俺の方が強いという自負を胸のうちに秘めながら・・・・。しかし,いくら興行とはいえ,勝負のシナリオが決まっているという事実を知らない当時の日本国民は,連戦連勝の力道山の強さに惹かれ,あっという間に力道山は国民的ヒーローになっていきました。

 契約上のこととはいえ,木村政彦の胸のうちには面白くない感情が鬱積していくことになります。真剣勝負をすれば,力道山などはまったく相手にならないほどの力量の差があるにもかかわらず,興行のために力道山に主役を譲っている・・・・。そして,力道山の人気はうなぎのぼり・・・・。

 こうした流れが伏線になって,あの世紀の対決「木村政彦vs.力道山」戦が立ち上がることになります。こんにちでは「伝説」となっている巌流島の対決の虚実を,著者・増田俊也は丹念に描きだしていきます。それは,ことごとく「伝説」をひっくり返す作業にもなっています。ここからさきの話はここでは封印しておきましょう。読む人の楽しみを残しておくために。

 最後にひとこと。「歴史は創られる」・・・このことばが全巻をとおして,わたしの脳裏から離れませんでした。そして,ひとたび「歴史が創られ」てしまうと,それはもはや立派な「伝説」となり一人歩きをはじめます。多くの人びとは,その「伝説」を「真実」であると信じて,生きていきます。そして,その「伝説」はいまも生きつづけています。

 著者・増田俊也は,その「伝説」崩しに全エネルギーを注入していきます。その作業は,まるで「歴史の天使」(ベンヤミン,多木浩二)が強風に煽られて吹き飛ばされてしまったあとに残った「瓦礫」や「屑」を一つひとつ掘り起こして,歴史の「真実」に迫っていく,鬼気せまるほどの戦慄を覚えずにはいられません。その意味で,資料実証主義とはなにか,という根源的な「問い」が二重,三重の構造となってわたしに迫ってきます。

 書名「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の問いに対する解答は,最後まで読み切ったところで,さまざまなイメージとなって浮かび上がってくる仕掛けになっています。人間の強さと弱さが渾然一体となって,木村政彦という人間の人生模様が織り上げられている・・・・そこから発せられているメッセージはなにか,とわたしは受け止めました。深い感動とともに。

 あとは読んでのお楽しみ。

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