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2014年4月18日金曜日

講道館柔道中心史観のはじまりは敗戦後のGHQ対策にあり。「柔道はスポーツである」(昭和24年)。

 柔道といえば講道館柔道,そして嘉納治五郎の名前がまっさきに浮かんできます。
 しかし,講道館柔道が脚光を浴びるようになるのは第二次世界大戦の敗戦後のことだ,といえば驚く人は少なくないでしょう。かく申すわたしも,この事実を知って驚いたひとりです。

 端的に言っておきましょう。敗戦後のアメリカによる占領政策のもとで,GHQ(連合国軍総司令部)は,ただちに柔道をふくむ日本の武道・武術全般を禁止しました。あわてた講道館は家元として,お家芸の柔道の存亡をかけた智恵をしぼります。そして,お家芸の柔道が生き延びるための苦肉の策として「柔道はスポーツであって武道ではない」と主張して,GHQのお墨付きをもらいます。こうして講道館柔道だけが,つまり「スポーツとしての柔道」だけが敗戦後の日本で活動が許されます。

 じつは,ここに大きな落とし穴がありました。というか,日本柔道史にとって致命的なターニング・ポイントとしての足跡を残すことになります。ひとことで言ってしまえば,武道の精神が形骸化してしまい,スポーツの勝利至上主義が最優先される,そういう柔道への大転換です。もっと言ってしまえば,嘉納治五郎のめざした総合武術としての「柔道」をかなぐり捨てて,単なるスポーツ競技への道をめざした,ということになります。

 このことを,作家の増田俊也氏がみずからの作品『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮文庫,平成26年3月刊)をとおして明らかにしています。作品名にだまされてしまいがちですが,この作品は,じつに丹念に当事者たちの聞き取り調査をし,当時の新聞,雑誌を洗いざらい調べ尽くして,手堅く裏付けをとった上で,持論を展開しています。言うなれば,講道館柔道中心史観の誤りを徹底的に突き崩す,批評精神に満ちた素晴らしい作品です。

 以下に述べることがらも増田俊也氏の主張にもとづくものです。もちろん,わたしの脚色が多少なりとも加わっていることもお含みおきください。

 GHQが禁止した敗戦前までの柔道には,大きく三つの流れがありました。一つは,国策にもとづいて武道の再編・統合がなされた大日本武徳会での柔道です。当時の日本の柔道を統括する全国組織です。したがって,ここが主催する柔道の全国大会がもっとも権威あるものとして高く評価されていました。二つには,「高専柔道大会」というものがありました。こちらは,京都帝国大学が中心になって組織された大会で,旧制高校(国立)と専門学校(私立)の柔道の強豪校が地区予選を経て全国大会に進出してくるものです。この「高専柔道大会」が,当時もっとも人気があったといいます。三つめが,講道館柔道でした。ここは嘉納治五郎の権威(家元)による段級制度は認知されていたものの,講道館が主催する柔道大会への参加者はきわめて少なかったといいます。

 この三つの流れのうち,大日本武徳会と講道館が主催する柔道大会は「個人戦」が中心でした。が,高専柔道大会だけは「団体戦」でした。しかも,競技ルールにも大きな違いがありました。前二者の「個人戦」は,すべて競技審判がコントロールし,「一本」「技あり」「押さえ込み」を判定しました。が,高専柔道柔道大会は,対戦相手が「参った」というまで,つまり,「負け」を認めるまで試合がつづきました。立ち技で相手を投げても相手が「負け」を認めなければ勝負が決まったことにはなりません。したがって,その主たる戦法は「寝技」でした。しかも「負け」は認めたくないので,「関節技」が決まっていても「負け」を言わない。「締め技」が決まっていても「負け」をいわない。どういうことになるか。関節が折れるまで,締められて「落ちる」まで,という試合も少なくなかったといいます。団体戦ですから,チームの名誉が個人にのしかかってきます。なかには,からだは小さいけれども「引き分け」専門のエキスパートという選手もいたといいます。ですから,試合会場はものすごい熱気にあふれたといいます。

 この三つの流れのうち,GHQの占領政策のもとで,講道館柔道だけが敗戦後に生き延びて,他の柔道はその姿を消してしまったというわけです。言うなれば,講道館柔道だけが漁夫の利に与った,という次第です。ここから,柔道といえば講道館,そして講道館の発する情報がすべてとなり,権威づけられ,やがて講道館柔道中心史観が構築されていく,という次第です。同時に,全日本柔道連盟が結成されたときも講道館館長が連盟の会長を兼任しました。つまり,講道館と全日本柔道連盟とは表裏一体となったのです。この「癒着」がいまも混迷をつづける根源にあります。ですから,こんにちの柔道の世界的な隆盛と頽廃の端緒は,すべて「柔道はスポーツである」と主張した講道館自身の播いた種にある,と言っても過言ではないでしょう。

 さて,ここからさきは「柔道とはなにか」という基本的な問いに立ち返ることになります。作家の増田俊也氏はみずから北大柔道部での経験もふまえて,この問いに恐るべき執念をみせつけます。そして,「木村政彦」という希代の柔道家をとおして,その解を求めていきます。この木村政彦の残した足跡が,のちの「プロ柔道」「プロレス」「異種格闘技」へと連なっていく,その過程を丹念に描いていきます。

 オリンピックのJUDOをめぐって「これはもはや柔道ではない」という発言が有名になりましたが,その端緒は,敗戦直後の講道館のとった「苦肉の策」にあったということを,わたしたちは忘れてはなりません。日本柔道史が蓋をしてきた「秘事」に,思い切ってメスを入れた作家・増田俊也氏の「批評精神」に拍手を送りたいと思います。

2013年10月22日火曜日

レニ・リーフェンシュタールの映画『オリンピア』を批評。 今福龍太編『多木浩二 映像の歴史哲学』(みすず書房,2013年6月刊)を読む。

 オリンピック・ベルリン大会の記録映画『オリンピア』(レニ・リーフェンシュタール監督作品)が,多木さんが初めてみた映画だという話から,このテクストははじまります。まだ,小学生だった,そうです。1938年。この年は,わたしが生まれた年でもあります。このときには,すでに日中戦争がはじまっていて,戦時色に塗り固められていたといいます。そして,1940年に開催が予定されていたオリンピック・東京大会も,返上するというような時代でした。

 多木浩二さんといえば,わたしの頭のなかでは,映像批評の第一人者にして,哲学者という印象がつよくあります。その多木さんがみた最初の映画が『オリンピア』だった,というのはとても不思議なご縁のようなものを感じます。前にも書きましたが,多木さんが『スポーツを考える』(ちくま新書)という著作を残されたのも,こういうご縁があったからだろうと思います。と同時に,多木さんにとってはスポーツの問題は「20世紀」を考える上で不可欠のテーマであったことも見逃すことはできません。

 少しオーバーに言えば,このテクストは『オリンピア』にはじまって『オリンピア』で終わる,多木浩二さんの渾身の著作と言ってもいいほどです。なぜなら,多木さんの持論である歴史についての考え方を,『オリンピア』を題材にして,縦横無尽に展開されているからです。言ってみれば,大文字の歴史にたいして,小文字の歴史の主張です。つまり,アカデミックなオーソライズドされた学問としての歴史ではなく,その隙間からこぼれ落ちてしまった日常生活のなかの歴史をすくい上げようというわけです。もちろん,この姿勢は,ウァルター・ベンヤミンの主張とも共振・共鳴するものです。つまり,多木少年がこの映画とどのように向き合ったのか,というところからはじまります。そして,興味深いのは,多木少年の眼には,どうして裸の人が多く登場するのかが不思議だったといいます。そこから,多木さん独特の「映像の歴史哲学」が展開されていくことになります。

 第一章の「ルプレザンタシオン 世界を探求する」の冒頭から,『オリンピア』の話がはじまり,ここで,すでに相当に詳細にこの映画のもつ特異性について論じられているのですが,第五章の「オリンピア すべてが映像になるために作られた神話」として,さらに徹底した映像論が展開されています。言ってみれば,このテクストの中核をなす部分はここにある,とわたしは受け止めました。その意味で,スポーツ史・スポーツ文化論をやってきた人間としては,衝撃的な章になっています。なぜなら,映像をどのように読み取るのか,そのことと歴史とがどのようにクロスするのか,とりわけ,アカデミックな血も涙もない形式論理的な歴史を根底から突き崩し,血の通った真の人間の歴史をとりもどすための,具体的な事例として『オリンピア』が俎上に乗せられているからです。

 そして,最後の章となる第六章では,「クンスト 日常の技芸を守る」を論じています。「クンスト」,これはカントのいう Kunst で,「芸術」でもあり,「技術」でもあり,「技」でもあります。それらを総称して,「日常の技芸」と言っているところに,わたしは大いに惹きつけられてしまいました。なぜなら,スポーツもまた,オリンピックのような Spitzensport から一般大衆のための Massensport にいたるまで,その守備範囲がきわめて広く,ともすれば,スポーツを語るときには Spitzensport の方に比重が傾いていきます。が,多木さんは,そうではなくて,日常生活のなかでの「技芸」としての Kunst こそが真の歴史を形成しているのだ,と主張します。

 ですから,多木さんは,みずからのスポーツ経験を語るときに,この映画『オリンピア』をみたときの驚きからはじめるわけです。そこからはじめて,20世紀とはいったいどういう世紀だったのか,そして,その20世紀にとってスポーツ映像とはどのような役割を果たしてきたのか,という普遍の問題へと展開していきます。この視座は,わたしにはなかったものでした。ですから,とても新鮮で,ハッと気づかされました。その意味でも,このテクストは,いつか,わたしたちの研究会でも取り上げ,徹底的に議論する必要がある,と覚悟を決めています。

 最後に,このテクストの冒頭に「歴史の天使」という多木さんの詩文が,エピグラフとして飾られています。この文章がとても美しく,しかも,深いところに触手が伸びていて,わたしは何回も何回も熟読玩味しています。できることなら,ここに全文を写しとりたいほどです。でも,そうもいきませんので,その一部だけ引いておきましょう。

フットワーク
「歴史」にも,乱丁,落丁がある。出来損ないの書物のなかの奇妙な迷路。そんな不思議なエアポケットが,写真の場である。歴史学者が見落とした隙間,瞬間をまた細分した瞬間,空虚をまた空っぽにした空虚。それがほんとうには,まだ見ぬ歴史がはじまる場所である。──以下,略。

 この文章を読んで,ハッと気づかれた方もいらっしゃることと思います。そうです。『スポートロジイ』第2号(2013年7月刊)に掲載されている今福龍太さんの特別講演「身体,ある乱丁の歴史」(P.9~27.)です。

 今福さんは,その種明かしをしてくださった上で,このテクストと講演とを重ね合わせて,一度,みんなで議論をしませんか,と誘ってくださっています。もちろん,願ってもないチャンスですので,かならず実現させたいと考えています。

 なお,この『映像の歴史哲学』の刊行を記念して開催された,吉増剛造・今福龍太トークイベント(青山ブックセンター本店)の内容が『週刊読書人』(第3005号,9月6日)に掲載されていますので,そちらもぜひ読んでみてください。ありがたいことに「バタイユの『動物性』」についてもしっかりと論じてくださっています。また,ベンヤミンについても論じてくださっています。

 ここまで読んだときに,ようやく,今福さんが『スポートロジイ』第2号の合評会の第二バージョンをやりましょう,と声をかけてくださったことの意味がこころの底から納得できました。ありがたいことです。大いに準備をして,その機会に臨みたいと考えています。

とりあえず,今日のところはここまで。
 

2013年7月17日水曜日

「スポートロジイ」(Sportology=「スポーツ学」)事始め。『スポートロジイ』創刊号のことばより。

 明日(18日)か,遅くとも明後日(19日)には『スポートロジイ』第2号が印刷所からわたしのところにとどく予定,とみやび出版の伊藤さんからメールが入りました。「よっしゃっ!」とひとりガッツ・ポーズ。昨年出した創刊号はどこか自信がもてないまま,手さぐり状態でしたが,第2号は腹をくくって編集方針を絞り込み,すっきりしたものに仕上がったと自負しています。もちろん,それに応えてくださった著者があってのことですが・・・・。

 まもなく書店にも並ぶということですので,今回のブログでは,なぜ,「スポートロジイ」なる研究紀要を刊行するにいたったのか,確認の意味で,創刊号のトップに書き込んだ「創刊のことば」を紹介しておきたいと思います。これを読んでいただければ,『スポートロジイ』第2号が,どの方向に向って第一歩を踏み出したのかも,おおよそのところはおわかりいただけると思うからです。ご笑覧の上,ご意見・ご批判などいただければ幸いです。

●創刊のことば
「スポートロジイ」(Sportology=「スポーツ学」)事始め

    「動物は世界の内に水の中に水かあるように存在している」(ジョルジュ・バタイユ)

 幼い子どもが遊びに熱中したり,大人でも遊びに忘我没入したりするとき,自他の区別がなくなっている。スポーツもまた,面白くなってくるとわれを忘れて夢中になっている。つまり,自他の垣根が取り払われて,他者と渾然一体となって溶け合ってしまう。これらは,自己を超えでていく経験であり,「生」の全開状態,すなわちエクスターズ(恍惚)そのものである。その経験は,ひたすら「消尽」であり,「贈与」である。
 スポーツ,あるいは,スポーツ的なるものが立ち現れる源泉はここにある,とわれわれは考える。スポーツの中核には,このようなエクスターズ(恍惚)への強い欲望がまずあって,その周縁にさまざまな文化要素が付随して,それぞれの地域や時代に固有のスポーツ文化を生成してきた,と思われる。だとすれば,スポーツとは「動物性への回帰願望の表出」そのものではないか,ということになる。
 そこで問題になるのは,スポーツを成立させることと理性のはたらきとの関係性であろう。このときの理性とは,ヒトが動物の世界から<横滑り>して,ヒトから人間になるときに新たに獲得した能力のことである。したがって,理性を人間性と置き換えてもいいだろう。いうなれば,理性(すなわち,人間性)は最初から,動物性を抑圧し,排除・隠蔽する力として働いてきた。しかし,理性がどこまで頑張ってみたところで人間の内なる動物性を消し去ることはできない。したがって,「生きもの」としての人間にアプリオリに備わる動物性と人間性とを,どのように折り合いをつけて,その「生」を最大限に発露させるか,という大きなテーマがそこに立ち現れる。
 スポーツは,いうなれば,その両者のはざまで揺れ動く,微妙な文化装置として登場したとも考えられる。だとしたら,「生きもの」としての人間にとってスポーツとはなにか,という根源的な問いがそこから立ち上がることになる。
 しかしながら,現代社会に君臨している「理性」は,いつのまにやら「テクノサイエンス経済」(ピエール・ルジャンドル)なる狂気と化して,「生きもの」としての人間の存在を脅かしはじめている。「3・11」後の原発事故による脅威は,その典型例といってよいだろう。いまこそ「生きもの」としての人間にとっての<理性>をとりもどし(西谷修),人間が生きるとはどういうことなのか,ということに思いを致すべきだろう。
 「21世紀スポーツ文化研究所」もまた,同じ立場に立ち返り,スポーツの側からこの根源的な問題に取り組むことが不可欠であると考える。そのためには,これまでの体育学やスポーツ科学のパラダイム・シフトが喫緊の課題であると考えた。その結果,スポーツにかかわるあらゆる題材を研究対象とする新たな「学」として,「スポートロジイ」(Sportology=「スポーツ学」)を提唱することにした。
 「生きもの」としての人間にとって「スポーツ」とはなにか。
 すなわち,「3・11」後を生きるわれわれが,スポーツとはなにかを問うことは,まさに「生きもの」としての人間とはなにかを問うことだ。そのための最優先課題は,スポーツにかかわる思想・哲学的なバック・グラウンドを固めることにある。

 われわれの試みはまだその緒についたばかりである。つねに「スポートロジイ」がなにを課題としているかを忘れることなく,一歩ずつその地歩を固めていきたいと考えている。大方の忌憚のないご批判をいただければ幸いである。

 2012年4月30日 ことのほか美しい新緑に眼を細めながら
        21世紀スポーツ文化研究所主幹研究員 稲垣正浩

 以上です。
 これ以上に簡潔に言うことはできないというところまで切り詰めてのことばですので,この種の思考に慣れていない人びとにとっては,いささか難解であるかもしれません。が,少しだけ近代合理主義的な思考から「離脱」し,前近代的な非合理的な思考の方向に,立ち位置を「移動」させていただければ,その意とするところは,意外にすんなりと理解してもらえるのではないかと思います。

 この精神を深く胸に刻んで,『スポートロジイ』第2号の編集に取組みました。そして,その思いをこめた第2号にはどのような巻頭のことばを書き込んだのか,その内容については,明日,ご紹介してみたいと思います。

 それでは,今日のところはここまで。

2011年1月3日月曜日

「スポーツとはなにか」という根源的な問い直しについて。

 『IPHIGENEIA』の編集業務に,今日も必死で取り組んでいます。今日は,西谷さんの『理性の探求』の合評会のゲラのチェックです。主な作業は,自分の発言を直すことと,いい区切りのところに「小見出し」をつけていくことです。「小見出し」をつけることは,じつは,とても難しいことなのですが,あまり考えてしまうと作業が前に進まなくなってしまうので,あるところで踏ん切りをつけることにしています。内容がうまく読みきれたときには,自分でも気に入るような「小見出し」がつくのですが,そうでないときには惨めです。そうならないよう努力あるのみ。
 さて,この作業をとおして,しみじみ思うことは,西谷さんの『理性の探求』という本は,スポーツ史やスポーツ文化論での「理性」の問題をもっと深く探求せよ,とあの手この手で教えてくれている,ということです。コメンテーターをつとめてくれた松浪さんも,三井さんも,松本さんも,それぞれニュアンスは多少異なるものの,根っこの部分では,それぞれの専門的な研究の関心事に引き寄せて,それぞれの立場から「理性」とはなにか,と問い直してくれています。それぞれに真剣であり,しかも,いいポイントをついているので,西谷さんもおおいに触発されたかのように,のりにのって応答してくださっている。読んでいて心地よい。ですから,何回もくり返して読んでいると,そこからつぎつぎに新しい研究のためのヒントが浮かび上がってきます。そして,すぐにも,新しい研究プロジェクトを立ち上げて,うずうずしてきます。いまとりかかれば,時代を先取りするような斬新な共同研究がはじめられるのに・・・・と残念でなりません(いま,すぐにははじめられない理由があります。そのことを書きはじめるとまたまたたいへんなことになってしまうので,この問題はいずれまた,ということにしておきたいとおもいます)。
 このテクストには,随所に,考えるヒントが隠されています。たとえば,西谷さんは,合評会の最後の発言でつぎのように締めくくり,わたしたちを激励してくれています。
 「・・・・本当に『おかしい』と思ったことを『おかしい』と言う,そこから始めないと,もうまともな見方が通らなくなるようなサイクルが世の中にどんどん回っているという感じです。そしてその出発点になる『おかしい』という感覚は,ごくまともに,この体で生きているというようなところに根拠があるのだと思います。スポーツというのは,そのからだで,社会の成立ちにふれるようなパフォーマンスを展開しているわけで,そのことをまた,どう言語化し,意識化して,その働きを生かしてゆくのかというのは,人と社会との関係や,人の生き方などを考えるときに,とても重要なことだと思っています。前にも言いましたけれども,ともかくスポーツは深く総合的な営みなはずなんですね。だから,スポーツを本格的に論じることで,あまり見えていなかった社会のいろいろな局面が見えてくる,そういう領域だと思っています。そういうところに少しでもお役に立てればと思っているんですが・・・・。」
 この西谷さんの発言部分からだけでも,研究テーマを立てようと思えば,いくらでもテーマを立てることができます。しかも,プロジェクトを組んで,大型の研究が可能です。しかし,少なくともことしは無理なので,来年には立ち上げて,スタートを切りたいと考えているところです。で,このことはとりあえずおいておくとして,わたし個人としては『理性の探求』のあちこちから研究テーマのヒントをもらっていますので,それを一つずつこなしていこうかと考えている次第です。それらのうちで,もっとも大きなテーマで,しかも,早急にとりかかりたいテーマは以下のようなものです。
 それは「スポーツとはなにか」という根源的な問い直しです。それは,ある意味では,すでにスタートを切っていて,着々とその準備は進んでいます。たとえば,神戸市外国語大学での集中講義は,もっぱら,そのための助走として力をそそいできたつもりです。具体的には,マルセル・モースの『贈与論』をスポーツ史・スポーツ文化論的に読解すること(2010年前期),そして,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』を同じようにスポーツ史・スポーツ文化論的に読解すること(2010年後期),がそれに相当します。そのかなりの部分は,このブログをとおして公開していますので(前期は9月,後記は12月),ご記憶の方も多いと思います。
 そして,これからわたしが展開しようとしている主張の主眼は以下のところにあります。
 これまでのスポーツ史もスポーツ文化論も,そのほとんどは近代スポーツ(あるいは,競技スポーツ)を前提にして,それがごく当たり前のようにして存在し,しかも,それを擁護する立場(たとえば,近代スポーツは人類が達成した誇るべき文化である,というような立場)から論じられてきました。そして,せいぜいのところ,過剰な競争原理の必然的な結果として生まれた勝利至上主義や,メディアもふくめて経済原則最優先のスポーツ政策に対する批判が,このところ増えてきているにすぎません。ですから,スポーツ文化全体を擁護する立場はゆるぎなく存在している,と言っていいでしょう。たとえば,「アンチ・ドーピング運動」のように。はたして,そんなことでいいのだろうか,というのがわたしの「おかしい」の原点にあるものです。
 そうではなくて,スポーツ文化そのもののなかに否応なく組み込まれている諸矛盾を明らかにすることこそが,いま,問われているのではないか。もっと踏み込んでおけば,わたしたちが日頃から慣れ親しんでいるスポーツ文化が,意識的にしろ,無意識的にしろ,結果的に抑圧・隠蔽している要素を明らかにすること。そのためには,いささか飛躍しますが,原初の人間の登場するところまで遡って考えることが不可欠だ,とわたしは考えています。つまり,ヒトが人間になるとき,すなわち,原初の理性が立ち上がるとき,このときいったいなにが起きたのか。ヒトが人間になるとはどういうことだったのか。そのとき,人間はなにを失い,なにを新たに獲得することになったのか。その失ったものの補填を原初の人間たちはどのようにしてクリアしようとしたのか。このことを突き止めてみたい,とわたしは大まじめに考えています。
 その仮説は以下のようです。
 それらは,供犠であり,ポトラッチであり,贈与であり,儀礼である。そして,それらが営まれた祝祭空間に注目する。原初のスポーツ的なるものも,このような祝祭空間から誕生した,というのがわたしの現段階での仮説です。だとしたら,供犠とはなにか。儀礼とはなにか。これまで論じられてきた理論仮説ではなく,新たな理論仮説が必要となってきます。そこで,わたしが援用しようと考えているのが,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』であり,マルセル・モースの『贈与論』なのです。このようなテクストを取り込んで,スポーツの原初形態を考えようという人は,管見ながら,わたしはまだ知りません。しかし,このような視点に立てば,この他にも援用すべき文献は際限なくあります。
 で,まずは,わたしが考える理論仮説を明確にした上で,細部の詰めをしていこうというのが,いま,考えていることです。この作業を通過しないかぎり,近代スポーツの背後に抑圧され,隠蔽され,排除されている<亡霊>を明らかにすることはできないのではないか。わたしは,なんとしてでも,そこまで踏み込んでみたいのです。
 そのとき,おそらく,いまのわたしたちが考えている「スポーツとはなにか」という問いから導き出される答えとはまるで異なる,途方もない答えが立ち現れることになるだろう,とわたしは期待しています。だから,なんとしても,そこに分け入ってみたいのです。それは,もはや,やむにやまれぬわたしの(動物的な)衝動ですらあります。その衝動を引き起こす直接的な引き金となったテクストが西谷さんの『理性の探求』であった,という次第です。ほんとうに,恐るべき本との出合いであった,としみじみおもっています。
 はたしてどこまでできるかは未知数です。しかし,「へんだな」と気づいた以上は,その答えを探しにいくしか方法はありません。そういう意味では,ことしは正月早々から気合十分なのです。あとは,時間との闘い。じっくり腰を据えて,とことん追い込んでみたいと思います。
 いささか話は大きくなってしまいましたが,正月にみる夢だと思って,お許しください。そして,どのような経過をたどりながら,どのような結果にいたるか,どうかきびしい眼でチェックしていてくださることを期待しています。この夢を正夢にすべく,これからスタートを切りたいとおもいます。
 乞う,ご期待!(映画の予告編のように)


 

2010年12月17日金曜日

9.労働する人間と道具。

 この節では,ノートに書き写しておきたいような名言が,あちこちに登場する。そうしたバタイユの名言を手がかりにして思考のトレーニングをしてみることにしよう。
 まずは,冒頭の書き出しから。
 「一般的に言って事物たちの世界は,ある失墜状態と感じられる。なぜならその世界は,それを創り出した人間の疎外をもたらすようになるからである。」(P.52.)
 「一般的に言って事物たちの世界は・・・」と言われると,なんだか他人事のように聞こえてしまうが,「事物たちの世界」とは,言うまでもなく「人間たちがつくった世俗の世界」であり,なにを隠そう,わたしたちが生きているこの現実の世界は,その成れの果てなのである。その世界が「ある失墜状態」だと感じられる,とバタイユは言うのだ。その理由は,「事物たちの世界」を創り出した人間そのものの疎外をもたらすようになるからだ,という。わたしたちがこんにち生きている社会は,かつて話題となったパッペンハイムの「人間疎外論」をもち出すまでもなく,長い人類史にあってもっとも過酷な人間疎外をもたらしている時代なのだ。つまり,自分たちが創り出した事物そのものによって自分自身が傷ついているのである。現代科学文明による人間疎外がいかなるものかは,ここであえて述べる必要もないであろう。このことを,バタイユは,事物を産み出した原初の人間に向けて,はっきりと断言しているのである。つまり,人間になるということが,そのまま人間疎外をもたらすことになる,と断じているのである。だから,それは「失墜状態」だとおもわれる,と。
 ここにこそ,「ヒトが人間になる」という事態の背景に隠された根源的な謎を解くための最大の鍵がある,とわたしは考えている。動物性から離脱して人間性へと移行するときに,いったい,なにが起きていたのか,と問うわたしの問題意識はここにある。そして,21世紀のスポーツ文化論を考えるための出発点を,限りなく原点にまで遡らせること,そして,そこから議論を構築すること,そうしないことには,時代精神を超克する新しいスポーツ文化の創造は不可能だ,と考えている。こんにちのスポーツ情況を超克するための,残された唯一の方法がこれだ,というのが長年にわたって模索してきたわたしの結論である。
 つぎなるバタイユの名言に移ろう。
 「従属させるということはただ単にその従属させた要素を変えるということだけではないのであって,そうする者自身が変えられるということなのである。」(P.53.)
 と述べた上で,これは「一つの根本原則とみなしてよい」とバタイユは断言している。こういう文章に出くわすと,バタイユの得意とするアフォリズム的箴言が脳裏をかすめていく。ニーチェのアフォリズムの精神をしっかりと継承し,『内的体験』で示したバタイユのアフォリズムは,ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』に匹敵する名著である。「従属させる」という行為は,まるでブーメランのように投げた者のところに舞い戻ってくる。一方通行ではないのである。このことを深く胸に刻んでおくべきだろう。
 さらに,バタイユの名調子にしばらく耳を傾けることにしよう。
 「道具は同時に自然と人間を変える。つまり道具はそれを創り出し,使用する人間に自然を服従させるけれども,また同時に道具はその服従した自然に人間を縛りつけるのである。自然は人間の所有物となるが,それによって自然は人間にとって内在的であることを止めるのである。人間にとってそれが閉ざされているという条件において,自然は人間のものなのである。人間は自分自身が世界であることを忘却していくが,まさにちょうどその度合に応じて世界を自分の手中に握るようになるのである。人間は世界を否定するけれども,否定されるのは彼自身である。」
 バタイユはきちんと論理を立てて,ひとことずつ,極めつけのことばを刻みつけている。しかし,これらの文章は一つずつ独立させて並記しても,それだけで十分な意味をもっていいて,立派な箴言となっている。しかも,説明不要の簡明さである。世界の極限にまでまなざしが行き届いている人の文章は,どんなにむつかしいことを述べていても,つねに,簡潔で,明快である。このあたりのバタイユの論考は,余裕綽々で,ゆとりさえ感じられる。「人間の疎外をもたらすようになる」その理由が懇切丁寧に説明されていて,コメントをさしはさむ隙間すらない。
 「・・・私が自分にとって同類であるものを,もはやそれ自身の目的=究極のために存在するのではなくて,それにとってはまったく疎遠な目的=究極のために存在するようにと還元してしまったということなのである。」
 このように述べた上で,小麦と子牛を事例として取り上げ,農耕者と牧畜者を対比させながら,それらがいかに「本来の目的=究極」から遠ざかっているか(疎遠な目的=究極に奉仕することになっているか)を説く。つまり,小麦も子牛も農耕者も牧畜者も,みんな「事物」と化してしまって,「本来の目的=究極」からは完全に遠ざかってしまっていると強調する。
 たとえば,小麦の「本来の目的=究極」は,地面に落ちて根を張り芽を伸ばし,生育して種を実らせて,その種を地面に落し,本体は枯れて朽ち果てること,ただそれだけである。つまり,小麦としての「生」をまっとうすることにある。しかし,小麦の殻粒が農業生産の単位となり,農耕者の手にかかると,完全なる事物と化す。そこでは小麦の「本来の目的=究極」からは切り離されてしまって,小麦はもっぱらパンに製造加工されて,人間に食べられることのためにのみ,農耕者によって栽培されることになる。小麦を栽培する農耕者もまた,小麦の種をまくという労働は,かれにとっての「本来の目的=究極」ではない。かれが種を播くという労働そのものは,だれかがパンにして食べるための小麦の栽培に従属しているのであって,かれがいま行っている労働(種まき)の「本来の目的=究極」ではない。
 「農耕者は一人の人間ではない。それはパンを食べる人の犂(すき)である。極限的にはパンを食べる人自身の行為がすでに田畑の労働であって,食べる行為はその労働にエネルギーを供給しているのである。」
 このことと,まったく同じことが,子牛の飼育にも当てはまる。
 こうして人間は,小麦や子牛を事物と化すことによって,みずからもまた事物となってしまうのである。これを「失墜状態」と言わずしてなんと言うべきか,とバタイユはわたしたちに重い問いを投げかけてくる。
 最後にひとこと。「道具は自然と人間を変える」というテーゼをスポーツ文化論的に解釈すると,どういうことが言えるのだろうか。これは宿題。
 ということで,この節はここまで。

2010年12月16日木曜日

8.食べられる動物,屍体,事物。

 ことここにいたって,バタイユは「食べられる動物」について驚くべき見解を提示している。
 人間は,当然のようにして,動物を事物として扱う。人間は,動物を同類とはみなさなくなったのである。そのため,人間はみずからの内なる動物性に向き合うことになると,それを自分の欠陥だとみなし,あわててそれを隠そうとする。そこには「一片の虚偽」が隠されている,とバタイユは指摘する。つまり,一匹の動物はそれ自身として生きているのであり,それ以外のなにものでもない。にもかかわらず,人間はその一匹の動物を事物と化してしまう。そのためには,なんらかの「抑圧・隠蔽」の力が加えられることになる。そして,つぎのように述べる。
 「(動物が)一つの事物とされるためには,死んでいるか,あるいは家畜化していなければならない。だから食べられる動物が一つの物=客体として定置されることができるのは,それが殺されて食べられるという条件が充たされる場合だけなのである。さらにはそれは,炙り焼き,網焼き,煮ものといった形において初めて十分に事物となるのである。」
 ここには,「物=客体」(オブジェ)と「事物」(ショーズ)という二つの概念の違いがみごとに提示されている。そして,二段構えの「抑圧・隠蔽」の力が加わっていることが,これらの概念をとおして明らかになってくる。その意味でも,「物=客体」と「事物」というバタイユが提示する概念装置はきわめて重要な役割を果たしていることになる。
 この文章につづけて,つぎのような見解をバタイユは提示する。
 「そもそも肉を調理するためにあれこれ手間をかけるのは,本質的には美食の追求という意味を持つのではない。それ以前に問題となっているのは次のような事実,すなわち人間はなにものであれそれを一個の物(オブジェ)に変えてからでなければなにも食べない,という事実なのである。」
 こんにちのわたしたちの常識を一転させる,驚くべき言説である。調理とは,単なる美食の追求のための営みではなく,まさに,一匹の動物を「事物」にするための「儀礼」であった,とバタイユはいうのだ。そうしないことには,人間は動物を食べるということはできない。人間は人間になってしまったために,動物が動物を食べるのと同じ方法では食べられなくなってしまった,というわけである。逆にいえば,それこそが「人間になる」ということの「一片の虚偽」の内実だった,ということでもあろう。
 他方では,「人間を切り裂き,焼き,食べるということは,忌まわしくぞっとすることである」とも述べている。そして,「人間を一個の事物にすることは──炙り焼き,煮込みシチュー・・・にすることは,つねにかわらず罪なのである」とも。解剖学の研究ですら,つい最近まで言語道断なことである,と考えられてきた,とも。
 そして,その理由を以下のように説明している。
 「そもそも身体に対する人間の態度は,驚くほど複雑な様相をみせている。人間が動物の身体を持つこと,そしてそのせいで一つの事物のように存在することは,人間が霊=精神である限り,その惨めさであり,苦悩である。が,しかし一つの霊=精神の基体であることは人間の身体の栄光でもあるのである。そして,身体-事物には精神がきわめて緊密に結びつけられているので,その身体はいつも絶え間なく霊的なものに憑きまとわれており,ぎりぎりの極限において以外はけっして事物ではないのである。」
 と,述べた上で,人間の屍体のもつ意味について述べる。ここでの指摘も,わたしたちの今日的な解釈とはまったく次元を異にする。たとえば,以下のとおりである。
 「人間の屍体は動物の身体が事物の状態へと還元される過程が完了したことを示しているのであり,したがってつまり生きている動物が事物の状態まで完全に還元され尽くしたことを啓示しているのである。原則としてそれは厳密に従属した要素であり,それ自体としてはなんら重要性を持たない。布地,鉄,あるいは加工された木材と同じ性質の有用性なのである。」
 人間が死ぬということの内実は,こんにちのわたしたちが考えていることとはずいぶんとかけ離れている。原初の人間が立ち現れるときの,いわゆる移行期の人間のイメージする「死」は,動物的身体への回帰的な意味がこめられている。そして,事物となった身体は,もはや「有用性」以外のなにものでもない,というバタイユの指摘に,またまた,驚かされることになる。となれば,こんにちの臓器移植の考え方も,原初の人間の発想の延長線上にぴたりとはまってしまうことになる。「有用性」の限界については,別のテクストで,バタイユは詳細に議論を展開している。この問題については,また,別のテーマで述べてみたいとおもう。
 こうして,「人間性と俗なる世界の形成」の実態が浮き彫りとなってくる。
 この節は,ここまで。

7.事物たちの世界の定置および身体を事物として位置づけること。

 この節をとおして,読み取らなくてはならない重要なポイントは,なにゆえに身体が事物として位置づけられることになるのか,というロジックであろう。
 わたしたちの思考も,かなりのレベルでバタイユに接近できるようになってきているので,もはやその解説のために多言を要することもないかもしれない。しかし,確認の意味で以下の点だけは明らかにしておくことにしよう。
 原初の人間が,動物性から離脱し人間性へと移行しつつある段階にあっては,「人間たちが活動する世界はまだ根本的な様式では,主体から発しての連続性としてある」とバタイユは明言する。つまり,過渡期の人間は,基本的にはまだまだ動物性の世界にどっぷりと浸かっていた,というのである。このことをしっかりと念頭に置いておけば,あとのことはそれほどの問題となることもなく読み取ることができるとおもう。
 この段階で,すでに原初の人間たちは「聖なるもの」(「神的なるもの」)を意識しはじめ,やがて「神々の世界」を構築する。そうなると,神々の世界である非現実的世界と,自分たちの生きている現実的世界とを区別するようになる。
 「こうして神聖かつ神話的な世界の対面に,俗なる世界の,つまり事物たちや身体=肉体たちの世界の現実が定置されることになるのである。」
 さて,ここからがバタイユの独壇場となる。
 「連続性という枠の内においては,全てが霊的(スピリチュエル)なものであって,霊=精神と身体との対立はないのである。しかし神話的な精霊(エスプリ)たちの世界を定置すること,およびその世界が至高な価値を受けとるようになることは,当然のなりゆきとして,死をまぬがれない身体を霊=精神の対極として定義づけることに結びついている。霊=精神(エスプリ)と肉=身体(コール)の相違は,連続性と(つまり内在性と)物=客体との違いではけっしてないのである。」
 こうして,身体が事物として位置づけられることになる。換言すれば,原初の人間たちが,神々の世界を構築したその結果として,「死をまぬがれない身体(コール)」と「霊=精神(エスプリ)」とを対極的に定義づけることになった,と。言ってしまえば,「霊=精神(エスプリ)」を神々の世界に連結したまま,「身体(コール)」だけを事物として位置づけることになった。こうして,人間は神々の世界と世俗の世界の二つの世界に引き裂かれ,宙づりにされることになる。同時に,心身二元論の端緒がこのようにしてスタートしたことも注目しておくことにしよう。
 となると,心身一元論とはなにか,という根源的な問いが頭をもたげてくる。神々の世界を否定し,もちろん,事物としての身体を否定し,物=客体としての身体をも否定し,さらには,霊=精神をも否定し,連続性,内在性,動物性のもとに回帰していくことを意味しているのであろうか。つまり,心身二元論とはまったく逆のベクトルをもつものとして。ついでに,極論しておけば,禅的世界に限りなく近い世界がすぐそこに見え隠れしている。
 この議論はともかくとして,バタイユはつぎのように述べて,この節を閉じている。
 「現実的世界は,神的な世界が誕生した後の残滓としてとどまるものである。つまり現実の動物や植物は彼らの霊的な真実から切り離されて,ゆっくりとではあるが道具の空虚な客体性と結びつくようになり,死をまぬがれない人間の身体は少しずつ,事物たちが形成している総体に同化していくのである。」
 「人間的な現実とは,それが霊=精神でありうる度合にちょうど応じて神聖なものであるけれども,それが現実的である程度にまさしく応じて俗なるものなのである。諸々の動物,植物,道具そして加工されたり,取り扱われたりする他の事物たちは,それらを取り扱う身体とともに一つの現実的世界を形成する。その現実的世界はさまざまな神的力に服従し,それら諸力に横切られてはいるけれども,失墜した世界である。」
 バタイユが,最後に投げつけた文章「失墜した世界である」が,すでに,このあとに控えている「Ⅲ.供犠,祝祭および聖なる世界の諸原則」のための,予告的な言説として注目しておきたい。つまり,バタイユは,人間的世界は,動物的世界に比べたら「失墜した世界である」というのである。もうひとことだけ述べておけば,供犠とは,この「失墜した世界」からの救済のための儀礼なのである。世俗の世界に「失墜してしまった」事物たちをもう一度,「聖なる世界」へ,そして,「内在性の世界」へと送り返すための儀礼なのである。
 ということで,この節はここまで。

 

6.精霊たちと神々。

 前の節(5.聖なるもの)で取り上げられた,動物性と人間性の間(はざま)で立ち現れる「聖なるもの」が,それにつづく今日の節(6.精霊たちと神々)にいたって,ついに「精霊」となり,「神々」となるプロセスが明らかになる。この原初の神々をどのように理解するかということが,Ⅲ.供犠,祝祭および聖なる世界の諸原則,を読み解く上で不可欠となる。そして,さらには,この供犠や祝祭空間で繰り広げられるさまざまなパフォーマンスの意味を考える上でも不可欠となる。ということは,スポーツ文化の原初の姿を想定する上でも不可欠である,ということになる。
 したがって,この節は慎重に考察をすすめる必要があろう。
 「聖なるもの」が立ち現れるときの「多様な存在」たちの間の関係は,「同等な場合もあり,また優劣の異なる場合もあるけれども,やがてついには精霊たちが構成するある階層制度(ヒエラルキー)へと帰着することになる」とバタイユは説く。ここで突然,「精霊たち」ということばが登場して,読み手のわたしたちはいささかとまどいを感ずるが,それを意識してか,すぐにバタイユは精霊についてつぎのように補足説明をしている。
 「人間たちや<最高存在>はむろんのこと,原始的な表象においては,さまざまな動物,植物,大気現象・・・なども精霊(エスプリ)である。このような位置づけのうちには,ある横滑りが生じている。つまり,<最高存在>とはある意味で一つの純粋な精霊である。同様に死者の霊(エスプリ)は,生きている人間の霊=精神(エスプリ)のように明確な物質的現実に依存することはない。そしてまた動物の精霊,あるいは植物の精霊,等々と,個体としての一匹の動物,一本の植物との間の絆はきわめて漠然としている。」
 これで「精霊」のイメージがかなり明確になってくる。つまり,「原始的な表象」にあっては,そこに存在するものはすべて「精霊」なのである。しかし,そこには「ある横滑り」が生じている,と。すなわち,<最高存在>の精霊,人間の死者の霊と生きている人間の霊=精神,動物や植物と個体としての一匹の動物や一本の植物,などの間には自ずからなる「ヒエラルキー」を構成することになる,と。こうして「しだいしだいに一方には人間の霊=精神(エスプリ)がそうであるような身体=肉体に依存する精霊たちを置き,他方には<最高存在>や,動物,死者などの独立した精霊たちを据えるという根本的区別の上に立脚するようになっていく。」
 こうして,まずは,精霊の存在様式を大きく二つに分類している。一つは,生きている身体=肉体に依存する精霊たちであり,二つには,現実には存在しない死者たちの精霊である。そのうち,後者の独立した精霊たちは「ある神話的な世界を形成する傾向」をもつことになる。ここが「神々」が立ち現れてくる原点というわけである。
 「<最高存在>は神々のうちの至高者であり,天空の神であるので,一般的に言って他の神々よりも強力であるが,しかし同じ性質の神にしか過ぎないのである。」
 こうして神々の間にも,あるヒエラルキーが生まれてくるが,それでもなお,もともとの「神性」としては,みんな同じ性質にすぎない,とバタイユは指摘している。この点はおおいに注目しておきたいところである。なぜなら,のちに考察することになるが,神々に捧げる「祝祭空間」とそこで繰り広げられる「パフォーマンス」との関係を考える上で重要な意味をもつとおもわれるからである。なぜ,そうなるのか,これは授業までの宿題としておこう。
 そして,最後に,バタイユはつぎのように述べて,この節を締めくくる。
 「神々とは単に,現実的な基層を持たない神話的な精霊たちのことである。死をまぬがれない身体=肉体という現実に服従していないような精霊は,神であり,純粋に神的(聖なるもの)なのである。人間はそれ自身霊=精神(エスプリ)である限りは,神的(聖なるもの)であるけれども,彼は至高権を持ってそうなのではない。なぜなら彼は現実的に実在するものだからである。」
 みごとなまとめである。素直に納得である。ただひとことだけコメントしておくとすれば,フランス語の「エスプリ」ということばが,バタイユの思考を展開していく上できわめて有効に機能しているということだ。このあたりのことを日本語だけで説明するとしたら,日本語のもつ語感の貧弱さからして,きわめて困難な論理展開になってしまうだろう,ということだ。このフランス語と日本語の表現の差異がどこからくるのか,ということもスポーツ文化論を考える上ではきわめて重要な課題の一つなのである。なぜか? これも宿題としておこう。
 この節は,ここまで。

2010年12月15日水曜日

5.聖なるもの。

 この節には,バタイユの美しい文章が登場する。ここまで読み進んできて,ようやく,バタイユ的世界のアウトラインがみえてきたからかもしれない。余分なコメントをもちだすよりもさきに,まずは,その美しい文章を読むことにしよう。 
 「あらゆる点から判断して,原始人たちはわれわれよりもずっと,動物に近く存在していたと考えられる。彼らはたぶん動物を自分自身から区別はしていたが,その区別に関してある疑いを,恐怖とノスタルジーの混じり合ったある疑惑を持たないわけにはいかなかったのである。われわれが動物のものとみなしている連続性の感情が,それだけで原始人たちの精神を占めているというのではもはやなかった(そもそも判明に区切られた物=客体たちの定置とはそのことの否定であった)。そうではなくて彼らの精神は,事物たちの世界に対して連続性が提起した対立から,ある新しい意味を引き出していたのである。連続性とは動物にとっては他のなにものとも区別されない物であって,動物においては即自的にも対自的にも唯一可能な存在の様態なのであるが,人間においてはその連続性は,俗なる道具の貧困さ(非連続な物=客体の貧困さ)に対し,聖なる世界のあらゆる魅惑を対比させたのである。」(P.45.)
 これほどみごとに動物性の世界と人間性の世界を描き分けてくれると,もはや,いかなるコメントも不要である。そのものずばりである。そこで,あえて,スポーツ文化論的読解にとって重要だとおもわれるところを指摘するとすれば,「恐怖とノスタルジーの混じり合ったある疑惑」と「聖なる世界のあらゆる魅惑」の二点であろうか。
 前者は,動物性から離脱することに対する原始人の感情を意味している。つまり,ひとつは,動物性から離脱することの「恐怖」の感情であり,ほんとうに動物性から離脱してしまっていいのだろうか,という素朴な疑問から発する「恐怖」の感情である。そして,もうひとつは,動物性の世界への「ノスタルジー」の感情である。
 後者は,個々バラバラに存在する世俗的な道具や物=客体(オブジェ)の貧困さに比較して,連続性(内在性)の世界は「聖なる世界のあらゆる魅惑」に満ち満ちてみえたのであろう。ことここにいたって,原初の人間は,はたと困惑することになる。そして,人間はさらに<横滑り>を重ねていくことになる。
 「聖なるものという感情はもはや明らかに,連続性のせいでそこではなにものも判明に区切られていない濃霧の内に消失していた動物の感情ではありえないのである。まず泰一に言えることは,濃霧の世界においては絶えず混同が生じていたのは真実であるとしても,こうした濃霧は一つの明晰な世界に,ある不透明で見通せない総体を対比させるということである。この総体は,明晰であるものの極限に判明に区切られて現れる。それは少なくとも外部からは,明晰であるものと区別されるのである。」(P.45~46.)
 このようにして,「聖なるものという感情」は人間に固有の感情であることを,バタイユは浮き彫りにしていく。動物は連続性のもとに埋没し,濃霧につつまれ,「不透明で見通せない総体」の中に身をゆだねている。この濃霧の総体と明晰であるものとが区別される極限に人間は立つことになる。その極限の間(あわい)から,人間の聖なる感情が立ち現れることになる。
 「また他方で動物はなんら眼につくような抗議もすることなしに,自分を埋没させる内在性を受け入れていたのに対し,人間は聖なるものという感情の中で,ある種の無力な怖れを味わうのである。この怖れ=嫌悪〔horreur〕は両義的である。聖なるものが魅惑し,惹きつけること,ある比類のない価値を持っていることは疑問の余地がない。しかしそれと同時にその聖なるものは,この明晰かつ俗の世界にとって,つまり人間がその特権的な領域をそこに据えるこの俗なる世界にとっては,眩暈を生じさせるほど危険なものとして現れるのである。」
 わたしは,このバタイユの文章に陶然としてしまう。なるほど,このようにして人間にとっての「聖なるもの」は浮かび上がってくるものなのか,と。そして,何回も何回も読み返しているうちに,まことに突拍子もない方向にわたしの思いが馳せる。この「聖なるもの」が発現してくる背景と,わたしの考える「スポーツ的なるもの」が発現してくる背景とが,なんと近い関係にあることか,と。
 なぜなら,わたしの考える「スポーツ的なるもの」は,人間の意識のエッジにぶら下がりつつ,その多くは無意識の領域から立ち現れるからだ。意識と無意識の「境界領域」という言い方をわたしはする。そこが,「スポーツ的なるもの」の発現の「場」ではないか,と。だから,スポーツと「陶酔」が切っても切れない関係にあるのは,こういうことだ。バタイユ的表現を借りれば,動物性と人間性のせめぎ合いの間(あわい)から,「聖なるもの」の感情をともなって立ち現れる,ということになろうか。
 この問題は,書いていくとエンドレスになってしまうので,このつづきは授業の中で展開してみたいとおもう。それまでの宿題にしておこう。
 というところで,この節はここまで。

2010年12月14日火曜日

4.最高存在。

 この節はどのように読み解いたらいいのだろうか。
 前節の「事物を主体として定置すること」の結果として,つまり,事物(ショーズ)が主体を確保することによって<最高存在>が誕生する,と,極論すれば,バタイユはそう主張しているように読める。しかし,このロジックは一筋縄ではいかないが,ひとまず,そのように了解しておくことにしよう。
 バタイユはまず,つぎのような前提条件を提示した上で,議論を展開する。
 「いまわれわれが,世界を連続した実存の様態(自分たちの内奥性に対して,また自分たちの深い主観性に対して)の光の下に了解している人間たちを想像してみるとすると・・・」(P.42.)
 という冒頭の書き出しに注目したい。つまり,まだ,半分以上を内在性に生きている人間たちを想定した上で,つぎの議論に移っていく。
 そういう状態にある人間にとって,「世界に一つの事物が持つ諸能力」(「動き,考え,語ることが可能な」事物)が「内在的な実存の様態がそうであるような神的な性格も合わせ持つ」ことになっても不思議ではない,とバタイユは言う。このことが,前節でバタイユが述べていたように「事物を主体として定置すること」ということの内実でもある。つまり,事物を主体として定置することによって,<最高存在>が誕生する道が開かれることになる。(いささか簡略に走りすぎ,ロジックをとばしてしまっているので,不可解であるかもしれないが,テクストをよく読んで補足しておいてほしい)
 で,ここでも注意しておいてほしいことがらは,<最高存在>というものの誕生の仕方である。なぜなら,このからくりは現代社会にあってもなおその一部は生き長らえているのではないか,とわたしは考えるからだ。たとえば,スポーツ界にあっても,いろいろの性格をもった<最高存在>的存在があちこちで誕生しているように思えるからだ。この具体的なイメージについては,宿題としておこう。授業までに考えてきていただきたい。
 もう少し,追加しておこう。ある事物に特定の超越性と能力が付与されれば,<最高存在>はいとも簡単に誕生する,と考えられないだろうか。ある事物とは,主体として定置されたものという前提条件があるものの(第3節),そこには「人間たち,動物たち,植物たち,星辰,大気現象・・・・こうしたものが同時に事物でもあり,また内奥性を持つ存在であるとすれば」という条件も付与されている。だとすれば,<最高存在>の誕生のきっかけはどこにでもある,ということになる。これもまた,動物性から人間性への移行の段階(内在性に半分以上も身を置いた段階)でこそ,いとも簡単に起こる現象の一つということになろうか。だとすれば,現代社会にあってもなお<最高存在>がいとも簡単に誕生することの意味を考えなくてはならない。このことを考えていくと,恐るべき深淵が顔を覗かせる。そこにみえてくるものはなにか。授業までの宿題とする。
 そのことと関連して,この節の最後のところでバタイユはきわめて重要な指摘をしているので,そこをとりあげてみよう。
 「私はこのような意図せざる貧困化と限界づけの性格を強調すべきであると思う。キリスト教徒たちは今日なんの躊躇もなく,いわゆる『原始人たち』がその記憶をなんらかの形で保存しているようなさまざまな<最高存在>の内に,自分たちが信ずる<神>の原初的な意識を認めている。しかしながらこの生まれつつある意識は,動物的な感情の開花であるのではなくて,むしろ逆に償いようのないその減退であり,衰弱なのである。」(P.44.)
 バタイユは<最高存在>を生み出した意識は,動物的な感情の「減退であり,衰弱なのである」と強い口調でなじっている。なぜなら,この意識が,バタイユが重視する「動物的な感情の開花」のチャンスを放棄してしまったからである。ここにも,バタイユの主張する<横滑り>の悔恨が込められている。つまり,人類史にとっての後戻りの不可能な悔恨というべきか。
 このことと,スポーツ界に雨後の筍のごとく頭をもたげる<最高存在>の乱立と,その活躍(無謀ぶり)は無関係ではない,と考えるのだがどうだろうか。授業での応答を楽しみにしよう。
 この節は,とりあえず,ここまで。

3.事物を主体として定置すること。

 「事物を主体として定置すること」,まるで,禅問答のようである。事物とはショーズ。物=客体をオブジェとすれば,事物はさらに人間性の世界に踏み込んだ存在。物=客体が「主体-かつ-客体」の「客体」に相当するとすれば,事物は「主体」に相当する。つまり,主体によって所有されているもの,あるいは,主体に従属するもの,と考えられているから。ところが,この主体に従属しているはずの事物が主体となる,というのだから・・・・・。禅問答たる所以。
 「たとえば一本の矢を,自分の同類とみなすことが可能であり,しかもだからといってその矢を操作=作業する能力や物としての超越性を取り除くことなしにそうすることができるのである。その事情を極限的に見ると,このような具合に転位された物=客体は,それを着想し,考え出す者の想像力の中では,その人自身がそうであるものと異ならなくなる。彼の眼にはこの矢は,彼と同じように動き,考え,語ることが可能であると見えるのである。」(P.41.)
 この文章を読みながら,わたしはオイゲン・ヘリゲル著『弓と禅』を思い浮かべている。この中では,自分を無に帰すること,弓と一体化すること,などが語られている。禅の世界ではこのような「転位」は当たり前のこととして認知されている。また,竹内敏晴さんが語ってくれた「一万射」の話を。竹内さんもまた禅には相当に深く踏み込んだことのある人だ。しかも,弓の名人でもあった。弓をもつ左手(ゆんで)が的のなかに突き刺さっているような感覚になったことがある,とも。
 「一本の矢を,自分と同類とみなす」という,ここでのバタイユの文意は,明らかに,内在性の内に入るということであり,動物性の世界に入ることを意味する。しかし,「その矢」の超越性や作業能力を取り除くことなしに「同類とみなす」となると,これは人間性の世界での問題である。物=客体よりもさらに一歩人間性の世界に接近した「一本の矢」=事物と「同類」となる(内在する)ということは,なにを意味しているのだろうか。
 人間が所有しているはずの,つまり人間の事物としての「一本の矢」と,その矢を所有しているはずの人間が「同類となる」,つまり「一体化」するということ。これは,まぎれもなく禅僧の到達したある境地とほとんど違わない。たとえば,『十牛図』でいう「人牛一体」となることと,ほとんど同じことを言っている。
 しかし,バタイユは,われわれ自身が動物性から人間性へと移行する過程で起きたであろう,本質的な問題として,つまり「主体-かつ-客体」という存在様態を説明するために,この話を持ち出したにすぎない。とはいえ,禅でいうところの坐禅修行は,ベクトルが逆である。禅では,人間性のなかにふくまれている世俗性をいかにして排除し,明鏡止水の境地に到達するか,が目指されることになる。言ってしまえば,人間性から内在性(動物性)への離脱と移動である。
 にもかかわらず,バタイユの言うことと禅の目指すものとが,ここで「対面」することになる。この問題をどのように考えたらいいのだろうか。禅の思想に支えられながら,その骨格を明確にしてきた武道は,まず間違いなく「事物との一体化」を重視している。つまり,「事物を主体として定置すること」を。
 柔道,剣道,弓道,などはもとより,日本の伝統芸能のほとんどのものが「事物との一体化」を目指している。ここにも,バタイユが提起する「主体-かつ-客体」というカテゴリーの問題が頭をもたげてくる。この問題は,わたしが主張している「わたしの身体がわたしの身体であってわたしの身体ではなくなる」地平と,どこかで通底しているようにおもう。
 とりあえず,この節はここまで。

2.内在的な諸要素を物=客体の面の上へ定置すること。

 このタイトルはそのまま素直に受け止めてみると以下のようになろうか。
 動物的世界の内在性を生きているときの「内在的な諸要素」,すなわち,環境世界のすべての存在,たとえば,植物,動物,大気現象,精霊,われわれ自身(対自),などを人間性の世界の存在である「物=客体」(オブジェ)として定置すること,という具合に。もっとくだいて言ってしまえば,動物性の世界にあったものを人間性の世界に引きずり出してきて,物=客体(オブジェ)として定置すること,となろうか。
 では,バタイユは具体的になにを言おうとしているのか。思い切って単純化して言ってしまえば,つぎのようになろうか。つまり,動物性の世界から人間性の世界へ離脱し,移行する,このときに「われわれ自身」(原初の人間であり,主体であり,対自であるもの)は動物性と人間性の二つの世界に引き裂かれた状態にあるので,二つのことが同時進行していくことになる。すなわち,「われわれ自身」は,内在的な諸要素と溶け合って存在しつつ,徐々に内在的諸要素を物=客体(オブジェ)として認識するようになる。
 この進行状態が進展する程度に応じて,われわれ自身をも物=客体(オブジェ)として認識するようになる。われわれ自身とは,主体であり,「対自」のことである。物=客体(オブジェ)とは文字どおり客体であり,「即自」のことである。こうして,主体と客体の混同がはじまるのである。バタイユは,このことを「主体-かつ-客体」というカテゴリーを設定して説明している。
 「ついにわれわれは,出現してくる各々の姿──すなわち主体(われわれ自身),動物,精霊,世界──を,同時に内からと外から統覚するようになり,さらにはわれわれ自身に対して連続性として,かつまた同じく物=客体として統覚するようになるのである。」(P.40.)
 「その要素は同時に主体のあらゆる属性と客体のあらゆる属性を,混ぜ合わせて保持するからである。道具の超越性と道具の使用に結ばれたなにかを創り出す能力は,このような混同された状態において,動物,植物,大気現象にそれらの属性として付与されることになる。また同様にそういう超越性や創作能力は,世界の全体にも属性として付与されるのである。」(P.40.)

 さて,スポーツ文化論的読解をめざすわれわれとしては,バタイユのいう「主体-かつ-客体」という混同した存在の様態をしっかりと視野に入れておきたいとおもう。なぜなら,われわれの遠い祖先が,動物性から人間性へと移行するときに,自分自身の存在が「主体-かつ-客体」という混同した状態を通過してきた,という事実に注目しておきたいからである。そして,この混同した要素(「主体-かつ-客体」)があらゆるものの属性として,動物,植物,大気現象,世界,自分自身にまで付与されることになる。
 ここからさきは,授業の中で議論したいことがらとして,あらかじめ提起しておくと,この「主体-かつ-客体」という人間の存在様態と,こんにちの「スポーツする身体」の存在様態には,あるところで通底しているものがあるのではなかろうか,という仮説である。この仮説を問題提起としてあらかじめ提示しておくので,なんらかの答えを用意しておいてほしい。
 ひとまず,この節はここまで。

2010年12月13日月曜日

1.物=客体の定置,道具

 ここからは,一つずつ節をとりあげて,各論に入りたいとおもう。そして,そこで述べられていることがらのうち,われわれのディスカッションの糸口となりそうなところに焦点を当ててみたい。
 まずは,物=客体(オブジェ)とはなにか。それを定置するとはどういうことなのか。その典型例としての道具とはいかなる性質のものなのか。この3点が問題となろうか。
 最初の,物=客体(オブジェ)という用語については,すでに,Ⅰ.動物性,のなかでもくり返しでてきていたので,ことばとしてはなじんでいることとおもう。しかし,物=客体(オブジェ)という言い方は,日本語としてはほとんど用いられることがないので,とまどう人も少なくないだろう。彫刻の世界などでは,物=客体ではなく,オブジェというフランス語がそのまま用いられていて,「オブジェ・Ⅰ」とか,「オブジェ・Ⅱ」などという具合に彫刻にネーミングがなされているのは周知のとおりであろう。彫刻作品に具体的な名前はつけられないが,抽象的な形態のどこかにふつうではないなにかを感じたり,作家の創作意図の具象以前の原イメージのようなものを表すときに,この「オブジェ」ということばが用いられているようにおもう。ということは,たんなる物であり,客体にすぎないのだけれども,その作家にとってはどこかふつうではないなにかを感じ取っている,どこにでも転がっている物のようであってどこか違うなにかをメッセージとして発信している,そういう物=客体をオブジェと表記しているようだ。
 ここを手がかりにして考えてみるとわかりやすいのではないか,とわたしは考える。動物性の世界にあっては(つまり,内在性の世界),バタイユがくり返し述べているように,自他の区別のない連続性の中に生きている,つまり,「水の中に水があるように」存在している。この世界では,物=客体(オブジェ)というものは存在しない。みんな同類であって,ひとつながりになって存在しており,対立する関係はどこにもないからである。
 そういう内在性の世界にあって,ある日,原初の人間が物=客体(オブジェ)の存在に気づく。この事態こそは「啓示」というにふさわしいだろう。こうして,物=客体(オブジェ)の存在がはじまる。しかし,バタイユは,ここでいきなり「道具」を引き合いに出して説明をはじめる。それほどに,この部分,つまり,最初に物=客体(オブジェ)の存在に気づく,その契機をどのように説明するかという問題は微妙なのである。だから,バタイユは,たぶん,意図的に省略している(もちろん,バタイユは個人的には仮説をもっているはず。でも,それを書きはじめたら膨大なぺージ数を必要とするだろう)。そして,道具から直接入っていく。
 バタイユにとっては,道具こそ,物=客体(オブジェ)の典型的なものなのである。つまり,動物には与えられていなくて,人間にのみ与えられているものが道具だ,というわけである。だから,バタイユは,まずは,道具から議論をはじめる。
 「意識はそれを(道具を)物=客体として,判明に区切られていない連続性における中断として定置していく。練り上げられた道具は,非-自己の生まれつつある形態である。」(P.33.)
 この引用をよく読めば,「定置する」ということの意味は理解できるだろう。別の言い方をすれば,「原初の人間は,動物性の連続性を中断するものとして道具を意識し,それを内在性から分け隔てられるものという意味での物=客体(オブジェ)として,あらたな存在として位置づける」ということもできよう。こうして,道具は,さらに練り上げられていくにしたがって,人間とは別の存在として,固有の形態として形成されていく。このようにして道具が出現することによって,それが人間によって工夫され,改善されたものであるにもかかわらず,人間は,他者としての道具の存在を意識するようになる。その結果として,人間はそれに対立する「自己」というものを意識するようになる。ここで,記憶にとどめておいてほしいことは,自己の存在にさきがけて他者が存在する,ということだ。こうして,オブジェが人間の身のまわりにふえていくにつれ,人間はますます「自己」というものを強く意識せざるをえなくなってくる。
 「その道具を作るために経過した時間が直接にその道具の有用性を位置づけ,ある目的を目ざしてそれを使用する者への従属を,さらにはその目的への従属を措定する。それと同時にそうした時間は,目的と手段との明確な区別を定めるのであるが,道具が出現することによって定義された面そのものの上にその区別を位置づけるのである。こうして不幸なことに,目的は手段の面の上に与えられ,つまりは有用性の面の上に与えられる。」(P.36.)
 「有用性」というバタイユの思考を展開する上できわめて重要な役割をはたす概念装置が,このような地平から立ち上がることを,ここでは注目しておきたい。こうして,目的が手段に乗っ取られてしまうのである。このあとのバタイユの論考はきわめて魅力的である。
 「長い棒切れは地面を掘り返すが,その目的は植物の生長を保証するためである。その植物が栽培され,生長するのは,食べられるためである。植物が食料として食べられるのは,それを栽培する人間の生命を維持するためである・・・・。こうした無限に続く送り返しという不条理さをよく考慮することによってのみ,真の目的=究極という不条理さ,つまりなにものにも役に立つはずのないほんとうの目的=究極というそれに勝るとも劣らぬ不条理さが,もっともなものとして首肯されるのである。」(P.36~37.)
 こうして,なにかの役に立つという有用性が次第に大きな力をもつことになり,人間性への道が切り開かれていくことになる。それに対して,動物性の世界にあっては,すなわち「諸々の存在たちがそこでは判明に区切られずに消失しているような世界のみが,なんの必要性もない余剰であり,なにものにも役に立たず,なすべきことはなにもなく,なにも意味しないのである。」(P.37.)
 こうして,動物性と人間性との根源的な違いが明確にされていく。しかも,ここに,こんにちの経済原則の原点,すなわち,「有用性」という考え方の原点を確認しておくことは,これからの議論を展開していく上できわめて重要な意味をもつだろう。

 

Ⅱ.人間性と俗なる世界の形成,について。

 バタイユのテクスト『宗教の理論』のⅠ.動物性,を終わりにして,Ⅱ.人間性と俗なる世界の形成,に入っていくことにしよう。ここは1.から9.まで小見出しのついた節からなっている。で,まずは,各論に入る前に全体像について概観しておきたいとおもう。
 Ⅰ.動物性,では徹底して動物的世界である「内在性」の実態を明らかにすることにバタイユの言説は集中していた。しかし,それでもなお,バタイユは,内在性(動物性)は,こんにちの人間の側からすれば完全に「閉じられた」世界であり,そこに分け入っていく方法はなにもない,と嘆息している。そこで,かれの用いた方法は「詩的な虚偽」という方法であり,動物性から人間性への<横滑り>という現象を,傍証をもちいて推量するという苦肉の策であった。こうして,なんびとたりとも分け入ることのできない「内在性」(「動物性」)の世界を,自他の区別のない「連続性」の内に生きる世界として,ある程度のイメージを構築してくれた。
 それを前提にして,Ⅱ.人間性と俗なる世界の形成,では動物性の聖なる世界からいかにして<横滑り>して人間性の世界,つまり,俗なる世界に移行していったのか,ということに焦点を当てる。バタイユの思考は,つねに,動物性の世界と人間性の世界とを自在に往来しながら,この両者の「中間領域」で,いったいなにが起きたのか,どのようにして聖なる世界から俗なる世界へと移行をはたしていくのか,を明らかにしている。もう少し言っておけば,動物性を生きていた時代のなにを失い,人間性としてなにを新たに獲得していったのか,と問いかける。そして,そのプロセスを経て,新たに登場してくるものが,「超越」であり,「最高存在」であり,「聖なるもの」であり,「精霊」であり,「神々」である,と。つまり,原初の人間は,動物性から離脱するにつれて,それを補完するかのように「宗教的なるもの」(あるいは「宗教的感情」)を求めていく。それは,ある種,必然でもあるのだが,厳密にいえば,「大いなるボタンのかけ違い」でもあった。言ってしまえば,動物性と人間性の間(はざま)で揺れ動く「生」の表出の方法が,さまざまに模索されていくことになるのだが,そのときに「聖なるもの」と「俗なるもの」の激しいせめぎ合いが起きる。ここからさきのバタイユの論考は,Ⅲ.供犠,祝祭および聖なる世界の諸原則,で明らかにされることになる。
 以上が,おおまかなⅡ.人間性と俗なる世界の形成,の概要である。その細部については,稿を建て直して,考察を深めていきたいとおもう。
 この稿は,とりあえず,ここまでとする。

2010年12月10日金曜日

内在性への回帰願望とスポーツの関係について。

 わたしたちには,締め出されてしまった動物的世界への回帰願望が,どこかに秘められているのではないか,という仮説をわたしはもっている。そして,スポーツの中には動物性への回帰願望を充足するなにかがあるのではないか,と考えている。しかも,トップ・アスリートのなかには,内在性ともおぼしき追体験をしている人も,相当数いる,と聞く。
 スポーツ競技におけるフロー体験や,ゾーンに入るとか,陶酔や憑依(トランス)の体験などについては,これまでにも少なからず知られている。
 たとえば,ドイツの哲学者のハンス・レンクはその著『スポーツの哲学』の冒頭で,オリンピック・ローマ大会でボート(エイト)競技の決勝レースのゴール寸前で起きた「フロー体験」について,鮮烈な印象とともに語っている。それは,一瞬,時間が停止してしまったかとおもわれるような状態に入り,あらゆるものがスローモーションのように見えはじめ,肉体疲労の極限状態にあるにもかかわらずその疲労感すらどこかに消えてしまった,という。まるで異次元の世界,あるいは,夢の中の世界に入ったかのようにおもったという。にもかかわらず,堂々たる優勝を果たし,かれは金メダリストとなった。
 このような事例は挙げていけば際限なくある。が,いまは,そこに深入りすることは避けよう。
 ここでは,バタイユが,このことと共振・共鳴するような言説を残しているので,それとの関連につて考えてみることにしよう。
 たとえば,「動物的世界は,内在性と直接=無媒介=即時性の世界であると私は言うことができた」(P.30)とバタイユは述べている。そして,「それはどういうことかと言うと,この世界はわれわれにとっては閉じられているように思えるということ」とつづけている。ということは,わたしたち人間には与り知らぬ世界だ,ということを意味しよう。つまり,人間に固有の鮮明な意識の<外>にある世界,というように考えることができる。つまり,人間としての意識のコントロールの効かない世界である。
 にもかかわらず,わたしたち人間はそういう動物的世界への憧憬や親近感を,忘れてはいない。バタイユは,「動物は私の眼前に,私を魅惑して惹きつけるような,そして私にとって慣れ親しい深淵を開く。この深淵を,ある意味で私は知っている。それは私の深淵だからである」(P.28)と述べた上でつぎのようにも述べている。「なにかしら甘美なもの,秘められて痛々しいものに促されて,われわれの内部でいつも目覚めている内奥的な光明が,こうした動物的な暗闇の底を照らし出すまで伸びていくのである」(P.29)と。
 この感覚は多くの人が共有できるものだろう。そして,人間と動物が一体化する経験をもつ人も少なくないだろう。人間と動物とは,かなりの部分で通じ合えるものをお互いにもっていることは事実だ。にもかかわらず,わたしたちは,ある瞬間に,動物性の前で足踏みをしなければならなくなる,とバタイユは言う。「意識の判明に区切られた明晰さのために,私がこの知りようのない真実から遠ざけられてしまう瞬間,つまり私自身から世界へと,私の眼前に出現するや否や逃れ去るこの認識しようのない真実から,ついに最も遠ざけられてしまう瞬間があるのだけれども,そのような瞬間に逆向きに接近可能にするということだけなのである。」(P.30)
 バタイユは,はっきりと動物との親近感を受け止めつつ,ある瞬間に動物性の前で閉じられてしまう,と述べている。ここで述べられていることは,人間と動物との連続性と断絶性の問題である。言い方を変えれば,意識と無意識の間の連続性と断絶性,と考えることもできよう。だとすれば,一人の人間の中で起こることと同じこととなる。フロイトを引き合いに出すまでもなく,意識と無意識のはざまで揺れ動く人間としての困難を,わたしたちはみんな共有している。だから,人間は,人間性豊かな生を営むと同時に,ときには動物性に身をゆだねることもある。
 スポーツ文化は,こうした人間のかかえこんでしまった人間性と動物性のはざまで揺れる諸矛盾を,同時に解消するための一つの文化装置として生成・構築されてきたものではなかったか,とわたしは考えている。だから,動物性とはなにか,それを問い詰め,深く考えることが人間性とはなにかの答えを導き出すためには必須のことだ,とわたしは考える。
 動物性から抜け出して人間性へと移行していくときに失った内在性への回帰願望が,わたしたち人間の内奥の奥深くに秘められていることは,まず,間違いはないだろう。問題は,その受け皿の一つとして「スポーツ文化」をとらえることはできないものか,ということだ。この問題にどこまで接近することができるか,バタイユのテクスト=『宗教の理論』には,他の類書よりもはるかに深く応答してくれるものがある,とわたしは考えている。

2010年12月9日木曜日

動物性から人間性への<横滑り>ということについて。

 テクストのP.25に,3.動物性の詩的な虚偽,というちょっと風変わりな見出しではじまる文章がある。しかも,この文章には,この本文にも匹敵するほどの長い注がついている。その両方を読んでみて,はじめてバタイユが言わんとすることの真意が伝わってくる。
 最初に,ごく簡単に,バタイユがここで言おうとしたことを,わたしなりに解釈したことを述べておくことにしよう。
 わたしたち人間は,動物の世界から抜けだして,人間の世界を構築した。だから,人間はいまも動物と多くのものを共有しているはずなのに,この「動物の生」をほとんど忘れてしまっている。だから,もし,どうしてもこの「動物の生」について語らなくてはならないとしたら,それは「詩的」な言語で語るしかない,とバタイユは説く。なぜなら,「動物の生」を語るということは,人間にとっては,閉ざされた動物の世界に向けて,想像力を最大限に駆使し,しかも,それを説明するための論理を飛躍させることを余儀なくさせられるからだ。だから,人間性の側から動物性について語ることは「詩的な虚偽」になってしまう,というのである。
 このことを,バタイユは「動物性から人間性への<横滑り>」という言い方をする。<横滑り>ということは,そこには主体性が認められないということなのだろう。つまり,人間は気がついたら動物の世界からはみだしてしまっていた,ということなのだろう。そして,このことが,バタイユが考える『宗教の理論』のキー概念になっているようだ。断るまでもなく,バタイユがいう「宗教」とは,いわゆる宗派宗教のことではなく,人間を超越するものの存在を認め,そこに湧きおこる畏敬の念や祈りのこころを意味している。そういう意味での「宗教」が誕生するきっかけとなったものが,この<横滑り>ではなかったか,とバタイユは考えているようにおもう。
 したがって,人間性の側から動物性を語るということは,この<横滑り>をどのように説明するか,ということになろう。だとしたら,人間は,もう一度,動物性へと<横滑り>をする必要がある。しかし,それは不可能だ。では,どうすればいいのか。それには詩的な言語が必要なのだ,とバタイユは説く。つまり,詩的言語は<横滑り>以外のなにものでもないからだ,とバタイユはその経緯について丁寧に説明している。そして,詩的言語によって説明されることがらであるので,それは厳密には「詩的な虚偽」に等しいともいう。つまり,想像力の世界である,と。
 で,問題は,この<横滑り>をしたときに,いったい,なにが起きたのか。つまり,動物から原初の人間が誕生するときになにが起きたのか,ということである。このことは,すでに,このブログのなかでもくり返し取り上げてきたとおりである。おさらいの意味で,もう一度,整理しておこう。
 動物はみずからをとりまく環境世界の中に内在したまま生きている。つまり,「水の中に水があるように」存在し,そのままを生きている。つまり,環境世界の中に完全に溶け込んで生きている,というわけだ。しかし,原初の人間が,その内在性(動物性)から抜け出ることになった直接の引き金は動物的「欲望」であったことは,A.コジェーヴからの引用文の説明のところで書いたとおりである。言ってしまえば,この動物的「欲望」が<横滑り>をはじめるための必要条件であった,というわけである。しかし,それだけでは十分条件にはなりえない,とコジェーヴは書いている。そして,そこに,バタイユは着目する。
 さて,この「詩的な虚偽」にも等しい<横滑り>を通過した人間には,動物とは異なる「意識」が芽生えてくる。この意識が人間を人間たらしめる原動力となる。しかし,もともとが確固たる根拠をもたない「詩的な虚偽」である<横滑り>を経験し,そこを通過することによって,人間はさまざまな「不安」を抱くことになる。
 その発端となるものが,物体・対象(オブジェ)や事物(ショーズ)の出現であった。これらのオブジェやショーズの出現に際しては,環境世界の中に溶け込むようにして存在しているものに対して,ある「超越」が必要であった。つまり,環境世界の中にあって「特別のもの」という意識が人間の側に生ずることが不可欠となる。そうして出現した「特別のもの」,すなわち,人間を「超越」する存在という意識の中から,畏敬の念が生ずることになる。事物崇拝の原初の感情の芽生えである。
 と同時に,人間は,これらのオブジェやショーズを,人間にとって役に立つものとして,利用・活用するようになる。つまり,「有用性」の考え方が生まれる。そうして,こんどは人間がこれらのオブジェやショーズを「超越」することになる。「超越」されつつ「超越」するという,この二つの「超越」が,原初の人間の感情を複雑にする。
 こういう含みを込めて,バタイユは,動物性から人間性への<横滑り>という表現の仕方をしている。つまり,これが<横滑り>という詩的な虚偽の内実なのだ,と。人間は好きこのんで動物の世界から抜け出して,人間になったのではない,と。気がついたら,人間になっていたのだ,と。そうしたら,二つの「超越」に直面しなければならなくなってしまった,と。だから,これは<横滑り>なのだ,と。逆戻りのできない<横滑り>なのだ,と。




 

2010年12月8日水曜日

バタイユの説く「動物性」「内在性」について。

 「動物は世界の内に水の中に水があるように存在している」とバタイユは喝破している。みごとな表現としかいいようがない。これほどみごとに「動物性」とか,「内在性」とかを簡潔に表現する方法をわたしは知らない。
 動物は世界の内に存在するとき,「水の中に水がある」ように存在する,という。「水の中に水がある」とは,いうまでもなく,水と水との区別のつかないところ,つまり,「自他」が一体化したところ,ということだ。動物は,自己と世界の区別がない,自己と世界とは一体化している,ということになる。では,同じ動物である人間の場合はどうか。人間は「水の中に水がある」ようには存在できない。なぜか。気づいたときには,すでに,「自己」があって,そこからつねに「他者」である世界を眺めているからだ。ほんとうのところは,他者(世界)がさきにあって,その存在に気づいたところから「自己」が立ち現れる。だから,自他がどうしても区別されてしまうのだ。
 したがって,人間が「自他」を一体化するには相当の修練を必要とする。理念や宗教的な教義としては「自他」が一体化することを理解できるので,ある一定のプログラムにしたがって修練を積めば,ある程度までは「水の中に水がある」ような存在に接近することはできる。しかし,完全に一体化するには,禅でいえば,『十牛図』の「牛に乗る」境地に到達しなくてはならない。キリスト教のイエズス会でいえば,『霊操』(イグナチオ・デ・ロヨラ)の最終段階を通過しなければならない。という具合に,特別のプログラムを消化して,ゴールに到達することが不可欠となる。なぜ,このようなやっかいなことが生じてしまったのか。
 人間が,動物のままであれば,つまり,100%の動物性を維持していれば,なんの苦労もなく,あるがままの姿で「水の中に水がある」ように存在することができる。しかし,人間は,動物でありながら,そのもっとも重要な「動物性」(あるいは,「内在性」)をどこかに置き忘れてきてしまった,ということだ。いや,置き忘れてきたのではなく,動物性から意識的に「離脱」し,人間性へと「移動」することによって,「内在性」を失ってしまったのだ。もっと言ってしまえば,意図的・計画的に「内在性」を拒否したのだ。いつ,いかなる理由で?このことをまずしっかりと頭に入れておこう。

 そこで,もう一度,振り出しにもどって,本題である「動物性」とはなにか,「内在性」を生きるとはどういうことなのか,という点について考えてみることにしよう。
 バタイユはつぎのように定義している。
 「動物性は直接=無媒介=即時性であり,あるいは内在性である。」(P.21.)
 「動物的世界は,内在性と直接=無媒介=即時性の世界であると私は言うことができた。」(P.30)
 二つとも同じことを言っているのであるが,後者の方がわかりやすいだろう。バタイユにしても,試行錯誤的に,動物性や動物的世界をどのように表現したらいいか,必死にさぐっていることがテクストをしっかり読み込んでいくとわかる。思想・哲学は生きものだから,つねに,進化しながら変化・変容していくものだ,だから,あわてて断定する必要はない,とバタイユは言い切る(緒言,P.13.
)。だから,われわれもそれにあやかって,「動物性」とはどういうものであるのか,「動物的世界」とはどういう世界のことを言うのか,素描的に(スケッチ風に),さまざまに描いてみることが許されている。なぜなら,だれも,厳密には「動物性」や「内在性」を断定することはできないし,「動物的世界」を断定することは不可能だからだ。あくまでも,推定であり,素描でしかない。それが,どれだけ説得力をもつかどうか,ということだけが意味をもつのだから。
 これで勇気百倍。ここからは,自由自在に,「動物性」や「内在性」について想像力をふくらませながら,自分で納得のできるイメージを構築することだ。あとは,若くて,柔軟性に富んだ学生さんたちの頭脳を期待することにしよう。
 ただし,バタイユは,「動物性」や「内在性」を考えるための重要ないくつかのポイントを提示しているので,それだけはきちんと抑えておくことにしよう。
 Ⅰ.動物性(P.21),の冒頭にあげられている小見出しは,いささかわたしたちを驚かせるものだ。それは,
 1.食べる動物と食べられる動物の内在性,というものである。
 バタイユはつぎのように言う。「動物がその環界に対して内在性としてあることは,ある明確な情況の内に与えられており」と述べ,「その情況とは,ある動物が他の動物を食べるときに与えられている」という。そして,「ある動物がなにか他の動物を食べるときに与えられるのは,いつでも食べる動物の同類である。この意味で私は,内在性と言うのである。」と。
 この言い回しをそのまま受け止めるのは難しいかもしれない。なぜなら,人間が他の動物を食べるときに,その動物の「同類」であるとは考えないからだ。しかし,動物は「食べる動物の同類」と思っている,とバタイユは考える。つまり,食べられる動物は自己でもあるのだ。タコが空腹に耐えきれなくなると自分の足(手?)を食べるという。この延長線上に,食べる他の動物がある,と考えればわかりやすいかもしれない。人間でいえば,野イチゴや桑の実をみつけると,無意識のうちに手が伸びていって,いつのまにか食べていることがある。これが,比較的「同類」に近い感覚かもしれない。しかし,人間は,厳密にいえば,明らかに野イチゴや桑の実を「食べられるもの」として対象化(オブジェ)し,それは自分のためになるもの,つまり,事物(ショーズ)として認識している。だから,厳密には「同類」とは考えていないけれども,なんの抵抗もなく無意識のうちに食べている感覚は,それに近いと言っていいだろう。
 この動物が他の動物を食べるときに与えられている「同類」という感覚(自分の延長上にあるもの)が,内在性の根拠である,とバタイユは主張するのである。しかし,人間には,目の前で生きている動物を「同類」として食べるという感覚はない。さきほどの例のように,植物なら,比較的「同類」という感覚に近いかもしれない。この「同類」という感覚を,人間は,いつ,どこで,どのようにして失ってしまったのか,ここを考えるのが,この集中講義の最大の目的である。そして,このとき,広義の「宗教」(的なるもの)が立ち現れるのであり,そのことと表裏一体となって「スポーツ」(的なるもの)が姿を現す,というのがわたしの仮説である。
 もう一度,繰り返しておくが,原初の人間が,「内在性」から離脱し,動物性から人間性へと<横滑り>するとき,なにが起きたのか,ここに問題意識を集中していくことにしよう。
 とりあえず,今回はここまで。

2010年12月7日火曜日

A.コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』からの引用文について。

 いよいよ神戸市外国語大学の集中講義に向けての具体的な準備に入ろうとおもう。そのための予習として,テクストの中のいくつかの重要と思われる断章をとりあげて,思考のウォーミング・アップからはじめることにしよう。
 そこで,まずは,『宗教の理論』(ジョルジュ・バタイユ著,湯浅博雄訳,ちくま学芸文庫)の巻頭を飾るアレクサンドル・コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』からの引用文をとりあげてみることにしよう。なぜなら,バタイユが,なにゆえにA.コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』からの引用文を自著の冒頭にかかげたのか,その理由をまず最初に考えておくことが肝要である,と考えるからである。ただ,意味もなく,自著の巻頭に,他者の著作から特定の文章を引いてくるわけはない。だとすれば,バタイユの意図はなにであったのか,それが問われることになる。
 引用文はそれほど長くないので,全文を紹介することからはじめよう。
 「それ自身によってそれ自身へと,認識(真正な)のうちに啓示された<存在>を,ある「主体」へと啓示される一個の「客体」に変えるのは,すなわちその客体とは異なり,その客体に対立しているような一個の主体によって,その「主体」へと啓示されるある「客体」へと変化させるのは,<欲望>である。人間は「彼の」欲望のうちに,かつ欲望によって,あるいはむしろその欲望として──自分自身に対しても,また他者に対しても──,自らを一個の<自己>とし,すなわち<非-自己>とは本質的に異なっており,かつ根底的にそれと対立するような<自己>として構成し,啓示するのである。<自己>(人間的な)とは,一個の<欲望>の──あるいは<欲望>そのものの──<自己>である。
 人間の<存在>そのもの,つまり自己を意識している存在とは,したがって<欲望>を当然のものとして含んでおり,またその前提として仮定している。だから人間的現実とは一つの生物学的現実の内部,また動物的な生の内部においてしか構成されず,維持されることはできないのである。しかし,動物的な<欲望>が<自己意識>の必要な条件であるとしても,それはその十分な条件ではない。この欲望はそれだけでは,<自己感情>しか構成しないのである。
 人間を受動的な平静さ(キエチュード)の内に維持する認識とは反対に,<欲望>は人間を不安(アンキエ)にし,行動するように促進する。行動はこうして<欲望>から生まれたものであるから,それを充足させようとする傾向を持つけれども,行動がその充足をなし遂げることが可能なのは,その欲望の対象を「否定」すること,それを破壊するか,あるいは少なくともそれを変化させることによる以外ない。たとえば飢えを充足させるためには,食料となるものを破壊するか,あるいは変化させる必要がある。このように全て行動というものは,「否定的」に作用するものである。」
 以上が引用文の全文である。ところで,この手の文章に不慣れな読者にとっては,相当に苦戦をしいられる文章ではある。しかし,よくよく熟読玩味していくと,おぼろげながらその言わんとすることはみえてくる。スペースがあれば,逐語的に解釈を加えながら読解をしてみたいところであるが,そうもいかないので,ここではその概要を要約するにとどめたいとおもう(集中講義では,逐語的にくわしく解説する予定)。思い切って意訳をすると,以下のようになろうか。
 「主体と客体の区別のない<存在>が,ある啓示とともに主体に認識され,それが主体にとっての客体へと変化するのは<欲望>による。すなわち,主体と客体とが区別され,主体にとってそれが客体として<存在>するものへと変化させるのは,<欲望>である。人間はみずからの欲望のうちに,かつ欲望によって,あるいはむしろ欲望として,<非-自己>とは本質的に異なり,かつ根底的にそれと対立するような<自己>を構成し,啓示するのである。人間的な<自己>とは,一個の<欲望>の(あるいは<欲望>そのものの)<自己>である。
 自己を意識している人間の<存在>とは,<欲望>を当然のものとして含んでいる。また,それが前提でもある。だから,人間的現実とは,一つの生物学的現実の内部(あるいは動物的な生の内部)にしか構成されないし,維持されることもない。しかし,動物的な<欲望>が<自己意識>の必要条件であるとしても,それは十分条件ではない。この動物的な<欲望>は,それだけでは<自己感情>しか構成しないのである。
 認識は,人間を受動的な平静さに保つけれども,<欲望>は人間を不安にし,行動を促す。行動は<欲望>から生まれたものであるから,それを充足させようとする傾向を持つ。しかし,行動がその充足をなし遂げるには,その欲望の対象を「否定」すること,すなわち,欲望の対象を破壊するか,あるいはそれを変化させることが必要となる。たとえば,飢えを満たすには,食料となるものを破壊する(殺す)か,あるいは変化させる(飼育・栽培する,あるいは,調理する)必要がある。このように,あらゆる行動というものは,「否定的」に作用するのである。」
 これで,いくらかわかりやすくなったであろうか。
 さらに,思い切って,もっと噛み砕いてしまえば,以下のようになろうか。
 「自他の区別のない状態から,その区別がはじまるのは動物的な<欲望>による。しかし,この動物的な<欲望>は<自己意識>の必要条件ではあるが,十分条件ではない。つまり,動物的な<欲望>は<自己感情>を構成するにすぎない。だから,人間はどこまで行っても生物学的現実(動物的な生)の外にでることはできない。しかし,この動物的な<欲望>が人間を不安にし,その欲望を充足させるべく行動を促す。その行動とは,<欲望>の対象を「否定」することである。すなわち,それを破壊するか,変化させる以外にない。たとえば,飢えを充足させるためには,食料となるものを殺し,調理する必要がある。このように行動というものはすべからく「否定的」に作用するのである。」
 これで,だいぶ,すっきりしたのではないかとおもう。
 その上で,ここで,はっきりと意識しておかなくてはならないことは,バタイユは,みずからの『宗教の理論』を立ち上げる出発点として,コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』に依拠している,ということである。つまり,ヘーゲルの主張を,みずからの主張の原点に据えているということだ(他の文献で,バタイユは,わたしの思考の出発点はヘーゲルの『精神現象学』にある,と明言している)。もっと言ってしまえば,この引用文を手がかりにして,徹底的に自己の思考を掘り下げたもの,それがバタイユの『宗教の理論』である,ということである。
 一見したところ,ヘーゲルの思考とバタイユの思考とは,まったくの逆方向を向いているようにみえるし,一般的にそのように理解されてもいる。たとえば,「絶対知」と「非-知」という具合に。しかし,その逆方向に向かう思考のヴェクトルは,たとえば,地球上を東と西に向かって進んだとき,その裏側で真っ正面から対面することになる。だから,バタイユが『宗教の理論』を説き起こすにあたって,ヘーゲルから出発することになんの矛盾もないのである。むしろ,正鵠を射ていると言っていいだろう。
 ただ,ひとことだけ,先取り的に予告しておけば,バタイユは,ヘーゲルのいう「動物的な<欲望>」から出発するものの,それを「消尽」と「有用性」という二つの概念を用いて,動物性と人間性とに引き裂かれ,宙づり状態にある人間存在の救済として「宗教」の問題に切り込んでいく。この「宗教」の問題と同時進行するようにして,スポーツ文化の原形態(Urformen)も立ち現れる,というのがわたしの現段階での仮説である。
 そこを読み解いてみようというのが,今回の集中講義の最大の狙いどころである。
 さて,神戸市外国語大学の学生さんたちは,この狙いどころに対して,どこまで食いついてくれるだろうか。大いに期待したいところである。すでに,前期の,マルセル・モースの『贈与論』を通過している学生さんたちであるので,大いなる飛躍が期待できると確信している。なぜなら,マルセル・モースの『贈与論』を,さらに時代を遡ったところの,まさにヒトが人間になる,つまり,動物性から抜け出して,原初の人間が登場するときになにが起こったのか,という問題意識がバタイユの『宗教の理論』の出発点になっているからだ。バタイユのことばを借りれば,動物性から人間性へと<横滑り>をしていく,このときに「宗教」の問題が立ち上がる,ということになる。そして,そこにこそ,わたしの考えるスポーツ文化のアルケー(古層)が,混沌とした状態ではあれ,芳醇な香りを放っている,というわけだ。
 さて,これからさきは冒険の旅だ。不安でもあり,楽しみでもある。そして,「不安」(Sorge)こそ,ヘーゲルのいう人間的「行動」の原点であり,ハイデガーのいう人間「存在」の出発点なのだから。いざ,旅立とう,「不安」をこそ大切な糧にして,知的な冒険の旅へ。

2010年12月6日月曜日

テクストとしての『宗教の理論』について。

 集中講義を受講する予定の神戸市外国語大学の学生さんのために,もちいるテクスト『宗教の理論』について,どのように対応したらいいかというわたしからの提案をしておきたい。
 まず,授業で主として取り上げ,読解を試みたい部分は,第一部 基本的資料のみである。すなわち,Ⅰ.動物性(P.21),Ⅱ.人間性と俗なる世界の形成(P.34),Ⅲ.供犠,祝祭および聖なる世界の諸原則(P.55)から最後のP.81までの,わずか60ページである。少なくとも,この60ページだけは,くり返しくり返し読み込んでおいてほしい。これだけはノルマとして,全員が取り組んでおいてほしい。
 ちなみに,その内容を示す小見出しを挙げておくと,以下のとおりである。
 Ⅰ.動物性
   1.食べる動物と食べられる動物の内在性
   2.動物の依存と独立
   3.動物性の詩的な虚偽
   4.動物は世界の内に水の中に水があるように存在している
 Ⅱ.人間性と俗なる世界の形成
   1.物=客体の定置,道具
   2.内在的な諸要素を物=客体の面の上へ定置すること
   3.事物を主体として定置すること
   4.最高存在
   5.聖なるもの
   6.精霊たちと神々
   7.事物たちの世界の定置および身体を事物として位置づけること
   8.食べられる動物,屍体,事物
   9.労働する人間と道具
 Ⅲ.供犠,祝祭および聖なる世界の諸原則
   1.供犠が応じている必然性,供犠の原理
   2.神的世界の非現実性
   3.死と供犠の通常行われる連合
   4.供犠という消費
   5.個体,不安,供犠
   6.祝祭
   7.祝祭の限界づけ,祝祭が有用なものであるとする解釈および集団の定置
   8.戦争──暴力が外部へと奔騰するという幻想
   9.戦争の奔騰を人間-商品の連鎖へと還元すること
  10.人身供犠
 以上。
 一見したところ,スポーツとはなんの関係もないように思われるかもしれない。しかし,わたしの現段階での仮説では,このバタイユが提示してくれた「動物性」⇒「人間性」⇒「供犠・祝祭」というプロセスを抜きにしてスポーツ(あるいは,スポーツ的なるもの)の起源は考えられない。しかも,ここまで問題意識を掘り下げて「スポーツの起源」を問いかけた人・研究者を,管見ながら,いまだ聞いたことがない。その意味で,今回の集中講義は,わたし自身にとっての初の試みであり,大冒険なのである。だから,いまからドキドキしている。
 スポーツとはなにか,スポーツ文化とはなにか,この問いに対してもっとも根源的な応答をする方法があるとしたら,いまのところこのバタイユの提示した『宗教の理論』を手がかりにするのが,もっとも説得力があるとわたしは考える。これ以上の方法があるとしたら,教えてほしいものだ。それほどの起爆剤を秘めたテクストが,この『宗教の理論』なのである。そのつもりで,学生さんも,ある覚悟をもって参加してほしい。なぜなら,集中講義が終わったときには,世界中のだれにも負けない「スポーツ起源論」を展開できるいっぱしの論者になっていることも夢ではない。それは,わたしが保証する。
 もちろん,そのためには相当の事前の準備をしてきてほしい。断るまでもなく,いま提示した,たった60ページのテクストの内容は生易しいものではない。間違いなく悪戦苦闘することと思う。それを助けてくれるのが,訳者の湯浅博雄さんの手になる「意識の経験・宗教性・エコノミー」──解題に代えて(P.183~241),である。この文章は,じつにわかりやすく,しかも説得力がある。これを読むと,なんとなくバタイユがわかったような気がしてくるから不思議だ。だから,バタイユの本文の60ページと,訳者・湯浅さんの解説(60ページ)とを合わせ読むことをお薦めする。そうすれば,ほぼ,間違いなく,わたしが意図していることの全体像がみえてくるはずである。
 さらに,「文庫版あとがき」(P.242~258)のなかに,前期に読んだマルセル・モースの『贈与論』との関連についても,湯浅さんが懇切丁寧に触れてくれているので,われわれにとってはとても助かる。また,バタイユ自身も,参照文献としてマルセル・モースの二つの著書について触れている(P.158.)。『贈与論』を通過して『宗教の理論』に到達することが,きわめて自然な流れであるということが,ここからも理解できる。われわれは王道を歩いている,と言っていいだろう。
 では,以後,しばらくはテクストの読解に取り組むことにしよう。
 このブログにも,そして,これから書く読解のためのブログにも,末尾にある「リアクション」(おもしろい)にチェックを入れたり,コメントを入れてくれるとありがたい。ここからすでに授業ははじまっているつもりで・・・・。

2010年12月5日日曜日

神戸市外国語大学の集中講義について。

 12月20日(月)8時50分から,神戸市外国語大学の後期の集中講義がはじまる。その準備のことが少しずつ気になりはじめている。
 前期の集中講義では,マルセル・モースの『贈与論』をテクストにして,スポーツ文化を「贈与」として読み解くとどうなるのか,という大いなる冒険を試みてみた。途中で空中分解してしまうのではないかと危惧したが,神外大の学生さんたちはよく頑張ってくれて,予想外の成果をあげることができた。それは提出されたレポートをみて,確認できたことだ。授業中のプレゼンテーションやディスカッションなどでは,どこか自信なさげにやや腰が引けていて,暗中模索的なところがあった。だから,わたしの試みはうまく伝わっているのだろうか,といささか心配ではあった。しかし,三日間の,朝から晩まで,ぶっ通しの授業を最後までたどりついたところで,全体のイメージがようやく視野に入ってきたようで,一気に展望がひらけたようだ。レポートを読むかぎりは,そういう印象が強い。だから,その大半のレポートが,わたしの予測とはまったく正反対に秀逸のできばえになっていた。読む方のわたしが驚いたほどだ。
 若い頭脳というものはいいなぁ,といまさらのようにおもう。とても純粋で柔軟だから,相当にややこしい議論であっても,とまどいながらも追いかけてくる。そうして,いつのまにかぼんやりとしたイメージを構築しはじめる。そして,最後の授業が終わるころには,みごとにそのイメージが明確となり,そのロジックもまた完結しているのである。だから,レポートを書く段階には,相当に体重をかけて自己主張をすることができるようになる。
 ならば,ということで,後期は,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』をテクストにして,これをスポーツ史・スポーツ文化論の視点から読み解くことにした。さて,そろそろ学生さんたちもこのテクストの読解にとりかかっているはずなので,どうしているだろうか,と気がかりになっている。で,まずは,その読解のための手がかりになりそうなことを,わたしの方から提示しておきたいとおもう。つまり,わたしの関心事から読み解くと,こういう具合になる,というサンプルの提示である。それをきっかけにして,学生さんたちが,さらに個別の読解を展開してくれればいいなぁ,と考えている。前期にも,この方法をとったので,たぶん,学生さんたちの読解に役立ったのではないかと推測している。いいと思われることは継承するにかぎる。

 後期の集中講義で用いるテクストは精確には,以下のとおり。
 ジョルジュ・バタイユ著/湯浅博雄訳『宗教の理論』,ちくま学芸文庫,2002年,第1刷。
 テクストを開くと,まず,目次にも載っていないアレクサンドル・コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』からの引用文が提示されている。いきなり,この文章に出会う人は,まずは一様に度胆を抜かれるに違いない。この文章はいったいなにを言わんとしているのか,と。それほどに難解きわまりないのである。しかし,こころを落ち着けて,何回も何回も読み返しながら,それこそ熟読玩味していくうちに,最初の疑問はおのずから氷解をはじめる。「読書百回,意,自ずから通ず」である。そのときの爽快感もまた抜群だ。
 結論から言ってしまえば,この引用文に,じつはバタイユが仕掛けようとしている議論(=「宗教の理論』)のエキスが,濃密に書き込まれているのである。だから,この引用文の読解ができれば,そのあとに展開されるバタイユの議論は,ほとんど間違いなく読み解くことができることになる。それほどに,この引用文は重要な役割をはたしているのだ。
 もう少し詳しく注釈として付け加えておけば,以下のとおり。
 バタイユは,ヘーゲルの『精神現象学』を徹底的に読み込んで,そこを通過することによって,かれ固有の思想・哲学のよって立つべき根拠を見出すにいたったのである。若き日のバタイユにヘーゲルの『精神現象学』読解の手ほどきをしてくれたのが,この引用文の著者であるアレクサンドル・コジェーヴである。バタイユの思想・哲学は,あまりに特異な展開をみせたために,いまでも,これを敬遠する一般的傾向は強いが,さりとて,これを完全に否定することはだれにもできないのである。それほどに,特異であり,しかも,深く本質的な思考を展開している,ということでもある。にもかかわらず,そこを避けて通ろうとする人が多い。しかし,それは間違いだろう,とわたしは考える。その最大の根拠の一つが,ヘーゲルの哲学をきちんと踏まえた上での,つまり,それを批判的に継承しつつ,それを超克するための思想・哲学の地平を切り開いた,という点にある。その到達点の一つとして,ヘーゲルの「絶対知」に対して,バタイユは「非-知」という概念を立ち上げたことを指摘することができよう。このことの詳しいことは,いささか手間がかかるので,集中講義の授業の中で詳細に説明したいとおもう。
 というわけで,まずは,この引用文をどのように読み解くか,という作業からはじめよう。
 明日から,しばらくは,バタイユのテクスト読解という作業がつづくことになろうか。お付き合いいただければ幸いである。