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2016年1月16日土曜日

アンケート調査。嫌いな政治家のNo.1は安倍晋三。でも,政党支持は自民党。

 もともとアンケート調査なるものを信用しないことにしています。とりわけ,最近のアンケート調査は「世論調査」という名の「世論操作」が多いから,逆に辟易としています。なのに,最近,SNSで流れていた,ある週刊誌の調査結果が妙にわたしの印象に残ってしまいました。しかも,ひょっとしたら,この調査結果って「当たっているかも」とおもってしまったのです。

 その調査結果によれば,もっとも嫌いな政治家は安倍晋三。でも,政党支持は自民党。これはいったいなにを意味しているのでしょうか。

 その理由が面白い。安倍晋三という政治家が嫌いなのは「嘘ばっかり言うから」という。そして,すぐに辞めてほしい,とまで言う。これはきわめてまともな理由ですね。やはり,世の中,ちゃんとみているんだ,と少しばかり安心。

 そのいっぽうで,政党支持は自民党とくる。その理由も,ほかに支持できる政党がないから,という。これもまた,まことにそのとおりだ,とおもいます。

 この「ねじれ」現象が面白い。政治家・安倍晋三は大嫌い,でも支持する政党は自民党。

 もっと興味を引かれたのは,「支持する政党は自民党」の中味。このうちの8割は,支持できる政党がほかにないから,という。これも「なるほど,なるほど」と同感。ならば,まともな政党が現れれば,ただちにこの8割の自民党支持者たちは心変わりして,そちらに移動する,ということを暗示してもいるようです。そして,根っからの自民党支持者は,自民党支持を表明した人のうちのたった2割しかいない,というこの事実。なんという脆弱な自民党支持の内実であることか,と驚いてしまいます。

 この脆弱性に気づいている自民党議員の一部は,顔面蒼白だといいます。つまり,自民党の議席が圧倒的多数を占めているのは,まさに,砂上の楼閣にすぎない,と。だから,この強権政治の一角が「なにかの弾みに」破綻をきたした瞬間から,あっという間にアベ政権は崩壊する,と。ひょっとしたら,自民党内部から政権批判が噴出するのではないか,とも。

 もう,すでに,自民党のかつての実力者たち(長老たち)からは,「いまの政権運営はきわめて危険な状態にある」と公言してはばからない人が現れています。これは巨大権力が崩壊するときの余震のようなものでもあります。みずからの足元から「地鳴り」がしはじめ,粛々と「地殻変動」が起きているようなものです。

 それにしても情けないのは野党。多くの市民運動団体から「野党は共闘」をと呼びかけられているというのに,それができない。共産党の志位委員長が「勇断を奮って」,政党の好き嫌いを言っている場合ではない,とにかく安保関連法案を廃止にするその一点だけのためにも,野党は共闘して今夏の選挙を闘わなくてはならない,と提案しているのに・・・・。

 いまだに党利党略しか考えられない野党各党。とりわけ,民主党。この政党の幹部の少なからぬメンバーが日本会議につらなっているかぎり,身動きがとれません。情けない。いっそのこと解党して,新党をつくるなり,かつての所属政党にもどっていったらいいのに。そうすればすっきりして,新進気鋭の議員たちが活躍の場をえることができるのに・・・。

 いまにも音を立てて崩壊する寸前の自民党が,だれの目にも明らかなのに,その「とどめ」が刺せません。「オール沖縄」のような結束ができないのです。ヤマトの野党の政治家も国民の多くも,みんな「茹でカエル」ばかりだから。このわけのわからない「ぬるま湯」にどっぷりと浸っていて,危機意識のひとかけらもない人びとが多すぎます。沖縄の人びとのこころをひとつに結びつける,長年にわたる「辛苦」が,ヤマトンチュには決定的に欠落しているのです。

 こうなってくると,あとは「弾み車」を頼むしかありません。外圧か,内部崩壊(自滅)か,アベ君のオウンゴールか,はたまた自然災害か,フクシマか・・・・・。時限爆弾や,地雷があちこちにゴロゴロしているというのに,なにかが起きるまでは,火の粉がわが身に降りかかるまでは,国民はみんなよそ事,他人事だとおもっています。

 いやいや,多くのこころある人びとはみんな息をひそめて,じっと身構えているだけなのかもしれません。

 それにしても,この夏の選挙までに,なにかが起きる,そんな予感でいっぱいです。そして,そこに向けて,わたし自身はなにができるのか,なにをすればいいのか,これからもしっかりと考えていきたいとおもっています。

 みなさんも,どうぞ,よろしく。できるところから・・・・。隗より始めよ,です。

2016年1月14日木曜日

書店から「まともな本」が消えていく。

 本屋さんが奇怪しくなっている。わけのわからないポピュリズムに煽られて,本屋さんも動揺しているらしい。とにかく批判の対象になるような本はできるだけ置かない,と逃げの態勢のようだ。それどころか,「自発的隷従」に徹して,政権を批判するような本は最初から置かない,という姿勢がありありの本屋さんも多くなってきた。

 ひところ,ニュースになって大きな話題になったように,「民主主義を考えよう」というようなブック・フェアが,政治的偏向だとして批判の対象になる。そして,この折角のいい企画も取りやめになってしまう。「民主主義」についてみんなで考えようということが,なぜ,いけないことなのか。では,学校では「民主主義」を教えてはいけないのか。

 小学校(精確には国民学校)2年生で敗戦を迎え,いわゆる戦後民主主義を学校で,社会で,あらゆる機会をとおして教えられ,学んできたわたしたちの世代にとっては,まったく考えられないことが現実になっている。いったい,この国は,いつからこんなことになってしまったのか。言うまでもなく,第二次アベ政権の誕生以後のことだ。

 その余波がとうとう本屋さんにまで及んできた。茹でガエル状態のままの,感性が麻痺してしまった国民の多くは,それでもまだ,痛くも痒くもないらしい。わが身に火の粉が降りかかってくるまでは,なにも感じないらしい。しかし,まともにものごとを考えようとする人間にとっては,まことに困ったことが,あっという間に世の中の隅々にまで浸透しつつある。

 書店から「まともな本」が消えていく。しかし,考えてみればこの現象はもうずいぶん前からのことではあった。売れない本は置かない,という市場原理に押し切られながら,徐々に進展していた。そして,いまでは,思想・哲学の本は本屋さんからほとんど姿を消してしまった。それが,とうとう政権批判につながるような本は置かない,というところにまできてしまった。恐るべき<思想統制>の黒い手が伸びてきている。

 わたしは『週間読書人』を,長年にわたって購読しているので,毎週,どんな新刊がでていて,いま,どんな本がどのように評価されているのか,という情報についてはある程度承知しているつもりである。少なくとも,わたしの仕事や興味・関心にひっかかる本に関しては・・・。それと,雑誌『世界』を購読しているので,岩波書店の出版情報についても,毎月一回はきちんとチェックしている。あとは散歩がてらの本屋さん巡りで,立ち読みをしながら・・・・。

 こうして,これは買わなくてはいけないという本が出るとすぐに本屋に走る。そして,実物をしっかり確認した上で購入する。もっとも確認するまでもなく必要な本に関してはネットで購入する。手間もはぶけるので・・・。しかし,なんといっても本屋さんで実物を手にして,じっくり内容を吟味した上で購入する,この至福のときは捨てがたい。

 それが,とうとうできなくなっていきてしまった。わたしが興味を示す本が,どんどん本屋さんから消えていく。なんとも寂しいというか,悲しい。いわゆる「まともな本」がいっぱい刊行されているのに,人びとの目に触れることもなく消えていく。そして,出版社も売れない本は刊行しない。悪循環。負のスパイラル。まともな読者も消えていく。

 ちょっと大きな本屋さんであれば,かならず「新刊コーナー」が設けられていて,そこにズラリと新刊が並ぶ。もちろん,一週間くらいで消えていく新刊もある。しかし,話題になった新刊は,特別コーナーまで設けて平積みになっている。

 この新刊コーナーが,どんどん痩せている。というか,中味などどうでもよくて,ただ売れそうな本だけが独占している。そこには「まともな本」は一冊もない。

 仕方がないので,神田まで足を伸ばすことになる。いまでも月に一回は神田まででかけて本屋巡りをしようとこころがけている。時間がないときは,信山堂(岩波ブックセンター)でことを済ませる。まことに小さな書店であるが,ここの選書はみごと。短時間に必要な情報を手に入れることができる。これは,と思われる重要な本は,ここに行けばまずは見つかる。

 こういう特色のある個性的な書店が,ついこの間まで,あちこちにあった。それが,つぎつぎに消えていってしまった。いまや,小さな店構えで,「まともな本」だけを置くという書店を寡聞にしてわたしは知らない。

 なんとも恐ろしい軍靴ともおぼしき「足音」ばかりが音高く聞こえるようになってきて,日々,憂鬱である。のみならず,悲しい。

 わたしたち日本人はいつからこんなになってしまったのか。
 せめて新刊本だけでもいい,一度は書店に並べて,みえるようにしてほしい。
 みえないことには,なにもはじまらない。
 買う,買わない,読む,読まない,はその上でのこと。

 日本人がますます堕落していく。困ったものだ。

2015年5月2日土曜日

茹でガエル亡国論・その2.文明化の産物。東京五輪1964が大きな転機。

 茹でガエルとは,ひとくちで言ってしまえば,文明化の産物です。それも,つい最近の,日本での現象です。もっと象徴的にわかりやすくするとすれば,東京五輪1964以後の現象である,と断言しておきましょう。しかも,それは「生きもの」としては明らかに退化現象である,ということです。このことについて,今回は少し考えてみたいとおもいます。

 東京五輪1964は,単純に計算して51年前のイベントでした。いまや,日本人の圧倒的多数は,東京五輪1964以後に生まれた人たちです。ですから,生まれながらにして東京五輪1964以後の日本の文明化社会を空気のようにして成長しています。つまり,それが当たり前。

 しかし,このとき,日本は大きく様変わりをしました。まずは,なによりも東京五輪を茶の間で観戦したいという期待に応えて,テレビが全国的に普及していきました。それまでのラジオ,新聞といったマス・メディアにとって代わったのがテレビでした。リアル・タイムで東京五輪の映像を茶の間でみることができるようになりました。ということは同時に世界中のニュースもリアル・タイムでヴィジュアル化されることになりました。これは画期的なできごとでした。わたしが26歳のときでしたので,この当時のことはいまも鮮明に記憶しています。

 わたしは残念ながら,まだ定職につくこともなく,大学院に籍をおき,アルバイトをしながらほそぼそと自炊生活をしていました。ですから,テレビにはとても手がとどきませんでした。つまり,極貧の生活に甘んじていました。ナショナルに勤務した友人のひとりがみるにみかねて電気炊飯器をプレゼントしてくれました。が,この電気炊飯器も,ほかの友人のひとりが泊まり込みで遊びにきた日の朝に,その友人とともに消えてなくなっていました。つまり,家電製品がまだとても物珍しい時代だったわけです。

 文明の利器が日本の家庭のなかに浸透しはじめた時代でした。このあと,いわゆる家電革命が起きて,日本の家庭生活はつぎつぎに変革を強いられていくことになります。テレビを筆頭に,電気炊飯器,冷蔵庫,洗濯機,掃除機,電気毛布,電気カーペット,そして,エアコンへといった具合に,日本の家庭のなかにあっという間に家電製品が侵入してくることになりました。わたしは結婚後も貧乏生活をしていましたので,それらの家電製品を羨望のまなざしで眺めていました。ですから,なおさら強烈な印象となっていまもそれらの家電製品のことを記憶しています。

 こうした家電製品が,じつは,わたしたちの「からだ」にも大きな影響を及ぼすことになりました。言ってしまえば,「からだ革命」のはじまりでした。つまり,それまでの「からだ」は,少なくとも「自立/自律」していました。つまり,なにをするにしても自分の「からだ」を使うのが当たり前でした。しかし,家電製品の浸透は,それまで「からだ」が受け持っていた多くの「はたらき」を奪い去っていくことになりました。要するに,「からだ」を働かせる場面がどんどん減少していった,ということです。「からだ」はなにもしなくても,家電製品がすべて代行してくれる,そういう時代に突入していくことになりました。

 20代から30代にかけてのわたしにとっては,その一つひとつが,まさに「革命」でした。そのすべてが便利で,ありがたいものばかりでした。助かりました。が,その代わりに「からだ」は横着になり,本来持っていたはずの機能を失っていくことになりました。そのことには早くから気づいていたわたしは,エアコンだけは最後まで抵抗しました。取り付けたのは60代に入ってからでした。それでも,できるだけ使わない,できるだけエアコンに頼らない生活を心がけてきました。完全にエアコンを解禁にしたのは,昨年の大病後のことでした。76歳。もう,からだに頑張らせる必要はないだろう,と。いや,頑張るだけの力を失ってしまっただろう,と。むしろ,擁護してやる必要がある,と考えるようになりました。

 こうして,わたしも,いよいよ茹でガエルの仲間入りという次第です。

 それよりも,なによりも,問題なのは,東京五輪1964以後に生まれ,育った人たちの大半は,生まれながらにして茹でガエルとなるべく運命付けられていた,という事実です。ものごころがついたころには,もう,すでに立派な茹でガエルになりはてていたのですから。このことを非難したり,批判したりする資格はわたしにはありません。ただ,こういう情況に無意識のうちに置かれてしまっているということに警鐘を鳴らし,茹でガエルに成りきってしまわないよう,なんらかの対策を講ずる必要がありますよ,と提言したいだけです。

 なぜなら,茹でガエルは,「生きもの」としては明らかに退化現象であるからです。その最たるものは免疫力の低下です。病気になりやすい体質の人が年々増大しているために,病人もまた,年々増加しているというのが現状です。このままでは病院がいくつあっても足りません。ですから,免疫力の低下を,いかにして防ぐか,その対策を講じないことには,これからの時代を生きていく人たちは救われません。それどころか,国家としての存続すら危ぶまれることになります。

 ここが,「茹でガエル亡国論」の出発点です。

 今回は家電製品に話題を絞り込みましたが,じつは,東京五輪1964はもっともっと多くの点で大きな変革をもたらしました。たとえば,新幹線の開通,高速道路の開通,自家用車の普及,など交通手段にも大きな変化が起きました。その結果,なにが起きたのかは,みなさんもよくおわかりのとおりです。

 このように,茹でガエルは一朝一夕にして誕生したわけではありません。わたしの認識では,東京五輪1964をひとつの大きな転機として,一気に,一億総茹でガエル化への道を歩みはじめた,と考えています。

 その3.以後は,さらに細部にわたる各論を展開してみたいとおもいます。

2015年4月22日水曜日

茹でガエル亡国論・その1.茹でガエルとはなにか。総論。

 茹でガエル。

 だれがいい始めたのかは知らないが,どこかでみかけたとき,「うまいっ!」と感心し,以後,わたしも多用させてもらっている。まことに言い当てて妙。

 たしか,わたしの記憶では,「カエルは変温動物なので,周囲の温度の変化に,ほとんど抵抗なく適応していく。冬になれば冬眠まですることができる。そして,春になれば眼を覚まして,またもとどおりの生活をはじめる。これは優れて環境への適応能力というべきである」と持ち上げたうえで,つぎのようにつづられていたようにおもう。

 「最近の日本人は,快適な環境温度にどっぷりと順応し,いつのまにか温度が必要以上に高くなっているのも気づかないまま日常生活を送っているうちに,気づいたら筋肉が茹で上がってしまって,もはや身動きならないからだになってしまった。そして,国家権力のなすがまま,無抵抗。それどころか自発的に隷従している方が楽だという技をも無意識のうちに身につけ,ついには思考まで停止してしまった。もはや,完全に茹で上がったカエルも同然。かくして,国家権力は,あとは,邪魔にならない程度に飼い馴らしておけばいい。これで清き一票もやすやすと手に入る。妙に目覚めたままでいるカエルは脅すなり,排除するなり,あるいは,食すなり,掃いて棄てるなり,殺処分にすればいい。かくして盲目的多数派工作は完了である。」

 「それでもなお,しぶとく自己主張をする輩が生き残っているので,こちらは目立たないように恫喝をかけておけばいい。とりわけ,報道機関の垂れ流す情報のうち,国家権力にとって都合の悪い情報を流す報道機関に対してだけ,裏でこっそりと厳重に注意を与えればいい。それでも足りない場合には,堂々と調査委員会なるものに呼び出して,密室であからさまに恫喝すればいい。それでも,世間一般には,ただ事情を聴取しただけ,ととぼけておけばいい。」

 「かくして,メディア・コントロールも思いのまま。かくなるうえは,長年にわたって夢にまで見,思い描いてきた理想の国家づくりに励めばいい。そう,憲法9条という看板をはずし,戦える軍隊をもち,堂々と戦争のできる国家をめざして。いまや,準備万端整えり。いざや,いざ。」

 というようなことがつづられていたと記憶する。あまり自信はないが・・・・。

 以下はわたしの感想。

 しかしながら,茹でガエルを大量生産することには成功したものの,その一方で,茹でガエルになることを拒否しつづけている強力な分子も少なからずいる。この分子たちが,少しずつ,異議申し立てをしはじめている。それぞれのやり方で。それに反応して,なんとなく変だと気づきはじめた茹でガエルも,多くはないが出はじめている。

 国家権力が,唯一,展望を誤ったのがオキナワだ。沖縄にだけ特化した振興予算などというエサをほどほどにばらまいておけば,どうにでもなる,と甘く考えてきたオキナワだ。しかし,この手で何回も騙されつづけてきたウチナンチュも,こんどばかりは騙されなかった。長年にわたる艱難辛苦と向き合い,かつ,日常的な騒音と危険と向き合い,おまけに,約束を無視した巨大な「軍港」にも等しい辺野古新基地建設という,日米合意を楯に,日本国という権力による一方的な暴挙を目の当たりにするにつけ,ウチナンチュは立ち上がった。
 
 ウチナンチュを茹でガエルにしないように頑張ったのは,オキナワのジャーナリズムだ。とりわけ,沖縄2紙といわれる『沖縄タイムス』と『琉球新報』だ。この2紙が競い合うようにして,オキナワの置かれているありのままの現実を包み隠さず明らかにし,県民が重要な判断をくだすための情報を提供しつづけてきた。この功績は大きかった。わたしは,このことの重大さを,この一年間のネット購読者としての経験で知った。じつにわかりやすく,懇切丁寧に,しかも,何回にもわたって,辺野古新基地建設に関する経緯(歴史的事実)を説明しつづけてきているのだ。それは,いまも,つづいている。

 先日の翁長知事と首相との初の対談が終わった直後には『琉球新報』は号外を発行して,町行く人びとにばらまいた。翁長知事に与えられた5分という冒頭の発言時間を,約束を破って,たった3分で中断させ,報道陣を追い出しことや,全部で,たった35分の対談であったことや,それも官邸側が一方的に打ち切ったこと,などが報じられている。そして,翁長知事が「辺野古新基地建設は断じて許さない」と首相に迫ったことを,圧倒的に支持する声明文ともなっている。

 ついに,死んだふりをしていた獅子が眼を覚まし咆哮した。ウチナンチュはまったく新しい局面に向かって勇気ある第一歩を踏み出した。この沖縄県民の圧倒的支持に背中を押された翁長知事の決断に,慌てたのは官邸の方だ。それでもなお,,本土の思考停止した茹でガエルに支持されている政府自民党が,民主主義を無視してでも,押し切ろうとするのか。

 ことここにいたって,ついに,「茹でガエル」が恐るべき暴力装置として,新しい歴史の扉の前に立ちはだかり,沖縄県民の意思を踏みにじってしまうのか,きわめて重大な局面を迎えている。これを名づけて「茹でガエル亡国論」。

 次回からは,このテーマを少しずつかみ砕いて,各論を展開してみたいとおもう。ご批判をいただければ幸いである。