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2016年1月15日金曜日

「理念なき東京オリンピック」。『世界』2月号の特集。▽

 最近になって,どういう風の吹き回しか,「東京オリンピックについてどう考えますか」という問いがわたしのところに寄せられることが多くなってきました。そのたびに,わたしは「あなたはどう考えますか」と問い返すことにしています。すると,「だれが,なんのために東京オリンピックをやろうとしているのか,そこのところがわかりません」という答えが返ってくることが多いので,「わたしもまったく同感です」と答えます。

 みなさんは,どのようにお考えでしょうか。

 みんなで東京オリンピックを盛り上げよう,などという気運はもはやどこかへ消え失せてしまっている・・・・それがわたしの現段階での感想です。話題になったのは,新国立競技場,エンブレム,開催経費6倍に激増,の三つくらいなもので,肝心要の「東京オリンピックをこんな風にやろうよ」という雰囲気はまるでありません。みんなあきれ果ててしまって「なにやってんだか・・・・」という慨嘆の声ばかりが聞こえてきます。

 わたしは当初から,東京オリンピック招致反対の立場をとってきました。そして,アベ君がIOC総会で,フクシマ問題を問われ「under controll」と大嘘をついて,招致をもぎとった瞬間から,東京オリンピック返上論を展開してきました。そして,それは,いまでも「正解」だったと信じて疑いません。

 なぜなら,フクシマはますます悪化の一途をたどり,深刻の度を増すばかりです。つまり,放射能汚染が野放しのまま,拡散をつづけているからです。もはや,東京の空気も河川も低地の草むらも,危ないところだらけです。そのほんとうの姿を知らないでいるのは日本人だけです。ヨーロッパ人の方がはるかに精確な情報を把握しています。ドイツでは,新聞,テレビで,しばしばトップ・ニュースとしてフクシマが取り上げられ,日本政府の無責任さとそれを容認している日本人が批判の対象とされている,とドイツの友人がメールで知らせてくれています。

 いまからでも,遅いことはない,東京オリンピックを「返上」すべきだと考えています。それこそが,国際社会に対する日本としての,そして,日本人としての「責任」の取り方だ,と考えるからです。そうして,日本という国家のあり方をゼロから出直すべきだ,と信じて疑いません。なぜなら,東京オリンピックの取組は,いまの政権の政治姿勢と表裏一体になっている,と考えるからです。つまり,東京オリンピックの政治利用以外のなにものでもない,からです。

 この政治の流れを,一度,断ち切ること,そして,ゼロから仕切り直しをすること。政治も,経済も,教育も,そして,人間の「生き方」まで次元を下ろしてきて,ありとあらゆる分野のあり方をゼロからやり直すこと。それしかない,とわたしは考えています。

 東京オリンピックも,そちらの方向に舵を切るきっかけにする,というのであれば話は別です。わたしの胸はにわかにときめいてきます。が,そんなことは夢のまた夢にすぎません。

 そんな折も折,雑誌『世界』2月号が,「理念なき東京オリンピック」を特集しています。まことに時宜を得た企画だとエールを送りたいところです。しかも,内容を読んでみますと,わたしが忌避したいいわゆる「スポーツ評論家」の類の書き手はすべて排除し(若干1名含まれていますが),意表をつく執筆陣を揃えています。そして,わたしが知りたかった情報がてんこ盛りになっています。とてもありがたいことです。

 まずは,冒頭に掲げられた村嶋雄人(ジャーナリスト)の論考:ふたつの「利権」の正体──東京五輪の長い影,が秀逸です。いわゆる「利権」争いの舞台裏の世界。この世界だけは,これまでわたしの想像の域をでませんでしたが,それをみごとに浮き彫りにしてくれました。「代々木利権」と「臨海利権」の水面下での攻防。その中心人物は,森喜朗。詳しいことは本文にゆずることにして,なるほど,そういう図式であったか,と目からウロコでした。

 しかも,そこから導き出された結論は,わたしがこれまで主張してきたものとぴったり一致していました。諸悪の根源は「森喜朗」にあり。ただちに退陣すべし。この論考を読んでのわたしなりの感想は以下のとおり。まずは,こうした「利権」争いから,可能なかぎり無縁の文化人,あるいは元アスリート(外国では多い)を組織委員会会長に据えること,できることなら,東京オリンピックの「理念」を掲げられる人を,などと日本では実現不可能な夢を描いています。

 本誌の編集長・清宮美稚子さんが「編集後記」で,2月号の特集企画の趣旨を簡潔にまとめてくれていますので,それを最後に引いておきたいとおもいます。

 人々の暮らしにしわ寄せがくる中,2020年オリンピックを本当にやるのか。運営費は当初見込みの6倍の1兆8000億円になるという試算が発表された。当然,組織委員会の財源だけでは足りず,公的負担がかなりの額になるだろう。
 都市再開発と国威発揚ばかりが目立つが,オリンピックをやる意味をどうとらえているのか,スポーツ文化の底上げ・向上という視点がどれだけあるのか,「復興したした詐欺」の一翼を担うのではないか,など数々の疑義がある。本号特集をご一読いただきたい。

 わたしからも,ぜひ,ご一読を。
 なにも,雑誌『世界』のよいしょをするわけではありませんが,いわゆる「まともな雑誌」がどんどん姿を消していくいま,本誌だけが最後の砦になっているのではないか,とわたしは受け止めていますので,なんとしても死守したい,と考える次第です。

2016年1月12日火曜日

箱根駅伝の報道の仕方に疑問。なにを伝えたいのか?

 このところ毎年のように箱根駅伝をテレビで観戦している。しかし,気になっていることがある。それは不必要な「演出」が多すぎるということだ。いったい,駅伝をテレビで中継することの意味をどこに置いているのか,わたしには理解できないことが年々多くなってきている。

 たとえば,いま走っている駅伝のレースから突然離れて,有力選手の秘話を,あらかじめ録画しておいたものを流しはじめる。その間にも選手たちは必死で走っており,レースは刻々と変化しているというのに。そんなことを無視して,特定個人の秘話を延々と流しつづける。しかも,その有力選手が失速して,大失態を演じたあとだというにもかかわらず。ただひたすら,あらかじめ用意したシナリオどおりに録画を流す。現実とのあまりの乖離に,もう,恥ずかしくてみてはいられない。うまく走れなかった選手はもっと恥ずかしいだろうに。だから,みていて不快きわまりない。

 あるいは,順位やレース展開とはまったく関係なく,有力選手ばかりがテレビの画面を独占しているのは,なぜか。しかも,激走,快走しているわけでもないのに・・・・。なぜか,あらかじめヒーローとなるであろう選手にターゲットを絞っておいて,そこにスポットを当てるという報道の方針がさきにあって,そのシナリオどおりに,ディレクションがなされているのが,丸見えになってくる。この場合などは,みていて滑稽ですらある。なにやってんだか・・・・と。ときに腹が立ってくる。

 箱根駅伝のテレビ中継の面白さは,まず第一に,レースがどのように展開されているのか,時々刻々と変化していくレースの全体像が,リアルタイムでみられることだ。何年か前までは,画面を二分割して,トップを走る選手と,それ以外のところで競り合いを演じていたり,追い抜いたりする場面とを同時に見せてくれていたのに,それがなくなってしまった。残念の極み。

 それと,コマーシャルの時間が長すぎることも興ざめだ。しかも,回数も多い。その間にレースが大きく動きそうだというのに,構わず,予定どおり割って入ってくる。この場合には間違いなく腹が立つ。こんなときに流されるコマーシャルは逆効果でしかないのに・・・・。コマーシャルこそ,画面を二分割して,その半分を使って流せば十分なのに。音声も控えめにして・・・・。

 わたしの希望は,いま,走っている選手たちの姿を,可能なかぎり全員,一度は画面に登場させてやってほしい,ということだ。応援するチームも選手も,視聴者はばらばらなのは当然なので,そのすべての視聴者の気持ちを汲んで,短い時間でもいいい,その区間を走っている間に,一度は画面でとらえて紹介してやってほしい。

 どの選手も箱根をめざして過酷な練習をこなし,念願かなって晴れの舞台に立ち,喜び勇んで,全力で走っているのだ。この選手たちの努力の賜物である「走り」を,一度は画面でとらえてやってほしい。そして,選手を実名で呼びかけて,頑張れ,と激励のことばをかけてやってほしい。たとえ,順位や記録がよくなかったとしても,その選手にとっては一生の思い出となるのは間違いないのだから。しかも,家族,友人たちが必死で応援しているのだから。

 わたし自身は,どのチームのどんな選手が,どのような「走り」をしているか,全部みてみたい。無名の選手のなかに,素晴らしい才能をもった「走り」をしている姿を見つけることがあるかもしれない。それはそれで,順位に関係なく,喜びであり,感動ものだ。そういうシーンに,少しでも多く出会ってみたい。

 もう一点は,カメラの位置について。画像に写る選手たちの「走り」のほとんどは真っ正面からのものだ。表情はよくわかるが,「走り」はまったくわからない。わかるのはピッチ走法か,ストライド走法かの違いくらいのものだ。そうではなくて,「走り」を強調してほしい。真っ正面からでも,足の運び具合を映し出すことはできる。実際,そういう映像もときおりあるのだが,いつのまにかアップになって「顔」の方にカメラは行ってしまう。

 「走り」の美しさは,なんと言っても真横からの映像に限る。ときどき,そういう映像が流れるとき,こんなに速いスピードで,こんなに美しいフォームで走っているのだ,ということを知る。感動する一瞬である。この映像をもっともっと増やしてほしいものだ。

 できることなら,各区間ごとに定点にカメラを据えて,そこを通過する選手をすべて映し出してほしい。間隔が開いたときには,その間は,別のカメラの映像を流せばいい。何カ所もカメラが配置され,走りまわっているのだから,それは可能なはずだ。全選手を,一度は必ず画面にとらえるアングルこそ,あらかじめ設定しておけばいいのではないか,とおもう。

 タスキの受け渡しが行われる中継点では,それが行われているのだから,あれと同じ定点を何カ所か決めておいて,そこからの映像を流すことは可能なはずだ。そうすれば,すべての選手の横からのランニング・フォームを捉え,紹介することができる。つぎつぎに通過していく選手たちの雄姿は,それだけでも感動ものだ。それは沿道で応援するのと同じ体験を味わうことでもある。それ以外は,移動中継車に,時々刻々と変化するレース展開の様子を追わせればいい。

 箱根駅伝で伝えるべきものはなにか。テレビ局は,徹底して,この議論をやるべきだ。そこに,視聴者の声も反映させるべきだ。そうして,もっともっと多くの感動を生みだす装置として,テレビを活用してほしいものだ。テレビでなければできない,いな,テレビだからこそできる効果的な「演出」を工夫してほしい。

 悪しきヒーロー主義はやめてもらいたい。それよりは,未知の新しいヒーローの誕生の場面を追ってほしい。それをリアル・タイムでみることができたら,視聴者冥利につきるというものだ。

 あらかじめ,余分なシナリオを用意するのはやめよう。そのシナリオの意図が外れたときが,あまりに無惨で不快だ。それは,マラソン中継でも,しばしば眼にしてきた光景だ。レース当日の選手たちの「走り」そのものに徹底して光を当て,ランニングそのものの奥の深さを素人にもわかるように映像化してほしい。そのための解説者もいるのだから・・・。そうすれば,おそらく,もっともっと多くの駅伝ファンを生みだすことに成功するだろう。

 そして,その美しい「走り」をみた少年たちの中から,つぎの箱根駅伝をめざす選手たちが続々と生まれてくるだろう。駅伝の底辺を拡大していくには,それが一番だ。そして,その夢を追うことのできなかった大人たちは,その新しいドラマを知って,再度,感動するのだ。伝統はこうして創造されていくものだ。そして,その創造に参加することにこそ意味があるのだ。

 箱根駅伝のテレビ報道の主眼をここに据えて,来年からの中継に臨んでほしい,とこころから願うものである。

2016年1月9日土曜日

東京五輪返上論。私論・1:「アンダー・コントロール」の嘘。

 「アンダー・コントロール」が世界の笑いものに曝されている。しかも,日本政府,ならびにそれを支持している日本国民に対して世界の主要なメディアが「ノー」を突きつけている。フクシマの危機的情況が世界最大のスキャンダルとして,国際社会から厳しい批判の眼でみられているという事実を知らないでいるのは日本人だけである。

 日本が日本について知らないでいること,その筆頭がフクシマだ。

 自分にとって都合の悪いことは,できることなら秘匿しておきたい。これは世の常である。

 フランスのドグマ人類学者ジャン=ピエール・ルジャンドルの著書のなかに『西洋が西洋についてみないでいること』(森元庸介訳,以文社)がある。この著書から,わたしは多くのことを啓発された。ひとつは,ユーロ・セントリズムの致命的な欠陥を知ったこと。

 これとまったく同じことが,そのままわが祖国である日本にも当てはまる。日本中心主義。ことばの悪しき意味でのドグマ。そのまっただなかに東京五輪がある。すなわち,客観的な現状分析がなにもできてはいない。だから,なにも見えていない,いな,見ようともしない。

 フクシマが,どれほど危機的な情況にあるかは,少なくとも西洋の主たるメディアは特派員を派遣し,綿密な取材をとおして実態を把握した上で,かなり頻繁にトップ・ニュースとして取り上げている。だから,西洋では,ふつうの人間であれば,だれもがフクシマの事実を承知している。トップ・アスリートとて,その例外ではない。しかも,放射能に対してはとても敏感に反応する。

 わたしのところには,いまでも,ドイツの友人から「東京は危険だ。ドイツの田舎に移住して来い。いつでも準備して待っている」という呼びかけがある。それもスポーツの関係者からである。「日本は危ない」というのが,ドイツ人のスタンダードな認識と言ってよいだろう。だから,仕事の関係で家族ごと東京で暮らしていた西洋の人びとの大半は,妻子だけをいち早く帰国させ,自分ひとり残って単身赴任の態勢をとっているという。しかも,そういう事例は高齢者が多いという。そして,若い人は短期間で交代している,とも。

 このようなことを考えると,よほどのことがないかぎり,ヨーロッパ系のトップ・アスリートたちは,たとえ五輪代表に選出されたとしても出場を辞退する人間が続出するのではないか,とわたしは分析している。もっとも,ドーピングしてでも金メダルが欲しいという輩はいくらでもいるから,それほど悲観することはないかもしれないが・・・。それにしても,みじめな東京五輪になることは間違いない,とわたしは考えている。

 こういう実態を日本のメディアが知らないでいるはずがない。知っていて知らぬふりをしているだけなのだ。そして,それが日本のスタンダードを形成していく。アベ政権が熱心にメディア操作に励むのは,このことを熟知しているからだ。

 しかし,いまや「アンダー・コントロール」は嘘であった,と国際社会は厳しい眼でみている。この事実に蓋をしたまま,東京五輪を推進する根拠はもはやなにもない。いな,嘘がバレてしまったいま,東京五輪招致そのものが詐欺まがいの行為であったことが露呈してしまっているのだ。このことに一顧だにしないで,知らぬ勘兵衛を決め込む東京五輪組織委員会会長と,その嘘を撤回しないで無視しつづける総理大臣のもとで,オリンピックを開催する資格はなにひとつ認められない。

 「恥を知れ」というほかはない。

 これが,まずは,東京五輪返上論の第一点。
 これから追々,各論を展開してみたいと考えている。
 ご意見,ご批判をいただければ幸いである。

2016年1月4日月曜日

あっぱれ!青学院大,箱根駅伝,完璧な2連覇。

 一区で首位に立ったタスキは最後までトップの座をゆずることはなかった。それどころか,一人ひとりがその役割を果たし,着実に二位との差を拡げていく。完璧と言ってよい2連覇を達成。感動しました。

 勝者の表情はいいものです。晴れやかな笑顔だけではなく,なにかをなし遂げた達成感のようなものが表出していて,それがじかに伝わってきて心地よい。しかも,冷静で,その奥に秘められた賢さも見え隠れしている。なのに,とても無邪気。天真爛漫。選手全員が並んでインタヴューを受けている間も,他の選手の発言や,監督の発言に,じつに素直に反応し,子どものような笑顔をみせ,頷いている。高感度100%。

 やはり,人間として立派。自律しているなぁ,としみじみおもいました。選手である以前に,まずはひとりの人間として自律(自立)しているなぁ,と。だからこそ,自分が任された区間の走りも,きちんと自分のペースを守り,その日の調子をみとどけた上で,徐々にペースを上げていくという理想的な走りをまっとうすることができる。もちろん,監督からの指示を背中に受けながら,右手を挙げて応答し,大きく顔をゆがめるような無理な走りはしない。冷静沈着。それでいてこころの奥底に秘めた闘志を燃やす。

 タスキの受け渡しもみごと。きちんと,両手でタスキを長く横に伸ばして,つぎの選手が受けとりやすくする基本を守っている。しかも,必ず待っている選手の右側に走り込み,右手で受けとれるように配慮されている。これも基本どおり。こんなことはどのチームも練習しているはずだ。しかし,いざ,本番となるとなかなか実行はできない。なぜ?

 オーバー・ペースで疲労困憊してしまうと,タスキをわたすことすら定かではなくなってしまう。なかには意識朦朧としてしまって,われを見失ってしまう選手もいる。タスキをわたすのが精一杯で,わたしたとたんにその場に倒れ込んでしまう選手も少なくない。だから,選手の右側も左側もかまわず突っ込んでいき,片手でタスキを渡したりする選手もいる。

 しかし,青山学院大の選手たちは,みごとにこの基本を実行している。というより,実行できている。なぜか?それは,オーバー・ペースで走ってしまうという選手がひとりもいない,ということの証明である。それほどにきちんと自らを律して,最高のペースを守り,自己ベストを叩き出していくことができる能力を身につけているということのなによりの証だ。

 アンカーの「としのり」選手にいたっては,ウィニング・ロードだったので,最後はペースを少しだけ落とした,とまで発言している。この冷静さには圧倒されてしまった。ゴールを目の前にしたら,嬉しくて舞い上がるはずなのに,レースが終わるまで,つまり,走りきるまで,きちんと自分と対話している。だから,ゴールしても余力があるので,仲間が横一列に並んで待っているのを見届けると,そこに向かってスピードを挙げて駆け込んで行きました。このゴール後の「走り」が,なぜか,とても印象に残りました。そして,胴上げ。

 レース後の記者会見もみごとでした。選手一人ひとりが,それぞれに固有のことばをもっていて,自分の思いをしっかりと述べていました。それもおざなりのことばではなく,そのとき,その瞬間の本人のことばがするりとでてくる。おもわず耳を傾けてしまう。借りものの,決まり文句のようなことばはひとつもない。全部,自分のことばだ。それも,その瞬間にしかでてこない,ありのままのことばだ。だからだろう,聞いていて心地よい。

 こんなところからも,日ごろ,どんな練習をしているのか,ということが透けて見えてきます。本番さながらの,気持ちの入った,密度の濃い練習を,日々重ねていることは間違いありません。言ってみれば,毎日が本番。だから,自分の能力の限界と可能性との境界領域を知り尽くしている。チームのメンバー全員が,こういう取組をしているとしたら,空恐ろしい。

 3年生以下の選手たちは,また,来年に向かってスタートだ。しかも,「3連覇」という重圧がかかってくる。この重圧をいかに克服していくか,また,新たな挑戦のはじまりだ。こんどこそ「俺の出番だ」と満を持している選手たちが目白押しだ,と聞いています。こうして,チーム内の切磋琢磨がはじまります。また,一段とたくましいチームが育っていく。たとえ選手になれなくても,立派な人間が育っていく。

 来年の,また,新たなるドラマを楽しみにしたい。
 いい駅伝でした。青山学院大学駅伝チーム(裏方さんも含めて)にこころからエールを送りたいとおもいます。ありがとう。こころの底から感謝しています。

2015年12月14日月曜日

「天と地のレクイエム」を滑る羽生結弦選手に感動。

 グランプリ・ファイナルのフリーの演技でも,またまた世界最高得点を叩き出した羽生選手。おみごと。自己のもつ世界最高得点をさらに超え出る快挙。自己との闘いに打ち勝つ,そう位置づけたグランプリ・ファイナルで,みごとにそれを達成してみせました。そこに忽然と姿を現した新しい自己との出会いに喜び,そして咽び泣く羽生選手の姿。筆舌に尽くしがたい強烈な印象が残りました。

 つぎつぎに自己を超え出ていく姿を,こんな短期間のうちに見てしまうと,やはりスポーツというもののもつパワーの凄さを考えないではいられません。それを,みずからの課題として取組み,みごとに実現してしまう羽生結弦選手の,人間としての底力の凄さに,ただただ感動するのみです。21歳の若者とはとてもおもえません。

 異次元世界で遊ぶことのできる人間を,この眼で確かめることができたわたしは幸せです。このことは,どのように表現してみてもことばは追いつくことができません。

 この感動もさることながら,わたしは,もっともっと大きな感動を味わわせてもらいました。それは,エキシビションで滑ってみせてくれた「天と地のレクイエム」です。演技そのものとしては,こまかなミスがあったようです。が,それをも「演出」ではないかとおもわせるほどの,思いの籠められた滑りでした。羽生選手が,東日本大震災の「ツナミ」と「フクシマ」に全身全霊を籠めて,そこに意識を集中して滑っている「祈り」のようなものが,テレビ画像をとおしてわたしにも伝わってきました。

 おそらく羽生選手の強さの秘密はここにある,とわたしは感じました。「地震」や「ツナミ」や「フクシマ」の災害で苦しめられている人びとのことをおもえば,練習の苦しさなどは問題ではない,と。家・土地を失い,故郷を追われ,放射能に汚染され,癌に怯えながらの生活をおもえば,自分はなんと幸せなことか,と。フィギュア・スケートは自分が好きで選んだ道。その好きな世界での苦しみなど,なんと贅沢な話ではないか,と。東日本大震災の被災者のことをおもえば,自分の努力など取るに足りない,と。

 もっともっと自分自身を追い込んでいくことによって,異次元世界に突入していくこと,そして,そこでの演技を確実に実現してみせること,これこそがフィギュア・スケートで勝負することを決意した自分の宿命のようなものだ,と。そのための苦しさは苦しいほどたしかなものになる,と。そして,その苦しさの極限を通過してこそ,初めて東日本大震災の被災者たちに寄り添うことができるのではないか,と。

 こんなことを,「天と地のレクイエム」の滑りを見ながら,ひしひしと感じていました。

 ですから,グランプリ・ファイナルのフリーの演技として滑った「セイメイ」の凄さをも超え出ていくような,異次元世界をも超えていくような,「なにか」(etwas )を,「天と地のレクイエム」の滑りから感じました。それは,あえて言ってしまえば,ツナミに命を奪われた人びとの「死」や,いまも放射能に怯えながら「死」と向き合っている人びとへの「レクイエム」として,人間・羽生結弦選手がこころの底から祈っている姿をそこにみてとれたからです。

 羽生選手の演技は,もはや競技の世界を飛び出してしまっているのではないか。演技の前に,十字を切り,合掌する姿は,ふつうのトップ・アスリートたちがする所作とは,これまた次元が違います。神々と交信し,共鳴し合う,ことばの正しい意味での「遊び」をわがものとせんとしている人間の姿,といえばいいでしょうか。わたしにはそんな風にみえてきました。

 そして,ここが,羽生結弦選手の底知れぬ凄さの源泉ではないか,と。

2015年12月12日土曜日

異次元の世界に遊ぶ羽生結弦選手。緊張のなかの弛緩,みごと。

 テレビの放映をみる前に,ネットで「世界最高点を更新」という情報が流れていましたので,いったい,どんな滑りをしたのか,と楽しみにしていました。

 グランプリ・ファイナルともなれば,選手たちの緊張感も極限に達していることは,だれの眼にも明らかです。ファイナルに選ばれた6人の選手たち全員が,ことしの最後の滑りにすべてを賭けてくるのは必至です。しかも,一発勝負です。失敗は許されません。ショート,フリー,それぞれ一回ずつの演技ですべては決まります。緊張するなという方が無理な話です。

 今夜(11日)のファイナルを見ていても,みんな顔が引きつっていました。そんな中で,意外に冷静に集中していたのが,やはり羽生選手でした。例によって,十字を切り,そして合掌する「祈り」の儀礼を済ませてリンク中央に立つ,ここまではいつものとおり。音楽が鳴りはじめてもしばらくはポーズをとったまま。演技がはじまる寸前に顔がアップになりました。そのとき,羽生選手は軽く鼻をすすり,呼吸を整えました。これを見た瞬間,ああ,なるほどと納得しました。あまりの緊張を,あえて解きほぐすための,意図的な意思をそこにみたからです。

 案の定,羽生選手は上半身の力みをまったく感じさせない,ゆったりとした長い腕の動作が,緊張どころか余裕すら感じさせる演技の入り方をしました。いつもよりも脱力された柔らかい腕の動きをみていて,これは大丈夫だ,と確信しました。他の選手たちが,みんな緊張のあまり腕に力みがみえていたのとは対照的でした。

 とくに,ショートの前半の腕の動作は,どこにも緊張など感じさせないみごとなものでした。緊張するなと言っても緊張するファイナルの舞台です。もちろん,羽生選手が緊張していないはずはありません。演技前のインタヴューでも,世界チャンピオン・フェルナンデスの演技の前の滑りなのでプレッシャーがかかっている,とみずから発言しているくらいですから。裏を返せば,いい滑りをして,フェルナンデスにプレッシャーをかけたい,ということでもあるのですから。

 羽生選手は,この極限に近い緊張と,うまく折り合いをつけながら,ゆったりと滑りはじめました。選曲といい,演技内容といい,滑り出しの緊張を解きほぐすにはもってこいのものだった,と言っていいでしょう。とりわけ,腕の力みがなく,むしろ,しなやかに,柔らかい動きがとても美しくみえていました。逆に言えば,極度の緊張のなかでの上半身の弛緩ができている,これがすべてだ,とわたしはうっとりと眺めていました。

 この羽生選手の演技に比べると,フェルナンデス選手の演技は,正反対でした。選曲も演技内容も,歯切れのいい腕の動作を要求するものでした。ですから,逆に気合が入りすぎ,からだの力みが表出してしまい,からだ全体がガチガチになっているのが,手にとるようにわかりました。その瞬間に,勝負あった,とおもいました。間違いなく,羽生選手の「世界最高点更新」の演技がフェルナンデス選手にとっては大きなプレッシャーになっているな,と感じました。

 結果は,ご覧のとおりです。

 演技後のインタヴューで,羽生選手はつぎのように応答しています。
 「ものすごく緊張しました。が,その緊張している自分がみえていました。その分,冷静さを保つことができたようにおもいます」と。

 異次元世界に「遊ぶ」とはこういうことなのだろうなぁ,とおもいました。「遊ぶ」とは,緊張度が高ければ高いほど,その質も高まるというものです。緊張のない「遊び」は面白くもなんともない,のは周知のとおりです。最高の緊張の中での「遊び」こそが最高のものであり,それこそが「異次元」世界の不可欠の前提条件でもあります。

 羽生選手は,いよいよ,この異次元世界に遊ぶことのできる,数少ない,神に選ばれたアスリートへの仲間入りをはたしたようです。

 二日後のフリーの演技を楽しみにしたいとおもいます。

2015年12月5日土曜日

見たか,あの鬼の形相を。羽生結弦の「陰陽師」。世界最高点を叩き出した演技を。

 見たか? 演技の終わった瞬間にみせた羽生選手のあの鬼の形相を! もう,ぎりぎりいっぱい! これがおれのすべてだっ!というあの迫力満点のあの顔を。

 いつもの小学生の優等生といった童顔はどこかに消え失せていた,あの一瞬に,羽生選手のこころの強さのすべてが表出している,とわたしは感動した。

 演技内容のすべてが素晴らしかった。そして,感動した。しかし,わたしのこころを捉えていつまでも離さない感動は,4回転のジャンプでもなく,あの柔らかなスピンでもなく,軽やかなステップでもなく,美しいスケーティングをみせるシークウェンスでもなかった。

 あの演技が終わって静止した瞬間にみせた,あのいっぱいいっぱいの鬼の形相だった。もはや,この世の人の顔ではなかった。そう,あの世に一歩も二歩も踏み込んでしまった「鬼」になってしまった人の形相だった。ひとつ次元の違う世界に踏み込んだ人にのみ許された特権のような顔だ。非日常のさらにその上の神の領域に一歩踏み込んだ人の顔だ。

 そして,その2、3、秒あとにみせたガッツ・ポーズ。このポーズをとることによって,ようやくあの世からこの世に引き戻されてくるような,羽生選手の顔。それでもなお,まだ,この世の人の顔ではなかった。神の子の顔の余韻をまだ引きずっていた。そして,徐々に,徐々に,この世の日常の顔にもどってくる。とてもいい瞬間だ。わたしはこの瞬間,瞬間が好きだ。

 得点が発表されたときに見せた羽生選手の顔が,これまた素晴らしかった。大きく眼を見開き,口まで開けて,一瞬,まさかという顔をした。あわてて口を両手で覆い,眼だけが大きく見開いたままだった。予期せざる高得点に,われながらびっくり仰天,という顔の表出。そして,これまた長い時間をかけて徐々に,徐々に,日常の笑顔にもどってきた。このときの顔の表情もとてもよかった。いい顔だったとおもう。

 この二つの顔の共通点は,自己を超え出たときにみせる人間の顔だ。理知的な抑制などとは無縁な,まったく別の世界に飛び出したときに瞬時にして表出する顔の表情だ。つまり,人間としての全存在を賭けた顔だ。理知を超えた「いのち」の顔と言ってもいい。生命そのものが表出したときの表情と呼ぶべきか。いずれにしても剥き出しの「いのち」をそこに読み取ることができる。わたしは,その瞬間に感動を覚える。

 スポーツにはなぜ人を感動させる力があるのか,という永遠のテーマがある。
 そして,その答えもさまざまだ。

 わたしの答えのひとつは,「人間を超え出る経験」に立ち合ったとき,である。別の言い方をすれば,「神の降臨」に立ち合ったとき,となる。

 羽生結弦選手の,あの日常の「童顔」が,瞬時にして「鬼の形相」に変化する。その瞬間に立ち合うことのできた喜び,感動,それはもはやなにものにも代えがたい,大きな宝物である。

 羽生選手の,あの演技終了の瞬間にみせた鬼の形相をみて,すぐに思い出したのは,大相撲の貴乃花が千秋楽で曙とがっぷり四つに組み合って,勝負が長引き,もつれた末に死力を振り絞って寄り切り,優勝をもぎとった瞬間の「鬼の形相」である。大横綱・貴乃花が生涯に一度だけ,土俵上でみせた「鬼の形相」である。このときも,全身が震えるほどに感動した。力士というものは凄いものだ,としみじみ感動したものだ。やはり,力士はふつうの人ではない,と。神と人間の間にいて,その両者を取り次ぐ存在なのだ,と実感した。力士につけられる醜名は戒名のようなもので,ふつうの人間ではなく,死者の世界の人を意味するという。

 そういう人がこの世に降臨してくる。そこが「土俵」という「場」であり,「聖域」なのだ。力士は,醜名を呼び上げられることによって,初めて土俵の上に立つことができる。呼び出しとは,そのための重要な儀礼でもある。

 広島カープの前田投手は,一球ごとに魂を籠めて投げる。そのときの顔もまた,この世の人の顔ではなくなる。あの世の世界の「力」を借りてきて,投球にそのすべてを賭けていく。だから,三振を奪ったときの感動も大きい。ファンに好かれる所以だ。

 これらの人たちに共通していることは,人並み外れた恐るべき意思の力の強さだ。羽生選手が,一皮もニ皮も剥けて大きく飛躍した背景には,この精神的な成長があったことを見逃してはならないだろう。羽生選手が試合後のインタヴューに答えたひとことが,わたしには強く印象に残った。「血のにじむような厳しい練習を積み重ねてきた結果です」。

 練習がすべて。スポーツは嘘をつかない。才能のある選手が,さらに,人並みはずれた努力をする。だから,驚くべき結果が生まれてくる。突然,生みだされるものではない。努力に努力を積み重ね,その結果として,あるとき突如として「花開く」。その瞬間に立ち合うことの喜び・・・・それがスポーツを鑑賞する人間の楽しみのひとつなのだ。

 その意味で,久しぶりに,大きな大きな「感動」を経験することができた。
 羽生選手! あなたのお蔭です。ありがとう!

 まだまだ神の領域に接近していく余力を残しているようにおもう。その意味で,これからのますますの成長を期待したい。そして,ふたたびの感動を。

2015年11月8日日曜日

浅田真央の復帰戦,おみごと。異次元世界へあくなき挑戦。

 あくことなき可能性への挑戦。
 生まれ変わった浅田真央さん。みごとなまでの復帰戦でした。

 失敗もありました。レベルの高い跳躍技をふんだんに取り入れた演技構成。その大半をみごとに成功させ,まずまずの仕上がりぶりを披露してくれました。

 それよりなにより感動したのは,これまでとはまた一味違う異次元世界をかいま見せてくれたことです。守りにまわるのではなく,あえて,新しい自分を,自分の目標とする滑りを,全面に押し出したその勇気に感銘を受けました。

 リンクの中央に立ち,スタートのポーズをとった瞬間から,アップで映っていた顔の表情が変わりました。ここにいたるまでのプレッシャーを断ち切るかのように,ちょっと悲しげな仏像の表情になりました。そして,どこか遠い世界に思いを馳せているような,そんな表情にみえました。オーバーな言い方をすれば,興福寺の阿修羅像の顔が放つ,あの深遠な雰囲気が,一瞬でしたが流れました。この瞬間から,あっ,浅田真央が変わった,と確信しました。

 最初のジャンプを成功させると,一気に新しい浅田ワールドへの突入でした。滑りが違う。からだ全身から表出する動きの貯めが違う。いっぱいいっぱいの滑りの先に広がる夢幻の世界を彷彿とさせるなにか(etwas )が伝わってきました。彼女の理想とするフィギュアスケートに一歩近づいたのだ,とわたしは受け止めました。そちらに感情移入が大きくゆらぐとき,ジャンプに乱れがでてしまったようにおもいました。

 しかし,それでも彼女の演技は抜群の出来ばえでした。それは,みごとに点数に現れていました。採点競技は,どの種目でも同じですが,無慈悲なものです。きわめて物理的に「加点」「減点」をルールにしたがって行います。体操競技も同じです。ですから,よくわかります。

 浅田真央の前に滑った本郷理華も立派でした。元気いっぱい若さを全面に展開させる,これまたみごとな滑りでした。ミスもほとんどなく思い描いたとおりの滑りができたのではないかとおもいます。その結果は,フリーで最高得点。浅田に4.22点の差をつけました。が,SPの得点差を埋めることはかなわず,総合点で1.72点及ばず。しかし,大健闘でした。たくましい新人が登場し,日本女子フィギュアは,これからますます激しい切磋琢磨がつづきそうです。

 しかし,少しだけ厳しい言い方をしておきますと,浅田と本郷の滑りにはまだまだ格段の差があります。到達している境地そのものでいえば,天と地ほどの差があります。そこを,こんご,本郷はどう埋め合わせていくのか,大きな課題といっていいでしょう。でも,まだ若いのですから,本郷には十分そこを詰めていく可能性が残されています。それを楽しみに待つことにしましょう。

 この差はなにか。これを説明するのはむつかしい。体操競技でいえば,内村航平がめざしている「美しい体操」です。同じ演技内容で,同じように演技が成功したとしても,内村選手の演技と他の選手のそれとでは雲泥の差があります。しかし,物理的な加点・減点法のルールでは,ほとんど差はでません。にもかかわらず,ある程度,体操競技に精通している人間からすれば,まるで「次元」が違うという見方をします。見ていて,演技の内奥に秘められたetwas が伝わってくるのです。そこは,まさに深淵の世界であり,幽玄の世界です。こういう要素は加点の対象にはなっていません。ですから,現行ルールによる採点では,ほとんど差はでてきません。

 しかし,フィギュアの場合には,一人ずつ演技をしますので,会場の観衆のこころをつかむことはできます。今回の本郷は,ジャンプをつぎつぎに成功させることによって会場の空気をひとつにすることができました。ですから,彼女自身もその場の力に乗って,最後までのびのびと演技をすることができました。その結果が,フリーでトップの得点となって表れました。

 ということは,浅田選手の難度の高い構成のジャンプがつぎつぎに決まるようになってきますと,これはもう鬼に金棒です。おそらく,浅田選手はそれを目標にかかげているのだとおもいます。復帰第一線で優勝。このことが,まずは,なによりも「只者」ではない証拠です。強いセルフ・コントロールの持ち主です。自分に誓ったことはかならず実現させることでしょう。

 グランプリ・ファイナルに向けて,ようやくこれでスタートを切ることができます,と優勝インタヴューに答えていた浅田真央さん。これから,ますます,念願の「蝶々夫人」に磨きをかけて,ファイナルまでには完成させてくれることでしょう。どんな成長ぶりをみせるか,いまから楽しみにしたいとおもいます。

 浅田真央は,まずは,ひとりの人間として立派です。そこが好きです。ひとつの道を極めようというその姿勢が素晴らしい。こういう人に出会うと,わたしはもうぞっこんです。あっ,余分なことを書いてしまいました。最後の一文は「削除」(笑い)。

 浅田真央選手にこころのかぎりのエールを送りたいともおいます。

2015年10月10日土曜日

セシウム汚染,深刻。東京五輪は大丈夫なのか。

 お台場といえば,いまや若者たちの人気のスポットだ。最先端の文化施設がいっぱいあって,観光客もいっぱい集ってくる。まあ,言ってしまえば,東京でも指折りの超人気スポットだ。


当然のことながら,お台場海浜公園にも大勢の人が押し寄せる。都会の喧騒を忘れて,海を眺めながら散策するには絶好のポイントだ。海を眺めているかぎり,一瞬,東京にいることを忘れることができる。しかし,その海水がどのような状態になっているのか,じっくりと観察した人はどのくらいいるだろうか。そして,ここの海水がセシウム汚染でどの程度犯されているのか,注意を向けた人はどのくらいいるだろうか。

 わたしが訪れたのは,3・11以前のことだったが,それでも気になったのは海水の汚れ具合だった。こんなところではとてもじゃないけど,海に入って泳ぐ気にはなれない,とそうおもった。しかし,調べてみると,2001年から毎年,日本トライアスロン選手権大会がここで開催されているという。ことしも,10月11日に開催されるという。選手たちは,この程度の汚れなど気にもとめず,泳いでいるのだ。いや,気にしながらも泳いでいるのだ。慣れというものは恐ろしい。一度,経験してしまえば,あとは平気。いやいや快感ですらある,かもしれない。

 こうした大会の実績と,地元の熱心な勧誘によって,東京五輪2020のトライアスロン競技の会場となることが決まったという。それにしても,はたして海外の選手たちは大丈夫なのだろうか,といささか心配ではある。

 そんな折も折,今朝(10月9日)の東京新聞の一面トップで下の写真のような記事が掲載された。この記事をじっくり読みながら,「トライアスロン競技は大丈夫なのか」とかなりの不安をいだかざるを得なかった。もちろん,セシウムのレベルは基準以下とはいえ,着々とこの汚染が進行していることは間違いない。しかも,下流にいけばいくほど,セシウムの値は高くなっているという。


この記事では,東京湾の海水汚染の度合いは調査対象になっていないので,詳しいことはわからない。しかし,しかるべきところでは測定をしているはず。その測定結果を公表していないだけのことらしい。場合によっては「秘密保護法」に守られ,囲い込まれているのかもしれない。その数値を公表してしまうと,東京湾で採れた魚介類の市場に大きな影響がでかねない,という理由で。これはあくまでもわたしの憶測にすぎないが,ありえない話ではない。

 
この記事は,主として神田川と日本橋川の汚染の実態を調査した結果に焦点が当てられている。詳しいことは新聞で確認していただきたいが,汚染が「広範囲」に及んでいることだけは,みてとれる。しかも,下流ほどセシウムが蓄積されていることも明らかだ。となると,これらの汚染水がすべて東京湾に流れ込んでいくわけだから,その結果が気がかりだ。しかも,東京湾に注ぐ川はほかにもたくさんある。それらが集積されるとどういうことになるのか。その実態を知りたいところだ。

 少なくとも,日本トライアスロン連合は,スイム競技の会場となるお台場海浜公園の海水の検査くらいはやっているはずだ。そして,選手たちに「安全である」という説明をしているはずだ。その根拠となるデータくらいは公表してもらいたいものだ。もっとも,日本トライアスロン連合に問い合わせれば,すぐにわかることではある。しかし,ひょっとしたら関係者のみで,「部外マル秘」になっているかもしれない。

 放射能汚染に関して,一般的に,ヨーロッパ人はきわめて敏感な反応をする。神経質なほどにぴりぴりしている。それに比べて,日本人は,わたしもふくめて,一般的におおらかというか,鈍感である。なんとかなるさ,と楽観的だ。だから,トライアスロンのスイムも,国内の選手権大会なら,それほどまで問題になることもなく開催が可能なのだろう。これまでに放射能汚染の問題で「もめた」という話は聞いたことがない。しかし,国際大会ともなると,話はいささか違ってくるのではないだろうか。と,わたしは心配だ。これが単なる杞憂ならいいが・・・。

 海水汚染くらいなら,まだいい。もっと大きな問題をわたしたちは抱え込んでいる。フクシマの原発問題だ。アベ君は「アンダー・コントロール」と大見得(大嘘)を切ったが,現実は深刻の度をますます深めるばかりだ。いつ,なんどき,大爆発を起こさないとも限らない。まったくの未知の世界で,ことは進行している。専門家ですら,なにが,どのようになっていて,この平衡状態が保たれているのかわからない,という。つまり,真実はなにもわかってはいないのだ。

 そういう大問題を抱え込んだまま,東京五輪2020開催に向かってまっしぐらだ。このあたりで,一度,真摯にフクシマ原発問題に目を向け,そこで起きていることがらを真っ正面から受け止め,検討し,暫定的な結論を導き出す,というくらいのことはすべきではないのか。この点について,組織委員会をはじめ,東京都,文部科学省,JSCなどに,考えを聞いてみたい。

 ことは緊急を要する事態だ,とわたしは考えているのだが・・・・。

2015年10月8日木曜日

もっと真剣に議論を。運動会の人間ピラミッド。

 10月3日の東京新聞「こちら特報部」に,下の写真のような記事が掲載された。読んでみて驚いたのは,その記事の薄っぺらさだ。こんないい加減な記事だと,世論はますます混乱をきたすことになる。もっと,しっかりと取材をして,問題の本質をつきとめて欲しい。

 
もっともよくない点は,事実誤認の内容が,まことしやかに書かれていることだ。少なくとも,専門家の「校閲」を経てから掲載すべきではないか。

 たとえば,以下のとおり。

 「組み体操のピラミッドは,四つんばいの人間が下から順番に積み上がっていく。」⇨このピラミッドは,ひとむかし前の方法。いま,行われているピラミッドはまったく違う原理と方法で組まれている。考案者はよしのよしろう。写真をよくみてみればわかるように,四つんばいになっているのは前列の一番下と,その後ろにつづく一列おきの土台,それに上の二段だけである。あとは,みんな足を伸ばして上体を前に倒し下の土台の肩甲骨のあたりに手をついている。つまり,四つんばいの人間は全体の一部でしかない。第一,全員が四つんばいであったら,立錐体のピラミッドを組み上げることは不可能に近い。もう一点は,全員四つんばいで組み上げていったら,上からの重力はとてつもないものになってしまう。この重力をいかに分散させて,高さを可能とするか,という点に考案者・よしのよしろうの工夫が隠されている。しかも,簡単で高度な技術を必要としない,というところに普及の秘密がある。小学生でも,7段くらいまでなら,いとも簡単にできるようになる。しかし,8段以上になると,一気に,異次元の世界に突入する。ここからは,重力に耐える体力と高度な技術と気力を必要とする。このあたりのことを記者(沢田千秋)は十分に理解していないようだ。

 大阪市教委は「先月一日,ピラミッドの高さは五段,タワーは三段までとする規制を各校に通知した」という。この大阪市教委の規制のいい加減さ。いま,行われているピラミッドの方法であれば,五段までだったら「遊び」の世界である。小学生でも,なんの感動もないだろう。ましてや中学生だったら,だれもやる気にはならないだろう。組み体操の最大のポイントは,児童・生徒がその気になる。そして,指導する先生も真剣になる。それをみる者が感動する。この三点がセットでそろったときに,初めて組み体操の魅力が生まれる。安全第一はわかる。そのとおりだ。しかし,安全圏があまりに大きすぎると,こんどは魅力に欠けてしまう。つまり,危険と背中合わせの真剣勝負,その限界への挑戦が組み体操にとっては必要不可欠な要素なのだ。だから,それを「安全に」可能とさせるためのきめ細かな手順・方法(指導・学習)が必要になってくる。議論すべきは,このあたりのことでなければならないはずである。。ただ,ひたすら安全だけを主張する人たちは,いとも簡単に「やめてしまえ」という。それでは話にならない。

 「下から六段目にいた一年の生徒(一二)が右腕を骨折するなど六人が重軽傷を負った。」⇨ピラミッドでもっとも難しいのは,ちょうと「六段目」あたりのポジションなのだ。このあたりには,小柄ながら体格のしっかりした,我慢強い生徒を配置するのがセオリーだ。この写真をよくみると,五段目の生徒の背中が伸びてしまって,六段目の生徒の右手は滑ってしまっている。そして,その上に四つんばいの馬が七段・八段と乗っかっている。ここから明らかなように,この六段目の生徒のポジションが肝心要なのだ。なのに,この六段目の生徒を後ろから支える力が逃げてしまっている。そのため,六段目の生徒の右手が滑ってしまい,五段目の生徒の腰を押す結果を生んでいる。ここの連携の技術の習得がまだ不十分だったことがここからわかる。原因のない事故はない。本番前の練習で,六段目までの組み上げ方をもっと徹底して練習しておけば,力が後ろに逃げるという事故は防げたはずである。また,途中で修正することもできたはずである。後ろの生徒にその自覚が不十分だったのだろう。ここに指導上の問題点があったのでは,とわたしは推測する。

 もう一点は,内田良(名古屋大学大学院准教授・教育社会学)氏の分析である。記者は,この人の談話に凭れかかりすぎている。一応,内田氏はこの世界(スポーツ事故)の第一人者ということになっているので,ある程度は仕方がないところではある。しかし,内田氏のこれまでの主張(柔道事故,など)の根底にあるものは,数量的合理主義である。一見したところ,いかにも合理的で,説得力があるように見える。しかし,組み体操に必要とされる技術や気力・体力についてはあまり理解があるとはいいがたい。それを,どのような段階を踏んで習得していくか,ということもあまりご存じないようだ。だから,もっぱら数量化することのできる要素に焦点を当てて,論陣を張る。が,それだけでは,片手落ちというものだろう。

 「周りにいくら教師がいても,子どもにかかる重量は一グラムも軽くはならない。」⇨教師はただ立ってみているだけではない。手をつく位置,重力のかかり具合,励まし,など注意深くアドバイスを送っているのだ。現に左から二人目の黒いシャツを着た教師は,右手を伸ばして重心を前にかけろと指示していることが見てとれる。この教師の目には,これでは崩れるということが予見できていたはずだ。だから,修正しようと必死になっていたはずだ。また,一番右側の黒いシャツを着た教師も同様に,もっと重心を前にかけろと左手で尻を押している。この失敗の原因は,力が前後に分散してしまったことにあることが,以上からも明らかとなる。教師たちは,これでは危ないと予知して,必死で檄を飛ばしていたはずである。

 「教師には高さ七メートルかち落ちてくる子どもを受け止めることはできない。」⇨もし,一番上の生徒が落ちてくるとしたら,斜めに転げ落ちてくる。それを受け止めることはできる。そのために,何人もの教師が中央部分に立っている。それは練習を繰り返していて得た経験知であろう。それをまるで「無意味」であるかのように切って棄てる内田氏の見解には納得できない。もっとも,内田氏はもっとことばを尽くして話をしているのに,記者が端折ってしまったのかもしれない。新聞から求められる談話とはそういうもので,わたしにも心当たりがある。

 「感動の呪縛というわなにとらわれリスクが見えなくなっていた。」⇨このような断定的な言い方をしているのだろうか。もし,そうだとしたら,教育社会学者のまなざしとはこの程度のものなのか,といささか呆気にとられてしまう。教育の専門家として,教師を見下しすぎてはいないか。組み体操のリスクに盲目になるほど教師は無能ではない,とわたしは信じている。むしろ,そのリスクを意識しているからこそ,教師を周囲に配置して,可能なかぎりの万全な安全対策をとっているのではないのか。ここに至るまでには,何回もの教員会議をとおして,議論を重ねてきたはずである。その上で,運動会の組み体操実施が決定されたに違いない。

 とまあ,この記事を読むだけでも,これほどの問題が浮かび上がってくる。

 結論:組み体操の問題をもっと真摯に受け止め,問題の所在を明らかにし,問題解決の方法をつきとめること。そのために,組み体操の専門家もまじえて,もっと真剣に議論をすべきである。市教委の対応にしても,あまりにおざなりで,無責任というほかない。

2015年8月29日土曜日

ああ,ウサイン・ボルト。200m決勝レースでも後半は流している。

 ウサイン・ボルト。200m決勝レースでも,コーナーを廻って直線コースにでてきて,自分が一番だと確認したとたんに,もう流している。ゆったりと楽に流している。にもかかわらず,追ってくる選手たちはその差を詰めることはできなかった。そして,悠々とゴール。いったい,なんという男か。こと200mに関しては敵なしだ。しかも,こんなにも力の差があるとは・・・・。 

 このところ,世界陸上にくびったけ。毎夕食のたびにテレビ観戦。そのまま午後10時までやめられない。困ったものだ。陸上競技がこんなに面白いものだとは知らなかった。たぶん,これはテレビ観戦の効果なのだろう。実際に競技場で観戦するのとはまるで違う世界。これこそ「みるスポーツ」の権化。いったい,テレビの画像をとおして,わたしたちはなにを「みて」いるのだろうか。

 じっさいに,スタジアムに行って,自分の眼で「みる」のと,テレビをとおして「みる」のとの違いはなにか。同じ「みる」行為なのに,どこが,どう違うのか。これは,じつは,とてつもなく重要なテーマなのだ。が,これまであまり踏み込んだ議論をだれもやっていない,と記憶する。今回はその入口の議論だけでも,ちょっとだけ試みてみたい。

 その違いの第一は,「みる」行為の主体がまったく異なるという点にある。テレビ観戦がはじまる前までは(それは,1964年オリンピック東京大会が大きな節目の年だった),スポーツを「みる」ためにはみずからスタジアムや野球場に足を運んで,自分の眼でみた。そして,そこでなにを「みる」かも自分で決めた。自分の興味・関心に合わせて見たいものを「みる」。つまり,すべてその主体は自分自身にある。しかし,テレビ観戦となると,送られてくる映像はすべてテレビ局によって編集されたものである。どの映像を切り取るかはすべてディレクターの主観に委ねられている。わたしたちは,それをただ享受するだけ。没主体。受け身。

 こんなことを繰り返しているから,やがては「思考停止」,ついには「自発的隷従」が透けてみえてくる。テレビとはそういう装置だということがみえてくる。このプロセスについては,しっかりと分析しておくことが肝要だ。なぜなら,いま,問題になっている「だれも責任をとらない社会」の淵源をたどっていくと,その一因に,このからくりが浮かびあがってくるからだ。

 第二のポイントは,映像がアップにされ,リピートされるということ。感動的なシーンは何回でも繰り返し映し出されるということ。これは,テレビならではのメリット。だからテレビ観戦はやめられない。スタジアムではみることのできない決定的なシーンを,テレビは「映像」化して提供してくれる。もっと言ってしまえば,人間の眼にはみえないものまでも映像を解析して,しかも,スローモーションにして,じっくりと「みせて」くれる。肉眼ではみることもできない1000分の1秒の世界を可視化してくれる。しかし,このことの功罪については慎重を要するところだ。

 というような具合に,重要な問題が,随所に隠されている。

 こうした問題とは別に,わたし自身は,決勝レースの直前にアップで映し出される選手たちの顔を楽しんでいる。みんないい顔をしている。いざ,勝負という直前にしか表出しない,えもいわれぬいい顔ばかりだ。緊張の極にいながら,それをなんとか解きほぐそうとしてカメラに向かって満面の笑顔を向けた直後に,ちらりとみせる寂しそうな表情。役者の演技とはまるで次元の違う世界での,人間の真実の顔。

 スーパープレイもさることながら,わたしは選手たちの表情を存分に楽しんでみようとおもう。こんな顔は,こんなときしか拝むことはできないビッグ・チャンスだ。これもまた,「みるスポーツ」の醍醐味のひとつだ。

 ウサイン・ボルトの顔はその意味でも天下一品である。千変万化する素晴らしい顔だ。よくよく観察してみると,やはり,天才の顔だ。どこか根本が違うようにおもう。これからリレーに登場してくるボルトの顔を追ってみよう。また,新しい発見がある,そんな予感がする。

2015年8月17日月曜日

新国立競技場問題は難問山積。これからが正念場。空中分解の可能性も。

 8月14日に政府は,新国立競技場整備計画の見直しのための関係閣僚会議を開催し,基本方針を決め,発表した。添付の写真のように,東京新聞も大きな記事として報道した。その骨子を知って,これまた驚くことばかり。現段階での感想を以下に記しておきたい。

 
またもや「見切り発車」で逃げ切ろうという姿勢を臆面もなくさらけ出して平然としているアベ政権。まったく「反省」のかけらもない。新国立競技場整備計画が,どうして,このようなことになってしまったのか,という第三者の検証委員会が8月7日にスタートを切ったばかりなのに。

 理由はかんたん。「大会に間に合うが最優先」。ということは,どんな競技場になろうが,五輪に間に合えば,それでよしとする,結論ありきの発想がまかりとおっているということだ。つまり,競技場をつくるコンセプトもなにもなしに,期日に間に合わせる,だけが独り歩きしている。

 しかし,純粋な陸上競技場専用のスタジアムを建造するのであれば,2年あればできる,という建築の専門家は少なくない。にもかかわらず,関係閣僚会議は,2016年1月に工事を発注し,2020年春の完成を目指す,という。単純に計算しても丸4年がかかると踏んでいる。その根拠もなにもないまま。それこそ「白紙」のままで。

 「白紙」のままで,とは言い過ぎだという向きには,以下の「新国立競技場整備方針の要旨」をとくとご覧いただきたい。これを何回,読んでみても,具体的な競技場のイメージは湧いてはこない。つまり,これからさき,なにを,どのように展開していくのかはまったくの未知数だ,ということだ。要するに,いかにも手際よく「見切り発車」をして,政府が挙げて真剣に取り組んでいるかのように見せかけているだけの話。中味はなにもない。空洞だけだ。だから,どうにでもなる,ということ。


じつは,新国立競技場整備計画がすんなりとは決められないということには理由がいくつもある。つまり,簡単には解消できない難題がいくつも待ち構えているという特殊な事情が,その背景にはあるということだ。それが当初の計画が迷走した最大の理由だ。たとえば,有識者会議が提起した条件をすべて受け入れようとしたのも大きな理由の一つだ。しかし,もともと,この場所(神宮外苑)に立派な競技場を建造するには,あまりに土地のスペースが足りない,という根本的な問題がある。

 こんどの政府案では,「競技場専用」にする,とだけ表記された。これとて,じつにあいまいな表現でしかない。たとえば,「陸上競技場専用」にするにも,サブ・トラックを常設するだけの場所がない。だから,五輪では,臨時のサブ・トラックを設置して(野球場を一時転用),切り抜けようということだ。ということは,五輪後には,「公認」の陸上競技会は開催できない,ということだ。だとしたら,この競技場を維持・管理していく目的はなにか。

 のみならず,サッカー,ラグビーなどの球技場としても「専用」には役に立たない。なぜなら,陸上競技場としての「8レーン」が不可欠だとすれば,この分だけ観客席はピッチから遠くなる。ならば,移動式観客席を,ということになる。となると,コストが桁違いに高くなってしまう。だから,固定席になるだろう。とすれば,球技場としても中途半端な競技場になる,ということだ。

 要するに,東京五輪以後,なんのために,だれのために,この競技場が存続することになるのか,という見通しがなにもないのである。それでいて,整備方針の要旨の(1)には,「アスリート第一」の考え方の下,世界の人々に感動を与える場とする,と威勢よくうたっている。この文字面をみるかぎり立派なものである。だれも文句のいいようがない。しかし,中味は「空洞」。

 言ってみれば,たった一回だけの五輪開催のための競技場でしかない,あとのことはなにも考えてはいない。その証拠に,五輪開催後の維持・管理は民間に委託する,という。となれば,独立採算性の「経済原則」が最優先されることになる。国立の公共施設が,民間に委託されて,経済原則で管理されるようになったら,もはや,新国立競技場としての「機能」は果たせなくなってしまうことは,火をみるより明らかだ。おそらくは,競技場に加えて,大きなイベント会場としての転用が,その先には待っているのだろう。となると,いったい,なんのための競技場か,という根源的な問いが新たに生まれてくることになる。

 今回はこの程度にとどめておくが,新国立競技場には難問が山積している。第一に,責任問題に蓋をしたまま,「時間」を理由に,強引に押し切ろうとすればするほど,「亡霊」があちこちから顔を出すことになるだろう。場合によっては,空中分解するほどのエネルギーがそこには充満している。すでに,きな臭い匂いが漂いはじめているのだから。とてつもない「泥試合」が,このさきには待ち構えている。大揺れに揺れるだろう。

 これで,またまた,アベ政権の支持率は低下の一途をたどることになるだろう。
 ただし,メディアの対応次第だが・・・・。
 やることなすこと「でたらめ」。「場当たり主義」。「壁紙の張り替え」。
 要するに,民意を聞き入れる姿勢がまったく欠如しているかぎり,同じことの繰り返し。

 早々に,お引き取りを。

2015年6月25日木曜日

最悪の選択。新国立競技場の最終案。クレージーとしかいいようのない決定。

 だれが,いつ,どこで,どのような議論(検討)をして,このような最終結論に達したのかまったく不透明なままだ。いつもの密室会議。つまり,だれも責任を取らなくてもいい決定の仕方をしたということだ。裏を返せば,まことに無責任きわまりない決定,としかいいようがない。しかも,最悪の選択をしてしまった。それは,まるで,つくってはいけない原発を新たにつくるにも等しいような決定だ。つまり,悔いを千歳に残す決定ということだ。

 数日前,下村文部科学大臣が,わざわざ記者会見して,槇文彦案も含めて再検討をする,と柔軟な姿勢をみせた。ようやくザハ案のかかえる問題の大きさに気づき,賢い落としどころを見出そうとしているのかな,とささやかな期待をいだかせた。わたしは,個人的には,この段階にあっては槇文彦案がベストだと考えていたので,なおさら,大きな期待を寄せていた。

 しかし,その夢はわずか数日で儚くついえ去ってしまった。文部科学大臣の,やらずもがなの世を憚る単なるフェイントにすぎなかったと知り,その落胆も激しかった。

 6月24日の東京新聞夕刊が一面トップにこの問題を取り上げた。そのことは大いに是としたいが,紙面の制約と記者の力量不足とが相俟って,なんとも陳腐な記事になってしまっている。まことに,残念。なぜなら,問題の本質を取り違えてしまって,ひたすら経費の問題に矮小化してしまっているからだ。金の問題も重要だが,それ以上に見過ごしてはならない大問題が,今回の決定の背景に隠されている。そこのところに焦点を当ててほしかった。

 問題は,悔いを千歳に残す,取り返しのつかない選択をした,というその一点に絞るべきだっだ。要するに担当記者の取材不足。つまり,新国立競技場はだれのためのものなのか。そして,それをだれが,どのように活用していくのか。近未来の日本にとって新国立競技場のはたすべき役割はなにか。などなど,こういう思想・哲学的な視点をまったく無視した「決定」に対して,ジャーナリスティックな批評を展開してほしかった。

 新国立競技場に関する問題の所在をひとことで言ってしまえば,こんな巨大な建造物をつくること自体がすでにして「時代錯誤だ」ということにつきる。つまり,ロンドン五輪のメイン会場の3倍(予算規模では4倍)にもなる特大サイズと奇抜なデザインをもつ競技場を神宮外苑という歴史的風致地区に建造することの意味はもはやなにもない,ということだ。槇文彦さんが指摘しているように,2050年の日本の人口の推移,そこから想定される国民総生産力を考えると,もはや右肩上がりの発想はありえない,とわたしも考える。むしろ,最初から解体可能な,つまり,順次,解体して競技場を縮小していく,そういう競技場を志向すべきなのだ。

 どうしても8万人収容したいのであれば,それはそれでやり方はいくらでもある。その案もいくつも提案されている。経費も安く,しかも工期も短くできる案だ。それらをすべて蹴って,ザハ案を約2割縮小した案で押し切った。これが,最悪の選択,とわたしが断じる最大の根拠だ。

 なぜ,最悪の選択なのか,その理由の主なものだけを箇条書きにして挙げておこう。

 1.維持管理費が膨大なものとなり,赤字経営となることがだれの眼にも明らかであること。
 2.その赤字を埋め合わせるために巨大なイベント(たとえば,コンサート)を開催する,というがそんなことは不可能であること。
 3.つまり,スポーツの競技会(陸上競技,サッカー,ラグビー,など)とコンサートと併用することは不可能であること。第一,芝が育たない。枯れてしまう。毎回,芝を植え替えるとでもいうのだろうか。そのための経費,期間ははんぱではないこと。
 4.神宮外苑という歴史的景観が,巨大モンスターの出現によって,根底から破壊されてしまうこと。
 5.槇文彦案によれば,経費も工期も圧倒的に縮小できるのに,それを排除したこと。これから一年,議論してからでも間に合う(ラグビーW杯),と提案しているにもかかわらず・・・・。そして,なにより,国民的合意を形成することが重要だ,と提案しているにもかかわらず・・・。
 6.施工予定者(と新聞は書いているが)である大成建設と竹中工務店は,設計には協力するが,施工を引き受ける意思はない,と一部ではささやかれていること。つまり,二本の巨大アーチを建造する技術は橋梁建造によって培われてきたもので,これを地上で建造するとなるとさらなる技術開発が必要となり,時間も経費も算定できない,というのが建築エコノミスト・森山高至さんの主張だ。大手ゼネコンの腰が引けているのは,ここに原因があること。
 7.大手ゼネコンですら,予算をいくら積んでくれても採算がとれない,と踏んでいること。
 8.では,なぜ,こんなに困難な建造案にこだわるのか。そこに群がるハイエナのような闇の集団がたむろしているからだ。諸悪の根源はここにある。要するに闇取引が,あちこちで行われているということ。
 9.そのために,新国立競技場建造計画は弄ばれているということ。
10.その悪循環を断ち切るために構想され,国民的合意形成をめざす槇文彦案を,わたしは全面的に推奨したい。だが,これこそが利権を弄ぶことに関しては定評のある文部科学大臣がもっとも忌避したかったことに違いない。

 こうして,箇条書きにしていくだけでもエンドレスだ。ことほど左様に,新国立競技場建造にかかわる「陰の部分」こそが大問題なのだ。まさに,伏魔殿そのものだ。ほじれば,ほじるほどに,いくらでも問題がでてくる,恐ろしい世界だ。それらをすべてブルー・シートで覆い隠し,目の前の利害得失だけでことを処理しようとしている。

 この方法は,憲法を無視し,違憲法案を提出しておいて,なに憚ることなく「わたしは正しいと確信している」と言い切るアベルフ・シットラー閣下のやり方そのものだ。

 いま,政府自民党がやろうとしていることは,まさに,悔いを千歳に残すことばかりだ。この新国立競技場建造案(最終案)もその一つとして,重く受け止めなくてはならない。

2015年4月29日水曜日

「東京五輪2020は東京五輪1940の二の舞になるのではないか」(西谷修)。

 東京は,全部で3回も五輪を招致することに成功しています。その第一回目の五輪招致が「1940」年開催予定の第12大会でした。が,第二次世界大戦に向かってまっしぐらの日本は,五輪どころの騒ぎではなくなってしまいました。そして,あっさりと五輪返上を決めました。その結果,日本に代わって五輪を開催する国はなかったので,中止となりました。このあとの,1944年の第13大会も第二次世界大戦の真っ最中で,五輪など世界中のどの国も開催を口にできる状態ではありませんでした。

 こうして,国際平和の推進をかかげるオリンピック・ムーブメントは,2回連続で中断せざるをえない,屈辱の歴史を刻んでいます。この事実を知る人もいまでは少なくなってしまいました。しかし,オリンピックの歴史を考える上では,きわめて重大なできごとであり,オリンピック・ムーブメントの根幹にかかわるできごとでした。繰り返しておきますが,名誉あるオリンピック・ムーブメントに大きな穴を空けるという,この空前絶後の歴史に東京(日本)の名前が刻まれたということを肝に銘じておきたいとおもいます。

 もっとも,最初にオリンピック・ムーブメントを中断させたのは,ベルリン(ドイツ)です。1916年に予定されていた第6回大会です。こちらも第一次世界大戦の勃発が中止の理由です。五輪開催を招致しておいて,みずからの都合で返上・中止にしてしまったのは,ベルリンと東京の2都市だけです。しかも,いずれもみずから仕掛けた戦争にその原因がありました。ここにも不思議な奇縁を覚えずにはいられません。ついでに言っておけば,東京五輪1940は,これまたオリンピック史上にその名を刻むことになった1936年ベルリン大会のあとを引き受けての開催予定でした。

 この東京五輪1940の招致運動に全力を注いだ嘉納治五郎(当時のIOC委員)は,疲労困憊の末,招致が決まって帰国する途上の帰国船の上で亡くなってしまいました。嘉納治五郎がどれほどの苦労を重ねたかは,また,いつか詳しく書くことにします。いずれにしても,それほどの努力の結果が,戦争という理由であっさり返上しなければならないことになった,このむなしさは嘉納治五郎を筆頭とする関係者のこころに深く刻まれたことでしょう。

 「東京五輪2020は東京五輪1940の二の舞になるのではないか」。

 このことばは,4月25日(土)に開催された対談「東京五輪2020を考える」(西谷修×稲垣正浩,於・青山学院大学,主催・ISC・21,午後3時~6時)の席上,西谷修さんの口から飛び出したものです。しかも,これが対談の最後の締めくくりのことばでした。

 わたしは一瞬,虚をつかれ,ハッとしてしまいました。強烈な印象を与えるひとことでした。

 といいますのも,じつは,わたしも同じように,東京五輪2020の招致が決まってからのこんにちまでの推移を考え,このさき2020年までの5年間の展望を考えたとき,いずれは「返上」しなければならない情況に追い込まれていくに違いない,と考えていたからです。その最大のポイントは「フクシマ」です。厚顔無恥の安倍首相は,IOC総会で最終決定がなされる,あのプレゼンテーションで最大の不安材料であるべき「フクシマ」について「under control 」と言ってのけたことは,よく知られているとおりです。

 しかし,その「フクシマ」は手も足も出せないまま,いまもなお,なりゆきまかせにするしかありません。しかも,情況は日に日に悪化しています。小出しにされるフクシマ関連情報こそ「under cotrol 」にあって,精確な情報のほとんどが極秘とされたままです。それどころか,メルトダウンしたままの核物質がどのような情況になっているのか,ということもまったく把握できてはいません。一説によれば,いつ,臨界点に達して,大爆発が起きても奇怪しくはない,そういう情況下にある,とすら言われています。

 その一方で汚染水は海に向かって垂れ流し。空気の汚染も放置されたまま。汚染は日々,拡大していくばかりです。こうしたことも改善される目処はまったく立ってはいません。2020年に向けて,なにが,どのように改善されるのか,その具体的なプランもまったくみえてはきません。これらすべてを総合的に判断してみても,情況はますます悪化の一途をたどっているとしかいいようがありません。

 江戸川や隅田川を流れていく汚染水は,間違いなく東京湾に蓄積されていきます。そのデータも民間団体の調査(あるいは,新聞社の調査,など)によって,逐次,公表されています。このようなデータのことを考えると,ますます「絶望」的にならざるをえません。言ってしまえば,明るい材料はひとつもありません。

 が,そんなことは「みてみぬ」ふりをして,東京都も組織委員会も文部科学省も,足並みを揃えて東京五輪2020に向けてまっしぐら。にもかかわらず,新国立競技場を建造する資金が圧倒的に足りず,早くも頓挫しそうになっています。そこで,苦肉の策に打ってでようという話が取り沙汰されるようになってきています。それが,サッカーくじだけでは足りないので,野球くじを導入して,不足分を賄おうという,恐るべき案の登場です。つまり,文部科学省がなりふり構わず,国営の野球賭博をはじめよう,というのです。

 世も末というべきか,狂気の沙汰としかいいようがありません。が,そんなことが大まじめに,日本の権力の中枢で議論されているというのです。

 ここでは,もう,これ以上のことは割愛させていただきます。が,これに加えて「オキナワ」の問題に火が点きました。海外のメディアまでもが注目しはじめ,直接,取材をはじめています。アルジャジーラまでもが,乗り込んでいます。こうなってきますと,国際社会でも大きな議論が湧くことになりそうです。いや,すでに,そうなってきています。そうなりますと,日本という国家の信用問題になってきます。

 「フクシマ」と「オキナワ」の二つが引き金になって,これからますます外圧が強くなってくる可能性も,すでに視野のうちに入ってきました。

 おそらく,西谷修さんの頭のなかでは,もっともっと多くの要素が見え隠れしながら,このさきの展望はますます絶望的にならざるをえない,という判断がくだされているのではないか,とわたしは推測しています。その結論が,このブログの見出しのことばです。もう一度,おさらいをしておきましょう。すなわち,

 「東京五輪2020は東京五輪1940の二の舞になるのではないか」(西谷修)。

2015年4月20日月曜日

東京五輪2020批評・その1.東京五輪はだれのためのものか。国民無視の実態。

 東京五輪2020の招致運動からこんにちまで,国民の意思はほとんど無視されたまま,どこかの密室で着々と推し進められている。当該担当部局に議事録の開示を求めても,3カ月も6カ月も待たされた上に,開示される議事録は真っ黒に塗りつぶされたものがほとんどだ。読んでもなんの役にも立たない代物ばかりである。それでも議事録を開示している,としらを切る。

 東京五輪2020の招致・開催の主体は東京都である。しかし,その東京都が五輪招致のために作成した開催要領がどのような議論を経て作成されたのか,わたしたちは知るすべをもたない。詳しいことはだれも応答してくれないからだ。すべては密室でことが運ばれたということだ。それでも開催要領をよくよく分析すれば,だれが,なにを,企んで作成されたものであるかは,一目瞭然である。

 たとえば,東京湾岸を中心に「5キロ圏内」ですべての競技を行う,いわゆる「コンパクトなオリンピック」というキャッチ・フレーズの陰に隠された本音は,まるで子どもじみた理屈である。ごくかいつまんで書いておけば以下のとおりである。

 東京都が東京湾にゴミを棄てて埋め立てた土地が,大量に空き地のままになっている。だれも買い手がいないからだ。つまり,使えない土地なのだ。だから,その表面に芝を植え,植樹をして緑地公園にし,部分的にスポーツ施設をセットして,都民に解放されている。しかし,コストの上で採算がとれない。そこで飛び出した名案(迷案・明暗)が,オリンピックを招致して,全部,スポーツ関連施設にしてしまおう,というわけだ。それを「東京湾副都心計画」と銘打って,選手村やマンションも建造して,終わったら民間に払い下げればいい,と考えた。この案が都議会をとおして承認され,晴れて日の目をみた。この仕掛け人は石原慎太郎である。日本はこの案を引っさげてIOC総会に乗り込んだ。

 当時のIOCの考え方としては,経費のかからない,こじんまりとした大会の運営をよしとする機運が高まっていたので,この提案は高評価を受けた。そして,その他の手も使って,みごとに五輪招致を勝ち取った。フクシマは「under control 」という首相の名セリフのもとに,あからさまな嘘をつき,投票権をもつ委員たちを誑かした。その結果の五輪招致である。

 なぜか,最初から,五輪招致のための動機が不純である。政治家の弄びものの匂いがふんぷんとしている。

 のみならず,いよいよ五輪施設の建造にとりかかろうとしたら,建築資材費と人件費が急騰して,準備されていた「5000億円」ではとても賄いきれないということが判明した。当然である。東日本の復興,フクシマの応急処置,集中豪雨などによる災害,などが重なってあっという間に土木・建築費の高騰となった。こんなことは建築家の間では早くから指摘されていたことだった。それが現実となっただけの話である。このために,五輪が大きな壁にぶち当たっただけではなく,東日本の復興も,フクシマも,災害地の復興も,なにもかもが頓挫することになった。

 その典型的な例のひとつが,国立競技場を取り壊し,新国立競技場を建造するという計画である。このことについては,このブログでも何回もとりあげてきているので割愛する。が,その後のこと,つまり,現在進行形の話は少しだけ触れておこう。多くの専門家集団や市民団体がJSC(日本スポーツ振興センター)の計画に反対し,改善案まで提示したが,それらのすべてが無視されたまま,とうとう解体工事がはじまってしまった。まるで,沖縄の辺野古新基地建設と同じ手口だ。一切,聞く耳をもたない一方的な強行突破である。

 このことが,じつに象徴的にこんにちの国家権力の姿を浮き彫りにしている。すべてが万事,このやり方がまかりとおる不思議な国家に成り果ててしまった。いまや,言論の自由もままならず,新聞・テレビの報道までもが「放送法」などを無視して,政府自民党が公然とプレッシャーをかけてくる時代である。民主主義の憤死。

 ところが,五輪施設づくりに関しては,IOCから新しいアジェンダが発表され,開催都市の意向を最優先するということになった。そのとたんに,招致運動のときのキャッチ・フレーズであった「5キロ圏内」での五輪開催という原案はどこかに吹っ飛んでしまった。いまでは,広域開催に向けてせっせと裏工作がなされている。遠く愛知県まで開催地候補に名乗りを挙げるにいたっている。しかし,この段階にいたっても,計画・立案はすべて「密室」審議のままである。

 東京都民の意思は,議会が代行するとはいえ,ほとんど無視されたままである。少なくとも,都議会議員のなかに,オリンピックとはなにか,オリンピック・ムーブメントとはなにか,これまでの歴史過程でなにが問題となってきたのか,などについてきちんと判断できる議員がなんにんいるだろうか。心もとないかぎりである。言ってみればオリンピック・ムーブメントについては素人集団だ。だから,ここには,少なくとも専門家の意見を求める諮問委員会を設定し,議論すべきなのに,それすら十分に機能しているとはおもえない。

 この状態はいまもつづいている。少しずつ専門家と称する委員がいろいろの組織に追加されてはいるが,わたしの知るかぎりでは,みんな元オリンピック選手ばかりだ。少なくとも,オリンピックを「批評」できる専門家はひとりも加わってはいない。なぜ,加えないのか。加わってくれては困るからだ。都合の悪い人間は加えない。いまは,とくに,この傾向は顕著だ。

 長野の冬季オリンピックのころには,わたしのような人間でも,文部科学省の諮問委員会の委員として招聘され,何回かは意見を陳述する機会もあった。そして,多少なりとも,その意見は取り入れられた。あのころまでは,まだ,民意を尊重する姿勢が生きていた。いまや,皆無だ。政府が立ち上げるどの委員会もすべて「仲良しクラブ」のメンバーばかりだ。これではもはやなんの意味もない。ただ,形式と手続だけ整えれば,すべて合理化される,という詭弁にすぎない。それがまかり通っている。

 現段階での東京五輪2020の最大の問題点は,国民無視のまま突っ走っていく,権力の思いのままのまことに都合のいい道具と化してしまっていることだ。こんなことで東京五輪2020が国民のためになるとはとても考えられない。いったい,だれのための東京五輪2020なのか,根源的な問いを,いまからでもいい,発しなくてはならない。

 体育・スポーツ関連学会は無言のまま「自発的隷従」を貫こうとしているかにみえる。それを見過ごしているわれわれにも責任は重い。いまこそ,声を挙げるべきときではないのか。

2015年3月27日金曜日

<批評>の「学」としての「スポートロジイ」をめざす。

 21世紀スポーツ文化研究所の研究紀要『スポートロジイ』第3号の最後の原稿・巻頭言がようやく仕上がりました。もっとも,早く書いていただいた原稿は,すでに初校ゲラとなり,校正も終わっています。原稿が細切れになってしまい,五月雨式に原稿を送信することになってしまいましたので,出版社(みやび出版)や印刷所にはたいへんご迷惑をかけてしまいました。

 が,ようやく,これで第3号のすべての原稿が出揃いましたので,あとは,初校ゲラの校正を済ませ,校了に向けて一直線です。ここをどのように通過できるか,それによって,発行日がきまってきます。いまは,うまく進行することを祈るばかりです。

 さて,第3号の巻頭言をどのように書いたのか,紹介しておきましょう。短い文章のなかに,いろいろの想いを籠めて書き込みましたので,やや抽象的で,難解になってしまったかもしれません。が,第3号の内容のことを念頭に置きながら,それらともうまく呼応する内容になっているのではないか,とわたしとしては納得。

 巻頭言は以下のとおりです。

 <批評>の「学」としての「スポートロジイ」を目指して

 スポーツは時代や社会を写しとる鏡である。そこには,ありとあらゆるものが凝縮している。スポーツの有りようにじっと眼を凝らせば,それぞれの時代や地域や社会の姿がおのずから浮かび上がってくる。当然のことながら,そういう時代や土地や社会で「生」を営む人間の姿も,立ち現れてくる。

 したがって,スポーツを考えるということは,時代を考えることであり,土地を考えることであり,社会を考えることなのだ。そうすれば,最終的には「スポーツをする人間とはいったいなにか」という根源的な問いに突き当たることになる。つまり,生身の人間が「生」を営む上で,スポーツはいかなる役割を演ずることになるのか,を問うことになる。もっと詰めて言ってしまえば,人間の「生」とスポーツとの関係を問うということだ。さらに,結論的なことを言っておけば,人間の「生」を肯定する上で,スポーツはいかなる役割を演じているのか,を問うことである。

 「スポートロジイ」とは,この関係性に分け入っていくことを目的とする,新しい「学」を目指している。すなわち,人間とはなにか,スポーツとはなにか,と問いつづけるための類まれなる<批評>の学なのである。

 人間の「生」を否定して省みないような「学」を,21世紀を生きるわたしたちは「学」とは呼ばない。わけても,3.11以後を生きるわたしたちは,断じて認めるわけにはいかない。

 20世紀という時代をとおして大きな役割を演じた「スポーツ科学」とはなにであったのか,その是非をしっかりと見極める必要がある。その上で,わたしたちはそれを超克するための新たな「学」として「スポートロジイ」(=「スポーツ学」)を構想する。そのときの規範(criterion )は「善」(西田幾多郎)である。ここでいう「善」とは,ひとことで言えば,人間の「生」を肯定する営みのことを意味する。

 したがって,「スポートロジイ」は「善」の実現を規範としてかかげる,きわめつきの<批評>の「学」である。

 第3号の刊行にあたって,このことを肝に銘じておきたい。

 2015年3月26日。──この日付に万感の想いを籠めて。

 21世紀スポーツ文化研究所(「ISC・21」)主幹研究員 稲垣正浩。

2015年2月22日日曜日

「ランニング・ポリス」(東京マラソンで採用)って,少し変だとおもいませんか。

 
 東京マラソンが「攻撃」のターゲットになっている・・・・。だから,ランナーたちの安全を守るために「ランニング・ポリス」制度を採用した・・・。なにか,もっともらしい話に聞こえますが,どこか本末転倒しているのではないか,とおもうのはわたしだけでしょうか。

 マラソン大会を開催すること自体が危険にさらされている・・・まずは,こういう事態を回避するための智恵・方策こそが求められるべきなのに・・・とおもいませんか。つまり,原因を除去することが先決なのに,対象療法的な小手先の対処でことの本質をごまかそうとしている・・・のでは,と。

 
だれかさんの手法とまったく同じ。テロリストがすべて悪い。だから,テロリストを徹底的に撲滅することだけが「正義」。そのためには手段を選ばず。一般の市民や女性・子どもを巻き添えにしても,すべて許される。この発想自体が狂っているということに気づいていない。いな,気づいていても「みてみないふり」をしている。ましてや,声に出して言うことは憚られる,そういう雰囲気が蔓延している。だから,みんな黙っているだけ。

 そして,これが日常化してしまい,その奇怪しさがふつうになってしまう。それが当たり前に。

 その結果,ゆきついた結論のひとつが「ランニング・ポリス」の登場ではないか。そして,このこと自体が狂っている,奇怪しいとおもう感性すら,すでにマヒしてしまっている,のでは。だとしたら,重病です。

 いま,必要なのは,なぜ,テロリストが生まれるのか,そして,なぜ,テロリストが蔓延しているのか,その原因を明らかにすることではないでしょうか。テロリストを圧倒的な(あるいは,一方的な)「暴力」で排除しようとすればするほど,テロリストが蔓延していくのは,なぜか。そして,この日本の若者のなかにもテロリスト集団に身を投じたいという願望をいだく者がでてくるのは,なぜか。

 いま問われているのは,このことです。

 この悪循環の輪を断ち切るための智恵・方策こそが,いま求められている喫緊の課題ではないでしょうか。

 今日(2月20日)の東京新聞の記事を読みながら,素直におもったことを書いてみました。

2015年2月5日木曜日

東京マラソンに「ランニング・ポリス」だって? だったら中止にしたら?

 イスラム国の人質殺害事件後,アベ君の言動がますます過激になってきました。言ってみれば,一種のヒステリー症状です。日本国は,もはや一刻の猶予もない緊急事態に突入です。そして,「報復」に向かってまっしぐらです。これでは「憎しみ」の連鎖は終わりません。ますます「憎悪」を煽り立てるのみです。しかも,この自作自演の「憎悪」をアベ君は最大限に利用して,一気に「戦争のできる国家」へと突き進もうとしています。

 こんどの参院選後には憲法改正を発議すると言っています。いよいよ,来るときがやってきた,というところです。ならば,その前に,わたしたちは憲法改正(正しくは「改悪」)を阻止すべく覚悟を決めて,きちんとした備えをしていかなくてはなりません。

 そんなことを考えていたら,今朝のニュースで,東京マラソンでは「ランニング・ポリス」を配備して,テロに備える,と言う。???・・・・。なぬッ? いったいなにを考えているのだろうか,とあきれはててしまいました。

 一方で「報復」を強調すればするほど,東京マラソンはますますテロの絶好の標的になっていきます。だから,それに備えて「ランニング・ポリス」を配備するという。元箱根駅伝経験者などの警察官を起用する,とか。馬鹿もいい加減にしてほしい。こんなものがなんの役に立つというのか。少し考えてみれば火をみるよりも明らかです。まるで子供騙しです。

 それよりなにより,「ランニング・ポリス」は単なるみせしめ。テレビ映像をとおして,これほど警備をしっかりやってもテロの恐怖は消えません,という走る宣伝マン。だから,集団的自衛権を確保し,憲法改正をやって,正規軍を結成して,本格的な「報復」に取り組む必要があるのだ・・・と。つまり,アベ君の描くシナリオどおりに,世を挙げて動きはじめた,ということ。

 NHKのニュースはアベ君の顔と発言だけをクローズ・アップして,くる日もくる日も垂れ流すのみ。完全な戦前の「大本営発表」と化してしまっている。すでに戦時体制に入っていると言っても過言ではありません。そのためには,東京マラソンというスポーツまで巻き込んで,緊急事態であることを国民の眼に焼き付けておこう,という戦略。その意図が丸見えです。

 はっきり言っておきますが,東京という都市がテロの標的として狙われたら,ひとたまりもありません。防ぎようがないからです。言ってみれば,隙だらけの都市。だからこそ住み心地のいい都市でありえた(欧米の主要都市にくらべて)と,わたしは考えています。ですから,東京マラソンでランニング・コースに多くの警察官が動員されて配備されれば,それ以外のところは,まさに無防備状態になってしまいます。

 そんな危険を犯してまで,東京マラソンをやらなければならない理由はどこにあるのでしょうか。これをわかりやすく説明してほしい。東京マラソンを開催すると,だれが喜ぶのか,だれのふところが暖かくなるのか,だれの主張が正当化されるようになるのか,だれの眼をオキナワやフクシマから塞ぐことになるのか,最後にほくそ笑むのはだれか,・・・・?

 スポーツは平和の祭典だそうです。日本国はもうとっくのむかしに「平和」な国ではなくなっています。後方支援という名のもとで,立派に戦争に参加しています。いくら説明したって,攻撃を受けている相手側からすれば,立派な戦争協力国家(有志軍連合)の一員です。それを事実に反するなどといくら吼えたところで,それは「国内向け」のプロパガンダにすぎません。国際社会や,ましてやイスラム国に通じるロジックではありません。多くの国民は平和惚けした「茹でカエル」ですから,そのことばをそのまま信用してしまいます。こうして,世論を動かし,正規軍をめざしていく言動を正当化しようというわけです。

 「ランニング・ポリス」は茶番です。権力の走る宣伝マンにすぎません。

 ですから,東京マラソンなどは,さっさと中止すればいいのです。それほど事態は風雲急を告げていると事実をありのままに国民に知らせればいいのです。しかし,それはしません。なぜなら,事実を知られることをもっとも恐れているのが権力ですから。ほどほどにみせかけの平和ムードを漂わせつつ,その一方で,ほどほどに危機意識を煽る,これが国民をわけのわからないうちに戦時体制に誘導していくための最良の方法であり,常套手段だからです。

 このままでは,東京五輪2020を返上する条件が,外圧によって,さらに整うことになります。

 いまこそ「憎悪」の連鎖を断ち切り,平和をとりもどすためにはどうしたらいいのか,叡知をしぼる絶好のチャンスです。そちらに舵を切る勇断が,いま,もっとも求められている喫緊の課題ではないでしょうか。政府自民党に猛省をうながすと同時に,わたしたちも理論武装をして,明確な「意思表明」という行動を起こすときがやってきた,とほんきで考えています。

 わたしにとっては,「ランニング・ポリス」がその引き金となりました。

2015年1月5日月曜日

「東京五輪2020 これだけの不安」(『ひろばユニオン』2015年1月号)。

 東京五輪2020の実施計画を2月にはIOCに提出しなければならないところにきています。これからわずか1カ月でのドタバタ劇がはじまります。いまごろになって,野球,ソフト,空手などを新たに競技種目として加えようという動きが水面下で活発になってきているからです。そんなことも含めて,『ひろばユニオン』(労働者学習センター発行,2015年1月刊)の連載「撃・スポーツ批評」に一考を投じました。ご笑覧くだされば幸いです。

 
昨年末には,森喜朗組織委員会委員長が,五輪会場の候補地として名古屋や仙台も視野に入れている,という談話を発表しています。これを聞いたら,ほかの都市も黙ってはいないでしょう。IOC委員のひとりは,大阪でも開催したら,と提案しています。さて,主催都市である東京都はどういう判断をすることになるのでしょうか。これまでの新しい施設建設計画もふくめて大問題になってきています。

 
つい最近,明らかになった重大ニュースは,東京五輪2020招致のための計画書には,「原発再稼働はしない」と安倍首相のことばとして盛り込んであった,という事実です。しかも,そこにはフクシマは「完全に制御できている」とも書き込まれていた,といいます。これらの計画書にもとづいて,最後のIOC総会でも安倍首相は「under control 」という名言(虚言)を吐いているわけです。

 
つまり,安倍首相は二度も「嘘をついた」ことになるわけです。一度目は,上に書いたように計画書とIOC総会のプレゼンテーションにおいて。二度目は,原発再稼働へと舵を切ったことです。いくら虚言癖がある人だとはいえ,一国の総理大臣です。こんなに短期間のうちに,これほどの「嘘」を平気で言える人は稀有としかいいようがありません。

 加えて,フクシマによる放射能汚染はとどまるどころか,ますます拡散しつづけています。昨年11月のデータでは,三重県の汚染度が全国第三位だったといいます。東京はもとより,埼玉,千葉,神奈川も上位にランキングされています。このままの進み行きをみていますと,2020年までには日本列島の半分はフクシマと同じ状態になってしまうのではないか,と懸念されています。

 それでもなお,アベ君は「原発再稼働」に向けてまっしぐら。しかも,原発輸出にも,異常なほどの熱意を示しています。

 おまけに,武器輸出にも熱心で,輸入国には補助金も出す,とまで言っています。

 他方では,憲法9条をなきものにして,戦争のできる国に舵を切ろうとしています。

 日本で五輪を開催する資格の唯一の理論的根拠は,国際平和に貢献することを高らかに謳い上げている「憲法9条」です。しかも,「戦争放棄」を憲法で宣言している国は,世界でただ一国だけだからです。この憲法を否定するような国を目指すということは,国際平和運動を標榜するオリンピック・ムーブメントに反することになってしまいます。

 なのに,アベ君はこの矛盾をも無視しようとしています。いったい,どういう神経の持ち主なのでしょう。

 どこまでもアベ政権の願望を貫くというのであれば,東京五輪2020開催は,早々に辞退すべきでしょう。それすらもしないで,矛盾だらけのことを平気で国際社会にまで押しつけようとしています。だとすれば,このさきに「なにが待っているか」はだれの眼にも明らかでしょう。

 これから一カ月ほどの間に,組織委員会,JOC,東京都,文部科学省(JSCも),そして,IOCがどのような動き方をするか注目です。しっかりとアンテナを張っていくことにしましょう。

2015年1月3日土曜日

「この10人は自律(自立)したいい奴ばかり」(原監督)。青山学院大,箱根駅伝,優勝おめでとう!

 正月2日・3日の年中行事,箱根駅伝が終わりました。
 ことしの駅伝はことのほか感動しました。
 いうまでもなく青山学院大の驚異的な新記録による優勝です。
 メディアは,「新山の神」出現とばかりに,神野選手の活躍をとりあげています。
 が,それだけでいいのでしょうか。

 「この10人は自律(自立)したいい奴ばかり」と優勝インタヴューに答えた原監督の第一声が,わたしにはもっとも感動的でした。そうなんだっ!とこころの底から納得できたからです。

 わたしは,もう30年以上も前から「スポーツ的自律」こそが,アスリートの最終目標であるべきだ,と提案してきました。しかし,なかなか受け入れてもらえませんでした。残念でなりませんでした。が,今回,青山学院大の原監督の口から「自律したいい奴」ということばが飛び出しました。思わず膝をたたき,涙しました。ことしの青山学院大学駅伝チームの強さの秘密はここにあったのだ,と。

 監督(指導者)のもっとも大事な仕事は,選手たちを人間として「自律」させることだ,とずっと考えてきました。けして監督の意のままに動くロボットにしてはならない,と。そして,折あるごとに,このことを主張してきました。最近では,このブログにも書きました。「スポーツ学」とはなにか。その2.をご確認ください。体育学でもない,スポーツ科学でもない,まったく新たなスポーツに関する総合的な学(知の体系),すなわち「スポーツ学」を打ち立てるべきだ,と。そして,その中核となるべき概念の一つが「スポーツ的自律」だ,と。

 スポーツを実践するのは選手であり,一人ひとりのプレイヤーです。その指導者がどれだけカリスマ性を発揮したところで,そこには限界があります。つまり,指導者の言うとおりに動くロボットからは抜け出せません。しかし,選手たちが一人ひとり「自律/自立」していれば,指導者のことばを糧にして,さらにそこに工夫が加わります。それが,もうワンランク上の「力」を引き出すことになる,とわたしは考えています。

 そのことを原監督は熟知しておられたので,青学の駅伝チームの選手たちを「自律/自立」させることに,力を注いだということなのでしょう。それを裏付けることばも,短いインタヴューの間にいくつも飛び出しました。たとえば,以下のとおりです。

 「うちの選手たちは強いんです」
 「こんなに強い選手たちだったんですね」
 このことばの背景には,たんに駅伝選手として速いということだけではなくて,弱音を吐かない,集中力がある,忍耐力がある,思い切りがいい,セルフ・コントロールができる,などなど,人間としての「強さ」が籠められている,とわたしは直観しました。

 「まるで家族のようです」
 原監督がさらりと吐いたことばです。ここには,選手たち全員が一丸となれる「和」の精神がみられ,絶対的な「信」に支えられている監督と選手たちの濃密な関係性をみてとることができます。とってつけたような「絆」などという軽いことばとは無縁の,監督・コーチ・選手・スタッフがひとつになれる強い結束力の磁場があり,それを共有し,もっともっと濃密な一体感をともなう人間関係の世界がそこには広がっているのでしょう。これが「強さ」の秘密なのでしょう。

 選手たちも同じようなことを言っています。
 「からだが動いてくれたので,その流れに乗って走りました」
 「自分がいちばん驚いています」(山登りの神野選手)
 「我慢だけはだれにも負けないと信じて走りました」
 「からだはきついのに,こころが嬉しくて,楽しみながら走りました」

 しっかりと自分を見つめ,観察し,情況を把握して,みずから決断しながら走る,まさに「自律したいい奴」と監督に言わしめる選手たちなのです。

 青山学院大学の,ことしのチームの強さの秘密をかいま見ることのできる談話ばかりです。選手たちがみんな「自律」しているので,マイクを向けられても慌てることなく,じつに落ち着いて,ことばを選び,言うべきことをきちんと述べることができる,そういう印象をつよくもちました。もう,立派な大人のことばになっています。自律している証拠です。

 10時間50分を切る,驚異的な大会記録を打ち立てての初優勝。どのチームが優勝してもおかしくない強豪チームがなみいる中で,2位に10分以上もの大差をつけての,堂々たる優勝。神野選手の活躍はもちろんですが,その他の選手たちもみんな自己ベストを出しての快走を繰り広げています。往路で約5分,復路で約5分,それぞれ2位チームを引き離しての,完全優勝。

 この青山学院大学の,前例をみない強さの秘密が「自律したいい奴」の集団にあったこと,このことが際立って印象に残る,ことしの箱根駅伝でした。わたしにとっては,ふたたび,「スポーツ的自律」に火を点けられた,忘れられない大会となりました。

 と同時に,「スポーツ学」とはなにか,のキー・コンセプトの一つとして「スポーツ的自律」を粘り強く主張していきたい,と意をつよくしました。

 ことしは春から縁起がいいわいっ,と歌舞伎の口調で見えを切ってみたくなりました。

 青山学院大学駅伝チーム,おめでとう!
 来年の快走も楽しみにしています。