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2015年2月13日金曜日

人間は自然存在(Naturwesen)であると同時に文化的存在(Kulturwesen)です。すなわち,絶対矛盾的存在。

 
 この稿は,いま,少しずつではありますが,書きついでいるシリーズ「スポーツ学」とはなにか,を始める前の書きかけのものでした。もう棄ててしまおうとおもっていましたが,なんだか棄てきれず,残しておいたものです。しかし,いま,読み返してみますと,これはこれで面白かろうとおもいましたので,少し手を加えて,公開することにしました。

 その稿は,つぎのような書き出しではじまっています。

 まことに唐突ですが,かねてから構想中の「スポーツ学」の骨格について,そろそろ世に問うてみたいと考えるようになりました。そこで,まずは,「スポーツ学事始め」の先鞭をつける意味で,「スポーツ学宣言」のためのラフ・スケッチをしてみようと思い立ちました。まだまだ,ほんとうに荒っぽくて,素朴なラフ・スケッチにすぎません。が,まずは,どんなものになるのか,その全体像を明らかにしてみたい,という程度のものです。ご一読の上,忌憚のないご意見や感想などをお聞かせいただければ幸いです。以上が前置き。

 「スポーツ学とはなにか」

 人間は自然存在(Naturwesen)です。と同時に,人間は文化的存在(Kulturwesen)でもあります。ということは,人間は自然存在でありつつ文化的存在である,という相矛盾した存在であるということです。つまり,絶対的矛盾を内に秘めた存在である,というわけです。

 別の言い方をすれば,人間は本能的で情動的な動物であると同時に,情緒的で理性的で知的な生を営む生き物でもある,ということです。もっと言ってしまえば,動物であると同時に人間であるという,股裂き状態,あるいは宙づり状態を生きる生き物である,ということです。

 わたしたちが生きることの困難,悩み,苦しみ,矛盾,苦悩をはじめとする苦難や,折にふれて泣いたり笑ったりする喜怒哀楽の感情が表出する源泉はここにあります。

 この厳然たる事実を確認したところで,まずは,結論のもっとも重要なところをさきどりしておけば以下のようになります。

 スポーツは,動物的な闘争本能を,人間的なルールによって止揚し,成立する文化です。つまり,動物性と人間性という人間存在の根源的な矛盾をそのまま引き受け,理性的なルールによってバランスをとり,コントロールすることによって初めて成立する,文化の一つの様式です。ですから,人間が内包するあらゆる能力を全開にしつつ,止揚することが要求される,人間存在のすべての要素が動員されるきわめて重要な文化なのです。したがって,スポーツに精通するということは,心技体の総合的な能力を錬磨し,そのレベルを高めると同時に,ひとりの人間としての完成をめざすことになります。スポーツ学はその道を極めるための根幹となる学問領域なのです。

 このことを確認した上で,さらに,思考を深めていってみたいとおもいます。

 人間は,自然の中にあって,その中で生を営む生き物です。つまり,海や川や山や平野の中にあって,それらが生みだす恵みをいただくことによって,わたしたちは生きているのです。つまり,きれいな水や空気に守られ,植物や動物のいのちをいただくことによって,わたしたちは生きているのです。ですから,こうした自然環境や動植物のいのちを無駄にしてはなりません。そのことに気づくところから,おのずからなる「もったいない」というこころが芽生えてきます。

 これが自然存在である人間のありのままの姿です。わたしたちは,まず,この事実をしっかりと銘記しておきましょう。

 この自然存在であると同時に文化的存在である人間にとって,スポーツとはなにかと問う学問,それが「スポーツ学」(Sportology)です。この学問は,これまでにはなかったまったく新しい視座に立つ学問です。日本中,いや,世界中を探してみてもどこにも存在しない画期的な学問です。そのなによりの根拠は,Sportology という英語そのものもわたしの発案になる和製英語です。この英語を日本から発信しようというわけです。

 では,なぜ,いま,「スポーツ学」なのでしょうか。それは,21世紀という時代や社会や世界が要請しているからです。なかでも,「9・11」と「3・11」は現代という時代のかかえる諸矛盾をまるごと映し出す象徴的なできごとでした。このできごとを契機にして,わたしたちは好むと好まざるとにかかわらず,ありとあらゆるものの見方や考え方を根源から問い直す必要に迫られることになりました。〔この点については,のちほど,もっと詳しく説明をする予定です〕。その結果,スポーツの世界もまた例外ではありませんでした。そうして,熟慮に熟慮を重ねた末に到達した結論が「スポーツ学」という発想でした。

 その意味でも,「スポーツ学」は日本から世界に向けて発信する,まったく新しい学問である,といっていいでしょう。その新しい学問を立ち上げる現場にいま,わたしたちは立ち会っているのです。世界の最先端に立つ新たな学「スポーツ学」の構築に向けて。ですから,この新しい学をどのような方向に導いていくのか,その内容をいかに構築するのか,ということについては関連するあらゆる分野の専門家の叡知を結集することが必要です。

 その具体的な作業はこれからです。そのためには多くの人たちの情熱的な協力が不可欠です。

 そのためには,まずは,議論のための「たたき台」が必要です。そこで,以下には,そのたたき台となる「スポーツ学」の具体的な骨格について提案してみたいと思います。

 「スポーツ学」は三つの柱を想定しています。
 一つは,スポーツ実践学。
 二つ目は,スポーツ科学。
 そして,三つ目は,スポーツ文化学。
 この三つです。

 まず最初のスポーツ実践学から,順に,いま考えていることを,ごくかんたんに触れておきますと以下のようになります。

 スポーツ学の目玉は「スポーツ実践学」です。基本的には,スポーツ科学とスポーツ文化学とを車の両輪とし,具体的なスポーツ実践の学の構築をめざします。ここには,大きく分けて三つの分野があると考えています。一つは生涯スポーツ,二つには競技スポーツ,三つには学校体育です。これらの分野には,すでに多くの「実践」の叡知が蓄積されています。しかし,初心者からベテランに至る「実践」のノウハウは,個人的な名人芸であったり,ある特定のグループのトップ・シークレットであったりして,そのスタンダードを共有するところには達していません。そのスタンダードを共有し,さらにブラッシュ・アップしていくこと,それがスポーツ実践学のめざすところです。

 二つ目のスポーツ科学については,すでに,多くの実績を積んできており,しかも公開され,共有されてきています。ですので,それらのもつ可能性と限界を見極めつつ,いかなる専門領域がこんごも有効かどうかを検討し直して,再構築していくことになろうかとおもいます。そこにこそ多くの議論と叡知が求められることになるでしょう。

 三つ目のスポーツ文化学の中核になる学問は,スポーツの思想・哲学とスポーツの歴史です。つまり,哲学と歴史を中核に据えないスポーツ文化学は,ゆくさき不明の迷い舟となってしまいます。この二つは「スポーツ学」の根幹をなすと言っても過言ではありません。このスポーツ文化学のなかで,きわめて重要だと考えている学は「スポーツ人間学」です。まずは,人間とはなにかを問い,そして,スポーツをする人間とはなにかを考える領域です。この「スポーツ人間学」に,さらにどのような学を加え,スポーツ文化学の全体を構想するかは,これからの議論に委ねたいと思います。

 さて,最後にもう一度,スポーツ実践学にもどって,この稿のまとめをしておきたいとおもいます。

 スポーツを実践するのは,生身の生き物,すなわち自然存在である人間であると同時に,社会的なルールやマナーを身につけた文化的存在である人間でもあります。最初に書きましたように,この絶対的矛盾を内に秘めた人間がスポーツを実践すること,このことの意味はどこにあるのかということを明らかにしておきたいとおもいます。

 長くなっていますので,手短に結論部分だけを書いておきますと以下のとおりです。

 西田幾多郎のいう「絶対矛盾的自己同一」を実現すること,この一点にあります。人間の内なる動物性と,後天的に身につけることになる人間性とを「自己同一」させること。大相撲の世界では「心・技・体」ということがよく言われます。スポーツ実践においても同じです。日々の練習をとおして「技能」を高めていくこと,そのことによって「心」と「体」とが一つに結びつくことになります。トップ・アスリートとは,この理想を体現することができた人,と言っていいでしょう。このことは,生涯スポーツや学校体育についても同様です。

 これらの各論については,また,稿をあらためて論じてみたいとおもいます。それは,いま,展開していますシリーズ「スポーツ学」とはなにか,のなかで試みてみたいとおもいます。その一部は,すでに,論じておきましたので参照していただければ幸いです。

2014年10月24日金曜日

踊る中国人? 中国のスポーツ(斎藤淳子)。

 中国に関する情報はいろいろの意味でバイアスがかかっていて,わたしたちは真の中国の姿をとらえるのが困難です。中国の人びとの日常生活とスポーツの関係も,おいそれと信用できる情報はよほどのことがないかぎり不可能と言っていいでしょう。ですから,ぼんやりとしたイメージを勝手に作り上げて,想像するだけで精一杯です。

 そんな中にあって,この話は信用できそうだ,という記事に出会いましたので,紹介しておきたいと思います。情報源は『ひろばユニオン』(労働者学習センター刊,2014年10月号,P.49~51.)中国在住のライター・斎藤淳子さんの連載・中国便り(第7回)です。

 記事の内容は,実際に中国で暮らしながらの見聞を,ことし実施した中国国家体育総局の調査結果とを比較検討したものです。これなら条件付きではありますが,かなり信頼できるものだ,と確信しました。

 まずは,見出しにある「踊る中国人?」。こちらの情報は意外に多く,中国人は日常的によく踊る人たちだというイメージは多くの人が共有しているのではないか,と思います。かく申すわたしも,数少ない中国旅行での見聞にすぎませんが,「踊る中国人」という意味ではまったく同感です。早朝の公園や広場には,ごくふつうの家庭人と思われる人たちが大勢集まって,思い思いの集団をつくって踊りを楽しんでいます。その踊りも種々雑多で,言ってしまえば,なんでもありの踊りです。かなり本格的な伝統舞踊と思われるようなものから,エアロビックスのような踊り(体操?)もあれば,リーダーの即興を真似しているだけと思われるようなものもあります。しかも,みんながそろって同じように踊るのが目的ではなくて,自分が楽しいと思われる所作を即興で取り入れているのではないか,と思われる人の方が多いということです。

 こういう「踊る中国人」は,昼休みの公園にも現れます。こちらは勤め人らしき人たちが多いという印象です。つまり,中年の男女が多いということです。そして,さらに,夕食後と思われる夜の時間帯にも,多くの人びとが公園や繁華街の広場に集まってきて,大音響を鳴り響かせながら,見ず知らずの人びとをも巻き込んで踊りを楽しんでいます。年齢も若者たちから老人まで,なんの区別もありません。ですから,わたしたちのような外国人観光客が紛れ込んでもなんの違和感もなく,踊り楽しむことができます。

 ポイントは,ただひたすら,自分が楽しければいい,ということ。他人のまなざしなどはいっさい気にしないこと。むしろ,他人の注目を浴びるような独創的な踊りを即興で繰り出すこと,そして,拍手喝采を浴びることに主眼があるように思います。ですから,みんな熱中して踊っています。

 こんな光景に出会いますと,これは現代中国が生みだした独特の文化なのだろうか,と考えたりしています。とりわけ,改革開放後の・・・などと考えたりしています。この点については,もう少し,きちんと調べてみないと・・・と思っています。

 さて,思いがけず「踊り」の話に熱中してしまいましたが,つぎは「中国のスポーツ」です。こちらの情報は,わたしの蓄積してきた情報やイメージとはかなり異なっていて,驚きの発見でした。中国の「いま」を知る,とてもいい機会になりました。

 斎藤淳子さんのレポートによりますと,子どもたちがスポーツを楽しむ機会は日本とくらべるとはるかに少ない,といいます。子どもたちは,とにもかくにも「勉強」することが最優先。スポーツクラブに参加できるのは,特別の才能が見込まれた子どもたちだけ。大会で入賞できそうな子どもたちだけが集められ,その他の子どもたちはオフリミット。しかも,スポーツの成績が伸び悩むと,クラブから排除されてしまうという仕組みになっているそうです。かつての,スポーツ・エリート主義の残像がいまもまだ生きているという次第です。これはちょっと意外でした。

 学校体育の授業もあまり重視されてはおらず,試験が近づくと,体育の授業が国語や算数の授業に変更するのは当たり前のことだといいます。その結果,児童・生徒の体力は,日本にくらべるとかなり低いということです(05年の調査結果による)。たとえば,11歳の50m走の平均タイムは,日本は9.10秒,中国は9.50秒。0.4秒の差というのはかなり大きな差です。

 これではいけないという反省に立ち,95年には中国体育法を制定し,「全民健身計画」を作成して,いわゆる生涯スポーツへの第一歩を踏み出した,といいます。そして,00年からは高校入試に体育のテストが義務づけられたとのこと。

 こうした努力を積み重ねながら,一方では08年の北京オリンピックの成功をみ,09年には8月8日を「全国民フィットネスデー」と定め,遅ればせながら生涯スポーツの振興策にも着手しているとのことです。その影響でしょうか,都市部の若手会社員をターゲットにした「フィットネスクラブ」が急増している,といいます。しかも,低価格競争による大衆化の方向と同時に,エリートたちを対象にした高級フィットネスクラブの二極化が進んでいる,とも。

 それでも,クラブの年会費は,安い方でも年会費約1千元(約1万7千円),高い方では約6千元(約10万円)もするとのこと。平均すると,2~3千元(約3万4千円~5万1千円)くらいだといいます。わたしの感覚からすると,こんなに高い年会費を払って,フィットネスクラブに通う会社員が急増している,という実態が理解できません。ということは,台頭しつつある中国の市民社会の活力の高さについての認識を欠いているという証拠でもあります。

 ことほど左様に,日本のマスメディアが報ずる中国情報が,いかにいい加減なものでしかないか,ということを思い知らされてしまいます。そのために,多くの日本人は中国について誤解したままの状態から抜け出せないでいます。かく申すわたしも残念ながらそのひとりですが・・・・。

 中国はいまや活力にあふれた立派な大国です。

 斎藤淳子さんのこの連載・中国便りを読むだけでも,中国についての認識が一変してしまいます。わたしたちはもっと精確な中国情報を手に入れる努力をしなくてはなりません。そうしないと,とんでもない大きな間違いを犯しかねません。その典型例が「尖閣諸島」の一方的な国有化問題です。中国が「歴史に学べ」と大人の主張するのに対して,日本の対応はまるで子どもの主張のようにみえてきてしまいます。残念ながら・・・。

 中国のスポーツ情報については,別途,あらゆる手をつくして情報蒐集をし,じっくりと考えていく必要がある,と斎藤淳子さんのレポートを読んで,深く反省している次第です。

2014年9月4日木曜日

延長戦50回の「死闘」を経て得たもの,それは人間的成長,リスペクト,思いやりの心,そして生涯の宝物。

 延長戦50回を戦い抜いた崇徳高校と中京高校の選手たち,およびその選手たちを支えた関係者各位にこころからの敬意を表したいと思います。安易なポピュリストたちが,レベルの低い同情論を楯にしてなにかと難癖をつけていますが,かれらには延長戦50回の「死闘」を耐え抜くことの本質がなにもわかっていないだけのこと。

 今日(9月4日)の東京新聞朝刊一面に囲みの記事が載っていて,そうなんだよな,と独り言をいいながら涙しました。その記事は下のとおりです。


 中京高校に惜しくも負けてしまった崇徳高校のチームが,決勝戦には中京高校の応援に駆けつけ,「優勝だ」「頑張れ」と声援を送ってくれた,その光景が忘れられないと中京高校のキャプテン後藤敦也君。優勝が決まったあと,「かれらや広島のためになにができるか」と考え,募金を思いついたとのこと。そして,兵庫からの帰りのバスの中でチーム・メイトに提案をした,といいます。そして「みんな,同じことを考えていたと思う」,と。

 ここでもう,ぐっときてしまって,涙。監督が「人間としての成長を感じます」との談話で,また,涙。集めた義援金は崇徳高校をとおして被災地に送られる。後藤主将は「ライバルを超えた仲間」宛に手紙を書いて送る,という。ここでまた,仕上げの涙。

 いいなぁ,と独り言。高校野球は一戦,一戦,チャンピオンシップを目指して闘うたびに選手たちは見違えるほど成長する,とよく聞きます。それが,記録に残る50回もの延長戦を闘ったあとでは,まるで別人になっているはずです。このことの意味をしっかりと噛みしめるべきだと思います。これぞ,なによりの「教育」。

 これが,仮に,9回を闘ってあっさり勝負がついていたら,負けたチームのために「なにかしてあげたい」という気持は起こらなかったでしょう。しかし,50回もの延長戦を闘うと,もはや,勝ち負けを超越したお互いの「リスペクト」の感情が色濃く浮かび上がってくるのだ,と思います。つまり,そこにはチームとしての優劣はつけられない世界,あとは神頼みのような世界に限りなく接近していくのだろう,とわたしは考えています。

 これが「死闘」を経たのちに到達する世界なのだろう,と。自分たちの能力の限界を超え出てしまうような体験だけが,人間を神に近い世界に誘導するのだろう,と。こういう体験が高校生の意識を大きく変化させていきます。その結果が,相手チームに寄せる「リスペクト」であり,思いやりの心であり,やがて「贈与」へと行動を起こすことになるのでしょう。この変化はたいへんなものだと思います。「人間的成長」などという単純な表現では済まされない,密度の濃い,衝撃的なインパクトをもって選手たち一人ひとりに迫ってくる,スーパー・パワーではないかと思います。

 そして,この延長戦「50回」を闘い抜いた体験は一生の宝物となるでしょう。それはなにものにも替えがたい大事な,大事な宝物になるでしょう。そして,両校の選手たちは,この体験を誇りに思って,堂々と社会の王道を生きていくに違いありません。それが「死闘」ののちに授けられる,神さまからの贈り物です。

 崇徳,中京の両校の選手たちに心からのエールを送りたいと思います。久しぶりの涙が,わたしのこころのわだかまりまで綺麗に洗い流してくれました。この贈与にも感謝。

2014年1月3日金曜日

東洋大学,おみごと。チームワークの勝利。その秘密は?選手たちの「自立/自律」。

 どの大学にも強い選手はいる。が,その選手が期待どおりの活躍をするとは限らない。ときには,無名の選手が突如として快走することもある。だから,面白い。スポーツはやってみなければわからない。ある種の賭けなのだ。それは人生そのものでもある。

 人生が想定どおりのものだとしたら,なんと味気ないことか。生きる夢も希望もなくなってしまう。人生は生きてみなければわからない。スポーツもやってみなければわからない。駅伝も走ってみなければわからない。想定外のことが起きるから面白い。

 しかし,現代社会はこの「想定外」ということばをとことん忌み嫌う。なにからなにまで「想定」できるようにしようとする。人間の驕りである。その端的な例が原発だ。科学の力を過信して,技術的にコントロールできないことまで,「そのうちにできるようになる」と前倒しにして,原発をつくってしまった。まさに,人間の驕りである。とりわけ,科学の領域においては,「想定」できないことに手を出してはいけない。iPS細胞も危ない,とわたしは受け止めている。遺伝子組み替えも危ない,と考える。理由は,神の領域に人間が手を出してはいけない,と考えるからだ。

 その反面,神を祀る祝祭は,可能なかぎり「想定外」の要素を残しておくべきだ,とわたしは考える。スポーツは基本的に祝祭なのだから,あまり厳しく管理しない方がいい。もちろん,危険に関しては徹底した管理が必要であるが・・・・。

 と,ぼんやり箱根駅伝をテレビ観戦しながら考えていた。
 この二日間,箱根駅伝にどっぷり浸っていた。そして,ぼんやりとした頭で,ぼやーっと浮かんでくるものを,ほわーっとした気分のまま,いろいろと考えていた。とてもいい勉強になった。義理でやる勉強と違って,突然,ボコッ,となにかが立ち現れる。その妄想のようなものとつきあいながら,あれこれ空想してみる。それこそ,そこは「想定外」の宝庫である。だから,ものすごく面白い。

 それにしても,ことしの東洋大学はみごと。そうか,チームワークが駅伝の最大の要なのだ,とあらためて知った。激しいトレーニングをすれば強くなる,という科学神話をもののみごとに突き崩してくれた。そうではないのだ。走るのは人間なのだ。科学ではない。このもっとも基本的なことをいつかしら忘れてしまっている。

 東洋大学のまだ若い酒井俊幸監督は語る。
 出雲駅伝,大学選手権とつづけて駒沢大学に破れて第二位。箱根駅伝で駒沢大学に勝つためにはどうすればいいのか,と部員に問いかけた。そうして,部員全員(上級生も下級生も)がみんな対等の立場に立って,どうすれば強いチームをつくることができるか,と議論を積み上げた,その結果だ。お互いが忌憚のない意見を交わし合うことができるチーム,それを目指したら,みるみるうちにチームの雰囲気が変化してきた。そうして,アッ,これはいける,と直感した,と。

 つまり,部員全員を「自立」(自律)させようと考え,それを実行したこと。それに対して部員が応えたこと。上下の関係は大事だが,駅伝で実力を発揮できるチームをつくるための議論に遠慮はいらない。ましてや「自発的隷従」などというものはなんの役にも立たない。最後に走るのは選手個人だ。その選手が自立/自律していないことには,いい走りはできない。と,これはわたしの勝手な解釈である。

 つねに自分で自分のからだのコンディションをチェックし,からだの声に耳を傾けながら,いま,どういう走りが可能なのかを考え,決断し,実行する,そういうことを繰り返す能力,を養うこと。これが最優先課題なのだ。もちろん,試合の前には徹底したミーティングが行われ,お互いの意識を一つに共有することも行われるだろう。そして,レースがはじまれば,監督からの指示がとぶ,他チームの情報も知らせてくれる,ありとあらゆる情報が(たとえば,気温とか,風とか,あるいは,いまのランニングフォームとか)選手の耳に届けられる。しかし,それでも「いま,このとき」のからだの声を聞くことができるのは自分ひとりだ。

 最終的な決断を下し,「いま」どのような走りをするかは自分で決めるしかない。だから,どれだけ自立/自律しているかが問われることになる。このことを選手たちに気づかせ,徹底させるかは,とてもむつかしいことなのである。頭でわかることと,からだでわかることとは別だから。

 昨年の覇者・日体大の別府監督は「人は変われる」という名言を吐いた。そして,そのとおりの結果を出した。だから,いまでも頭ではわかっている。そして,その実績もある。が,毎年,そのようなチームがつくれるかというと,そうではない。チームは生きものなのだ。なにもかも想定どおりというわけにはいかない。だから,面白いのだ。こうして,レースの途中では,想定外の喜劇・悲劇のドラマが生まれるのだ。

 さて,来年も東洋大学は同じようなチームをつくりあげることができるだろうか。ことしの日体大のような例もある(もちろん,ことしもよく健闘して3位に入っているが,優勝ではない)。みんな,どのチームの監督だってわかっているはずだ。だが,それをどこまで詰めていき,どこまでいいチームに仕上げることができるか,こここそが名宰相たるものの腕次第。

 そこのところを,わたしはテレビ観戦しながら,楽しんでいる。来年も楽しみだ。

2014年1月2日木曜日

箱根駅伝・東洋大学往路優勝おめでとう。テレビの放映の仕方にひとこと。

 箱根駅伝は大好きなので,毎年,応援することにしている。とくに,これといって贔屓の大学があるわけではない。が,若者たちが一生懸命に走る姿は美しい。この箱根駅伝に向けて一年間,それぞれに精進を重ね,晴れの舞台に立つ。だから,選手たちの顔の表情も引き締まっていて,とてもいい。みんな,それぞれの可能性にかけて真剣勝負だ。

 その晴れの舞台で,初日の今日,往路で脚光を浴びたのは東洋大学チーム。一区でやや出遅れたが,二区で頑張り,三区で駒沢大学を逆転した。そのあと,四区,五区と頑張ってトップでゴール。その頑張りとチーム・ワークの良さに感動した。これはチームの裏方もふくめた全員の勝利だ。そういうチームの輪(和)があってこその結果だ。そのうちのどれかひとつ欠けても,この結果は得られない。駅伝とはそういうスポーツなのだ。

 たまたま,昨年11月末に開催されたスポーツ史学会大会の会場が東洋大学(朝霞キャンパス)だったので,あのキャンパスで学んでいる学生さんたちが走っているんだ,と密かに親しみを覚えながら応援をしていた。強豪・駒沢大学もよく頑張った。しかし,わずかに59秒,及ばなかった。5人の選手が東京から箱根まで,100㎞余を走ってつないで,たった59秒の差で明暗を分けた。復路に,充分期待をもてる僅差だ。さあ,明日の両大学のデッドヒートを楽しみにしよう。

 今日も多くの感動をテレビ観戦していていただいた。そのテレビに対して苦情を言うのはいささか気がひけるが,ここは言っておかなくてはなるまい。もっともっといい放映をしてもらうためにも。そして,箱根駅伝とはなにか,スポーツとはなにか,ということをテレビ放映チームに理解してもらうためにも。

 それはいまにはじまったことではないが,一つは,コマーシャルの流し方だ。今日,とくに酷かったのは,東洋大学と駒沢大学がゴールした直後に,東洋大学の監督・選手へのインタヴューがはじまったと思ったら,その途中でコマーシャル。そして,かなり長いコマーシャルが流れてからの,再インタヴュー。選手たちはその間,雛壇に立たされ,待ちぼうけ。再び映し出された選手たちの顔は,もう,感動もどこかに消え失せ,うんざり,いい加減にしてくれと言わぬばかりの表情が剥き出しになっていた。応答もどうでもい,と言わぬばかりのものだった。なんと冷めた選手たちなのだろうかと思った人もいたのではないかと思う。しかし,これは選手たちに責任はない。わけてもインタヴューしたアナウンサーの問いかけも,気の抜けたものばかりだった。選手たちにとってはどうでもいい問いかけばかり。もっと核心をつく問いを発すれば,選手たちの顔にも精気がよみがえってきたはずだ。すべては,テレビ局のディレクターの責任だ。

 ゴール直後の優勝チームの感動を伝えようとした企画であることはよくわかる。ならば,なぜ,その途中にコマーシャルを挟んだのか。しかも,長々と。テレビ観戦していたわたしですら,いま,このタイミングでコマーシャルはないだろう,と心底腹を立てていた。東洋大学,駒沢大学につづいて,その他の大学が,ゴール前のデッドヒートを繰り広げている真っ最中だ。まさに死力を尽くして,アンカーたちがチームの命運を賭けて頑張っているのだ。そんな,駅伝にとって一番大事なときに「コマーシャル」。箱根駅伝を冒涜している。

 たぶん,スポンサーやディレクターたちは,もっとも効果のあるコマーシャル・タイムだと信じて疑わないだろうが,そうではない。わたしなどは,あまりの腹立たしさに,さっさとチャンネルを切り換えて他局を覗き見しては,また,もどってくる,を繰り返していた。その間の長いこと。これにも驚いた。したがって,この間,どんなコマーシャルが流れていたのか,なにも知らない。いいたいことは「無駄だ」ということ。しかも,駅伝を台無しにしているということ。

 その間,インタヴューも聞きたい,そして,まだ,ゴールしていない大学がどこを,どのように走っているのか,をこそ知りたい。コマーシャルなどはとんでもない。

 それから,もう一点。東洋大学の選手たちはみんな一丸となって,よく走った。素晴らしかった。にもかかわらず,何回も何回も,そして,ニュースでも,報じられたのは「双子の設楽兄弟の力走」だった。たしかに設楽兄弟の活躍はみごとだった。しかし,この兄弟の力走を際立たせたのは,一区の選手が手堅くまとめた走りをしたこと,そして二区で成長著しい選手がその役割をきちんと果たしたこと,さらには四区の死力を尽くしてのあの力走があったからだ。その選手たちに支えられて,はじめて設楽兄弟の快走が生まれたのだ。その事実をないがしろにしてはならない。

 テレビ局のディレクターやプロデューサーたちの,箱根駅伝というものに対する認識の甘さが,こういうところに露呈してくる。とりわけ,スポーツとはなにか,という根源的な問いが欠落している。安易に「ヒーロー」を見つけ出して,それを強調すればこと足れり,と思っているらしい。そうすれば視聴率がとれる,その採算がかれらの第一の課題なのだ。だから,そのためには駅伝を成り立たせている影の部分などはどうでもいいのである。目立つところ,もっとも分かりやすい感動だけを演出すればそれでいいのだ。その結果が,勝利至上主義。勝った,負けた,それだけの娯楽に成り下がっていてもかられは平気なのだ。

 もちろん,それだけでも人は感動する。しかし,それが駅伝(スポーツ)だと多くの視聴者は思い込んでしまう。そうして,もっともっと豊穣な文化であるはずの駅伝(スポーツ)が,単なる勝ち負けだけの,やせ細った文化に成り果ててしまう。そういうものを,わたしたちは今日も箱根駅伝をとおして,一方的に押しつけられてしまったのだ。こんなことの繰り返し。この点については,わたしは大いに失望した。

 限られた時間のなかで,なにを,どのように伝えるのか,はとても難しいことだ。だからといって安易な方向に流されて欲しくない。きちんと考えればできるはずだ。そのために必要なことは「思想」だ。スポーツ・ジャーナリストに,いま,もっとも必要なのは「思想」だ。人が生きるということとスポーツはどのようにかかわっているのか,そのことを考える気概が必要なのだ。すなわち,スポーツを批評する精神。スポーツ批評。

 このことは,ことしも繰り返し考えていきたいと思っている。
 とりあえず,今日のところはここまで。

 スポーツに「思想」を。
 

2013年10月1日火曜日

カール・ルイスが10秒を切ったとき,ぼくに衝撃が走った。為末大,談。

 鷺沼の事務所で原稿を書いていたら,途中で集中力が途切れてしまい,いつものようにコーヒーを淹れながらラジオを聞いていました。もちろん,81.3(エイトワン・ポイント・スリーのテーマ・ソングがさまざまなヴァリエーションで流れてきて,わたしは大好きだ)のJウェーブ。今日(10月1日)の午後3時30分ころに,突然,まったく突然に,為末大さんの談話(録音)が流れてきました。

 そういえば,このところ為末大さんの露出度が目立つなぁ,と思っていたところでしたので,それとなく耳を傾けていました。元400mハードルの銅メダリストとして一躍有名になったかつての名選手,経済に詳しい(株が趣味とか),本も書く,ITに詳しい,まんが・アニメ大好き,テクノ・サイエンスに詳しい,という程度にはわたしも知っていました。これまでにない少し変わった元陸上競技の選手,そして,タレント性もあり,意外に知性が高い人というのも,なんとなく承知していました。

 が,今日の談話を聞いて,アッと驚きました。もちろん,編集がしてあって,一番いいところだけを抜き出して流したようです。が,それにしても,ムッ,この人は?と考え込んでしまいました。やはり,トップ・アスリートと呼ばれる人たちの何人かはわれわれ凡人とはまったく違う別世界を生きているんだ,ということを再確認させられました。

 今日の談話のポイントをわたしなりに,記憶を頼りに,書き出してみますと以下のとおり。 

 銅メダルをとったときのレースは,いまでも忘れることができません。いつもの自分とはまったく違う別人の自分が立ち現れて,まるで弾けるようにしてレースがはじまりました。自分でもびっくりするような走りが,いつまでもつづくのです。いったい,自分は,いま,なにをしているのだろうか,と思うほどに驚きました。そうしたら,やはり,驚くべき記録がでていたのです。その結果が銅メダルでした。

 レース後に一番驚いたのは自分です。感動に打ち震えていました。いったい,なにが起きたのだろうか,と。そのうちに,観衆にも,わたしの感動が伝わっていくのがわかりました。多くの人が感動して声援を送ってくれるのもわかりました。やはり,選手が感動するような走りをすれば,それはおのずから見ている人には伝わるものなんだ,と理解しました。

 このときの感動とともに,わたしの過去の記憶がよみがえってきました。それは,カール・ルイスが100mで初めて10秒の壁を破ったときの走りです。ぼくは,その走りをみていて,記録以上の衝撃を受けました。その走りは,もはや,人間のそれではありませんでした。まったくの別世界の走りでした。こういう走りがしてみたい,そのときのぼくは感動に打ち震えながら,強く熱望しました。それからのわたしの陸上競技生活の質ががらりと変わりました。無我夢中で練習に励みました。もちろん,いろいろに創意工夫をしながら・・・。

 人間は自分を超え出るときがあります。このときの感動は口では言い表せません。それほどの感動です。だから,その感動は見ている人にも伝わるのだと思います。スポーツの素晴らしさはここにある,と考えています。

 こんな為末大さんの談話を聞きながら,そういえば,大相撲の力士・遠藤も似たようなことを言っていたなぁ,と思い出していました。

 遠藤は9勝を挙げながら,左足首の捻挫で惜しくも休場してしまいましたが,かれも面白いことを語っていたのを記憶しています。それは,父親に薦められて,小さいときから相撲をやっていましたが,それほど好きにはなれず,途中で何回も相撲は止めたいと思っていました。ですから,途中で,パスケットボール部に入ったりしていました。が,あるとき,朝青龍の相撲をみて,こんなに面白い相撲があると知り,以後は,迷うことなく相撲の道をまっしぐらでした。もし,朝青龍というような名力士がいなかったら,いまのわたしはいなかったと思います。

 つまり,為末大さんはカール・ルイスの走りをみて,そして,力士・遠藤は朝青龍の相撲をみて,本気でその道に入った,と言っています。この人間業とは思えないような,まるで神の降臨に出会うような,潜在的なるものが顕在化するその瞬間(蓮實重彦)に立ち会うと,人間はまるでなにかに触れたように奮い立ちます。そうして,普通ではない,ある種の狂気の世界に入っていきます。この狂気が,じつは,偉大なる仕事をなしとげるには必要不可欠なことなのです。

 もちろん,ここでいう狂気には,大きなものから小さなものまで千差万別,さまざまなものがあります。だから,人は,それぞれのレベルに合った狂気に反応し,それを受け止め,それなりに人生を切り開いていくことになります。その世界は,いいとか,悪いとかの世界とは無縁です。もはや,だれも止めようのない,純粋無垢の世界です。

 為末大さんの,ラジオの談話を聞いて,わたしもまた新しいなにかに触れたように思います。あるいは,これまで考えつづけてきたことが,一気に弾けたということかも知れません。もっともっと,みずからの感性を信じるべきではないか,と。そういう生き方こそが,真に生きるということの内実ではないか,と。スポーツを考えるということは,生きることの意味を考えることだ,と。

 ああ,なんとも,久しぶりの至福のときでした。
 

2013年9月28日土曜日

岩波の雑誌『世界』に原稿を書きました。東京五輪招致をめぐる問題系について考えてみました。

 このブログで,しつこく東京五輪招致運動をめぐる不満を書きつづけていたら,岩波の雑誌『世界』の編集者の目にとまり,原稿依頼がありました。いろいろの予定がびっしり詰まっているときでしたので,ほとんど時間がとれないまま,大急ぎで書きなぐって送りました。

 そうしたら,枚数オーバーになるので,この話はやめておこうと思ってカットしたところを,ピン・ポイントで「これこれの内容のものがほしい」とみごとに指摘されてしまいました。さすがに切れ味鋭い編集者はすごいなぁ,と感心してしまいました。追加分の字数は「650字」でした。

 しかし,いざ,書こうとしてパソコンに向かったら,わたしの頭の中では「6枚半」(400字)に切り替わっていて,せっせと書きつらねていました。書き終わって,やれやれと思ったら,なんと「650字」だったという記憶がよみがえり,唖然としてしまいました。まあ,いいや,ひとまずこのままの原稿を担当編集者に送信して,「なんとか圧縮して,指定枚数に収める努力をします」と書き加えておきました。すると,この追加部分が欲しかったので,このままでページ数を増やします,という返信。思わず飛び上がって喜びました。

 よしっ,これでいい,と。この追加分が入ることによって,ちょうど,全体のバランスがよくなる。もし,あちこち圧縮するとなると,話がややこしくなってしまう・・・と危惧していたからです。このままが一番いい。それがわかってくれる担当編集者はすごい,と二度びっくり。その日の夜はすっかり安心して,熟睡することができました。

 いまはもう,最終ゲラのチェックも終わり,あとは,10月8日発売を待つのみとなりました。

 この原稿の下書き段階でチェックを入れてもらった友人たちも,とても面白い,と言ってくれていますので(しかも,追加原稿のない段階で),ぜひ,書店で手にしてみてください。

 書いた内容は,ブログで書いたことの焼き直しはいやでしたので,少しだけ視点をずらして,『世界』の読者に読んでもらえるように頑張りました。タイトルは「オリンピックはマネーゲームのアリーナか」──「魂ふり」から「商品」へ 変転するスポーツ,です。メイン・タイトルはわたしのつけたもの,サブ・タイトルは編集者の工夫。なるほど,このサブ・タイトルのつけ方もうまいものだ,とわたしが感心。いい編集者に出会うと,駄目な原稿も一味違ったものに化けてくれます。まことにもって,ありがたいかぎりです。

 タイトルと,わたしがこのブログで書いてきたこととを重ね合わせれば,だいたいは推測していただけるのではないかと思います。オリンピック憲章からアマチュア規定が消えたあたりから,アスリートたちの金融化が急速に進み,同時に,IOC会長がサマランチに代わったあたりから,オリンピックもまたマネーゲームに狂奔することになり,もはやオリンピック・ムーブメントの理想はどこかに消えてしまったのではないか,という趣旨のことを書きました。

 そして,担当編集者の求めた「スポーツとはなにか,オリンピックとはなにか」を書き足しました。短い文章のなかに,わたしの言いたいことを凝縮して書いておきました。もし,まったく新しい思考を見いだすことができるとすれば,この部分です。この部分は,長年かけてジョルジュ・バタイユを読み込んできた,その成果(精華)がようやく実ったところでもあります。

 スポーツの感動は「魂ふり」にある。アスリートたちはもとより,それを見ているわたしたちをも「魂ふり」を体験させる源泉は,サルがヒトに,そして,ヒトが人間にと進化してくる過程で,失ってきた動物性に「触れる」ところにある。そのためには,近代的合理主義や理性中心主義(科学的合理主義)から離脱して,マルセル・モースのいう「贈与」(ポトラッチ)を可能とする世界へと移行することが必要である。そのことが無意識のうちにできるアスリートとサポーターが出会うとき,至福のとき,すなわち「魂ふり」=「感動」に出会うことができる。100mのウサイン・ボルトや大相撲の朝青龍はそういう存在であった。だから,この人たちが絶好調で,最高のパフォーマンスを実現したときには,じつに多くの人が「魂ふり」に遭遇し,「感動」に打ち震えることになる。

 この「魂ふり」,すなわち「感動」の場であるはずのスポーツや,オリンピックを金融化してしまい,切り売りをはじめるとき(サマランチ会長以後,とみに顕著),もはやそれはスポーツでも,オリンピックでもなくなってしまう。もはや,オリンピックのミッションは終わった,としかいいようがない。だから,東京五輪開催を機会に,スポーツとはなにか,オリンピックとはなにか,原点に立ち返って,みんなで智恵を出し合うことを願ってやまない。

 同時に,東京五輪開催によって,いま,日本が抱え込んでいる非常事態=フクシマを筆頭に,難題が山積しているその実態が隠蔽されることを危惧する,と。以下,省略。

 というようなことを縷々,書きつらねてみました。
 どうぞ,10月8日には書店に並ぶことになっていますので,『世界』11月号を手にとってご覧になってください。

 なお,マルセル・モースやジョルジュ・バタイユについては,このブログでも扱っていますので,以前からの読者にはすでにおなじみの話になっているはずです。詳しくは,検索をかけて調べてみてください。とりわけ,バタイユについては,膨大な論考を積み上げてきていますので,ぜひ,参照してみてください。さらには,『スポートロジイ』(みやび出版,創刊号・2012年,第2号・2013年)にもブログからの転載したものがありますので,ご確認ください。

 とりあえず,今日のところは,ここまで。

2013年9月26日木曜日

『フロイトの「セックステニス」──性衝動とスポーツ』(テオドール・サレツキー編,福原泰平・大川恵里訳,青土社,1990年)を再読。

 大量の蔵書を「T文庫」に寄贈するにあたって,どうしても手元に置いておきたい本だけを選別する作業をしました。そのときにでてきた(長い間,探していたのですが,どうしても見つからなかった)本の一つがこの本でした。いまから23年前に刊行されて,すぐに購入した本でした。

 当時から,この本に大きな衝撃を受けていたのですが,それをどのように表現したらいいのか,その思考の再構築に悩まされていました。あれから20年余,わたしの読解力がかなり向上したことを実感しました。久しぶりに再読してみて,この本は人間のとんでもない深淵にフロイトが分け入っていったさきに見える心象風景を,正直に,そのまま,断片的に書き残したものである,ということがよくわかりました。

 フロイトがテニスの熱烈な愛好者であったということはよく知られているとおりです。早朝の7時にはテニス・コートに立っていた,などという逸話すら残っているほどです。しかも,相当の腕前であったともいわれています。そのかれが,テニスをとおして性衝動との関係に着目し,精神分析の洞察を深めていき,それらを論文にして残したとしてもなんの不思議もありません。しかも,その数はなんと59本もあったといいます(巻末に年表風にまとめた「ジークムント・フロイトのテニス分析論文」による。P.208~213.)。

 が,このテクストに収録されたフロイトの論考は,ノートに書き残されたまま秘匿されていた,とのことです(編者の序文による)。そこには,つぎのように書かれています。
 「1980年春,私は古いかびの生えたトランクを,サザビーズのジークムント・フロイト記念オークションで買った。家に帰り,トランクの中身を綿密に調べ始めた時,『ジークムント・フロイト テニス著作集大要』(1938年)と題された,フロイト自筆の黄ばんでぼろぼろになった原稿を見付けて驚いた。」

 そして,その原稿の書き出しが引用されています。そのまま書き写してみます。
 「以下の記述は,どうであれセックスは素晴らしいものだが,テニスはもっと長く出来るものだ,という私の理論を追求する試みである。私は最近の精神分析的な思考傾向を考える時,ごく少数の仲間以外に誰がこの文章を読んでくれるだろうかと疑いたくなる。ただ時だけが真実を語ってくれるだろう・・・・・」。(P.14.)

 また,この序文の冒頭にはフロイトのつぎのような箴言が引かれています。
 「テニス本能理論によって露わになった真実は,危険と挑発に満ち,永遠に隠蔽されるべきものだろう・・・・。──S.フロイト 1938年」(P.13.)

 また,さらに表紙扉にはつぎのような箴言が掲げられています。
 「人類が誇る文化財,精神的価値,その他それに類するものすべては,
 根底にある本能的衝動の昇華されたものに過ぎない。
 性とテニスは,その最も基本的なものである。
        ──S.フロイト 1923年」

 こんな箴言が随所に散りばめられた,みごとなテクストになっています。その意味では読み始めたらもう止まりません。一気に,最後までいくことになります。

 とりわけ,わたしには「セックスはスポーツである」という長年のテーゼがあります。もっと言ってしまえば,「セックスこそスポーツの始原を構成する原形(Urformen)である」というテーゼをもっています。このテーゼを,どのようにして説得力のあるものにすればいいのだろうか,と長年,考えつづけてきました。その試みの一つが,ジョルジュ・バタイユ読解(『宗教の理論』『呪われた部分 有用性の限界』)でした。そこから導き出された結論の一つは「スポーツは動物性への回帰願望の表出である」というものでした。

  ですから,この到達点に立って,このテクストを再読してみますと,「テニスはセックスそのものだ」というフロイトの主張が随所にでてきて,こころの底から共振・共鳴します。そして,それをもののみごとに精神分析的手法で解きあかしてくれます。これは,やはり,ドイツ語版を手に入れて,しっかり読み込んでみる必要がありそうです。

 なぜなら,このテクストは,ドイツ語で書かれたフロイトの手書き原稿を英語に翻訳して出版されたものを,さらに日本語に翻訳したものですので,日本語に無理があってとても読みにくい部分が少なくありません。やはり,肝腎なところは原文にあたってみる必要があります。

 いずれにしても,このテクストはわたしのテーゼを補強してくれる強い味方であることに間違いはありません。その意味で,とても重要です。

 なお,このテクストは,二部構成になっています。一部では,編者の解説風のまとめ「ジークムント・フロイトの秘められた脅迫観念 テニス本能理論の進化と発展」があって,二部が「ジークムント・フロイトの秘匿したノートの断片と注釈」となっています。当然のことながら,面白いのは「二部」です。そこには編者による「注釈」がついていて,これがとても役に立つ部分と,逆にテニス史からみるとどうかと首を傾げたくなる部分とが混交しています。そこは,読み手がしっかりと腑分けしていく必要があるようです。

 ただ,この注釈のなかには,つぎのような指摘もあって,興味はつきません。
 カール・ユングとフロイトの離別
 ユングはフロイトの夢理論に興味を持ちウィーンでフロイトと劇的な対面をする。その後,フロイトの寵愛を一身に受け1911年,国際精神分析学会の初代会長となる。しかしフロイトの性愛理論やエディプス・コンプレックスの定式化などに反対,1913年には袂を分かっている。

 この指摘は,いまのわたしにはとてもありがたいものでした。それは,ユンク理解を深めることができたばかりではなく,フロイトの目指していた人間洞察の方向性が,バタイユ的思考に引き継がれ,さらには,ドグマ人類学のピエール・ルジャンドル的思考に継承されている,と考えられるからです。このあたりのことは,一度,詳しく考えてみたいと思います。

 そのためのヒントをこのテクストはふんだんに含んでいるという点で,これからも重視していきたいと思います。この奇書に乾杯!というところで,今日はおしまい。

2013年1月23日水曜日

神戸市外国語大学の最終講演の日が迫ってくる。緊張の日々。

 神戸市外国語大学はとてもいい大学である。第一に,キャンパスのロケーションがいい。高台にあって空気がきれいでおいしい。背後には山があって,その山をかき分けて少し登れば素晴らしい眺望を楽しむこともできる。そこには古代の古墳もある。それでいて,最寄りの駅から徒歩1分。こじんまりとしたキャンパスはアットホームな雰囲気があって,学生さんたちも楽しそうだ。だから,たまにしか訪れないわたしなどにもとても居心地がいい。

 そんな神戸市外国語大学が,こんどの3月26日で満75歳を迎えるわたしを客員教授として3年間も雇ってくださった。ありがたい(=ありえない)ことである。最初の2年間は,集中講義で,学生さんたちと楽しく過ごさせてもらった。そして,最後の3年目は年に4回の講演をすることになった。これは学生さんだけではなく神戸市民にも公開で行われる。その最後の,第4回目の講演がこんどの金曜日(1月25日)に迫ってきている。いつもにもまして,早くも緊張が高まっている。やはり,有終の美を飾りたいと思うから。

 連続で4回の講演をさせていただけるということなので,ならば,通しテーマを立てて,一貫した話の組み立てにしようと考えた。通しテーマは「スポーツとはなにか」。じつは,このテーマはわたしが大学に入って,卒論を書くための研究室を決めるときから,わたしの中にはっきりと意識しはじめていたものである。「スポーツとはなにか」。この謎解きをするために,わたしは,まずは「歴史的」な観点から取り組んでみようと考えた。その結果が,恩師岸野雄三先生との出会いとなり,こんにちのわたしをあらしめてくださった。もう,かれこれ55年になんなんとしている。この間,ずっと「スポーツとはなにか」とわたしは自問自答してきた。長い長いトンネルだった。

 「スポーツとはなにか」。終わりのない問いでもあった。しかし,つい最近になって,ようやく「スポーツとはなにか」のわたしなりの「解」がみえてきた。よし,これを4回に分けて話をしてみよう,と決断。そして,講演が無事に終わったら,その内容を単行本にまとめてみよう,と。だから,最初から,かなりの気合が入っている。その最終回がこんどの25日(金)というわけである。だから,緊張感も一入である。

 ありがたいことに,「スポーツとはなにか」というタイトルの単行本企画も,引き受けてくれる出版社も,すでに決まっている。だから,なおのこと,こんどの最終講演には気合が入る。どのように展開して,どのように落とそうか,智慧の出しどころである。

 4回の連続講演のテーマは以下のとおりである。
 第一回目:スポーツのルーツ(始原)について考える。
 第二回目:伝統スポーツの存在理由について考える。
 第三回目:グローバル・スタンダードとしての近代スポーツについて考える。
 第四回目:21世紀を生きるわたしたちのスポーツについて考える。

 こうしてテーマを書きつらねてみると,いつのまにか,スポーツ史を語っていることがわかる。伝統的なアカデミズムに則れば,みごとに「古代」「中世」「近代」「現代」の4時代区分でテーマがかかげられている。しかし,わたしの意識としては,第一回目と第二回目は「前近代」,第三回目が「近代」,そして第四回目が「後近代」,というわたしの発想にもとづく3時代区分である。この時代区分にこだわり,提唱している理由は,あくまでも,「近代」という時代がいかに特異・特殊な時代であったかということをクローズアップさせることにある。

 わたしたちは,ようやくにして,「近代」という時代の奇怪しさに気づきはじめ,この時代がいまや臨界点に達しているという,つまりは,極限状態だということを認識しはじめている。となれば,この「近代」という時代をどのようにして超克していくのか,が問われていることになる。「近代」の極限状態とは,すなわち,スポーツの領域に持ち込めば,「近代スポーツ競技」の臨界点ということだ。この「近代スポーツ競技」がいま,どのような情況に追い込まれているのかということを突き詰めて考えていけば,つぎなる「後近代」への突破口がみえてくる。

 それも,スポーツのルーツを問い返し,伝統スポーツの存在理由を考えることによって,近代スポーツ競技が陥った隘路が浮き彫りにされ,やがては21世紀のスポーツ文化が,おのずからその姿をみせはじめる,というのがわたしのいま考えていることである。これを,こんどの講演会で論じてみたいと思う。


2012年11月13日火曜日

城南総合研究所調査報告書 No.1.をもらってきました。

 今朝(12日),城南信用金庫に立ち寄って「城南総合研究所調査報告書 No.1.」をもらってきました。いつも鷺沼の事務所に行くときに通る道筋にありますので,ちょっと立ち寄っただけです。もちろん,とても親切に対応してくれて,「今朝の便でとどいたばかりです」とすぐに渡してくれました。「いつも,応援してますよ」と声をかけたら,にっこり笑顔で「ありがとうございます」と元気のいい声がかえってきました。たったこれだけの会話でしたが,気持が明るくなり,とても元気がでるものです。

 気分爽快でしたので,事務所に到着してすぐに読みました。A4サイズで4ページ。まあ,リーフレットのようなものですが,大事なことが,わかりやすい文章で書いてありました。問題のポイントを,だれが読んでもすぐにわかるように,上手に説明しています。いっそのこと,全文を転載したいところですが,それはやめておきましょう。これまで,わたしがこのブログで書いてきたことと,ほとんど同じ論旨になっていますので,書かなくてもわかっていただけると思うからです。

 その代わりにといってはなんですが,城南総合研究所名誉所長・加藤寛(慶応義塾大学名誉教授)の挨拶文が掲載されていて,それがとても簡潔で,秀逸だと思いますので,こちらを全文,転載させていただきます。それは以下のとおりです。

 ただちに原発をゼロに!
 国民の手に安全な電気を取り戻し,日本経済の活性化を実現しましょう!!

 原発はあまりに危険であり,コストが高い。ただちにゼロにすべきです。原発がなくても日本経済は問題ないことは今年の原発ゼロですでに実証されています。火力発電だけで電力は十分に供給可能です。
 燃料費がかかると言いますが日本の経常収支は黒字です。仮に赤字になっても,為替レートで収支は調整されるので全く問題ないのです。それに為替レートが円安になれば国内企業にとっては輸出競争力が高まり,かえって経済の活性化につながるのです。
 松永安左エ門のつくった9電力体制は,地域分割で独占の弊害を是正しようとしたものですが,今では,政府と癒着し,利用者,国民を無視し,さらに原子力ムラという巨大な利権団体をつくってマスコミ,そして国家をあやつるなど,独占の弊害が明らかになっています。これを公共選択論という経済学では,レントシーキング(たかり行為)といいます。かつての国鉄は,独占を排除し分割民営化により,利用者や国民を向いた経営に転換しました。
 太陽光や風力,地熱,バイオマスなどの発電技術,LED,エコキュート,スマートグリッドなどの節電技術,さらには蓄電池などの技術などにより,電力の技術革新も急速に進み,地産地消や水素を用いた新たな配送方法が発達することが予想されます。こうした技術革新の中で,そもそも,原発に依存したこれまでの巨大電力会社体制も,近い将来は,時代遅れになり,恐竜のように消滅するでしょう。
 このまま「古い電力である」原発を再稼働しても,決して日本経済は活性化しません。むしろ脱原発に舵を切れば経済の拡大要因になります。中小企業などものづくり企業の活躍の機会が増えます。新しい時代の展望が開ければ新しい経済が生まれます。脱原発は新産業の幕開けをもたらし景気や雇用の拡大になります。経団連が雇用減少といいますが,むしろ脱原発は雇用拡大につながるのです。
 その意味でも,ただちに原発をゼロにすべきです。そしてかつての国鉄改革のように,電力の独占体制にメスを入れて,発送配電分離はもちろん,官庁の許認可に頼らない,真の自由化を実現し,国民の手に安全な電気を取り戻し,日本経済の活性化を実現しましょう。

 以上が名誉所長・加藤寛氏の挨拶文です。もはや,なんのコメントも必要としないみごとな論旨の展開です。こういうコンセプトのもとで,城南総合研究所が,これから個別のテーマに沿って,調査研究に取組み,報告書をまとめていくというのですから,とても楽しみです。大いに期待したいと思います。

 なお,この調査報告書の内容は,城南信用金庫のHPを開いていけば,読むことができると思いますので,ご確認ください。

 いつもの繰り言になりますが,政府の世論調査でも「原発ゼロ」が80%を越えているというのに,政府も官僚も財界も学界もメディアも,足並み揃えて「無視」しようとしています。これが日本の民主主義の実態です。エリート集団であるはずの,この人たちの「理性」はいまや完全に「狂気」と化しているとしかいいようがありません。しかも,この狂った人たちの考えが野放しにされたまま,しかも主流を形成しつつある,まさにいま,「選挙」が行われようとしています。いまこそ,わたしたちが目覚めなくてはなりません。そして,なにがなんでも,狂ってしまった人たちの「理性」を糾すための選挙にしなくてはなりません。関が原の戦いは,すでに火蓋を切って落とされました。これから問われるのは,わたしたち一人ひとりの曇りなき「魂の欲求」の要請にこたえる「理性」です。

 それも簡単なことです。命を守ることを最優先にする考え方に立つこと。つまり,生きることの基本を取り戻すこと。ここからのやり直ししかありません。

 この「生きる」人間にとって「スポーツとはなにか」,これを考えることがわたしのスタンスです。ようやく,その道すじも朧げながら見えてきました。これらはすべて一つの「根」に立ち返っていくように思います。原発の問題はそのことを,わたしたちに強く訴えているように思います。



2012年11月4日日曜日

浅田真央ちゃん,町田樹君,GP優勝おめでとう!でもね・・・?

 昨夜とその前夜と二晩つづけてフィギュアスケート・中国杯をテレビ観戦してしまいました。ちょっとだけ見て,すぐに切り上げるつもりでしたが,そうはいきませんでした。もともと,フィギュアスケートをみるのは大好きでしたから,見はじめたらもういけません。むかし,体操競技をやっていたこともあり,同じ採点競技という点で,いま考えなくてはならない問題を共有していることもあります。それは,太極拳競技の採点方法とも共通していて,こんな採点方法でいいのだろうか,とつねづね考えていることもありました。

 それはともかくとして,久しぶりに浅田真央ちゃん(もう立派な大人だから「ちゃん」では失礼か,でもむかしからのファンはやはり「ちゃん」と呼びたい)の笑顔がよみがえり,テレビの画面がいっそう明るくなりました。昨夜のフリーの後半では,じつに楽しそうに笑顔もこぼれながらの演技で,すっかり楽しませてもらいました。そして,大人のスケートを感じました。これまでのようないっぱいいっぱいの滑りではなく,ちょっと抑えぎみの演技でしたが,そこに大きな余裕が生まれ,みていて気持ちよく,これぞフィギュアだと思いました。スケーティングが上手な証拠。

 男子の町田樹君も優勝,おめでとう。あのあこがれの高橋選手を逆転しての優勝ですから,悦びも一入というところでしょう。羽生君という新人も現れ,若手選手の台頭は眼を見張るものがあります。町田君のスケートは,とても折り目正しい,きちんとメリハリの効いた,いかにも若者らしい演技だったと思います。いま持てる実力を本番できちんと発揮できる精神力の強さも立派です。これでファイナル出場権を獲得したわけですので,これからは,いまのスケートにもっともっと磨きをかけて,高橋選手の絶好調のときのスケートに挑戦しましょう。

 ショートプログラムが終わってトップに立った高橋選手は余裕で優勝するだろうと思っていたら,そうはいきませんでした。練習不足で不調だったとは,終わってからの話。それ以前に,これだけの選手でも大事な試合で「自滅」するのだということを見せつけられたことが,とても印象に残りました。この点は体操競技と同じ。勝ちを意識したり,演技を計算するようになると,とたんに乱れが生じ,自滅するということがよく起こります。どこまでも無欲で,無心でいなければなりません。これだけの実績をもっている選手でもそうなんですから,フィギュアスケートという競技もたいへんな世界だなぁ,と想像しています。

 第二位になったとはいえ,高橋選手のスケートのうまさは健在でした。スケーティングの技術,表現力,ステップのうまさは抜群のものがあります。他の選手の追随を許さぬ,まさに,別次元の世界を楽しんでいるようにも見受けられました。高橋選手よ,焦ることはない。ゆっくりと,いまのプログラムに磨きをかけていって,最後に笑えるように努力してください。必ず,そこに到達することができる,とこれまでの高橋選手をみていて思います。あの大きな怪我から立ち直った精神力の持ち主ですから。

 最後にひとこと。フィギュアスケートの放映をみていての不思議。単純に言ってしまえば,ジャンプを成功させるかどうか,それだけが勝敗の行方を決めているようにみえることです。そして,なにが,どのように採点されているのか,さっぱり分からないまま,ただ,ひたすらジャンプのシーンだけを見つめつづける(会場の観衆もそういう反応をしていた),そういう競技のようにみえてしまいます。しかし,解説者がときおり発している「技術点」とか「構成点」とか「工夫」とかの内容が,わたしにはよく分かりません。

 熱心なファンは分かるのだろうかと思いながら,フィギュアスケートの「採点方法」を全日本スケート連盟の公式ホームページで調べてみました。これがまたとてつもなく複雑で,一回や二回読んだくらいではとてもとても理解できるようなものではありません。要点をノートにとって整理してみようと思いましたが,途中で投げ出しました。体操競技の採点方法の複雑さを承知していますので,ある程度は覚悟していましたが,それに勝るとも劣るものではありませんでした。それは,まさに,伏魔殿のような仕掛けになっています。

 その結果,みえてきたことはなにかといえば,以下のようなことです。
 会場にいる審判も,選手も,監督・コーチも,観客も,そして報道関係者も,だれも演技結果の点数はわからないということです。つまり,分業化された審判の採点結果を一カ所に集めて,その上で,「ISU規則322号の表」に照らし合わせて,一つひとつ別の点数に換算し,それらを集計して,ようやく選手のトータルの点数がはじき出されるというわけです。ですから,演技が終わってから点数の発表まで相当に時間がかかります。もちろん,その間,コンピューターに入力し,すべての計算が終わるまで,人間はじっと待っているだけです。ですから,いまの演技が何点になるかは,だれにもわかりません。しかも,点数を予測することさえ不可能だと言われています。それほどに微妙な要素点が,つぎつぎに加点されながら,最終得点がはじき出されるという次第です。

 ですから,発表された点数をみるまでは空白の時間が流れます。そしてその結果をみて,喜んだり悲しんだりするだけの,まことに単純な競技になってしまっています。観客の自己採点などということはまったく不可能です。テレビ観戦をしているわたしたちにもまったく手も足も出せません。それは,体操競技の採点方法とまったく同じです。これでは,競技そのものの醍醐味を味わうことはできません。むしろ,最初から拒否されているようなものです。

 ジャンプの成功が勝敗の鍵を握っているのは確かですが,それだけではないということも,もっと知られる必要があるように思います。たとえば,構成点の内容をみてみますと「スケート技術,要素のつなぎ,動作/身のこなし,振り付け/構成,曲の解釈」などが採点の対象になっています。これらの採点対象がどのように評価されたのかも,発表してほしいと思います。その上で「解説」をつけてもらえると,かなり質の高いテレビ観戦ができるようになるのではないか,とわたしは考えています。そうすれば,演技の途中でも,ここは加点される,ここは減点される,ということがわかってきます。そうなってくるとファンの数も質も,ともにレベルが上がってきて,俄然,面白くなると思うのですが・・・・。

 このままでは,採点の素点も,換算点も,そして集計のプロセスも,すべてコンピューターのなかで処理されて,終わりです。言ってしまえば,すべては密室の中,いや,闇の中で処理されているということです。もちろん,その記録は全部,残されてはいるでしょうが,競技の途中では分かりません。となると,最終発表の点数に対する異議申し立てもできません。

 こうなってきますと,フィギュアスケートという競技は,人間の手から離れ,神の領域に委ねられるところにきてしまった,と言わざるをえません。しかし,この神の領域とは,テクノサイエンスという新しい「神」の領域という意味です。つまり,原発やiPS細胞と同じことが,スポーツの世界でも着々と行われているということです。言ってしまえば,「科学神話」による「聖なる世界」の侵犯です。このまま放置しておいていいのだろうか,とこれまた深刻に考えています。

2012年1月5日木曜日

初夢「スポーツに思想はあるか」という恩師の声で目が覚める。

ことしの初夢に恩師の岸野雄三先生が現れた。なぜ,このタイミングで先生が夢に現れたのか,まことに不思議。でも,考えてみれば,これもご因縁ではないか,とも思えてくる。

最近はお墓参りにも行ってないので,たまにはお出でよ,と声を掛けられたに違いない。その声が,なんと「スポーツに思想はあるか」という問いであった。顔は浮かんでこないのだが,声だけは,間違いなく先生のものだった。いつもの調子で「君ねぇ,スポーツに思想があるか,って考えたことある?」と言われ,びっくりして目が覚めてしまった。

昨夜,眠ったのは2時ころ。目が覚めたのは朝方の5時ころ。ここから眠れない。でも,眠いのである。眠いのだから,そのうちに眠るだろう,とぼんやりしていた。眠気と覚醒のはざまを行ったり来たりしながら,なりゆきに身をまかせたまま横たわっている。虚実皮膜の間(あわい)を,さまざまな妄想が駆けめぐりはじめる。なんのことだろうと,ぼんやりとそのままじっとしている。

そのうちに,「セックスに思想はあるか」という問いがどこからともなく立ち上がってきた。えっ,と驚きながら,つぎはどうなるのだろうか,とぼんやり待っている。そうしたら,小さな声で(だれの声かはわからない),「消尽,消尽」と言っているのが聴こえる。またまた,えっ,と驚く。それでも,まだ,なにかつづきがあるらしい,とぼんやりして待つ。

こんどは,天の上の方から「みんな同じ,みんな同じ」と言っている声が聴こえる。この声が聴こえた瞬間に,わたしは起き上がった。机に向って走り,大急ぎでメモをとる。紙に書き取って,その文字を眺める。「スポーツに思想はあるか」「セックスに思想はあるか」「消尽」「みんな同じ」。こうして対象化してみたら,これは偉いこっちゃ,と気づく。しばらく眺めてから,ふたたび寝床にもぐり込む。これでなんとか眠ることができるだろうと期待した。

ところが眠れない。でも,かなりの眠気が襲ってきているので,大いに期待する。そのうち,夢と現(うつつ)の間を行ったり来たりしはじめる。夢を短くみているのに,目覚めている。もう,どうにでもなれ,と思っていたら,忽然とジョルジュ・バタイユの『エロティシズムの歴史』の本が目の前に飛びだしてきて,ページがめくられていく。そうか,この夢の主(あるじ)はこのテクストだったのか,と合点がいく。なぜなら,新年,最初に手にして読みはじめたまともな本がこれだったからだ。そして,毎日,少しずつ拾い読みをしている。

これまでのような,通読ではなくて,わたしの脳裏に浮かんだキー・ワードに誘われるようにして,その該当箇所を探して,読む。じっくり,熟読玩味する。あきたら,また,つぎのキー・ワードに移る。そういう読み方をしていた。いま,もっともひっかかっているのは「近親婚」。バタイユは,レヴィ・ストロースの研究を引き,その説得力のある論説に敬意を表しながらも,最後のところでは,これですべてだとして納得するわけにはいかない,としてみずからの仮説を模索しはじめる。そのときのバタイユの視線はもっぱら「エロティシズム」の成立根拠に向う。そして,動物のセックスと人間のセックスとの根本的な違いはどこにあるのか,と問う。ここが人間と動物を分かつ,ひとつの重要なポイントになるのではないか,として。しかも,その根底に流れているバタイユの問題意識は「消尽」。

こんなことを,この正月以来,拾い読みしながら考えている。バタイユが,エロティシズムに思想を,そして,セックスを真っ正面に据えた思想・哲学の構築に,哲学者たちはあまりに不真面目だったと批判する,テクストのくだりが脳裏から離れない。そして,このことを考えながら,「スポーツを真っ正面に据えた思想・哲学」(全体的経験としてのスポーツを対象にした思想・哲学)は可能か,と考えていた。だから,こんな夢をみたらしい。

もうひとこと,付け加えておけば,こんなこともあった。昨日(4日)の太極拳の稽古のあと,昼食を済ませ,さらに,タバコを吸いたい西谷さんに付き合ってドトールに入り,二人だけであれこれ雑談をしているときに,たまたま,話がバタイユに及んだ。そして,今日からバタイユの『エロティシズムの歴史』を読みはじめようと思っています(じつは,すでに,読みはじめていたのだが),とわたしが言ったら,それに対して,即座に「ああ,それだったら『宗教の理論』と『エロティシズムの歴史』をベースにして,そろそろ,人間にとってスポーツとはなにか,という本を書くといいですね」と,西谷さんはなんのためらいもなく,当たり前のように仰る。しかし,わたしにとってはまことにありがたい「ひとこと」であった。これで,しっかりと背中を押されたのだから,あとは「Go!」だと。もう,これ以上,躊躇うことはない。

その気になって,夜は,またまた,『エロティシズムの歴史』の拾い読みをし,熟考をくり返す至福の時間を過ごした。その結果が,「初夢」となった,という次第。しかも,恩師の岸野先生の声となって。「スポーツに思想はあるか」。じつは,若いころに(たぶん,わたしが40歳代の後半に入ったころだったと記憶する),同じ問いかけを岸野先生からされている。そのときは,ひとことも応答することができず,背中を冷や汗が流れただけだった。そして,情けなかった。岸野先生はじっとわたしの顔を覗き込むようにして見つめていた。以後,トラウマのように,この問いがわたしの脳裏から離れない。だから,ほぼ,30年以上も,この問いと向き合ってきたことになる。こうしてようやく,岸野先生に応答できるときがきた。

今夜は,夢のなかで,岸野先生に応答しよう。「スポーツに思想はあります」,「そのことをぼくが書きます」,と。「その鍵はバタイユの<消尽>にあります」,と。そして,「先生もご存じの西谷さんから背中を押してもらいました」とも。先生はなんと仰るのだろう?